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―石碑(いしぶみ)が語る上富の歴史(その15)―
十勝岳中腹の泥流跡に建つ「岡本三男の碑」と
それに関わまるさざまな背景

上富良野町本町 中村有秀
  昭和十二年十一月二十八日生(七十二歳)

  建立年月日 昭和二十九年六月二十七日
  建立の場所 十勝岳中腹泥流跡地
掲載省略 写真 碑石は、高さ1m3p・幅1m77p:右横にケルンが積まれている。銅版の碑文面は、縦34p・横46p。
一、はじめに
 「石碑(いしぶみ)が語る上富の歴史」(その15)として、十勝岳中腹の泥流跡に建立されている「岡本三男の碑」について、昨年の秋から調査をしました。
 建立の経過等については若干承知をしていたが、十勝岳に建立されている以上、地元の郷土史を探る一人として、「なぜ十勝岳に建立されたのか」、「故岡本三男氏はどういう人なのか」、「遺族は今どこに」と、さまざまな疑問が出てきました。
 そして、調査を進める過程で、さまざまな時代の流れでの背景と、それに関わる人間像がありました。
 調査の中で、多くの人々からの聞き取りと資料等の提供により、本書の掲載記事の裾野が広がりました。
 岡本三男氏から北大山岳部―吹上温泉での合宿―白銀荘―勝岳荘―吹上温泉の軍接収―碑の建立―白銀荘の設計者は誰れか……となっていきました。
(以下、文中の白銀荘は「(旧)白銀荘」です。)
二、「岡本三男の碑」建碑趣意書について
―趣意書―             岡本三男君のケルンを作る会
 昭和二十年五月、沖縄で戦死した岡本三男君の、山男としての生涯を記念するために、十勝岳白銀荘のほとりにケルンをたてようではないかとの話が、誰からともなく出て、私共が肝煎り役を引受け、故人旧知の各位に御協力をお願いすることになりました。あれくらい素朴な山男もめずらしかった。黙々として山に入り、山を見、山に暮し、登攀を楽しみ、しかして如何なる歓喜、いかなる困苦ののちにも、何事もなかったかのような山を下って来る彼、長い林務官生活のうらに、原始性に富んだ北海道の山林の隅から隅までを歩き尽し、忠実なる技術者としての経験を積み重ねた上に、職業を離れて山に打ち込み、岩場に憩い、吹雪に立ち向う幾星霜を送って、うむことを知らなかった。
 彼は十勝の冬山のパイオニアの一人であったが、ほどなくそこに生れた白銀荘を我が家のごとく慈(いつく)しみ育て守った。
 そこが天下のスキー地になり、知名の人が出入りするようになっても、超然として変るところがなかった。白銀荘の新築以来の署名帳には、又しても、またしても岡本三男の名が見られる。
 澄み切った誠実と、静かな情熱の持主であった彼は、いつもつぶらな眼をかがやかせて人を見た。怒っているのか、悦んでいるのか、見当もつかないような表情の中から、爆発的な哄笑を送って人々を引きつけた彼、山の本を読みふけり、不如意のなかにも山の道具は逸品を揃えて、精神を怠(おこた)りなかった彼が、戦争末期に出陣と間もなく戦死ののちに残されたものは、愛妻と七人の遺児のほかに、山の香のこもった、それらの手澤の品々があったばかり。
 遺族たちは、けなげにも貧窮染疾と戦いながら生抜いているが、何も書かなかった彼の足跡は、このままではやがて落葉の下に埋もれてしまうにちがいない。
 世にもまれな、この山男の生きていたことを記念するためにも、白銀荘のほとりの森の中から、噴きやまぬ十勝岳の煙の見えるところに、よしやささやかなものであるにしても、風趣をこめた一柱のケルンを築いておいたら――というのが私共の心持であります。
 何かと暮しにくい昨今ではありますが、故人を偲ぶ一魂の石のために、何ほどかの御芳志を寄せて頂けるならば幸いであります。
  昭和二十九年五月十日
                          発起人  犬飼 哲夫・余語 昌資
                          館脇  操・伊藤勝次郎
                          加納 一郎・武居 忠雄
                          佐藤 正雄・古瀬 義雄
                          南波初太郎・横山 二郎
  掲載省略 図案 碑文の銅版予定図(東京林野庁中川道夫氏作)

 この企ての趣意書は、昭和二十五年十一月に加納一郎氏によって記述されたが、戦後の間もない事から山仲間との連絡が十分取れなかった事情により、延期されていた。
 沖縄で戦死されてから十年になることから、犬飼哲夫氏、館脇操氏等が中心に発起人となって、「岡本三男の碑」の建碑が実現された。この趣意書から、故岡本三男氏の人柄が偲ばれます。
 尚、趣意書の中で、七人の遺児とありますが、長男(や)如(ゆき)矢氏は北海道大学を卒業し就職も内定していたが、病気のため昭和二十八年十月十六日逝去、享年二十四歳でした。
三、「岡本三男の碑」の建碑式について
 「岡本三男の碑」の建碑式の状況については、昭和二十九年六月二十九日付の北海道新聞上川版に詳細に記事としてありますので転載します。
 かつて本道の山の隅々まで足跡を残した供山男僑故岡本三男氏が、沖縄で戦死してから九年、故人を知るかつての山仲間は早くから、その記念碑建立を計画していたところ、百余名の友情の結晶は故人の名を十勝岳の自然石に刻んで見事に完成し、二十七日建碑式が行われた。
 この計画は、山によって故人と結ばれた犬飼、館脇北大教授、加納一郎、佐藤正雄(富良野営林署長)、南波初太郎(日本スキー連盟理事)、余語昌資(林産試験場)、伊藤勝次郎(国策パルプ)、武居忠雄(林野庁)、故古瀬義雄、横山二郎(富良野営林署員)の十氏による「岡本三男君のケルンを作る会」が中心になって進めたもので、二十七日の建碑式には故人の未亡人岡本寿さん(四十九歳)二男の丈夫君(二十二歳)をはじめ、発起人、地元民代表者らが参列、十勝岳泥流コース硫黄山頂の現地で行われたが、未亡人の寿さんは「故人もどんなにか喜んでいることでしょう。皆さんの御好意は忘れられません」と感激を語っていた。
 式終了後、一同は別れを惜しみながら白銀荘に帰り、午後一時から故人を偲ぶパーティーを催し下山した。

  掲載省略 写真 十勝岳山行前の岡本三男氏
--館脇北大教授の式辞--
 山の好きだった、山が飯より好きだった「岡本」、いまひょうひょうと風のわたる新緑に、晴れ澄む十勝の一角で山仲間がこのひととき、ささやかではあるがケルンを君に贈るの式を開く。
 みてくれ、ゆっくりみてくれ。北海道の屋根を、遥か南に散りし君の霊は、いまこそここに馳せ来たり、終生愛した北海道の山の変らざる姿にほほえむことだろう。
 「岡本」十勝の頂きでゆっくり山を見終ったら、君特有な口元にわずかにゆがめる君のかの微笑を、しばしば俺達の網膜の上に浮ばせてくれ。
 君の愛する山仲間は、いま肩を組み涙にぬれつつもその真中に君の霊を乗せて、明るく君の霊を友情で揺するであろう。
 君が沖縄に散りしは、君が一途に国のことを考えてか、家のことを考えていたか、ちらりと山を考えたか僕達は知らない。
 ただ、いまこの山の一角に、山の友情にとりかこまれた君の霊が喜んでいることだけは固く信ずる。
 君の深かりし愛情、君の深かりし熱意、言葉少なかりしも、いつも温情と笑みをまんまんとたたえていた「山男 岡本」このささやかなケルンに、これからゆっくりと君の霊の休み場、憩いの場を求めてくれるなら、僕達仲間の喜び、これに過ぎるものはない。
  ベルグ・ハイル
          昭和二十九年六月二十七日
                                  館脇 操
  掲載省略 写真 「岡本三男の碑」建碑式(昭和29年6月27日)

 建碑式参列者(順不同)
   岡本  寿(故三男氏夫人)
   岡本丈夫(故三男氏の次男北海道大学生)
   館脇  操(北海道大学教授)
   佐藤 正雄(富良野営林署長)
   横山 二郎(富良野営林署造林係長)
   持田 則安(富良野営林署技官)
   奥山  奏(富良野営林署上富良野担当区主任)
   田中 順三(北海道庁国立公園係長)
   加藤  清(上富良野町役場産業課長)
   長谷川善次郎(十勝岳白銀荘管理人)
   松本 光雄(富良野市赤松造材部社員)
   大浦 忠治(国策パルプ旭川工場)
   余語昌資(農林省林業試験場秋田支場釜渕分場)
       (余語昌資氏の子息)泉吉
   生出宗明(上富良野神社宮司)

  掲載省略 写真 岡本三男氏と如矢・丈夫の息子が学んだ古河
             記念講堂(北海道大学)
四、岡本三男氏の略歴
明治三十二年二月二日 山口県岩国市大字川西九八六番地で、横浜正金銀行(戦後の東京銀行)に勤める父質氏、母タケさんの三男四女の三男として生れる。父の転勤により、門司・長崎・小樽市と転居す。
大正七年三月 北海道庁立小樽中学校(現在の北海道立小樽潮陵高等学校)卒業
大正九年四月 北海道帝国大学農学部林業実科に入学。大学在学中に一年志願兵として入隊し「陸軍歩兵少尉正八位」となり、その後の北海道庁職員録の氏名の上に必ず冠として記載されている。また、北大スキー部(北大山岳部の前身)に入会し山行活動に没頭し、多くの岳友を得る。
大正十二年三月 日本山岳会に入会(第七一六号)
大正十三年三月 北海道帝国大学農学部林業実科を卒業。
大正十四年四月 北海道庁拓殖部林務課に技手六級、林務官となり、施業案(国有林)編成担当す。翌年に、十勝岳大爆発があり、甚大な被害に驚く。
昭和五年 道庁拓殖部林務課にて、旭川営林区署上富良野事業区第一次検訂「林相図」を調査作成す。
昭和七年四月 旭川営林区署に転勤、十勝岳ヒュッテ白銀荘の建設に関わる。
昭和十年三月 日本山岳会「登山案内人養成」に、北海道景勝地協会と上富良野村が主催で、十勝岳を中心に講習会を開催し、日本山岳会員として講師を担当す。北大山岳部長栃内吉彦氏、犬飼哲夫氏と共に。
昭和十六年五月 満州事変を契機に、資源確保が国家的課題の時昭和十五年五月に軍官の後押しを受けて、大日本再生紙鰍ェ水野成夫氏(後のフジテレビ初代社長、産経新聞社長・経済同友会幹事)、南喜一氏(後の国策パルプ渇長・旭川商工会議所会頭)が中心に設立されたが、朝日新聞記者より大日本再生紙鰍フ理事兼札幌支店長になった篠田弘作氏(後に旧北海道四区衆議院議員十一期・自治大臣)に誘われて、十六年間の林務官を退官し、大日本再生紙鰍ノ入社し、札幌支店勤務となり篠田弘作氏の下で国・道との関係調整に携わる。大日本再生紙鰍ヘ、昭和二十年に国策パルプ工業鰍ニ合併し、会社名はなくなった。
昭和十九年九月八日 臨時召集により、広島第十一連隊に入隊。
昭和二十年五月八日 沖縄島尻郡宮城村運玉林の高地(海抜一五八m)にて戦死される。享年四十七歳。

  掲載省略 写真 大日本再生紙且ミ員の出征送別会(前列左から三人目
             篠田弘作氏、後列左から二人目岡本三男氏)
五、岡本三男氏が入隊した「海上挺進戦隊」
 岡本三男氏は、昭和十九年九月八日に臨時召集により、四十五歳で西部二部隊広島第十一連隊に入隊された。入隊の三日後の、昭和十九年九月十一日に「海上挺進基地第一中隊附第一小隊長」を命ぜられた。その後の部隊の移動関係は、戦友「推木政治氏」が書き届けられた「故岡本少尉殿の御戦歴」(本誌130ページ参照)を読んでいただければ、いかに戦局が悪化し沖縄での防禦体制に急を要したかがわかります。
 「海上挺進戦隊」は正規の隊名であるが、陸軍が非常戦法として作られた「水上特攻隊」であった。
 そして、この隊で使用した舟艇をマルレと呼んだ。これは「連絡艇」のレに○をつけて秘密記号としたのである。
 連絡艇と呼んだのも、その使用目的を秘密にするためで、目的どおり名をつけるとすれば、「肉薄攻撃艇」というのがふさわしかった。
 マルレ艇は、長さ五・六m、巾は一・八m、重さは約一・四トン、ベニヤ板製で、爆発装置は七秒信管の一二〇キロ爆雷を艇の両側に一個ずつ取り付け、ペダルを踏むか艇首の扇形の金具をぶつけると、装着しているワイヤがはずれて落下する構造になっていた。
 戦闘方法は、「海上挺進攻撃」という名で呼ばれ敵の輸送船団が上陸地点の沖に碇泊し、上陸部隊や資材を陸揚げする前に、多数のマルレ艇で攻撃する、という戦法であった。
 この艇は、攻撃のため基地を出れば帰って来る予定はないので、艇の後部(中には前部のものもあった)内側にある燃料タンクも、十ノットの中速度で六時間位の容量しかなかった。
 制作費は千円かかるといわれていたが、同じ兵器としても航空や水中特攻用とくらべれば、作るのも簡単で安価なものであった。

  掲載省略 写真 連絡艇(艇尾の爆雷は2個とも言われている)
  掲載省略 構造図 連絡艇(特攻艇)

 北海道新聞社編「戦禍の記憶」で「戦後六十年 百人の証言」の中で、次の様に記されています。
『北海道でも作られ、連合軍が冬場に上陸すること想定し、波しぶきを防ぐ天蓋(てんがい)を付けた。ベニヤ板の生産が追いつかず、松や杉の道産材を使った。
体当り特別攻撃艇、という名称を用い、粗製乱造で一度の出撃に間に合えばよいものにした。
敗戦後、マルレ艇は基地の洞窟があった、小樽カヤシマ岬の浜や、沖合でガソリンをかけて焼いた』
 岡本三男氏は、「海上挺進戦隊」に小隊長として配属された時の気持は、どのようなことであったでしょうか。
 奥さん、七人の子供さん、そして母のことを思い、親しんだ北海道の自然と、数々の山行……。
 戦争の悲惨さと、虚しさを心の底から感じます。
六、岡本三男氏の臨時召集と戦死
 太平洋戦争の末期、小さな島、沖縄が日本とアメリカが最後の戦場の地になったと言われている。
 それは、九十日にも及ぶ激しい激しい闘いで、そのあげくに、二十五万を越す尊い生命が失われました。
 日本の兵隊が九万三千、アメリカの兵隊が一万二千、そして平和に暮していた沖縄の住民が十五万。さらに、この数よりも多い人々が、身も心も傷つき、沖縄は焦土と化しました。
 愛する夫を亡くした妻、最愛の子供を失った両親、やさしくたくましかった親を失った子ども……残されたものの悲しみの深さはどれほどでありましょうか……。
 戦死された岡本三男氏一家も、まさにその様な状況であったと思います。遺された遺族は、奥様と六男一女の七人の子供さんでした。
 長男如矢(ゆきや)さんは十六歳、次男丈夫さんは十四歳、末っ子の六男隼六(しゅんろく)さんは一歳六ヶ月でした。
 岡本三男氏は、四十七歳で生涯を閉じられましたが、その心中を察すると、戦争の悲惨さに胸にひしひしと迫る思いがします。
 
 岡本三男氏が戦死された時、同じ部隊―海上挺進基地第二十九大隊第二中隊―の指揮班におられた部下であり戦友であった『推木政治氏』が
 ●激戦で御戦死の詳細
 ●広島第十一連隊から沖縄までの御戦歴
 ●岡本少尉殿の御特徴
に分けて、終戦後の昭和二十一年六月二十九日付の記録を便箋四枚に書かれ、岡本三男氏の本籍地で居住していた山口県岩国市の母タケさん宅に、戦死された沖縄運玉林の土と、珊瑚礁と共に届けられました。
 この文書を読みますと、岡本三男氏は四十六歳の昭和十九年九月八日に臨時召集を受け、慌ただしく編成完結し沖縄へ移動と、いかに日本の戦局が刻々と悪化していっていることが感じられます。
 この「推木政治氏」の文書は、次男の岡本丈夫氏が大切に保管されていましたので、同氏の了解を得て原文のまま転載します。
[1] 部下が遺族に届けられた「岡本三男氏の戦歴」
 故 岡本少尉殿御戦歴
一、昭和十九年九月八日 臨時召集ニ依り、西部二部隊廣島第十一聨ニ入隊
一、昭和十九年九月十一日 編成完結、海上挺進基地第一中隊附第一小隊長ヲ命ゼラル(中隊長ハ梅田隆一中尉)
一、昭和十九年十月一日 屯営出発(特別仕立列車ニ乗ル)
一、昭和十九年十月三日 鹿児島縣揖宿郡指宿町摺ヶ浜着
一、昭和十九年十月八日 沖縄縣那覇港着、那覇市一泊
一、昭和十九年十月九日 那覇港出発、海路中頭郡恩名村安富鐫部落着シ民屋ニ假泊
一、昭和十九年十月十二日 中頭郡北谷村北蕪久部落ヘ移動ス
一、昭和二十年二月十九日? 北谷川ノ流域ニ海上挺進基地ヲ設定ス
一、昭和二十年二月十九日 島尻郡玉城國民学校ニ移動ス
一、昭和二十年三月二十三日? 當山部落ニ於テ對敵上陸作戰ニ備ヘテ戰闘防禦陣地ヲ構築補強工事ニ從事ス
一、昭和二十年三月二十一日 敵艦隊出現ス、爾後當山部落ニ於テ頑張ル
一、昭和二十年五月三日 島尻郡宮城村運玉林高地ニ前進ス、爾後戰斗熾烈化ス
一、昭和二十年五月八日 午前六時頃、遂ニ壮烈ナル御最後ヲ遂ゲラル、享年四十七歳ソノ生涯ヲ閉ジラル
御冥福ヲ祈願祈念シテ
  昭和二十一六月二十九日
             海上挺進基地第一中隊指揮班 推木 政治
[2] 部下が遺族に届けられた「岡本三男氏戦死の状況」
 故 陸軍少尉 岡本 三男 殿
―御戰死之詳細―
一、御戰死年月日  昭和二十年五月八日午前六時頃
一、御戰死場所   沖縄縣島尻郡宮城村運玉林高地
一、所属部隊    海上挺進基地第二十九大隊第二中隊(固有名)
          球第一五〇六六部隊梅田隊(通稱名)
一、状 況
  當時接敵僅カ千五百米、敵砲彈一分間百発(戰艦、巡洋艦、駆逐艦、砲艦、ロケット砲、迫撃砲、野戰重砲、黄燐彈、戰車砲、戰爆空軍隊ノ銃爆撃等々)、敵彈雨飛(雨霰(あられ)ノ如シ)ノ下克ノ困苦欠乏ニ堪ヘ、苦戰死闘勇奮活躍、毅然タル御態度指揮振リ衆兵全體ノ上ニ立チ掌握、統御確實ニシテ中隊長以下大イニ賞讃シテアルガ、五月八日未明陣頭ニ起ツツモ折モ折、飛来シタル敵砲彈ハ少尉殿ノ前方部ニ其ノ破片ヲ投ゲツケタタメ瞬時ニシテ倒レラレ、後部ニ御体ヲ下ゲタルモ最早息絶エラレ遂ニ不帰ノ人トナラル。
  御死体ハ、今モ運玉林ノ高地ニ眠ラレアリ。折角御遺体ヲ収容セシガ當番兵モ既ニ戰死シアリタル故、誰レガ捧持セシカ記憶ノ外ニアリテ、憶ヒ出スコトモ相叶ハズ、眞ニ申訳モナケレド茲ニ沖縄ノ土確カニ珊瑚礁ヲ石極リ、微量ナレド持帰ヘリタレバ御届ケ申上ゲマス。
[3] 部下が遺族に届けられた「岡本三男氏の特徴」
 故 岡本少尉殿の御特徴
 温和ナ御性格デ思ヒヤリノ念ニ強ク、兵隊達ノ眞ノ理解者デアッタ。
 從ッテ威張ル事ハ大嫌ヒデ、号命ハ小サイ低音、煙火、酒ヲ嗜マレナイ、物静カナ外面ヲツクロワレ、又、眞ノ意味ニ於ケル原始ノ人ニ近ク而モ禮儀正シイ御方デシタ。
七、父の碑を訪ねて
[1] 亡き父の「戦死の地」と「平和の礎(いしじ)」を訪ねて―
 沖縄戦で最大の激戦地となった摩文仁の丘一帯は、緑豊かな美しい国立公園として整備されている。
 広大な敷地内には、都道府県別に「平和の礎(いしじ)」として波形を描きながら建立され、沖縄での全ての戦没者が出身の都道府県別に名前が刻まれています。
 故、岡本三男氏の次男である岡本丈夫氏は、平成八年十二月に亡き父の戦地の地「運玉林」に慰霊に行かれると共に、平和祈念公園内にある「平和の礎(いしじ)」を訪れ、父の本籍地である「山口県、平和の礎(いしじ)」に戦死者として刻銘された一二〇六名の中から、父「岡本三男」の名前を見つけました。
 礎(いしじ)に刻字された「岡本三男」銘に、静かに手を触れると共に、亡き母の写真を夫の銘に添えられて、家族と共にしばしの感慨を「平和の礎」の前で送られた。

  掲載省略 写真 「山口県の礎」に父の名を見つけ、亡き母の写真を添える
             岡本丈夫氏(平成8年12月3日)
  掲載省略 写真 平和祈念公園に波形に並ぶ「平和の礎」

 尚、沖縄平和祈念財団によると、北海道出身者の戦没者は一万七九九名で、全国では二十四万八五六名の戦没者の氏名が刻まれ、「平和の礎」となられている。

[2] 父、祖父、曾祖父である「岡本三男の碑」を毎年訪ねる―
 故岡本三男の次男岡本丈夫氏は、父と同じ道を歩むかのように、昭和二十五年四月に北海道大学に入学、そして迷うことなく北大山岳部に入部された。
 北大山岳部員として、道内外の山々を春夏秋冬を通じて踏破されると共に、昭和二十九年度には北大山岳部幹事として部の運営や後輩の指導に活躍された。
 昭和三十七年五月には、ヒマラヤ・チャムラン峰(七、三一九m)に北大山岳部学術調査隊の副隊長として登頂に成功した山の強者であった。
 北大スキー部、北大山岳部で育てられた岳人の親子であったが、親子での山行はあったのでしょうか。
 岡本三男氏にとっては、十勝岳や「吹上温泉」そして昭和七年建設の「白銀荘」、昭和八年建設の「勝岳荘」は、職務上も関わりがあると共に、自身の数々の山行に利用した思い出の地でもあります。
 昭和五年には、十勝岳爆発後の「十勝岳の上富良野第一次検訂林相図」を調査し林相図を作成された。
 その「林相図」と、昭和十三年版「上富良野村の村勢要覧」が、次男岡本丈夫氏宅に大切に保存されておりましたが、父と上富良野との関わりを考えてと言って、上富良野町郷土館に寄贈を受けました。
 次男岡本丈夫氏は、北大山岳部の冬期十勝岳スキー合宿では昭和二十八、二十九、三十年と「勝岳荘」を利用されると共に、昭和二十九年六月に「岡本三男の碑」の建碑式には、母と共に参加して、父の山仲間、地元の皆様、営林署の方々に大変お世話になったことを建碑されて五十六年の歳月が過ぎた今日も、関係された皆様の心の暖かさと深さに感謝の気持で一杯ですと語ってくれました。
 その様な思いが、岡本丈夫氏が家族に語られ、「父の、祖父の、曾祖父の思い出の地」として、十勝岳に、白銀荘に、そして「岡本三男の碑」を毎年訪ねると共に、碑の横にある「ケルン」に家族一人一人が一個ずつ積んで帰るのが、毎年夏の行事でありお孫さん、曾孫さん達も楽しみにしているようです。

  掲載省略 写真 「岡本三男の碑」に毎年1回来る岡本丈夫氏と家族の皆さん
  掲載省略 写真 数々の山行で思い出のある「白銀荘(旧)」前にて
八、岡本三男氏の次男丈夫氏ヒマラヤ・チャムラン峰に登頂に成功
 故岡本三男氏の次男丈夫氏は、北大チャムラン遠征隊の副隊長として参加し、ヒマラヤ・チャムラン峰(七、三一九メートル)の登頂に成功した。
 チャムラン遠征隊にはさまざまの難関があった。その一つは、当時の海外遠征のおきまりである日本出発までの過程である。二つ目は、資金難と共に、外貨割り当ての獲得に難渋し、最終的には学術調査隊の形でチャムラン遠征隊が組織された。
 隊員は、次の七隊員で数々の困難を克服し、そして多くの仲間の激励を受けて出発した。
氏  名 勤務先及び所属学部 調査項目 事務分担
隊 長 中野 征紀(57歳)医学博士 本州製紙株式会社 医師
副隊長 岡本 丈夫(30歳) 国策木材株式会社 森林生態
隊 員 小林  年(29歳) 札幌市中央保健所 食品衛生 薬品
 〃  永光 俊一(29歳) 日本農産株式会社 家畜 写真
 〃  久木 村久(26歳) 北大農学部大学院博士課程学生 食用作物 渉外
 〃  安間  荘(25歳) 深田地質研究所 地質 装備梱包
 〃  鈴木 良博(24歳) 北大理学部動物学科学生 動物 食糧
昭和三十七年三月二十三日 チャムラン隊羽田空港出発
昭和三十七年五月三十一日 東北ネパールのチャムラン峰の登頂に成功
昭和三十七年八月四日 チャムラン隊無事帰国

  掲載省略 写真 隊長 中野征紀、副隊長 岡本丈夫
  掲載省略 写真 昭和37年5月20日:チャムラン峰登頂に第3キャンプへ向う
             休憩中の隊員--岡本副隊長(中央)--

◇北大山岳部々報第九号昭和三十八年九月三十日発行に「チャムラン登頂」(一九六二年ヒマラヤ遠征隊報告)の中で、遠征隊日誌として出発から帰国までが記載されているが、登頂成功の前後についての行動日誌をここに採録します。
●昭和三十七年五月二十五日
 岡本・安間・永光・サーダーがルート工作。小林・久木村・鈴木は第二より第三キャンプ泊り。中野第三キャンプ停滞。隊長以下全隊員か第三キャンプに集結した。
●昭和三十七年五月二十六日
 安間・鈴木ルート工作。小林・久木村第三より第四キャンプ泊。岡本・サーダーら四名が第三・第四キャンプ間を往復荷上げ。永光ら三名、第三・第二キャンプ間往復荷上げ。
●昭和三十七年五月二十七日
 小林・久木村が第四キャンプの上部をルート工作。第四キャンプを上部に移す。岡本・サーダー第三より第四キャンプ泊。シェルパにより第三・第四キャンプ間を往復荷上げ。中野・永光・鈴木第三キャンプで停滞。
●昭和三十七年五月二十八日
 岡本・小林・久木村は第四より第三キャンプ泊。永光・安間・鈴木は第三より第四キャンプ泊。シェルパにより第三・第四キャンプ間往復荷上げ。中野・ラクバツエリ第三より第一キャンプ泊。
●昭和三十七年五月二十九日
 永光・安間・鈴木・サーダーらルート工作し、第四キャンプ泊。岡本・小林・久木村は第三キャンプ停滞。
●昭和三十七年五月三十日
 安間・サーダー第四キャンプを出て上部に雪洞を掘り泊る。岡本第三より第四キャンプ泊。永光・鈴木第四キャンプに停滞。
●昭和三十七年五月三十一日
 安間・サーダー雪洞より頂上に到り第四キャンプ泊。小林・久木村第三より第四キャンプ泊。岡本・永光・鈴木第四より第三キャンプへ降。中野第一キャンプ停滞。
●昭和三十七年六月一日
 安間・サーダー第四より第二キャンプ泊。久木村・小林第四キャンプ撤収して第三キャンプ泊。
 岡本・永光・鈴木第三キャンプ停滞。シェルパにより第三・第四キャンプ間を往復荷物下ろし。

  掲載省略 写真 昭和37年6月4日:ベースキャンプに全員集結し、登頂祝いを行う。
             前列左より安間荘隊員、永光俊一隊員、久木村久隊員、
             マニク・ツラダール、岡本丈夫副隊長、中野征紀隊長、
             小林年隊員、鈴木良博隊員

◇登頂に成功した「安間荘隊員」は、登頂日の状況について、次の様に記している。
 出発したのは六時だった。主稜線に出ると烈風が頬を叩く。斜め前からの風なのでピッケルにすがりながら息を切らしての登高だ。強い風と厳しい寒々の中で全くうらめしい限りだ。
 十二時頃、雪庇のカゲで一休みし、ここより先にゆるやかな鞍部への下りがあり、その上に八十m〜一〇〇m位の高さのコブがある。又、これは鞍部から風上側を一ピッチ程ステップを切り乍ら交互にトップを交代して登った。このコブに登り切ると更にもう一つ五十p程高いコブが見えた。
 これがまさしく頂上だった。突然サーダーが座り込んで、ザックから日章旗とネパールの国旗を取り出し私のピッケルに結びつけ始めた。彼は旗を結びつけたピッケルを私の手に無理に押し着けた。そして私がトップになって登り始めた。一息に行きつけると思った所を三回も途中で休まねばならなかった。
 そしてやっと平らな、それ以上の高みのない所に着いた。標高七、三一九mの頂きだ。丁度二時であった。
 二人は肩を抱きあって、意味のない声をワアワアと出し合った。サーダーに促されて写真を撮った。東の方にマカルー、北の方にローツェとエベレストが黒く大きくその姿を見せていた。風下側は濃いガスに包まれていた。北側のチャムランの東尾根は長く堂々としたものであった。
 何の感興も湧かなかった。一刻も早く済ませて降りたいだけであった。二時十五分、追い風を受けて、帰りは非常に早く降りることができた。
「チャムラン――ヒマラヤの詩と真実」の出版
 この本は、北海道大学ヒマラヤ遠征隊のチャムラン峰(標高七、三一九メートル)の登頂の、個人的記録をまとめて、昭和四十年七月にベースボール・マガジン社により発行された。
 著者は、岡本丈夫・久木村久・安間荘・鈴木良博の四氏の遠征隊員である。
 この本に、あの百名山で有名な「深田久弥氏」が「序文」を寄せられているので、その一部を紹介します。

  掲載省略 写真 前方左が「チャムラン」
== チャムランは名山である。エヴェレスト地域には今でこそ多くの山が知られているが、今世紀の初めころには、名のある山と言えば、エヴェレストとマカルーとチャムランだけであった。そんなに古くからチャムランは聞こえていた。
 この名山に目をつけ、それに登ろうと志した外国隊はあったが、実際に山に体当たりしたのは、北海道大学隊が最初であった。
 一行七人全部がヒマラヤ初見参でありながら、未知のホンゲ谷を溯(さかのぼ)り、登攀(はん)ルートをさがしあて、困難と辛苦を冒してついにその頂上に最初の人間の足跡を印した。日本のヒマラヤ登山隊が、世界に誇ることのできる大きな功績と言えよう。
 このチャムラン紀行を読んで、私は北大山岳部のカラーを強く感じた。各自ズケズケかってなことを言いながら、根は友情と信頼に結ばれている。装備も食料も十分でなく、切りつめた費用で、北大らしい山行きをしている点がおもしろかった。
 ヒマラヤ登山には、何もオーソドックスな方法が決まっている訳ではない。各隊が各々個性のある行き方をして、新しい面を開き、可能性を幅を広げてゆくことこそ肝要であろう。その意味でも、この本は今後のわが国のヒマラヤ登山に大きな寄与となるだろう。
                            一九六五年六月  深田 久弥 ==
九、故岡本三男氏を偲び、思い出を記す
[1] 山男のなげき――
                      東京教育大学名誉教授 平塚 直秀
 私は、北大在学時代は、登山とスキーを存分楽しみました。
 岡本三男君は、山友達の一人で、特に親しい間柄でした。北海道庁立小樽中学校出身で、大正十三年に北大林学実科を卒業し、後、北海道庁林務部に入られ、主として国有林の施業案編成に従事しました。
 その後、旭川営林区署に転じ、昭和十六年に退官された後、大日本再生紙鰍ノ入社されましたが、昭和十九年に応召、昭和二十年五月八日、沖縄本島の那覇市首里(首里城跡)と与那原の間の運玉林という高地(一五八m)における激戦で戦死されました。
 私は、大正十一年頃から、七、八年間にわたり、岡本君とは夏山登山のみならず、冬山にも行を共にしました。
 当時は、今日のように北海道内の山岳は、ほとんど登山路や林道が開発されておらず、山小屋も殆どなく、陸地測量部発行の五万分の一の地図すら不完全な時代でしたが、彼と二人での山旅は常に快適でした。
 当時、一般の人は殆ど登頂しなかった「余市岳・札幌岳・漁岳・恵庭岳・ムイネシリ岳・樽前山」などには幾度か同君と行を共にしましたし、大雪山山系の山々「十勝岳・雌阿寒岳・雄阿寒岳」にも入りました。
 岡本君との山旅の思い出は数多くありますが、今なお印象深いものの一つに、大正十一年七月の北海道中央高地の大雪山山系への旅があります。
 私達は、この時初めて大雪山山系に入ったのです。その頃、国鉄が初めて旭川駅から上川駅まで通じたので、旭川駅から山案内役として同行した片岡春吉氏を加え、一行三名で上川駅を下車し、各人重いリュックを肩に石狩川に沿って悪路を、五、六時間かかって薄暮に層雲別(現在の層雲峡)に辿りつきました。
 層雲別には、塩谷温泉というバラック建に近い粗末な温泉宿というか宿舎が一軒あり、私達はこの宿舎を根拠として、黒岳を経て大雪山諸峰への登行と、層雲別から石狩川をさらに遡行して、その源流の探査を試みました。当時は、層雲別から黒岳の鞍部への登山道は勿論未完成でしたので、急斜面を鉈を手にブッシュをかき分けながら、相当苦労して登りました。
 黒岳の鞍部の山小屋(現在の黒岳小屋の位置)は当時は未だ不完全なもので、どうにか雨露を凌げる避難小屋程度の代物でした。
 私達三名は、この山小屋に二泊しましたが、七月下旬なのに私達のほかに一人も泊ったものはおりませんでした。
 私達の山小屋に滞在中は、幸い好天候に恵まれましたので、「黒岳・雲の平・中ノ岳・間宮岳・北鎮岳・旭岳・後旭岳・熊ヶ岳・北海岳・白雲岳」と歩きまわり、広大なお花畑のすばらしさに驚かされました。昭和四年四月、私が鳥取の学校に転出してからは、岡本君との山行は、昭和十年八月に、一度大雪山系に入ったほか、その機会に恵まれませんでした。
 しかし、彼は折にふれ、北海道の山中で発見採集した「銹菌類の標本」を送ってくれました。それらの標本の中には、銹菌分類学上特に貴重なものも含まれていて、今日でも彼の採集にかかる標本を見る毎に彼との嘗ての登山行をなつかしむのです。
 菌類研究者でない彼が、公務の余暇に私の研究資料として貴重な銹菌類を採集されたことは全く感激です。岡本君は、南の島沖縄の地で戦死を遂げられましたが、彼が北海道の山岳で採集された幾個かの銹菌標本は、採集者「岡本三男」の名とともに「ヒラッカ・ヘルバリウム」に永久に保存されましょう。
 昭和二十九年、岡本君の記念碑が十勝岳に彼の山友達の有志によって建設されました。彼の営林区署時代、十勝岳吹上に建てられた「白銀荘」を彼はわが家のように慈しんでいましたが、この山小屋から十勝岳への路の泥流上の岩に、彼の山友達の有志によって同君のレリーフがはめ込まれました。
 同君に、そっくりの顔だちの彼の次男、丈夫君も山岳人で、昭和三十七年五月、北大ヒマラヤ登山隊の副隊長として、ヒマラヤのチャムラン峰(七、三一九m)の山頂を極めたことは、父三男君も天上でさぞ欣んだことでしょう。
 私は、この登山隊の東京における帰還報告会に出席し、若き日の岡本を偲びながら、次男丈夫君の帰還報告を聞きました。
(この稿は、平塚直秀氏が昭和五十九年に発刊された「思い出は草木ととも」より転載しました。)
平塚直秀氏とは
 明治三十六年 北海道夕張郡角田村(現在の栗山町)にて生れる。北海道庁立札幌第一中学校―北海道帝国大学付属予科―北海道帝国大学農学部農業生物学科植物学分科卒業―北大大学院。
 昭和四年 北大農学部から鳥取高等農学校教授(後の鳥取大学農学部)、昭和十一年北海道大学から農学博士の学位を授与され、その後、理学博士も授与。昭和二十一年東京教育大学教授となる。日本学士院会員、東京教育大学名誉教授・財団法人日本きのこセンター菌蕈きんしん研究所長を歴任。
 昭和五十八年 日本で開催された第三回国際菌学会議の組織委員長として四十三ヶ国参加に貢献す。平成十二年逝去される。 享年九十七歳。
  掲載省略 写真 岡本三男君(右から2人目)
  掲載省略 写真 中央岡本三男氏、右伊藤勝次郎氏
  掲載省略 写真 昭和11年:陸軍大演習の岡本三男少尉
  掲載省略 写真 ナキウサギを抱く岡本三男氏
  掲載省略 写真 右より2人目岡本三男氏
  掲載省略 写真 「白銀荘」前での出発準備の岡本三男氏
  掲載省略 写真 いよいよ山行出発の岡本三男氏
[2] 『岡本三男さん』の思い出
                  (元)日刊林業新聞北海道支社長 竹越 俊文
 知る人ぞ知る岡本三男さんは、一流の山男であった。いま谷川岳ロープウェイにおられる南波初太郎さんと、若い頃からコンビで大雪山の縦走をやっていた。夏山ばかりか、冬山のパイオニアであった。
 長い間、道庁の施業案の仕事をしておられたので道内の山ならば、夏山・冬山も、たいてい歩かれた。
 十勝岳の白銀荘は、岡本さんの設計監督で建てられた。そのころから十勝岳の山スキーは北海道一で岡本さんは、十二月二十八日から必ず十勝岳で新年を迎えるのが例であった。お酒やタバコはのまれなかったが、ウイスキーだけは上等のを山へもってゆかれた。
 服装はかまわないようにみせて、日常の帽子やバーバリなど、一流品を無造作に着ていた。いくらもみくしゃにしても、ピンとなるのをみると、我々はあれが最高のおしゃれだな、と感嘆したものである。
 もちろん、山の装備は完全で、冬山は特に念入りだったようである。どちらかというと口数は少なく静かな方であったが、ときに陽気に、皆でわいわいと話されることもあった。
 お客様のご案内には、岡本流があって、案内された方は喜んだ。世話を焼かずに、お客の自由にさせることである。しかし、目に見えないところでは、注意深く、準備にも気を配っておられたようである。
 岡本さんから頂くお手紙は、淡白の中に情味こまやかで、便箋二枚半くらいであったことをいまでも思い出す。
 岡本さんは、終戦近くに後備役陸軍少尉で応召、昭和二十年五月に沖縄で戦死なさった。岡本さんは子宝にも恵まれ、お嬢さん一人が入った七福神、長男は早逝されたが、次男、丈夫氏が名実ともに後継者で、北大のヒマラヤ遠征隊には副隊長で参加している。
 昭和二十九年六月、十勝岳に岡本さんを記念するケルンが建てられ、岡本さんを偲ぶ人達が集まった。
註 この一文は、岡本三男氏の北大後輩で、旭川営林区署時代の昭和十四年から机を並べた仲の「竹越俊文氏」が、秀岳荘(札幌市北区に本店)発行の山岳誌「山の素描」(昭和四十五年十一月号)に「山男ありき」と題して書かれた文から抜粋し転載しました。
 秀岳荘のPR誌として、昭和三十七年四月一日創刊の「山の素描」は、山岳誌として高い評価を得ている。
竹越俊文氏とは
 大正四年一月、埼玉県川越市で生れる。昭和十二年三月、北海道帝国大学農学部林学実科卒業す。昭和十二年五月北海道庁に採用され旭川営林区署で、雇、月拾五十五円也の辞令。造林係に配属されが、主任が北大林学実科の大先輩岡本三男さんであったことが、山官としての大筋をきめ、ものの考え方に大きな柱を与えられた。
 昭和二十一年五月道庁の造林課へ。昭和二十二年四月林政統一で札幌営林局。その後林野庁研究普及課、林業講習所北海道支所教務課長、室蘭営林署長、北海道林木育種場経営課長を歴任し、昭和四十四年十月、三十二年半の山官生活より退官。
 昭和四十四年十月蒲ム業新聞社北海道支局長となり三十二年余勤務し平成十四年三月退職。平成十七年四月二十一日逝去 享年九十歳。
  掲載省略 写真 山行で白銀荘での一夜
              右上部に「白銀荘佐上題」の額
              (岡本三男氏は右側列の一番奥)
十、建碑式時の営林署担当区主任として
                       「岡本三男の碑」建立時の担当区主任 奥山 奏
 昭和二十八年三月二十五日、担当区主任研修を終えて初めての現場は上富良野でした。
 駅前の近くに事務所がありました。夏期間は駅前から白銀荘までの定期バスが事務所前に停車し、登山票を交付し、冬期はスキー客の依頼で馬橇の運行を業者に連絡の便を図ったこともありました。
 当時は、上富良野苗畑も担当していました。堆肥製産と苗畑耕転のため官馬を飼育していたので冬期間に営林局署の方が十勝岳スキーに来町された折には、官馬の橇に湯タンポと毛布を設備し、国有林入口の中茶屋までの送迎を、橋本三郎氏(現在富良野市在住)が騎手を担当してくれたことを、今でも感謝しています。
 スキー客は、中茶屋からスキーにシールを張って元硫黄を搬送した索道跡の直線路を登り、白銀荘・勝岳荘で自炊し、山岳スキーの醍醐味を満喫された職員の方も多かったのではないかと思っています。
 十勝岳スキーには、高松宮殿下が昭和二十九年三月に来町され、町民の歓迎を受けながら雪上車で十勝岳に来られ、白銀荘に一泊されたが、警備の方と私は不寝番でドラム缶半裁の薪ストーブでの暖の管理をしました。
 翌日、宮様はスキー連盟一行十数名とスキー登山をし、暮色せまる頃まで三段スロープで妙味を満喫されました。
 昭和二十八年頃、上富良野に自衛隊演習場が設置され国有林の一部が演習地に所管替となり、山火事予消防のため、国有林内の三角点付近に丸太による望楼の設備と監視員の配置、担当区事務所との私設電話も設置され緊張した日々を過しました。
 山部担当区に異動になってからですが、演習地内で山火事が発生し、トラックの荷台に造林作業員を乗せ消火活動の応援に駆けつけたこともありましたが、国有林には被害が無くて安堵したことがありました。
 昭和二十九年六月、富良野営林署佐藤正雄署長より「営林署の大先輩で、大正十五年の十勝岳爆発後の十勝岳、上富良野事業区の林相図を、昭和五年に道庁林務課時代に作成され、沖縄で戦死された=故岡本三男氏の碑=を十勝岳に建立されることになったので、準備をよろしく頼む」との連絡があった。
 富良野営林署の横山造林係長、持田技官、白銀荘管理人の長谷川善次郎氏、上富良野町役場産業課長の加藤清氏と受入準備・人員の輸送・宿泊接待・山の案内について相談しました。
 建碑式の前日及び当日の六月二十七日も、天候に恵まれて順調に建碑式等が終って、肩の荷を降ろした気持でした。
 建碑式の写真を見て、その当時を思い出します。私は左端で、その隣りに岡本丈夫氏、そして和服を着た岡本三男氏の奥様が写っておられますが、白銀荘から碑の場所への山の登りや下りを、子息の丈夫君が和服姿のお母さんに付添っていたことが印象に残っております。あれから五十一年を経て懐かしさがこみあげてきます。

  掲載省略 写真 高松宮殿下を迎えて、白銀荘前にて(昭和29年3月17日)
  掲載省略 写真 上富良野担当区事務所前での奥山奏氏(昭和28年7月)
  掲載省略 写真 高松宮殿下が山スキーへ出発(昭和29年3月17日)
  掲載省略 写真 旭川営林局富良野営林署上富良野担当区事務所
  掲載省略 写真 自衛隊演習場の山火事予消防「望楼」(昭和28年)
十一、北大山岳部と十勝岳スキー合宿について
 北大山岳部は、大正十五年十一月十日に北海道帝国大学文武会山岳部として創立され、初代部長に栃内吉彦氏が就任された。
 山岳部は、明治四十五年六月に創立された「北大スキー部」と、大正九年五月に創立された「北大恵迪寮旅行部」を両親として誕生したと言われています。
 北大山岳部が創立された大正十五年は、上富良野が十勝岳大爆発で甚大な被害を受けた年であり、あれから八十五年の歳月が流れています。
 岡本三男氏が、北海道帝国大学農業部林学実科に入学したのは大正十三年で、この時代は「北大スキー部」で、北大山岳部五十周年記念誌によると―――
『この時代の北大スキー部の中軸をなした人達は六鹿一彦・福地義三郎の両氏についで、板倉敬一・加納一郎・松川五郎・板橋敬一・後藤一雄など、当時第一線で活躍した山岳人で、その他にも、岡本三男・南波初太郎と有力なメンバーを擁していた』と、また『大正九年に初登頂されたものに、キモベツ岳(二月)、十勝岳(三月二十七日)があり、十勝岳はスキーを用いず、麓の鉱山事務所に泊り、火口の鉱山までは道路にしたがい、それからはシュタイグアイゼンを用い、頂上付近でザイル・ピッケルを使っている』
と記されている。

  掲載省略 写真 父の戦死により、丈夫氏に無言で引き継がれた「北大山岳部々報」
            (昭和三年発行の第一号から)
註 筆者が札幌の古書店で「北大山岳部五十周年記念誌」を見つけ一読すると、十勝岳の吹上温泉・白銀荘や、飛沢辰巳氏の写真が掲載されているので、編集発行者の「朝比奈英三教授」に直接連絡し、記念誌の寄贈についてお願いしたところ、「上富良野の皆様には長い間大変お世話になったので寄贈いたします。また郷土誌関係に是非ご活用を下さいとの言葉をいただきました。」それは、二十年以上の前のことでした。今回、岡本三男氏の関係で活用させていただきました。
 朝比奈教授が、五十周年記念誌に「北大山岳部における登山合宿」「戦前の合宿」(昭和元年〜十四年)について寄稿文があり、その中で特に吹上温泉、飛沢家、駅前での村民の皆様の接待、合宿内容が詳しく記されていますので、一部を紹介します。
――「朝比奈英三教授」の記より――
 北大山岳部における登山練習合宿は、その初期からスキー合宿の名で呼ばれていた。当時の北海道の冬期登山は、登山技術としてのスキーの役割の重大さを考えれば、これはきわめて当然のことであった。
 勿論われわれのスキー練習の目的は、単なる滑降技術の上達のみではなく、スキーを利用することによって、安全に、またすみやかに登山を完了することにあった。
 従って合宿も、地図を読みながらの登り方、ラッセルのつけかたから始まり、シーデボー以高のアルバイトを含む行程において、綜合的な冬期登山の能力を養う場であった。
 また、冬山でおこりうる危険に対して、綜合的な判断力を養うためにも、合宿の形式は最も危険が少なく効果の高いものであった。さらに、山岳部のメンバーが数十名に達した頃に、そのほとんど全員が同時に参加出来る山登りは、この合宿を除いてはなかったので、大先輩から新入部員までが最も親愛感を増す最高の機会として、この毎年十二月二十日頃からの一週間の山での生活が役立った。
 合宿の場所は、ニセコ連峯の新見温泉で行われた最初の二回を除いて、戦前期には「十勝岳吹上温泉」に固定し、十勝連峯のもつ優れた自然条件に加えて、吹上温泉旅館を経営する飛沢家の山岳部に対する長年の好意によって、十勝合宿という言葉は、山岳部員は勿論、広く北大の人々にとっても比類なく楽しい登山練習の場として知れわたった。
 合宿への出発は毎年十二月二十日頃、夜十時の列車で本隊が札幌を出発する。借り切った客車は旭川駅に夜半から翌未明の富良野線の一番列車が出るまでとめおかれるので、私達はストーヴの赤く燃える駅の待合室や、付近のおでん屋で、キーキー雪の鳴る酷寒の夜を過すのが常であった。
 翌朝、もし空が晴れていたら、列車が上富良野に近づくにつれ、なだらかに広がった黒々とした樹林帯の上に、白銀の十勝岳連峯―オプタシケから富良野岳まで続く白亜の彫像のようなパノラマを見ることができた。
 上富良野駅につくと、吹上温泉の主人である飛沢氏や、上富良野の青年団や婦人会のかたがたに迎えられ、朝モヤの中で温かい牛乳のサービスがあった。
 その当時、百名内外のスキー客が、毎年シーズン始めに必ず自分達の村を訪れるということが、直接間接にこの村の経済に役立っていたのかも知れなかった。
 上富良野の市街を出はずれると間もなく中茶屋につく。この中茶屋でひとときの休憩をし、中茶屋の「ヒロばあちゃん」には長年にわたって大変お世話になりました。ここからは、初年班の多くの者は徒歩で、二年班以上はスキーをはいて、昔の硫黄鉱山運搬の索道の跡の、前十勝の泥流の斜面から原野まで一直線に下っている路をひた登りに登っていく。
 はじめは白樺の粗林であった両側の林を登るにつれ潤葉林がへり、高度一、〇〇〇メートルを越す温泉付近では、ふたかかえ以上もあるタンネの巨木ばかりが、あの有名な十勝の粉雪がふかふかと身にまとって、聖夜の画のような姿で私達を迎えてくれる。
 こうして、待望の一週間の合宿が始まるのである。――――
  
  掲載省略 写真 北大山岳部五十周年記念誌
  掲載省略 写真 北大山岳部員を手当をした飛沢清治先生
              (ファスナーのない時代で、ボタンを倍つけた防寒服)
  掲載省略 写真 飛沢辰巳さん(昭和13年朝比奈英三氏写す)
  掲載省略 写真 北大山岳部部報に掲載されている「十勝岳吹上温泉」の広告
  掲載省略 写真 中茶屋の工藤ヒロばあちゃん
  掲載省略 写真 中茶屋の名物ばあちゃん「工藤ヒロさん」
             ――北大山岳部の皆さんもお世話になったことでしょう――
比奈英三氏が語る飛沢さん一家
 昭和三年より十六年までの十勝岳合宿が、いずれも成功裡に行われ、これらの合宿に参加した部員にとって吹上温泉の名が常に懐かしく思い出される理由の一つは、温泉宿の経営者である上富良野の飛沢さん一家と、毎年シーズンになるといつも同じ顔ぶれが揃う従業員の人々の、商売気をはなれた温かいもてなしであった。
 筆者は、「北大山岳部々報」と「北大山岳部五十周年記念誌」より、大正十五年から昭和三十年までの北大山岳部冬期合宿について、年別・合宿先・参加部員数について一覧にしました。
 この一覧表から、朝比奈英三氏が記されているように、昭和三年から多くの北大山岳部員が毎年来ていることがわかります。その中心が吹上温泉であり飛沢辰己氏でありました。
―北大山岳部の30年間の冬期合宿―
年別 合宿先 参加部員
大正15年 ニセコ新見温泉 47名
昭和2年 72名
3年 十勝岳吹上温泉 55名
4年 77名
5年 89名
6年 85名
7年 113名
8年 87名
9年 1名
10年 107名
11年 99名
12年 81名
13年 77名
14年 61名
15年 48名
16年 45名
17年 新見温泉愛山渓温泉 62名
18年 十勝岳吹上温泉 33名
19年 ニセコ馬場温泉 16名
20年 十勝岳勝岳荘 14名
21年 十勝岳白銀荘 26名
22年 十勝岳勝岳荘 22名
23年 30名
24年 29名
25年 32名
26年 厳冬の十勝大雪縦走 19名
27年 中の岳・ペテガリ岳 27名
28年 十勝岳勝岳荘 28名
29年 21名
30年 40名
北大山岳部の遭難
【昭和十三年十二月二十七日】
 冬山登山練習合宿中、上ホロカメットク山から下山中、八ツ手岩分岐点の稜線附近で底雪崩に遭い二名が埋没。部員二十五名、地元援助十名により捜索。二十九日に一名の遺体発見。もう一名の捜索は翌年一月三日まで続けたが発見されず、六月四日に第六次捜索隊によって発見される。
【昭和十五年一月五日】
 北大山岳部ペテガリ隊が、コイカクシュサツナイ川上流で雪崩のため遭難し八名の部員が死亡し、二名が救出された。
 このペテガリ隊は、一週間前の昭和十四年十二月二十一〜二十九日までの十勝岳冬山登山練習合宿を打上げし、多くの仲間に見送られてペテガリ隊に参加しての遭難であった。

 戦後の北大山岳部十勝岳合宿は、白銀荘・勝岳荘で行われていたが、勝岳荘は昭和三十四年二月九日に焼失したが、昭和三十五年十一月に再建された。
 北大山岳部の昭和二十九年度前期幹事に「岡本丈夫氏」がなっていますが、この年の六月二十九日に父である「岡本三男氏の碑」の建碑式が、この十勝岳に北大山岳部の大先輩の皆様のご協力と参加によって行われたのも、何か大きなつながりと縁を心から感じました。
十二、北海道庁佐上長官と「白銀荘」
 佐上信一氏は、明治十五年広島県で生れ、東京帝国大学卒業後に内務省に入り、岡山県・長崎県・京都府の知事を経て、昭和六年に第二十一代目の北海道長官となり、昭和十年まで務める。昭和六年、国立公園候補地の確定が間近な状況に、北海道庁は候補地として「阿寒・登別・大沼」と共に「大雪山」を附記した。
 昭和九年、上川支庁管内の旭岳から十勝岳方面から十勝側の然別湖・糠平・トムラウシ方面を含めた「大雪山国立公園」が誕生したのは、それぞれの地元関係者の猛運動と共に、佐上長官の力が大きな影響を与えた。
 佐上長官は、任期中の四年間に上富良野村そして十勝岳に三回来ておりますが、大雪山公立公園の指定には環境等の条件整備も必要と考え、昭和六年には「十勝岳ヒュッテ」の建設に、道庁土木部建築課(会田久三郎氏が在職)と拓殖部林務課(岡本三男氏が在職)に指示され、会田久三郎氏一行が調査のために昭和六年冬に十勝岳に来ています。(十勝岳温泉凌雲閣の創業者会田久左エ門氏談)
上富良野町史には「昭和七年三月に佐上長官が来村され、吹上温泉に宿泊した折に、吉田貞次郎村長が=十勝岳にヒュッテ建設=をと陳情して建設が決定した」と記されている。
「白銀荘」の名は、佐上長官が命名された。本誌146頁に白銀荘内の写真に「佐上題」と記されているのが見えます。
●昭和七年三月十二日〜十三日 吹上温泉泊
  三月十二日にスキー登山をしたが、吹雪により十勝岳爆発記念碑の堂に入って休憩された。
  その時に、佐上長官は即興で詠まれた歌が記念堂の柱に刻まれていた。
 その歌は―――
  吹雪して あやめも分かぬ 吹上の
      空に聳ゆる 大十勝かな
●昭和八年三月五日〜六日 白銀荘泊
  十勝岳ヒュッテは、佐上長官が「白銀荘」と命名し、昭和八年二月五日に落成式が行われた。新装なった「白銀荘」の視察と、天候に恵まれ山スキーを楽しまれた。
●昭和八年八月三十日〜三十一日 白銀荘泊
  上川支庁管内視察として、八月二十五日に管内入りして八月三十日に来村された。夏の十勝岳は初めてであったが、前十勝岳まで登山された。

  掲載省略 写真 昭和7年3月12日:十勝岳爆発記念碑堂での佐上長官
  掲載省略 写真 昭和7年3月12日:吹上温泉視察の佐上長官(右から3人目)
  掲載省略 写真 昭和7年3月:来村の佐上信一長官(中央)。その左、
             小田島俊造氏(小樽新聞記者[飛沢清治氏の娘婿]。長官室に
             フリーで面会できた人であった。)右端は飛沢清治氏(飛沢病院長)。
             その左後、吉田貞次郎氏(上富良野村長)、その左後、金子浩氏 
             (助役)=於飛沢病院長宅の2階
  掲載省略 写真 昭和8年3月5日:樹林間を進む佐上長官(前から2人目)
  掲載省略 写真 昭和8年8月31日:白銀荘前での佐上長官と吉田村長
十三、「白銀荘」の設計者は
会田久三郎氏なのか……
   それとも、岡本三男氏なのか
 十勝岳凌雲閣の創業者 会田久左エ門氏は、生前に山岳関係者や身内の者に「白銀荘」の設計は、北海道庁土木部建築課にいた「兄会田久三郎」で、昭和六年の冬に十勝岳吹上温泉に調査に来て、帰りには鉄索の下をスキーで下りたと語っています。
 筆者は、北海道庁職員録を北海道立文書館で調査すると、昭和六年度には「建築課技手三級会田久三郎」と記載されていた。
 一方「岡本三男氏」が白銀荘の設計者であるとの記録が「山の素描」(昭和四十五年十一月号・本書は一四四頁)と「北海道新聞」(昭和三十九年六月二十六日)にあるが、筆者が岡本三男氏の次男「岡本丈夫氏」にその点を尋ねると「父は北大山岳部・道庁拓殖部林務課の時代に、数多くの山を歩いているので、単に平面図や外観はこうあって欲しいとの考えはあったと思うが、設計はしていません」と語られました。
 当時、国有林も北海道庁拓殖部林務課が管理しており、岡本三男氏も「林務課技手五級陸軍歩兵少尉正八位」として、北海道庁職員録の昭和六年度に記載されています。
 従って、「十勝岳ヒュッテ白銀荘」の設計は道庁建築課で会田久三郎氏が、用地・木材等の関係は林務課の岡本三男氏が担当したと考えられ、道庁内部で会田久三郎氏と岡本三男氏が、何回か打合せ調整が行われたことが想像されます。
 岡本丈夫氏宅には、父岡本三男氏が旭川営林区署時代に関係された、トムラウシ山小屋設計図(昭和十四年北海道庁国立公園係担当)美瑛小屋設計図(昭和十四年)が保存されていました。
 トムラウシ山小屋設計図には「[1]ストーブを中止して炉とす、[2]冬の入口を中止し鎧戸とし烟出しにする、[3]床下の湿気を防ぐため掘り下げて置くこと」と指示事項が手書きされていた。木材調書・見積書も一緒にありました。
――『会田久三郎氏』が設計した主要建物は――
 「開拓使・北海道庁営繕八十年の覚書」に営繕事業実績表と共に『技手会田久三郎』が設計・監督した事業建物も記載されています。その記録と各、入手資料名及び写真等併せて次に記載します。
●昭和六年
【余市町北海道水産試験場】RC三階建
※鉄筋コンクリート3階建の本館の設計は、札幌グランドホテルを手がけた「会田久三郎氏」によるもので、道庁の直営工事で行われた。
(余市小史より)

  掲載省略 写真 昭和6年:余市町にある北海道水産試験場

●昭和九年
【札幌市 札幌グランドホテル】RC五階建
(札幌商工会議所併設)一部六階・地下室
※グランドホテルの設計監督に携わったのは、道庁建築チームで、リーダーは技師の福岡五一で、その下に設計担当の会田久三郎、構造担当の橋本理助、図面担当の高岡仁三郎、本間永作らの技手がいた。
 札幌グランドのトレードマーク「SHG」の組合せ文字は、会田久三郎が監督詰所にてデザインした。(「札幌グランドホテル五十年」の記念誌より)

  掲載省略 写真 会田久三郎氏デザインのグランドホテルの社員バッチ(創業時左と再開時右)
  掲載省略 写真 開業早々、雪化粧のグランドホテル
●昭和十一年
【旭川市 北鎮兵事記念館】RC二階建地下室
※日露戦争や満州事変、それに屯田兵村を始め開拓に関する資料を陳列、一般に縦覧させる目的で北海道護国神社内に建設された。
 戦後、旭川市郷土博物館となったが、その後北海道護国神社「平成館」(平成三年語根神社九十周年記念事業)で改装整備された。(旭川市史・北海道護国神社社務所談)

  掲載省略 写真 昭和11年当時の旭川北鎮兵事記念館

●昭和十三年
【七飯町 七飯傷痍軍人療養所】木造二階建一部平家建
※日中戦争勃発後、傷痍軍人の療養、その他の保護を図る目的で、国は建設を道庁に委嘱した。
 昭和十三年十一月から整地に着手、昭和十四年に収容定員三〇〇床の規模で工事を起し、昭和十五年三月に完成し開所式が行われた。同時に付属看護婦成所を設置された。
 昭和十六年に二〇〇床増で五〇〇床、昭和十八年に三〇〇床増で八〇〇床となる。昭和二十年十二月一日軍事保護院の解消により国立北海道第一療養所と改称された。
 (七飯町史・国立療養所北海道第一病院付属看護学校開校記念誌より)

  掲載省略 写真 設立当初の病院
  掲載省略 写真 コンクリート通路

●昭和七年
 十件の建築営繕事業が記載されているが、この年度だけ設計、監督者の氏名がありませんがその中に、「白銀荘(旧)」について次の様に記されている。
  ◇位置    十勝岳
  ◇件名    十勝岳ヒュッテ
  ◇構造規格  木造三階建

 以上のことから、「白銀荘」の設計は道庁土木部建築課が担当されたことは明らかです。
 昭和十三年五月に開業した「登別グランドホテル」は、モダン和洋折衷式で鉄筋コンクリート造四階建で、この設計も札幌グランドホテルと同じく、道庁建築チーム(会田久三郎が中心)が設計、木田組が施工した。

 会田久三郎氏について「道庁営繕八十年の覚書」の中で、営繕業務を主導した建築技師として次の様に綴られている。
「札幌商工会議所から持ち込まれた札幌グランドホテルの設計受託により、福岡建築課長は技手三級の会田久三郎を設計主任とし、会議所役員と共に遠く大連まで旅して国際的なホテルを視察した上で、設計に取り組んだ」
 ―『会田久三郎』氏とは―
 会田久三郎は、明治二十六年二月十一日に山形県南村山郡金井村にて、父会田久太郎、母サツの次男として生れる。四男に会田久左エ門(上富良野町)、五男に会田喜代治(富良野市)の弟がいた。
 大正八年三月、東京高等工業学校附属工業補修学校中等建築科及び高等建築科卒業。
 大正八年五月、東京日橋区の片岡・松井建築事務所に入社、農商務省臨時窒素研究所の設計監督を担当する。その他、各種の設計監督を担う。
 大正十年六月、株式会社三好工業所に入社し、設計監督に従事す。大正十一年七月、北海道庁技手として採用され、土木部建築課勤務す。
 北海道庁職員録によると、大正十五年に技手五級、昭和二年に技手四級、昭和五年に技手三級、昭和十二年に技手二級と、本文ページに北海道を代表するような各種建築の設計監督を担当した実績と共に、技手としての級が上がっていった。
 昭和十四年八月、十八年間勤務した北海道庁を四十六歳にて依願退職す。退官後の昭和十四年八月三十日に「叙勲勲八等瑞宝章」を受賞する。
 昭和十五年に居を東京に移し、民間建設会社の役員を務めるとともに、会田建築設計事務所を東京渋谷区代々木に設立する。
 昭和十九年、長男武氏が立教大学在学中に学徒出陣により、フィリピンにて戦死される。
 昭和二十六年、札幌グランドホテルが米軍の接収解除(昭和二十七年八月)による改修のため、建築時に設計を担当した関係で、改修請負業者の札幌山口建設株式会社に招請される。
 昭和三十年に、山口建設株式会社の社長となるが、昭和三十六年に高齢のため六十八歳にて引退す。
 昭和三十七年、父母が眠り、兄妹がいる故郷の栗山町に居を移す。
 昭和四十二年一月十六日、享年七十五歳で生涯を閉じる。
  掲載省略 写真 会田久三郎氏昭和5年:道庁抜手3級の頃
  掲載省略 写真 昭和18年:道庁退官後の会田久三郎氏、右は立教大学生の
             武氏(東京の自宅にて)
  掲載省略 写真 前列左より:長男会田久次郎・次男会田久三郎・四女中野セン・
             三女姉崎キヌ後列左より:六男会田正男・五男会田喜代治・
             四男会田久左エ門
十四、吹上温泉の軍接収と、その転用先は
 吹上温泉旅館は軍部によって接収され、建物の解体移設と什器・寝具等を含めての接収は、経営の打撃となり営業を辞める大きな原因となった。
(一)軍部による接収について、各出版物には次の様に書かれている

○「上富良野町史」(昭和四十二年八月発行)
  昭和十八年、戦争の進展によって、捕虜収容施設が不足した時、建物・夜具・食器その他の施設が着目され、解体移設された。
○「北海道・大雪山」(昭和五十九年十月発行)
  吹上温泉旅館は、太平洋戦争の非常体制に入り、建物解体し鉱山住宅として利用された。
○「上富良野百年史」(平成十年八月発行)
  昭和十八年に、捕虜収容所として軍に接収されるまで、駅逓と温泉の営業が続けられた。
○「旭川・上川の一〇〇年」(平成十六年八月発行)
  昭和十八年に、捕虜収容所として軍部に接収されるまで営業を続けた。
○「郷土をさぐる第二十号」(平成十五年四月発行)
  陶治助氏は、吹上温泉をやめた理由は「当時戦争が激しくなり--温泉は贅沢だ--と言われて、寝具や食器類と二階の部分の建物が、室蘭の捕虜収容所に使うためにと、軍に徴用されてしまったため、経営を続けることが出来なくなり、昭和十九年六月で営業をやめた」と語っている。(野尻巳知雄氏著)
○「北大山岳部部報」
  北大山岳部は、昭和三年から十勝岳冬期合宿として、毎年十二月二十日頃から二十九日頃まで実施されているが、吹上温泉の接収前後について、部報に次の様に報告されている。
 ◇昭和十七年 吹上温泉経営者が変り、出発直前に変更、新見温泉、愛山渓温泉(六十二名参加)
 ◇昭和十八年 吹上温泉(三十三名参加)
 ◇昭和十九年 吹上温泉使用不能により、ニセコ馬場温泉(十六名参加)
 ◇昭和二十年 吹上温泉使用不能のため、勝岳荘にて自炊、非常に困難な時期だが実施した。(十四名参加)
 ◇昭和二十一年 白銀荘(二十六名参加)

  掲載省略 写真 吹上温泉

(二)解体移設の吹上温泉は、何に転用されたか
 各出版物によると、「捕虜収容所」又は「室蘭の捕虜収容所」、あるいは「炭鉱住宅」とあるので、室蘭市史と芦別市史を調査した結果、次の様な事実が明らかになった。
○室蘭捕虜収容所
 北海道函館地方室蘭所在函館第一捕虜収容所が正式名称で、昭和十七年十二月に連合国捕虜の収容所として開設された。
 捕虜は、アメリカ、イギリス、オランダなどの将校や兵士で、太平洋戦争開戦後の比較的に早い時期に東南アジアで捕虜になり、本州の収容所を転々とした後、室蘭に移されたものであった。
 人数も正確な数は不明で、当初は二〇〇人前後であったが、移送されてきた時には収容所施設は工事中のため、一時は栗林商会の寮に収容された。
 昭和十八年二月に、数棟の柾屋根バラック建の粗末な建物の収容所が完成し収容した。
 昭和十九年六月に、芦別の三井炭鉱に移動した際には、捕虜は六〇〇人と記録されている。
 室蘭では、兵器生産の日鋼は極度の秘密保持を必要としたので、捕虜の使役はしなかったが、日鉄では構内に限って、単純作業や輸西港運関係の荷役作業を主に行った。

○芦別捕虜収容所
 満州事変勃発以来、労働力の不足はその極度に達し、特に中小炭鉱の労働力は全く補給ができない状態となり、その出炭も極度に減少していた。
 労働力の不足を補うため、勤労報国隊、朝鮮人、華人、捕虜などを導入することとなった。
 昭和十九年六月三日、室蘭捕虜収容所から連合国捕虜六一一人が三井芦別鉱業所に到着し、第一収容所(西町)に、将校は函館収容所から約一〇〇名が将校収容所(西芦別町)に収容した。
 昭和十九年八月十四日、華人労働者第一陣一八四名が三井芦別鉱業所に到着とあることから、炭鉱労働者と収容所、住居の確保が急務であったと判断されます。従って、軍部によって接収された吹上温泉旅館の解体建物及び什器・寝具等は、捕虜収容所としての三井芦別鉱業所にて使用されたのである。
あとがき
 「岡本三男の碑」の取材を通して、さまざまな関わりが多くあり、原稿と掲載内容に苦労しました。
 故岡本三男氏のご遺族の調査には、上富良野町出身の北大農学部松井博和教授のお力添えが、今回の取材の糸口と大きな励みになりお礼申し上げます。
 秀岳荘刊「山の素描」では、秀岳荘小野専務から俳人高澤光雄氏の紹介をいただき、高澤氏から数々の資料送付とご助言に心より感謝申し上げます。その中で、俳人杉田久女の長女で、俳人石昌子が昭和十八年四月に十勝岳白銀荘の臨時小屋番としての状況を綴った「森林の春十勝岳」は、何かの機会に発表したいエッセイである。
 今回の取材の中で、各々の皆様が歴史と一コマ、一コマの生き証人であること実感しました。「岡本三男の碑」の建碑式で、館脇操北大教授の式辞に感動をしました。
 「白銀荘の設計」の関わりで、故会田久左エ門氏の次兄である「故会田久三郎氏」の実績等を含め、読者の皆様にお伝えをできました。
 多くの皆様の取材協力と、様々の分野での文献を参考にしたことに感謝し、お礼を申し上げます。
◇取材の協力をいただいた方々◇

 松井 博和(札幌市)  北海道大学農学部教授
 蝦名  訓( 〃 )  札幌グランドホテルコミュニケーションマネジャー
 高澤 光雄( 〃 )  元丸善勤務・俳人
 小野 浩二( 〃 )  秀岳荘専務
 竹越 研一(江別市)  竹越俊文氏の長男
 岡本 丈夫(旭川市)  岡本三男氏の次男
 奥山  奏( 〃 )  元営林署上富良野担当区主任
 武田 嘉照(富良野市) 元富良野営林署員
 会田 系伍( 〃  ) 会田久三郎氏の親戚
 会田 信二(千葉県)     〃
 会田 義寛(上富良野町)   〃
 会田 義隆( 〃   )   〃
 富樫 賢一( 〃   )上富良野十勝岳山岳会
 伊藤 欣治( 〃   )   〃
 小野寺敏昭( 〃   )元営林署苗圃事業所
 小野寺トヨ子( 〃  )   〃
 宇野 ミサ( 〃   )   〃
 山田  央(七飯町)  七飯町歴史館学芸員

◇参考文献◇
 陸軍船舶戦争(戦誌刊行会)松原茂生・遠藤昭共著
 陸軍水上特攻隊の最後(光人社)儀岡保著
 北大山岳部部報(北海道大学体育会山岳部)
 北大山岳部五十周年記念誌(北大山の会)
 写真集 北大百年(北海道大学)
 北海道庁職員録(北海道庁)
 開拓使・道庁・営繕八十年の覚書き(北海道建築設計監理株式会社)廣田基彦著
 札幌グランドホテルの五十年(札幌グランドホテル)
 札幌の建物(札幌市教育委員会)さっぽろ文庫二十三号
 チャムランヒマラヤの詩と真実(ベースボールマガジン社) 岡本丈夫・安間荘・久木村久・鈴木良博共著
 戦禍の記憶 戦後六十年百人の証言 道新選書三十九号
 記録写真集沖縄戦(那覇出版社)
 七飯町史(七飯町)
 国立療養所北海道第一病院附属看護学校閉校記念誌(七飯町)
 余市町郷土史(余市町)
 室蘭市史(室蘭市)
 芦別市史(芦別市)
 旭川市史(旭川市)
 原野を拓く 勇払工場五十年史(日本製紙蒲E払工場)
 山の素描(秀岳荘)
 寒帯林(旭川営林局)
 北海道大雪山(大雪山国立公園50周年記念事業協議会)

機関誌   郷土をさぐる(第27号)
2010年3月31日印刷     2010年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一