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昭和三十七年十勝岳噴火のとき
十勝岳大噴火の思い出

成田 政一 昭和六年四月二十三日生

 あの頃、私は町教育委員会の社会教育係兼ねて公民館職員として、木造の古い建物(旧島津農場事務所で、昭和二十七年秋より公民館事務所として利用)に勤務していた。
 昭和三十四年より公民館に併設していた上富良野町有線放送協会の有線電話装置が郡部地域の全戸と、町公共施設や町幹部職員宅及び農協幹部職員宅に設備され、町広報や町のできごとの定時放送と電話連絡等に利用されていた。公民館事務所の隣の部屋に基地局が置かれ、有線放送協会の職員が電話交換の業務を行っていた。夜は協会の男性職員と公民館男性職員が交代で宿直し、夜間の定時放送と電話交換業務を行っていた。

  掲載省略 写真〜昭和27年より教育委員会・公民館として利用していた建物
                (昭和34年より有線放送協会が入る)
  掲載省略 写真〜有線放送と電話機として活用された有線電話機。
                営農・地域の連絡網、防災にも役立った。
  掲載省略 写真〜有線放送機械室に装備された、放送機器と電話交換設備
 昭和三十七年六月二十九日(金曜日)私が当直を命じられ、午後七時からの定時放送を行って間もなく、旭野地区の農家の人から緊急電話あり、「十勝岳の方角から鳴動と小噴火が感じられた。どうしたらよいか?」と数名の方から電話連絡あり。私は、咄嗟に大正十五年の噴火泥流災害を思い出し「噴火の状況を判断し、高台に避難するように」といって電話を切り、一人で対処できないと思い、有線放送協会職員の応援を求めた。当時、教委職員で北海道新聞富良野支局上富良野地区通信員を嘱託されていた関係で、午後八時頃富良野支局へ「十勝岳の噴火活動が始まった」との一報を電話した。支局から記者が派遣されたので、有線放送業務を職員に託し、支局記者と暗闇の町の中を情報収集に走り回った。
 午後十時頃、白銀荘に宿泊の登山者救出に消防車が出動することの情報を聞き、支局の記者と小型バイクに乗り消防車の後を追った。途中旧旭野小学校(昭和三十七年三月三十一日で閉校し四月一日上富良野小学校に統合)の前で交通止めとなり、ここで登山者の救出に向かった消防車の帰りを待った。旧旭野小学校の校舎内には、十勝岳産業開発道路工事を担当の恵庭の施設大隊が、現地隊舎兼宿舎として利用していた。

  掲載省略 写真〜昭和37年6月30日午前3時30分ころ、市街西の高台より撮影
             (現在の見晴台公園付近)撮影提供/福田基久氏
  掲載省略 写真〜大正15年5月24日の大噴火で出来た噴火口(昭和37年6月29日
            の噴火で埋没し、この中で硫黄採掘作業に従事していた作業員5名が死亡した)
 十勝岳連峰の頂上付近の稜線がかすかに見え始めた午前二時四十五分頃、稜線の一角が盛り上がり始め、誰ともなしに『十勝岳が噴火し出した』と叫んだ。その頃、白銀荘に宿泊していた登山者が救出され旭野地区まで搬送されて、消防車に乗り換え市街地へ運ばれていった。噴火が激しくなり、雷鳴のような音とともに稲妻が走り、火柱の中に火山弾と思われる火の塊が噴出するのが見られた。道新富良野支局の記者と急いで下山することになり、記者はそのまま旭川支社へ取材記事を届けに行き、私は午前四時半ころ自宅に帰った。
 午前五時頃付近が騒がしくなり、外へ出て見ると噴煙が約一万数千mに達し、東から昇る太陽に照らされて黄金色に輝いていた。家に引き返しカメラを持ち出し、家の前(現在の「ケアハウスかみふらの」前辺り)から、当時では余り普及されていない「ネガカラーフイルム」を用いて撮影した。

  掲載省略 写真〜昭和37年6月30日午前5時20分ころ、町役場職員住宅前より撮影
            (現在の「ケアハウスかみふらの」前付近)撮影提供/成田政一

 朝食を済ませ急ぎ役場へ出勤すると、町職員を初め議員や関係者らが集まり、十勝岳噴火災害対策や七月一日(日曜日)に執行される「参議院議員通常選挙」投票業務の準備でごった返していた。
 噴火の勢いは治まらず、噴煙は偏西風に乗って北見、綱走方面に流れていき降灰もあったという。富良野地方、旭川方面には降灰は無かった。
 第十一投票所(公民館講堂)庶務担当の私は、翌日の選挙投票所造りに他の関係者と働いた。そんな中にも噴火の勢いは衰えず、真っ直ぐ立ち上がる噴煙の中に閃光が走り、雷鳴が響き携帯ラジオに「ガガガァー」と雑音が入っていた。六月三十日午後配達された夕刊には、大正火口(大正十五年五月二十四日の大噴火で出来た火口)付近で硫黄の採掘作業に従事していた作業員五名(内一名は行方不明者)の死亡が報じられていた。

  掲載省略 写真〜昭和37年6月30日午後2時ころ、東中溜池遊園地より眺められた、
           十勝岳噴火の状況(提供/東中金田治氏)
 掲載省略 写真〜昭和37年6月29日よりの噴火で出来た、62火口
           (上方が十勝岳頂上付近、=昭和46年頃上空より撮影)

 この噴火で、深さ約五〇〜六〇mあった大正火口は噴石土砂で完全に埋めつくされ、噴火前に十勝岳の頂上に通ずる登山道の真ん中に、六二火口が出現した。
 七月一日は朝から快晴で、参議院議員通常選挙投票が午前七時から行われ、島津地区住民や自衛隊駐屯地内に居住する隊員が、投票を行っていた。窓から眺められる十勝岳の噴火も幾分収まりかけ、灰色の噴煙が東の方へ流れていた。
 噴火は六月三十日正午過ぎまで続き、八月末まで小噴火を繰り返して終息した。

機関誌      郷土をさぐる(第28号)
2011年3月31日印刷      2011年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一