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八町内大火の追憶

  大森 金男 昭和七年四月一日生

火災が起きた最初の状況
 終戦から四年目を迎えようやく復興の兆しが見えて来た昭和二十四年六月十日、上富良野で歴史に残る大火災が発生した。
 あの忌まわしい八町内の大火災から六十年、火災としての還暦も過ぎている。私の脳血管はかなり白くなっているが、思い出して書いてみたいと思う。
 当時、私の勤務していた農林省食糧事務所からみると、農協の事務所辺りから北の方に向かって真っ黒い煙がもこもこと立ち上り、すぐに火柱も吹き上がった。南方からの風が強く黒煙も火柱も草分部落方向に流れている。
 事務所職員の人に『火事です。一寸行ってみます!』机上の書類をザーと急ぎ片付けた。現在の丸運会社の建っている横手の道を北方向に向かい、正面に見える倉庫の方へ走る。左へ曲がると農協事務所前を通り大通りだ。
 その辺りの十字路は被災者や野次馬で右往左往……。殆ど怒鳴り声や叫び声で敬語は使われない。
始めはたぶん大通り辺りが、次から次へと順序よく火の手が移ると思っていたが、火の手は三軒も四軒も離れている所の屋根に飛び火し、醤油工場や鉄工場に火の手が上がった。
政府指定倉庫
 当時は、主要食糧の全部が政府買入であった。生産された農産物は翌年の種子、自家用食糧は別である。
 農協の醤油工場や鉄工場の火の手が大きくなると、「ああもう駄目だ!政府指定倉庫が危ない。」当時の指定倉庫には殆どの穀物は政府所有物であり、まだ食糧不足時代なので「素破大変だ。一番東側の鉄板張壁の倉庫保管物品を持ち出せ」と、食糧事務所上富良野村出張所長の大声が響く。
 倉庫構造は東側と南側の二箇所に出入口がある。この倉庫には燕麦が保管されていて殆ど満杯の状態だ、所長の指示で燕麦俵の出庫が始められた。
 近くにいた人達もすごい勢いでの出庫を始めた。
 消防自動車による消火活動はあまりの大火事であり期待できない。鉄道線路と倉庫との間は忽ち燕麦俵の山積となる。私も夢中で持ち出しをする。
 今思うと六十年前のあの馬力は何処にいったのか?
褒賞物資
 この倉庫の燕麦俵の併高は十五か十六段位であったろう。上段から庫外持ち出していると何段か堀り上げた下方から、燕麦俵以外の物が現れた。それは進駐軍と同じ軍服か作業衣の上下らしい。その塀の穴には白地の布地もあり、高さにすると何メートルあったか、かなり底の方まで衣類はあったようだ。

  掲載省略 写真〜消失した農協醤油工場倉庫跡地
     図〜八町内大火罹災区域表(上川南部消防事務組合資料より)

 たぶん係の職員だろうが死に物狂いでその衣類を持ち出し南側の扉を開き、東側出入口からの作業員には目立たないような姿を保っている。
 その頃所長は大声で私を呼んでいる。所長の方へ行くや、「すぐ郵便局へ行き札幌にある食糧事務所本所と旭川支所へ火災の状況、政府物品の今の状況を報告するよう」命ぜられる。私は自転車に乗り全速で郵便局へ向かう。
電話で食糧特急
 当時の市外電話は普通報と料金二倍の至急報、料金三倍の特急報があった。私は政府食糧の火災状況を上部機関に報告するので特急報での申込みをした。
 私の話を聞いていた代理さんらしき人が窓口へ来て、今日まで一度も使ったことないが、特急報より早い食糧特急電話のあることを説明してくれたので、一分一秒でも早く報告すべきと考え、上富良野で初めて食糧特急電話を活用させてもらう。現在では電話はすぐ話せるものだが、当時は二十分、三十分の待ち時間があったものだ。
 火災状況を本所と支所へ報告、両所共明日現地へ向かう旨の回答を受け、所長に結果を報告する。
 火災は鎮まるどころか段々大きくなり、角にある燕麦倉庫の北側隣にある赤レンガ倉庫には満庫状態で米が保管されており危ない!倉庫の梁近くにある金網の入ったガラスに高温の火で波のようにヒビが入り始める。屋根は付近の建物に比べ高く、又屋根には土も乗せてあるらしい造りだが、焦げているようだと案じながらも、素人には如何ともすることも出来ず、ただ見守るばかりでした。
 再度所長命令が発せられ、「倉庫から出荷した物品を盗難されぬよう見張りをしておるように」との事でした。たぶん午後の十時頃だったと思いますが所長、農協、役場幹部が来て、「見張り役を交替するので帰宅して下さい」との事でした。
 私は、翌朝出勤前に火災倉庫から出荷した物品の積んであった現場に行ったが、全く影も形も無い有様でした。所長に聞いてみたところ、「安全な場所へ仮保管してあるから心配はいらない」と云われ、疑義に感じながらも隠匿などの想像なきにしもあらずで、六十年の追憶を記しました。
 火災発生は昭和二十四年六月十日午後四時十五分、消火は午後七時三十分で、個別毎に持ち出しした物品の数などは、保存書類に記録はありませんとのことが、消防署の調べで確認されています。
 当時の新聞記事によると、火災状況について次のように報じている。
 「風速二十メートルにあおられ、農協倉庫が四棟、同味噌醤油製造工場、同製粉精米工場、同鉄工場、同澱粉工場、分部木工場、西野目澱粉工場、北海道製材工業株式会社制縄工場のほか民家四十八戸を全焼した。農協倉庫保管中の燕麦一万俵、米五百俵、じゃが芋一千俵、大豆一千二百俵が消失し、家畜では牛一頭、豚八十頭、綿羊二十五頭が焼死した。損害額は一億五千万円、被災者二百六名はとりあえず公会堂、大雄寺に収容された。」
資 料
―新聞記事をめぐって―
 昭和五十七年三月二十五日、上富良野消防団創設七十周年記念事業協賛会が発行した上富良野消防団七十周年記念誌「上富良野消防のあゆみ」の災害記録(火災)に、市街地八町内大火として記述している中で、新聞記事に関する出来事に触れている。昭和二十四年六月十二日の新聞記事と昭和廿四年六月拾八日の上富良野村公文書の依頼状原稿の写しがこの間の経緯を知る資料として掲載されている。
 新聞記事は、見出しが「工場民家焼く上富良野」ではじまり、「十日午後三時半ごろ空知郡上富良野村市街地 … ―中略 ―」と記事は続き、次いで「消防は不在中」の小見出しで、「原因はなおはつきりしないが当日村の消防車が富良野に出張中のため消防の遅れたのと干天続きで乾燥しきつた上に水利の不便から大事に至つたものである」と書かれている。
―新聞社への依頼状の全文(原稿)―
  昭和廿四年六月拾八日
         空知郡上富良野村長 田中勝次郎

  毎日新聞社北海道総局御中

    新聞掲載記事の取消方について
 去る十日当村火災に関する記事を拝見しますと「消防は不在中」の見出の下に記事の掲載しあるは誠に遺憾に存ずる次第で当日自家の焼けるのも顧ず消火に努めた消防団員に対し全く申訳ない次第で当団の実情を述べますと当消防団は常備を設置してゐない為、各生業を持った者で編成してあり当日は不幸にして電休日の為、団員に連絡の唯一の機関たる「サイレン」を鳴呼することが出来ず警鐘及び口達で連絡した為消防団員(車)の出動より附近住民の駆けつけたる者の早い者の中よりの言でかヽる記事が掲載されたるものと思考するので貴社に於いても実情を御賢察下され十二日の貴新聞で発表の記事の訂正を同一大きさの活字で報導されると共に掲載期日を当役場宛御一報願ひたく右取急ぎ御依頼申上げます

 このように訂正記事の掲載を求める村長名の依頼状が新聞社へ出されている。
―電休日と停電 ―
 明治になって文明開化の進展により電気が普及したが十分とは言えず、特に昭和二十年代は戦後の復興期で産業の興隆などから電力の需要が多く、発電施設が乏しく電気の供給が追い付かないことから深刻な電力不足があり、地域とか期日を決めて電力の供給を休止したもので、電源開発などの結果によって電力が安定供給されるまでの間、全国各地で恒常的に実施された。
(編集委員 三原康敬記)

機関誌      郷土をさぐる(第28号)
2011年3月31日印刷      2011年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一