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上富良野町農業協同組合
三億円大騒動

荻野昭一 昭和三年生れ(八十三歳)

一、あれから四十年
 組織の最大の恥部をさらけ出したあのいまわしい事件から何時しか四十年の歳月が流れた。
 上富良野町農業協同組合(以下農協)の再建に関わった人達や、一連の事件の関係者の多くがすでに他界され、当時の記憶も薄れて忘れ去られようとしている時に、過去の事件に触れることには賛否両論があり、記事にするまでにかなりの戸惑いがあった。
 平成十三年に富良野沿線六農協が合併し富良野農協が誕生した今では、昭和四十五年に起きた上富良野農協の三億円事件の実情を知る人も殆ど居なくなり、私も高齢となってパソコンに向かう気力も次第に失せ、この機会を逃せば永久に疑問を残したまま多くの組合員や役職員の当時の労苦に報いる事が出来なくなるとの思いで重い腰を上げる気になった。
 私の手元には当時の日記帳とメモ帳、業務報告書など、埃をかぶりながら大事に保管されており、事件の経過や会議での発言、裁判の記録など断片的ながらその概要を知ることが出来る。一部不確かな部分もあるが当時を回顧しながら記してみる。

  掲載省略 写真〜当時の上富良野農業協同組合
二、事件の発覚
 昭和四十五年五月二日、私は農協東中支所に勤務していた。朝礼が終わって間もなく本所の管理部長から「職員の中に相場で大損をして農協の金を使っている人がいるようだとの情報があるので調べて欲しい」と電話があった。早速本所へ行って部長と協議。経理課長が怪しいということで、気付かれない様にして決算関係の書類を持ち出し、東中支所で調査を開始した。

  掲載省略 写真〜当時の農協東中支所

 私の直感では、課長が株式か相場に投資している様子だったので、彼が公金に手をつけるとすれば預金か国債を転用するしかないと思い、まず国債の現物確認を行い、次に預金勘定の精査をしたところ、預け先の北信連の定期預金五千万円が二件架空に計上されていることが分かり、北信連にも確認した上で部長に報告した。
 当日は土曜日で、連合会は半ドンのため信連の支所長に午後も待機して頂くようお顔いし、私も本所へ急行したところ、部長は「三億円もやられている、今彼が全部自供した」と蒼ざめた表情で語った。
彼は部長に対し、はじめ不正を否定したが預金の不具合を突きつけられて観念し、二億九千三百三十万円と末尾の数字まで明確な金額を答えたという。
三、組合の対応
 時計は十一時を過ぎたところで職場は大騒動となった。突然の話題に、火山が爆発したような大混乱となった。
 石川清一組合長は早速幹部職員を集めて対応策を協議、まず警察に届出、中央会や信連にも報告して緊急役員会を開いた。

  掲載省略 写真〜執務中の石川清一組合長

 事件の内容を早急に組合員に知らせることが先決と、配布用の印刷物を作り、翌三日全職員を動員して組合員各戸にお詫びをしながら配布した。
 五月四日に緊急総代協議会を開催、組合長の謝罪の言葉と事件の経過の報告がなされたが、総代からは次のような発言があった。
 「小切手の取り扱いに慎重を欠いていた」
 「小切手発行にかかわる部長の責任は重大だ」
 「事後のチェックをしなかったのか」
 「長期の担当で人事異動が不適切だった」
 「この際各部所を綿密に調査せよ」
 「中央会の監査が適正でない」
 「監事の定例及び決算監査に落ち度があり責任が有る」
 「組合の再建方策をどのように考えているか」
 「相場に手を出す職員がいるようだが即刻やめさせるべきだ」
 「全貌が明らかになった時点で総会を開き組合員の意見を聞け」「思想的精神的混乱が生じないよう役員は対策を講ぜよ」

 総体的に、常勤役員や幹部職員に対する厳しい責任追及や、指導機関の検査や自治監査の甘さの指摘の後、莫大な財務の欠陥への早期の対応など、再建に向かって速やかに具体策を示すことが先決との結論を得た。
 昭和四十四年四月に合併して間もない旧東中農協の関係者や組合員の憤りは爆発寸前であった。
 当時余裕金は五億円足らずで、三億円の欠損はまさに致命的な打撃であった。
 常識的には組織が破滅の巨額である。職員も動揺して精神的に不安定な様相があり、私も事の重大さに受けた衝撃は大きかったが、表面は明るく振舞って積極的に事後処理に当たっていた。
 事件の報道により最も心配したのが貯金の取り付け騒動だった。四日の月曜日には通常の払い戻し準備金の五倍を用意したが、目だった払い戻しもなく、安堵した。しかし、組合員の怒りの声は日増しに高まり、この先の成り行きが非常に憂慮さるべき事態となった。
四、不正の手口
 一般的には取引が発生した都度伝票が発行され、証拠書類とともに職務権限による上司の決裁を受け、現金の入出金や小切手の発行がなされる。経理課長は当座預金の取引など、経理伝票を起票する頻度が多く権限もあった。
 課長は架空の預金積み増しや、借入金の返済などの取引を捏造し、部長の不在を見計らって自分で組合長職印を押印して不正に小切手を入手したと推察される。
 通常問屋の支払などは百万円未満で、高額小切手が当座預金から引き落とされた時点で疑念を抱き、内容の検証が出来なかったのか、残念な事態だが、見られたくない書類を巧みに隠蔽して長年発覚を免れていたものと思われる。
 かくして昭和四十一年より四年間に数十回に及ぶ架空取引により、初年度百万円、次年度八千万円、四十三年度一億八百万円、四十四年度二億九千三百三十万円の粉飾が決算書に計上されていた。
 彼は、この小切手を主としてカネツ商事の穀物先物取引の証拠金として投資し、損金を挽回しようと更に金額を倍増してますます深みにのめりこんでいった。この取引は儲からない仕組みになっていたことが後の裁判の傍聴で分かった。
 彼は、警察の取り調べの時点でカネツ商事のH外務員に四十三年頃より不正を見抜かれ、弱みにつけこまれた状態だったことを明かしたが、H外務員に対する教唆の刑事立件には至らず、後の民事訴訟でその全容が明らかにされた。
五、疑 問
 こんな高額な不正がなぜ見過ごされたのか、これは共通した疑問である。
 一言でいえば管理機能の不備に尽きる。参事は四十三年に定年退職後空席となっていた。組織は管理・金融・販売・購買・営農部門に別れそれぞれに部長がいた。
 管理部長の配下に経理課長がいて、彼はすでに異動の時期だったが、人柄も温厚で頭脳明晰仕事が良く出来たので重宝な存在で、部長の信頼する片腕だったに違いない。
 しかし、この事件は小切手発行の検証決裁が職務権限を逸脱して数十回にわたり継続されたもので、事後の検証も勘定報告書など、毎日送られてくる書類に目を通していれば異常を発見し不正を見抜かれたと思う。又上司不在の日常の取引伝票も、事後決裁によって検証可能となるが、本人はそんな事まで読んで予防線を張っていたと察せられる。
 監事による定例監査、行政庁の検査、中央会の検査など業務や会計に関わる検査が専門家によって定期的に行われながら、その都度残高証明などを改ざんし不正を巧みに隠蔽し、検査の目を逃れていたが、常識では考えられない巨額の不正を何時まで隠しきれると思っていたか、お金に対する神経が麻痺していたとしか言いようがない。人事異動が適期に行われていれば、忽ち発覚し得た事件である。
六、事件の全容調査
 事件の発生はその日のうちに全国ニュースとなって報道された。刑事が聞き取りに来たが本人逮捕は翌日となった。組合は捜査に全面協力することを約束し、関係帳簿の押収を一時留保してもらい不正伝票の調査に入った。
 係長以上の職員は過去四年間の伝票から彼が関与したすべての取引を抜き出し事件の全容解明にとりかかった。信連と中央会の幹部も応援して頂き伝票の精査が始まり、不正の判定は最終的に私の仕事になった。夜半まで調べた資料を翌日警察に届け、取調べの段階で確認し裏付けしていく、そんな作業が五日ほど続いて最後に十万円が不明だったが、彼に見てもらって全容調査が終了。私が毎日刑事室に通うものだから、周囲の人から「二人目の犯人がまもなく逮捕」と噂され苦笑したものだ。

  掲載省略 新聞スクラップ〜不正発覚記事の一部

七、彼の横顔
 彼は好青年で頭もよく、私とは無二の親友だった。酒を飲んだり夜の街を出歩くことは殆どなく、お互いの家を行ったり来たりしてマージャンを楽しむことが多かった。
 昭和二十六年頃、彼は農協学校の教習を終えて職場に復帰し、経理の競技会に出ようと誘われた。
 何の勉強もしないで出場して団体三位になった。それがきっかけで毎年経理競技会に出場、管内で優勝して全道大会まで何回か出してもらい、刺激を受けた後輩たちも毎年上位入賞で、一躍上富農協が有名になったが、この事件で逆に汚名を着る羽目になった。
 温厚で怒った顔は見たことがない。部下の面倒をみて仕事熱心、経理は堪能で上司の信望は厚かった。事件の二年ほど前に自宅を新築したが、普段の生活に全く派手なところは無く、大金を動かしている素振りなど全然感じ取れなかった。
 そんな彼の事件の調査を担当しなければならない立場を切なく感じることもあった。
八、臨時総代会
 理事会は事件の責任を取って全員総辞職を決めていたが、組織の再建方策を早急に纏める責任もあった。
 事件発覚後の五月二十一日には臨時総代会が開催され、事件の詳細報告と今後の対応について協議。出席した総代は九十二%と関心の深さを物語っていた。事件後まだ日も浅く再建の具体案は示されず、役員が責任を取って総辞職し、再建委員会を設置して組合再建の方策を樹立する案が提案された。総代の当日の主な発言をメモ帳から拾ってみた。

 「役員の進退は総会で決めるべきだ」
 「組織に欠陥があり長年発見できなかった。改善点や対策を考えているか」
 「関係機関の再三の調査でも不正を見抜かれなかった、中央会の責任は重い」
 「今回の事件について三役の責任は重大である、弁明せよ」
 「歴代代表監事は責任をどう感じるか」
 「農家の負担に頼れば再建できるという安易な考え方なのか」
 「企業として今後の対応策をどのように取り組むのか」
 「上司不在のときの権限委譲に問題がある」
 「職印の管理が非常にお粗末である」
 「管理職が事後の検証を怠ったのが主因である」
 「再建委員の選任は総会で行うべきだ」
 「再建について理事者は見通しをつけて提案するまで責任がある」
 「欠損の処理案が先決だ、再建のメドをつけてから委員会を構成すべきだ」
 「早急に委員を選任し、動揺している人心を安定させよう」
 「事の成り行きを組合員に十分浸透させる努力が必要だ」

 結局役員の辞任は認められず、再建委員会を構成して早期に再建の具体策を示すことに結論付けられた。
九、再建特別委員会
 総代会の後早急に再建委員の選任が始まり、一週間後の五月二十八日第一回の委員会が開催された。委員は二十六名で構成され、委員長に谷与吉氏、副委員長に林義雄、多田良雄の両氏を選任して再建に関わる諸問題解決に取り組み、再建特別委員会と呼ばれた。
 会議は八月上旬まで十二回開かれ、連日の開催や協議が夜の九時まで続いたこともあって委員の皆さんも大変な苦労があった。
 私は六月に管理部長となり事務局として会議の議案を作り、毎回同席し審議の内容を議事録に残し、一方で理事会も数繁く開催されたので、双方の会議の整理だけでも膨大な事務量となった。
 おまけに刑事の聞き取りや刑事裁判の対応、そして一般日常業務、諸規定の再整備、再建の具体案策定など、休日も夜半まで仕事に忙殺された。
 再建特別委員会の意見と、理事会の意見は必ずしも一致せず、特に役員の弁済金では個人の考えを強く主張する人も居て調整するのにかなりの日数を要した。
 七月末の時点で総会に提案する原案が中央会の指導もあり次のようにまとまった。

(一)損失処理の考え方(図の損失処理案)。
(二)資金欠陥を補うため組合員から再建基金の積み立てを願う。
  出資一口当たり二百円。田反当千五百円。畑反当六百円。
  総額一億二百九十一万三千円。
(三)関係機関に対し低利資金の導入ないし利子補給の要請。
(四)具体的再建計画は次期総会までに樹立する。

 このほか、再建の基本方針として次の項目が盛り込まれた。

 経営管理体制の強化。
 内部統制の整備強化。
 自治監査の徹底。
 民事訴訟の積極推進。
 役職員の経営責任の自覚。
 事業収支の改善と経費の削減。
 財務の立て直し。
 遊休資産の売却処分。

 事件当時の役員は、七月二十四日付けで全員辞任、再建特別委員会が理事会と意見調整し、中央会の指導を受けながら策定した「再建整備基本計画事案」は八月八日の臨時総会に提案された。
損失処理案(千円)
損失総額 293,300
1 弁済及び賠償 47,980
内 訳 本人の財産処分 3,780
身元保証人 6,600
役員弁済金 36,600
上司職員 1,000
2 内部留保積立金取り崩し 239,320
3 カネツ商事に対し弁済訴訟提起 190,260
4 残額は年次事業利益 補填
 再建特別委員の方たちは、この後も積極的に運営に協力し、部落別懇談会にも同席して組合員の協力を求めるなど、理事者を側面から支援し、貴重な存在を示した。
 再建特別委員の方々は町の公職者や地域の名士が多く、常識に長けて信望の厚い方ばかりが選任されていたから、委員会の審議も広範囲にわたり慎重な議事の進行が見られた。
 民事訴訟の提起に当たり、複数の弁護士の意見を聞くなど、周到な準備を怠らず常に組合員の立場に立って物事を進め、責任を果たしてゆく態度は非常に参考になり頼もしかった。
 再建特別委員会が最も苦労したのが役員の弁済金だった。理事会は責任を明確にして応分の負担を覚悟していたが、中央会の指導もあり総額参千六百六拾万円の負担は厳しい金額であった。石川組合長千五百万円、中西専務五百万円、一般役員も八十六万からの分担案が確定するまで、理事会と再建特別委員会がこの問題だけでかなりの日数を費やし、激論が続いた。
十、新体制の誕生
 昭和四十五年八月八日、事件後初めての臨時総会が開催された。朝九時に始まった総会は延々十八時まで続き、役職員に対する責任追及や、実質一戸平均三十万円の損失負担に対し、激しい憤りと不満が表明される重苦しい会議であった。
 再建整備五カ年計画が採決され、役員の改選が行なわれた。当時の選挙は立候補制ではなく正組合員一般から選出される仕組みで、開票結果は表の通り。
監事の選挙
氏名 票数
田中 一米 198
高士 茂雄 197
多田 良雄 181
三熊由五郎 160
西村 教導 151
  散票 41
  無効票 140
理事の選挙
氏名 票数
岩崎久二男 71
大谷 利七 65
谷口 久次 61
上村  勇 60
二瓶  諭 59
高橋 重雄 53
新星 政一 50
伊藤武三郎 50
巽   清 48
深谷 栄治 46
船引 定雄 44
高木 信一 43
佐藤 新輔 43
岡和 田一 43
菅野  學 41
中沢 勝雄 39
竹内 正夫 38
菊地 建蔵 36
藤沢 直幸 35
白井  清 22
石川 清一 19
  中西 覚蔵 15
 八月十三日の理事会において互選の結果、組合長理事に高木信一氏。専務理事に菅野學氏。代表監事高士茂雄氏を選任し経営陣の新体制が決まり清新な船出となったが、その前途には難しい問題が山積し荒波の航海が始まった。
 高木組合長は、温厚篤実まさに謹厳居士で、曲がったことは大嫌い、筋を通す人で組合員からの信望も厚く、組合再建の大事業を任せるにふさわしい人柄だった。
 菅野専務は次期に組合長になり、後に上富良野町長となった博学の大人物で、トップは緊張の心を常に維持しながら周囲の意見も尊重して経営にあたったので、対外的にも高い評価を得ていた。

  掲載省略 新聞スクラップ〜再建に向けての記事の一部
十一、刑事裁判
 刑事事件の取調べも順調に進み六月二十六日に第一回の裁判が始まった。
弁護は官選弁護人で、弁護士が付いているというだけで、被告を擁護するような発言を聞いたことがなかった。
 私はすべての公判を傍聴したが、カネツ商事の関係者も常時傍聴し、毎回二十名くらいの人が傍聴に来ていた。公判は毎回一時間前後で、彼は起訴事実をすべて認めていたので、検事の論告どうり審理は順調に進み、石川組合長の証人喚問を含め第五回の公判で、検事が懲役七年を求刑して結審し、十二月十五日裁判長は懲役六年(未決通算二百日)の判決を言い渡して刑が確定した。
 彼は減刑を受け、五年余の刑期を終えた後新しい家庭を築き、その後立派に更生して、後の民事訴訟には証人として出廷、農協に有利な情報を証言した。
十二、民事訴訟
 昭和四十三年から四十四年にかけ不正の持ち出しが急増したのは、それなりの理由があった。
四十三年、損金が累増して身動きが取れなくなり、彼は一時取引を中断していた。そんな或る日、カネツ商事のH外務員から電話があり、「あなたは多額の損失を抱えているが相場で取り返す以外に道はないだろう、俺が味方になって応援するからやってみないか」と暗に不正を暴露するような勧誘があった。(本人の供述)
 弱みに付け込まれた彼は外務員の言われるまま取引を再開、金銭感覚が麻痺して高額小切手を単なる紙切れの如く乱発することになった。
 事件発覚後間もなく札幌の藤本弁護士から問い合わせがあり、カネツ商事に対し不法行為の立件が可能と思われるので詳細を聞かせて欲しいとのことで藤本氏に来所願い、理事会で説明を聞いたが、藤本氏は民事の専門家で正義の味方といわれる温厚な方で、この種の事件を手がけていたので、再建委員会にも議論研究をお願いし、委員会はさらに旭川の弁護士にも相談して最終的に提訴に踏み切った。
 金額はカネツ商事の取引が始まってからの全額は一億九千二十六万円で、約一年半で十七件の高額小切手が、不正に入手されたものと疑うことなく農協に問いただすこともなく取引を続けたことが、民法の不法行為に当たるというもので、昭和四十六年の六月から札幌地裁で審理が始まった。
 公判は十九回、五年間に及び、昭和五十一年三月十三日判決が言い渡された。

―判決の概要 ―
(一)不法行為
 カネツ商事の外務員は十七通の莫大な金額の小切手が不正に取得されたのではないかと疑うことなく、漫然と交付を受けたことは重大な過失である。
 農協に問いただすとか未然防止の注意義務違反は民法七百九条の不法行為である。
(二)使用者責任
 被告会社は民法七百十五条の使用者責任により損害賠償の義務がある。
(三)農協の過失
 職務権限が守られていなかった。
 監事監査が適正に行われていれば不正は発見できた。これらを怠った過失は重大であり過失相殺を六割と認定する。
(四)結論
 カネツは実害額の四割を支払え。遅延損害金は年五%で支払え。訴訟費用は三対二で、原告の負担を三とする。以上、七千六百万円余の賠償が決まりカネツの会社責任が確定されたことは、一応勝訴と解釈される。しかし、カネツ側は翌日直ちに高裁に上告したので農協は十九日理事会で対応を協議。二十四日には弁護士を交えて再建特別委員会の協議を行い、札幌高裁に付帯控訴をした。双方とも過失相殺の減額が争点となった。高裁では五年の年月を要したが、和解提案となり、昭和五十六年十月二日カネツが八千二百万円を支払うことで和解が成立。最後に相手側弁護士から「長期にわたりご迷惑をかけて申し訳ありません」とお詫びの言葉があった。それにしても裁判とはずいぶん日数のかかるものだった。
 裁判費用は、弁護士着手金、訴状印紙代など一審百十四万円。二審百二万円。弁護士成功報酬は八百万円であった。
 裁判の終結により農協は十一月二十七日臨時総代会を開き、結果報告と和解金の処理について協議した。この臨時収入を決算時の利益配当とし、配当は個々の出資金に振り替えることを議決した。
 又、高額の弁済に協力いただいた方々にその一部を減免する措置がとられた。
十三、巨額欠損金の解消
 事件発覚当初三億円という巨額の欠損金が発生したが、本人、身元保証人の弁償、役職員の弁済、幹部職員百万円、一般職員も百万円を拠出し内部積立金の取り崩しなどによって、二億五百万円余が未処理欠損金として残った。
 当時は景気が上昇中で、農協の事業も組合員の団結によって好調に推移し、特に金融部門は設備投資による資金需要が旺盛で高収益を確保、購買販売事業も系統利用の意思が結集されて年々業績は塗り替えられた。(図一)
 年度別の当期利益金は(図二)の通りで、昭和四十九年度末には欠損金がすべて解消した。
図1 年度別の当期利益金
S45年度 1,913万円
S46年度 1,995万円
S47年度 2,063万円
S48年度 5,093万円
S49年度 8,956万円
図2 業務報告書による5年ごとの業績の推移
項目 S45 S50 S55
預金 5.6億円 9.6億円 17.4億円
貯金 13.9億円 31.9億円 59.1億円
貸付金 20.7億円 41.1億円 99.4億円
販売高 16.2億円 38.3億円 53.4億円
購買売上 13.4億円 37.7億円 43.6億円
出資金 1.8億円 3.3億円 5.3億円
職員数 151名 151名 158名
給与の総額 1億500万円 3億1,500万円 5億600万円
年次利益 1,913万円 4,415万円 7,227万円
組合員戸数 1010戸 910戸 861戸
10年間の経済変動は3倍以上となっている。
十四、農協の再生と発展
 昭和五十年までの再建五カ年計画は、一年前倒しで達成できたが、このことは組合員の団結の一語に尽きる。厳しい経済情勢の中一億円の再建基金の積み立てを早期に達成し、出資金の増口にも即刻対応し一致団結して農協の欠陥を支えてきた。
 組合員個々にその体力があったからこそ成し得たと言えよう。
 農協の作目別部会や青年部、女性部などが有機的に機能したし、農事組合長も資材のとりまとめなど、煩雑な作業を快く引き受けた。当時の若手中堅組合員が時代の変遷で、現在の農協経営を担って活躍しているのである。
 しかし、業績が好調のときは配当として受け取るべき部分が欠損の穴埋めに当てられたことは事実で、一戸当たり二十万円の負担は組合員の実損である。
 また役職員の努力も評価さるべき点が多い。
 事件当初の役員は多額の弁済金を背負い再建の先鋒となって協力した。石川組合長は千五百万円という高額な弁償を承知した。昭和四十三年四月に合併して間もない東中地区の役員も、寝耳に水の災難としか言いようがない、誠に気の毒な事態に力を貸していただいた。
 事件後に就任した役員は、農協体質の改善に取り組み、夏冬二回の部落懇談会を組合員との密着と意志疎通の場ととらえ、業績の伸長に力を注いだ。
 特に高木組合長、菅野専務のコンビは、組合員の結束に好影響を及ぼす存在だった。再建途上にありながら、昭和四十五年のライスセンター建設をはじめ、野菜集出荷施設の整備、共同利用大型農機具の導入など、組合員が必要とする設備投資を年次計画の下に着々と進め、生産物の付加価値を高める施策を積極的に展開した。
 職員も努力した。外務活動を重点的に進めて親しく組合員に接し、業績の伸長に貢献した。若手や女子職員もよく実務の勉強をし、経理競技会や職員資格認定試験に挑戦する者も多く、先輩の悪い点を改め、私の後輩は皆先輩をしのぐ立派な職員に育った。平成十三年に合併した富良野農協でも重要な地位を担当している現状を見ても、また退職後の社会活動を見ても証明される事実である。
十五、むすびにあたり
 この様に三億円という巨額の欠損金は組合員を始め役職員や関係機関の努力により解決をみた。
 四十年の歳月が流れ、全国農協史上最大と言われた事件が、いまだに昨日のように思い出される。
 この問題で特に貢献された諸氏に対し、感謝の気持ちを込め本誌編集委員の田中正人氏の協力を得て、個々の活躍を次にて紹介したい。紙面の都合もあり秘話や裏話、まだまだ紹介したい役職員も多数いるが割愛した。
 当時筆舌に尽くしがたい苦労をされた関係者の皆さんや、組合員の皆さんの努力に、心から感謝を申し上げ筆をとどめます。なお、文中説明不足の部分、事実と異なる点があればご指摘ご指導をお願い致します。
石川清一氏

 明治三十九年七月上富良野村東七線北一八号に生れる。大正十五年騎兵隊第二中隊に入隊。昭和六年結婚。昭和二十二年三月道議会議員当選。昭和二十三年二月上富良野農業協同組合が発足、組合長理事に選任された。翌年六月十日の上富良野市街地八町内の大火により農機具修理工場をはじめとする組合施設の大部分が焼失。苦難の船出となった。以後、東中農協との合併を含め、昭和四十五年迄二十三年間にわたり農協組合長理事。昭和二十三年上川地区農業協同組合連合会創立初代会長。昭和二十三年農地委員会会長。昭和二十五年六月参議院議員当選。昭和三十一年より北海道農村連盟委員長連続九期。昭和四十四年北農総連初代委員長。昭和三十二年中央会副会長、上川生産連会長等の要職にあった。
 農協三億円不祥事事件を契機に公職から身を引いていたが、昭和四十七年上富良野町文化財保護委員会が設置され初代委員長。昭和四十八年深山峠新四国八十八ヶ所移駐期成会長として深山峠の霊場開創に尽力。昭和五十年深山峠新四国八十八ヶ所霊場奉讃会会長。

―表彰等 ―
 昭和五十一年八月三十一日逝去。享年七十才。同年正五位勲三等旭日中綬章受賞。同年名誉町民。町と農協による合同葬執行。
谷 與吉氏

 明治四十四年富山県下新川郡田家村窪野に生れる。大正二年両親と共に上富良野町草分に移転。大正十三年より農業に従事。同十五年の十勝岳の大爆発に遭遇。昭和二年に島津へ転居。昭和七年旭川歩兵二十八連隊機関銃中隊に入隊し、三度の召集を受ける。昭和十二年結婚。敗戦後の昭和二十年帰町後農業に従事。昭和二十三年食糧調整委員(現・農業委員)、昭和三十三年草分地区改良区理事に就任、昭和五十三年迄歴任。昭和三十四年町議会議員初当選。昭和三十六年初代の農民協議会(農民連盟の前進)執行委員長を二期四年歴任。昭和四十五年に農協三億事件の再建特別委員長として農協不祥事事件を解決。昭和四十九年国道二百三十七号線バイパス特別対策委員長。昭和五十年町議会八代議長に就任し昭和五十四年退任。公職を辞しての晩年は渡米二度、グアム島を来訪し見聞を広げる。平成十七年五月二日逝去。享年九十四才。

―表彰等 ―
 昭和四十九年全道町村議長会賞。昭和五十年全国町村議長会賞。昭和五十四年上富良野町自治功労表彰。昭和五十六年北海道土地改良事業団体連合会功労表彰。平成八年議会活動の功績が認められ勲五等瑞宝章受賞。
高木信一氏

 明治四十五年六月富山県永見郡佛生寺村字鞍骨にて生れる。大正十二年夕張町丁東小学校を卒業。同年中富良野町に転住。大正十五年上富良野村東五線北二十号に移住。昭和三十四年より昭和四十三年迄東中農業協同組合理事として上富良野・束中両農協合併実現に尽力。昭和三十八年より昭四十七年迄の十年間農業委員会委員。昭和四十五年より上富良野町農業協同組合長として組織の育成と事業の促進を図りつつ、農協不祥事事件を解決させた。
 昭和四十九年より富良野地区農業共済組合理事六年間。農協組合長理事退任後も上富良野町農業大学の学長として農業者の育成に努力。農協年金友の会会長。農協協友会会長として活躍した。農事調停委員など公職多数歴任。平成四年六月十五日逝去。享年八十一才。

―表彰等 ―
 昭和五十三年北海道報徳社小林賞受賞。昭和五十四年上富良野町自治功労表彰。昭和五十七年北海道農業の振興発展に貢献したとして北海道産業貢献賞受賞。昭和六十年北海道より花嫁対策貢献賞。昭和六十三年農協名誉組合員。
菅野 學氏

 大正十三年上富良野村西十二線北三十六号にて生れる。昭和十八年十月十九年三月末日里仁国民学校教員。昭和十九年満州七二八部隊入隊。終戦シベリアに抑留され昭和二十四年帰還。昭和二十七年上富良野町農協青年部長。昭和三十一年上富良野農民同盟書記長。昭和二十九年里仁小学校同窓会長。昭和四十一年より農協理事。昭和四十五年農協専務理事。昭和五十四年から平成四年十二月まで農協組合長理事。上川生産連理事。北海道信用農業協同組合連合会理事。ホクレン農業協同組合連合会理事。厚生連監事等歴任し平成四年退任。昭和六十年には農協事務所研修施設を落成させる。平成四年上富良野町長。平成八年二期目を目指した町長選挙ではまれに見る激戦となり対立候補の尾岸孝雄氏に僅か十票差で破れた。

―表彰等 ―
 昭和六十三年北海道農協中央会より農協功労表彰受賞。平成二年北海道産業貢献賞受賞。平成六年上富良野町農業協同組合より名誉組合員の称号を受ける。平成九年上富良野町自治功労表彰。平成十一年名誉町民に推挙。
参考資料
組合の歩み 上富良野町農業協同組合
組合五十年の歩み 上富良野町農業協同組合
かみふらの農協だより 上富良野町農業協同組合
石川清一 上富良野町農業協同組合
上富良野町史 上富良野町
上富良野町百年史 上富良野町
島津百年の歩み 島津住民会
谷與吉八十年の歩み 谷 與吉
里仁為美 里仁住民会
北海タイムス 商標権 読売新聞東京本社
郷土をさぐる第六号、第十一号、第二十三号等 上富良野町郷土をさぐる会
資料「農協だより」
組合員の皆様へ
         組合長 石川清一
            (昭和四十五年六月十八日発行「農協だより」から)

 組合員の皆様、今回元経理課長が不正事件を起こしまして誠に申訳御座居ません、深くお詫び申し上げます。当時私共はその金額の余りにも大きく、びっくりいたし狼狽の余り緊急対策等に欠ける所が有りまして今日に至りました。当時から御憤まんと御心労を煩わした点、幾重にもお詫び申し上げお許し頂きたく存じます。
 今回組合便りを通じて三億円横領事件の概要を御報告申し上げます。発覚いたしましたのは五月二日でありました。その後漸く事件の全貌が明らかになり、六月の初めに当の元経理課長は富良野警察署から旭川刑務所に送致され、検事から起訴されました。目下公判の準備中の様であります。
 事件が発覚いたしました後、五月三日夜組合員の皆様に便りを以て御連絡申し上げました時の巨額と云う数字は、実に横領総額二億九千四百四十六万円に達しました。そのうち当人が埋め戻した金額や財産処分、金利操作等による損失額は、別表「不正事件のてん末書」の通りで御座います。
こうした事が早期に発見できなかったのは、その手口が巧妙で且つ単独で、私や専務、参事、部長の出張或いは留守中その機を窺っての行為であったとは云え、業務一切の監督の立場にある最高責任者の私の不注意並びに不行届の結果でありまして、その責任の重大さを身にしみて感じ心から陳謝申し上げます。
 事件の発覚したのは二日の午前十時頃であります。情報を得た新井管理部長が応接室に当人を呼んで、組合の公金濫用について問い正した所その一部を明らかにしたので、組合長、専務に重大事件が起きたので急遽相談願いたい旨告げられ、連れだって二階の和室で追及して自供させた数字は三億円近い巨額な数字でありました。この金額を雑穀相場に注ぎこんだと云うが唖然として真実と思われませんでした。組合員の皆様から信頼され、全ての事業に御協力を頂いている私共としては、激しい怒りと申し訳なさで胸一杯のものがありましたが、取りあえず当人には監視をつけて、札幌の中央会を初め旭川支所、北信連、代表監事、当人の身元保証人や家族に電話連絡をして事件の究明と調査、その措置に当たりました。翌三日午前八時から緊急役員会を開催することにし、その上で対策を立てる事と致しその夜は遅くまで調査をして、当人は親せきに保護方を頼んで自宅に返しました。
 翌三日は理事会、四日に緊急総代協議会を開き、元経理課長は懲戒免職とし、私と当人の義兄と新井部長と中央会秋山支所長とが上富良野警部補派出所に寄り富良野署と連絡を得て署に至り、四百万円の被害届を提出して逮捕となりました。三日の午後からは専務さんはあとに残って役員全員と共に全組合員の許にお詫びとお願いの便りをお配りいたしたのでありました。
 四日は緊急総代協議会を午後一時から開催しお詫びを申し上げ、確定次第正規の総代会を開くべくお話をいたしました。
 その後十一日は、以前から予定いたした理事会でありましたが、通常案件の外に本事件について報告し警察の取り調べの進むに従って対策を考える事とし、正規の総代会は規程の定める十日前でありますので、五月二十五日に臨時総代会を開催することに決定して、総代の方々に御通知申し上げました。
 十五日は午前八時から、二十日は午後一時から役員会をもちまして横領額の内容、その手口等を報告致し、全役員は責任を取るべきとの結論を得て日時無しの辞職届をまとめたのでありました。
二十一日の総代会には、議案として@不正事件の経過及び横領額について、A再建特別委員の選任について、Bその他を提出いたし、議長には和田正治、岩崎久仁男の両氏が推薦されました。 その意見を要約いたしますと
 総代会ではなく総会にはかるべきであった、今日まで何年もこの不正が発見できなかったのは何故か、中央会や道庁の監査はどうなのか、膨大な金額であるが返ってくるのはないのか、役員の責任はどうか等が主な点でありました。
 また再建特別委員会の設置を認めても、その選任については、総代会では困難であると議論が沸騰して三十分の休憩となりました。
 休憩中色々な角度から懇談且つ討論をして再開、専務さんから組合の事業は必ずしも多数決で決めるべきではない、この事件については何処までも話し合いで決めたいと表明されました。お説の中にあったように、総会を開いてそれからことを進めるのが建て前でしたが、不正の金が相当もどってくるのでないかと甘い考えで居りました。
 総代に代わるものとして部落廻りをしてご意見を承り事を進めたいと思います。組合員の皆様の意見を聞かずに事を進めてまいった事は誠に申訳ありません。機会をつくって役員さんと一緒に部落にまいりますのでよろしくお願い申しますとの発言のあと、賛成の意見があり部落毎の定数を発表し了承を頂きました。業者関係から色々噂があるので注意して頑張れよと云われて総代会は終わりました。その後連絡のありました部落を全部廻って二十八日には再建特別委員協議会を持ち二十名の出席を頂きました。
 慎重な協議が進められ、その内容は先ず委員会の性格はどうか、権限はどうか、具体的には何をするのか、総代会の意志はどうであったか等であります。
 何としても組合員の意思を汲んで、現役員とも協力しあえる線にまとめねばならない事でありました。処がその選出をめぐって論議がありましたが、何れも農協再建という方向で選ばれ、何れも総代会で決められた委員の選任と云う事にまとめて頂き、この件について必要な部落へは私共が参って地区部落の了解を得る事に致し、十名内外の委員は五名の選考委員によって六名の方が選考され、その方々へは常勤がお願いに上がれとの事であり、全員揃って初会合の時期は六月八日と九日に決定して散会いたしました。
 六名の方へは私が直接参上いたし御了承を得た次第でありました。
 想えば不正事件が発覚して以来、約一ケ月余組合員の皆様に対し十分な連絡も致さず、平常の業務についても手遅れ等があってご迷惑をおかけ致した事と存じます。深くお詫び申し上げます。私共組合員の皆様の厚い御信頼を頂いて任されて居り乍らの不注意不行届の結果であり、六月一日を以て広範な人事の異動を致しました。
 今日に到りました内部の空気を一新し、組合員の皆様にお応え致したいと存じます。それは何処までも生産を上げて収益増を図る組合員の良き相談相手となり、農家と密着する態勢と役職員の気構えであります。
 開基七十余年を経た町に、組合がつくられて六十年近くなります。組合創立以来御理解と御協力頂いた物故組合員、先輩各位の努力で築かれたこの組合、それを今日この事態に至らしめた罪をお詫び致し乍らも組合を潰してはならん、何とかもりたてたいと御苦労で御座いますが再建委員の方々の御努力によって横領金額の処理と再建計画の原案を作って頂きたく存じています。
 再建委員会は八日、九日の両日にわたって開かれました。全委員出席の下に議題は再建委員会の委員長並びに副委員長の互選でありました。片倉喜一郎氏が仮議長となって選考委員をあげ、委員長には谷与吉氏、副には多田良雄氏と林義雄氏が選任されました。事務局は荻野管理部長と松田管理課長が当たることになって第一日は終わりました。
 第二日目は再建委員会の今後の進め方でありますが、第一日目に色々と質疑応答された中で農協法の解釈や各方面の意向や被害の内容と責任等多くの問題を含んでいますので、その検討会として中央会から藤田部長と秋山旭川支部長の出席を得て開かれました。
 そして協議されましたのは、農協法をめぐる諸問題とその内容、中央会の監査と善後措置、現役員の責任再建に対する行政庁の指導、農協中央会を初めとする協力の方向、現理事者の業務態等でありまして、丸二日間再建を目ざした熱心な意見を、逐次具体化しようとする意欲でありまして、次回は六月二十五日頃開く予定にして散会しました。谷委員長は私用で七月十日頃まで不在とのことでありました。
 組合も六月十七、十八日の両日役員協議会を開いて中央会を招いて事件処理と再建の具体化について深く検討を続けつつあります。また六月三十一日に店舗、倉庫の棚卸し、七月八日から自治監査を致しまして事件に区切りをつけて立ち直りたいと思います。
 何と申しましても三億近い金額の処理は容易ではありません。それぞれの可能性と責任の分野が勘案されて、組合員の理解と御協力を頂くまでの線に到達するには、ある程度の日数が必要かと存じます。その間私共お詫びを申し乍ら一層心を引きしめて業務を続けたく存じますので御了承の程お願い申し上げます。

再建特別委員名(順不同)
氏名 地区 氏名 地区
委員長 谷 与吉 島津 委員 笠原重郎 島津
副委員長 林 義雄 旭野 山中一正 富原
多田良雄 東中 伊藤武三郎
委員 村上国夫 清富 高松高雄 東中
三浦定吉 日新 岩崎久二男
広川義春 草分 高橋重雄
落合 勇 森口 勝
高橋博男 里仁 村上国二 市街
中沢富美雄 静修 床鍋正則 東中
一色久雄 江幌 林 財二 旭野
久野専一郎 日の出 海江田武信 島津
松岡隆七 南 藤夫 東中
大場清一 江花 片倉喜一郎 日新

元経理課長不正事件のてん末書(昭和56年6月4日現在)
(1)年度別不正額
項目 41年度 42年度 43年度 44年度 合計
小切手による不正額 4,600,000 87,000,000 20,960,000 179,400,000 291,960,000
預金振替等の不正額 10,000 2,400,000 2,500,000
合計 4,700,000 87,000,000 23,360,000 179,400,000 294,460,000
(2)流用内容
取引商社名別 41年度 42年度 43年度 44年度 合計
カネツ商事へ 11,260,000 179,000,000 190,260,000
興亜商事へ 4,700,000 87,000,000 9,200,000 3,300,000
丸叶商事へ 2,900,000 400,000 3,300,000
合計 4,700,000 87,000,000 23,360,000 179,400,000 294,460,000
(3)本人の戻入額(年次別、項目別)
41年度 42年度 43年度 44年度 45年度 合計
(信連口座) (信連口座) (信連口座)  
3,700,000 8,000,000 3,077,295 2,230,605 17,007,900
註:45年度戻入額の内訳 カネツ 1,799,100円 興亜 300,000円 丸叶23,000円
          家族の共済解約返戻金・定期解約 108,505円  計2,230,605円
(4)元経理課長横領額
  横領総額       294,460,000円
  本人の返戻額     17,007,900円
  差引純横領額    277,452,100円
(5)金利操作による不正額
 (ア)定期預金利息   10,440,000円
 (イ)借入金利息戻額   3,177,295円
             合計13,617,295円
(6)農協の総損失額
  元経理課長実横領額     277,452,100円
  金利操作による不正損失額  13,617,295円
                 合計 291,069,395円
(7)昭和45年4月30日現在の帳簿不突合額
 (ア)信連定期預金   100,000,000円
 (イ)短期借入金     160,000,000円
 (ウ)当座借越勘定    33,300,000円
          合計   293,300,000円

 註:5月末横領額充当預り額(−) 2,230,605円
   差引農協実質損害額     291,069,395円

農協機構改訂と人事異動行う
 六月一日付けを以て機構改訂と職員の人事異動を行った。この改訂により前回までの営農生活部を一本化し、新たに生産販売部を置き、営農生産に属していた組織課を管理部所属とした。尚新たに調査役を設け常勤理事直下に配置となりました。

  掲載省略 新機構図(改訂昭和45年6月1日付け)
第五回臨時総会〜処理案骨子を原案通り承認
             (昭和四十五年九月五日発行「農協だより」から)
 第五回臨時総会が八月八日午前九時から上富良野中学校屋体に於いて組合員約一、一〇〇名が参加して開かれ、再建委員会より提案された損失処理案の骨子が原案通り承認された。
 この臨時総会は理事職務執行者石川清一前組合長、中西覚蔵前専務と全役員、更に再建特別委員(委員長谷与吉氏)全員が参加し、議長団に太田晋太郎、浦島捨三、広川義一の各氏を選出し閉会された。
 まず石川前組合長が「事件発覚以来総会が本日開かれるまでに至った理由と経過を説明し、更に組合再建の為に慎重審議をお願いしたい」と挨拶があり、前長沼代表幹事より特別監査結果と、谷再建委員長よりの経過報告のあと議事に入った。
 主な質問としては、年間純益の過少計上、棚卸時点に於ける未収計上の問題、更には保証人並びに役員の弁済、賠償に係る支払方法あるいは支払期間に関する件、役員改選の折には現役員を再選しない様 … …等の要望もあり、議長団は動議の取り扱いに対し協議、相談する場面も数回あったが、最終的には、農協を早期に再建する為に、町を初め支庁、道庁あるいは中央会等関係機関の協力と共に積極的に暖かい手を差し延べて頂くと同時に、組合員各位の御理解ある御協力を願い、一日も早く農協を再建する様にとの事で終了し、次いで役員改選が行われたが、この結果新理事は二十名のうち新人が六名、監事は五名の内三名が変わった。
“組合再建に全力を”
             組合長   高木信一
             専 務    菅野 學
             代表監事  高士茂雄
 空席になっていた常勤役員は、去る八月八日の臨時総会で選出された理事、監事が十三日各々初会合を開き、互選の結果組合長理事に高木信一、専務理事に菅野學、更に代表監事には高士茂雄氏を選任した。
 特に新組合長は、「役職員一丸となり、組合員にも、耳を傾けて誠意を披瀝して、組合再建の為誠心誠意努力したい」と抱負を語った。
再建援助策決まる
             (昭和四十六年八月十九日発行「農協だより」から)
 不正事件からすでに一年有余を経過し、組合員の涙ぐましい再建への意欲と協力のお蔭で着実にその歩を進めていますが、組合員の苦境を少しでも緩和して頂こうと、かねてから上部機関に対して再建援助を要請して居りましたところ、去る七月十九日に開催された道の再建整備委員会において、これが正式決定を見ることができました。
 再建整備委員会は、道、中央会、ホクレン、信連、共済連で構成され、不振組合の再建てこ入れを目的に三億円の出資をし、この原資と利息相当分を関係農協に資金援助をする仕組みになっており、現在は下川、生田原の二農協がこれの恩恵をうけています。今回新たに上富良野、美深の二農協が追加されましたが、当農協の場合は再建計画の五ヶ年に合わせ総額二、一〇〇万円の利子補給を受けることになる模様で、近日中に具体的な決定通知があるものと思われます。
 尚今回の決定額は、組合員の再建基金や役員の弁償金、上司職員の弁済金などの利子が半減する位の相当額であり、系統の支援に対して、財政的にも精神的にも大きな支えとなりました事を衷心より感謝を申し上げたいと存じます。組合長は先般開催された管内組合長会議の席上列席の各農協組合長に深甚の謝辞を述べ、早期の再建を以てお応えしたいと挨拶すると共に、道庁や各連には常勤と谷再建委員長が出向き、御厚志に対する御礼を申し述べました。
資料提供 松井俊一氏

機関誌      郷土をさぐる(第28号)
2011年3月31日印刷      2011年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一