郷土をさぐる会トップページ     第27号目次

各地で活躍している郷土の人達
故郷に想いを寄せて

横浜市栄区在住
  清野 彬(六十八歳)

はじめに
 私は昭和一七年(一九四二年)三月に樺太(現在ロシアのサハリン)で生まれた。
 父、清野達が職業軍人(終戦時、陸軍少佐)として赴任していた関係で、生後百日目くらいで母の生地である上富良野に移った。
 終戦までの幼児時代には三重県の宇治山田と千葉県の四街道に数ヶ月いたと母、清野ていから聞いたが、むろん覚えてはいない。
 上富良野町には物心付いてから高校生まで過ごしたことになる。住まいは草分二で、西四線北三十号の国道二三七号線脇に現在でも古い家がある。
 平成一三年(一九九七年)町営の開拓記念館として応接間・玄関・奥座敷二部屋・仏間・廊下などを分離して移設公開される事になったため住宅が改築された。
  掲載省略 写真 上 旧邸−下 現在の家
  掲載省略 写真 開拓記念館
 事務所と展示室を除く部分がそっくり復元され、この家は草分神社の隣に開拓記念館として公開されている。
 居間、台所、寝室、二階だけになった分離後の家には九一歳の母が一人で住んでいる。
小学校時代
 当時、保育園は市街にはあったかもしれないが、郊外にはなく、最初の集団生活は小学校に入ってからだ。
 今は草分防災センターになっている所にあった「創成小学校」に六年間を通うことになる。
 同級生は男十人くらい、女の子はもう少し多かったように覚えている。
 卒業時は男十一人、女十九人に増えたが、非常に少人数の学級だった。
 校舎は六教室はなかったようで、そのため混合学級として別の学年と一緒の授業があったことも覚えている。
 担任は学年毎に替わったようで、椿原先生、能登谷先生、竹谷(現茜谷)常子先生、桑田輝市先生、などのお名前が思い出される。他に若い女の先生もいたが、ご病気でやめられ、お見舞いに行ったことがある。
 登下校は冬の厳しい時の方が思い出が強く、当時は農耕馬が多くいたことで道に「馬糞」が落ちており、それを石蹴りのようにけっ飛ばしながら歩いたものだ。
 放課後は家に帰り着くなり、ランドセルを投げ出して、長靴にスキーを付けて近所の山で滑るのを日課としていた。
 貧乏だったため新しいスキーは買ってもらえず、伯父や叔母たちが使い古したスキーを騙し騙し使っていたため良く破損した。桜の板を熱で曲げたようなもので、エッジが丸いため簡単にはカーブ出来ない。そのため上から真っ直ぐ下りるような滑り方になる。
 小さなジャンプ台を造り、飛び降りたとたんスキーが折れてしまったこともある。それでも街へ持っていきブリキを当てる修理をし、新しいのを買って貰うことはなかった。滑り終わって家に帰ると、薪ストーブの側でロウとかワックスやパラフィンなどを塗って、翌日に備えたものだ。
 それにしてもその頃の冬の厳しさはマイナス三十度を超えることが一冬に十日くらいあったので、今から思うと忍耐強さの原点は、そこから始まっているのかもしれない。今では羨ましがられるダイヤモンドダストなども日常的に見ることができた。
食べもののことなど
 終戦直後のことで食べるものは主にジャガイモ、トウキビ、粟・稗・麦入りのご飯で、白米などはめったに食べた記憶がない。
 お腹が空くと野いちご、カリンズ、グスベリ、ヤマブドウ、コクワ(サルナシの実)、グミ、オンコ(イチイ)の実、スモモ、ハダンキョウ、山栗、場合によってはイタドリの軸、スカンコ、ススキが出る前の穂、など四季折々の山の幸を口にした。「食べるものが何もなかったので美味しかったなあ!」。
 後に食卓に白米が出るようになってから、母が作ってくれた納豆を食べたりしていた。大豆を煮て、藁筒に入れ、湯たんぽを入れて布団を掛けると数日から一週間ほどで、糸を引くようになり食べられる。
 ニンジンは今の市場にあるのと違い、癖の強い個性的な野菜だったが、とても甘く特に芯に当たる黄色い部分は生でも美味しかった。隣家の馬の飼葉桶から拾って食べたこともある。後年、韓国へ仕事で行った時に食べたニンジンが、小さい頃に食べたものに近い味で懐かしかった。
 遊びの中では燕麦の粗い粉(家畜の餌にしていた)をしばらく口の中で噛んでいるとガムのようになったのを思い出す。
家畜について
 家には緬羊、山羊、豚、鶏を飼っており他に犬と猫がいた。
 山羊の乳搾りは私の担当で、杭に片足を縛って搾るのだが、山羊が暴れてせっかく搾った乳を全部こぼしてしまったこともある。身体が余り丈夫でなかった母には健康を取り戻す栄養源として、成分の濃い山羊乳と鶏卵は最適だったようだ。山羊と綿羊には父が野草を採ってきたが、動物なりに好き嫌いがあり残す草もあったようだ。
 豚は大きくして売るだけだったが、緬羊は春になると父が大きなバリカンで刈り、それを母が糸に紡いで家族のセーターや靴下などを編んでくれた。
 豚と鶏は殆ど同じ餌を鍋で芋や麦などを煮たものを与えていた。いわゆる地鶏が生んだ卵であるため美味しかった。
中学校時代
 この頃になって父が陸上自衛隊の技官として就職したこともあり貧乏から多少余裕が出たせいか、通学用の中古自転車を買って貰った。覚えておられる方もあるかも知れないが、コースターブレーキ方式といって、ペダルを進行方向と逆に回すと、ブレーキがかかる仕組みになっていた。娘から「最近の若者に人気のおしゃれな自転車にそれが復活している」と聞いて驚いた。
 家が国道沿いにあるおかげで、どんな雪の深い日でも四qほど離れた上富良野中学校へ自転車で通うことが出来た。帰宅の雪道では暗くなるのでライトを点けるのだが、タイヤに付いた雪で発電機が回らず真っ暗になってしまうことがしょっちゅうあった。そうなると自動車や馬そりの轍にはまり込み、転倒するので必死で乗ったものだ。
 中学校は学年ごとに四クラスに分かれ、遠藤博三先生、松野成夫先生(平成二〇年お亡くなりになられた)、増谷道也先生、本郷実先生が学級担任でおられた。学科担任として音楽の藤沢先生、家庭科の植田先生、体操の沖野先生にも、たくさんの教えを頂いた。藤沢先生はその後亡くなられたが、植田先生は先日(平成二一年九月)お会いし、車椅子に乗って通院の途中であったが、「あきらちゃん」とお声を掛けて頂き感激した。
 中学校時代の同級生の何人かが上富良野町の役場に勤め、要職を担われ誇り高い学年になった。彼らが観光や温泉などの発展に貢献されたことで、上富良野町が全国的に知られるようになったと思っている。
高校時代
 道立富良野高校には列車での通学だった。一年生の時にはまだ蒸気機関車が走っており、朝の早い時間に街まで自転車で行き、親戚の家に自転車を置かせてもらい駅に向った。途中駅は中富良野しかなかったのだが、旭川から来る列車が美瑛の坂が登れなくて、後戻りして勢いを付けてから登るためダイヤの乱れがあったのを思い出す。二年生頃になって蒸気機関車からキハ一七系ディーゼルカーに変わり、高速で快適になった。
ただ、初期のディーゼルカーは寒冷地対策が余り良くないため、停車毎にドアから外気が流れ込みブルブルとふるえるほど寒かった。

 掲載省略 写真 蒸気機関車

 またさらにディーゼル化にともなって、今でもあるが途中乗降場といって駅間に停車するための短いホームが新設され、ブルブルの回数が増えた。後に北海道仕様として改良型のキハ二二系ディーゼルカーになり客車タイプの二重ドアで冷気が直接入ることはなくなった。
 国道と平行して走る富良野線が家の前にあったので、鉄道好きになったことは言うまでもない。
 大学時代および就職してからの何年かは、まだ全国の幹線には蒸気機関車が走っていたので、各地に出かけてカメラに納め、当時流行った「生録」と称し、携帯の録音機で勇姿とその音を集めたものだ。
大学から社会人になるころ
 小学校の四年生の時に、担任の椿原先生の家に伺ったときに大きい息子さんから、組み立て式の真空管ラジオを見せていただき、これなら僕にも出来ると閃いたのがきっかけで、将来は技術者になりたい、と人生の目標をもった。

 掲載省略 写真 台湾でのスナップ

 高校は普通科に進んだが、大学はもちろん工学部電気科を目指し東京へ出てきた。最初にもっとも感激したのは富士山が見えたことだ。小さい時から十勝岳を見続けてきたので、どこへ行っても高い山を見ると、心がなごみ安らぐ思いだ。今は横浜に住んでいて、富士山を遠望できる幸せを噛みしめている。
 大学を昭和四〇年(一九六五年)に卒業してオーディオメーカーに就職したが、当時経済状況はあまりよくない頃だったので四月一日ではなく一六日付けに入社日を延期された。
 しばらくして、ベトナム戦争が始まる時期にあたり、その頃の池田勇人政権の所得倍増政策で景気が持ち直したので、随分給料が上がった。
 続く田中角栄政権で道路が舗装されたり、ダムが出来たり、干潟が干拓されたりしたため日本列島は自然や環境が破壊されるようになった。そのため野山に遊ぶ子供達が美味しい果実を食べる楽しみを奪ったのではないだろうか。
 勤務の都合で国内や海外への出張があり、未知の土地や国に行き、大いに影響を受けた。海外では台湾に始まり、韓国、シンガポール、マレーシア、アメリカ、カナダなど異国の風景や風習を身近に見たり感じたりしたことで、その後の人生に何らかの良い影響を与えることができたように思う。
 その後一五年勤めたオーディオメーカーを退職し、大手電機メーカーに転職したことで現在の横浜市に住居を移した。
 オーディオ技術を生かし音響機器事業部で設計をしていたが、会社の方針で、カラーテレビの音響部分の設計を担当するための移動で、埼玉県の工場へ単身赴任をした。通算五年半の間、家族には苦労をかけたと思う。最終は子会社に転籍し、六十歳の定年まで勤め上げることができた。
 とくに病気をすることもなくサラリーマン生活を送ることができたのは、家族が健康であったことや、協力をしてくれたことにもあり感謝している。
上富良野への思い
 今では観光地として人気の富良野だが、私が若い頃には、まだまだ無名の地であった。それが「北の国から」で毎週富良野の景色を見ることができ、全国的にも知名度が上がり、最近も「優しい時間」「風のガーデン」など見られて嬉しかった。また前田真三さんの写真集「丘の風景」によってなつかしい十勝岳や美瑛の風景が全国区になった。
 私が小学生の頃、あまり有名な花ではなかったラベンダーも、富田ファーム、上富良野フラワーランドなど、観光バスのルートになり、シーズンには各地から大挙して訪れるようで、母の家の前の国道が渋滞すると聞いている。
 さらにごく最近では「上富良野ポーク」というのがグルメ好きに話題になっており、ここ首都圏でも見られるようになりつつある。郷里を離れていても上富良野の活躍を知ることは嬉しいものだ。
父のことなど
 父、清野達の出身は新潟県で今の新発田市にあたる。祖先は平家の落人らしいと聞いたが、詳しいことは分からない。
 父は旧制中学校の時に柔道では県内でも相当な腕だったようで、新潟に住む私の従兄弟達も、高校時代に柔道をやっていたようだ。父はその後、陸軍士官学校に進み、いわゆる職業軍人となったが、終戦によってしばらく抑留されたため帰国できなくて、私が小学校に上がってからようやく顔を見た次第だ。父は上富良野をこよなく愛し、昭和五六年(一九八一年)此処で亡くなった。
母のこと
 今の家の地名は「草分」となっているが、昔は通称「三重団体」で、祖父の年代は三重県からの開拓民が多く住んでいた。
 冒頭で書いたが母ていは現在九一歳になるが一人上富良野で当時の木造家屋に住み、町の行政の方々や親戚の方、近所の方にお世話になって元気で暮らしている。皆さんにお世話になっていることを一時も忘れることが出来ない。
 母は大正泥流の体験者で、私の祖父(吉田貞次郎)が当時上富良野村長を務め、大噴火となった十勝岳の泥流被害の復興に当たり苦労したのを覚えていて、自分の生きているうちは、先祖の血と汗の染みこんだ土地と家屋を守るのだと頑張っている。また、当時の泥流の様子を知っている数少ない生き証人として、機会があるごとに体験を話すのが生き残った者のつとめと思っているようだ。
旭川に在住された作家、故三浦綾子さんの著作「泥流地帯」下巻に、祖父・吉田貞次郎と叔母・安井弥生とともに実名で登場している。
 
  掲載省略 図 〈家系図 太字は清野姓〉
  掲載省略 写真 祖母父母
祖父、吉田貞次郎
 祖父は一六歳で三重県津市字一身田からこの地に来たが、長じて兵役の後、上富良野村長、衆議院議員を歴任した。私には十勝岳を眺める祖父の膝の上に、ちょこんと座っていただけの記憶しかない。
 私が小学校一年の時に亡くなったのだが、電灯の点かない生活を見かねた北海道電力の方か村役場の方かは分らないが、病室に当てていた応接間に電気を引いて頂き、私の担当であったランプのホヤのスス拭いが解放されたことを今でも覚えている。
趣味や現況のことなど
 オーディオメーカーに技術者として勤務していた関係で、音楽が好きで、それを聴くため自宅の音響機器を手造りしたこともあるが、今はもっぱら聴くだけになっている。特に往年のジャズが好みである。
 現在は、鎌倉市にある鶴岡八幡宮の道場で趣味の弓道にいそしんでいる。(現在五段)
 また冬になると同年代の友人とスキーに出かけている。北海道「ニセコ」・富良野「北の峰」、山形「蔵王」、長野「白馬」「富士見」などで滑るのを楽しみにしている。近頃のゲレンデは日本語・英語・中国語・韓国語などのアナウンスがあり国際色が豊かになっている。

  ◆ ◆ ◆

 平成二二年(二〇一〇年)四月現在六八歳で、体力的にも気力的にも老人とは感じていない。少しでも社会貢献をしたいと思い、横浜市のシルバー人材センターに登録し、週二〜三日働いている。

機関誌   郷土をさぐる(第27号)
2010年3月31日印刷     2010年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一