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昭和三十七年(一九六二年)十勝岳噴火の写真

三原 康敬 昭和二十四年九月二十八日生(六十一歳)

昭和三十七年十勝岳噴火
 火山噴火予知連絡会は、「概ね過去一万年前以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」を活火山と定義することとし、具体的には、火山活動について過去一〇〇年間に組織的に収集された詳細な観測データに基づき一〇〇年活動指数、及び過去一万年間の地層に残るような規模の大きい噴火履歴(活動頻度、噴火規模及び活動様式)に基づく一万年活動指数を定義し、ランクAは一〇〇年活動度指数(五を超える)あるいは一万年活動指数(十を超える)が特に高い火山と分類、十勝岳はこのランクAの火山に分類されている。
 十勝岳は噴火の時季と規模によるが、泥流・火砕流による被害を生じる恐れのある火山であり、一九八八年の噴火までの一〇〇年間に顕著な噴火は五回発生しており、活発な火山活動期にあると考えることができる。その中でも泥流被害を伴った大正噴火に目を奪われがちであるが、爆発的な大噴火として記録される昭和三十七年の噴火は、夏季に発生したことから泥流被害の恐れもなく、上富良野・美瑛への大きな影響を伴うことなく鎮静した。しかしながらこの噴火は、火口が一度に四箇所生じ、火山灰を上空約一万二千mの成層圏に噴き上げた大噴火であったが、防災対策と観測体制は現在と比べものにならないほど手薄な時代であった。
 昭和三十七年噴火の際、上富良野が経験した多くの出来事を後世に伝えるべく、新たに歴史の掘り起こしを行うことが必要と考え、エピソードをさぐることにした。研究者と気象庁職員の噴火分析に見解が異なることの混乱を避けるため、正確な火山情報の公表を行うために報道機関の取材攻勢を逃れ、気象庁職員と火山学者とが意見交換を行ったこと、農作物に影響のある川水の酸性化と火山ガスの流下による健康被害対策、参議院通常選挙の投票日を翌日に控えた役場の災害対策など、現在の防災対策に教訓となることがたくさんあり、書くことにした。
噴火災害の写真
 大正噴火の状況を表わす写真に、藤森さんが自転車を引き泥流の泥海の中を歩く光景をとらえたのがあり、泥流被害を顕著に表わす写真として、多数の火山研究書などに掲載されている。

  掲載省略 写真〜「泥流の中から自転車を引上げようとする藤森さん」
              写真提供/水島淳三氏

 昭和三十七年の噴火を表わす写真として、四箇所の火口から生じた大噴煙柱の写真が迫力のある貴重な記録として残っている。
 この写真の撮影者が誤って伝えられていることを=郷土をさぐる第二十七号・和田宗只さんの『白銀荘から見た噴火の状況』=編集後記で會田久左エ門氏の撮影した写真にふれたが、確実性に乏しく推測の域を出ない不確実なままであった。
 その後、撮影者は確実に會田久左エ門氏であることが次の資料により判明した。昭和三十七年十勝岳噴火が発生した一週間後、上富印刷所が発行所、會田久左エ門氏が編集人の『上富週報』(昭和三十七年七月六日発行、第二六九号)十勝岳大爆発特輯[しゅう]記事に添えられた写真の説明に、「写真は六月三十日午前四時、白銀荘浴場屋根上より記者が撮影したもので絞り十一、五十分の一、機種パールである。此の前に三時半頃まで二十分の一で撮影したものは上下震動の為ブレて居た。此の噴煙前面の山は前十勝岳、雪渓の雪は降灰も無いので溶けなかった。噴煙の根元の幅は三〇〇mである。」とあり、撮影者の特定がこの記事から確実となった。

  掲載省略 写真〜白銀荘で写した大噴煙柱の写真を掲載した
            「上富週報」第269号(昭和37年7月6日発行の複写)

 掲載された写真には「十勝岳大爆発昭三十七.六.二十九」の説明文が入れられており、二六八号の発行には間に合わなかったが、三十日に白銀荘で撮影したフィルムを近くの写真店に現像を依頼し、印画紙に焼付けする際、説明文が入れられて町内で発売された写真が使われている。=郷土をさぐる第二十七号=に掲載の、「白銀荘から見た噴火の状況」の編集後記で一部触れているが、『上富週報』の記事と町内で発売された写真が新聞社の噴火関連資料として集められた中にあり、後年、出版物に転用されたことが考えられる。三十日の写真撮影が説明文の二十九日という活動の始まった日の表現を鵜呑みにして、確かめることなくあたかも自社の撮影であるように誤ったといえる。
 會田久左エ門氏はこの噴火の時の体験を自身の『十勝岳開発回顧録』の中で詳しく書いており、この回顧録は、=郷土をさぐる第二十三号=に中村有秀さんの『石碑が語る上富の歴史(その十二)會田久左エ門の歌碑』に掲載されている。これとは別に昭和三十七年噴火の体験が『上富週報(昭和三十七年六月二十九日発行、第二六八号)』に掲載されており、噴火の形態に関する貴重な経過が記されているので記事の全文を紹介する。「シュナイダーハウス」を「シュナイダーホース」としている箇所、「東北東」を「北東〃」としている箇所の明らかな誤りの部分を修正した以外について、原文を尊重してそのまま引用する。
―十勝岳大爆発観測記 ―
                        白銀荘にて 会田 生

 六月二十九日十一時過ぎ十勝岳爆発の報が伝わり全町民に警報が発せられた。記者は温泉建設現場は絶対安全と確信しつゝも、従事員の安否を気づかい且つ下山せしめるべく考え、役場の車に便乗すべく身支度を整えて役場に向う。消防車は出発のあとであったが幸いにスガノ氏の車に便乗して吹上に向て出発する。既に一時である。爆発は一応落ち着いたのか山は不気味な程静である。清富地区をおそった集中豪雨の爪跡を残した道路は荒れに荒れ車は躍る様に振動する。白銀荘には消防車と佐藤電気の車が着いて居り営林署の本間さんも着いて居られる。白銀荘には登山者三名が宿泊されて居たが危険なため下山される事に成った。
 第一回目の爆発は午後十時四十五分で上下震動と共に山鳴りと電光が走り火柱が立ち建物は絶えず震動して不安な状態であったと云う此の爆発に硫黄鉱山では落石のため四名即死の報は後から知らされた。山は黒一色で不気味なほど静かである本間さんと和田さんと記者と同行した江尻君の四名が残る事に成り二時過ぎに車は下山して行った。
 下からは引切り無しに電話連絡がある。二時四十分山鳴りの音を聞くと共に激しい上下震動が起り薄明かりの空に灰色の噴煙が立ち昇って行った。硫黄採取されていた丸山の崖は唯もやゝと白煙が立って居り新々噴火口も休止状態である。此の方面は焼跡のくすぶりに似た白煙が立ち昇って居るだけであるが前十勝の東部は火柱が立ち電火が走る。噴煙は二本に見える。思うに第一回目の爆発によって出来た噴火口が崖くずれによって埋められて一旦休止状態となり其の側面二箇所から一気に噴出したものゝ様である。位置は大正火口の南に当り前十勝の凹部である。此の地帯は夏季登山やスキーコースに利用されて居る処であるが七、八年前から地表に数条の亀裂が出来て居り大正火口側の崩落は年々続けられて居た処である。然も目に見えぬ程のカン没が起こっていた所で火口附近では最軟弱地点と見られて居た。本年に入ってから相当猛烈な噴気孔が現出していた処である。
 電光がひらめくと十秒位で雷鳴が鳴り渡り赤黒い火柱が渦巻く様に噴き上がって行く。シュナイダーハウス(硫黄採取飯場)が火の塊となって燃えて居る。西になびく噴煙には朝焼けの光が赤く映え、焼けた溶岩が猛烈な勢いで噴き上げられて行く。大正十五年の泥流跡の状況を見るべく単身供養碑の処に行って見ると流出の形跡も無い。噴煙は益々猛烈であるが此の噴出物は大正火口に流下し其の底部を埋めて居る模様である。先ず一応安心して白銀荘に帰り報告する。旧噴火口下の温泉現場の引揚げを伝達するため江尻君を走らせる。
 夜が明けるにつれて噴煙は空高くひろがり水しぶきの様に噴きあげる岩石がはっきり見えて来た。赤黒く燃え上がる火柱は火炎では無く真赤に焼けた噴出物が空高く舞いあがって行く姿なのである。電光と雷鳴がとゞろく。家屋は絶えず震動を続ける。
 自衛隊の連絡員が勝岳荘の側で無線連絡を続けて居る。江尻君がようやく帰って来た。旧噴方面は何等異状無く馬二頭は先に下山し、残りの人員も八時半には白銀荘に着くと云う。
 八ミリカメラで噴煙の状況を撮影する。再度供養碑の処に行き噴煙を撮影して居る時、酒匂助役と共に消防員を連れて太田氏も観察に来られる。火勢は衰えも見せず噴き続けて居る。飛行機が次々と飛来する。
 風は東北東になびき幸に降灰は無いので三段山の中腹に登りフリコ沢対岸の噴煙状況をカメラに納めて下山帰路につこうとする時富良野警察署長一行が白銀荘に到着、此の附近で観測し十時役場の車で下山する。

  掲載省略 新聞スクラップ〜急遽、第2面の記事を差し替えて発行した「上富週報」
                   第268号(昭和37年6月29日発行の複写)
記事の謎解き
 以上が記事の全文で、この中に十勝岳の噴火の形態に関する特徴的なことが書かれている。「第一回目の爆発は午後十時四十五分で ―中略 ―二時四十分、山鳴りの音を聞くと共に激しい上下震動が …」という部分で、一回目の噴火と二回目の噴火に約四時間の間があること。これは大正噴火の時、一九八八年噴火のクリスマス噴火で避難命令が出された時、同様の現象が起きている。
 しかも、二回目の噴火が一回目より規模が大きいという特徴がとらえられている。『上富週報』は毎週金曜日発行であるが、噴火の起こった二十九日はこの発行日になっている。三十日までの経過が二十九日の紙面に掲載されているのは、噴火が発生したことから二十九日から三十日にかけ、発生現場の近くで詳細に直接取材を行った噴火の記事を、限られた紙面の中に当初予定していた二十九日発行の記事と差し替えて、第二六八号を印刷し、発行したものと推測できる。
 第一面のトップ記事ではなく、第二面に掲載されており、第一面の印刷を終えてから噴火記事を掲載するために急遽第二面の記事を差し替えて印刷したと思える紙面構成となっている。三男の現上富印刷所会長、會田義隆氏に確かめたところ、三十日は、十時ころまで白銀荘付近で取材と温泉開発への影響を調べており、下山して町に着いてから第二面に噴火記事を入れて印刷し、六月二十九日の第二六八号として発行した経緯を確かめることができた。
火山活動の形式
 火山噴火の様式や規模には様々なものがあり、それに応じて災害の種類や規模が変化する。火山には個性があり、火山ごとに異なったタイプの噴火をすることが多いが、時として、同じ火山でも異なったタイプの噴火や規模の異なった噴火をすることがある。一概に定義づけることが出来ないが、仮定であるが文献を基に平均的な噴火のメカニズム(噴火と現象の仕組み)をまとめた。

〈一〉噴火前の前兆現象
 @熱水だまりが常に熱せられ、常時噴煙が上がる。
   噴煙が上がるのは、常時、帯水層付近の熱水だまりが熱せられて
  いることによる。
 Aマグマが熱水だまりに徐々に接近、熱水だまりが沸騰し始め、水蒸
  気爆発が発生する。
 B熱水だまりの沸騰やマグマが地表に近づくことにより、地震や火山性
  微動が増加する。
〈二〉噴火ステージ(段階)
 マグマが上昇を開始して、帯水層を突き破りマグマ噴火を開始する。
 ・上昇が早いと→爆発的噴火
 ・熱水だまりを充分乾燥させる程度のゆっくりとした速度は→溶岩流の発生
〈三〉マグマ・水蒸気爆発ステージ(段階)
 マグマが地下へ戻り、マグマの通路(火道)に熱水が逆流、マグマ・水蒸気爆発や小規模な水蒸気爆発を断続的に発生させる。
〈四〉平穏期
 火山に異常現象が全く無い状態。

 以上は、あくまでも通説的な噴火形態のまとめである。噴火の規模は多様であり、途中で発生する現象が変化することがあるので、確実にこのような経過を辿ると捉えるのは危険なので、あくまでも参考としてほしい。
十勝岳噴火で考えられる特徴
 火山噴火は未知の領域で、火山学者・研究者により科学的に解明されているわけではないが、十勝岳の文献収集を行っていることから得られた噴火現象の記述と、會田久左エ門氏が記事のなかで客観的に感想を述べていることの関連を示すことにする。
一九二六年(大正十五年)噴火経過
・大正十四年十二月二十三日二十一時頃、鳴動・噴煙、
 新火口「大噴(おおぶき)」出現
・大正十五年二月中旬、活動再開。
・三月、継続。
・四月五日、六日、噴火。
・下旬、火柱。
・五月七日二十時頃、噴煙・火柱、新火口出現。
・五月十三日〜十七日、鳴動・噴煙。山麓に地震。
・五月二十四日十二時十一分頃、鳴動・噴火。(水蒸気爆発?)
・五月二十四日十四時〇〇分頃、鳴動・噴火。
・五月二十四日十六時十七分頃、鳴動・大噴火。(マグマ噴火?)
 山体崩壊、泥流流下。

一九六二年(昭和三十七年)噴火経過
・六月二十九日二十二時四十分頃、噴火。(マグマと熱水だまりが
 接触して水蒸気爆発?)
・六月三十日二時四十五分頃、噴火。噴煙柱、一二,〇〇〇m上
 昇。(マグマが熱水だまりを突き破り爆発→マグマ噴火?)

一九八八〜八九年噴火経過
・十二月二十四日二十二時十二分頃、小噴火。住民避難。
・十二月二十五日〇時四十九分頃、小噴火。火砕流。
 このように、十勝岳の噴火は約四時間前後の間隔をあけて噴火するとき、最初の噴火よりも次の噴火は比較的大きくなる経過をたどる可能性が考えられる。會田久左エ門氏は昭和三十七年噴火の際、二回目の大噴火を貴重な記録として記事で残した。
 昭和から平成の噴火の際、十二月二十四日から二十五日にかけての噴火は、今では、小規模とされているが、白銀荘で噴火を体験した者として、二十四日の噴火後、確実ではないがあらかじめ、十勝岳の噴火にはある特徴が存在することを知っていたので、次の噴火は規模が拡大して発生する恐怖を経験した。同じく白銀荘で観測に当たっていた火山研究者は、地震計の針の動きから前十勝岳が吹き飛ぶのではないかと危ぶむ、恐ろしい思いをしたと後日話してくれた。
 平成二十二年、北海道新聞夕刊紙上で連載された「私のなかの歴史、地域の減災を願って― G火山学者岡田弘さん」二〇一〇年十一月六日の記事の中に、十二月二十四日は、前兆現象が十九日の噴火の経過と同様と考えられるので、研究者が経過を見守っていた中で発生した、予知できた最初の噴火であり、「十勝岳の一九八八年噴火」は火山学の新しい幕開けを告げるものでしたと話されていることが書かれている。岡田先生は十勝岳に関する防災講演会の中で、「新聞記事」はスクラップすると「記録書」という言葉を話されている。
 「一九八八年十勝岳噴火」のとき、私は十二月二十四日の噴火を火口近くで見ており、これとは別に、一九八九年一月二十八日五時十八分、六時十一分、七時〇〇分と連続して、噴火が三回発生したときは、噴火が次第に大きくなるのではないかと非常に緊張したことを覚えている。

機関誌      郷土をさぐる(第28号)
2011年3月31日印刷      2011年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一