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―石碑が語る上富の歴史(その14)―
美瑛町に建立されている十勝岳爆発碑

上富良野町本町 中村 有秀
昭和十二年十一月二十八日生(七十一歳)

《大正十五年の爆発碑》
   建立年月日  昭和五十年五月二十四日
   建立の場所  美瑛町十勝岳望岳台


(一)大正大爆発「丸谷温泉遭難者慰霊碑」

大正十五年五月二十四日の十勝岳大爆発により、十勝岳望岳台にあった「丸谷温泉」は、第一回爆発の午後〇時十一分頃による熱泥によって一瞬にして破壊流失し、丸谷温泉主の「父丸谷吉之助氏」「二男吉幸氏」「三男政幸氏」の三名が犠牲になられました。第二回目は午後四時十七分頃で大爆発でした。
この爆発で、現在の白金温泉附近にあった「畠山温泉」でも主人畠山三郎氏夫妻・孫の次郎さん、湯治客の堀田ミヨキさんの四名が犠牲になられました。
当時の美瑛村では七名が十勝岳爆発で死亡、上富良野村関係は百三十七名と多くの犠牲者が出ました。
「丸谷温泉遭難者慰霊碑」は、碑文を読んでいただければ建立趣旨が理解されると思いますが、丸谷家の主人丸谷吉之助氏は五十三歳の働き盛りであり、二男吉幸氏は二十五歳、三男政幸氏は二十三歳で、父と共に丸谷温泉の施設拡充に心血を注いでいた中での災難でした。
丸谷吉之助氏夫妻には、七男五女の子供さんがおられ、長女は夭逝され、二男・三男は爆発の犠牲になり、残された遺児は長男實幸氏が二十八歳、五女の光子さんは二歳で、五男四女の九人の子供さんが遺されました。母ヨシさんの苦労は大変だったと思います。(八十九ページの家系図参照下さい→掲載省略)
碑文にある「遺族は、母を中心として幾多の辛苦を克服今日に至る」の文が、心にひしひしと響いてきます。

掲載省略 写真 慰霊碑に併置の「十勝岳連峰案内標識」
掲載省略 写真 丸谷温泉遭難者慰霊碑の碑文

(二)国有林貸付申請理由書の提出

慰霊碑の建立は、国立公園内なので単独建立は許可が下りないので、美瑛町長安藤友之輔氏の取り計らいにより「十勝岳連峰案内標識」を併設することで、北海道知事(上林務第一二四二号指令・昭和四十九年八月六日付)と美瑛営林署(四九美庶第六六三三号・昭和四十九年八月二十三日)から許可を受けた。美瑛町長安藤友之輔名による「国有林貸付申請理由書」が、旭川市神楽にある「上川中部森林管理署」に永年保管としてありましたので記します。

掲載省略 写真 礁碑文の母丸谷ヨシさん
掲載省略 写真 《丸谷温泉遭難者慰霊碑》建立慰霊祭(昭和50年5月24日)
――国有林貸付申請理由―――

大雪山国立公園十勝岳連峰を訪れる登山者、そして望岳台で散策する家族連れの観光客は年々増加の一途を辿っております。
今回、望岳台の十勝岳登山コース入り口に、自然石に銅板をはめ込んだ十勝岳連峰の案内標識を設置し、登山者及び一般観光客の利便を図るともに、大正十五年五月二十四日十勝岳の大爆発に遭遇した丸谷温泉の経営者丸谷吉之助とその家族が死亡して以来四十九年を経過してまいりましたが、その間遺族及び関係者から記念碑建立の話がもりあがり、町において種々検討した結果、満五十年を契機として、十勝岳連峰案内板と爆発記念碑を建立し、永く十勝岳の歴史にとどめるともに、併せて遭難者の霊を慰めたく、ここに申請する次第であります。

昭和四十九年八月一日                   美瑛町長 安藤 友之輔
(三)遺族の念願が叶っての慰霊碑の建立

十勝岳爆発五十年を期に、丸谷温泉のあった望岳台に、昭和五十年五月二十四日に遺族が中心となって「大正大爆発丸谷温泉遭難慰霊碑」が建立されました。
慰霊碑の建立については、道警旭川方面本部に勤務していた七男丸谷敏夫氏と二女伊藤タカノさんが中心になって、三年前から親族で「あの山に慰霊碑が建てられたら……」と話し合い、美瑛町・美瑛営林署に幾度も足を運び、建立を願い出て、ようやく環境庁の許可を得たのでした。
国立公園の中とあって大理石などは使えず、溶岩をケルン風に積み上げて慰霊碑にしました。
五十回忌になる昭和五十年五月二十四日、父と兄の命日のこの日、丸谷さんらの遺族は残雪に光る十勝岳をバックに除幕式と慰霊祭が行なわれました。
読経が静かに流れる中、遺族は次々と焼香し深々と頭を下げて故人の冥福を祈り、安藤美瑛町長も参列し焼香された。

掲載省略 写真 《慰霊碑除幕式》慰霊祭後の丸谷家の人々  前列左より四女山田ハル、五女藤江光子、三女吉川タツノ、公市の母丸谷タキ、二女伊藤タカノ。丸谷タキの後は丸谷ユウ子(七男丸谷敏夫の妻)

掲載省略 家系図 《丸谷家に関わる人々》
「丸谷温泉」「蛇(じゃ)の温泉」の創業者 丸谷常吉氏、後継者 丸谷吉之助氏の足跡

丸谷常吉氏は、安政四年一月二十六日(一八五七年)宮城県遠田郡田尻村一九九番地にて、父久吉、母まつ、の一男二女の長男として生れる。
丸谷吉之助氏は、明治七年十二月三日(一八七四年)父常吉、母みへ、の一男二女の長男として、父の同じ田尻村にて生れる。
明治二十四年(一八九一年)常吉が三十四歳の時に、一家で当時の札幌区白石村廣嶌に移住し、七年間開拓に従事す(白石村に移住したのは、旧仙台藩白石城の城主片倉家の旧臣たちが、明治四年に入植、白石村開拓の嚆矢となった同郷の知人を頼ってこうし来たという、当時の白石村は三九五戸、一六三三人の人口であった)
明治三十一年五月五日(一八九八年)白石村より神居村台場ヶ原番外地に全戸にて移る。(戸籍では、明治三十一年七月二十五日となっている)
明治三十一年十二月十三日、近文一線一号区画外に転居し、後の中島公園になった地を、六十余名と共に開墾する。当時の旭川は、個数一八五〇戸、人口五八六五人であった。
(明治二十四年から明治三十一年までの足跡は、旭川市在住の丸谷公市氏宅に大切に保管されている「不動明王」関係文書を入れた木箱の外側に、克明に墨書されているを記した。)
次の文は、昭和二年六月に旭川市の北洋社より発刊された「北海道市町村総覧」第一巻旭川市上川支庁管内編に、故丸谷常吉氏・故丸谷吉之助氏(丸谷温泉主人)として記載されているので、要約し転載します。
この「北海道市町村総覧」には、旭川及び上川支庁管内の当時の多くの著名人が掲載されている。
故丸谷常吉氏、故丸谷吉之助氏(丸谷温泉主人)

丸谷常吉氏は宮城縣遠田郡田尻村に生れた。明治二十四年渡道して札幌に移住して七ヶ年開拓に從事した、同三十一年九月上川郡臺場ヶ原に轉住し、七師團設置の當時旭川の現在中島公園をば六十餘名にて開墾し、漸く成功すると同時に市に取り上げらるゝと謂ふ憂目を見た。
其處で近文一線一號區劃外に許可を得て移轉し、明治四十年温泉場を設けたが實に此土地の草分である。十勝岳に高山植物の採取に出掛けた所遇然にも温泉を發見するに至つた、則ち丸谷温泉である。
(編注これが明治三十五年で、この時吹上温泉を発見したと推定される。)
斯て父子協力の上明治三十八年十一月十四日出願し、同四十年九月十九日許可になつたから家屋其他の準備を爲し、同四十二年開業の運びに至つた、爾來江湖に名聲を馳せ、逐日髏キに赴き、已に浴室其他十二棟の建築を完成し、毎年夏季に在りては日々二百名の浴客あり、又服用としても年々三石餘を發賣した。温泉は硫性塩類泉で、一日の宿泊代一圓、罎結一升一本二圓、湯花一斤一圓五十錢である。
常吉氏の趣味は酒と盆栽であつたが、大正十四年五月廿六日六十九歳で死歿した。丸谷吉之助氏は明治七年十二月三日生れで、ク里は父と同じく宮城縣田尻村である、大正十五年五月廿四日十勝嶽爆發と倶に死んだ人で、丸谷温泉も泥流の爲め押流され、遂に跡影も無くなつて仕舞ふた。吉之助氏に七男五女あり、長男實行氏は遞信局に奉職し次男吉幸氏、三男政幸氏の父子三人は大爆發の爲め慘死した、四男久幸氏、六男武雄氏、七男敏夫氏、二女三女共に高等女學校に在り、常吉氏は奉仕的観念の強い人で、丸谷温泉付近に施療所の建設を目論んで居たが、病氣に罹つた爲め、該事業を息吉之助氏に遺言して死去した。此故に吉之助氏は父の遺言を實行すべく、之が準備の爲め例年より二十日早く美瑛の温泉に行き、建築材料等種々働いて居る中、五月廿四日の十勝岳大爆發と同時に轟々K煙の如く押して來た泥流の爲め、子息二名と倶に無慘にも犠牲となつたのである、悼惜の極みである。
丸谷温泉明治三十五年、丸谷捨吉(常吉が正しいのでは)が吹上温泉を発見したので、同じ時期に丸谷温泉を発見したと推定され、その開業まで見ると

・明治三十八年十一月十四日北海道庁へ出願
・明治四十年九月十九日北海道庁より許可
・明治四十二年丸谷温泉開業

開業に至るまでは、道路開削・工事資材の運搬等で困難な事業であったことでしょう。
美瑛駅から現在の白金温泉まで一八キロメートル、白金温泉から望岳台まで四キロメートルの道程は、荷馬車と荷駄が交通運搬手段であった。
明治四十二年の開業後は、第一温泉・第二温泉・第三温泉・第四温泉と拡張し、盛業時は年間の湯治客は五百余名が利用された。
丸谷温泉の当時の写真がなく、小泉秀雄氏(旭川中学校教諭で、後に松本女子師範学校教諭)が大正四年八月二十四日写生された絵図が、「十勝岳爆発災害志」にありましたので、・頁に掲載します。望岳台9495にこれだけの建物、施設が明治から大正時代に建設されたことに驚くと共に、丸谷親子の艱難辛苦の努力は想像を絶するものがあったことでしょう。

層雲峡温泉の開発を計画をした丸谷吉之助氏
旭川第七師団陸軍転地療養所が層雲峡に建設の情報が、大正四年頃からあった。
大正九年には現地調査が行われることになり、この報が世間に伝わると、温泉出願者が激増した。
丸谷吉之助氏は層雲峡温泉の将来を目指して、大正九年に北海道庁に出願し運動を展開した。
大正四年に、塩谷温泉(後の層雲閣)は開業しており、その養子である「塩谷忠氏」が蓬莱閣温泉を大正九年に丸谷吉之助氏と同区域に出願した。
両者の出願により、出願地面・出願起点を道庁で点検した結果「塩谷忠氏」に許可が下りたが、丸谷吉之助氏は納得せず、旭川区裁判所に民事訴訟を提起したが敗訴した。
大正八年七月に「蛇(じゃ)の温泉」を石狩川大洪水で流失したので、新たな事業をと層雲峡温泉への進出を図ったが実現しなかった。然し事業欲は旺盛だった。
旭川第七師団転地療養所は、昭和三年六月二十一日に竣工した。

掲載省略 写真 大正11年頃の丸谷温泉の木製露天風呂(小屋の中で入浴者が休んでいる)
掲載省略 写真 大正11年頃の丸谷温泉の露天風呂(樋で湯を引き石で湯を溜めている)
掲載省略 スケッチ図 十勝岳の西北麓なる丸谷温泉の南側の一
掲載省略 スケッチ図 小丘上より十勝岳及丸谷温泉を望む(爆発前)
―丸谷不動の瀧―
美瑛町から白金温泉に向って、白樺街道を行くと白金インフォメーションセンターがあり、そこから三・八qの左側に木製の案内板が目に入り『みんなの自然を大切に不動の滝』、右側には道北バス『不動の滝』停留所があります。
『不動の滝』停留所から、針葉樹と広葉樹の混じり合った樹林の中に散策路が開かれており、その道の右側に『白金不動尊』碑(昭和三十七年五月十日建立)と『白金犬伏和平手水鉢』があり、左側には『新四国八十八ヶ所』碑(昭和三十五年十月建立)が『丸谷不動の瀧』を案内するがごとく、散策路の入口に建立されている。
静寂な樹林の道を進むと、左側に『新四国八十八ヶ所』の第一番『霊山寺釋迦如来』があり、その左側の細い道順に沿って白金温泉に至る約二qの間に八十八体の御佛体が安置されている。
左側に行かずに真直ぐ歩を進めると、樹間から滝の音が聞こえてきます。まもなく、樹林が大きく開かれ、白く水しぶきを上げながら落下している『丸谷不動の瀧』が眼に飛び込んできます。
この瀧は、高さ約二十mあり十勝岳の地下水から湧出しているので水量も豊富で水温も低く、夏でも手を入れるとピリピリとするほど冷たく、流れに手を浸しながらの休憩は心地よく、白い帯のように流れる瀧は、神秘さと荘厳さが肌で感じられます。白樺街道の景観の一つを形成しているので、読者の皆さんもぜひ一度足を運んではいかがでしょうか。
○丸谷常吉氏と不動明王との関わり
丸谷常吉氏の父『丸谷久吉氏』が、慶應元年正月吉日(一八六五年)に宮城県陸前国田尻村東凌禅寺亀仙大尚師より『不動明王』を授けられた。
常吉氏が、明治二十四年に北海道開拓に夢を抱き移住する際に、父久吉氏は『不動明王』を常吉氏に託したのでした。常吉氏は『不動明王』を信心し、宮城県田尻村、札幌白石、旭川神居、旭川近文と居所を変るも『不動明王』を熱心に信仰し祀り続け、現在も子孫の旭川市在住の丸山公市家に大切に祀られております。
丸谷常吉――丸谷吉之助――丸谷久幸――丸谷公市と渡道から百十八年を経ても『慈覚大師真筆不動明王』は、丸谷家を護り続けています。

掲載省略 写真 丸谷不動の瀧
掲載省略 写真 丸谷不動の瀧入口にある「新四国八十八所」碑

○美瑛町史に記述の『丸谷不動の瀧』
美瑛町史には『白樺街道のつくるところ、白金温泉ほど近き丘陵より奔下するもので、嘗ての美瑛温泉主丸谷吉之助が、自ら信仰する不動尊を安置し飛瀑の霊感を得たというので、丸谷不動の滝とも呼ばれている』と記されています。
十勝岳望岳台にあった「丸谷温泉」が、現在も存在していれば、おそらく「丸谷不動の瀧」と呼称されていたと思いますが、今は「不動の滝」とされているのが寂しい思いがします。

○孫「稲谷武雄氏」が語る「丸谷不動の瀧」
祖父丸谷常吉が明治三十五年吹上温泉を発見の前後に、今の望岳台付近で新しい温泉を発見された。その間に、不動の瀧も発見されたと思われる。
美瑛村藤野農場から不動の瀧を経て温泉まで十五キロ。その間の刈りわけ道路は自費でつくった。
大正十年夏頃は、多い時は一日三十人くらの湯治客があったという。いずれも刈りわけ道路を馬に揺られて一日がかりのたいへんな旅。
不動の瀧に、中継のため掘っ立て小屋を建てたが、夜は熊の来襲に備えて、交代で焚火の寝ずの番だったと、祖父常吉、父吉之助から聞かされた。

掲載省略 写真 「蛇の温泉」の玄関口で(後列中央の男性が丸谷吉之助氏)
―丸谷常吉氏旭川町に「蛇(じゃ)の温泉」を経営―
丸谷常吉氏の曾孫である、旭川市在住の丸谷公市氏宅に「蛇の温泉」と記録された古い文書一枚と、写真一葉が大切に保存されている。
これは、丸谷常吉氏の長男丸谷吉之助氏が十勝岳爆発にて死亡するまでの間に書き残したものと思われる。
写真の右上に「蛇の温泉場」、建物の玄関右側に「旅籠(はたご)屋」の看板が見えるので、湯屋と温泉宿泊を兼ねて営業されていた。
その古い文書には、次の様に記載されている。
蛇の温泉
創設者  丸谷常吉 大正十四年逝去す(当時六十九歳)
創 設  明治三十六年頃より四ヶ年を費やし建設す
建 物  総坪数 弐百余坪に及ぶ
      大正八年石狩川大洪水にて流失す
「蛇の温泉場」について、旭川市史に旭川町の発展としての記事で「湯屋」(現在の風呂屋又は浴場)について、次の様に記されている。ほとんどの家庭が内湯(内風呂)を持てなかった時代の湯屋は、町内の社交場として機能しており、一般庶民が立ち寄る湯屋は、町の噂の情報源でもある。

掲載省略 写真 明治36年当時の旭橋周辺地図

しかし、相変わらず設備不完全な湯屋が多かったようである。「旭川町の湯屋数」と、「町制期における主要湯屋」(湯屋の新聞紙上に現れたもののみの調査)は次表の通りで、丸谷常吉氏が明治四十年に開業しているので、この資料の中に入っているのがわかる。「町制期における主要湯屋」の湯屋名欄に、「丸谷温泉」と「蛇湯温泉」は一ヶ所の温泉で、新聞記事じゃのの掲載時期が違った関係でこの様な形になった。
所在は、「石狩川沿岸」と「近文一線一号区画外」となっているが、全く同じ場所であり現在の「旭橋」の石狩川の直ぐ上流にあったが、大正八年七月二十六日は雨量四七・八p、二十七日は雨量六九・九pと豪雨で増水が著しく、水位の異常な上昇によって、牛朱別川、石狩川の氾濫による大洪水にて、明治四十年から十三年間にわたって盛業していた「蛇の湯温泉」の全てを流失してしまった。
丸谷常吉・吉之助親子の落胆は非常に大きなものであったと推察される。
主要湯屋の表で、「丸谷温泉」と「蛇湯温泉」がなぜ「温泉」と湯屋名をつけた理由が次にて判る。
美瑛町百年史及び青年の家「十勝岳の自然」には、『美瑛町の観光の歴史は、十勝岳山麓温泉の開発から始まっている。
明治四十年頃、旭川市の中島で「蛇の湯温泉」を経営していた丸谷吉之助は、その薬湯の原料に、十勝岳噴火口付近から湧出する湯滝の壷の湯華を採取し利用していた』と記載されている。
この湯華の効用と、温泉気分が味わえるということで繁盛したという。
町制期における主要湯屋
湯屋名 経営者 所在
  枡田鉄次郎 4条通8丁目左1号
鶴の湯   師団通
吉野湯   3条通9丁目
カミノ温泉 青柳鶴治 8条通9丁目
北水湯 長浜善治 4条通8丁目右1号
大黒湯   2条通12丁目
  川嶋藤三郎 宮下通1丁目
福の湯 本山ツキ 2条通5丁目右6号
源の湯 西谷内信太郎 1条通16丁目左5号
扇湯 岡本直吉 5条通8丁目左2号
鉱泉湯 井上宇吉 1条通11丁目
  吉川勇吉 3条通9丁目右1号
ハイカラ湯(灰殻湯)   2条通7丁目左7号
来復湯    
滝ノ湯   2条通11丁目
上川湯    
丸谷温泉 丸谷常吉 石狩川沿岸
蛇湯温泉   近文1線1号区画外
菊の湯 野中松太郎 8条師団通
金時湯   5条通10丁目
有馬湯   4条通11丁目
竹の湯   3条通7丁目
旭湯    
桜湯   1条通10丁目
万年湯 川原 2条通11丁目
(『北海道毎日新聞』、『北海タイムス』による)
旭川町の湯屋数
年度 湯屋数
明治40年 23
41年 24
42年 30
43年 25
44年 27
大正 1年 33
2年 36
――十勝岳望岳台の「丸谷の水」――――――
十勝岳望岳台の小澤で、PH六・二の湧水を発見し「丸谷の水」と命名と、「中央高地登山詳述年表稿」(吉田友吉編著)に記してあり、その出典は季刊誌「北海道の山」第十号(昭和三十六年十月十一発行)と判り、その記事内容は次の通りです。
望岳台に水場発見
十勝岳直下の望岳台に待望の水場を発見しました。
その位置は、望岳台前方二〇メートル位のところにある大師像(地蔵さん)の所から山側に向って左側の沢で、左岸の這松の下である。
水質はPH六・二で、飲んで大変味が良く、水量は毎分〇・七リットルくらい。タンクをおいて貯水してありますから、五十名くらいのキャンプには水の心配はないものと思います。
ここは昔、丸谷温泉という旅館があったのですが、現火口が大正十五年に爆発した時に、その泥流のため埋没、一家全員死亡してしまいました。こんな訳で、水場の名称は「丸谷の水」と命名しました。
山岳雑誌「北海道の山」提供の指導標が二本建てあります。
(美瑛町駅前 大場 嗣)
この頁は、各地の山岳情報を伝えるものであり、旭川―白金温泉直行バスの時刻表が記されている。
旭川発 白金着
8:30 10:00
14:00 15:30
白金発 旭川着
10:30 12:00
16:00 17:30
「北海道の山」第十号の前記の記事を読んだ筆者は、早速に美瑛町の大場嗣氏を訪問取材しました。
大場 嗣氏談より
あれは、昭和三十五年六月頃であった。当時の美瑛町役場観光係の田浦信一氏がスキーリフト設置の状況調査を兼ねて十勝岳へ「一寸行こうやー」と誘われて行き、その時に湧水を発見したのでした。丸谷温泉がこの望岳台の地にあったので、二人で相談し「丸谷の水」と命名したのである。その後、水場の整備や指導標の設置を行った。

掲載省略 写真 田浦信一氏  大場 嗣氏

――吹上温泉の発見は、明治三十年か―発見者は「丸谷捨吉」か「丸谷常吉」か


丸谷温泉の調査の中で、上富良野吹上温泉の発見年と発見者について、様々の記述がありました。その内容と各々の出典と、筆者の一考察を含めて記します。(出典原文のま転載)
(1)上富良野町史(昭和四十二年発行)
吹上温泉は誰が発見したものか文献は見当らない。しかし、近文在住の「丸谷捨吉」だろうと言われている。明治年間に吹上温泉の湧出しているところの白樺の木に「近文丸谷捨吉」と書いてあったからである。
丸谷捨吉といえば、美瑛町の今の白金温泉の奥に(望岳台の下で地図には美瑛温泉となっている)温泉旅館を経営していた人なので、温泉に関心を持って調査した時に発見したものと思われ、結局は白金温泉の奥の方を経営したものと言われている。
吹上温泉は、北海道景勝地協会発行(昭和十二年)の北海道温泉地案内によると、明治三十年の発見と書かれている。

(2)富良野地方史(昭和四十四年発行)
吹上温泉は、丸谷捨吉の発見なるものと称されるが、それは明治三十年と言われる。

(3)大雪山小史(速水 潔 著)
明治三十年、丸谷捨吉「吹上温泉発見」とあり

(4)大雪山ものがたり(昭和四十年一月十二日道新)
十勝岳を中心とした現在の温泉群を最初に発見したのは誰が、これを明らかにした文献らしいものはほとんどない。かろうじて、昭和十二年、北海道景勝地協会発行の北海道温泉地案内に「明治三十年シラカバの木をけずって供吹上温泉僑の湧出しているところに「近文、丸谷捨吉」と書いてあった。と残されているところから、当時、旭川近文に在住していた丸谷捨吉さんではないかといわれている。
ところが、丸谷常吉さんの孫にあたる稲谷武雄さん(四十六)=旭川市七・八=は『どの文献もみな供捨吉僑となっているが、なぜそうなったのかわからない。おじいさんの名は供常吉僑だ』と首をかしげている。(筆者注・稲谷武雄さんは、大正七年一月三日生れで、十勝岳爆発災害で亡くなった丸谷吉之助さんの六男で、十勝岳爆発時は八歳)

(5)月刊北海道経済(平成七年十二月第三二四号)
吹上温泉は明治三十年、旭川近文に住む「丸谷捨吉」という人が発見。

(6)十勝岳の自然(昭和五十八年発刊大雪青年の家)
白金温泉の歴史十勝岳連峰山麓の西斜面における温泉・碑・スキー・硫黄採掘などの記録である。
ア、一八九七年(明治三十年)丸谷捨吉、十勝岳吹上温泉を発見。

掲載省略 写真 娘さんを抱く丸谷吉之助氏
以上が、町史、地方史、新聞、月刊誌等に掲載された内容であります。
この中で出典根拠を明確にしている上富良野町史には=吹上温泉は「北海道景勝地協会発行(昭和十二年)の北海道温泉地案内」によると、明治三十年の発見と書かれている。=ということなので、北海道立図書館にこの本の所蔵が確認されたので、上富良野町図書館を通じて取寄せて調査した結果、次の内容になっている。(全道の九十四ヶ所温泉地が掲載)
(7)北海道温泉地案内(昭和十二年十一月十日発行)発行所北海道廳拓殖部内北海道景勝地協会
―吹上温泉―
○位置 石狩國空知郡上富良野村硫黄山國有林内
温泉の概要・附近の景勝・利用の状況・交通・旅館・名産土産物と項目毎に説明されている。
温泉の沿革については次の様に記されている。
温泉の沿革
明治三十五年の發見にかゝり、三十九年頃より中川某氏に經營され、昭和五年十二月吹上温泉株式會社の經營するところとなり現在に至る。
以上の調査と丸谷家の戸籍に「捨吉」という名がない事から「明治三十五年丸谷常吉」が吹上温泉を発見したと推定される。

《昭和三十七年の爆発碑》
  『十勝岳爆発記念』の碑
  建立年月日  昭和三十八年八月八日
  建立の場所  美瑛町十勝岳望岳台の入口


(一)建立の由来

昭和三十七年六月二十九日午後十一時四十分に十勝岳爆発により、硫黄採掘していた磯部鉱業所の元山宿舎に宿泊していた気象台技官二名、磯部鉱業所鉱員十四名が避難中に、鉱員五名が降りくる火山弾の直撃を受けて死亡されました。
犠牲となった五名の慰霊と、山岳無縁物故者の霊を慰むとして、美瑛町が町費二十万円を拠出し建立された。
除幕式は、昭和三十八年八月八日の白金祭りに関係者多数の参列する中で、犠牲になった「故高橋倫照氏」の遺児、長女照子さんの手により碑の除幕が行なわれた。
四十羽の鳩が、五人の犠牲者を慰めるように大空に飛びたっていった。
「十勝岳爆発記念碑」の表面下部に、銘として次のように刻まれている。

昭和三十八年八月八日この碑を建立するに当り、当時殉難の五氏を悼むと共に、山岳無縁物故者の霊を慰む。
児玉  豊  菅原 隆夫  井上  清  小野寺庄一  高橋 倫照
掲載省略 写真 《昭和37年の十勝岳爆発》昭和37年6月30日午前3時40分 撮影者 美瑛町 大場嗣氏

(二)犠牲者の「菅原隆夫氏」は上富良野出身

菅原隆夫氏(享年三十一歳)は、上富良野村静修にて父寅吉氏、母コトさんの次男として昭和六年三月十八日生れる。
掲載省略 指針 菅原隆夫氏
昭和十八年三月、上富良野村立江幌国民学校を卒業。その後は、夏は父の農業を手伝い、冬は冬山造林に従事していた。
昭和三十年に、磯部鉱業株式会社十勝岳硫黄鉱業所に入社し、中堅鉱員として勤務していて、今回の十勝岳爆発災害の犠牲になられました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
今回の災害で、磯部鉱業関係で重軽傷を負いながらも生還された九名の社員が「生還者体験記」を書かれています。
その中で、鉱員の西桜弘光氏が菅原隆夫氏と行動を共にした内容がありますので、一部を転載します。

『突如宿舎の自分の寝ていた枕元に飛んで来る石の音で目をさまし起き上った時、爆音や石と石の当る音で、十勝岳爆発と気づき部屋の片隅に行き、そこにあった蒲団を頭からかぶり一時避難したが、屋根や壁を破って石が足元へ勢いよく飛んできたのでこは危険と思い、窓を破り外に出て下手側の壁ずたいに行ったり来たりしたが良い避難場所がなく、便所の壁におさまりました。
一緒に避難していた児玉さんが、様子を見ようと壁から顔を出した瞬間に頭を大山弾に打たれ五・六米も下の所に転がり落ちて動かなくなった。
自分も一人になりもう駄目かと思ったが死にたくない、死んでなるものかと心に言い壁にしがみついていた。爆発の中でよく見ると、菅原さんを含めた五人がいたので、何とも言えない心強さでした。
その内、二人は避難のためにその場を去り、残ったのは僕と梅本君と菅原さんの三人だけとなった。
爆発はだんだん強くなり、どうか鎮ってくれと心の中で祈っていました。壁や屋根を破って飛んでくる石の音がするたびに呼吸を止めて、今度は駄目かと体全体に力を入れ歯をくいしばって避難していた。
その内、後方にいた「菅原さん」が、僕に「少し前に寄ってくれ」と言ったので、前にいた梅本君にも前へ進んでもらった。
そして、「菅原さん」は僕の後に避難した直後に壁を破って飛んできた石の音と同時に「菅原さん」のアゴが僕の背中に強く当ったので、後を見た時はもう口から血を吐き背中になまぬるい血がかかってきたので、あわてて肩をゆすり名前を呼んだが声がありませんでした。
そこで、自分達二人は覚悟を決めてこは危険だからアンカー岩へ行こうと無我夢中でその場を去り走ったのです。梅本君は靴をはいていたのですが、僕は裸足でパンツ一枚だったがアンカー岩に着き、十五分位経った頃に急にぴったりと飛んでいた石も爆音も止んだので、裸足で傷の痛さもわからず無我夢中で一気に山を下り生還することができました。』

掲載省略 噴火時の脱出経路図

(三)「十勝岳爆発記念の碑」建立趣意書

(1)建立者 美瑛町長 佐藤初吉
(2)目 的 大雪山国立公園唯一の活火山十勝岳は、大正十五年五月以来噴火がありませんでしたが、昭和三十七年六月二十九日夜、突如として噴火活動が起り、数次の爆発を起した次第であります。今般、町は地元及び各関係者の大方の要望により、この爆発を永久に記念銘記し、もって後人にこの事実を伝え、また噴火に関する全ての知識を植えつけ、災害予防を説き伝えたく存ずる次第であります。また、国立公園利用者に対しても活火山十勝岳のガイド並びに戒めを長く銘記することといたすものであります。
(3)碑 文
 (主文)噴火爆発の年月日・時刻を明らかにするものとし、
 ●1962・6・29 PM10・40
 ●十勝岳爆破記念之碑(英文を併記する)等を主文とす。
 (従文)噴火爆発の大要につきガイド文をする。
(4)経 費  町費による(二十万円)
(5)着 工  許可あり次第着工
(6)完 成  昭和三十八年八月八日 除幕式
(7)管 理  常に清掃し、ガイド目標として活用

(四)国有林野新規貸付申請書

美瑛営林署長 殿
申請人 美瑛町長 佐藤 初吉
                                              昭和三十八年六月二十五日
左記のとおり、国有林野を借受使用いたしたいから、国有林野法施行規則及び国有林管理規程の条件を承諾し申請いたします。
                         記
場 所  美瑛町十勝岳国有林四二八林班
面 積  〇・〇三〇〇ha
期 間  自 昭和三十八年七月十日
      至 昭和四十三年三月三十一日
用 途  記念碑敷(引渡命令書で、五年毎に更新)

(五)碑建立に関わった「上富良野出身者」
昭和三十七年六月二十九日の十勝岳爆発による記念碑建立に、偶然とはいながら二人の上富良野出身者がおりました。
建立者として、当時の美瑛町長佐藤初吉氏と美瑛町役場観光係長として担当した田浦信一氏でした。
――美瑛町長佐藤初吉氏――

明治三十二年一月十日生まれ
《略歴》名誉町長(昭和四十三年九月二十八日認証)
空知郡美唄町に生まる。妻フミ。大正六年上富良野町役場、昭和十二年から美瑛町役場に勤務、十九年から二十二年まで助役、二十二年から三十年まで道会議員、三十年から三期十二年町長の職にあり財政再建、農業、総合開発事業、白金開発、上水道完成、大雪青年の家誘置などの諸施設に務めた功績は大きい。昭和四十四年五月十二日地方自治の功績により勲五等双光旭日章受賞。昭和五十二年二月二十八日上富良野町で没す。享年七十八歳。町葬執行。
道議会議員を二期八年、美瑛町長を三期十二年と歴任され、道政及び美瑛町政に多大に貢献され町長を引退後は、上富良野町に戻られ、大和田家のお孫さんに囲まれての、悠悠自適の老後を過されました。
佐藤初吉氏に関わる人々を掲載しましたが、現在上富良野町教育委員を務められている「菅原恵久子さん」はお孫さんになります。

掲載省略 家系図《佐藤初吉氏に関わる人々》
――美瑛町観光係長 田浦信一氏――

昭和三十七年六月の十勝岳爆発時は、観光係長として大変な時期に担当されました。
磯部鉱業株式会社発行の「十勝硫黄鉱山噴火災害誌」は日別の天候・風向き・温度・時間別の地震状況、そして行動については磯部鉱業職員・気象台技官・役場職員と各々記されていますが、その役場職員として必ず「田浦氏来山」と書かれているので、職責上とはいえその行動力には驚きました。
碑建立は自ら企画をし、碑の設計も田浦信一氏が行われた。田浦信一氏は絵が上手で書くのが早く「上富良野郷土さぐる誌」には何回も書いて戴きました。
表紙絵として、第十六号「農家の夕餉のひととき」、第十八号「深山峠」、第十九号「里仁小の運動会」、特に第十八号本文ページに「スケッチで見るふるさとの思い出」と、多大な協力をいただきました。
上富良野町在住で俳人の「田浦博氏」の兄さんということで、色々と依頼を申し上げて、ふるさとを思い出すスケッチに懐かしく郷愁を感じます。
しかし、誠に残念なことは「田浦信一氏」は平成十七年九月二日に享年八十歳で逝去され、弟さんの「田浦博氏」も同じ年である平成十七年十一月二十三日に享年七十七歳で逝去されました。
ご兄弟とも、多彩な才能を持ち、常に献身的な立場で行動する人であったことに感銘しています。

掲載省略 写真 田浦信一氏設計による十勝岳爆発記念碑
掲載省略 写真 左田浦信一氏と右田浦博氏(平成2年4月8日写)

《略 歴》
大正十四年七月三十日、上富良野町里仁で農業を営む父金七、母タマの十一人兄弟姉妹の三男として出生。里仁小、上富良野小、昭和中を経て水戸陸軍航空通信学校特別幹部候補生課程卒業。飛行第三戦隊配属、試作中の複座戦闘機後席乗員となり秋田県能代施行上で待機、出撃直前に終戦。昭和二十年終戦の九月復員、家業の農業を手伝う。翌年空中航法技術で測量に自信、隣の美瑛町開拓本部就職、戦後開拓の農地測量等やる。同二十三年四月美馬牛郵便局へ転じる。同年九月、再び美瑛町役場に勤務。同五十九年七月、町公民館長・教委社会教育課長が最後で定年退職。平成六年五月北広島市へ。平成十七年九月二日逝去(享年八十歳)

掲載省略 田浦信一氏のスケッチ

参考文献

「十勝硫黄鉱噴火災害誌」磯部鉱業株式会社
「美瑛町史」美瑛町
「美瑛町百年史」美瑛町
「祭りと祈り」美瑛町郷土史科保存会
「続祭りと祈り」美瑛町郷土史科保存会
「美瑛町美沢郷土史」美瑛町美沢
「十勝岳の自然」国立大雪青年の家
「十勝岳連峰とともに四十年史」美瑛山岳会
「北海道温泉地案内」北海道景勝地協會
「北海道市町村総覧」旭川市北洋社
「旭川市史」旭川市
「月刊北海道経済」竃k海道経済
「北海道新聞」北海道新聞社
「寒帯林」旭川営林署
「上川町史」上川町
「上富良野町史」上富良野町
「富良野地方史」富良野地方総合開発連絡協議会
「十勝岳爆發災害誌」十勝岳爆発罹災救済会
「北海道の山第十号」清水孔版社出版部
「中央高地登山詳述年表稿」編著者吉田友吉氏
「北海道中央高地の地学的研究」著者小泉秀雄氏
「北海道大雪山」大雪山国立公園指定五十周年記念事業推進協議会

―取材協力をいただいた方々―
旭川市        丸谷公市  氏
江別市        丸谷ユウ子 さん
美瑛町        大場  嗣 氏
美瑛町        石川 匡彦 氏
美瑛町立図書館    清野 孝一 氏
美瑛町役場      森中 麻友 氏
旭川市        上川中部森林管理署
旭川市        松下 節子 さん
旭川市        小原澤キヨ さん
上富良野町      菅原美智子 さん
上富良野町      菅原恵久子 さん
上富良野町      田浦 澄子 さん
上富良野町江幌小学校 瀬尾 祐二 氏

機関誌  郷土をさぐる(第26号) 
2009年3月31日印刷   2009年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一