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連合青年団のあゆみ

上富良野町大町一丁目 倉本千代子
昭和四年一月十五日生

上富良野町の青年活動の始まりは、「北海道青年団史」によると、大正九年四月一日に上富良野村連合青年会が設立され、会長には当時の村長吉田貞次郎が就任している。
大正十年八月に発行された機関紙「会報」は活字印刷で、版六頁で作成されてB5おり、広く会員に開放され、内容は論文、感想、文芸、事務報告などで構成されているが、上田美一、手塚官一、中西覚蔵、西谷元雄、荒猛、和田松ヱ門等の青年時代の文章が掲載されている。
昭和三年十月文部省社会教育行政の中で指導が強化され、上富良野村も他町村と歩調を合わせ、すべての地域で青年団が結成されている。
昭和六年の村内青年団の概況は、中央青年団五十四名団長中田正也、静修四十七名団長海老名秀雄、島津六十五名団長岡寅太郎、東中百四十八名団長長岡統一、里仁四十二名団長杉本定之助、日新二十九名団長狩野皎一、江幌四十名団長松島良雄、旭野五十二名団長川野守一、江花五十三名団長村上国二、草分五十三名団長榎本一恵、日の出三十九名団長久野専一郎、富原四十二名団長健名正之などとなっており、主な活動内容は、

(1)体力の養成
(2)品性の修養(教養、敬老、神社祭典の幇助、公務の格守、戦病死者弔慰労力補助等)
(3)夜学・講演会・兵士の送迎慰問

等であった。然し、終戦を転機として一様に新しい自主的な組織として再出発することにより、これまでの記録等は殆ど処理されて戦前の良いものを失い、悪い面も精算して、民主主義を標語に新しく出発している。ただ一部には、戦前の青年団を解放せずそのま存続したところもあるが、いづれにしても敗戦によって虚脱状態になった中から立ち直ってきた地域単位の青年団を統一して、連合青年団を結成したのが、昭和二十一年四月一日である。
初代団長には、戦前から青年団運動の第一人者であった和田松ヱ門が就任している。その後の団長には、中央の鹿間富二(現在の中町福屋薬局の隣で呉服店を経営)滝本幸朗(同じく中央で現在の大雄寺僧侶で、一昨年他界)菅野稔(里仁)高橋博男(里仁)安達正春(江幌)樋口五郎(江花)後藤政人(里仁)上田義昭(東中)樋口六七男(江花)と続き、各々の時代を築いてきた。

掲載省略 写真 歴代連合年団長
  昭和21年度 初代 和田松ヱ門
  昭和22年度     鹿間 富二
  昭和23〜24年度  滝本 幸朗
  昭和25年度     菅野  稔
  昭和26年度     高橋 博男
  昭和27年度     安達 正春
  昭和28年度     樋口 五郎
  昭和29年度     後藤 政人

その中でも和田松ヱ門は後に町議会議員を経て町長に、菅野稔は町議五期を努め、副議長の要職についている。また、里仁は人員が少ないにもかかわらず、三人の団長が出ており、人材に恵まれた地区と言える。長い歴史と伝統をもって、産業・文化・スポーツ等に幅広い活動を行って来た連合青年団は、同じ農村を基盤として産業活動を行って来た青少年クラブと協力して、より充実した活動を行うため、昭和三十七年十二月十六日に合併し、上富良野青少年団体協議会として再発足した。十一加盟団体三百余名の会員であったが、その後の農業の機械化に伴う若者の他の産業への流出などによって減少傾向が続き、昭和四十七年当時は九団体二百十五名となっている。一方女子青年団の歩みは、古くは大正八年に「処女会」の名称で、草分を始めとして東中、島津など各地域の学校を中心として発足し、個々に活動が続けられてきたが、昭和二年八月、支庁から「大日本連合女子青年団発団」の通達を受け、村も「上富良野村女子青年団」として統一され、団長に佐藤健次郎がなっている。
その後の単位団による処女会の発足は、昭和二年に道や支庁が指導者講習会を開き、幹部を養成したことから、昭和二年には静修と江花で、昭和四年頃には里仁、江幌、不息(旭野)など殆どの地区で「処女会」が創立されている。団長には各学校長や地区の男性有志が名を連ねている。
活動としては、出征兵士の見送り、旭川陸軍病院への慰問、戦死者の遺骨出迎えと村葬参列、留守宅への勤労奉仕、慰安演芸会等々を行っていたが、昭和二十一年度以降は男子青年と合同の活動が多くなり、連合青年団主催の弁論大会、演芸大会等が開かれた。

掲載省略 写真 《昭和21年陸上競技大会で優勝した男女リレーチーム》前列左より佐藤・大西・保科・金子・佐々木・寺沢後列左より加藤・倉本・分部・竹谷・小畑

昭和二十四年以降は全地区が統合し、上富良野連合青年団として活動することになる。終戦後の復興に向けて、青年の活躍が期待され郷土発展の原動力として、民主主義の実践者としての素養を身につけるために、多くの行事が行われた春。期には、体育大会、夏期のサマーキャンプ、登山、招魂祭青年団対抗奉納相撲大会、冬期には屋内スポーツ(卓球大会、レクリェーション等)、弁論大会、演芸、美術、研修会、又産業振興大会、模擬議会等と学校や公会堂、劇場、或いはお寺などを会場として行われた。

掲載省略 写真 《昭和30年度連合青年団役員》前列左より安部直子・上川喜代子・橋本幸子・渡邊光子・上田義韶・樋口六七男石川洋次・長沼朗
       後列左より太田信夫・桑田直市・高橋広安・北越勲・松田勝利・物井延也・小泉安男長谷川清

そうした中で昭和二十二年、上川青年団連盟が結成され、昭和二十九年一月には富良野地区青年団協議会が結成された。従って、行動範囲も広くなり各行事も増えることになる。その中で上富良野青年団の活躍はめざましく、各大会等に於いて好成績を残している。昭和三十年に発行された青年年鑑(編集委員長石川洋次、委員松田勝利、物井延也、北越勲、上川喜代子、安部直子、橋本幸子)から年度別に主なものを拾ってみると、昭和二十一年三月二十五日に連合青年団が結成され、役員には顧問金子浩(当時の村長)東明武雄(上富良野青年学校長)佐藤薫(上富良野小学校校長)田中勝次郎(農協組合長)団長和田松ヱ門、副団長一色正三、成田マサ、嘱託講師に都竹一衛(創成小学校長)、石川清一、内田隆、高畠キヨ、理事に佐藤国幹、会計に鹿間富二、江尻菊正(江幌)、産業に村上次郎(里仁)青地繁(東中)、修養に遠藤賢二(中央)二階堂文子(東中)広川イト子(草分)田中素子、佐藤貞子(旭野)、倉谷八重子(清富)生出宗明(文化)、書記高橋畿久郎(中央)福屋和夫(千秋泰恵、中尾栄子、上小教員)の各氏が選出されている。

行事は、陸上競技大会(上小グラウンド)、青年講座(公会堂)農事視察(永山農事試験場)神社拝殿・境内の清掃奉仕、町村対抗相撲大会、幹部研修会(野幌元健民、修練道場)演芸大会(上富良野国民学校)など多くの行事が組み込まれていた。
中でも十月九・十日に行われた開村五十周年記念式典では、上富良野国民学校講堂で種々の行事が行われたが、その中心となる大舞台の設営は団員の手によって作られ、両日共、数千人の観衆を集め、青年の意気と情熱を発揮し大盛会であった。
折から、新北海新聞社が青年の叫びを聞こうと全道青年弁論大会を計画し、その予選会を行った結果、多田武雄、菅野稔、床鍋昭雄、遠藤賢治、伊藤彰の五氏を送る事になる、十一月十日富良野、十一月十五日旭川と進み、多田武雄が出場した。十一月二十二日青年記念日にあたり、研究発表会が行われ、平塚武、村上国夫、多田武雄、小野重雄、前原キサエが入賞している。
昭和二十二年一月十五日、上川青年団連盟が結成され、委員長小沢仁良(神楽)副委員長中川音治(東川)が選任される。後に旭川近郊の合併により千代ヶ岡の小沢は旭川市議会議長を努め、中川音治は町長となった。

五月十六・十七日の両日札幌市定山渓に於いて、北海道青年団体協議会が開かれ、各支庁から連合団体代表五十三人が出席し、(一時マッカーサー司令により中止となっていたが了解が得られたということで)北海道庁長官、札幌市長、司令部の出席もあり、力強く発足した。
三月三十日、連合青年団大会を上富良野劇場にて開催。旭川裁判所判事の「新憲法について」の講演会を聞き、併せて弁論大会が行われ、生出宗明、菅野稔、青地覚が入賞している。
四月の総会では、公選により役員を選出した。団長には中央の鹿間富二が選ばれ、副団長江尻菊正(江幌)山口登美子(中央白菊会)他理事に青地繁(東中)多田武雄(富原)滝本幸朗(中央)中田正(江花)藤沢直幸(島津)伊藤和子(日新)岡本雪子(静修)西山良子(日の出)村上美代子(富原)田中喜代子(中央)庶務部長藤田英之(中央)会計温泉国一(中央)修養部長藤沢直幸(島津)文化部長生出宗明(中央)体育部長小野重雄(東中)産業部長多田武雄(富原)、社会部長佐川登(日新)、他に顧問として田中勝次郎(村長)梅田鉄次郎(上富良野中学校長)東明武雄(上富良野青年学校長)海江田武信(農協組合長)飛沢英寿(医師)と村の名士が名を連ね、また、和田松ヱ門、一色正三、佐藤国幹の三氏が参与といった、そうそうたるメンバーが名を連ねている。

同年八月全道青年陸上競技大会が旭川市総合グラウンドに於いて開催され、上富良野からは、男子山本純雄(江幌)倉本良輝(中央)太田(島津)女子は中山(江幌)杉本(里仁)新屋、安丸(江花)谷口(江幌)村上(富原)が上川代表として参加。結果は三位であった。
この年の九月、上富良野小学校グラウンド拡張工事が行われることになり、青年団員の協力が必要ということで、各単位団に於いて協議の結果、社会奉仕の精神をもって青年の意気と力を示すべきとの結論に達した。
十月二十六日〜三十一日までの間、広瀬校長、一色正三両氏の監督のもと、団長以下役員一同、汗と根気を持って団体の力を遺憾なく発揮し、延べ六百人、馬六十頭の労力を費やし針葉樹の大木を切り倒し、根を掘り出し、地ならしと見事に成し遂げ、その努力と労苦は村民に高く評価され、青年の力を認識するところとなった。そして村役場より、一万五千円が支出された。

十一月には、上富良野小学校に於いて、弁論大会が行われ、会田佐久子(江幌)生出宗明(中央)菅野稔(里仁)西口千代子(中央)新屋敏夫(江花)が入賞している。同じく十一月に上川大会が旭川中学校(現在の旭川東高等学校)に於いて開催され、生出宗明(六位)会田佐久子(七位)が出場している。
昭和二十三年度総会に於いて、団長滝本幸朗(中央)副団長藤沢直幸(島津)村上美代子(富原)理事中田正(江花)鈴木政敏(中央)菅野稔(里仁)菊地健三(日の出)江尻菊正(江幌)武山徳恵(日の出)一色光子(草分)種田八重子(東中)伊藤和子(日新)下タ村美代子(富原)千葉登(旭野)が選ばれた。上川連盟に於いても、委員長小沢仁良(神楽岡)高橋勇次(美瑛)山本禎子(鷹栖)が就任した。その中で、ロマンスも生まれ、噂になることもあり、小沢と山本はめでたく結婚し、他にも実を結んだカップルがあったようだ。

当時本村の部落には電灯もなく、映画等の娯楽に接する機会のない地区の日新、清富、江幌等の学校、島津・日の出クラブ、劇場等でバッテリーを使用した幻灯会を行い、百数十名の参加者を数え各所で好評を博した。
昭和二十五年度になり、役員も序々に若返えるようになってきた。団長に菅野稔、副団長生出宗明、竹沢千恵子、その他の役員に高橋博男、鈴木政敏、新屋敏雄、荒奈賀子、久保清松、佐々木ミキ、遠藤巳代吉、村上志津子、近藤泰雄、宮内道子、熊谷照雄、永原スミ子、水島高子、大場敏子が就任しているが、規約の一部訂正を申し合わせにより女子副団長が選任されている。

掲載省略 写真 《昭和25年3月連合青年団役員一同》前列中央:団長  菅野稔 右:副団長 生出宗明  左:副団長 竹沢千恵子

この年、成人式の記念行事として青年模擬国会が催され、総理大臣菅野稔、大蔵大臣生出清人、農林大臣近藤泰雄、商工大臣佐藤公、厚生大臣樋口五郎、無任所大臣中山繁、熊谷照雄、荒俊雄の面々が大臣席に納まり、与野党議員会では、政治・社会・経済等の問題について活発な質疑・応答が展開され、多数の傍聴者が熱心に耳を傾ける中、盛会に行われた。また、冬期間には村役場と共催で指導者講習会を行い、上川事務局より庭瀬公男、和田俊雄の両氏を迎え、「青年の心理」「組織と運営」をテーマに、又、村の行政について村長田中勝次郎氏「社会時事問題と青年の心理」について、上富良野中学校長梅田鉄次郎氏が講師であった。
又、この頃からレクリェーション活動が普及し、冬期間には、上富良野小学校体育館等でスクェアダンスが盛んに行われた。行事の折には必ず終了後にスクェアダンスが行われるようになり、多勢の団員が楽しみ、体育大会のプログラムにも盛り込まれて、昼食休憩時に披露され、新しい体育大会の一端を見ることになった。
この頃から、公民館設置についての協議が始まり、一層強力な運動を進めることになって、中央委員、地方委員等を設け、啓蒙運動を展開し、議会に請願書を提出する等の働きかけを行った。
十一月三日上富良野村第一回青年団大会を上富良野小学校屋内運動場に於いて開催。百数十名参加のもと、各単位団の現況発表に基づき、全体討議の結果

(1)青年団活動のあり方
(2)生活改善の取り組み
(3)上富良野青年の歌作成

を決議した。(青年の歌には、応募作品を審査の結果、和田松ヱ門作詞の「身よ黎明の」が入選)
十一月十二日には、上川管内農村青年弁論大会が旭川市上川生産連会議室に於いて開催され、上富良野代表として、樋口五郎、久保清松、谷本和市の三名が出場した。昭和二十六年度総会が一月七日役場会議室で行われ、団長高橋博男(里仁)副団長新屋敏雄(江花)西口千代子(中央)安部彦市、後藤政人、熊谷照雄、田中幸子、菅原忠雄、宮内道子、近藤泰雄、佐川すみ子、岩崎次男、松岡定雄、中山繁、大居文子、下タ村文子、大森明が各役員に選出される。

一月十五日成人の日の行事として、第二回成人祭模擬国会を上富良野劇場で開催し、各大臣には、総理大臣高橋博男、大蔵大臣杉本輝雄、文部大臣青地貞夫、厚生大臣岩崎次男、国務大臣西口千代子が担当し、与野党中立間に論戦を展開し、盛会であった。
二月には上川管内宮城清掃奉仕隊員として、高橋団長が参加した。以後毎年二〜三人が参加している。
八月一日の町制施行により、上富良野村は町に昇格した。その記念行事の一つとして、八月三日第三回富良野地区青年陸上大会が上富良野小学校グラウンドで行われ、上富良野は惜しくも二位となり、一位は東山に譲った。十一月十一日上川農村青年弁論大会が上川生産連で行われ、樋口五郎、樋口六七男(兄弟)と西口千代子の三人が出場した。

掲載省略 写真 《昭和26年度役員一同》前列中央:団長高橋博男、左:副団長 新屋敏夫、右1人おいて:副団長 西口千代子
掲載省略 写真 《皇居清掃奉仕隊》両陛下よりお言葉を給う皇居清掃奉仕参加記念(通用門にて両陛に拝閲)
掲載省略 写真 《昭和26年11月4日弁論大会出場者一同》上富良野劇場に於いて

昭和26年春上富良野中学校グラウンド拡張工事の奉仕作業に参加した左から西口千代子・井上玲子・山川政江・吉岡三枝子中学生・PTAの人達も一緒に……。

十一月二十日は青年団の運動が実って、上富良野町公民館が設置され、初代館長には町助役の北川与一氏が就任。翌二十七年十一月には梅田鉄次郎氏が就任した。
昭和二十二年四月一日文部省令によって、上富良野村立上富良野中学校が現在の位置に設置され、年次計画により建設が進められた。グランド整地については、PTAの労力提供、又後には自衛隊の施設部隊の奉仕や生徒も協力するなどにより進められたが、昭和二十六年四月グランドの拡張工事実施について、連合青年団の行事として奉仕することを決定。東側を拡張することになり、各単位団交代で一カ月余りに亘り、人・馬を動員して作業が行われた。女子団員も長靴にスコップを持って、石を掘り起こすなどの作業に汗を流した。

掲載省略 写真 休憩時に近くの菜種畑の花に囲まれて

昭和二十七年一月八日公民館に於いて、定期総会を開き、役員が次のように改選された。団長安達正春(江幌)、副団長樋口五郎(江花)、同西口千代子(中央)以下、大野康雄、一色久、菊地辰雄、後藤政人、下タ村文子、浦島義三、杉本千恵子、中野照汐、喜多美恵子、岩崎次男、大居文子、近藤敏宣、青信江、田中幸子、森安江以上のメンバーとなった。一月二十五日には、成人祭記念行事として役場・公民館との共催により模擬議会が開催され、議長樋口五郎、副議長村中孝義、町長新屋敏夫、助役伊藤彰、以下については町役場職員が担当し、総務課長倉本良輝、教育主任徳武努、厚生主任安田斉、産業課長平井進、産業主任久保栄司、土木主任工藤七郎の各氏であった。
三月には基金造成演芸会を日本劇場で行い、純益四万五千四百三十五円であった。

農閑期となる十一月から翌年三月の間は講習ラッシュで、時事問題に始まり「食糧と日本の動向」、「農村婦人問題」、「農業と気象」、「土壌と肥料」、「有畜農業」、「農協組の分析」等、かなり高度な勉強が目白押しで、仕上げはレクリェーションリーダー講習でフォークダンス、スクェアダンスの実技、加えて室内スポーツとして卓球大会等が行われた。初めてラケットを持つ者も多く、地域の学校などで練習したり、用具もなく学校の廊下に机を並べて卓球台代わりにするなど、俄か選手が参加する場面もあった。
八月二十四日全道陸上競技大会が釧路市で行われ、上富良野青連より山本純雄(江幌)、竹谷常子(中央)の二氏が出場したが、山本氏は長距離選手として全国大会にも出場し広くその名を知らしめた。
昭和二十八年度総会は、一月七日公民館で行われ、団長樋口五郎(江花)副団長後藤政人(里仁)、小川光子(富原)他常任委員として石川信一、中西知司、堀川勝見、川野龍男、大居文子、管野富栄、青信枝、弘報委員として安部彦市、工藤七郎、吉田清子が選出された。

掲載省略 写真 《昭和28年1月7日各単位役員交流会》公民館前にて公民館主事、酒匂氏(前列左より3人目)を交えて

この公民館は島津会館として建設され、後に空家となっていたが昭和二十七年九月教育委員会法が施行され、これまで教育係として役場内で事務執行されていたものが、独立してこの会館を事務所として使用しており、大広間で各種の行事が行われた。
この年の成人祭もこの会場で行われ、成人に達した者は二百九十一人であった。式終了後には模擬町議会が行われ、町長 安達正春、総務課長 安部彦市、産業課長 堀川勝美、土木課長 片井昭治、教育長 浦島義三、事務局 一色 久、田中 徹、西口千代子、議長大野康雄、副議長成田政一が各々担当した。
四月四〜五日の両日、基金造成、演芸と映画の夕べを日本劇場(現在の中町で喫茶店等が入っており、当時宇佐見利治氏が経営していた)で開催。四日夜、五日昼夜の三回の各単位団十五分割当で、寸劇・舞踊・歌謡曲などに出演し、同時に映画一本を上映し、多くの成果をあげた。
八月十四日には、第三回上川管内青年陸上競技大会が旭川市近文市営グランドで開催され、成田・梅津・田口・田浦・工藤の五氏が出場し、富良野地区代表選手として健闘一位となる。

昭和二十九年度に入り、例年通り一月早々に総会が行われ、役員が次のように改選された。団長後藤政人(里仁)副団長中西知司(東中)大居文子(草分)橋本公吉(日の出)他、上田義昭、田中徹、新屋正、堀川勝美、石川信一、長沼祥郎、樋口六七男、高橋広安、薮下栄子、大野美栄子、松田信一、大野康夫、長谷川久夫、石川洋次である。

掲載省略 写真 《昭和30年6月26日 国旗贈呈式》

この年、例年行われていた成人祭の諸行事は都合により講演と映画会のみ行われた。又冬期講演会では、農業の冷害対策など安定経営についての学習を行った。富良野地区町村から百五十名が参加し、上川事務局指導主事、上川支庁児童福祉司、上富良野町教育長、学校長と多様な講師を迎え、上富良野小学校において二日間にわたり、分科会、シンポジウム等を行った。又、学校用材として、東中町有林より針葉樹を運搬するため各団体より馬一頭をだし、十四頭と人夫八人で針葉樹三百五十本を搬出したが、現地までの道つけは、東中青年団の手によって行われた。
このように連合青年団は常に自己の研鑚に努め、奉仕の精神をもって、地域の学校行事にとその中核を担ってきたが、中でも記憶に深いのは、体育大会である。
歴史ある六月十五日北海道神社祭(札幌祭)に行われていた上富良野小学校の運動会の中で、プログラムの花形である青年団対抗リレーは、見物席が総立ちになる程で、「赤パンツ」で名を馳せた中央青年団の活躍は群を抜いていた。
昭和十八年に行われた青年団対抗リレーでは、中央青年団の倉本・側・山川・穴山のメンバーが優勝している。その後も町役場を始め、郵便局、農協等の職員が活躍する「赤パンツ」チームは憧れの的で、スタートの倉本を始め、安田・寺田・工藤・竹谷兄弟・成田・小畑・寺沢・側・分部・又金松・小学校教師の佐藤光二、村田吉雄氏などが目立っていた。

掲載省略 写真 《昭和18年青年団対抗リレーで優勝した中央青年団チーム》前列左より:遠藤指導員・倉本・側後列左より:細川団長・山川・穴山・嶺・多潮

又、秋に行われる青年団対抗陸上競技大会では、必ずといっていほどのハプニングがあった。東中青年団の監督であった小学校教諭の鈴木信氏はトラブルメーカーで、何かにつけて抗議をして、時には取っ組み合いの喧嘩になることもあり、注目の的になっていた。それでまた盛り上がる事もあり、楽しみでもあったような…。
又、単位青年団にあっては地域の中核となり、奉仕作業は基より部落の秋祭りなどには、小学校を会場に歌に踊りに演劇にと、しかも脚本から役者まで自前で、見物に集まって来る部落民を楽しませ、のみならず村の各地から若衆が押し寄せる程の盛況であった。しかし何時の頃からかプロの芸人の出番になってしまった。
一方青年団活動についても、連合青年団の時代は昭和三十二年以降の記録はなく、昭和四十二年八月上富良野開基七十周年を記念して発刊された町史によれば、昭和三十一年以降の活動は定かではなく、昭和三十七年当時青年団の外に青少年クラブ(四Hクラブ)、農協青年部、農民同盟青年部といった特殊な目的を持つ団体が生まれた。昭和三十七年十二月・元の連合青年団と青少年協議会を合併して上富良野町青少年団体協議会を創立した。歴代会長は次のとおりである。昭和三十八年浦島与二(日の出)三十九年向山安信(富原)昭和四十年宮島正人(静修)昭和四十一年川井祥司(旭野)昭和四十二年一色武松(江幌)となっている。
以降については、時代の推移と共にその形態も変化しているものと推察されるが、連合青年団については、昭和三十七年度をもって、終止符が打たれたのである。

機関誌  郷土をさぐる(第26号) 
2009年3月31日印刷   2009年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一