郷土をさぐる会トップページ     第29号目次

―各地で活躍している郷土の人達―
「私の上富つれづれ」

杉本 劭[たかし] 埼玉県戸田市在住(六十四歳)

  「ぬしぁ、どこの出身じゃあ」九州弁丸出しの先輩がぶっきらぼうに私に声をかけてきた。
「北海道の旭川の方です」と答えた。“方です”である。全国にある自衛隊の子弟のため、 東京大田区大森にある「防衛庁東京学生寮」に昭和四十一年四月入寮して間もなくの風呂場での一コマである。「旭川の方です」では相手側は旭川とも聞き取れるが、私は旭川の方向ですという意味でいったのであります。どうして「上富良野です」と言わなかったか。
 当時、内地の人に上富良野と言っても分からないだろう。五十歩譲って富良野と言っても分からないだろう。百歩譲って旭川なら札幌に次ぐ第二の都市なので分かるかなと思った。だから「旭川の方です」という言い方になった。その時分が、上富良野を離れた時でもある。(以下「上富」と呼ばさせていただきます)。
 私は九年間しか上富にいない。昭和三十二年〜四十一年迄、時代としては、小学四年〜高校三年の間である。
 先輩のNさんから「郷土をさぐる」に投稿してくれないかとの依頼を受けたのはいいが、かような期間だけであるので、上富における人的な関係・社会観・歴史観など全くもちあわせていないので郷土のさぐりようなど皆無に等しい。表題に「上富つれづれ」と付けたのも以上のような訳によるものです。
小学編(矢じりと熊)
 父は単身で上富に来ていた。昭和三十二年春に母以下子供三人が旭川から引越しをして家族全員がそろって上富生活のスタートをしたのは当時の東町(今の宮町)の公営住宅である。公営住宅は道を隔てた自衛隊官舎側(今の旭町)にもあった。東町は二軒棟・四軒棟・四軒棟の平屋が続きで一列、前後二列が並んで玄関を出ると十勝岳の山並みと田中山(今の日の出公園)が正面にあった。
 父がブロック造りの住宅を「これは夏が涼しく冬は暖かいのだ」と言っていた言葉が残っている。私の家は二列に並んだ前の方で田中山よりであった。家の前は背丈の低い熊笹で覆われた原っぱであったが、遊ぶには熊笹が邪魔をしていた。近所の小学生の遊び仲間はHさんTさんなど男だけでも十人くらいはゆうにいた。「走り高跳びをやろう」という事になり熊笹を刈り頑固な根を掘り起こして、まがりなりにチッチャな砂場じみたものを作った。熊笹を刈りこんでいる時に黒い矢じり(その石を十勝石と呼んでいた)がポロポロ出てくるではないか、これはすごい発見と思い驚いた。驚いたのは私だけで他の連中には、ごくごく普通のことであったようだ。後年、町史によってこれら石器がいたる所に出ているのを知ったのだが、そのようなことは全然分からない子供時代、まして初めて見た矢じりである。何百年前か?何千年前か?アイヌ人か先住民族が、この熊笹のある地で、獲物を追い矢を放ち跳梁跋扈[チョウリョウバッコ]していたのを想像するだけでも少年心には何だか悠遠な気分になったものである。
 やはり小学四・五年生の頃である。公営住宅の二軒棟と四軒棟との間にキャッチボールができるくらいの広場があった。そのあたりで遊んでいた時「今、鉄砲で撃った熊がくるぞ」という声が上がり、広場には私ら子供連中が群れをなして待っていた。近所の大人なのか猟友会の人なのか分からないが、四〜五人の男の人が熊を丸太に吊るして担いできた。十勝岳で射止めた熊を、その広場におろして解体を始めた。皮をはぎ肉を削ぎ、当然、熊の肝は丁寧に取り除かれた。
 「オイ、肉をもっていかないか」と声をかけられたが、尻込みをして手を出す勇気はなかった。当時の十勝岳山麓にはヒグマが生息して熊の出没などは、ごく自然の出来事だったような気がする。旭川の小学校時代、社会科見学で近文アイヌ部落の小熊を見たことはあったが、体長は二bはあろうか、体重は二〇〇〜三〇〇キロくらい、このような大きな熊を見、なおかつ解体までも見たのは小学生にとっては物珍しさと衝撃が入り混じっていた。
 去年(平成二十三年)札幌でも住宅地に熊が出没したニュースを耳にした。十勝岳の熊さんはどこでどうしているのやら?!。
中学編(爆発)
 中学三年の時である。O先生のもと野球部で全道大会を目指していた。
 確か一週間くらい後に中体連の沿線野球大会(今はどういう呼称かわからない)が、上富中のグランドで開催されることになっていた。その年(昭和三十七年)の六月三十日未明に十勝岳が爆発した。
 真夜中の玄関口で、闇の中にオレンジ色の火柱が突き上がっているのを見て、この先どうなるのかと不安と驚愕でいっぱいだった。口にこそ出せなかったが、最終学年初めてのレギュラーでの大会なので爆発の降灰でグランドが使用できずに大会が中止になるのか?と気をもんでいたのも確かであった。(沿線大会は優勝したが、管内大会で富良野東中に敗れる)
 さておき、この爆発はテレビでも新聞(北海道新聞を購読していた)でも、大きく報道され食い入るように見つめていた。そして実際にあの噴煙を仰ぎ、巨大な生き物がモクモクとわが身に迫ってくる圧力は、今でもしっかりと焼きついている。
 いつの頃か忘れたが、あの爆発を朝日・読売・毎日・産経の四大新聞はどのように扱い掲載したのか気にかかった時期がある。そして、今回の投稿を機に東京での記事掲載はトップ扱いなのか、これ以上のビッグニュースがこちらではあったのか?爆発日の六月三十日の朝夕刊を調べてみた。
4大紙における掲載内容
昭和37年6月30日朝刊 昭和37年6月30日夕刊 参考
読売新聞 記事なし 1面に十勝岳700mの噴煙写真、見出しは「4人死亡1人不明」トップ扱い。3面は「十勝連峰おおう噴煙」新火口にセン光・無人の白金温泉街。 700mの噴煙写真は午前11時自社の飛行機より撮影。
毎日新聞 記事なし 1面は「怒る十勝岳」爆発写真のみでトップ扱いでない。3面の見出し「原子雲に似た大噴煙」「ふき出す赤い岩」 爆発写真は札幌藻岩山からの撮影である。トップ扱い行政調査会……。
産経新聞 3面に爆発前の写真と、見出し「十勝岳が爆発」鉱員4人死に1人不明 1面に「大噴煙をあげる十勝岳」の写真のみ。3面の見出し「1万3千mの噴煙」「いなずまが縦横に真っ赤な火山弾落下」 夕刊のトップ扱い「あすアルジェリア自決投票」
朝日新聞 1面に爆発前の写真入り。見出しは「十勝岳が連続爆発」4人が即死1人不明 1面に爆発写真入りトップ扱い。見出しは「十勝岳の大爆発」3面にも「噴煙に覆われた十勝岳」「なお危険状態続く」行方不明者は絶望? 爆発写真は午前4時25分自社の飛行機で撮影。
*この日は翌日に控えた参院選など、取り立てたニュースはない。
*6月30日未明の爆発を思えば朝日、産経が朝刊に間に合わせたのは驚きである。
*6月30日の夕刊には各紙とも爆発写真を1面で掲載している。……電送写真。
*この当時に出先でもある朝日、読売が自社機(セスナ機か)を飛ばしての撮影も新聞屋魂か。
高校編(ベトナム戦争とチョッピリ接点)
 大げさに言うと「上富とベトナム戦争の関わり」ということになりますか。ベトナム戦争は昭和三十年に内乱が始まり三十五年に米軍が本格的に介入。北爆が開始されたのは四十年である。世知にも疎くノホホンと対岸の火事のようにこの戦争を見ていた。昭和三十九年だったろうか、高校一年の冬にアメリカの陸軍が上富に来て一〜二か月訓練をすると父から聞いた。
 なんでもベトナム戦争へ派兵され任務期間を終えて、本国への帰途に上富で冬季のスキー訓練をするとの事らしい。「戦役のねぎらいなのだろうか?」それにしても「なんで上富なんだろう?」雪上訓練なら北海道では札幌があるし、旭川、名寄だってあるじゃないかと漠然と思ったりした。どのような経緯か高校生の私には知る由もないが、後年、思うには[十勝岳は東洋のサンモリッツ]という背景があったからかなぁ?東西冷戦の真っ盛りでもある(キューバ危機は昭和三十七年)、雪のある対旧ソ連への仮想訓練でもあったのかなぁ?と想像するくらいがせいぜいである。
 田中山(日の出公園)でのスキー訓練は見たが、十勝岳での訓練は知るところでない。
 米軍の駐留があるというので、母がアルバイトにかり出された。父母らが親しくなった兵士が三〜四人でき、わが家にも遊びにつれてくるようになり、父は急いでソファを買ったりした。特に、ノースカロライナ出身のR氏は優しい人で、よく家に来てはウイスキーを飲み団欒をし、狭い畳の上の布団に寝て脛から下をはみだし泊ってもいった。食住などの文化は異なり、豊かなアメリカからみれば敗戦国・貧困国日本に見えただろうが、彼らにはおくびにも見下すような傲慢な態度はみられなかった。
 私は生まれていなかったが、二十年前には鬼畜米英と叫び、あの大戦争をしていたアメリカと、その大人たちがかくも親米になっている姿は戦後生まれとはいえ、少しは軍国少年の雰囲気が残っていた私には理解できない思いもあった。戦前と戦後・軍国主義と民主主義の大反転の違いも感じざるを得ないところでもあった。確かに、当時彼らの着ているものは生地を見ても上等でしっかりしたモノであり、タバコは派手なデザインのラッキーストライクがふんだんに、インスタントコーヒー・コンビーフなど、軍隊における彼らの日常のモノを垣間見るだけでも物量とも豊かであった訳で「こんな国と戦争をしたのか」と思いつつ、あこがれの国にも思えた訳でした。会話は通訳などいないので、父・姉とかで和英辞典を片手にモグモグであったが、少しはやりとりができた。そして思うに、血なまぐさいベトナム戦争はさておき、本国へ帰還するアメリカ兵とのチョッピリの親善はできたのか。
(私の原点復帰)
 ポツリポツリと上富を訪れる。一年ごともあれば、三年ぶりのこともある。そのたびに私は同期の友達Mを、すっかりあてにし頼りにしている。
 直近に行ったのは去年(平成二十三年)の六月である。彼はいつもの期待通りに甲斐甲斐しく案内をしてくれた。外せない十勝岳温泉はもとより、私の知らないところへの策定が素晴らしいのである。この年はR亭・Fカレースープ・T農園・青い池・上富高野球部と行くたび毎に、新しい故郷土産を私の五感に与えてくれる。夜はSペンションで同期仲間を集めてくれ、しこたまの酒盛りをする。
 六月の日の出は早い。翌朝、酒で鈍重の頭をもたげて、ひとりフラリフラリの徘徊がはじまる。私にとっては半世紀前と今も変わらぬ四か所の原点がある。そこに立ち帰ることにより、様々なありし日のまわりの風景までが起点としてよみがえる。例えば、丘町とかにポンと一人放り出されれば、異邦人のようにまったくわからなくなり途方にくれるだろう。しかし、神社を原点として左手にガンビ川(ヌッカクシ富良野川)を渡る、新しい道路ができていた。山菜採りに来た林だったところが住宅地になった。「確か、友達の家がここにあったなぁ。あいつは今どうしているのか?」そして「あぁ、今はここが丘町になったのだ、それにしてもあの頃の面影は全くない。」という調子で、連想的に思い出が構成されてゆくのだ。商店街においても、当時の建物はあとかたもなく店の屋号で少しの記憶を呼び起してくれるだけなので、その時は、上富駅か日劇が人口的な原点となる。上富駅、日劇、田中山、神社の四ヶ所がそれにあたる。
 上富駅の十mぐらい前の正面に立ち、この駅舎の造りは当時と何も変わっちゃいない(改築などはしているだろうが、私の目には原形そのものである)、駅前の広場では盆踊りの櫓が組まれ父母に連れられて踊ったこと、大相撲の巡業もここでやっていたなぁ。ましてや駅舎は三年間も通学で改札を通り抜けたところである。建物も鉄路も厳然としてある、動かしがたい原点である。
 次は日劇である。今は飲食店の集合になっているようだ。やはり狭い道の正面から目を上げると、当時の典型的な劇場建築そのもの、両肩をいからした左右対称の姿がまだ残っている。初めて入ったのは小学四年、父に連れられて市川右太衛門の「旗本退屈男」、石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」「嵐を呼ぶ男」も父が連れて行ってくれた。ランドセルを背負う小学生が見ていた映画である、今どきの子供らは、それを見たらどのように思うかと考えるだけでも、こそばゆい。
 日劇は東映・日活の男性路線で上劇は松竹・大映系の女性路線、だから上劇はほとんど行ってない。 …映画が最大の娯楽時代であろう。
 そして、この日劇前の通りが、お祭りには両側にびっしりと夜店が並び、サーカス小屋がデンと構え、何度も往来した事を日劇前に立つと彷彿させてくれる。上富の盛り場として隆々たる時代であった。
 変わらぬものとして田中山がある。そこからは上富の町を俯瞰的に眺めさせてくれたところでもある。家に近いこともあり雪が降ると、すぐさまスキーをしに出かけた。冬休みは毎日通った、行かないと忘れ物をしたような心持ちになる。中学入学と同時にS先生が着任してきた。先生は教員の部アルペンで国体出場の常連になるほどの技量をもっていた。この山で競技スキーの練習を一緒に連日したものであるが、沿線大会・管内大会では、この山の斜度では通用せず悔しい思いもした。今はこのゲレンデにはラベンダーが咲き、林もなくなってスッキリした。山の天辺は造成などで均したかもしれないが、姿・形は当時と変わっていないから天然の原点である。
 いまもスキー場として使っているのか?雪解け後に花が咲き乱れると思うとその上をスキーをするのも、結構勇気のいることだろう。
 変らぬもの、神社。造営などで建物が少しは変わったとしても、基本的な様式、また、そのある場所は、まず変わらない。裏手に住んでいて、当時は何の感慨もなく、単なる遊び場としての神社でしかなかった。家が氏子であったわけでもない。
 大晦日の除夜の鐘とともに、元旦詣でには父に半ば強制的にひきつられて行ったことぐらいで、それが億劫ことでもあった。歳を重ねるにしたがい、
 社[やしろ]とその空間の存在が気になりだした。数年前には御朱印もしていただいた。神社は土地の精神の源として、シンボリックな原点復帰の場でもあると思える。
 中学の野球部時代に夕方練習が終わると、小学校そばのK製パン屋に走り、二十円か三十円で山ほどのクズパンを買い、仲間と車座になり頬ばったのも神社の草むらであった。
 去年の六月は田中山から神社へと原点復帰をした。
 さて、今度上富を訪れた時は、どの原点に立ち戻ろうか?。二日酔いの酒を溜めこんで、フラリフラリの耐力があるかどうかも心配であるのだが。
(最近の拾い読みヨリ)
 私の住む埼玉県の地方紙で「埼玉新聞」がある。一面の下に“さきたま抄”というコラム欄、北海道新聞でいえば“卓上四季”にあたる。
 “さきたま抄”のコラム欄の筆者は上富にゆかりのある方で、平成二十三年九月十六日に紀伊地方の大水害に寄せて

「台風十二号は紀伊豪雨で母の故郷の十津川村は被害が大きかった。筆者の先祖は奈良県で明治時代に北海道へ移住した。十津川村の人々は険しい山に囲まれ、約一二〇年前の一八八九年(明治二十二年)にも、大水害で一六八人が死亡した。壊滅的被害、多くの村民が北海道へ移住、札幌の北九十キロに新十津川村をつくった。母の親はさらに内陸、北見山地の麓、士別に移住、母はそこで生まれた。その後、さらに東進、オホーツク地方の野付牛(今の北見)にたどり着いた。父は吉野町出身(奈良県)でラベンダーの丘で有名な上富良野に移住した。ところが一〇〇人以上の犠牲者をだした一九二六年(大正十五年)、十勝岳の大噴火・泥流によって立ちいかなくなり野付牛へ移住した。ブラジルへ移住した親戚もいる。 … …以下省略」

以上のようなコラムである。
 私ら世代では、埼玉県には東北・北海道の人間も多く住んでいる、上富からの人も多い。この筆者は上富には在住したことはないと推測するが、こちらの新聞に上富良野という活字がでてくるというのは大変珍しい事で、自然に私の目は釘付けになる。
私はこのコラムから想像する …昭和三十年代である。姉の友達のTさんがブラジルへ移住した。私の友達のO君は北見から上富に来て、また北見に帰った。S君は北見へ引っ越しをした。
 コラムの時代を昭和初期とすると、三十年ぐらいは経っていようか。TさんもO君もS君も、この筆者の連綿と続く流れの中で、私には知りようのない・見えようのないタテ糸とヨコ糸の中にいたのでは?と、このコラムから勝手に想起する。
 今 …「お前のふるさとは?」「お前の郷土は?」「お前の田舎は?」と問われれば、断固「上富良野」と答えるでしょう。生まれた旭川ではなく小・中・高と、たいした分別もなく 計算もなく無邪気で多感な時を過ごし、そして育てられ、その時の同期Mら多数の友がいるというのが源泉となっているのは言うまでもない。
 これも、いつの頃書いたのか、どんな本の何から引っ張り出したのか失念したが、私の大学ノートに「北海道」という開拓入植時を記した名詩が書き写されている。郷土上富は、明治三十年に開拓が始まったとの事、感銘を受けたこの詩をもって私の投稿の仕上げとしたい。
 父たちは海を 赤鬼の住むという この北に渡った
ひたすら太陽と土を頼りに 水と雪の下から
  芽生える力を信じ 鍬と斧と子供たちを背負い
橋のない川を渡り 不退転の決意を抱いて
   黒く巨大な自然に分け入った
そして瑞々しく新しい淡浅黄色の空を仰ぎ 銅版のように
輝く太陽にはげまされ 荒い森林を焼いて
眠る大地に不屈の種子を播き 天の喜びを喜びとし
名もなく野心もなく 困難を乗り越える
巨大な世界を内に受け取り 身をもって黎明日本を
  北におし進め 今 静かに西の山麓に眠った
 吾等は今この土の上に立つ
見渡せば百年の開拓は青葉にうずもれ
雷雨と炎天とをもった壮大な夏が近づく
天と地が渾身の力をここに集めて 全てが強大な時である
夏草と一緒に熱気が いくつかの山脈を越すように
不可能な北限の線は幾度か ここを越えて
  北方盆地の瑞穂は豊かに波を打つ
                     「北海道」ヨリ
寄稿弁護…
上富における小・中・高にわたる三時代のエポックなどを綴ってみましたが、「いや、あれはそうではない」「ここは違う」とかありましょうが、かれこれ半世紀、確たる史実による背景資料もなく剥落する記憶をたどり記しました。「私の郷土随想」くらいの気分で読んでいただければありがたく存じます。

 “ふるさとへ廻る六部は気の弱り”六十四歳
      ※六部は六十六部の略で「巡礼」の意

杉本 劭氏略歴
一九四七年(昭和22年)旭川市に生まれる
一九五七年(昭和32年)旭川北鎮小学校より上富良野小学校に転校
一九六三年(昭和38年)上富良野中学校卒業
一九六六年(昭和41年)富良野高校卒業
一九七〇年(昭和45年)神奈川大学卒業
以後社会人として室蘭・札幌・帯広など十三年間の道内勤務などを経て二〇〇七年(平成19年)定年退職をする。
定年後は蕨市の公民館パート勤務の傍ら、図書館、スポーツセンターなど公共施設にお世話になり、時折東京下町酒場巡礼・銭湯巡礼を行っている昭和訪ね人の昨今である。
また上富において上高野球部の活躍に一喜一憂をしている自分でもある。

機関誌      郷土をさぐる(第29号)
2012年3月31日印刷      2012年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一