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昭和三十七年十勝岳噴火のとき
十勝岳噴火の思い出

西口 登 昭和八年九月一日生

 当時私は現在の本町二丁目の戸田商店の隣に建っていた町営職員住宅に住んでいた。昭和三十七年六月二十九日のあの夜は、住宅の二階で友達の金融公庫住宅の審査と、建築確認申請用の住宅の設計図を作っていた。午前零時前だったと思うが、二階の窓の下から「おーい西さん、十勝岳が爆発して皆役場に集まっているぞ … …」と、同じ町内に住む町議会議員の桐山さんの声があった。急いで役場に行くと十数人の職員が集まっていた。この噴火は二十九日午後十時過ぎと記録され、正確な時間は残されていない。

 この年十勝岳翁地区では、十勝岳道路の二年目の工事が始まっていた。十勝岳道路は旧吹上線中茶屋附近を起点に、終点凌雲閣前間の約八・七粁を産業開発道路として計画され、昭和三十六年(一九六一年)から陸上自衛隊部外工事として着工し、初年度は起点の吹上線分岐点からヌッカクシフラノ川に接する四粁地点まで進んでいた。
 計画時は産業開発道路と云うことと、国有林野の貸付や許認可手続の関係等から産業課が担当していたが、二年目のこの年から技術面と開通後の管理の事もあり、建設課が担当することになった。

 当時私は建設課管理係長で、道路の維持の他自衛隊部外工事のための現地宿舎を始めとする仮設設備の設営など、作業隊との窓口を担当していた。そのためこの時も現地作業隊との連絡と、現地の状況把握のため現地行きを命じられた。当時役場には町長専用車以外事務連絡車は無く、道路維持用のダンプトラックに消防団員二名を乗せて現地に向かった。
 この年の工事計画は、前年まで開通していた四粁地点より翁地点(現在のバーデンかみふらの)までの約二粁強の区間で、施工は清水一尉を作業隊長とする恵庭の施設隊が担当し、その年統合で廃校となった旧旭野小学校校舎を、現地隊舎兼宿舎として使用し、作業現場には毎日車両で往復していた。

 工事は四粁地点より四〜五〇〇メートル進んでおり、午前一時過ぎ現地に到着すると、既に作業隊員は先着しており、ブルドーザーを方向転換させ、工事を中断するための重機の引き揚げ作業の準備中であった。
 隊長に噴火の状況を説明したが、作業隊員は皆火山噴火は初めての体験であり、しかも場所が同じ山続きのことから、恐怖感もあってか誰一人口を開かない。
 その夜は晴れていたが午前二時前で、未だ足元は薄暗く作業には照明を必要とする状況であった。退避の為ブルドーザーは下りに向かって動き出したが、前照灯が故障していて点灯せず、工事中の現地では路盤は軟弱で起伏も大きく、側溝も荒掘削で路肩も不安定で危険があるため、安全確保のための隊員二名が排土板の両端で、懐中電灯で合図誘導し、超低速で動き出したのを記憶している。現場で使用していたブルドーザーは、排土板の操作は現在のような油圧式のものではなく、ワイヤロープで吊上げ排土板の自重で操作するものであった。

作業隊が四粁地点まで下りたところで帰庁することにした。吹上線を下って第二安井道路(現在の町上水道配水場)付近まで下ってきたとき、トラックの荷台に乗っていた消防団員が「ドン・ドン・ドン」とトラック運転席の屋根を叩いたので、トラックを止め窓を開け、「何?どうしたの」と聞くと、「今山が火を噴いた!」と叫んだ。慌ててトラックの荷台に上がり山を見ていると、ようやく明るみも増し、稜線もはっきりしてきた山の中腹から、突然モクモクと黒煙が立ち上り、中から稲妻が四方に走り、閃光と共に火山弾と思われる火の塊が噴き飛ぶのが見られた。噴火の瞬間であった。記録によると、この二回目の噴火は六月三十日午前三時四十五分のことであった。
噴煙は一段と勢いを増し、瞬く間に稜線を超え空高く昇り始めた。噴煙の迫力に四人はしばらく無言で山を眺めていた。

 周囲もすっかり明るくなったので、トラックの荷台を降り役場に向かった。役場に帰り着くと町職員の外、議員を始め町民の方々が大勢集まっていた。二階の大会議室の隣にあった議会事務局の東側の窓際に測量用のレベルを据え、代わる代わるこれをのぞき、神社の森越しに高く昇る噴煙の迫力に心配そうな声をあげていた。
 十勝岳噴火により一時中断していた工事も、この後噴火が落着きを見せ始めたので再度着工され、秋までに予定通り完成した。

掲載省略 写真〜十勝岳産業開発道路起工式
           (右側に立つのは海江田町長:昭和36年8月14日)

機関誌      郷土をさぐる(第28号)
2011年3月31日印刷      2011年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一