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菅野祥孝氏を偲ぶ「積年良土」永遠の提言

田中 正人 上富良野町基線北二三号(六十四歳)

  菅野祥孝氏お別れの会
 スガノ農機椛樺k役で前三代目社長の菅野祥孝氏(七八)が平成二十三年七月十五日死去した。
 そのお別れの会が九月一日、氏の故郷である北海道空知郡上富良野町のプラザトミヤマにて行われた。祥孝氏と深い関わりを持つ全国の土を考える会会員、取引メーカー、ディラー、地元で親交のあった方々など道内外から五百人もの参列者が訪れ、氏の安らかなご冥福を祈った。喪主は夫人のヒロ子さん。
 今は亡き相談役の祥孝氏に対し全員による黙祷を捧げ、お別れの会はおごそかに執り行われた。
 上富良野町長向山富夫氏ら親交の深い代表者がそれぞれお別れの言葉を述べた。
 網走管内常呂町字豊川に生まれ、昭和四十二年まで同地で農業を続けていた穐吉忠彦氏は、スガノ農機専務として後に土の館初代館長として長年祥孝氏を支えた盟友である。ここでは、そのお別れのことばを掲載し、菅野祥孝相談役を偲ぶ事にしたい。
  お別れのことば
                       元スガノ農機専務・元土の館初代館長 穐吉忠彦氏
  
故菅野祥孝氏
  菅野さん、私がこうして祭壇で菅野さんの遺影を仰ぐことになろうとは、想像さえ出来ないことでありました。仲間を代表して、御霊前に謹んでお別れの言葉を申し上げます。
 菅野さんが相談役に就かれた頃、次の節目は、創業百年に出会える事が私の唯一の楽しみになりました。それまで元気でおりたいものだと、土の舘に来る度に私との楽しそうな会話も、この様なお別れになってしまいました。
 菅野さんが常日ごろ言っておられた、創業百年とは、企業にとってとても大きな節目なのです。その楽しみをあと六年を目前にして、幽冥境を異にする世界に旅立たれてしまいました。誠に世は無情です。さぞや無念だった事でしょう。心からお悔やみ申上げます。
 祥孝さんと私の出会いは不思議なご緑からでした。昭和四十年、スガノ農機がビートハーベスターの国産機として開発され、私達の営農集団で購入したものの、二年間調子が悪く、菅野さんは日夜熱心に改良され、何とか調子よく使えるるようになった三年後の秋遅く、当時三十四才だった菅野祥孝常務から、「会社を手伝って欲しい」と誘い話を項き、私も祥孝さんに一目惚れ。一週間で離農を決断。三十七才でスガノ農機に入社。今思い返すと菅野さんのお手伝いが出来る誠に不思議なご緑を頂いたのであります。
 いま御霊前でのお別れの言葉は、どうしても祥孝さんの少年時代のドラマから言わせて下さい。
 祥孝少年[あなた]と創業者父豊治さん一行は、悲惨な敗戦により満州での夢破れ、昭和二十一年の秋遅く、裸一貫で故郷上富良野に引き揚げ帰国されました。
豊治さんは二ケ月後に再開業の工場を建てられ、次男で十三才の祥孝少年[あなた]を相手に再開業の火種を灯されました。その時、父豊治さんは、祥孝少年[あなた]に、「お金が無くても、信用があれば、仕事は出来るんだ」と、信用の大切さを教えられたと言います。
 入り口には筵二枚を下げた、雪の吹き込む工場の中で、「祥や、今度は此処から日本中にプラウを出すんだ」 と、毎日のように仕事を手伝いながら聞かされていたと言います。
 また、帰国後の仮住まいから、工場までの二キロ程通う春先には、豊治さんの言い付けで、大八車に林檎箱を積んで道路に落ちている馬糞を集め、工場の横に積み上げて推肥作りをさせられていたと言います。
 工場に来る農家のお客に豊治さんは、「良い推肥が出来てるから持って行きなさい」と話され(今年作物取ったら、取った分土の養分が減っている、減った分今年の内に返して置くのが、農業の基本だ)と説いていたと言います。
 こうして菅野さんは少年時代から偉大なる創業者・父豊治さんから、仕事の体験を通して培われた教訓が「信用の大切さ」と「農業と土作りの」大切さが、後の事業展開へ向け「大きな志を固める事になった」と聞かされておりました。
 菅野さんの、人には優さしく実直な人柄は、引き揚げ再開業の頃から、父豊治さんの 「今度は此処から日本中にプラウを出すのだ」。この壮大な夢実現の為にも、北国の冬、マイナス二十五度を越す寒い工場の中で鉄の加工は社員が可愛相だ、ぜひ本州の雪の少ない所で仕事をさせてやりたいと、昭和五十五年、茨城への工場進出を決めて、新天地で「信用」をモットーに事業拡大に努めました。
 昭和六十年本社工場を茨城に移転統合した頃「日本のプラウ専門メーカーとしての門出を果たした」報告を、創業者の命日、二月の二十一日、雪深い中豊治さんの墓前に祥孝さんと二人で報告にお詣りした事も、今は懐かしい想い出となってしまいました。
 また、祥孝さんの少年時代の馬糞集めの体験は、もっと農業者に土・農業を教えて貫いたいと、昭和五十三年に「北海道土を考える会」を結成。益々菅野さんの農業と土作りへの想いは熱いものとなっていきました。
 「有機物循環農法」・「積年良土」を事ある毎に全国で提唱し続け、今は、「全国土を考える会」へと発展しております。本日も遠くは九州宮崎県をはじめ、全国各地から多くの農業者・同志の皆さんがお別れに参列されておられます。
 さらに、博物館「土の館」の建設場所の決定にも、深い意味がありました。創業者が見守ってくれる西山の墓地の近くに建てたいとの強い思いがありました。
 館内には引き揚げ再開業時の工場を移設して、正面には社員の浄財で作られた創業者ご夫妻の胸像を鎮座してあります。この意義深い建物を(人は苦労することで人格が作られる)と「労作人為記念館」と祥孝さんの自筆で命名されたのでした。
 菅野さんが時折、本社から土の館に来られると、必ず入り口から真っ直ぐにこの記念館に向い、創業者の胸像前で深々と頭を下げてご挨拶されておりました。そのお姿は神々しくも思え、なんて崇高の念深い人だろうと敬服しておりました。
 実直な人柄の菅野さんは、人の話には熱心に聞き入り、聞き上手。話し上手。事業への熱い思いと、スケールの太ささは同志の共感を呼び、貴重な展示品も多く寄せられている事は、展示物一つ一つに凝縮されているものと思われます。
 また、土の館の「入館料」も、「わざわざ尋ねて来て頂くのに、無料にしなさい」と菅野さんらしい気遣いでもありました。
 菅野さんが相談役に就かれてからは、多くの来館者と、土の館で会話することの楽しさは活き活きとしておられ、菅野さんの、晩年の生さ方が見つかった様に思っておりましたのに、なぜ急いで逝かれたのでしょう、本当に寂しいことであります。
 菅野祥孝さんの数々の功績に平成十九年、民間人では数少ない 「北海道功労賞」を受賞されました。
 祝賀会を町の有志から受けられた折り、そのお返しにと、菅野さんが常日ごろ、開拓先人の労苦には深い尊敬の念を持っておられた事から、高齢者に役立つ事ならと、「フロアカーリングセット」を町に寄贈されました。
 高齢者の軽スポーツとして健康つくり・仲間つくりを」菅野さんにその「きっかけ」を作って頂きました。今では市街地農村を問わず全町に普及し、一つの町としての利用人口は全国一となるほど普及し、皆さんは楽しんで大きな成果を上げております。本日も多くのスガノファンがお別れに参列しておられます。
 菅野祥孝さんは、七十八年の生涯を、会社の社訓でもあります農業に役立つ企業でありたいと「白の道」一筋に歩み続け、偉大な功績を残されたスガノ農機平成の継承者でもありました。本当にご苦労様でした。
 最後のお別れに、故郷と言う歌の一節にありますように「志を果たし、何時の日か故郷に帰らん」この歌詞こそ菅野さんの生き様にぴったりです。貴方は今、大好きな故郷・上富良野に、「志を果たし」御霊となって帰ってこられました、お帰りなさい。四十数年お供させて頂いた恩義に、深く感謝し心からお礼を申し上げ、お別れの言葉といたします。
 どうぞ祥孝さんの大好きな故郷上富良野で永久[とわ]に安らかにお眠り下さい。ご冥福をお祈り致します。
さようなら。
        平成二十三年九月一日 穐吉 忠彦
     掲載省略:写真〜穐吉忠彦氏と菅野祥孝氏(2003年土の館にて)
     掲載省略:新聞スクラップ〜農経しんぽう「お別れの会記事」(平成23年9月12日発行)

  ◇ ◇ ◇
 参列者全員による献花を行った後、スガノ農機四代目社長の充八氏が三月十一日に発生した東日本大震災の頃から相談役が体調を崩された経緯と闘病の様子を詳細に報告。生前に寄せられた父祥孝氏の遺徳を参列者全員に感謝し、スガノ農機をさらに発展させる決意の言葉を述べた。
積年良土
 この折り、大震災発生前の平成二十三年二月、東北土を考える会における生前最後の講演を収録したDVDも上映された。
 祥孝氏は三十九歳で社長に就任し、「積年良土」というテーマで全国各地で精力的に数々の講演を行なっていた。
 昭和五十三年、北海道土を考える会が設立された。私は、この時のメンバーである伊藤孝司氏(上富良野町草分)が農地造成の手段として林地を開発した事に刺激を受け、時折、祥孝社長の講演を聞き思想についても共感感銘し、私も一時「土を考える会」の一員としてして在籍し、農地の規模拡大にも挑戦した。私は、借金返済にも目途がつき農業後継者を育てる事も出来ず限界を感じ、平成十三年に離農した。
 菅野祥孝氏とは、離農後就職した高齢者事業団で管理作業の派遣要請を受けたり、郷土をさぐる会でスガノ農機鰍フ歴史を掘り下げる取材を通して逆に氏とより深く結びつく事にもなった。
 祥孝氏が残した「積年良土」論文は、@脱売上思考、挑む収益思考。A脱化学肥料万能、挑む緑肥作導入。B脱土壌消毒、挑む生態系連携。C脱過粉砕、挑む耐水性団粒。D脱収奪・荒廃、挑む生命産業の五つの骨組みから構成されている。
 詳細についてはSUGAN0−NET土を考えよう積年艮土″等のキーワードで論文が表示され、PDF形式でダウンロード出来る。
 この論文は紙面の都合上要旨のみ掲載させて戴きますが、郷土をさぐる誌第二四号に氏が書き残された「満州からの逃避行」の中にも積年良土の考えの一部が述べてあるので論文の数項目と併せて紹介し、項目毎に補説を加えて積年良土にかける祥孝氏の思いを回想する。

掲載省略:ホームページからダウンロードできる「積年良土論文」〜文頭抜粋
    (一) 農業と工業
 畑に筋を切り、良い種子を選び、数量、間隔、深さ等を決め、適期を逃さずに蒔き、覆土し鎮圧することが播種作業です。
 作物の種を蒔くという、この一つの仕事をとってみても農業は永い経験を活かした人知が込められていることを思い知らされます。
 農業は、目に見える地上部だけでも気象、土質、地形、前作物、雑草、鳥、昆虫、病害等、自然との利害混然の中で行われています。さらに目に見えない地下(土壌中)には地上部に勝る奥深い世界が広がっているはずです。
 農業は一つの自然破壊かもしれません。しかし、ひとは農地を拓くという自然改造を行いながら、永い歴史をかけた試行錯誤の中から最も自然との連携がとれるかたちで作物を育て、収穫する「業」として農業を創ってきました。
 「工業は物を造る」「農業は育てる」この違いを認識することこそ農業の経営を考える基本ではないでしょうか。
 しかし、現代の農業は一つの作業を単なる工程としか考えない、言わば「原料とエネルギーと生産手段で物を造る」という工業的な発想様式の中に取り込まれ過ぎているのではないでしょうか。
 一割の「種を蒔くために耕す」のではなく、九割の「自然との連携をより永続、拡大の仕組づくり」をするという目的のためにこそ、耕すものでなければならないと考えております。
 工業も商業も目的は市場の創造であって、収奪ではありません。お客様にどのような便益を提供し得るかで他社との差別化を競う訳です。その為の経営資源をどのように育て、集め、蓄積し、そして活かす。その仕組み創りこそが経営であります。目に見えない部分とは、お客様が決める信用という最大の財産に支えていただく部分と考えるのであります。
 農業の見えない部分、即ち地味豊饅な大地こそ繁栄の「鍵」であると思います。
 自然との連携を省みながら豊饅な農地を育てて行く。そこからは農薬汚染がなく、養分豊か、食味良好、品質高価、まさに市場無限にして低コストな農業が生まれること必定。
 自らの位置を確立し自主経営を創り出していくための根幹ここにありとは言えないでしょうか。
                             祥孝氏論文より

    掲載省略:写真〜昭和53年発足した北海道士を考える会
 農業と工業=補説

 社長に就任した祥孝氏は「農業者から学びたい」と北海道の同志で土を考える会を設立する。
 栗山町の勝部徳太郎氏(先代)の畑には、地下にくまなくコンクリート管の暗渠を自前で整備し張り巡らしている。時折耕深一bのプラウを使って耕起。畑一枚も大きく機械利用効果を最大限に上げられる様に配慮されている。
 祥孝氏 「勝部さんは麦も毎年同じところに作付けし、収量も落ちない。十三俵も穫る。麦梓はすべて畑に返す。農家の現状は化学肥料にばかり依存して、堆肥等の有機物の投入が忘れられています。
 有機物を土に鋤[スキ]込み、多種多様な微生物の繁殖を旺盛にしてやる、それらのバランスがとれた状態を維持すること、その結果として相互に静菌作用が働く環境を造ることこそが大切。即ち、畑から持出す量よりも多くの量を戻すこと、有機物に富んだ土が適度の水分を含むとパラパラと崩れる。土は本来、自然に砕けるものであります。これが地力維持の鍵だと思われます」。
 中名寄から智恵文の離農跡地(現在地)へ移転された夏井岩男氏は畑作畜産(養豚酪農)経営から果菜類で経営拡大し、購入した畑に堆肥の代わりとして雑草を[スキ]鋤込んだ。
 祥孝氏「緑肥は品種を選び、適期栽培を行えば堆厩肥以上の力があるといわれています。また適切な手段を使えば手間も掛かりません。あるいは雑草に肥料を与えて大きく育てて種子のできる前に鋤込む。このような低コストな土作りもできるのです」。
 最近は秋田の八郎潟の矢久保英吾氏が、代掻きをせずに田植えをする乾田直播による米作りで七二〇kg収穫している。茨城の高松農場は、近隣農地を初心に立ち返り農地を再生させた。岩手の庄司農場は、土地を休ませて輪作している長芋経営者等々。全国に広がった「全国土を考える会」の数多くの会員の取り組み事例を紹介。
 祥孝氏は「タダの太陽、タダの空気、タダの雨水、タダの微生物等、このタダのものを上手に利用し、連携してこそ低コスト農業が成功する。この仕組みこそ、儲かる農業が根づくのではないでしょうか。土一グラムの中に億の単位の微生物が生息し、海よりさらにすごい生態系があるのだろうと思う。排水の悪い畑は地温が上がらないから改善して微生物が住みやすい土の環境を整えたら、収量も品質もまだまだ努力次第で上げる事が出来る。地下に広がる土宙(注)環境を考えよう」と訴える。
 注 土中の中を使わず宙の字を当て見えない土の世界を宇宙としてとらえている。
     (二) 砂漠をオレンジの森に
 砂漠とは「死の大地」を指した言葉であります。
 その砂漠の国ペルーの首都リマから遠くアンデス山脈の麓、砂漠の真只中に昭和の初め岡山県から入植された福田農場があります。その福田さんの話を聞いてください。
 土ぼこりを巻き上げながら土塀の中に入ると、そこが福田農場のオレンジ選別工場でありました。当時七十才の背の高い福田さんが大きな手をひろげて迎えてくださいました。
 大型トラックが次から次へと見事なオレンジを運んで来ます。選別の最終工程で、オレンジ一つひとつに“FUKUDA”と自動的に焼印が押されている。強烈な印象で感動そのものでした。
 福田さんはオレンジを売るのではなく“FUKUDA”を売っているのであります。
 スコップを持たされ塀の外に出ました。一面今来た砂漠、そして穴を掘る。表面から五cmほど黄ばんでいます。灼熱の太陽がつくり出す塩類集積であり、二百mに一本程度しか育たないサボテンに厳しい現実を知らされます。
 縦横に走るセメント手作りの小さな水路。そして丘の上から一望すれば、五十ヘクタールのオレンジの森がひろがっている。アンデス山脈の万年雪から流れる一本の小川。満々と流れるこの水路も福田さんの手と汗によるものです。
 私は砂漠から五十ヘクタールのオレンジの森が出来るまでを拝聴し、感動で涙が止まりませんでした。
 福田さんは岡山で果樹の勉強をされ、世界各国を自分で調査し、この地をオレンジの森にすべく、お茶の水女子大卒の奥様に子供を背負わせ馬車でトコトコ来たのだそうです。
 日本からペルーの砂漠までついて来る奥さん、そこまで惚れさせた大人、福田さんの偉大さを感じます。
 福田さんはまず夜中に水を“かっぱらい”に行くと言う。先に述べた集積塩類を昼でなく夜に水で洗い流し、鶏を飼う。その糞をためては撒き、一坪、二坪と土を造り畑を広げてゆき、日本から持参した元木を植え、五年目にして待望の実が付いたのであります。その時、夫妻は抱き合って喜ばれたそうです。しかし期待の六年目には実が一つも付かない。この現実にも福田さんは挫折することなく、元木の選定に誤りがあったと判断し日本に船で帰り、別の元木を仕入れて植え替え、更に五年後に挑んだ「オレンジの森」のドラマ。何と壮大な夢の実現でありましょうか。
 オレンジ一つひとつに“銘”を刻む行為にこそ福田哲学実践の証しがあります。その時の鶏も今では首都リマの鶏卵市場の六〇%を占める大事業に成長しているそうです。
                           祥孝氏論文より
 砂漠をオレンジの森に=補説

 首都リマから八十キロほど北に行ったエスペランサという村に福田農場がある。ここに 昭和十年(一九三五)、福田惣作さんの妻ますゑさんとその妹の美代子さんの三人でペルーに渡航。砂漠の土に点滴かん水し塩類を洗い流してオレンジを作った。
 ペルー政府の農地改革の断行や、ペルー全体でテロリスト活動が盛んで常に身の危険をさらされながら、折角開いた農地が没収されそうな危機に何度も直面し、創意工夫し没収を逃れている。
 昭和六十二年、惣作さんが亡くなり農場は長男のカルロスらが継いだ。
 “FUKUDA”(現在インカ)印の銘柄の焼印を押されたオレンジは一つ一つは価値ある商品で、カナダやヨーロッパ諸国にも輸出。
 祥孝氏は「福田農場は農産物生産のメーカーであり、日本人の誇りをも売っている。農業者である皆さんのあらゆる生産物。欲を言えば米の一粒一粒に対しても、自信を持って焼印する覚悟を持って作物を育てるメーカーになって欲しい」と願っている。

     掲載省略:写真〜スガノ農機メーカーとしての原点と石碑
     (三) 後世に継承する大地
 北海道畑作農業は昭和四十年代に比べても、ビートも麦も反収量が三倍以上になった。命わく土の世界は肥沃土が厚くなり、作物の根圏域もより深く広がればまだまだ収量も品質も上がると思います。お米もこれからでしょう。
 石炭は掘り尽くすと閉山に追い込まれます。これは生産ではなく収奪の結果です。
 農地は農業人の志で管理されます。収奪ではなく収穫した以上に土中に返し続ける営みなのです。だから土は若人の様に蘇るのです。永遠に死ぬ事のないのが土の世界なのです。土に対して熱意と真心で感謝する時、土は人智を超えて私達の心を受け入れてくれるだろうと農業者に教わりました。農業とは育てる業ですから、考え方もその人も育つのです。
 日本国土には石炭・石油・鉄鉱石も天然資源はありませんが、命湧く大地こそが日本国最大の財宝と考えます。儲けの対象でなく、人間の土地として大切にして行く必要を感じます。
 それから私は道州制の政治は賛成の立場でいます。上富良野を本社とし、全国各地で働き、ふるさとに納税し、それを大切に正しく使う事にすれば国からの助成金をあまりあてにすることもなく、自主経営行政改革への第一歩になると考えます。
 そう言う思いで手段として茨城に工場を建て、本社を郷土上富良野にあえて置き、満州から引き上げてお世話になった上富良野で農業の土に関わる仕事を続けていける幸せを感じています。
 先人たちは北海道に移住し、三十年かけて血と汗で築いた上富良野開拓の大地を大正十五年の十勝岳爆発により、一瞬にして硫黄の泥土に覆われ草も生えない不毛の地になるのですが、拓魂に応えんと血の汗を積み上げて現在の沃地に再興させました。
 こんな偉大な事を為し遂げた我等郷土の先人の方々が示された真の生き方を学び、それぞれの業[なりわい]を正しく引き継ぎ、先人が築いた上富良野の郷土を誇りに思う事が私達に残された財産だと考えます。
                            郷土をさぐる誌 二十四号より
 後世に継承する大地=補説

 ここでは菅野祥孝氏を中心としたスガノ農機の歴史を簡略に紹介する。
 祥孝氏は一九三三年(昭和八)生まれ。
 創業者の菅野豊治氏は、一九四六年(昭和十六)国の要請を受け、馬を中心とした北海道式農業を導入して満蒙開拓が形作られていた満州への工場移駐を決意し、家族と共に吉林市へ渡満した。
 工場運営は順調であったが、ソ連の侵攻。日本の敗戦により多くの不条理を味わった。目の前でリンチや強奪、女性が強姦される場面にも遭遇、その中で同じ日本人が同胞を裏切っていく人の弱さを本誌「満州からの逃避行」で述べている。その引き揚げ体験は人生感が変わった大きな出来事だったに違いない。
一九四六年(昭和二十一)、菅野の製品を白い塗装にする。後年「白の理念」を社訓とする。
一九五八年(昭和三十三)スガノ農機株式会社を設立、会社の方針を『使っている方に聞いてください』とした。
一九五九年(昭和三十四)ヒロ子さんと結婚。
一九六一年(昭和三十六)国産初となるビートの収穫前茎葉処理をするビートタツパーが好評で、一九六四年にビートバーベスタを開発した。
 しかし、穐吉氏が弔辞で述べている様に、祥孝氏はビートバーベスタのために、一年のうち半分も振り回されると考え、信用のできる会社に譲渡して、ビートバーベスタ事業から撤退した。
一九七二年(昭和四十七)二代目社長(兄)良孝氏の死去により三十九歳で三代目社長に就任。
一九八〇年(昭和五十五)茨城県稲敷郡美浦村に近代的工場を建て分工場として繰業を開始した。創業者の豊治氏と共に満蒙開拓へ移転した時と同じ考えで、従業員人材確保を求め、当たり前の事として移転されたものと推察出来る。
一九九二年(平成四)七月一日博物館「土の館」を開館する。館長にはスガノ農機株式会社元専務取締役の穐吉忠彦氏が就任した。
一九九四年(平成六)トラクタ展示の拡充のためトラクタ博物館を増築。
一九九五年(平成七)プラウ館を建築開館。新製品などを展示し博物館は徐々に充実拡張する。
 平成十六年十月二十二日、道内の千三百十一件もの応募の中から五十五件の選定が決まり、町が郷土の誇りとする土の博物館「土の館」が北海道遺産に選定された。
 この「土の館」には「フラワーランドかみふらの」相談役である伊藤孝司氏の水田より採取された、大正十五年の十勝岳大噴火による泥流土を標本にした貴重な資料で、日本一の大きさのモノリスも展示されている。
 この大噴火災害は、約七百ヘクタールが泥土と流木に埋まり百四十四人の方が死亡。上富良野の財政と農業に甚大な損害を与えたばかりでなく、酸性鉱毒(硫黄)による被害で草木一本生えないであろうと言われた。
 この復興に、トロッコ、モッコを担ぎ、馬そりを用いて泥流の比較的浅い三十センチ未満のところは泥流土を除去し、それより深い所は運搬客土等を施す事によって作土を確保し、作物の生育に適した土壌へと徐々に改善された。
 祥孝氏にとって、ダメになった土でも良くすることが出来る「後世に継承する大地」積年良土思考の原点がここ、上富良野町にある。

    掲載省略:写真〜ビートタッパー
    掲載省略:写真〜士の館
復興した村
 平成二十三年三月十一日。東日本大震災は東北太平洋側に甚大な被害をもたらした。中でも宮城県名取市の名取川を津波が逆流してハウスをなぎ倒し、家や田畑が破壊されていく被害映像からの状況は大正十五年の上富良野も同じであったに違いない。
 私の家も末端の島津地区で被害に遭い、多くのご支援により復興し、今日の生活があると感謝しているところです。

    掲載省略:写真〜大正15年 泥流被害にあった島津地区(島津農場事務所:現海江田博信氏宅付近)
    掲載省略:写真〜復興した現在の島津地区(大正15年と同じ場所)

 福島県の放射能汚染土の問題にも、東北各地の田畑に海水が流入した問題にも、言葉で言い表せないご苦労もあると思う。震災の大小の違いはあっても、復興にかける熱意も同じだと思います。すでにスガノ農機では会社の技術力を駆使し、除塩、放射能セシウムの低減の対策を施して対応に当たっており、やがて安全な農地も祥孝氏の提言通りに蘇ると思います。
 この日、三月十一日を全国民が忘れないでいて欲しいと願うと共に、私達のふるさと上富良野土の博物館「土の館」にいつの日か東北の皆様はじめ、是非多くの皆様が当地へ来て頂き、故郷上富良野が立ち直った「復興の息づかい」と菅野祥孝氏の積年良土の考え方を肌で感じて頂きたいと思います。
 まじめで誠実な祥孝氏は「○○さん、そう言う事ではないでしょうか」と皆様にきっと優しく訴えかけるに違いありません。
 祥孝氏のご冥福をお祈り致します。

参考資料
SUGANO-NET 土を考えよう“積年良土”
SUGANO IMPLEMENT CATALOG
積年良土DVD 土は不老なり
     以上 スガノ農機株式会社 菅野祥孝
かみふらの郷土をさぐる上富良野町郷土をさぐる会
      二十二号 土の博物館「土の館」の歴史
      二十四号 「満州からの逃避行」
農業経営者 農業技術通信社
      菅野祥孝氏を悼む(前後編)
      土と顧客を共有するために
      知と努力を結集する(前後編)
農経しんぽう 平成二十三年九月二十三日発行等
菅野祥孝評伝 村井信二
南米に夢を求めた日本人(二)
      ペルーの荒地に実ったみかん 田中 宇


機関誌      郷土をさぐる(第29号)
2012年3月31日印刷      2012年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一