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東中神社の歴史

上富良野町東六線十九号 岩崎治男
  昭和十六年四月七日生(六十八歳)

九線神社(東中富良野神社)
【明治四十二年十二月二十二発行、上川管内志編纂会、上富良野志より】
 本社は中富良野東九線北十七号、公共用地内に鎮座する村社なり。其勧請の紀元最も早く、明治三十二年八月の創立なり、該神社の主動者は神田和蔵、岩崎虎之助、の両氏を始め安井新兵衛、安井新右衛門、櫻坂源七、中野常蔵、湯浅伊蔵、鹿島?蔵の諸氏にして、氏子範圍は中島農場、田中農場、倍本農場、畜産牧場及び、北十六号より北二十二号までの村民等なり。
 祭神は天照大神を祭り、年々九月十日を祭日と定む、当日は競馬、相撲、芝居等の興行あり、遠近の人々、参詣の為に来る者多く、殊に競馬には賞品を出すを以て、出馬する者あり、偉観を添へり。
 社は末資格を具備せざるも、村社として一般村民の認識する処その他各団体及び、農場等に祭る地神と称する祭神は大概、天照大神にして、稀には八幡神を祭るものあり。
これ等の祭禮と誰も其の団体中の人と相謀りて、盛大なる祭典を挙行するが故に、当日は参詣人、境内に群衆し、夜は芝居、講談、落語、浮れ節等演ずるなど、見物人、傍聴者雑踏し、数里の遠きより来る者あり、中々の賑わいなり。

  掲載省略 写真 東中九線東中富良野神社

 「上富良野志」によると東中神社は明治三十二年に創立とあるが、最初は「地神」「山神」の形で創設されていた神々を、明治三十五年に関係者により天照大神を祭神として統合され、九線神社として祭られた様である。(旧上富良野村史その他の資料より)
 上富良野志による「神田和蔵外七名が主動者になって、三十二年創立」の記述は、主動者の安井新兵衛は明治三十三年に入殖、安井新右衛門は三十五年の入殖であることから、三十二年に東中神社が創立した記述には無理がある。(上富良野志興信録より)
倍本神社の由来
 倍本神社の境内は、東中倍本地区東十一線北二十号から、東方角に見える奥田司氏、裏手の小高い丘の上にある。戦国時代なら一望に下界を見渡せ、お城や火の見やぐらを築くのに絶好の場所である。
 明治四十年から昭和三十八年まで、この場所に五十八年間、神社祭殿が奉られており、明治から大正にかけて、地元の人々はこの丘を、八幡山と呼んでいた。
 開拓の最盛期には、倍本が一つの行政区として、発展することに、期待していた時があった。それ程、たくさんの人家があり、人口も多かったのである。
 創始の頃、挿し木したと伝わるポプラの木は、今も大木となって当時の名残を残している。
 又、これらの樹と同時期に風よけの防風林として、開拓畑の中を、百間置きに行儀良く植えられたポプラ並木は、今も当時の面影を残している。
 緑が生い茂る神聖なる森の中、静寂が漂う神社跡、時折木々の梢を跳ね返して、山鳥がさえずり、楽しそうに飛び交う。そこには、今も先人たちが歩んだ、歴史の一コマが残っている。
道なき参道跡、笹の葉を押し分けながら頂上へと辿ってみると、幟立て用の支柱が錆びた金具を付けたまま今も放置され、寂しげに眠っている。
 この地に創紀した、元倍本神社の祭神は、
  事代主命(ことしろぬしのみこと)   仲衰天皇
  大帯比売(おおたらしひめ)      神功皇后
  譽田別命(ほんだわけのみこと)    応神天皇
の三神である。
 国内に分布する八幡系の神社は、創祀した時代とか、その地区の事情なども絡んでいて、仲津姫(なかつひめ)とか、又は、比洋大神(ひなだおおかみ)などと入れ替わっているところや、若宮八幡といって、応神天皇の御子に当たる仁徳天皇が加わっている場合もあるが、概ね八幡神社の祭神は、応神天皇を主神とされ、それ一神を奉る社もあって、全国どこも同じではない。

  掲載省略 図 熊野権現ツルギの神体

 応神天皇は、第十四代の仲哀天皇と神功皇后の間に、第四皇子として生まれた十五代の天皇である。
 別名があって「古事記」では、品陀和気命(ほんだわけのみこと)と言い、「日本書紀」には、誉田別尊(ほむたわけ)と記されている。
 初代の神武天皇から昭和天皇に至る、百二十四代の中において、生きながら神と名がついたのは、神武天皇(一代)、崇神天皇(十代)、応神天皇(十五代)のほかはありません。
 天平二十一年には、日本国内では大仏鋳造に必要な黄金が不足して、唐(当時の昔、中国にあった国の名前)に使いを派遣しょうとしていた。ところが、八幡菩薩はその必要なしと予言したのである。
 その後、陸奥から黄金が献上され、予知・予言の神として、いっそう庶民の崇敬を高めていった。
 以上は、八幡神社の概要である。
熊野権現様
 倍本は、富良野岳の吹き下ろしによる、強烈な季節風の起きる所である。
 しかし、湿地帯で葦や萱、イタドリなどが生い繁った東中原野の沼地より、水はけのよい倍本地区の高地に、肥沃な土地・畑を求めて、明治中期、全国各地より入植した。
 倍本の農地開拓には、笹を焼き、大木を倒した伐根抜きの他、古代の昔に十勝岳の大爆発があり、山の岩石が爆風で、吹っ飛んで来た物と推測される、土の表面に散乱している石ころ(大石、小石)の除去に、並々ならぬ苦労があった。
 農地畑の開墾によって、立ち木の伐採が進むにつれ、当時の主食であった麦、そば、豆、イナキビ等の作物が栽培されたが、強烈な季節風が与える被害で、開拓者は、深刻な悩みを抱えていたのである。
 その当時、東十一線北二十号に住んでいた清水徳太郎さんは、霊験あらたかで、「風の神」と伝わっている和歌山の熊野権現を迎えて、倍本神社に合祀する事を倍本地区の住み人に勧めていた。
 この神様を奉る事に依って、吹き荒れる嵐の様な風による砂ホコリ(砂塵)が供静まるなら做との思いで、当時の村人は熊野権現様をお迎えしたのである。

  掲載省略 写真 東中神社御紋幕奉納(昭和16年生巳年会):平成13年8月4日

 「風の神」奉賛をお勧めした清水徳太郎さんの生い立ちは、明治元年四月一日生まれで、明治二十八年、四国香川県から分家して愛知県に入った。明治三十三年三月、愛知県より倍本に入植し、開拓農業を営んだ。その後も、畑作経営に精を流していたが、大正十二年に愛知県へ転出して行った。
 大正三年にこれらが実現し、本宮大社の熊野権現を観請して倍本神社に合祀した。
 仏教史に名を残した一扁上人は、熊野に参じて悟りを開き、又、浄土真宗の開祖親鸞聖人の熊野参宮も記録に残っている。
 大正三年、熊野権現を倍本に観請し、八幡神社に合祀した時から、倍本神社には荒神様と縁結びの神様が祭られていると言い伝えはあったが、神社誌が無い事に依って、観請の経路、神々の謂われ、幾代など、時代の人々が消え去って行く程に、解からなく成っている。
 血と汗で綴った開拓の一コマを次代に語り継ぐ事は、未来への指針となり、今は亡き人びとへの最大の冥福あると思われる。明治三十二年八月に、東九線北十七号に創立したと言われる東中富良野神社についても、祭神が何であるか、解からなくなった時代があった。

  掲載省略 写真 大正4年頃:倍本神社八幡さまの祭り

 何故、最初の東中富良野神社が、東九線北十七号に造営されたのだろう。
 当時、官設鉄道の線路が旭川から、富良野原野を通り十勝に向かって敷設される事で、比較的地盤の良い山手線通り(東九線)の東中経由が好ましいとの検討が上部機関であり、東十七号角辺りに停車場建設が取りざたされていた。停車場(駅)が出来れば、東中の拠点と成る事等考慮し、東中富良野神社がこの地に造営されたのだ。
 しかし、途中の鳥沼(現在の鳥沼公園付近)の広汎な湿地帯が軟弱地盤だった為、当時の鉄道建設技術では困難との判断で変更、西側基線沿いに鉄道レール敷設決定がされた。
 東中に停車場が出来、鉄道が敷かれ、「汽車が走る」との夢は、末代の夢物語りになって終ったのである。
 これに依り、上富良野駅より中富良野経由で富良野まで鉄道が敷かれ、蒸気機関車は石炭をくべて、黒い煙を吐き、列車を引っ張って基線沿いを走った。
 今はジーゼル機関車が、時代の移り変わりを見ながら、地元乗客の交通機関として活躍し続けている。
 大正三年、熊野権現を倍本神社に合祀した頃は、祭神の謂われ、御神威の事などは正しく伝えられて居たが、氏子の代が替わるに従って、熊野権現が奉られていると言うこと以外、当時の流れが解からなくなって行った。
 果ては、開拓時代に熊が出没して農作物を食い荒らす事もあり、熊抜の神だと言いだす者も出てくる始末となった。
 一方、明治三十五年、東九線北十七号に創紀したとされる東中富良野神社についても、時を隔てた大正時代に入った頃から、創紀当時の人達は何らかの事情で転居してしまい、祭神が何であるかも解からなくなっていった。
 表沙汰にも出来ないまま噂話しとなって、東中一円の底辺を密やかに浸透しだした。敬うべき祭神が、解からなくなったでは、済まされぬ不祥事と言う事になる。
 よって、同じ東中地区内で二神を奉る倍本の八幡様を、東中神社の主神として移す事になった。

掲載省略 寄付者名簿 「倍本神社、風害除神寄附者 大正四年四月」
 〈買物控帳〉
  大正四年四月拾五日
             丸山菊蔵、高橋兼吉ヨリ持参
 一、餅米、一斗八升     金、三円六十銭
 一、白米、三升五合     金、五十二銭
 一、半紙、四帖       金、拾六銭
 一、砂糖、中白 一斤    金、二十二銭
 一、餅米、三升       金、六十九銭
 一、御供、鰊        金、拾銭
 一、錠前、鍵        金、五銭
 一、錠前、蝶ツガイ     金、二十一銭
 一、酒、四升        金、二円四十銭
 一、縄、二把        金、六銭
 一、福俵印、餅       金、二十五銭
 一、酒、四合、清水松    金、二十四銭
 一、酒、一升、清水松    金、一円三拾銭五厘
 一、菓子代         金、二円也
         合計  金、拾八円八十六銭五厘也
倍本神社の八幡様を、東中神社の主神として遷宮、奉納
 大正十年、倍本神社の八幡様を、東八線北十八号東中市街地の神社社殿への奉納が、氏子の皆さんの労力奉仕により成しとげられた。
 この時、神霊を倍本境内の高い所から、低い東中市街地の境内へ下げるのは良くないので、六尺以上の土盛りをし、その上に神殿を安置するようにと、両地区の氏子の間で決め事が交わされていたが、その頃は機械力も無く、人の力で六尺以上の土盛りをする事は容易でない為、この決め事は実現しなかった。
 八幡様を東中市街地に遷宮する時、露払いで御幣をかざしたのは、地元東中の氏子佐古敏雄氏であった。今佐古敏雄氏は、岐阜県総和町で木材商に依って大成し、余生を過ごしている。
 八幡様を東中市街地北十八号に移した時の事情について、上富良野町百年記念史には、「倍本の八幡様は、第一次世界大戦による豆景気(豆の価格高騰)の後退で人口減となり、東中神社に合祀した」と記述してある。しかし、実情は、合祀の前の年に、東中神社の神殿を立派な社に建て替えている。
 その後、倍本神社では熊野権現を四十八年間、奉っていた事などを裏づけとして、前記の人口減による移遷の説は異論である。
 東九線北十八号に奉られていた神霊は、神名が解からないまま、倍本神社の八幡様と合祀されたのである。
 この合祀によって、空殿となった東九線北十七号の神殿は、東六線北二十一号の秋葉明神境内に移設されて、社の神殿として今も奉られている。
 倍本神社の神殿は、東中市街地東八線北十八号の現在地に移設して、倍本八幡神宮と明治三十四年より東九線北十七号に奉られていた祭神が、合祀されたのである。
倍本神社の秋祭り
 大正十年頃、倍本神社の秋祭りが盛大に行われ、大変な賑わいであった。秋祭りの前日には、上富良野市街地から髪結いさんがお弟子さんを連れて来ていた。農家の縁側で、大鍋でお湯を沸かし、小さい女の
 子やおっかさん(主婦)達が、市街より来た髪結いさんに、髪を結ってもらっていた。
 倍本地区の氏子や子供達は、年一度の催しを楽しみにしていた。
 又、その日は、青年が集まって木枠の灯篭を作り、半紙に色筆で満絵を描き、参道の両脇に並べた。夜はその中にローソクの御神燈を灯し、詣でた大勢の人達を明るく照らしていた。
 荘厳極めた夜の参道は、市街の髪結いさんに結ってもらった日本髪着物姿(和服)でおめかしをした女衆、木綿カスリ着の子供達、伴天を羽織った若い衆など、大勢の人垣で夜遅くまでにぎわっていた。
 その頃、近隣神社の秋祭りで最も盛んに行なわれていた催しものは、農耕馬の競馬と素人相撲であった。
 倍本神社では競馬は無かったが、青年相撲は毎年恒例となっていて、お互いに相手の技量を知りぬいている豪の者が集まって来た。
 各地区(東中第一分団、第二分団、本幸、富丘、旭中等)からの者は、神社の秋祭りに決まって顔を合わせる馴染み達でもあった。
 今年こそはと期待をかけて腕組みする若者の、むんむんとした迫力が土俵の廻りに漂って、行司さんの威勢の良い供はっけよい、のこった、のこった做の掛け声で、百姓仕事で鍛えた青年達は、土俵の上で力と技を競いあった。
 その相撲の土俵は、倍本神社参道の登り坂の途中、左手側にあった。
 昭和十五年(千九百四十年)は、日本の建国以来記念すべき、二千六百年を向かえた年であった。
 東中小学校では、日の丸の旗行列でこの慶事を祝っている。
 更に、東中小学校同窓会が、紀元二千六百年の記念事業として、学校校庭に御影石の奉安殿(天皇陛下の真影と教育勅語を安置した建造物)を、新たに建て替えた。
総イチイ(通称、オンコ)造りの旧奉安殿は、倍本熊野神社境内へ
 倍本の八幡神社を、東中市街地に遷宮した時、神殿も共に移設した事の見返りに、大正四年(仁徳天皇の即位に祭し)に建立した旧奉安殿の建物は、倍本の熊野神社境内に移設された。
 昭和十六年の夏、この建物を舗道車に乗せ、馬道を馬引きで倍本神社に運んで来たのである。
 イチイの木で、総仕上げされている旧奉安殿の建造物は、東中の氏子達に見送られて、農耕馬(馬追い重綱信一、神谷静馬)が引く舗道車により、東中市街地を出発し、北十九号道路を東の山に向かって上って行く。

  掲載省略 写真 のぼり旗の奉納板
  掲載省略 写真 倍本境内で解体をのがれた奉安殿建造物

 倍本へ行く途中、西谷木工場が在り、その社宅が立ち並ぶ集落まで来た。
 ふいご火をおこし、鉄を焼き硬い刃金を張り、金槌で叩いて開墾鍬や鎌などを造る鍛冶屋があった。この林鍛冶屋の前まで来た時、馬の足を休め、一服する。
 馬には、水を飲ませ、キツ(馬の弁当箱)に入れた飼い葉(細かく切った稲わら、ニンジン、えん麦の餌等)をやり、一息いれる。
 この舗道車に付き添った部落の人たちも、日本手ぬぐいで汗を拭き、腰を下ろし一服入れる。
 皆、刻みタバコをキセル(煙管)に詰め、火をつけてうまそうに吸っている。
 ひと息いれて再出発、広瀬元司宅の前からべべルイ川の木橋を渡り、北二十号道路を上り左へ曲がり、坂道の参道に入る。鳥居の前まで来た時、氏子総代の神主(この役は、十一東、十一西、十二部落の会長が、毎年、廻り番制であった)が、『ここからは、馬のまま通る訳には行かないだろう』と言って、建物を積んだ舗道車を止めた。
 鳥居は、『俗界と聖なる領域を画す関門であるから、馬を外して人力で担ごう』と言い出した。

  掲載省略 写真 倍本神社の参道登り坂

 しかし、『この場合は致し方ないだろう』、『このまま、馬で引き上げよう』と、意見は二つに割れた。
 人力で担いでいて、足でも滑らせたら大勢の怪我人を出す事になる。
 それは、馬も同じである、馬が足を滑らしだしたら、下までずり落ちてしまうだろう。倍本神社の参道は、それ程に急な登り坂であった。
 約三十分程意見がまとまらないまま、時を過ごしていた。
 『早く決めろ!』、乗馬ズボンに印半纏を羽織った威勢のいい若者(木村哲男氏等)が、檄を飛ばしていたのが、今も印象に残っている。
 山頂の神殿の裏手に馬を連れて行って、長いワイヤーで引き上げようとの案も出ていた。
 結論は、馬を外して、舗道車に積んだまま、人力で引き上げる事に話が決まった。
 倍本神社の参道は、急な坂道である。若者たちは、車の前後にパッキンをかまし、転がらないようにして、旧奉安殿を積んだ舗道車から胴引きを外し、馬を切り離した。
 人力で引く若者達のヨイショ、エンヤショの掛け声は、かなり長い時間、倍本の鎮守の森に高く響いていた。
 開拓時代に、東九線北十七号に東中富良野神社として創祀し、その後、祭神が判らなくなった神は、天照皇大神(大日霊女貴之命)との別名もあり、護国の神で、日本国民の祖神は、厳密には天皇家の祖先である。
 日本国民は、概ね天皇家から分かれて来たので、天照皇大神は、日本国民の祖神と言っても良いと思う。この上の神となると、滋賀県多賀町にある、多賀神社の祭神で、伊邪那美命(いさざみ)・伊耶那岐命(いざなぎ)の両親の神である。
 熊野三所権現も同じく、この両神とさらに、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀っている。
 因みに出雲大社の祭神である、大国主命(おおくにぬしのみこと―大黒さん)は、須佐之男命の第六世に当たる。
権現様の合祀の日
 昭和三十八年三月二十八日、長い間、氏子と共に歩んだ権現さまと別れる日が来た。東中神社への合祀の日である。
 合祀についての是と非については、各地区の間で、色々と議論が交わされて来た。
 この頃は、東中地区の人口が減少傾向にあり、神社の維持管理の問題が持ち上っていた。
 また、自衛隊演習地として地区の農地、山林の買い上げ(昭和二十九年、防衛庁)が決まり、東中第十三部落、二十戸の移転が迫っていた。
 議論の末、倍本神社の存続が困難との認識に立ち、倍本地区の有志南米次郎町議会議員、實広清一東中住民会長(十一東部落会長高橋正一、十一西部落会長小松博、十二部落会長佐藤根照之)等の発案で、東中神社に預けるよう結論が出されて、合祀の運びとなったのである。
 この頃、東中で仏教の殿堂、東九線北十九号の専妙寺(長尾乗教住職、息子長尾哲夫は東中中学校の教師)も閉寺となり、岩戸景気も蔭りを見せて、農村からの離農、転出者が増え出した時期でもあった。
 新年の初詣には年頭の挨拶を交わし合った思い出の参道、また、松並木の大木などに万感を秘めて、権現様をお慕いする老若男女が、お別れに集まっていた。
 氏子が馬を仕立てて上富良野神社まで迎えに行き、生出宮司の厳かな祝詞が終わると、巫の白布に被われた依代に、「諸刃の剣」が簾の奥から、仮の祭壇に移された。
 ここで、神主の言葉が伝えられた。
  『人は神と共に生き、神と共に栄えて行くのです。神を離れて人は無く、人と離れて神も無いでしょう。苦しい時も、悲しい時も、又、楽しい時も、神仏の心を師と仰ぎ、強く生きぬいて行くのが、正しい、生き方ではないでしょうか。』
 人垣を縫って、老女の啜りあげる、惜別の情が、伝わってくる。
  『権現様を東八線北十八号に移されましても、氏子の皆様は、時折に参詣を心がけられまして、東中を一つの里として、互いに、心を通わせてゆく事で、この地が尚一層栄えて行くことでしょう。』
 静粛な境内に、生出宮司の言葉が続いていた。樹影に残る堅雪が、足を冷やす。すき通る程の青空だ。
 柳のつぼみがいま、ふっくらと半身を現している。
 春の開墾の始まった五月、南東の本幸、富丘の方面から吹き下ろしてくる山嵐。蒔き付けを済ませた畑の表土が、作物の種もろ共、強風で飛ばされてしまう。
 思い起こせば「長い、長い、日照りが続いた夏の夜」の雨乞いで、権現様に御すがりした事があった。
 大戦の折、出征兵士の武運を祈願した事もあった。
 人それぞれに、今は過ぎ去った思いを浮かべ、権現様と共に参道を下りて行った。この時まで熊野権現を奉斎していた神殿は、今は空殿となって東中神社本殿横の境内に残っている。
アジア圏の除福と奉安殿建築の関係について
 これは一見、神を祭ってあった社と言うより、奉安殿としての色彩の方が強く残っている。元もとが、奉安殿としての建造物だからである。
 日本全国に、造営された奉安殿は、千九百二十年後半から三十年代(大正後半から昭和初期)にかけて普及され、天皇陛下の御真影、教育勅語謄本などを、奉安するために、学校の敷地内に作られた施設であった。(岩波書店広辞苑第五版参書)
 尚、天皇陛下の御真影と教育勅語を安置する東中奉安殿造営は、大正四年十月二十九日、全部木造、一位(オンコ材)の本殿が当初工匠松岡氏、宮大工鹿島亀蔵氏によって完成した。
 二代目、東中奉安殿は、紀元二千六百年(昭和十五年)記念事業として、東中小学校校舎の北側の地に、貴重で珍しい御影石の石材で造営された。
 建築に当たっての基礎石運びは、当時の尋常小学生、尋常高等科の生徒、総出でベベルイ川の浅瀬より野球の球ぐらいの石を、人の手による手渡し作業によって行ったのである。
 この時代は、その位、大勢の子供達が居たと言う事であり、過酷な作業に耐える集団教育、道徳教育が徹底されていたのだろう。
 この様にして、皆さんの労力奉仕と、高度な建築技術により、御影石の立派な奉安殿が建立された。
 児童、生徒は登校時、校門をくぐり奉安殿の前まで来ると、立ち止まり帽子を脱ぎ、御真影に拝礼をして心を清め、校舎玄関に向かう。帰省時も礼儀正しく、御真影に深く拝礼をする事が戦時教育の定めであった。
 第二次世界大戦が終わり、日本国内に連合軍が入って来た頃、全国の教育所などにあった奉安殿は、軍国主義の追放に依ってことごとく取り壊されてしまった。
 今ここに残されている由は、元倍本神社の神殿として、鎮守の森の奥深く鎮まっていた事に依って、解体を逃れたのである。
 この建造物は小さな建物であるが、唐(中国の建築技術)伝来の奉安殿造りとしては、全国的にも極めて希少価値が高いだろう。
 昭和四十八年六月十五日、上富良野町議会に於いて論議され、この社殿は町の文化財に指定され現在に至っている。
 平成十四年十一月九日(土)「二〇〇二年、日・中・韓国民交流年記念事業」として中国、韓国、台湾の徐福と奉安殿との繋がりについて、各国の歴史学者に依る東中奉安殿、現地視察団の調査によって、実証されたのである。
 東中神社境内に奉納され、上富良野町文化財に指定されている奉安殿の建築様式は、約二千数百年前、中国から渡来し日本の歴史に影響を与えたと言われる。徐福に深く係わっていることが解明された。
 「日・中・韓、除福を語るレセプション」が町公民館で開催され、李連慶中国徐福会会長、潘屹香港徐福会秘書長、李同善大韓民国文化院院長、徐鴻進元台湾国民大会代表、三善喜一郎日本徐福会副会長他四十六名の参席により、中村町議会議員の進行で、交流会が盛況の内に終了した。
 徐福を語る会に出席した東中関係者は、次のとおりであった。
 尾岸孝雄上富良野町長       岩崎治男町会議員
 菅野稔郷土をさぐる会会長     西谷良二町郷土館員
 野尻巳知雄郷土をさぐる会     三橋功東中住民会長
 大森金雄郷土をさぐる会員     尾崎英幹研究会員
 山本春美研究会員         上坂明男研究会員
 佐藤実研究会員          羽賀美代子郷土をさぐる会員
 村上久代観光協会副会長      西谷容子東中研究員
 山本信子東中研究員
東中神社の春祭り
 昭和二十年八月十五日は、日本国天皇陛下が、昭和十六年より続いていた太平洋戦争を、連合軍に降伏し終戦を宣言した日である。
 昭和二十一年春頃より樺太、満州方面より引揚者が親戚、縁者を頼って、故郷に帰還し始めた。
 又、東京、大阪方面の内地より、戦災による集団帰農者も農村地帯の東中に入られ、地域の集会所等を仮住まい住宅として提供し、共存共栄を図っていた。
 食料難、物資不足のひもじい思いをした日本国中が、一番貧乏のどん底の生活をしいたげられた時代であった。
 東中神社の春祭りは、雪解けが進み、東中の風物詩、春の季節風で砂ぼこりの立つ、毎年四月十五日と決まっていた。
 氏子(各部落の代表者)は早朝に東中神社に集まり、上富良野神社より神主を呼んで、今年一年の豊穣祈願、家内安全のお祓いをし、お神酒を交わし祭事をしめた。
 東中地域住民の春祭りの昼間の楽しみは、農耕馬による優勝旗を賭けた輓馬競争である。馬橇に土納俵を積んで、三歳馬、四歳馬、五歳馬などに分かれてのスタートである。
 輓馬競技コースの途中には、第一障害、第二障害と二箇所に山坂の障害があり、障害を一早く上り切り、汗をかいての馬の力を競いあった。優勝馬の馬主には、馬の肩の背ずりに掛ける、金文字の輝く化粧前掛けも副賞として与えられた。
 昭和二十二、三年頃は娯楽の無かった時代であ
 り、地域の青年団員が集まり、東中春祭り余興芸能発表会を行うようになった。
 当時、食料増産が叫ばれる世の中、農村の若者は就農する者が多く、その殆んどの者が青年団に入団した。
 この頃は、第一分団、第二分団、第三分団の三つの分団が結集し東中青年団を形成していた。
芸能発表に向けた、歌謡曲の練習は、主にアコーデオンの、伴奏に合わせてのものであった。
日本舞踊や股旅姿、マドロス姿等の踊りは、ゼンマイ蓄音機の盤にレコードをのせ、レコード針による音楽を聴きながらの練習であった。
早春の風物詩、雪解けが進むと、田や畑のあちこちに丸い小盛の堆肥の山が出きる。昼間は堅雪の上を、馬糞(堆肥)をソリに積んで、畑に運ぶ農作業で疲れている体で、青年達は田舎芝居や演劇など、毎夜練習を重ねて春祭りの日に備えた。

  掲載省略 写真 東中春祭り(昭和37年)青年団芸能発表大会

 前日より東中小学校屋内運動場を借りて舞台準備を行い、いよいよ、発表会当日がやって来た。青年団員は朝早くから、木造総二階建て(六間×十二間)の東中青年会館(後に、この建物は、岩切院長常勤の東中診療所として開設)に集まり、衣装などの準備を始める。
 春祭り最大の催し物、東中青年団主催による東中神社春季祭典余興演芸会の開幕である。歌謡曲や踊り、演劇などの出し物に、大きな声援も飛びかい、楽しい素人演芸会である。
 東中農業協同組合を先頭に地元商店街、住民有志より金一封が贈られる。木戸銭(入場料)無しの演芸会では、皆様より上がった御高志により、舞台飾りや役者衣装の経費に当てている。
 幕の合間に青年団の幹部が、上がった御花の紹介をする、「一つ金は、二百円なり、二百円なり、右は西谷文房具店様より、当青年団御ひいきとあって、下し於かれましたる御はなの御ん礼、誠に有り難うございます」と心を込めて読み上げる。又、御高志を頂いた方の名前を、半紙に墨筆で書き、舞台横の壁に張り出して、お礼の敬意を表している。
 最後の出しものは金色夜叉を熱演し、終わりは夜中の午前様に成っていた。中学校運動場の会場いっぱいの見物客は、年一度の地元の青年の出演に、大喜びで万来の拍手を送った。
 東中一円の見物に来た人達は、我が家の遠い人も近い人も皆、素人演芸会の演技に満足感を味わい、暗い夜道を歩いての帰路に着いた。
 その後、昭和五十年代に入り、農機具等の開発による機械の導入と除草剤や農薬の進歩により、人手や労力の削減で、農村人口が著しく減少しはじめた。
 演芸会の出場者が少なくなり、東中老人睦会や農協青年部、農協婦人部、若妻会等に出演依頼をし、各団体の協力を得、素人演芸会を続けて来る事が出来たのである。
 しかし、東中神社の歴史と共に歩んで来た青年団主催の芸能発表大会も、団員の減少に依り、平成十一年春祭り開催を最後に、長い歴史に終止符打つ事となった。
 長年続いた春祭りの、素人芸能発表大会の幕を閉じた事は、地元東中に住む者としては寂しい限りであるが、情報化時代に台頭してきた今日、お茶の間で気軽に見聞き出来るテレビ、パソコン等の普及も、その原因の一つであると思っている。

  掲載省略 写真 東中八幡神社鳥居
東中神社の秋祭り
 純農村地帯、東中原野の稲穂が黄金色に色付き、畑には馬鈴薯や豆類の収穫期を間じかに控えた九月四日、五日が東中神社の秋祭りと決められている。
 東中神社秋祭りの前日、鳥居に吊るす大しめ縄飾りを作る為、稲わらを持って長老たちが集まって来た。木槌で稲わらを柔らかく打ちながら、左前に手よりで縄を編む。長老たちはよってたかって、この縄を三本寄りに寄せ編みにしていく。見るみるうちに大しめ縄が出来あがった。
 早速、木の脚立に上がり、神社参道に建つ大鳥居に大しめ縄の飾り付けである。
 新しく取り替えられた約十六貫(六十キロ)程の大しめ縄が、神聖な神社の境内に相応しく、威風な姿を誇り、日進月歩する東中の未来を守り続けている。
 秋祭りの余興は、ドサ回りの役者芝居である。この頃は、いろんな芝居一座があり、旭川では常盤蘭子、常盤麗子などの一座が、地方巡業をして歩いていた。
 会場は天気の良いときは、東中小学校の中庭に舞台を作って公演し、見物客はゴザを敷いて座った。
 雨降りは屋内運動場で行われ、昼の部、夜の部と二回の興行であるが、娯楽の乏しい時代である、老いも若きも農作業を休み、楽しい余興見物でお祭りムードが盛り上っていた。
 その後、東中住民会、東中公民会が共催する、各部落(現在の農事組合)対抗のソフトボール大会、ゲートボール大会、パークゴルフ大会等がお祭り行事として行われている。

  掲載省略 写真 昭和58年:しめ縄作り、東中老人睦会長長沢徳次郎氏
郷土芸能東中清流獅子舞の発足と伝承
 昭和五十五年、東中睦会の主要メンバーが集まり、東中の母なる川、富良野岳のふもとを水源とするベベルイの清流、この名を貰い、東中清流獅子舞と名付け、保存会を発足させた。
 発足に当たり、手探りの状態からではあったが、獅子舞の本流の地、越中とやまの薬売り、宮原氏が富山県氷見より東中を訪れていた。
 早速、富山県出身の家庭配置薬師、宮原氏の指導を受け、踊りの振り付け、伴奏の楽曲などの練習に取りくんだ。
 先代が富山県出身の辻甚作、岩ア與一、長沢徳次郎等が中心となり練習を始めた。
 清き水の流れに添って、笛や太鼓、鉦の音と共に、天狗が面白く舞い、それに獅子が挑戦しながら舞い遊ぶ姿を想像して開発したのが、東中清流獅子舞いである。
 従って伴天の背中には「清流」と書き、両方から稲穂で囲み、袖には川の流れを表し、洋々と流れる水の姿を表した物で、登り旗にも同じ模様と清流が描かれている。
 東中清流獅子舞、設立メンバーは次の方々である。
     会長    中西 覚蔵  七十四歳
     振り付け  辻  甚作  六十五歳
     獅子頭   岩ア 與一  七十歳
     獅子後尾  田中 正留  六十五歳
     天狗    磯松正一郎  六十八歳
     打楽器   三熊由五郎  七十二歳
     太鼓    岩田 喜平  七十二歳
     鉦     高野菊次郎  七十四歳
     鉦     小柴  清  六十五歳
     笛     長沢徳次郎  六十八歳
     笛     谷口  實  六十八歳
           谷口 久次  七十歳
           高橋 寅吉  六十七歳
           飯村  斉  六十五歳
 その後、中西覚蔵氏を中心とした初代東中清流獅子舞の仲間達は、激しく舞う獅子踊りや伴奏の笛を吹く事に、年齢的、体力的限界を感じ、若い世代に引き継ぐ事とした。
 平成元年夏頃より、東中の中壮年が集まり、東中清流獅子舞について話し合いが行われ、会の設立の準備を行なってきた、
 この年の十二月、高松成章、松井政一、佐藤実等を中心に、二代目・東中清流獅子舞保存会の誕生をみた。
   東中清流獅子舞保存会、会員名
        (平成二十一年一月十日現在)
     会長、獅子後尾     高松 成章
     副会長、太鼓      松井 政一
     事務局長(会計)、天狗 佐藤  実
     獅子頭         川口 利美
     獅子頭         見附 悦治
     獅子頭         川上 幸夫
     獅子後尾        山本  登
     獅子後尾        安井 昇一
     笛           幅崎 保夫
     笛           丸山 久道
     鉦           岡崎 満義
     天狗          出倉 哲夫
     天狗          尾崎 英幹
     天狗          小田喜美男
     太鼓          三熊 邦彦
 その後、練習を重ねたメンバーは、東中神社の秋祭りの主役として東中地区の十の班会館を回り、清流獅子舞を披露して、お祭り気分を盛り立てている。

  掲載省略 写真 平成15年9月5日:獅子舞披露(東中秋季祭典)

 尚、毎年七月、ラベンダーが紫のジュウタンを満開に咲きほこる季節に、上富良野町、上富良野十勝岳観光協会が主催して開催されている「花と炎の四季彩まつり(ラベンダーまつり)」のイベントとして、日の出公園の舞台に出演、大勢の観光客の前で勇壮な演技を披露している。
 ある日、東中に頼もしい若い芽が育った。
 東中中学校の生徒たちが、東中清流獅子舞を伝承し、舞を踊るという事である。
 中学校の先生方のご協力と父兄の御理解により、生徒達は激しい練習を重ね、先輩伝来の清流獅子舞をマスターし、東中神社秋祭りに参加、自動車を連ねて地域の要所を廻り、立派な成果を披露する。
 最終は、旧上富良野町農協東中支所の前で、大人の獅子が二頭、中学生の小獅子が二頭、笛や太鼓、鉦の音の伴奏にのり、皆で四組の天狗と獅子が一体となって、勢揃いしての豪華で迫力のある、伝統芸能の舞い踊り、人目見ようと集まった観衆を魅了し、鳴りやまぬ大きな拍手喝采を受け、秋祭りの幕をとじた。
今後も東中清流獅子舞は、上富良野安政太鼓と並び、町の郷土芸能として、益々、重要な役割を果たす事と期待する所である。
東中金比羅神社の由来
 東中の東八線北二十号の突き当たりの小高い山に、金比羅神社が奉られている。
 明治四十四年、四国讃岐出身の同郷者十川、森田、太田、高木の諸氏合議により、東八線北二十号の、山頂に四国の金比羅神社の御神体をうけ、仮宮を造って奉っていた。
 大正十四年、五十嵐農場開放の時敷地を解放され、数名の用地寄付者により、落葉松、サクラを植林した。
 その後、金比羅祭神として敬神の人々の後援協力により、守り続けられている。

  掲載省略 写真 金比羅神社春祭り大祭(昭和19年4月10日氏子一同)

 東中小学校より、神社までの距離(約一キロメートル)は、小坂を登り山頂の緑の木陰で一休みして、遠足弁当を食べるのに絶好の場所である。金比羅山は、小学校新一年生の春の遠足の慣例コースとして、利用されている。
 春の祭日は、四月十日である。この神社には、昔、舞いを踊ったと思われる古めかしい獅子頭が保存されている。地元の人たちが寄って、参道の両側に幟を立て、神殿にお飾りを上げ参拝を済ませて、さかずきでお神酒を飲み交わし、その年の豊穣を祈願する。
 秋の祭日は十月十日、新米で木杵モチを付き、神前におかざりもちを上げ、モチ撒きをして集まった子供たちを喜ばせた。
 秋のそよ風が吹き、もみじの色づいた落ち葉が舞い散る。四国の総本山、金比羅神社を連想する坂道に丸太を敷いた階段があり、鎮守の森にふさわしい参道である。登りきった山の境内広場にある丸い土俵で、子供相撲が行われ、賞品に帳面や鉛筆をもらい、参加した子供たちは、得意げに家に帰って行く。
秋葉神社の由来
 秋葉明神を火の神様として奉る母神が大焼傷して、その為【大】の字が付けられず、只、明神とされている。
 開拓時代、東の山林に火が入って燃えてきたが、東中一部落に奉られた秋葉神社の所で、火はぴたっと止まった。又、ある年、西の方から野火が入って燃えてきたが、その時も、秋葉神社脇で止まったのであった。(高松高雄談)
 現在の秋葉神社社殿は、東六線北二十一号、旧上富良野町東中ゴミ捨て場に通じる、土地改良区幹線用水路北側に面した、山手の小高い林の中に奉られている。

  掲載省略 写真 金比羅神社鳥居(平成21年2月写す)

 この境内敷地は故高松由平氏、その後、高松高雄氏の山林私有地である。
 創祀は明治三十七年、高松由平氏(明治、三十三年、岐阜県大野郡庄川村より入植。同三十七年開拓地を無償貸付で受け開墾し、同四十一年七月、買受けて農業を続ける)が遠州、遠江の国(静岡県)に働きに行き、遠州秋葉神社の御神霊を受けて来て、高松由平氏個人の屋敷、湧き水の所に奉ったのが始まりである。

   東中金比羅神社 昭和27年4月、当時の氏子(4東部落住民)
江森 仙作 太田小太郎 上田 美一 太田晋太郎
堀町林兵衛 山口 儀八 尾岸 喜作 尾岸喜右ェ門
松田吉次郎 青地 春男 上田 茂松 松田 與吉
見附 三郎 滝口  勇 吉川 喜治 松田 勝栄
太田 嘉吉 広瀬 健二 三浦吉五郎
 少なくなった氏子であるが、今も厳かに、伝統ゆかしい、東中金比羅神社を、守り続けている。

    平成20年、参俸者、協力者
氏子代表 松田 勝利
会計、事務局 江森 孝良 岩崎久仁男 谷本 博英
太田 信夫 見附 悦治 中河 竹春 田井  繁
太田 清助 青地  実 安井 今雄 上田
佐藤 佳史 熊谷 幸一 近藤  明 小田 博秋
岩崎 治男 森本  清 高松 武雄 磯崎 司典
 ある時、火事に遭ったが、幸いに御神霊は難をのがれて現在地に移設された。
 大正十年、東中東九線北十七号にあった、東中富良野神社の建物を、秋葉神社の神殿として移設し、今日に至っている。
 開拓当時、山火事が多かったので(山伏せの神)として奉ったが、それからは、奇妙に山火事が無くなった。
 祭日は毎年、四月十五日、この日は、高松本家の住宅座敷の間仕切り戸、縁側の雨戸等を開放し、草モチ(ヨモギモチ)を搗き、祭殿に奉り、お祭りのご馳走を作り、皆で賑やかに、秋葉神社祭りで無災祈願をして酒宴を開き、夜の更けるまで飲み明かしていた。
 又、浪曲師を招いて浪花節を聞き、三味線とうなりの節まわしに心打たれて、楽しい秋葉神社の祭り事である。

  掲載省略 写真 秋葉神社の神殿(大正10年九線神社の建物を移設使用)

 その後、故、三島新右ェ門、(明治四十年、岐阜県大野郡荘川村より、東六線北二十一号に入植)後、高松海夫等、近所の集落十四戸によって、祭事を行ない秋葉神社をお守りしている。
〈秋葉神社氏子〉
    高松高雄、勝美
    高松武雄、宮子
    高松海夫
    高橋孝信
    前田登一、コト
    前田忠義、タカ子
    岩山昌由、桃子
    住岡常年
    高木 諭
    吉川文夫、千恵子
    大谷繁雄、フミ子
    三島森三、みきえ
    三島敏末、すえ子
    杉本弥平
 東中に奉られている、神社は以上であるが、東中住民会主催で行っているのは、東中八幡神宮の春、秋の祭典奉納と諸行事である。
大晦日の焚き火と、青年達による出店屋台
 東中神社の年越し、大晦日には、氏子(東中住民会長、副会長、年廻りの各班長)が焚き火を燃やして、参俸者を御迎えする。
東中若手の青年達により、神社参道脇にテント小屋を立てて即席の屋台を出し、年越しの参拝に来た子供、幼児達にサービスをする。綿あめ、ようよう釣り、ドン菓子、金魚すくい、たこ焼き、商売で無いので無料で遊んで食べてのコーナーである。
この出店コーナーは、始めてから約十年程になるが『お兄さん、ありがとう!』と、毎年子供達に好評を博し、大晦日の恒例行事として続けられている。
新しい年始め、神社提灯が足元を照らすしめ縄の大鳥居をくぐり、年越しの夜冷えした参道を進み、新玉の鈴を鳴らし、お賽銭を捧げ、力強く柏手を打ち、新年の家内安全、無病息災を祈願する。
御神酒を授け『新年おめでとうございます』年頭の挨拶を交わし、夢と希望の新たな人生を迎えた元旦、年の幕明けである。
庚神堂馬頭観音堂
 明治三十三年頃、有塚利平氏の発願にて東中地区に大師講が組織され、講員の集会所として、大師堂を東中東八線北十八号に宅地三十アール余りを有し建立された。
 大師堂が基盤となり、岩田実乗師(弘照寺開基住職)により、明治三十八年、真言宗説教所が開かれ、爾来大師様の法踏を掲げられていたが、富良野原野開発に伴い、鉄道、交通の便利の良い、中富良野村基線北十二号に堂宇を新築、大正七年に移転する。
 創立時代の建物を弘照寺出張所、供源照庵做と名づけ尼僧、寄谷源陏師が入居し保管、管理に当たるが、時代の推移により源照庵を昭和十五年、上富良野墓地に移築する。
 戦後、地域住民の要望にこたえ、宅地三十アールを公共施設に分譲し、庚神堂、馬頭観音堂等を現在地に移転、永久保存の為弘照寺境内地とする。

  掲載省略 写真 馬頭観音苦薩堂

 昔は馬耕による農業が行われており、冬は木材の運搬等重要な労力として馬は貴重な存在であった。毎年、東中神社秋祭りの折、中富良野弘祥寺の住職を招きお経を上げ馬魂の供養を行っている。
東中開拓者顕彰の碑
 北海道開拓百年、上富良野町開基七十年を記念し、東中開拓の草創期の人々が一一六名を刻み、その労をねぎらい、功績を讃えて東中開拓者顕彰の碑を建立されたものである。

  掲載省略 写真 東中開拓者顕彰の碑
  掲載省略 写真 東中顕彰碑、御篤志者名板石

 今日の東中の文化、産業の発展は、原始の森を切り開き風雪に耐えた、先人たちの努力のたま物であり、碑建設に当たっては、地域が一丸となり東中開拓顕彰碑建設委員会が組織された。
 碑文は、過去東中東五線北二十一号在住者、本町出身の参議院議員、石川清一氏による。
          --碑文--
遥かに明治をしのび、北海道に政治の手がさしのべられて、満1年、その後、わが郷土、東中が拓かれて70年、父祖の手よる田畑、12町歩と、その土に、にじむ汗の香ひ山に残した鍬の響き、遥かなる日より書きせぬ。
べべルイの清流、泰然と平野を見おろすオプタテシケの容姿、この地に風雪にたえ、苦難を偲び、原野の森を拓き、明日への灯を燃やしつづけた、幾多の先人を偲ぶ
今や、輝かしく築かれた東中の文化、無限に伸び行くこの地の産業、喜びに溢れて生きぬく人々、われ等の父祖が朝には、十勝岳に拍手を打って祈り、夕べには、先祖の位牌に敬意と感謝の誠を捧げん。
ここに同志、相ばかり、明治30年以来、拓北の雄図を胸に、深く秘めて津軽の海を渡って移り来し、草創期の人々の名をつらねて、その労をねぎらい、功を讃えて碑を建つ。
既に、この地より国家社会に有為の人材、数多出でたり、老も若きも、この碑に刻まれし開拓者の雄魂に対し、心から平れ伏されたし
昭和43年5月、詩
 この碑に対しての、敬意と感謝の誠を捧げる儀式は、毎年、東中神社春祭り祭事の後、開拓者顕彰の碑前で行っている。
 生出神主のお払い、祝詞に続き東中住民会役員、約二十名の参牌者の玉串奉てんにて、恒例行事がおごそかに続けられている。
 東中の人口は穏やかながら、少子、高齢化と、地元後継者不足により、少しずつ減少傾向にありますが、先祖が築き上げた、豊富な水と、豊かな土地、地元に根ずいた数多の神社に尊敬の誠を捧げて、輝く未来に向かって前進して行く事であると確信している。

  掲載省略 表 上富良野町の人口と世帯数
  掲載省略 表 東中地区の人口と世帯数

機関誌   郷土をさぐる(第27号)
2010年3月31日印刷     2010年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一