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―石碑(いしぶみ)が語る上富の歴史(その15)―
『馬魂碑』

上富良野町本町 中村有秀
  昭和十二年十一月二十八日生(七十三歳)

一、『馬魂碑』の建立
 建立年月 昭和十五年十一月十日
 建立場所 上富良野村基線北二十五号(二回移設された)
 碑名揮毫 馬政局長官 村上富士太郎
 馬は地域の生産活動や生活に欠かせない役畜であり、運搬・農耕・冬山造材など大きな労働力であると共に、家族の一員でもありました。
 上富良野村は、大正時代から昭和二十年までは馬産地であり軍馬購買地でもあった。馬の飼育・売買・馬匹改良などで、馬に関わる仕事をしていた人も多く、種馬牧場・種馬所・家畜市場・畜産組合などの関係施設や機関もあった。馬の健康をあずかる獣医や護蹄を担う蹄鉄屋、馬車・馬橇製造業、畜力農機具を製造修理する鍛冶屋、飼料の軍用燕麦を生産する農家、飼育と売買をする家畜商と、馬の利用になくてはならない生業であった。

  掲載省略 写真〜護蹄を担う蹄鉄屋さん

 郷土さぐる会発刊の「昭和十一年頃の街並と地区の家々」で、佐藤輝雄氏〈本町三丁目在住〉が執筆作図された地図を見ると、当時の上富良野村に馬に関わる職業の多さと、畜舎や藁倉庫が見られます。
 紀元二千六百年記念として、上富良野村牛馬商組合(組合長松原照吉氏)の発起者三十九名の呼び掛けで、馬への感謝と慰霊にと「馬魂碑」建立が計画され、村民二九九名の賛同寄附者によって、昭和十五年十一月十日に上富良野村基線北二十五号の家畜市場の構内に、馬政局長官村上富士太郎氏の揮毫による堂々の「馬魂碑」が建立された。
 碑身の裏面には、次の様に刻まれている。

  紀元二千六百年記念 馬事功労者
      故 海江田信哉
      故 松原 勝蔵
         吉田貞次郎
         金子  浩

  掲載省略 写真〜「馬魂碑」の裏面
  掲載省略 写真〜昭和15年建立の「馬魂碑」
            (左側に寄附者芳名版、柵の広さに驚く)

 この「馬魂碑」と、昭和十二年に現在の郷土館前建つ島津農場解放記念の「農為国本彰徳碑」、昭和二十四年に現在の上富良野開拓記念館前庭に建つ「吉田貞次郎翁頌徳碑」、昭和三十年に美馬牛駅前に建つ「沼崎重平翁彰徳碑」の四基は、碑身の大きさ、重厚さ、題字の書と彫、碑身の石材・台座等を含めた威風堂々とした碑であります。
 上富良野にある数多くの石碑[いしぶみ]は、歴史を語り、人々の生活を伝え遺しております。
 私達は、先人の幾星霜の年輪が刻きざまれている石碑いしぶみを護持し、子々孫々に伝承して行かねばなりません。

  掲載省略 写真〜靖国神社に建立されている「戦没馬慰霊碑」
二、「馬魂碑」建立に賛同し寄附された人々
 紀元二千六百年記念として建立された「馬魂碑」に、当時の村民三百三十八名の皆様が賛同し、多額の寄附をされました。その氏名が、軟石四段に積み重ねられた寄附者芳名版として、表に一七四名、裏に一六四名が刻まれて、「馬魂碑」を見守るがごとく側に建てられている。「馬魂碑」の大きさ、寄附者芳名版、柵の広さと、当時の関係者の「馬魂碑」建立の意気込みが、ひしひしと肌に感じられます。
 碑には、建立の発起者・寄附者の芳名を軟石に刻んでいます。それを次に記載しますが、七十一年の風雪の歴史を刻み耐えてきたので、一部判読が困難な芳名があることを、お許し下さい。

  掲載省略 写真〜左側「馬魂碑」、右側「寄附者・発起人名版」
           (338名の氏名が刻まれている)
「馬魂碑」建立寄附者ご芳名
金子 全一 谷  兼吉 神田 周三 福屋  貢 樋口 義雄
伊藤七郎右衛門 北村 又蔵 柿崎 徳三 小林 鉄明 森本乙五郎
西谷元右衛門 山川 義信 堅田 熊次 小林  栄 物井 經也
金子  浩 山本 武平 鹿俣 菊松 小林  博 関根甚三郎
海江田武信 前原 豪一 吉野 栄作 児玉  厚 瀬川 政治
吉田貞次郎 益山由次郎 吉河長四郎 今野 好房 杉山勝太郎
山本逸太郎 海老名虎治 大場 惣吉 高坂新三郎 杉山芳太郎
穴田 裕二 新井與市郎 大場 清七 小泉 伊作 杉本為右衛門
中堀俊一郎 青柳 壽郎 尾岸良右衛門 手塚 新一 砂  サキ
畠 孝文 白井 正一 荻野 源作 青山 伍郎 諏訪 武雄
鹿問勘五郎 白井 藤蔵 荻子 俊三 青 清三郎 菅原寅右衛門
白井 弥八 白井 末蔵 岡田 和重 安達 芳一 鈴木 徳助
河井 謙治 伊藤惣兵衛 岡和田多仲 荒   猛 及川重次郎
吉田吉之輔 伊藤勇太郎 岡本 貞三 浅田喜治郎 及川 三次
田中勝次郎 伊藤 政信 向山 安松 佐藤熊太郎 渡辺 栄次
中澤 新松 石川  勇 向山 仁平 佐藤太右衛門 渡辺利兵衛
村上 国治 石塚 留蔵 梅原 一郎 佐々木源次郎 渡辺伊太郎
八木美乃稲 飯田 静夫 梅原 重治 佐藤 末吉 和田 行雄
福家新八郎 生駒 喜平 内田 酉松 笹木 庄吉 吉田 勝二
四釜卯兵衛 井村由太郎 浦島與三之 佐藤 丑蔵 米谷浅五郎
一色 正三 五十嵐富市 浦島 捨三 佐藤儀一郎 横山 源吉
和田松衛門 五十嵐富太郎 上村 君造 佐藤敬太郎 田村 徳市
上富合名会社 稲垣 萬吉 上村 武雄 佐藤芳太郎 田中 太郎
畠 正信 岩田 長作 永楽庄次郎 佐々木源之助 田中  一
福家 敏美 勇  信吉 野原甚之助 佐々木忠善 田中 常郎
阿部兵次郎 今井鶴太郎 野崎 孝資 佐々木亀吉 田中 庄蔵
岩山雅太郎 泉川 丈雄 信岡 健蔵 斉藤 久一 田中栄三郎
芳賀吉太郎 橋本 武吉 久野 春吉 斉藤 兵衛 田村 岩蔵
春名金太郎 橋本宇三郎 久保 宝石 澤田 間佐 田村  勘
西塚福太郎 長谷川八重治 熊谷 仁蔵 喜多 久吉 台丸谷雄治
西村 常一 長谷 勝義 倉谷徳太郎 喜多 久尚 多田 弥平
本間 庄吉 林利右衛門 桑原 重雄 喜来惣太カ 高橋安次郎
飛澤 英壽 林 利三郎 桑田 常平 木全 義隆 高木和三郎
小川 総七 林  熊七 葛本 利八 木原庄右衛門 高田多三郎
大角伊三美 芳賀 武雄 山田  要 木澤 與藏 高藤 巳之
小野 敬一 西塚 八蔵 山本 理吉 北向 有造 吉谷口常次郎
河村 重次 北條 慎一 山本小一郎 北 三次郎 谷口 久治
包子 義一 星野 秀治 山口 仲次 北川 與助 谷口 寅吉
竹内 宗吉 ○○ ○○ 山口 精吉 北川要三カ 谷  與吉
竹谷 岩松 ○○ ○○ 山下 丹蔵 北川 義杜 谷本 友一
竹澤 多吉 堀江 源作 安井 忠和 北野  豊 竹内 太平
高松 由平 床鍋 了作 宮下吉三郎 桐山 英一 武山寅之進
玉島梅太郎 千葉○○○ 前川 初蔵 南 石次郎 立野 佐一
多湖 房吉 千葉 春治 松島卯之吉 南 米次郎 対馬 国吉
中瀬傳次郎 蝶野 ○○ 松田 幸蔵 三嶋 森三 対馬国太郎
村上  盛 小野寺太郎 松井孫四郎 三好 春次 対馬 正一
松田^太郎 小原 和蔵 升田 助蔵 三熊由五郎 辻内 徳平
古川吉之助 小野 清作 丸山 久作 見附 三郎 辻  要作
阿部 平助 小川総太郎 守田 侑治 見附 仁作 土田 養助
青地繁太郎 小田 甚一 健名 吉蔵 道井太十郎 中村  弘
佐藤兵次郎 小原 孝治 藤田 宗義 宮下 茂松 中澤 直人
佐々木敬止 大場 栄助 藤田太十郎 真保 定次 中野 第八
作家辰次郎 神谷清五郎 藤田 彦一 島田太一郎 中西 覚蔵
北川武次郎 鹿嶋幸一郎 藤田 茂松 志渡 久吉 中西  亘
三枝光三郎 金田權次郎 藤崎 政吉 篠原 音吉 長瀬 要一
廣瀬七之S 川野 龍平 藤田  覺 重綱 修一 村岡三五郎
岡田甚九郎 上川松太郎 船柳 弥助 白井 才吉 村上 和蔵
若佐 小市 川井太一郎 船引藤兵衛 白井 東北 村上 卓雄
多田安太郎 笠原重郎神 船引 捨次 遠藤 初治  
谷本 彦六   谷  静馬     伏見乙五郎     遠藤 藤吉             
牛馬商組合「馬魂碑」建立発起者寄附者ご芳名
松原 照吉 吉田 常吉 伊藤 正雄 新井 秀松
六平 健三 朝倉 仁作 久保田清治 石川 三治
伊藤 政治 野崎三次郎 林  義雄 安川 清助
近藤 政房 松尾宇一郎 沼田  繁 木内  要
山田 由郎 長井 確雄 大橋 初蔵 大松 澤弘
土肥作太郎 中川庄右衛門 小泉 守一 仲  彦太
南 喜四郎 高坂 幸治 二瓶  通
多田儀太郎 谷口 重由 菊地藤五郎
小川 直作 伊藤 富三 松本 勇作
矢野辰次郎 元由 元作 谷口 正雄 石工
  佐々木 剛     今泉  彰     大谷 真栄     嶺 八兵衛  
三、『馬魂碑』と揮毫された馬政局長官とは
 明治二十七年の日清戦争、明治三十三年の北清戦争、明治三十七年の日露戦争などの経験を通じて、政府は日本の馬が「軍馬」としての資質に欠けていることを痛感する。
 この経験に基づいて、国家主導による「馬種改良」が本格的に模索されて、明治三十九年に内閣直属として「馬政局」が設置された。

 掲載省略 馬政局ポスター「馬は兵器だ」〜戦局の親展に伴って策定された馬政第二次計画のもとで馬政局が農林省の外局として再設置されるのが1936(昭和11)年のことであり、このポスターはそれ以降の制作と考えられる。

 明治四十三年には陸軍大臣の所管となったが、大正十二年の馬政第一期計画終了後に廃止され、馬政は農商務省畜産局の担当となる。
 戦時下の時局の進展に伴い、さらに能力の高い軍馬の生産、育成が国家課題とされるようになり、昭和十一年には馬政第二期計画が策定され、農林省の外局として「馬政局」が復活した。
 昭和十四年には、陸軍省の主導のもとで「競馬法臨時特例に関する法律」及び「種馬統制法」「軍馬資源保護法」の、いわゆる馬政関係三法が成立して、多数の民間馬の「徴用」も視野に入れた馬の「国家総動員法」とも言われる法体制が整えられていくのである。
 その様な時局の中で、馬政局長官として馬政の責任者が「村上富士太郎氏」であったが、紀元二千六百年記念として我が村の「馬魂碑」に揮毫された。
 国家主導の馬政は、昭和二十年の終戦まで続けられた。十五年戦争中に出征した軍馬の総数は五〇万頭とも言われており、帰ることのなかった軍馬の哀話が、今も大事に飼育し送りだした家々に伝えられています。

  掲載省略 写真〜馬政局長官村上富士太郎氏揮毫の「馬魂碑」
四、上富良野の年代別馬匹頭数
 上富良野の記録として残っている年代別馬匹頭数を、明治三十二年から昭和十六年まで、昭和二十四年から昭和五十七年まで、平成年代と別けて記します。
 この年代別馬匹頭数から、最大の飼育頭数は昭和十六年の一六四〇頭、戦後は昭和二十四年の一四五二頭である。
 農業の機械化と自動車の普及によって、馬の飼育頭数の変遷が判ります。
 昭和五十年は、農家戸数九一六戸で馬飼育戸数は二一二戸、飼育頭数は二一四頭です。平成十年は飼育戸数は二戸で、飼育頭数二頭。平成二十二年は飼育戸数・飼育頭数ともゼロとなりました。

  掲載省略 写真〜伊藤富三氏の畜舎と馬係留運動場(現在の錦町1丁目あたり)
       右側の石造倉庫が当時を思い出されます。
上富良野の馬飼育頭数の変遷
年次 頭数 年次 頭数 年次 頭数 年次 頭数 年次 頭数
明治32 71 20   34 1,117 48 325 62  
34 141 21   35 1,056 49 242 63  
42 627 22   36 979 50 214 平成元  
大正元 1,154 23   37 957 51 142 2  
10 1,016 24 1,452 38 960 52 92 3  
11 1,035 25 1,352 39 850 53 71 4 2
12 1,095 26 831 40 797 54 52 5 2
昭和元 1,239 27 821 41 785 55 42 6 1
3 1,481 28 1,221 42 786 56 33 7 2
7 1,490 29 1,146 43 714 57 51 8 2
8   30 1,033 44 673 58   9 10
9 1,617 31 1,127 45 595 59   10 2
13 1,550 32 1,135 46 501 60      
16  1,640    33  1,113    47   405    61             
五、「馬魂碑」の移設と、関わった人々
 「馬魂碑」は、昭和十五年十一月十日に上富良野村基線北二十五号(現在の町立保育所)の家畜市場に建立されたが、家畜共進会場の移転と共に二度にわたって移設された。
 その移設には、上富良野町、上富良野農業協同組合、家畜商業協同組合がそれぞれ関わりをもって進められた。

○昭和四十六年の移設
 島津地区にあった家畜共進会場が日の出二上に新設されるのに伴い、昭和四十六年六月に家畜共進会場の一隅に町費三百五十万円と、農協及び家畜商業協同組合の篤志寄附金によって移設された。
 町長 村上国二氏、農協組合長 高木信一氏、家畜商業協同組合長 矢野辰次郎氏が中心となって日の出二上地区に移設された。

○昭和六十一年の移設
 上富良野農業協同組合の各種倉庫・集出荷施設・貯蔵施設が昭和五十八年頃から富原地区に集中的に建設された。
 昭和六十一年六月、その富原地区の隣接する地に家畜共進会場が新設された。新設工事費として町費が八百三十五万円支出された。
 家畜共進会場の新設により、日の出二上にあった「馬魂碑」が上富良野町・上富良野農協と家畜商業組合有志の篤志寄附金によって再度の移設建立された。
 「馬魂碑」の台座二段目の裏側に、「家畜共進会会場馬魂碑移転委員」として、銅版に次の様に移設建立に関わった役職・氏名が刻まれている。

  掲載省略 写真〜「馬魂碑」日の出2上に移設(昭和46年6月)
  掲載省略 写真〜現在の「馬魂碑」(寄附者芳名版の位置、囲いの柵の
            広さも、建立時と大きく変っている。)
  掲載省略 写真〜「馬魂碑」の富原地区移転委員の銅版(昭和61年6月)
昭和六十一年六月完成
上富良野町長 酒匂 佑一
農業協同組合組合長 菅野  學
家畜商業協同組合組合長   西崎  清
谷口 広志
六平  健
尾崎 利夫
竹内 正夫
沢田 国雄
吉田 竹志
谷口  昇
○「馬魂碑」の現在の維持管理等は
 戦前・戦中の上富良野牛馬商組合は、戦後は上富良野町家畜商業協同組合となり、「馬魂碑」の移設や維持管理について、町・農協と共に行って来ました。
 家畜商業協同組合も馬飼育者が皆無となったが、永年にわたって組合長として家畜振興に多大に貢献された「西崎清氏」から「谷口昇氏」(谷口ファーム社長)に継承された。
 家畜商業協同組合の事業の中心は「乳牛・肉牛」となり、家畜商業協同組合は発展的に解散し、「ふらの農協和牛改良部会上富良野支部(支部長篠原弘氏)」が引き継いだ。
 「馬魂碑」の慰霊祭は、和牛改良部会上富良野支部が、「馬魂碑」には馬の魂が入っているので放置するのは忍びない気持でと、平成二十一年六月十七日に専誠寺住職、平成二十二年六月十七日に大雄寺住職による読経によって執行されているが、今日までの建立・移設の経過から、町・農協も考えていただきたいと篠原会長は語っていました。
六、『紀元二千六百年』とは
 特殊な事情を起点として、継続的に年代を数える紀年法の一種であり、日本では「日本書紀」にみえる「神武天皇即位」の辛酉の年(前六六〇年)を起点として、年を数えることは幕末から一部の間で行われていたが、明治六年(一八七三年)にこれを紀元として公定して、一般に使用することとした。
 これを「神武紀元」といい、皇紀とも略称された。以来約七十年間使用され、昭和十五年(一九四〇年)には、紀元二千六百年の祝典が全国的に行われた。
 上富良野村でも中央と呼応して、祝典を行うと共に馬への感謝と慰霊にと『馬魂碑』が村民三百三十八名の寄付金によって建立された。
 また、上富良野村在郷軍人分会を後援する「軍友会」は、昭和十五年の紀元二千六百年記念として、各班毎に最寄りの神社にて植樹を行ったと、上富良野村史原稿に記されている。
 中央では、昭和十五年十一月十日に政府主催の慶祝式典が、天皇・皇后両陛下御親臨の下に宮城外苑で挙行された。
 近衛文麿首相が恭しく壽詞を奉れば、天皇陛下にはこれを嘉尚し給い、優渥なる「勅語」を下し賜れた。その勅語は次の通りです。
勅 語
茲ニ、紀元二千六百年ニ膺リ百僚衆庶相會シ之レカ慶祝ノ典ヲ擧ケ以テ肇國ノ精神ヲ昂揚セントスルハ、朕深ク焉レ今ヤ世局ノ激變ハ實ニ國運隆替ノ由リテ以テ判カルル所ナリ、爾臣民其レ克ク嚮ニ降タシシ宣諭ノ趣旨ヲ體シ我カ惟~ノ大道ヲ中外ニ顯揚シ以テ人類ノnャg萬邦ノ協和トニ寄與スルアラソコトヲ期セヨ
七、軍用馬の育成と徴用(徴発)
 戦争と馬はとても深い関わりがある。兵器が発達した昭和の戦争においても、馬は「生きた兵器」として重要な役割を負わされていた。
 軍馬は、乗馬のみでなく兵器、弾薬、食料等を運ぶために、特に険しい山岳の森林、ぬかるんだ道では欠かせない貴重な存在であった。

○昭和十八年、上富良野村史原稿には
 本村は、軍馬の育成供出地として古くより名声を博し、本道屈指の優良馬産地なり。
 家畜市場は、大正七年に軍馬購買地として指定され、第一回の臨時購買を実施したが、家畜市場としての設備がなく、昭和十年十月に篤志者の出資により、現在の設備を見るに至った。
 大正十一年、軍縮の関係により、その後は購買は行われず、従って指定地もまた自然解消の姿となった。
 牛馬商組合及び村有志等の復活運動により、大正十三年四月に軍馬購買指定地として復活し今日に及んでいる。
 以来、毎年十一月に定期購買が行われ、出場頭数と共に購買頭数が増加し、市場は活気を見るに及んで、ここに家畜市場の事業を畜産組合に移管された。
軍馬購買状況
区別 出場頭数 購買頭数
昭和十年 四二八 七四
昭和十一年 五九八 一〇三
昭和十三年 七九六 二一二
 隣接町村の出場頭数に対する、購買頭数の割合を示せば
  上富良野村    二一・三%
  中富良野村    一三・八%
  富良野村      一七・一%
  美瑛町       一八・六%
 この如く、本村が他町村に比し供出率の多いのは、軍意優良馬の多さと育成施設の整備によることは勿論であるが
 一、本村は十勝岳の山麓に位置し、地勢、気候ともに馬匹育成に
   適すること。
 二、一般に水田地帯は鈍重馬を、山岳地帯は軽快馬を産すが、し
   かるに本村は田畑の中間地帯が多いため、馬も鈍重と軽快の
   中間性たるによること。
 三、村民が馬に対する観察力が高く、且つ良馬を飼育する習慣あ
   り。
 四、馬匹の改良時代に於て、種馬購入のよろしきを得ること等に
   基因する所である。
愛馬進軍歌 一九三九(昭和十四)年
 この年、農林省及び陸軍省の指導のもと、日本競馬会、帝国馬匹協会、日本乗馬協会の提唱によって四月七日が「愛馬の日」と定められた。一九〇四(明治三十七)年のこの日に明治天皇が馬種改良に関する「御沙汰」と出したことを「記念」してのことであった。

  掲載省略 複写〜愛馬進軍歌歌詞
  掲載省略 写真〜軍馬の出征昭和戦前期
  掲載省略 写真〜軍馬の出陣式
  掲載省略 写真〜坂道だ 馬よがんばれ もう少しだ
  掲載省略 写真〜雨の中泥水すすり草を食み乍ら前進駄馬輜重隊

○島津地区での徴用
 大正七年に上富良野が軍用馬の購買地として指定を受け、三百頭収容の家畜市場(現在の町立上富良野中央保育所の位置)が設置された。
 昭和六年の満州事変をきっかけに、戦局は次第に拡大し、農耕馬として使役されていた馬は軍用馬として大量に徴用されるようになっていった。
 昭和十二年九月十二〜十三日、二十六〜二十七日の開催記録では、出陳頭数は六七〇頭に及び、この時に合格した馬は一八〇頭であった。体高一四五pが合否の境となっており、精密検査、騎乗能力検査の厳しい審査を経て買い上げ価格の発表となった。
 この時、合格した島津地区の馬主は、金山作次郎、石川勘十郎、及川重次郎、小野清作、山田由郎、坂弥勇、海江田武信、野原助次郎、西田与八である。
 最高価格で四一〇円、最低で二五〇円で買い上げられた。
 軍用馬は、訓練のために指定された場所で指導を受けた。鍛錬指導員は村長が委嘱し、島津からは、本田茂、細川覚助、西村栄、細川勘七、金山一郎、谷与吉、北川春吉が選ばれている。

  掲載省略 写真〜昭和初期 軍用馬合格記念の田中庄蔵家と関係者

○谷與吉家での軍馬の徴発
 元町議会議長、谷與吉氏が自著「八十年の歩み」の中で、馬の徴発として、次の様に記しています。
==昭和十六年七月七日、第二回目の臨時召集を受ける。入院中だったが病院から応召、歩兵二八連隊に入隊、病気のため即日召集解除を命ぜられ、帰宅後直ちに入院する。
同日、家にいた農耕馬が徴発され、最高六百円で購入されました。当時の一般農耕馬は二百円前後のものでした。==

○東中地区での軍馬について
 昭和十五〜十八年頃は盛んに購買が行われ、富良野、美瑛、中富良野等の馬が上富良野家畜市場に集り購買が行われた。
 特に、昭和十八年七月の大量購買には、軍用保護馬は全頭が第七師団の練兵場に索付けられ、検査の上戦場に送られた。
 軍用保護馬鍛錬として、昭和十五年頃より軍用に供する目的を以て実施された。この鍛錬の指導には在郷軍人、青年学校教官等があったが、一般より選出されて指導にあたったのは次の諸氏である。
  江森 孝一・反怖伊太郎・南 米次郎
  島田 良友・ 南繁次郎・塩田 義虎

○江花地区での軍馬について
 大正七年七月、軍用馬購買地として指定を受けたその後、昭和十八年頃には軍用馬として旭川まで引き馬をして軍に納められた。
 この様に、馬の存在が重要視されたのであると同時に、軍用燕麦も当地区より大量に軍に納められた。
農家戸数と共に終戦後は百頭以上にも殖えたが、昭和三十五年頃より農家の過疎化が激しくなり、農耕馬も機械の普及にともない頭数も減少しだした。
おわりに
 「石碑が語る上富の歴史」として、今号は「馬魂碑」について記しました。戦前の時代、農耕馬として育て、または軍用馬として飼育された愛馬が、戦地に送られました。農耕馬として北海道の開拓に貢献され亡くなった馬も数知れません。その馬への思いと慰霊にと、「馬魂碑」と共に各地域に「馬頭観世音菩薩像」が建立されています。
 町内には「馬頭観世音菩薩像」が二十数基あり、それぞれの地域で「馬頭祭」として毎年供養が行われています。
 津別町の伊藤一雄氏著書「軍馬の涙」の中に、軍馬への思いを詠った短歌が非常に印象に残りましたので最後に記します。

 軍馬にも 軍馬魂 持っている
    手離す愛馬 元気で暮せ

 軍馬達 最後の別れ 知っていた
    頬すり寄せて 鼻で挨拶

 軍馬にも 故郷恋し 月に泣く
    何かを想い 寂しいしぐさ
◇取材のご協力をいただいた方々◇
  西崎  清氏(上富良野町)
  尾崎 利夫氏(  〃  )
  谷口   昇氏(  〃  )
  篠原   弘氏(  〃  )
  伊藤 幹雄氏(  〃  )
  松原   淳氏(  〃  )
◇参考文献◇
帝国在郷軍人会三十年史 帝国在郷軍人会本部
軍馬の涙 伊藤一雄氏 著
北海道の馬文化 北海道開拓記念館
島津百年の歩み 島津住民会
東中開基八十年誌 八十年記念協賛会
江花開基八十年記念誌 八十年記念実行委員会
上富良野村史原稿 上富良野町
ふるさと上富良野(昭和十年頃の街並みと地区の家々) 郷土をさぐる会
谷與吉「八十年の歩み」 谷 與吉氏 著

機関誌      郷土をさぐる(第28号)
2011年3月31日印刷      2011年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一