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ふらの原野開拓の歩み(その五)

上富良野町錦町 野尻巳知雄
  昭和十二年三月三十一日生(七十四歳)



一 開放前のフラヌ原野の状況
 明治二十九年十二月二十五日、区画測量を終えたフラヌ原野の貸下げ告示が出されたが、区画地の状況を当時の新聞や北海道協会では次のように述べている。
「北海道協会」の報告から
○地勢  本原野は、空知川上流にある大きな原野であり、その中ほどは低地で泥炭地であるが、フラヌ川などの河川はフラヌ原野を貫通しており、排水に適した地勢の形状である。
○土性  河畔の土地は肥沃であるが、草原は黒色壌土で下層は砂礫または粘土質である。
高層の地の樹木は楢が多く、「フラヌ川」「エホロカンベ川」の上流、渓間にはとど松、えぞ松、樺、セン、イタヤ、オンコ等、河畔にはアカタモ、ヤチダモ、ハンノキ、樺、クルミ、ヤチ桜等、内部の乾燥地には楢、アカタモ、イタヤ、桂、シコロ、シナ、桑等、半湿地にはヤチダモ、ハンノキ、ヤチ桜、タラ、エンジュ、サビタ等が繁茂している。
○用水  空知川系以外の川は、硫黄質を含む濁水であり、飲料水は井戸水に頼らなければならない。
○交通  本原野はまだ道路も無く交通が不便であるが、旭川から美瑛までは道路があり、そこから本年は刈分け道路を開通する企画がされている。また将来上川鉄道が延長され、本原野を通過するようになると交通の便は大いに改善されることである。
○気候  原野の内部は高台の地にあるが、北方に山を頂き南に面しているので、上川地方の気候と同じである。
○地籍  三原野を合わせた面積は三千二百六十一万七百五十坪で・樹林地一千三百三十三万三十五坪(約四千四百四十三町歩)・草原地一千二百六十二万千坪(約四千二百七町歩)その他は泥炭湿地である。本原野及び「ケナチヤウシ」にまたがる札幌農学校学田地が一千万坪あり、今春本原野を区画して貸し下げられる予定である。将来開墾が始まれば一大農村が形成されるであろう。
 「北海道協会」とは明治二十六年に拓殖及び生産事業の普及・発達を企画して設立された団体で、移住者の渡道の支援、保護が主な業務であった。その事業に汽車・汽船運賃の割引がある。割引には協会が定めた移住者の身元調査(移住後に必要な家屋・家具・農具、一年分の食費、生活費、移住旅費など百五十円ほどの資産を有し、原籍、身分、職業)を行い、移住先の土地の貸付が確かで身元確実な者に対し、割引券を出身地の各府県に配布された。この恩典は個人移住者に限らず、小作人を多数移住させる雇用主、地主にも適用された。
 また、三十年三月には、殖民地区画選定の総責任者であった内田瀞がフラヌ原野の視察から帰札し、「フラヌ原野の概況」として「北海道毎日新聞」(明30・4・29)に談話を述べている記事があるが、その内容は次の通りである。
 「フラヌ原野は交通極めて不便である。同原野まで行くには旭川村からおよそ十一里あるが道路はまだ出来ていない。しかし、本年美瑛からの仮道路を築く計画もあり、空知太から同原野に通ずる道路も開鑿する予定となっているので、開通すればこれらの不便も解消される。
 美瑛からの交通では美瑛までは平坦であるが、美瑛からフラヌ原野の間の地勢は高丘が続き、ところどころに沢があり放牧地として利用するには適当な地形である。
 フラヌ川は二つに分かれ原野を貫流して空知川に流れているが、流れが急なために小船を使うことも出来ない。(空知川のことを指していると考えられる)
 原野は上川からの丘を下りた入り口付近の百万坪と、空知川沿岸の若干坪は草原地であるがその他は皆樹木地であり、中央の面積およそ百五・六十万坪は泥炭地である。
 地味は比較的肥沃であり、水利の便もいいので水田に適している。開墾は樹木地であり湿地が多いので、甚だ困難である。樹林地にはとど松、えぞ松等の針葉樹が多く茂っておるので建築資材は豊富であり、移住後の家屋建築に不便を感じることはない。
 気候は東南に開けているので温暖であり、積雪は上川地方(フラヌ原野は現住所の郡名に残るように空知地方に属していた)よりも少なめであるが夏季の暑熱は同様である。
 要するに同原野は、四方山岳に囲まれて囲繞地(公道に通じていない袋地を取り囲んでいる土地)といえども、十勝に達する鉄道線路の予定地に当たっており、近い将来鉄道が敷設される予定であるので、交通の不便は解消されてくる。土地は肥沃であり水利に富み水田に適する原野は、良好な殖民地である。」
と報告している。
 これらの記事から、当時のフラヌ原野は道路も無く、川も急峻で小船の利用もままならず、交通の便は極めて悪い状況にあった(当時の北海道における交通手段の殆どが、河川を中心にした船による運搬が大半であった)が、殖民地の解放と共に道路の開鑿の計画がなされており、近い将来は旭川からの鉄道の延長が見込まれているので、交通の不便も解消される日も近いことを述べている。
 平地は水の利便もよく土地も肥沃であるので水田に適しており、高地は所々に沢もあり放牧地に適した地勢であること、樹林地には建築の資材となる針葉樹が繁茂していることから、移住後の住宅資材には不自由がないことなどを知ることが出来る。
 これらの報告は未知の土地にやってくる移住希望者や、開拓を志す人々の大きな指針になっていることが解かる。
入植者がフラヌ原野の状況を調べるために参考にしたのはこのような現況報告とともに、明治二十年に柳本通義によって調査された殖民地選定概図がある。
 図面を見ると、フラヌ原野までの交通の手段は「空知太」(現砂川市)から空知川沿いに進む方法と、神居村(現旭川市)から美瑛川沿いに上り、フラヌ原野へと進む図面となっている。ただし、道路はアイヌの人々が使った獣道と云われる「刈り分け道」のみで、女性や子どもが通れるような道は旭川からは美瑛付近までと、滝川からは芦別付近までに限られていた。
 このように移住者が生活するうえで、生活用品や食料の調達に欠くことの出来ない交通手段の確保である道路、鉄道の開通は、移住についての最も心配するところであり、道路、鉄道ともに近々開通する計画である事を示されているのは、移住に伴う不安の解消と移住の決断を力強く後押ししてくれたものと思われる。
 また、「本原野及び「ケナチヤウシ」にまたがる札幌農学校学田地が一千万坪あり今春、本原野を区画して貸し下げられる予定である。」との「北海道協会」の報告文は、移住希望者に大きな期待をもたらしたが、実際には学田地が入植者に貸下げられることは無く、三十年の札幌農学校の年報では、四十戸の小作人を募集を明らかにしている。(「新北海道史第四巻」によると、二十九年十一月に札幌農学校は富良野村に未開地三千三百余町歩《第八農場》の付与を受け、同校の維持資金とした。と記載されているが二十九年には富良野村は存在しておらず、フラヌ原野の間違いと思われる。また、二十九年行われたフラヌ原野測量区画地には学田地は含まれてていないので、別に測量が行われたのであろうか、不明である。)
 明治三十年五月出された「明治二十九年札幌農学校報告」(北大百年史)によると、フラヌ原野の取得について次の記述がある。『本年間ニ於イテ石狩国空知郡「フラヌ」原野ノ内更ニ学田地トシテ一千十一万坪(三千三百七十町歩)ノ交付ヲ上請シ稟裁ひんさいヲ得タリ、核学田地ハ札幌ヲ距ル約五十九里ニシテ上川郡旭川村ヲ距ル尚ホ二十余里余リノ地ニ僻在セリト雖トモ今ヤ石狩及十勝ノ鉄道線路ノ要衝ニ当リ期年ヲ待タスシテ鉄道ノ敷設ヲ観ントス核地ハ土地肥沃気候順当草木繁茂水利亦タ宜シキヲ得将来一大農業地タルベキハ疑ヲ容レス其開墾成ルノ日ニ於テハ本校ノ経済ニ裨益ヲ与ウルヤ又莫大ナルモノアラン』この文面から見ると、開放の告示前の明治二十九年には現在の富良野市付近が鉄道の開通によって、鉄道の要衝となることが予想されており、札幌農学校はフラヌ原野の中でも最も肥沃な土地状況にあり、条件のよかった下フラノ原野に三千三百七十町歩という広大な用地の取得を決めていたようである。
 また、「北大百年史通説」では小作人の回顧談として第八農場(ふらの学田地)に入植した山田由太郎氏が次のように述べている。『開墾当時の作物は、食料用としては稲黍、玉蜀黍とうもろこし、蕎麦、馬鈴薯、裸麦等、販売用としては壼Vうんだい、小麦が主なものであった。開墾の順序は冬期伐木と共に之を焼き、融雪後下草を刈り取り焼き払ひ、碌々耕しもせずに、蒔畦丈けを削って種子を蒔いた。夫れでも稲黍など反当五、六俵も穫れた。壼Vうんだい、小麦も同様、夏に下草を刈り取り焼き払ひ起こさずに削り蒔きをしたが五、六俵は穫れた。国を出るとき北海道には熊が沢山居ると聞いたから、鉄砲を用意して来たが、比の方面では熊の害は無かった。』と当時の開拓の状況を明らかにしている。
 明治二十九年八月二十七日に文部省告示で定められた「札幌農学校の資金に属する北海道土地貸下規程」によると、学田地の耕地・未開地は一人につき三万坪(十町歩)以内を貸下限度とし、未開地の成功年度は、面積と土地の種類により四年から六年以内とし、成功後五年目から貸下料を取ることにしていたので、鍬下期間は八〜十年が与えられた。耕地の一カ年の貸下料は反当り二十銭以上二円五十銭以内とされ、満四年ごとに更新された。
 資料によると、下富良野村に独立するまでの期間に学田地に入植した小作人の数は、三十一年に三戸、三十二年〜三年に四十四戸、三十四年〜五年には八十五戸が入植し、退場した小作人が四戸あり、合計で百二十八戸が開墾に従事している。
二 貸付地受付の厳しい条件
 明治三十年四月一日、待ちに待ったフラヌ原野の開放が始まった。その範囲は北は美瑛との境界である美馬牛峠から、南は新得との境界の狩勝峠までの四方を山に囲まれた広大な原野である。
 今回開放となるフラヌ原野の総面積は、三千二百六十一万七百五十坪(上フラヌは一千八十三万坪《樹林地三百二十九万三千坪・草原地七百五十四万六千坪》、中フラヌは一千五百三十九万坪《樹林地六百四十二万六千二百五十坪・草原地三百十二万坪・泥炭地五百八十五万千二百五十坪》、下フラヌは六百三十七万坪《樹林地三百六十一万四千二百五十坪・草原地百九十五万五千坪・泥炭地八十万六千坪》、ケナチヤン原野二万七百五十坪《樹林地七十万九千七百五十坪・草原地七十八万千坪・高原地百二十一万四線坪》)で約一万八百七十町歩である。
 前年に下見に訪れていた団体移住者や、個人で移住希望する申請者、大資本家による小作人を雇って開墾する代理人などは、予定存置を受けている殖民地や、割り当てられた入植地、大規模開墾予定地などに次々と現地入りして来た。
 ここで、「無償貸与・無償付与」を受ける条件について考察してみたい。「未開地処分法」による「無償貸与・無償付与」を受けるには厳しい資格条件が付されていた。
 土地貸付を受けようとする者は、一定書式による願書に「起業方法」「図面」「戸籍証明書」「財産調書」を添え、三十万坪以内は該当する支庁へ、三十万坪以上は支庁を経て道庁に提出することになっていた。道庁は起業方法が適切であり確実に実行できる内容であって成功が確かであることと認めた者に許可を出した。その貸付願いの選択基準は次の通りである。
、出身地府県知事の移住に関する証明があり、起業(開墾計画に基づき入植し、計画を実行すること)が確実と認められる者。
、開墾目的を以って移住し、まだ貸付地、若しくは小作地を持っていないもので起業が確実と認められる者。
、札幌農学校農業科伝習卒業生で、起業が確実と認められる者。
、相当の資産、若しくは中等以上の学科を習得し、一集落の農業を指導することが出来る者でまだ土地の貸付を受けていない者。
、本人又は家族中で他に貸付け地を有し、全部成功していなくとも相当の資力ある者。
、前各号に相当する同等者二人以上で、まだ土地を所有せず生計上土地の貸付を必要と認める者、若しくは最も起業の実施が確実と認める者。
と規程され、一からの順序によって出願は許可されたのである。
 ただし、公共の目的で貸付を申請する場合は、願書と図面のみで受付された。(明治三十年四月北海道庁令第二十四号、及び同施行規程)
 団体移住の条件では、団長が確たる人物(資産、学歴、経歴、確かな人の保証のある人等)であることが必要とされ、二十人以上の団体員(明治四十一年には十戸となる)で構成され、出身地府県の証明が必要であった。もちろん団体員のすべてが本籍地を入植地に移し、北海道に住み着く覚悟を要求されていた。
 時の経過により大土地面積の処分の弊害が次第に現れて、道庁は開墾成績の良い団体移民の制度をより普及させようと、三十七年に「団結移住規約標準」を定め、三十九年には府県知事の証明を得る際には必ず団結規約を提出させることとした。
団結移住規約標準
  移住の目的
第一条  何府県何市郡の住民何十戸を以って団結を組織し、北海道に移住して専ら農業(若しくは主として耕作に従事し傍ら養蚕牧畜云々)に従事し自作農となるを以って目的とす。
移住者は北海道に永住する目的を以って転籍するものとする。
  移住者の戸数
第二条  本団体は何誰以下何名より成立し猥りに異動を為さざるものとす。
第三条  本団体員は北海道庁より指定した期間内に貸付予定地に移住し、直ちに各戸より移住届けを添え未開地貸付願を道庁へ差出すものとする。
  団体員の権利義務
第四条  本団体は各戸同一の権義を有する自作農にして土地貸付期限中は小作を為さざるものとする。但し開墾準備のため食料として穀菜を耕作することはこの限りにあらず。
第五条  移住者は勤倹を旨とし決して奢侈に渉ることを為すべからず。移住の翌年より協議の上応分の金品を貯蓄し凶荒又は公共の用に供するものとす。但し貯蓄の金品は協議の上最も確実なる方法を設け総代人をして之を保管せしむ。
第六条  習慣の善良なる者は之を普及し否さる者は之を矯正することを務むべし、殊に左の各項を尊守するものとす。
一、常に共同団結の気風を養成し、公徳を重すべし
二、喧嘩口論博奕を為すべからず
三、祝祭弔慰の外猥りに集会酒宴を開くべからず
四、冠婚葬祭その分を超えるべからず
第七条  移住者中疾病に罹り若しくは不時の災害を被りたるときは、相互に救護を為すは勿論万一開墾の進捗を妨げ起業方法書の如く土地を成功せざるの慮あるときは相協力して予期の功程を挙げしむべし。
第八条  移住に要する費用は各自の負担とし道路、橋梁、用悪水路の改修は共同の負担とす。
  総代人に関する規定
第九条  便宜上団体中より互選を以って何某を総代人(二名以内)とし、左の事項を取扱はしむ。
一、土地を選定し並びに貸付その他に関し官庁へ諸願届等に関する件
二、公達命令伝達の件
三、貯蓄金品保管の件
四、規約違反者処分執行の件
第十条  総代人は前条第一号の権限を他に委任することを得、但し因で生じたる損害ある時は総代人の責任とす。
  規約違反者処分事項
第十一条  本規約に違背し若しくは左記の一に該当する者あるときは、衆議の上総代人より一応説諭を加え猶改めざるときは、軽きは何円乃至何円の違約金を徴し、重きは本団体より除名するものとする。
一、故なく開墾に従事せざる者
二、他に転居する者
三、自己の名義を以って他人を入地せしめたる者
四、農期間他人を誘導し出稼ぎを為す者
五、相互救護の義務を果たさざる者
六、団体の平和を紊乱する虞のある者
七、団体の面目を汚すべき行為のある者

  雑 則
第十二条  違約金は他の貯金とともに保管し、団体の公共事業に費消するものとす。
第十三条  除名者の貯蓄した金品は之を返付せざるものとす。
第十四条  本規約の改正を必要とする場合には全戸数三分の二以上の同意あるに非ざれば改正することを得ず、但し道庁の認可を得るにあらざれば実施せざるものとす。
第十五条  団体者各自本規約を是認し之を履行すべきことを誓い茲に記名捺印するものなり。

  明治  年  月  日

  住所
    団 体 員 氏       名 印
    移住家族 同       名
    同
    団 体 員 氏       名 印
    移住家族 同       名
    同

注 意
団結規約書は二通を製し一通を予定存置願に添付提出すべし
且つ三銭印紙を添付すべし
 このように団体で移住を希望する場合においても、本人確認は勿論団体員全員が一致団結して開墾に当たることが求められていたのである。
 個人の入植希望者の場合は更に条件が厳しく、貸付地を開墾して作物の収穫ができ、成功付与を受けることが出来るまでの期間を、自己資金で賄うことが出来る資産を有するか、高い学歴、開墾について豊富な知識、経験を有する者など、入植しても当面生活に支障のない条件を整えていることが求められた。俗に言う「一攫千金」を夢見て裸一貫で北海道に来ても、一定の条件が整っていない者には小作人としての入植しか認められていなかったのである。
 大資本家の申請には、小作人を雇用して期間までに開墾する計画のあることが条件とされていた。計画の中には開墾して付与検査に合格するまでの小作人の生活を資本家が保障することを義務付けられており、大面積の貸付を許可されてもその成功には莫大な資金と、三十人以上の小作人の雇用が必要とされていたのである。
三 成功付与の第一号の神田和蔵氏と大地籍申請者人見寧氏
 明治三十年に入植した移住者について、「郷土をさぐる第二十七号」百六頁で三重団体について若干触れているが、個人の入植については資料があまり残っていなく、後に書かれた郷土史等の情報でも間違った記述が多く定かではない。
 残っている資料で確かなものでは役場が保管している「土地台帳」がある。
 この台帳は貸付地が開墾され支庁の検査に合格した土地を、登記した順番に番号を付け、課税免除期間(二十年間は課税免除された)を過ぎた土地資産に課税するための台帳であるが、上富良野東八線北百六番地に住む「神田和蔵」が明治三十三年七月六日付で開墾を終えた畑五町歩を成功検査に合格して付与され、「地籍番号一番」として登記されている。(フラヌ原野で付与第一号と言われている中富良野に入植した伊藤喜太郎、上村夘之助よりも五ヶ月も早く登記されている)

  掲載省略 複写〜神田和蔵土地台帳と戸籍

 神田和蔵とはどんな人物であったのだろうか、残された資料で人物像を紐解いてみたい。
 神田和蔵は大阪府西成郡勝間村で父神谷庄右ェ門の次男として慶応三年五月二十六日に出生した。初等教育を終えた後、陸軍教導団に入り軍人教育を受けた。明治十五年六月に同村の神田弥助に見込まれて養子となり、同年九月に神田家を相続した。
 明治二十八年に山口県豊浦郡豊東下村第二百三十三番屋敷に転籍した後、二十九年に石狩郡当別村字茂平沢番外地に移住し開墾に従事した。三十一年十月に東八線に六戸分の貸付けを受け、同住所に移住してきた。
 当別町での開墾の経験を生かし、三十三年七月入植からわずか一年九ヶ月で五町歩の成功検査を受け、見事に合格したのである。その間、三十二年三月には雑貨店を開業し移住者の用便に努めている。また、同じ時期に自分の住む住宅を開放し、間口三間×五間の部屋で簡易教育所を開設し、付近の子どもたちの教育に当たっていた。
 明治三十五年には富良野村の総代に選ばれ、三十九年六月まで総代を務めている。神田和蔵については、開墾に二頭挽きの馬によるプラオを使った開墾の写真が残されている。写真を写した時期は定かではないが、当時の島津農場、田中農場の農具や馬挽きの写真と比較して明治三十六年ころのものと思われる。
 明治四十年には六戸分の貸付地は全部開墾を終えている。三十町歩の土地を所有した記録が見当たらないので定かではないが、六戸分をすべて所有したのではなく、その一部を「開分」制度(開墾した貸下地の半分を小作人に分け与えて開墾する方法)で小作人を入れて開墾し、譲渡したのではないかと思われる。
 富良野原野の小作人を入れた開墾方法では、小作料を一定期間免除する「鍬下年限」制度がほとんどで、「開分」制度の小作人使用方法はほとんど行われていない。神田和蔵が最初の「開分」制度を実施した人としても、歴史に残る人物である。
 神田和蔵は同年に東中の土地や商店を他人に譲り、上富良野市街地に宅地を求めて移住した。「上富良野町史」によると、明治四十三年頃日の出の山岳地帯に面積百五十坪の牧場の貸下げを受け、牛百五十頭、馬五十頭を飼育して付与を受けたが、内六十三町歩を旭川二十七連隊の某陸軍少佐に売却し、その縁で「第七師団が十勝岳吹上温泉を陸軍療養所にする計画が進められ、工兵隊が道路工事に派遣されてきたことがある」と記載されている。今まで十勝岳吹上温泉道路に丸太と砂利を敷き詰めて誰が整備したかが良く解らなかったが、思いがけないところで記録が残されていた。

  掲載省略 写真〜明治36年頃:東中神田農場
             (馭者は笹山市治氏、喜五郎氏)提供/町郷土館

 明治四十五年五月和歌山県那智郡竜川村に住む的場玉恵と結婚し、大正五年に長男登志夫の誕生を見たが大正六年十月、五十歳の若さで他界している。残された妻玉恵と長男登志夫は、昭和四年六月に札幌市大通り西八丁目一番に移転しているが、その後の消息はわからない。
 土地台帳の二番から二十三番までの地番は、三十三年十二月二十八日付で登記されており、その氏名は次の通りである。
 二番 須藤源右ェ門(西二線百六十三番地)、三番 森川房吉(西二線百六十四番地)、四番 長谷藤右ェ門(西二線百六十五番地)、五番 米川喜市(西二線百六十番地)、六番 辻村勘六(西三線百七十三番地)、七番 川田七五郎(西三線百六十九番地)、八番 田村孫左エ門(西三線百七十七番地)、九番 篠原久吉(西三線百八十三番地)、十番 城ノ口藤吉(西四線百七十三番地)、十一番 増田浅治郎(東一線百五十六番地)、十二番 田中常次郎(西三線百七十五番地)、十三番 田村栄次郎(西二線百七十六番地)、十四番 若林助次郎(西二線百八十番地)、十五番 川野寅之助(東九線百五番地)『住所神楽村御料地十一号』、十六番は欠、十七番 宮島庄助(東八線百五番地)、十八番 有塚利平(東八線百七番地)、十九番 六條金作(東九線百八番地)、二十番 住友役次郎(東九線百六番地)、二十一番 吉田常次郎(東九線九十七番地)、二十二番 越坂部米蔵(東九線百七番地)、二十三番 金田幸次郎(東六線百三番地)、この外に三十四年二月には田中八太郎が、二十五番から三十番まで東六線十六号から十七号に六戸分三十町歩の付与を受けている。
 これらの明治三十四年までに成功付与を受けた人々を住所番地で見てみると、神田和蔵が開墾した東中地区が十人で十四戸分であり、草分地区が十三人十四戸分となっている。早い時期では両地域とも同じような面積が開墾されていた事が分かるが、ただ三十五年から四十年までの個人の成功付与については、その殆どが草分地区に集中している。
 北海道開拓記念館に残されている明治三十五年の殖民地貸付許可者地図に記載されているその他の氏名は次の通りである。
 大畑仙松(西四線百八十五番地)、一色丈太郎(西三線百八十四番地)、篠原(西二線百八十五番地)、篠原久吉(西三線百八十二番地)、片平徳治(西二線百八十三番地)、若林助太郎(西二線百七十五番地)、辻村勘六(西四線百七十二番地)、大西吉松(西五線百七十二番地)、高橋藤三郎(西四線百七十一番地)、西浦友次郎(西三線百七十二番地)、斉藤助太郎(西五線百七十番地)、石垣原十郎(西四線百六十九番地)、高田治郎吉(西一線百七十二番地)、松井市太郎(西四線百六十七番地)、仲条與吉(西四線百八十八番地)、高士仁左ヱ門(西五線百六十四番地)、松井仙松(西四線百六十二番地)、松井為四郎(西四線百六十一番地)、川喜多辰蔵(西三線百六十六番地)、長井文次郎(西一線百六十六番地)、橋本長七(基線百六十五番地)、坂勘蔵(基線百六十三番地)、森下仁助(基線百六十三番地)・(東三線百六十番地)、服部慶太郎(西三線百六十一番地)、米川喜市(西三線百六十二番地)、田中栄次郎(西一線百五十九番地)、河邊竹太郎(西二線百五十三番地)、木内小三郎(東一線百五十五番地)が載っている。その殆どが草分地区であり、三十年前半の入植者の大半が草分地区に集中していたのである。
 ただ、東中の田中農場についてはその開墾がめざましく、明治三十一年一月二十一日付の「北海道毎日新聞」『フラヌ原野の状況』の中で、「移住者の内徳島県の田中八太郎氏は最も開墾に熱心であり、成績が良いことでは本源や第一である」と書かれている。
 田中八太郎は三十年五月に弟米八・亀八ほか家族とともに徳島県那賀郡富国村大字西路見二十九番屋敷から北海道に新天地を求め、十六戸分の貸付地を得て入植し、小作人十一戸とともに開墾に当たった。最初の成功付与を受けたのは三十四年二月十二日で、二月二十八日に登記を済ませている。
 明治三十年にフラヌ原野で田畑の貸付で最も大地籍の面積を申請したのは「人見寧」と言う人物である。その面積は百五十二万二千四百二十七坪(約五百七町歩)という大きな面積で、開放された上フラヌ原野の約一四%に及んでいる。

 人見寧については、フラヌ原野の開拓と入植に大きな影響を及ぼした鉄道敷設に関係がある人物なので、少し触れてみたい。

  掲載省略 写真〜人見勝太郎

 人見寧の本名は「人見勝太郎」といい、天保十四年(一八四三年)十月九日に京都で生まれ、江戸時代末期の幕臣として慶応三年(一八六七年)に二十四歳のときに遊撃隊に入隊する。
 慶応四年一月に起こった鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)に奮戦するが敗退する。江戸へ撤退した後も徹底抗戦を主張し、遊撃隊を二分して伊庭八郎と共に主戦派を卒いて房総に上陸。房総の譜代大名諸藩の結集を図るが、芳しい成果は得られなかった。林忠宗卒いる請西藩軍と合流し、小田原藩や韮山奉行所を威圧して箱根に出兵したが、一部の隊の突出により敗退する。
 海軍副総裁榎本武揚らと図って江戸品川沖を脱出し、奥羽越列藩同盟との合流を目指す。その後隊を卒いて北関東から東北地方を転戦し、仙台より榎本の幕府方艦隊と合流して蝦夷地に渡り、蝦夷共和国の下で松前奉行を勤める。明治二年五月十八日、五稜郭政権軍(旧幕府軍)は明治政府軍に降伏する。戦後は茨城県令などの要職に任命され、明治政府に出士する。
 その後実業界に身を転じ利根運河の開鑿事業や、サッポロビールの開設などで活躍し、衆議院議員に選ばれるが、北海道にゆかりのある議員(「全国鉄道同志会」会長望月右内、榎本武揚、勝麟太郎等)とともに「全国鉄道同志会」を結成して、フラヌ原野の開発に大きな一因となった「北海道鉄道敷設法案」の議決に貢献しているのである。氏は二十九年に「北海道鉄道敷設法案」の成立により十勝線鉄道の開通を予想して、三十年に開放が決まったフラヌ原野の貸下地を大規模面積で申請したのかも知れない。氏は大正十一年亭年八十歳を以って他界している。
 人見寧が貸付を受けた土地は、三十五戸の小作人を募集して開墾が始められたが、実際に集まった小作人は僅か十二戸で予定通りには開墾が進まなかった。
 このままでは道庁の検査が不合格となって土地の没収が危惧されたため、明治三十三年六月に長野県人中島覚一郎に貸付の権利が譲与され、開墾を進めることとなった。中島覚一郎は岩崎虎之助を管理人として小作人を募集して開墾を始めたが、資金不足を補うために約五十万坪の権利を他に譲与し、残り百万八千坪の面積を開墾して明治四十年七月に成功付与を受けている。その後、中島覚一郎は明治四十年に他の事業で失敗し札幌在住の五十嵐佐市に譲渡している。しかし、人見寧は自らの手で貸付地の開墾には小作人の募集で失敗しているが、フラヌ原野の開発には交通手段の整備が必要であるとの認識から、旭川からフラヌ原野を貫通して十勝に抜ける鉄道の敷設の重要性を考え、政治的立場を活用してその運動の後押ししているのである。
四 歌志内から下フラヌまでの道路の開通
 フラヌ原野の開拓には交通手段の整備が最も重要課題として考えられていたが、道路工事が始まったのは明治三十年で、フラヌ原野に入植者が開墾を始めてからようやく着工を見たのである。そのため、入植しても農具や生活用品を整えたり、毎日の食料を買い入れるには人がやっと通ることが出来る獣道を通って旭川までは十余里(約四十q)の道のりを、歌志内までは十五余里(約六十q)の長い道を歩いて行き来しなければならなかった。
 フラヌ原野に入植の始まった明治三十年の道路工事は、旭川からのルートは延長三里三十三町六間(約十五q)幅一間で、中央第二線四号(西神楽付近)から美瑛市街地付近までしか行われず、工費も僅か四千五百六十七円であった。
 一方空知川添いのルートである歌志内〜フラヌ間の道路開削工事は、歌志内からフラヌ原野までの区間十一里三十三町十五間(約四十七q)に及び、幅二間の仮道路は、三十年五月十三日に着工して同年十二月十八日竣工を見ている。その工費は二万五千二百九十六円九十三銭七厘で、旭川ルートと比べると工費は六倍以上の費用を掛けており、道路については空知川ルートが優先されていたことが分かる。
 このことは明治三十一年の工事概要を見ても明らかであり、フラヌ〜芽室間の道路開削工事が十里十九町で工事費一万二千九百三十五円に対して、美瑛〜フラヌ間の工事は僅か三里のみで、工事費も二千五百円しか見られていない。
 明治二十年にフラヌ原野の殖民地選定調査を行った柳本通義が測量の途中で、父の病気の知らせに一時札幌に戻り、病気の回復の知らせで再び現場に戻った時には、『空知川沿いの道は途中危険箇所が多いので、旭川を回り美瑛からのルートを選択した』と自叙伝に記しており、その他にも三十年にフラヌ原野に入植したほとんどの入植者が旭川ルートを選んでいる。このことは、空知川沿のルートよりも旭川を経由して迂回したルート通る方が安全であり、平坦であったので道路工事も比較的容易でなかったかと伺われる。
 また、明治十四年に田内捨六、内田瀞らが十勝までの調査を行っているが、その報告を受け新道路案が政府によって論議され、札幌から根室間を北海道の中央部を通る「中央道路開鑿案」が出された。この案では札幌から根室までの中央道路は、旭川を経由して富良野原野を通り、十勝を抜けて根室に至る「中央十勝道路」の着工が計画されていた。(「十勝道路」が軍事上の理由から「上川道路」優先に変更されている。)
 また、明治二十三年刊行の「北海道殖民地報文」では、『チュッツペツ(美瑛)からエホロカンベ川に至る間は高原平野であり、距離僅か十余里に過ぎないので、中央道路を開築するに当たっては車馬往来に便利な平坦な地形で良道が期待される。』と記載されており、道路工事が容易に出来る状況にあることを報告している。
 これらの文献からも、フラヌ原野へのルートは空知川沿のルートよりも旭川回りの方が生活用品の買い入れ便利であったと思われるが、ではなぜ空知川沿いのルートが優先されたのであろうか。
考えられることは、
、札幌から道路を利用して富良野まで行く場合、中央道路線と空知川線とを比較すると空知川線は十余里あまり距離が短く差があること
、十勝中央道路(国道で幅十二間の本格的な道路)の工事が近い将来着工されて交通の便が解消されるのではないかとの思惑があった。
、旭川からフラヌ原野までの鉄道敷設計画が進んでおり、近い将来フラヌ原野を鉄道が貫通する見通しであること。
などが挙げられる。
 また、「北海道庁第十二回拓殖年報明治三十年」(明治三十一年十月二十五日北海道庁殖民部農商課)の報告では歌志内〜フラヌ間道路開削工事について次のように述べている。
 『歌志内〜フラヌ間は空知郡にあって、空知川に沿った原野でこの間は十里である。土地は最も肥沃であり逐年移民が増え発展が期待されているが、如何せん道路の開鑿が無く僅かにかろうじて人が通ることの出来る道があるのみで、交通運輸の不便は少なくない。前年度僅かに字「ビラケシ」より空知太市街地に至る仮道を開鑿し幾分便利になったが、今や上流「フラヌ」原野の貸下げ開始により、道路の延長を急ぐ必要が迫っている。本年度において歌志内炭山停車場前より「ビラケシ」既成道路に連絡して、空知川上流「フラヌ」原野殖民区画地入口まで新道を開鑿するものである。
 これにより、漸次フラヌ原野を貫通して十勝原野「メムロ」区画地既成道路に連絡させ、大いに交通運輸の便を図らんとするものである。
 本工事の延長は十一里三十三町十五間、幅二間で木橋四十二箇所を架設し、本年五月十三日着手同年十二月十八日竣工、工費は二万五千二百九十六円九十三銭七厘である。』
と記されている。
 このように、富良野原野への生活道路の開削は、歌志内〜フラヌ間の道路が優先されており、下富良野への入植者には逸早くその恩恵に浴することが出来たが、上富良野への入植者には空知川沿いの道は距離も遠く、鉄道が敷設されるまでの期間は、棘の道を通ってでも距離の近い旭川までの道を使って、買い物に出かけなければならなかった。
 ただ、三十年五月に草分地区に入植した斉藤助太郎はこのような入植者の便を図るために、駄馬を取り入れて運送業と荒物屋を開業している。しかし、入植者は一部の資産家を除くとほとんどが団体移住者や小作人として移住した人々であり、移住に必要な費用は一年分の生活がやっと出来る程度の資金で移住した人々が多く、毎回一里三十銭の駄馬賃を払って買い物出来る余裕も無く、重い農具や米・味噌などの食料を買い求めるときに年に何度か利用するのみで、ほとんどの人は片道十里の道を徒歩で重い荷物を背負って買い物に出かけていたのである。

  掲載省略 地図〜点線は空知川沿いの道路
  掲載省略 地図〜点線は空知川沿いに作られた道路

 ちなみに移住に持ってきた食費代は、四人家族一年分で六十円から九十円程度で、とても一回三円の駄馬賃を使って毎回買い物をすることは困難であったのである。
五、鉄道敷設の計画
 北海道における鉄道は明治十三年十一月に手宮・銭函間で開通したのが始まりで、十五年には幌向まで延長された。その後北海道炭鉱鉄道株式会社が経営敷設することとなり、二十四年に岩見沢・歌志内間が開通し、二十五年には砂川・空知太間が開通した。この時道庁長官渡辺千秋は北海道鉄道敷設計画を樹て同年五月に開かれた第三回帝国議会で審議した「鉄道敷設法案」に「空知太・網走間、上川(旭川)・釧路間、上川・稚内間」を提案したが、調査未了の理由で法案から削除撤回された。
 その後道庁北垣国道長官から同様の意見具申がなされ、炭鉱鉄道会社は二十六年に空知太・上川間の鉄道敷設を出願して許可を得て測量だけは終わっているが、着工にまでは至っていなかった。
 同年二月の第四通常議会において北海道庁官を任命する立場から内務大臣井上馨は、鉄道による北海道の開拓を促進すべきと力説し、将来建設されるべき鉄道敷設の着手順序を次のように決めた。
 その一は空知太から上川に出て、フラヌ原野を経て十勝の中央を貫き厚岸に達する路線。その二は上川から宗谷に達する路線。その三は上川から北見、網走に達し東方線に連絡する線路となっていた。この時点で滝川・帯広間の根室線よりも旭川・帯広線が優先されたことは、工事費の問題と、永山に駐屯する屯田兵の移動利用が優先されたものと考えられる。
 二十七年五月第六回帝国議会において、貴族院議員公爵近衛篤摩は北海道に関係のある議員五十人の賛成を得て、「軍事・拓殖の観点からも空知太以北の鉄道敷設が急務である」と力説し、民間の力だけでは到底実行がおぼつかないとのことから、国の予算で行うことを求め「北海道拓殖に関する建議書」を議会に提案し可決されたが、政府は議会を解散したために廃案となってしまった。
 道庁は建議が廃案になったが、議会議員の多くが北海道の鉄道敷設に賛成しているとの確証の基に、同年七月、帝国大学工科田辺朔郎教授に依頼して空知太以北の鉄道敷設調査に着手した。この調査は帝国議会で審議された折、鉄道敷設計画の施行には莫大な費用を要するため、国の予算を少しでも節減できるように再度綿密な調査を行い、路線は最短距離に設計し、費用のかかる難関な工区はできるだけ迂回して行うよう求められている為であった。
 二十九年二月の衆議院予算委員会で新しい鉄道路線の敷設は「空知太・旭川間のみを認め」他は保留とすることとされたが、衆議院においてすべての計画案が復活可決され、ついで貴族院もこれを承認した。この時大きく影響を及ぼしたのは貴族院議長近衛篤摩、衆議院議員(全国鉄道同志会会長)望月右内、衆議院議員人見寧、機密院顧問榎本武揚などである。
 このようにして、二十九年五月十四日「北海道鉄道敷設法」が公布され北海道の鉄道敷設工事が始められたのである。
「北海道鉄道敷設法」
第一条 政府は北海道に必要なる鉄道を完成するため漸時予定の線路を調査し、
    及び敷設す。
第二条 北海道予定鉄道線路は左の如し
 一、石狩国旭川より十勝国十勝太及び釧路国厚岸を経て北見国網走に至る鉄道
 一、(略)
 一、石狩国旭川より北見国宗谷に至る鉄道
(以下略)
 「北海道鉄道敷設法」の公布に先立つ五月八日に「臨時北海道鉄道敷設部」が道庁に設けられた。北海道長官の管理の下に官設鉄道の建設業務を行うもので、道庁財務部部長酒匂常明が部長に、東京工科大学教授田辺朔郎と道庁技師佐藤勇が敷設部長に任命された。工期は一期と二期線に分けられ、工事費を算出するための予定線調査が七月から行われた。調査により特に建設が急がれたのは次の二線であった。
  一、釧路―帯広―旭川間
  二、旭川―比布原野間
 したがって第一期の初年度の建設は次の各線と報告された。
  一、釧路―白糠―十勝太―帯広間 五十四哩(八六・九キロ)
  二、旭川―富良野間 三七哩(五九・五キロ)
  三、旭川―比布原野間 八哩(一二・八キロ)
            合計  九九哩(一五九・三キロ)
 このように、「臨時北海道鉄道敷設部」の報告で旭川 ―富良野間が最も早く着工が急がれたのは、フラヌ原野の開墾申請に政治家の大物や、札幌農学校及びそのOBによる開拓事業が大きく影響していたのではないかと思われる。
 十勝線は、旭川より十勝・釧路の二国を経て北見国網走に至る三百十七哩(五百十q)で、忠別川を渡り上川御料地内を通過、美瑛原野に入り美瑛川を渡って、上川・空知の郡界に達し、空知郡富良野原野を出て同原野の西部を貫通して十勝国に至るものであった。(第一回北海道鉄道年報・32年12月発行)
六 東中地区を通る鉄道計画はあったのか
 十勝線の鉄道ルートについては、明治二十六年三月に北海道長官北垣国道が井上馨内務大臣の求めに応じてまとめた「北海道開拓意見具申書」の中で鉄道路線について書いているが、この路線のうち「上川・帯広」に関して同年十二月にまとめた「北海道鉄道予定幹線略図解」で、次のように記載している。
・旭川より十勝太に至る
 『旭川より分岐して上川御料地内敷地を仮用し、美瑛川岸の平坦の地を過ぎ「ポロベツ」「べべツ」の諸川を渡り、「ビバウシ」川の向うに於いて美瑛川を横切り、平坦な丘陵を上り「ビバウシ」及び「エホロカンベツ」水源の北南に分流する陵夷を超え、「フラヌ」原野に出る。この原野は空知川の流系に属する一大平野であり、地質は第四紀層である。その内部はぬかるみのところが多いので、線路は東部の山蹄に取り、字「エホロシ」に至りて空知川を渡り、南岸の広原に就き「ヤマイツナシベツ」等の川流を横断し、「ツナシベツ」前後にある断崖およそ六千尺(約千八百十八b)の簡を過ぎ、「ルーマソラチ」に出て同川に沿い「ルベシベ」支流を遡り、石狩・十勝国境の山脈を破り「パンケシントク」に出て十勝大平原の中央を横断し、帯広を過ぎて十勝太に達する。』
と記している。
 この報告書の作成に当たっては、鉄道敷設のために実際に現地の調査は行われていない。多分明治十四年に内田瀞と田内捨六が十勝中央道路の調査を行った資料と、二十年に柳本通義が行ったフラヌ原野殖民地選定事業の報告書を基に作成されたのではないかと思われる。特に柳本通義の殖民地選定報告書に添付されている図面には、十勝中央道路の予定線としてフラヌ原野の東側を通るルートと西側を通るルートの二通りの予定線が書き込まれている。
 この文章を見る限りでは、確かに路線は「フラヌ原野の東部の山蹄に取り」と書かれており、東中を通る十勝道路に沿った計画であると思われるが、この文章は北垣長官が井上馨内務大臣あての報告書であって、一般に公表されたものでは無いので、これを知り得る人はごく少数の人々に限られ、一般の入植者や貸付申請者の目にふれることは無かったのではないだろうか。

  掲載省略 地図〜明治20年殖民地撰定概図(点線はフラヌ原野道路予定線)

 明治二十七年五月に開かれた第六特別議会において、また、「北海道鉄道敷設法」が衆議院で審議された過程において、工事の費用を最小限にとどめることが求められており、実地調査を行い最短距離での設計と工事費を節減できる工法で施行することが条件となっていたことは、「北海道鉄道敷設法」第一条に「政府は北海道に必要なる鉄道を完成するため漸時予定の線路を調査し、及び敷設す。」として明文化されている。
 十勝線の設計施工に当たっては現地調査が再三行われ、最短距離で実測されており当初計画より三哩余(約五q)を短縮して設計されている。
 二十六年に北垣長官がまとめた「北海道鉄道予定幹線略図解」の計画は、二十七年七月に道庁が行った「空知太以北の鉄道路線調査」の折の実測により計画が練り直され計画が進められたのである。
 つまり、二十七年にはすでに路線は変更されており、二十九年に行われたフラヌ原野の殖民地区画測量では鉄道路線の短縮と、ぬかるみの多い難工事を避けるために、フラヌ原野の東部のルートを西部のルートに変更した形で測量が進められていたと考えるのが妥当ではないだろうか。
 どう考えても区画測量の途中で計画を変更したり、測量をしながら直すことなどはあり得ないことと思われる。
 フラヌ原野の開放告示は明治二十九年十二月であり、入植のため最初に調査に訪れたといわれている田中常次郎も二十九年八月であって、それ以前には生活の場を求めてフラヌ原野へ足を踏み入れたのはアイヌの人々以外には見あたらない。

  掲載省略 地図〜明治30年基線北15号〜16号間の駅舎予定地図
 明治二十六年三月に石狩国一円の土地の貸下が実施されたが、その際にフラヌ原野は除外されていた(道庁告示第二十号)。その理由について『北海道毎日新聞』(明26・9・14)は「漸次区画割を施し小地籍は隣地との境界及び道路敷地を定め、接続地図を作成し、整然区画割を為せる後地理課より殖民課に引渡し、同課を経て之が貸下げを為す方針なりと云う」と報じている。
 このことは、道庁がフラヌ原野を開放するために情報を開示したのは二十九年に入ってからであって、二十九年に測量して三十年に入植希望者に示された「フラヌ原野区画図」には、東側を鉄路が通ることはどこにも記載されておらず、最初から鉄道は西部を貫通する形で作られていた。区画図によって入植した人々も路線が西側であることを理解して入植したのではないだろうか。
 「上富良野町史」「上富良野百年史」では、「東中に入植した開拓者は十勝道路に沿って鉄道が敷設されると考えて、東中地区を選択して入植した」と記載されているが、前述した通り国有地貸付の基本である「フラヌ原野区画図」には鉄道路線が東側を通ることは記載されておらず、鉄道路線と十勝中央道路のルートを間違えて記憶していたと思わざるを得ないのである。また、聞き伝えと「東中に鉄道が通ってほしい」という願望が強く希望的観測を交えて風聞となったものと思われる。
 「上富良野百年史」で路線変更は明治三十年に測設された「フラヌ原野区画図四葉附鉄道変更図一葉」で変更された図面が作成されたかのように記載されているが、それは前述で示した通り誤りであり、「図面で変更になった」のは路線の変更ではなく駅舎の予定地の変更であって、最初に予定されていた草分地区の三十号付近と西中地区の十八号付近に駅舎設置が予定されていたものが、現在の上富良野市街地付近と中富良野市街地付近に変更になったものである。

  掲載省略 地図〜明治33年開駅当時の上富良野駅

 このことは最初の図面には三十号付近の駅舎予定面積と十五号〜十六号付近の駅舎面積が記述されているが、その後の図面では、新しい位置に変更した駅舎付近の面積が記されている。変更位置について、路線ルートを十勝道路沿いから西部地区に移したとはどこにも記載されておらず、図面の付記欄には駅舎付近の変更による新しい面積数値と面積の変更についての記述が書かれている。
 「北海道鉄道敷設法」が帝国議会に提出されたのは明治二十九年二月十日であり、その後若干の修正を加えられて第九議会を通過したのは同年五月十四日である。正式にフラヌ原野の開放が明らかになったのはその後であって、入植者が鉄道敷設のルートを知り得た情報は、二十七年に実地調査されて鉄道路線が変更になった後の情報であり、十勝国道に沿って東中地区を鉄道が通るという二十六年の情報は、公には発信されていなかったと考えるのが妥当である。
 「郷土をさぐる」二十七号でも記載したように、十勝国道の計画に沿った測量は間違いなく実行され、東中に通じる斜線道路が十勝国道予定線であったのであるが、北海道を貫通する中央道路の変更は屯田兵司令官であった第七師団長永山武四郎が、司令部を札幌から旭川へ移転するために、十勝中央道路を北見中央道路に着工直前に変更したのであって、二十九年に測量した「フラヌ原野」の図面には、国道として必要な十二間道路(幹線道路の基線と九線道路は幅八間他は幅六間と四間道路となっている)の計画がはっきりと記されているのである。
 当時の開拓地は道路の開通が最も重要な要素とされていた。東中地区に入植した人々は、交通手段として着工確実と見込まれる道路の確保が重要と考え、十勝国道の開通によって駅逓の設置の計画が期待され、(国道に沿った要地に五里をめどにして旅人の休息と宿泊施設を目的に駅逓の設置が計画されていた。十勝岳吹上温泉は昭和三年に駅逓の指定を受けている。)交通の便の解消によって生活の基盤も整えられる事から、東中地区に広がる肥沃な土地と清流がもたらす豊富な真水、そして飲料水の確保が容易なことなどを考えて、移住先に東中地区を選択したのではなかろうか。
七 富良野村分村までの現況
 明治三十年にフラヌ原野に入植が始まって、三十六年に富良野村を上富良野村と下富良野村に分村するまでの富良野村の状況について知るには、明治三十六年に発行された「上川発達史」(鈴木規矩男著)がある。
 文章は第一節位置境界から第十六節雑の項まで十六に分れて、当時の現況を記している。その中で主なものだけ再掲したい。
第一節 位置境界 (略)
第二節 地勢山川 (略)
第三節 面積人口

 面積人口の欄に三十二年から三十五年までの村の人口が載っているが、人口は次の通りである。
 ○人口
年度 三十二年 三十三年 三十四年 三十五年
戸数 三一九 五〇〇 九一三 一、三九〇
人口 一、〇八八 一、八〇七 四、〇五八 六、六七二
  掲載省略 複写〜「上川発達史」から

 この表を見ると三十四年から人口は大幅に増加しているが、これは三十三年七月に旭川から下富良野まで鉄道が開通し、交通の便が一段と解消されたことが起因していると思われる。
第四節 区分
 地域の区分は次の八部に分けられている。
  上富良野
  中富良野
  下富良野
  山  部
  金  山
  鹿  越(文中では抜けている)
  幾  寅
  落  合
 これは当然のことながら、富良野村が北は美瑛との境界から南は新得の境界までという広い範囲であったことが解る。また、八部の名称から鉄道路線の停車場を中心に市街地が形成されて発展していたこともうかがい知る事が出来る。
 村の経済については次の表がある。
第五節 村経済
○村経済
年度 三十二年 三十三年 三十四年 三十五年
経済総額 三七八円三六銭 三六八円七五銭 一、八七一円七三銭 二、八三九円〇五銭
戸数 三一九 五〇〇 九一三 一、三九〇
一戸平均 一円一八六厘余 七三七厘余 二円〇五二厘余 二円〇四二厘余
 表で三十三年の一戸平均が少ないのは、冷害によって農作物の収穫に大きな影響を受けたことが原因と、新しい入植者が増え開墾から生産までに至らなかった農家が多いことも起因している。
第六節 山林
○林業
 富良野村の収入の大部分は林産物からの収入であった。
 三十五年度における官林払下の材積は九千六百二十二尺で、代金は二千三百七十五円余となっており、三十六年度の予算では材積八万一千二百五十万尺で、その代金は約二万円に及んでおり、いかに富良野村の山林が富んでいたかを知ることが出来る。

第七節 工業
 富良野村は有数の森林地方であり工業は主に材料を木材にしたものが多く、製軸所は浪花組、亦燐寸小箱は吉田木工場、共和商会鹿越工場等がある。また富士製紙会社は金山付近に分場を設け大いに製紙業を起こさんとして計画中である。

第八節 農業
○農業
 本村は空知川及びその支流縦横に通じ、地勢平坦の大平原であるので将来一大農牧地となることは疑いの余地も無い。目下成墾地は畑一千九百七十九町歩、牧場七千四百六十六町歩余である。
 農産物で特産物は大豆であり、富良野大豆は小樽穀商の呼称を得ているほどである。これに次ぐものは菜種である。
 大豆の収穫は一反当一石三斗位であり、菜種は一石位の収穫である。いたるところ水利が便利であるので水田に適しており、造田の熱は盛んである。
 
○農産物出荷価格
三十三年 三十四年 三十五年
四一、九五四円 六五、五〇五円 八七、六七五円
一戸平均 八十三円 一戸平均 七十一円 一戸平均 六十三円
第九節 牧畜
 本村は森林に富むことから牧場の名を借りて、山喰策士が占領する者が多く、交通が便利な処で青木のある箇所は原野、山林の別無くことごとく牧場の奇観を呈しているが、実際に牧場を経営する者は十分の一にも達せず、牧場の多くは牧畜を行っていない現状である。

第十節 鉱業
 鉱産は砂金が主なるものであるが、「オプタテシケ」の硫黄と同山麓の石材及び金山付近に最良の石炭が蔵するとの説もあるが、まだ採掘に至っていない。上富良野付近から採掘される石材は、品質良好であり建築用に適し地方の特産となっている。また下富良野大学演習林から良好の花崗岩が産出されている。

第十一節 教育(略)
第十二節 宗教(略)
第十三節 衛生(略)

第十四節 交通
 十勝線鉄道は全村を縦貫し上富良野、中富良野、下富良野、山部、金山、鹿越、幾寅、落合の八停車場がある。(中略)
 国道は、旭川方面より十勝国に通ずるものは、ほぼ鉄道線路に沿い、下富良野から歌志内、滝川に通ずるものは空知川に沿っている。

第十五節 通信(略)

第十六節 雑
 雑欄では次のような記述がある。
、主なる農場及び工場(略)
、上富良野市街
 上富良野市街は現在戸数六十余戸あり、停車場付近は卑湿のため水質悪く、著しき発達を為さず運送店及び一〜二の旅人宿があるのみである。市街は戸長役場付近に漸次形成せらるべし。主な商店は荒物店に金子、宮北、石井、中原、西邊、旅人宿に森川、境、蹄鉄工に槙野、松野あり。(以下略)
、三重団体
 三重団体は富良野の開祖なり、三十年三月二十四日に田中常次郎が率先して団体を組織し、板垣贇夫を団長とし田中常次郎副長となり、同年四月四日荊棘を開き道なき山を越えて今の草分神社の祭れるところに露宿す。(中略)三十年三十戸、三十一年五十戸、三十二年七十戸都合百五十戸の団体である。移住の三十年は作物実らず、三十一年は水害に遭って非常に困難が続いたが、幸いにして鉄道工事があったので露命を凌ぎ、団員の四散を免れた。当時道路は旭川より美瑛までは笹刈り道があったが、そこからは全く人跡が見当たらなかったと言う。道路は三十一年に開通した。
、中富良野市街
 まだ市街と称するほど発達せず、商店は野堀、四方の二戸でその他は言うに足らず。
三十一年四月時岡觀純停車場の北方に貸下を受け移住す。時に僅か三戸なり。
三十三年十二月市街地の貸下げあり、鉄道も開通し戸口漸々増加し目下八十名に至る。時に道路は上富良野まで稍々通じるが、これより二里あまり笹を刈り漸く行通せり。当時の困難察するに余りある。
、下富良野市街
 下富良野市街は十勝線沿道第一の都会にして市況活発に整頓せる商店又少なからず。且つ近傍に農場多く、移住民は日々増加し林産の輸出益々盛んで実に有望の地なり。市街に新たに戸長役場を置かれ(本年九月十日より開庁)上富良野と分離し、(以下省略)
これらの報告書を見ると当時の発展の様子が良く解る。
八、上川便覧から
 「上川発達史」よりも一年早く明治三十五年七月に発行された文献に「上川便覧」(斉藤新太郎著)がある。この文献は主に上川群関係について記述されていり、空知郡に属する富良野村についてはあまり紹介されていない。その中から富良野原野に関係のある記述を抜粋して紹介したい。
 巻頭にある「緒言」では「 … …伊納内、近文両駅を過ぎ、旭川駅に至ると鉄路は分岐する。右は十勝釧路に至る線は十勝線と云い左は北見天塩に至るものを天塩線と云う。この鉄道の開通は上川の発展に長足の進歩を促し、上川の名称を発揚し幾万の移民を招来したのはこの鉄道の賜物である。 … …後略」
と記載され、鉄道の開通が上川地方の発展に大きな影響を与えていることが伺える。

  掲載省略 複写〜明治35年刊「上川便覧」表紙
「石狩国空知郡」
『同郡の内上川支庁管内に属するものは富良野村一村のみであるが、その面積は天塩の中川郡に伯仲するほどの一大村落であり、将来戸数の増殖により十数ヶ村を形成することが伺われる。同村は東は十勝国上川郡に連なり西は夕張郡及び空知郡に隣接して南は勇払郡北は石狩国上川郡に界し、十勝岳は嶬峨(険しく聳え立つ)として富良野村の東北隅に屹立し、夕張山は西南に聳え、空知川は四方の水を集めて北に注ぐ、地勢平坦であるが地味は四郡中最下等である。同村は主に白楊樹用材等の産地である外水田、牧場地として恰も適しているというに過ぎない。』
とあり、富良野原野は上川管内でも地味は最下位であると言っている。このことは、肥沃な土地は学田地であったり、札幌農学校の出身者がその大半を占めていて残りは、沼地や泥炭地が多かったのではないかと思われる。

「ヌッカコシ温泉」
『フラヌ川の上流に美瑛村女鹿一八氏の温泉場がある。この湯を札幌病院太田医師、北辰病院鈴木薬剤士に分析を依頼したところ頗る良好な成績であったので、近く浴客の需用に応える計画であるとのことである。同地は温泉場として静養の景勝地であり、高丘の地にあるので一望千里よく眼下に上川の沃野を眺望することが出来、旭川市街も見ることができる位置にある。温泉までの道は上フラヌ駅から二里半の距離である。』
 この資料によると、フラヌ川の上流の温泉とあるので「吹上温泉」を指しているものと思われるが、持ち主が美瑛村女鹿一八氏と記載されていることは、今までの資料では丸谷捨吉(常吉)と言われてきたので、これも新しい発見かも知れない。(以下省略)
九、草分・日の出地区を拓いた岡本一之助という人物
 郷土をさぐる第二十六号でも記述したが、明治三十五年に村瀬茂作が貸付申請をして開墾されなかった草分と日出地区にまたがる九十四万六千六百三十三坪(三百十五町歩)の牧場地を、一部畑地に変更申請して開墾付与を受け、三重団体員二十八人に分割譲渡している岡本一之助という人物について紹介したい。
 岡本一乃助(おかもとかずのすけ)は出雲の国(島根県)松江で明治元年松江藩医瑞仙の長男として生まれた。岡山第三高等学校医学部(後の医学専門学校)を卒業し、新潟病院医員として勤務し後に郷国浜田病院に転任した。二十六年公立小樽病院医員に招聘されて来道し、次いで恩師原田元貞が経営する原田病院に勤務する。三十年に今度は上川地方の有志の招聘に応じ、また旭川地方の北海道鉄道敷設部の工事着工とともに疾病者の治療のため嘱託医を受け、兼ねて旭川で医院を開業した。翌三十一年に病室を増築して上川病院を開設し、その年同志八人と共に上川医会(医師会の前身)を作り初代会長を務めた。
 三十五年六月一級町村制が施行された旭川町の選挙で初期町会議員に当選したが、政争の渦に巻き込まれ同年十二月に辞職している。その後旭川警察医、上川高等女学校医、忠別尋常小学校の嘱託医となって活躍し、東北、朝日、有隣、北陸、大日本、六條、海国、護国等各生命保険会社の嘱託医も行い、社会公益のために貢献し国税二十六円を納めて資産家の列に入っている。
 その頃の三十七年に上富良野の牧場と畑地の貸付申請を行っているのである。四十五年一月に旭川開発期成同盟会が発足するとその評議員となり、区制が敷かれた大正三年六月から四年四月までの期間は区会議員を勤め、医会、政界でも活躍し旭川区旭川の開発発展に貢献している。
 大正四年に静養のため一時郷里に戻るが七年には再び旭川に戻り、再び上川病院の医院長を勤めている。
昭和三年二月還暦を祝い旭川市の社会事業へ金百二十円を寄付し、四月には長男・次男が東京大学医学部に在籍して当分の間親の元に帰らないとのことから、子どもたちの意見に従い息子の住む東京へ移転することとなった。当時の旭川新聞には旭川駅に二百人以上の関係者が見送りに来ていたと報じている。

  掲載省略 写真〜上川病院
  掲載省略 新聞スクラップ〜旭川新聞
参考文献
「新北海道史年表」一九八九年刊北海道編
「新北海道史」昭和四十六年刊北海道編
「中富良野町史」昭和六十一年刊中富良野町史編纂委員会編
「上富良野町史」昭和四十二年刊岸本翠月著
「上富良野百年史」平成十年刊上富良野百年史編纂委員会編
「札幌同窓会報告」明治四十一年刊南鷹次郎著
「北大百年史」昭和五十六年刊北海道大学編
「富良野市史」昭和四十三年刊富良野市編
「美瑛町史」昭和三十八年編纂委員会編
「南富良野町史」昭和三十五年編纂委員会編
「稲作年表」岩田賀平著
「上富良野誌」明治四十二年刊上川管内誌編纂会
「上川発達史」明治三十六年刊鈴木規矩男著
「北海道開拓と鉄道建設史」
「鉄道百年」昭和五十五年刊北洞孝雄著
「北海道の鉄道」平成十一年刊田中和夫著
「上川便覧」明治三十五年刊斉藤新太郎著
「北海道人名辞書」大正十二年刊金子信尚著
「旭川市史」昭和六年刊市史編纂委員会編
「新旭川史」平成六年刊市史編纂委員会編
「上川開発史」昭和三十六年刊上川開発史刊行委員会編
「北海道市町村総覧」
「高倉新一郎著作集」一九九六年刊高倉新一郎著
「河野常吉著作集」
「北海道毎日新聞」明治後期記事より
「北海タイムス」明治後期記事より
「小樽新聞」明治後期記事より
「旭川新聞」大正〜昭和初期の記事より
「北海道殖民地撰定報文」報告書
「北海道殖民地区画撰定図」北海道開拓記念館保管

機関誌      郷土をさぐる(第28号)
2011年3月31日印刷      2011年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一