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昭和三十七年十勝岳噴火のとき
大噴火と学校へき地調査

岡田三一 (七十二歳)

 昭和三十七年六月三十日未明、十勝岳大噴火の知らせを最初に聴いたのは、上富良野有線放送協会から流された臨時放送でした。飛び起きて窓越しに十勝岳を見ると、黒々とした煙がモクモクと空高く立ち昇り、普段の火口や噴煙に見慣れていた私の眼には想像を絶する大規模のものでした。
 当時、私は教育委員会に就職していましたが、事務室の隣りには有線放送協会の電話交換とラジオ放送を兼ね備えた大型の機器が設置されていました。週に一、二回の宿直でしたが、それには夜間に有線放送局の電話交換と朝と夜の定時放送も含まれており、そのアナウンサーも兼ねた仕事でした。(独身であったため、あまり苦にしていませんでしたが …。)
 十勝岳が噴火した日は、宿直でなかったため草分の家で寝ていました。朝方、有線放送室に宿直していた人から「役場に職員がみんな集まっているぞ!お前も集まらなくてよいのか?」との電話連絡がありましたが、窓越しに見える限りでは大正十五年のように泥流が発生しているわけでもなかったし、「町職員全員緊急集合せよ!」との命令もなかったのでそのままにしていました。(今にして考えれば浅はかな判断だと思っています。)
 教育委員会の仕事の一つに「へき地教育振興法」に基づき、該当する学校には、生活上の不便さにより、一級から五級までの段階分けの申請書を作成することがありました。段階分けの判定基準は、最寄りの駅から学校までの距離や雑貨・日用品を売っている商店までの距離、積雪量や春先の道路状況など細かなきまりから成っていました。
 当時、五年ごとだったと思うが、へき地級指定に際しては、実態調査が現地に出向いてなされていました。大噴火の三日後だったと記憶していますが、旧清富小学校の現地調査があり、北海道教育委員会の本庁職員一名と上川地方教育局の担当者一名の来町がありました。その時、私が旧清富小学校まで案内しながら同行しました。旧清富小学校までは、市街地から十二キロメートルの距離があり、タクシーで行ったと思いますが、凹凸のはげしい砂利道であったことや大正十五年に濁流として流れ下った草分、日新地区の沢地帯を上がって行かないと清富地域に到着できなかったことから、調査員も心配であったと思います。さらに、大噴火中の十勝岳に向かって近づいて行くのですから、とても不安だったと思います。
 調査員も大正十五年の大噴火と泥流災害のことについては、ある程度の予備知識をもっていたらしく、当時の流れ下った場所や災害の状況など時々私に質問してきました。大正十五年の大噴火は、五月下旬で山や谷間に残雪があったため、噴火時の高熱や火山弾が多量の雪どけ水を発生させ、それが土石流となり、樹木をなぎ倒しながら一気に流れ下ったが、今回は六月末なので泥流の心配はないことや清富小学校は十勝岳に近いが、学校は小高い丘や山々に囲まれているので、心配は不要などと説明しながら学校に到着しました。
 実態調査はへき地級指定に際しての調査項目と先生方への聞き取り調査が主なものであり、三十分程度で終了。その後は天気も良かったので、学校の玄関前にパイプ椅子を持ち出して大噴煙を眺めることにしました。モクモクと立ち昇る黒煙の中を時々ごう音と稲妻が走り、火山現象の猛威に見とれていたものでした。
 十勝岳大噴火と現地調査が丁度重なったため、清富小学校は特別有利な条件でへき地三級に認定されたのではないかとのうわさ話しが一時流れたりもしましたが、噴火がおさまって行くとこの話しもいつの間にか消えていきました。
〈補説〉
 私は、昭和三十九年四月から学校の教員になり、昭和四十三年から四十九年までの六年間、へき地二級の美瑛町立忠別小中学校に勤務していましたので、へき地について少しだけ補説しておきます。
 へき地に勤務すると、一級では給料(本棒)の八%の手当が毎月支給されます。二級では十二%、三級では十六%となっていました。この外にへき地校のほとんどは複式学級であったため、多学年担当手当などもついていて、北海道教育委員会はへき地教育の振興を図っていました。
 しかし、へき地に勤務してみますと、交通手段が限られていることから、買物や病気の時など便数の少ないバスを利用するかタクシーを使用するなどしていましたから出費も多かったものです。
 また、奥まった狭い土地で暮らしているためか、外部の人と接することが少なく、郵便配達人と会話をすることも楽しみの一つとなっていたぐらいですから、時々街のネオンが恋しくなり、旭川に出向いて気前よく使ってきたこともありましたので、思うほどに貯金は出来なかったものです。
 へき地の学校は少人数であったため、個別指導がしやすく「教育の原点は、へき地にあり」と張り切って仕事をしていました。
 卒業後、道内外でご立派に活躍している教え子の姿をみると、教師冥利に尽きると言えましょう。我が人生に悔いはなし。

機関誌      郷土をさぐる(第28号)
2011年3月31日印刷      2011年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一