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上富良野及び富良野地域で操業した、木工場の歴史

上富良野町東六線十九号 岩崎 治男 昭和十六年四月七日生(七十歳)

 
 北海道の開拓は、森林を伐採することから始まった。
 明治二年、明治新政府は北海道に開拓使を設置し、開拓を推進した。
 木材の需要は日増しに増加し、その利用範囲も拡大されると共に、林業はめざましい発展を示すようになった。
 富良野市における工業は、木材を対象としたものから始まったことは言うまでもない。機械力、つまり動力を利用して加工するという点から見ると、澱粉工場と共に発展した。
 富良野川沿岸で最も注目された木は、砲台用のクルミであったが、次いで豊富なのはドロ材であった。
 これ等のドロ材は、各燐寸製軸工場によって利用しつくされた。次第に原材料のドロの木も不足となり、随時製軸工場は閉鎖され、本格的な木工場の時代となるのである。
         ※以下人物敬称を省略します。
<<明治時代の木工場>>
◆岡田燐寸工場(明治三十四年)
 下富良野村学田一区の北大事務所の隣で、岡田興雄が頭無川の水を利用して、燐寸軸工場を経営していたことが知られている。
◆今村燐寸軸木工場(明治三十七年)
 布部川の水を利用して、燐寸軸工場を東八線の今村 茂の所に開かれていた。
◆旭組燐寸小函製造場(明治三十八年九月創立〔殖民公報より〕)
 旭組燐寸小函素地製造場は、石狩国空知郡下富良野村字布礼別の本間牧場内に在り、有澤三郎が資本を出し、岡村巳乃助に経営させていた。
 機械十台を据付けて男職工二十五人、婦人及び小児十五人を使用し、本間牧場にある蝦夷松(一尺三寸以上)を原料として、一箇年約五千ケース(一ケースは一万五千組入り)を製造した。この価格約一万二千五百円、これに要する原料約六千石、価格二千六百円であった。
 工場より下富良野駅まで三里十九町(十三・二キロメートル)あり、この間の運搬は、夏季は馬車、雪中は馬橇を用い、運賃は一把につき四十銭であった。
◆富良野産業株式会社(明治四十年創立)
 殖民公報明治四十一年四十四号によると、富良野産業株式会社は明治四十年の創立で、年産一万一千石、一万四千三百円であった。
 四十五馬力の原動機によって作業にあたり、職工九名、労働人夫五名となっている。富良野地方の木材資源も、次第に開拓時代の様相を一変したので、藤堂密二、大野八百一、山口半次郎が合資会社に組織を変更して努力したが、三年後経営不振となって解散した。
◆松井木工場(明治四十年)
 上富良野村東中東八線北十六号で、松井丈太郎が東中倍本を水源とする清流ベベルイ川より水を引き、水車を動力として精米業を始めた。その傍ら、水車の動力を利用して自家用製材を思い付き、丸鋸を購入して手押しで挽き、後、三年目には運台車も手作業で造り、家族と共に賃挽きを主として営業した。
 隣に住んでいた鹿嶋亀蔵の息子幸一郎は、松井場長の娘イトイと結婚、松井丈太郎とは義理の兄弟である。鹿嶋亀蔵は手先が器用で、宮大工としても活躍していた。
 当時は、オンコ(イチイ)の大木が沢山生い茂っており、亀蔵はオンコの木を集め、柱や壁板をこの木工場で挽き、立派な奉安殿を制作、建立した。
 この建築物は、中国大陸より伝って来た除福文化の名残りの建造物である。
 今尚、上富良野町教育委員会指定建造物有形文化財として、東中神社境内に全木材オンコ材造り、清国式建築の立派な奉安殿の威容を誇り、戦後の宝物として住民の幸せを見守っている。
 平成十八年、中国、韓国、日本の学識者による文化調査団が訪れ、東中神社境内に安置されている総オンコ材造りの奉安殿を視察見学し、百年も前に遡る除福文化の遺形であると確認された。
 松井木工場は、当時は河川改修も無かったため、大雨や台風の度、ベベルイ川の洪水、氾濫に見舞われて、付近の農地被害と共に苦労な生活であった。
 場所が原野であったことから、その後徐々に木材、丸太の供給と需要が減少し、昭和初期に工場を閉鎖して旭川の方へ移転して行った。

    掲載省略:写真〜松井木工場の製材で建造されたオンコ(イチイ)材造りの奉安殿
                 (戦時中は天皇殿下の勅語が安置されていた建物)
◆上島木工場(明治四十三年創立)
 上島木工場は布部にあったが、経営が長くは続かなかった。

<<大正時代の木工場>>
◆伊藤木材工業株式会社「旧伊藤木工場」(大正元年十一月)
 三重県より、三重団体と共に伊藤七郎エ門一家は、草分地区西二線北二十八号に入植した。その後、現地で富良野川の水を利用した水車を動力として丸太を製材に挽く木工場を始め、順調に工場運営をしていた。
 ところが、大正十五年五月二十四日十勝岳が大爆発を起こし、この災害に遭い、現地に於いての工場運営は不可能となり、やむをえず空知郡上富良野村市街地(現在のスーパー ダイイチの所)で工場用地と丸太置き場の土地を確保し、再操業を開始した。
 昭和三年十一月、蒸気エンジン三十馬力をもって木工場の機械を動かしていた。蒸気エンジン使用開始より約十年が経過した昭和二十四年、電気動力に切り替え操業を続ける。
 昭和二十五年八月二十五日付けで、伊藤木材工業株式会社に社名を改称する。
 この年、二代目伊藤卯一郎より三代目の伊藤弘夫が取締役社長に就任する。
 昭和三十八年六月、チップ工場を増設。年間の挽立数量は七、〇〇〇立方メートル、販売先は地元のほか札幌・岩見沢・美唄・旭川方面であった。

 【当時の機械設備】
 旭東式バンドソー 壱式
   (横切機 壱機、製缶機 壱機)
 旭東式テーブル  壱式
   (鋸目立機 壱機、ウインチ巻立機 壱機)
 三和式チップ機  壱式
 研 磨 機    壱式

 昭和六十三年、社会情勢を見極め、全工場を閉鎖した。

 伊藤木材工業株式会社歴代取締役社長
  初代社長   伊藤七郎工門
  二代社長   伊藤 卯一郎
  三代社長   伊藤  弘夫
  四代社長   伊藤   忠
◆正木木工場(大正二年)
 正木正三郎が、東布礼別で金岡農場、山田牧場を背景に創業した。昭和五年頃に、児玉定一が経営する木工場に併合された。
◆尾岸木工場(大正十年)
 上富良野村東中東六線北十九号と二十号の中間地点で、ベベルイ川支流の用水路を利用して、尾岸喜右衛門が開業した。
 その後、イモの作付けが増えた事から、澱粉工場に切り替えて何年か操業したが、昭和二十九年頃閉鎖した。
◆三浦木工場 (大正十年十一月)
 布礼別の三浦松三郎が、水車を動力として小規模の丸鋸製材機を設置し、麓郷市街地に三浦木工場を創立した。
 この工場は、麓郷部落創立時代の部落民に大きな利便を与えたが、三浦信一郎がわずかの間経営したあと児玉定一が引き受け、澱粉工場と共に経営した。昭和五年頃のことで、この頃に前記の正木木工場を併合した。
◆相田木材株式会社(旧相田木工場−大正十二年)
 相田木工場が幾寅で開業したのは大正十二年であるが、根室本線布部駅に東大演習林から軌道がつきここに貯木場が出来たので、昭和六年、幾寅から布部に工場を移し、蒸気動力によって製材を挽いた。
 後に、現在の相田木材株式会社に社名を変更している。

     掲載省略:写真〜相田木材株式会社
◆山本木材株式会社(旧山本木工場−大正十二年一月)
 上富良野村で、山本逸太郎が製材工場を創立した。帯鋸機一基、丸鋸機二基、二十二・一三八kWh、三十馬力にて営業開始、随時設備等を増設する。
 昭和十八年、木材統制法施行により、製材工場整備統合に際しては、残置工場に指定される。製材機五基、五十三馬力を購入設置する。
 昭和二十二年九月、法人に改組し、名称を株式会社山本木工場とする。資本金十九万八千円。尚、二十三年に増資して、八十八万円とした。
 昭和三十五年、チップ工場を増設し、操業を開始した。建築用資材販売部を併設、並びに社名の変更を行う。
 昭和四十二年二月、合板、サッシ、住宅機器、ボード類等を販売、名称を山本木材株式会社に変更した。
 昭和四十二年八月、東洋木材企業株式会社山部工場買収合併、構造改善事業の線に添い整備近代化を図り、設備を山部に移設。十一月三十一日、引渡しを受け操業を開始する。これを契機に上富良野工場を閉鎖した。
 昭和四十三年、雑木チップ専門工場増設、山陽国策パルプ株式会社との業務提携により操業を開始した。この年、本社を山部に移設、業務の円滑化をはかっている。
 昭和四十九年、資本金三千万円。同年山本康夫の長男一範は札幌大学経営学部を卒業、同年山本木材鰍ノ入社する。
 昭和五十年、割り箸工場増設。木材資源の有効利用を目的として北海道工鉱業開発促進条例の指定を受け、利久箸製造機八台設置し、日産十万本で製造開始した。
 昭和五十一年九月、ウルトラチッパー機が老齢化、省力化並びに生産性の向上を図るため、大型のチッパー機を導入し、レイアウトの改善により能力のアップをはかった。
 昭和五十三年八月、加圧式木材防腐処理装置を設置する。ナミダタケにより、木造住宅が甚大な被害を受けている状況をふまえて、防腐処理剤「グリーンエース」の生産を開始する。
 昭和五十七年十二月、ドラムガーバー並びにチッパー機の取替え。ドラムバーガーの老齢化並びにレイアウトの改善、省力化を計るため機械の入れ替えを行う。生産能力は従来の一・五倍となり将来の需要に応える体制となる。工場土場並びに宅地、面積五万二千三百四十一・〇三平方メートル。同年人事で、山本康夫の長男一範が代表取締役専務となる。
 平成四年三月、山本一範が代表取締役社長に就任、山本康夫は代表取締役会長に就任する。
 平成十年十二月、チップ工場を日本製紙旭川工場の専属チップ工場から離脱する。
 平成十八年八月に、平成十六年の移転に伴う割箸工場、防腐工場は廃業した。
 平成二十年四月、長期の不況に伴う住宅着工の減少により、木工場の要である製材工場を休止した。
 平成二十一年三月、代表取締役会長山本康夫の代表権を外す。山本一範は引き続き代表取締役社長。
 平成二十三年十一月現在三代目山本一範社長の下、富良野市及び上富良野町に支店を置き、製材販売はもとより、住宅機器や土木資材など幅広く業務を展開、業績を上げている。

    掲載省略:写真〜山本木材本社 山部事務所
    掲載省略:写真〜山本木材 山部製材庫
    掲載省略:写真〜山本木材 上富良野支店
    掲載省略:写真〜山本木材 富良野支店
◆斉藤木材株式会社富良野工場(大正時代末期)
 本格的な木工場として、富良野産業株式会社と共に駅に土場を築き、蒸気動力用の煙突から黒煙を空にあげ、汽笛を鳴らして街の人々に時報を知らす役目を果たしていた。
 大正十余年、斉藤三郎右門の創立、富良野工場である。
 工場長は栗太直吉で、長く富良野の木材界で活躍し、町財界の有力者としても知られていた。

<<昭和時代の木工場>>
◆細川木工場(昭和五年)
 上富良野町東二線北二十四号で、トビやクワの柄の製作。馬で挽く馬櫨、バチバチ、馬車、保導車等を製造していた。その後上富良野村八町内で、木工場を経営した。
◆株式会社丸桝木材(旧株式会社桝谷−昭和五年)
 桝谷徳次郎(明治四十一年五月、奈良県大滝村より渡道)は、明治四十二年五月より上士別村ペイケにて、造材業並びに経木製造に従事していたが、昭和五年に南富良野村字下金山に移住し、桝谷忠次(徳次郎の長男)との共同経営により経木工場を始めた。
 昭和九年九月、同工場の権利を譲って山部村に移り、製材機を入れ経木工場を始める。
 昭和二十七年、同工場は市街地にあって狭く、交通にも支障を来たすので、駅向かい山部六〇九番地に鉄道用地の一部を譲り受け工場用地とした。又、土場用地として鉄道用地の一部を借用して、造材並びに製材の一貫作業工場を設置し、移転操業する。
 昭和二十九年九月、十五号台風による東京大学北海道演習林の風倒木の処理に当たり、大量に発生したパルプ材を、十條製紙鰍フ特段の配慮により釧路工場へ納入し、以後、毎年度継続する。三十四年にはチップ工場を併設する。
 昭和三十五年、個人経営であった桝谷木工場を資本金三百万円にて、株式会社丸桝桝谷木工場に改組、代表取締役に桝谷忠次が就任する。
 昭和三十八年、富良野地区製材林産協同組合の組合員となる。
 昭和五十四年九月、東京大学北海道演習林より造林地の間伐材の払い下げを受ける。同時に針葉樹原木チップの生産を始め、本州製紙鰍ヨ納入する。又、国有林よりチップ原料用として、二次整理材の払い下げを受けはじめる。
 昭和五十八年十一月、代表取締役に桝谷寿世 (桝谷忠次の長男) 就任。
 昭和六十三年八月工場が全焼した。木材業界を取り巻く諸般の事情により、滑ロ桝桝谷木工場が、占冠林産梶A上富良野町の伊藤木材工業鰍フ二社と合併し、製材工場は占冠工場として存続し、本社工場はチップ工場と製材工場として消失した跡地に設置し、伊藤木材工業鰍フ製材工場は廃止するとの方向を三社の間で合意する。公正取引委員会へ合併の申請を提出し、受理される。この申請は平成元年七月四日承認され、十月二日に三社合併登記を完了した。
 平成元年、木材産業体質強化に伴う国有林材特別処置適用を旭川営林支局長へ申請し、資本金、千百七十二万四千円となる。同年十一月九日、株式会社丸桝木材と商号を変更し、現在に至っている。

    掲載省略:写真〜滑ロ桝木材全景 正面に事務所
    掲載省略:写真〜滑ロ桝木材の工場
    掲載省略:写真〜リフト車による丸太移動
    掲載省略:写真〜布部 株式会社丸桝木材(平成23年11月)
    掲載省略:写真〜山林より搬出された原木置場
    掲載省略:写真〜皮付丸太を搬入
    掲載省略:写真〜皮むき機により製丸太の出来上り(丸桝木材)
◆杉尾製材工場(昭和五年)
 昭和五年来柾製造業をしていたが、昭和三十六年製材工場として発足した。杉尾浅吉の経営である。
◆佐藤木工場(昭和九年十月一日)
 昭和九年の創立で、富良野市東五条南五丁目、佐藤慶三の経営である。
◆東大演習林製材実験室(昭和十一年四月創立〔演習林五十周年史より〕)
 東山地区では古い工場である。
 製材実験室は、建坪百三十坪、防音、防火、換気が装置され、機械設備も優秀にして配置も理想に近いものであった。
 特に、地下室を利用し各機毎に電動機を配置して、電力の能率的使用となり、更に、自動排風管による鋸屑の排出装置も備え、製材工場としての設備を完備し、年、数万石の製材が可能となった。
 一般販売用、自家用、製材事業の外、試験研究実験等に利用された。
 コンクリート水路で、タービンは七十馬力、一日の製材能力は百石まで可能であった。現在は廃止されて実験室は残っていない。
◆北日本木材工業株式会社(昭和十八年)
 昭和十八年六月二十四日、資本金十九万八千円で、上富良野町市街地六七一番地(現在の中町一丁目一番)において、代表取締役社長大賀光蔵により北日本木工製作株式会社として創業した。
 昭和二十一年六月に資本金を四百万円に増資するとともに、会社名を現在の北日本木材工業株式会社に変更し、床板(フローリング)の製造を開始し、昭和二十五年四月には木材人工乾燥工場を増設している。
 昭和四十五年四月には再び資本金を一千万円に増資し、昭和四十七年七月に現在の工場用地二〇、四三四平方メートル(町内大町四丁目)を取得して、十二月に新工場建設に着工、翌四十八年九月二十二日に創立三十周年と新工場落成兼ねた祝賀会が催された。
 現在も創業以来のフローリング製造を行っており、販売先は全国に及んでいる。原材の仕入れは、近年中国、ヨーロッパ(クロアチア)、カナダからの輸入材が多くなっているが、北海道産ではナラ、カバ、アサグ、イタヤ等広葉樹が使われている。
 現在の堀内社長は、日本フローリング工業会副会長、北海道フローリング協同組合理事長、日本合板検査会評議員など、業界の要職にも就いている。

  【歴代代表取締役社長】
   初代 大賀 光蔵 昭和十八年六月〜二十七年五月
   二代 堀内 桂治 昭和二十七年五月〜六十年三月
   三代 堀内慎一郎 昭和六十年四月〜現在

    掲載省略:写真〜北日本木材工業事務所と工場
◆麓郷木材株式会社(旧麓郷木工場−昭和十九年)
 大正十年に三浦松三郎によって創業した三浦木工場を、昭和五年に児玉定一が買収して、下富良野村麓郷地区を拠点として操業、そこの地名を取ってつけたものが、麓郷木工場である。
 一時期、児玉定一所有の麓郷木工場を、上富良野村東中地区の西谷元雄が継承して、西谷木工場として経営したが、高橋長治が西谷木工場を譲り受けて、再び地名を取り麓郷木工場と商名を付けたものである。
 その後昭和十九年に、経営は仲世古善蔵に変わって、現在は二代目の善雄が社長に就いて、丸太小屋の製造販売など、業務拡大している。

    掲載省略:写真〜チッパー工場一用途は農地の暗渠管の被覆材として活用(麓郷木材)
    掲載省略:写真〜麓郷木材事務所〜大正時代に一時西谷木材となった事もある
    掲載省略:写真〜麓郷木材車庫全景 バックは富良野岳
◆西谷木工場(昭和二十年)
 ここで示す西谷木工場は、西谷元雄が児玉定一所有の麓郷木工場を継承して、一時経営した西谷木工場とは別のものである。
 西谷元雄は上富良野村東中東十線北二十号の倍本道路と、本幸道路の交差点付近で、ベベルイ川の豊富な水を利用して、昭和二十年に木工場を開設した。この頃は、十勝岳山麓の大量の材木や丸太と工場周辺集落の作業人夫に恵まれ、皆、入植時代の開拓小屋より、塚石土台の木造つくりの建物へと建替えの時期が合いまって、順調な事業展開を行っていた。後、イモ加工の澱粉工場に切り替えて、澱粉製造を手がけた。
 昭和二十七年、実広清一(後は長男、実広俊昭が承継)に澱粉工場と住宅を譲り、札幌の方へ移転して行った。
◆島ノ下木材株式会社(昭和二十四年)
 斉藤真を社長として創立され、主として尻岸馬内の木材を素材として、運転していた。
◆西達布農林産加工所(昭和二十七年十二月十日)
 五十嵐栄一が創立したもので、その名称の様に、農産(澱粉)加工と組み合わせた経営となっていた。
◆東 木工場(昭和三十年)
 東武一が創立、経営者で、東山共栄区にある。
◆滝沢べ二ヤ富良野工場(昭和三十一年七月一日)
 岡本肆郎によって創立され、富良野工産株式会社を称したが、後に岡本木工場となった。
 ここが、昭和四十四年四月十五日に滝沢ベニヤの富良野工場となったのである。
 昭和四十二年、市街地中心部における工場経営は適当でなくなったので、扇山に移転した。
◆北拓林業株式会社(昭和三十五年)
 宮内嘉夫が、島ノ下木材を引きついで昭和三十五年まで運転し、閉鎖した。
◆秋田木材株式会社(昭和三十八年七月)
 斉藤木材株式会社の跡を引き継いで、昭和三十八年から運転している。
 富良野市街地としては、代表的工場で、開拓時代から同じ位置に木材が高く積み上げられ、壮観である。工場長は古沢義雄、長瀬健治によって今日に至っている。
◆及川木材工業所(昭和三十八年)
 昭和三十八年六月十日の創立で、字東山市街地にあり、及川公の経営である。
◆村上木工場(昭和四十四年創立)
 昭和四十四年に、村上秀雄を社長に創立した。
 カラマツの小丸太で、土木材、車庫、倉庫、小屋材をあつかった。
 設備機械は、帯鋸機二基、丸鋸機一基、チップ機一基である。
 昭和四十七年では、主にスガノ農機株式会社へ納めるカラマツ材による梱包材の挽立てで、年間引上汁量二千八百立方メートルであった。昭和四十九年には、カラマツ材で関東方面への出荷を開始した。
 昭和五十三年に閉鎖し、経営形態を変えて北海カラマツ加工企業組合に引き継がれている。
◆北海カラマツ加工企業組合(昭和五十三年創立)
 昭和五十三年に、村上木工場の閉鎖と同時に、工場を引き継ぐ北海カラマツ加工企業組合が資本金二千二百十万円で創立され、村上秀雄が代表理事に就任した。
 帯鋸機三基、チップ機一基、横切り機二基、皮むき機一基を擁し、カラマツ材で土木材を主に挽立てし、出荷先は道内をはじめ、関東方面である。
 昭和五十七年の人事で、村上秀雄に代わり、村上 登が代表理事に就任した。
 昭和五十八年から平成二年にかけて、近代化機械ツインテーブル及び、ツイン本機(帯鋸機二枚一組)一基、チップ機一基を設置し、年間挽立は九千二百立方メートルであった。
 平成八年に増築し、設備投資に一億三千万円を投じ、近代化機械プレーナーバリアブル(カンナ上下、丸鋸六枚一組)ツインテーブル定盤改良、デジタル横切り機四基を設置した。年間挽立ては二万二千立方メートルで、カラマツ材、トドマツ材により、梱包材、パレット材サンギ、集成材を製材化し、道内、関東、中部、近畿に出荷した。
 平成二十年、リーマンショックによる受注減少となり、二十一年三月〜六月にかけ十五日間位の休業を余儀なくされた。
 平成二十三年の人事で村上 登に代わり、村上順一が代表理事に就任する。
 平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災により、物流が一時停止したが、五月以降平常流通に戻り、その後、被災地の仮設住宅向けにトレーラーに二台の製材を出荷した。
 現在の機械台数は、皮むき機二基、運台車付本機一基、ツインテーパ三基、プレーナバリアブル一基、デジタル横切り機五基、チップ機二機、定盤一基が稼動している。

    掲載省略:写真〜北海カラマツ加工企業組合事務所
    掲載省略:写真〜丸太木材置場の作業風景
    掲載省略:写真〜大量木材を重機で搬入−昔はトビ・ガンタの手作業で行っていた
    掲載省略:写真〜北海カラマツ全景−手前は事務所
    掲載省略:写真〜北海カラマツ−車両による木材輸送


機関誌      郷土をさぐる(第29号)
2012年3月31日印刷      2012年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一