郷土をさぐる会トップページ     第26号目次

ふらの原野開拓のあゆみ(その三)

上富良野町錦町 野尻巳知雄
昭和十二年三月三十一日生(七十二歳)

北海道の植民地選定調査

明治十九年一月、明治政府は「三県一局制度」を廃止して「北海道庁」を設置し、初代長官に岩村通俊を任命した。

掲載省略 写真 岩村通俊

岩村長官は北海道開拓について、今までの官営による個人の移民制度では、経費の割に開拓の実績が上がらないことから、民間の資本家による大資本の導入によって開発を進めようと考えた。
資本導入には未開地の現況や将来農耕地や牧草地として見込めるかなどの資料が必要であり、今後の開発計画に適した土地の状況調査と併せて、一箇所二十万坪以上の面積で農耕や牧畜に適する植民地を選定することとした。
この事業は十九年の北海道庁発足と同時に始められた。事業主任には札幌農学校助教の内田瀞が任命され、助手の十河定道と一行六名で札幌に近い石狩国空知郡、夕張郡、胆振国千歳郡、勇払郡の四箇所を跋渉(ばっしょう)調査し、農耕適地を選定した。
翌二十年からは本格的な調査が始まり、雨竜郡を内田瀞、上川郡を福原鉄之助、空知郡を柳本通義の三人が主任となって三班に分かれて調査は進められた。
柳本が担当した空知郡の最初の調査はフラヌ原野で、美瑛との境界から落合までの区間を調査したが、落合で調査中に大雨による激流に巻き込まれ、食糧等を流されてしまった為、空知大滝(現野花南ダム下流)まで下がった。
運良く残してきた食糧が無事であったので、そのまま空知川沿岸(現雨竜町・新十津川町、浦臼町、月形町、美唄市等)を下りながら調査して引き上げた。
注 岩村の規則の改正では、払い下げ地価を安くし、事業の確実なものに対しては一人十万坪以上の払い下げを許可し、満五年以内に二十町歩以上の土地を開墾したものは、一反歩金七円の割合で、十カ年間その利子を四朱の割合で付下する資本家保護策を設けた。

掲載省略 写真 柳本通義 永山武四郎

二十一年六月、北海道庁長官が岩村から屯田兵本部長の永山武四郎に変わった。植民地選定事業はそのまま踏襲され、事業を急ぐために調査員を増やして十一組に編成替えを行い、前年主任であった福原鉄之助が室蘭郡長に転出したことから、内田ワと柳本通義の二人が全体の監督に当たる事となった。
二十一年、前半の天塩国調査が終わると、後半の調査地である十勝国に向かったが、天塩からは機材を汽船に積み込んで函館を回り、釧路に上陸して十勝国の内陸に向うコースを選んだ。
十勝国の調査は寒気が訪れたため十一月で一時終了し、残りは翌年に調査することにした。
二十二年七月、前年に引き続き道東地区の調査も終わりに近づいた頃、柳本は突然父の訃報を受けた。長男として父没後の後始末をするため、調査の継続は内田に頼み、いったん札幌に戻って休暇の手続きを済ませ、郷里桑名に向かうことにした。
札幌までは船を使い、釧路から函館に着いたところ、偶然にも上京する永山武四郎長官一行と出会った。
事情を話すと以外にも柳本はそのまま東京へ随行を命ぜられた。長官は北海道の開発と、維新後の華族の経済基盤を確立させるべく、雨竜原野を貸下げて開墾し、農場からの安定した収入で解決する方法を考え、時の首相三条実美等や華族の関係者らと相談のため、上京しようとしていたところであった。
柳本は以前、雨竜地区の植民地選定を行ったことから、関係方面への説明役として適任者であり、一行に随行していた町村金弥と共に、華族組合創設にあたっての説明役を果たすことなったのである。

十津川郷移民

東京に着き、公務が一段落したところで休暇を取って桑名に帰省し、急いで亡父の後始末を済ませて東京に戻って間もなく、奈良県十津川郷で台風による大災害の発生がもたらされた。被災民六百戸、四千五百人の北海道移住が決まると、柳本はその入植地にかって自分が調査した石狩川沿いのトック原野が適地であると上申した。また、かねてから内田瀞等農学校の同期生と共に話し合ってきた、農地五町歩(一万五千坪)を一戸分として割り当てることする区画地の設定計画も決定され(以前は一戸分一万坪であった)、急きょ柳本が担当者となり急ぎ北海道に戻って、植民地の区画設定測量を開始することなった。
その後、植民地の選定と共に区画設定(区画される土地は、まず交通道路を予定し、一村を三百戸ないし五百戸をもって構成すること。直角法による区画測量を行い、農耕用地・牧場用地を設定し、市街地・公共用施設地・保有林などの予定敷地も準備するもの)が全道に繰り広げられることなったが、この十津川郷からの移民受け入れと、柳本の区画測量による設定が基本となっている。(内田瀞も同じ時期に奈井江原野の区画測量を実施している)
柳本通義について

柳本通義は一八五四年(安政一年)十月二十九日に父通徳・母咲の長男として桑名何寺町で生まれた。父通徳は桑名藩主松平定永に仕え、勘定方九石三人扶持であった。
六歳のとき志田塾で漢詩・習字を習い、八歳で桑名藩校「立教館」に入る。明治五年十五歳のとき桑名塾で英語を学び、翌六年に上京、岸俊雄塾、プラウン塾で学び明治八年九月東京英語学校に入学、翌九年七月官費による札幌農学校の生徒募集に応募、合格し入学した。当初二十四人で入学式を迎えたが、途中の期末試験などで大量の落伍者が出て、結局卒業できたのは柳本通義、佐藤昌介、内田瀞、渡瀬寅次郎、田内捨六、黒岩四方之進、山田義容、大島正健、中島信之、出田晴太郎、荒川重秀、小野兼基、伊藤一隆の十三人のみであった。
明治十三年七月十日一期生卒業式後、十六日付で「開拓使御用掛、月給三十円」の辞令を受ける。同年九月卒業休暇で帰省し、西村なをと結婚、十一月七重勧業試験場勤務となり、二十年一月道庁第二地理課勤務となって内田瀞、福原鉄之助と共に植民地選定事業に従事、空知川、石狩川、富良野川沿岸の原野調査に入る。二十二年に十津川郷からの災害移民を受け入れるために、空知郡トック原野を区画測量した。まず九百間の大区画を作り、これを九等分した方三百間の中区画とし、さらに間口百間・奥行き百五十間の一万五千坪(五町歩)を一戸分とする設計とし、中には道路、防風地も取り入れている。この区画設定事業はその後全道に亘って進められたが、二十二年に柳本がトック原野を、内田が奈井江原野を最初に測量したのが、区画設定事業の始まりである。多くの文献が区画設定事業は内田瀞が主体となって進められたことになっているが、柳本通義の自叙伝から柳本がこの事業に多く関わりあっていたことが判る。
その後柳本は、内田と共に全道各地の原野で植民地区画設定事業をおこなっている。明治二十九年四月、柳本は台湾総督府民生局殖産部拓殖課長を命じられ、台湾勤務となる。五十歳で依願退職して京都に住み、地域の公務に経験を生かしながら昭和十二年八十歳で永眠した。
                                                 「柳本通義の生涯」神埜努著より抜粋
雨竜農場

永山長官と道庁幹部が上京してまとめられた雨竜農場は、時の主相三条実美、侯爵蜂須賀茂韶、侯爵菊亭修季が発起人となって組織した華族組合により、明治二十二年十月に五万町歩(一万戸分)の貸下げを出願し、十二月十八日に許可された。
その時組合から次のような条件が付けられた。
(1)道庁が開墾方法等、農場設計を行う。
(2)道庁から農業管理者を派遣する。
(3)道路、排水工事は官費で実施する。
という内容であった。この条件に基づき、農場の設計は柳本が担当し、現場監督には道庁を非職となった町村金弥が事業主任として進められた。
雨竜農場は種畜、農具をアメリカから輸入して大農式の模範農場を目指したが、未墾地では農具を思うように使用できないことや、組合の資金不足(当初有志から二百八十四万円を集める予定であったが、わずか三万円ほどしか集まらなかった。)や、販売市場が少ないこと、農業労務者の極端な不足などから経営は行きづまり、柳本は規模を縮小して、開墾には樺戸集治監から五十人の囚人を借り、開墾、耕作、排水工事の人夫に当てた。
当初の計画を変更して、初年度の開墾面積を百町歩に縮小して進めた事業は、現場監督の町村金弥の努力が実って、百二十五町歩まで広げることが出来、種牛二十一頭、耕牛十四頭、耕馬二十五頭を飼育し、農産物の燕麦、トウモロコシ、大豆などは主に家畜の飼料食物として利用された。

町村金弥の功労

町村は、今後の農場経営について種々対策を検討していたが、二十四年二月、華族組合の中心人物である三条実美が急死したため、この組合農場はわずか一年で経営方針を転換し、更に規模を縮小することとなった。

掲載省略 写真 町村金弥

町村は三月に事業主任を退き、それまでの功労から既墾地五十町歩、放牧地三十町歩のほか建物、農機具、家畜等を低価で譲り受け、町村牧場として独立した大農式直営農場の経営に乗り出すことにした。
町村金弥については前号で、フラノ原野植民地区画の最初の貸下げ出願者であったことで触れているが、町村金弥と上富良野との関係や、新たに判明した貸下げ出願について若干触れてみたい。
明治三十年四月に町村金弥が貸下げを出願し、八月三十日に認可となったフラヌ原野十五万三千八百八十八坪(畑地十三万八千八十八坪・排水地八百坪)の位置は、最初特定することが出来なかったが、その後詳しく調べたところ場所は現在の中富良野町で、東一線から東二線まで及び、北十二号から十三号の区間であることが分かった。
この場所は現中富良野町市街地にもっとも近い位置にあり、中富良野の農場としての条件では非常に有利な場所であった。
出願の書類から見ると、小作人を入れて開墾するのではなく、雨竜農場のような直営方式で開墾を進めようとしていたようである。
しかし、準備の途中の三十年十月に、財界トップの渋沢栄一が仲間十人と百万円を出資して、帯広原野の十勝清水に一万二千町歩の貸下げを行い、北海道の開拓に進出してきたが、金はあるが開拓の技術者がいないため、町村金弥が農商務省や道庁の推薦を受け、十勝開墾合資会社の最高責任者を引き受けざるを得なくなった。この為せっかく許可を得た条件のよい農地も返還を余儀なくされたものと考えられる。
十勝の開墾は順調に進み、芋、トウモロコシ、豆類などの作物が収穫されたが、道路はまだどろんこ道で、輸送手段を駄馬に頼らなければならなかったことから、運賃が高くなって思うように売れず、みすみす腐らせる作物もあった。
このことから、旭川まで来ている鉄道を十勝まで繋ぐ必要の思いを強く抱いた金弥は、三十一年九月、アイヌ五人と共に当時まだ満足な道路の無かった刈分道を帯広からフラヌ原野を通り、旭川まで一週間をかけて歩き、鉄道建設が可能なことを確かめて、当時の北海道炭鉱鉄道株式会社重役で日本の財界のトップであった渋沢社長に、旭川〜十勝間の鉄道の必要性を訴え、早期の敷設を強く要望した。
このこともあって、富良野線の鉄道が予定よりも早く敷設されたことを考えると、町村金弥がフラヌ原野の開発に、少なからず貢献していたことが伺われる。町村金弥はフラヌ原野以外でも農地の開墾を試みている。
北海道立図書館所蔵の「国有地貸付台帳」によると、明治三十六年二月十二日に奥田平蔵を代人に立て、十勝国川西郡札内原野基線百四十二番地から百五十八番地・東一線百四十番地から百四十六番地までの十六万五千五百八十二坪の貸付申請を行っている。
ここでも開墾方法としては直営の大農方式で、ブラオ・ハローなどの機械の使用をすることで申請しており、作物では大豆、小豆、燕麦などの生産を計画している。
このことについて、町村金弥の申請通りに開墾を行い農場として付与されているかについて、中札内村、及び帯広市(札内原野は現帯広市昭和町付近とのこと)の担当者に問い合わせたが、当時を解明する資料が無く、事実関係については解明することが出来なかった。

掲載省略 写真 道庁公文録目録無償貸付台帖(道立図書館)
掲載省略 写真 畑地開墾申請書(道立図書館)
掲載省略 写真 開墾方法(道立図書館)
掲載省略 写真 町村敬貴

町村金弥は、明治十四年七月札幌農学校を卒業するとすぐに、同郷の山本偉川の娘そと結婚し、翌十五年に長男敬貴が誕生した。
町村敬貴は札幌農学校を卒業後直ちに渡米し、ウイスコン州のラスト農場で十年間酪農を修行した。大正五年に帰国して、明治三十年に金弥が百二十町歩を求めてあった現石狩市樽川に町村農場を創設した。その後江別市対雁に農場を移転して、酸性でやせた荒廃地の土地改良に励み、牧草のサイレージも日本で初めて成功させるなど、酪農経営の第一人者として知られている。
町村敬貴には七人の子供がいるが、町村農場の経営は末娘寿美子が引継ぎ、婿養子に上富良野で農業を営む和田柳松の五男末吉(元上富良野町長和田松ヱ門の弟)を迎え入れている。
町村末吉も昭和二十七年八月から三十年十二月まで米国ウィスコン州に渡米し酪農経営を学び、現在、江別で町村農場を引継いで、現役でその経営に当たっている。町村末吉は「札幌上富良野会」のメンバーでもあり、町村金弥と上富良野とは、現在も何らかの関係で結ばれているのである。
注 「町村牧場」の乳製品は、「町村ブランド」として全国的に高い評価を得ているが、詳しくは「郷土をさぐる」第十八号で、町村末吉氏が『七十六年の歩み・思い出すままに』に記述している。
町村金弥について

安政六年一月十二日、越前国府中(現福井県越前市・旧武生市)領主本多家の家臣・町村織之丞、母こうの長男として生まれる。
八歳のとき藩校立教館に学び、明治四年十二歳のとき父織之丞は金弥に新時代の学問を習得させるため、東京日本橋で郷土名産の蚊帳問屋を営む同郷人米倉嘉平に託し奉公勤めの傍ら夜学に通い英語を学ぶ。
明治六年名古屋英語学校に、八年に東京工部学校予科で英国人ハミルトンの教えを受ける。
明治十年工部大学を受験合格するが、金弥は私費合格であったため学費に窮していたところ、官費の札幌農学校が二期生募集を知り、工部大学入学生は無試験採用もあって、直ちにこれに応じた。
明治十四年七月、札幌農学校を卒業する。同期生は内村鑑三、宮部金吾、廣井勇、南鷹次郎、岩崎行親、新渡戸稲造、藤田九三郎、足立元太郎、高木玉太郎の合わせて十名である。
卒業するとすぐ、札幌で煉瓦工場を営む山本偉川の娘そと(十六歳)と結婚し、真駒内種畜場の管理をまかされ十五年十二月に長男敬貴が生まれた。
二十三年一月、非職となり三条実美らが雨龍に開設した華族組合農場の事業主任となる。
二十六年一月、道庁を退職。この年農場を小作経営とする。三十一年、十勝開墾合資会社の十勝清水農場長となる。
三十三年八月十六日、五男町村金五誕生(元北海道知事)。
三十四年、陸軍省農事専任技師となり、白糠村、熊牛村に種馬牧場を開設し馬産に努める。
昭和十八年六月、雨竜農場を開放。十九年十一月二十五日、疎開先の郷里武生で死去、八十六歳であった。
フラヌ原野の開放

明治二十九年四月、柳本が台湾への転勤により植民地区画設定事業を行うものがいなくなったため、非職扱いであった内田瀞が復職し、事業を担当することなった。
植民地選定区画測設が終わり、明治三十年からフラヌ原野の開放が始まることなったが、区画外の土地も予め区域を指定して貸し下げることなったので、殖民課職員の担当者内田瀞がフラヌ原野に出張して出願者を現地に集め、起業の確実について確認し、賃下げの処置を行っている。
この年から国有未開地の処分方法が大幅に改正された。
今までは三カ年間は無償で貸付され、開墾に成功後は千坪一円で売り払いが行われていたが、新しい制度では売り払いが無くなった。貸下げ期間も十ヵ年に延長され、成功後は無償で付与されるようになって、不成功の時は「返還」「取消」となった。
また、団体移住についても、三十戸以上がまとまらなければ貸付予定存置(一戸につき一万五千坪の用地を三ヵ年貸下げられた。)の特典が受けられなかったが、それが二十戸以上に縮小され、小作農場経営主(小作人はすべて道外から募集)と、二十万坪以上を開墾する自作農家も対象となるように改められた。

―主な改正制度の内容―
(1)開墾・牧畜・植樹用地は、無償貸付・無償付与。
(2)公用・公共の利益となる事業に供する用地は、売払・付与・または無償貸付。
(3)市街地・市街予定地・その他の土地は、競争売払い。
(4)寺・神社・墓地その他の事業に要する土地は、売払。
(5)素地のままで使用しようとする土地は、有償・または無償貸付。
(6)一人当たりの貸付面積は、開墾する土地は百五十万坪(五百町歩)以内、牧畜用は二百五十万坪以内、植樹用は二百万坪以内、会社・組合にはその二倍の面積が認められた。

フラヌ原野で最初の頃の貸付出願は、道庁にコネを持つ事業家や大資本家、札幌農学校出身関係者による大口の申請がほとんどで、他でも、御料地・学校実習地の名目の用地が多くの面積を占有しており、団体移住や個人の移住者に割り当てられた面積は、ほんの僅かであった。

当初出願地とその後

道文書館に残されている国有地貸付台帳と、道立図書館北方資料室の古文書からその内容を調べてみたい。

(一)明治三十年申請
明治三十年の貸付では、石井英太郎(広島県で酒造会社を経営、広島県農工銀行頭取)(後に滝川村江藤恭太郎に譲渡)が、東三線十二号から東六線十五号までの八十一万五千七百二十九坪(二百七十一町歩)を申請し、後に西田幸次郎外十八名に一人五町歩平均で分割譲渡されている。
堀江宝加吉(札幌郡上手稲村在住)後に渡辺徳三郎(永山村)に譲渡、東三線十一号から東五線二十五号まで五十一万三千六百八十五坪(百七十一町歩)を申請。取消となり、後に本間ミキ、本間十一、渡辺徳三郎などが分割開墾申請している。
鈴木要蔵(栃木県の資産家、渋沢栄一等と共に紡績会社を設立)は、現島津地区農場の百四十三万三千二百八十三坪(四百七十七町歩)(後に島津忠重に譲渡)を申請。島津家では管理人に海江田信哉を置き、小作人を入れて開墾付与を受けた。
人見寧は(栃木県知事、サッポロビールなどの会社設立)倉光三郎と(下野国那須村の資産家)中野要蔵(東京日本橋呉服町)の三名で、東三線北十八号から東九線二十二号の区間で百五十二万二千四百十七坪(五百七町歩)を申請、後に中島覚一郎(管理人岩崎鹿之助)が譲り受け、小作を入れて開墾付与を受けた。しかし、後に経営に行き詰り、小樽の五十嵐佐一に譲渡している。
堀井民三は、吉田松太郎(札幌区在住)若月幸七(札幌区在住)と三名で、現中富良野区域東一線北八号から東二線北十号までの三十一万八千九百五十八坪(百六町歩)を申請し、取消となり、後に浅野九郎右衛門が再度申請、その後富樫治右衛門に譲渡され付与されている。
飯田信三(日高郡門別村)は、東七線北九号から東八線北十一号までの三十六万五千坪(百二十一町歩)を申請したが開墾できず返還している。
町村金弥(札幌区)は、十五万三千八百八十八坪(五十一町歩)を申請し返還した。
我孫子助右エ門(札幌区)は、中富良野区域の基線十三号から東二線十四号までの区間、十七万六千四百二十四坪(五十八町歩)を申請、着手出来ずに取消された。
渡辺寅吉(札幌郡対暦村)も中富良野区域で基線十四号から東二線十五号までの区間、十七万三千八百坪(五十七町歩)を申請し取消。
安達才右エ門(福井県)は、安達六左エ門(福井県)と共同で基線北四号から東一線六号までの区間、十六万五千四百四十二坪(五十五町歩)を申請したが取消となり、後に細川藤次郎・兼松為吉・中村安太郎などが分割して開墾付与を受けた。
田中八太郎(徳島県富岡村から移住)は、東五線北十六号から東六線十七号までの区間二十一万千三百坪(七十町歩)を借り受け、明治三十四年十一月二十二日付をもって付与を受けている。

掲載省略 写真 田中八太郎貸付台帖(道文書館)
掲載省略 写真 石井英太郎貸付台帖(道文書館)

注 明治三十一年一月に報道された「フラヌ原野の状況」(『北海道毎日新聞』)によると、田中八太郎について『移住者の徳島県田中八太郎氏は最も開墾に熱心し、成績の宜しきは本原野の第一に居る。』と報じている。

三十年に各人が申請した場所を図面に落としてみると、入植位置で特に目立つのは、団体移住者への存置地を除き、比較的地盤の良かった地域と、道路が早く整備されると予想された十勝道路(斜線道路)付近が多く、現富原と島津から富良野までのヌッカクシフラヌイ川東部に集中している。
また、「フラヌ原野区画割図その二」の中で、鉄道敷設予定線が掲載されているが、中富良野の駅予定地は、北九号の位置に存置されていた。

(二)明治三十一年申請
明治三十一年の申請を見ると、榊増介と吉井幸蔵(東京市)の両名で申請し、後に中山譲治・山口俊太郎・山本粂太郎(東京府)に譲渡付与された畑地と牧場地・三百九十八万七千四百二十三坪(千三百二十九町歩)「場所は中富良野吉井農場」がある。
また、位置は不明であるが、村上太三郎と中山譲治(東京市)の名で申請し、中山に代わって山本粂太郎(東京市)が共同経営者となっている畑地と牧場、三百九十九万八千八百八十五坪(一千三百三十二町歩)がある。場所は区画外地のため特定することは出来ないが、吉井農場と同じ人物が関っていることから、吉井農場とそう遠く離れていない場所ではないかと思われる。
場所が特定できない大面積の申請では東京府の磯長鉄之助(後に静岡県の望月軍四郎に譲渡)と青地晁太郎(東京府)が、植林地の目的で申請した、二百十六万四千八十一坪(七百二十一町歩)の出願がある。後に目的を農地に変更して申請しているが、予定通りの作業が進められないため返還命令を受けている。

(三)明治三十二年申請
明治三十二年に入ると、ペルイ川上流(倍本地区)で、大島七之助・大木七郎左エ門・藤江謙吉郎(千葉県)が、畑地百四十三万八千四百坪(四百七十九町歩)を申請して返還。
福岡県の佐々木正蔵外九名(近藤直五郎・近藤伸太・神代村次郎・神代憲二・真藤栄・原優三・中村久蔵・永松富吉・高田栄)により、畑地百九十四万九千九百十六坪(六百四十九町歩)を申請、付与を受けているが区画地外のため場所は解らない。

掲載省略 写真 明治32年未開地貸付台帖表紙(道文書館)
掲載省略 写真 重松サダが分割譲與した人員見出し(道文書館)
掲載省略 図 明治32年に申請され付与を受けた日新地区の農地

小樽市在住の重松サダは、東三線北十五号から東四線北十八号の区間五十一万五千八百七十五坪(百七十一町歩)を申請し付与されているが、三十五年に全部を十一名に分割譲渡している。十一人の名は次の通り。
(井形多吉・井上高蔵・桑島新吾・山本半次郎・川端薫雄・桑島源蔵・大平利平・片山太次郎・渡邊治郎右衛門・藤本熊太郎・前川源蔵)
同じく重松サダは、東三線北十六号から四線十八号までの区間・五十八万八百七十五坪(百九十四町歩)を申請し、松井為四郎、桑島源蔵、井形多吉に分割譲渡し付与された。
現在の富良野市の地域では、当時ほとんどが札幌農学校の所有地となっており、団体移住者の存置地を除くと民間人に振り分けられた貸付地は、ほんの僅かであった。
中でも大口の申請では、明治三十二年に青森県弘前市の武田虎七が出願し、宮城県の清水寅治に譲渡した後、同県の大沼源太郎に譲渡され付与された農地・東三線北〇号から東九線北二号の区間、八十六万二千五百六十六坪(二百八十七町歩)と、伊藤孫七(福島県)の東三線北一号から東六線北三号の区間五十四万六千七百二十坪返還(百八十二町歩)が目立っている。
現在の日新地区の平地、九万六千八百六十四坪(三十二町歩)の申請は意外と早く、三十二年十一月に永山村在住の岸田秀造が出願し、栗沢村の工藤元八に譲渡され、四十一年に畑地として付与されている。
同じ三十二年十一月の申請で目に付くのは、札幌農学校の予定地であった(「石狩国空知郡フラヌ原野区画図その二」、に農科大学第八農場と記入されている)中富良野の原野を、札幌農学校の校長佐藤昌介が父「昌蔵」の名義で、同じく農学校出身の鹿討豊太郎が父「直五郎」の名義を使い、共同で、五十四万四千二百坪(百八十一町歩)を申請し(管理人及川誠一・助手野田好之助)付与を受けており、同じく農学校出身の伊藤広幾が父「弓太」の名義(管理人池田文蔵)で隣接地四十三万千四百四十九坪(百四十四町歩)を。福原鉄之助が父「公亮」の名義で隣接地四十二万千坪(百四十町歩)を申請し付与を受けていることである。
この土地は、札幌農学校の予定地であったため、選定区画が行われない区画外地であり、一般に開放されていない原野であった。今では推測の域を出ないが、合法的とはいえ何とも納得のいかないことである。

(四)明治三十三年申請
明治三十三年では、ヌッカクシフーラヌイ(現旭野地区)百九十三万六千一坪(六百四十五町歩)を、中島増次郎(長野県)が後に新潟県の渡邊幸平に、その後岡部熊治(札幌区)に譲渡して目的牧場地で申請し、付与を受けている。
新井鬼司(埼玉県)は、フーラヌイ川上流(現日新の奥で大正十五年の十勝岳爆発により、流されている)に牧場地百九十万九千二百五十一坪(六百六十四町歩)を申請し付与されている。
エバナマエホロカンベツ九万三千七百五十坪(三十一町歩)は、東工三郎(小樽在住)が申請、高田太八郎(幌向村在住)に譲渡され、その後須藤いのに譲渡した畑地は、開墾に成功し付与を受けている。
東郷熊吉(千葉県)は東二線北九号から三線十一号までの区間十七万七千四十八坪(五十九町歩)を申請、後、太田金平・石山安長・成田次六に分割し付与されている。
この外、上野正(鹿児島県)が東一線北四号から東二線七号までの二十四万四百四十二坪(八十町歩)を申請し取消。斉藤三良右衛門(山形県)は東四線北八号から六線十一号までの区間五十四万六千七百二十坪(百八十二町歩)を申請し付与されている。
三十三年の大面積の申請では、本間豊七(浜益村)が聡作・桃太郎・隆拮・十一等の親族で申請した上富良野から下富良野までに亘っている牧場地で、四百九十九万九千八百五十坪(千六百六十六町歩)がある。付与を受けた後に分割譲渡されている(後に記載)。

掲載省略 図 フラヌ原野区画図にある農科大学第八農場農科大學第八農場

(五)明治三十四年以降の申請
三十四年はべルイ、落合、幾寅などの地名のものが多く、上富良野地域ではあまり見当たらない。
三十五年では、田中亀八(徳島県)がシブケウシで、畑十二万八千七百七十七坪(四十二町歩)を申請付与。長田谷次郎(中富)が中富良野区画外地(基線十二号付近)で畑二万七千八百坪(九町歩)を申請の後、湯浅勇作に譲渡し付与。場所は不明だが、字上フラヌで村瀬茂作が、牧場地九十四万六千六百三十三坪(三百十五町歩)の申請をしているが、取り消しになっている。
三十七年で特筆すべきは、岡本一乃助(医業旭川町)が牧場地九十四万六千六百三十三坪(三百十五町歩)を小作人で開墾する申請をし、三十八年に目的を畑地として変更許可を受け、四十二年には約半分近くの土地が、分割譲渡する許可を受けて付与されていることである。(面積が三十五年に村瀬茂作が申請し、取消になっている牧場地と同じことから、同一地と思われる。)
驚くことに、その分譲者のほとんどが三重団体の入植者が占めていること、その範囲が日の出と草分両地区の約半分の面積を占めていることである。
以下が分譲者の名前と反別である。
四町歩 分部 牛松
二町五反歩 川田 金七
四町八反三畝十歩 土井米太郎
三町歩 田中勝次郎
四町八反三畝十歩 長井文次郎
四町八反三畝十歩 二村五郎吉
七町一反六畝二十歩 立松為次郎
五町四反六畝八歩 西浦 末蔵
四町八反 布施 庄太郎
四町八反 片井 徳治
四町八反三畝十歩 山崎仙太郎
五町一反六畝二十歩 若林助次郎
五町歩 川田七五郎
四町六反六畝二十歩 山崎 由松
四町八反三畝十歩 坂  佐吉
四町八反三畝十歩 田中常次郎
四町八反三畝十歩 佐藤 窪松
四町八反三畝十歩 稲垣 銀次
四町歩 高田 利三
四町八反 内田 幸吉
五町一反六畝二十歩 若林仲次郎
四町八反 高田次郎吉
四町八反 栞田岩太郎
五町二反八歩 岡和田安次郎
四町八反三畝十歩 内田 庄次
五町歩 西川 竹松
五町歩 長谷 藤蔵
二町五反歩 田中栄次郎
掲載省略 写真 岡本一乃助が申請した国有地貸付台帖
掲載省略 写真 三重団体の人達が分割譲渡を受けた名簿

この分譲した岡本一之助の申請した場所は定かでないが、三重団体の人々が多いことから、草分から日の出に続く地区と思われる。しかし、今までの「町史」や明治四十二年発行の「上富良野誌」など、どの文献を見ても「地主岡本一之助」の名前はどこにも出て来ていない。
これほど大きな面積の畑地を開墾して農場を造成し、三重団体のほとんどの者が関わっていたのであれば、何かの資料に「岡本一之助」の名前が出てきてもおかしくはないが、どこにも出てこないということは、不思議と思うほか無い。考えられることは、譲渡を受けた三重団体の入植者が、一時小作人となって開墾に従事して全面積を開墾し、開墾した面積の半分を安い価格で分割譲渡を受けたのではないかと思慮される。
地主の名前が出て来なかったのは、「当時団体移住者は、小作人になることが禁じられており」、そのことを表面に出すことが出来なかったことが原因ではないだろうか。
この年、本間ミキ(河野ミキ)(浜益村)は、堀江宝加吉が返納した土地の内、東三線北二十四号から東四線北二十五号までの区間、八万三千五百坪(二十七町歩)を、本間十一は東三線北二十五号から東四線北二十六号まで、二十七町歩を申請し付与を受けている。
この外に、この年から三十八年に掛けては、べべルイ、奈井江などの牧場地申請が多く目に付く。これらの申請者の名前のみ挙げると、
林顕三、時岡観純、梶野百蔵、田畑浅吉、山中亀吉、奥山留次郎、大橋喜三郎、山田清三郎、森岡善太郎、石川儀一、森川房吉、林八重、湯浅勇作、安藤彦蔵、荒井栄蔵、林仁作、西谷元右衛門、広浜行蔵、村瀬茂作、本間鉄五郎、長岡栄松、本間国蔵、岩谷松平、山本嘉太郎、辻孫兵衛、渡辺英次、斉藤為吉、市村相吉、東ミヤ、中津井高助、吉岡佐一などの名がある。三十八年七月、松藤三治・伊豆本栄太郎・久保福太郎・塚本與吉(上富良野)が西一線北十八号・十九号区画外地で十五町歩を申請し四十五年に付与を受けている。吉田貞次郎は、三十八年申請し四十四年三月に場所は不明であるが中富良野区画外地を、川仁高太郎から譲り受け、牧場地三十六町歩の付与を受けている。

掲載省略 写真 石川義一外の申請(道文書館)
掲載省略 写真 林顕三外の申請(道文書館)
掲載省略 写真 吉田貞次郎が譲渡を受け付与された土地台帖

三十九年では場所不明で、雨宮一秀(岩内郡)が申請し、宮北忠平(上富良野市街)に譲渡した牧場地、三百町一反歩の土地を大正元年に付与されている。

注 土地台帳の中の記載で、「返還」は予定期間内に不成功であった場合であり、「取消」は一定期間未着手のときである。

団体入植の場合

この外の付与地では、団体移住者用に申請すると予定の年度までに入植し、開墾が成功するまでの期間(十年間)「存置地」として残され、その期間は、貸付台帳に記載されない土地が多く残されている。
これらの土地も、期間内に入植予定者が集まらなかった場合や、期間内に開墾が成功しなかった場合などは、国に返還を求められた。
三重団体のような同じ地域からの入植の場合は、団結力も強く、誰かが病気などで開墾が遅れると、みんなで助け合い開墾に間に合うようにしていたようであるが、団体入植で成功すると土地が無償で下付されることから、団体入植者には団体ごとに総代を決め、一致団結して開墾に当たるように、厳しい規約を設けて募集が行われていた。
その主な要点をあげてみると、

(1)北海道に自作農として永住すること。
(2)常に共同団結し、公徳を重んずること。
(3)喧嘩、口論、賭博をしないこと。
(4)祝祭、弔慰の他は集会酒宴を開かないこと。
(5)冠婚葬祭は分を超えないこと。
(6)移住者の中に疾病・災害を受けたことなどにより、開墾に支障あるとの憂いあるときは、お互いに助け合い協力すること。

などの規則が決められて実行されていた。このため、上富良野では団体の存置貸付地のほとんどが開墾付与されていた様である。
四十一年からは、北海道国有未開地処分法が大幅に改正されたので、その後のフラヌ原野への入植状況については次回にゆずりたい。


参考文献

「新北海道史年表」 一九八九年刊北海道編
「新北海道史」昭和四十六年刊北海道編
「柳本通義の生涯」平成七年刊神埜努著
「わたしたちの北海道史」昭和三十七年刊蒲田順一著
「上富良野町史」昭和四十二年刊岸本翠月著
「上富良野百年史」平成十年刊上富良野百年史編纂委員会編
「北海道開拓秘録」昭和三十九年刊若林功著
「町村金弥」斉藤岩雄著
「山本茂氏から幸前伸氏への書簡の書き写し」より
「雨竜原野開拓の魁組合雨竜農場」橋本亨著
「第二回和田家先祖のルーツを訪ねる旅」より
「北大百年史」昭和五十六年刊北海道大学編
「区画地貸付台帳」明治三十年〜三十七年北海道庁文書館
「未開地貸付台帳」明治三十年〜三十七年北海道庁文書館
「区画地貸付台帳」明治二十年以降北海道庁編
「北海道国有未開地処分法完結文書」解説から北海道庁文書館
「北海道庁公文録」区画地無有償貸付北海道図書館
「富良野市史」昭和四十三年刊富良野市編
「上富良野誌」明治四十二年刊
「北海道の歴史」田端宏・桑原真人・船津功・関口明著
「高倉新一郎著作集」第三巻
「上川開発史」上川支庁編

機関誌  郷土をさぐる(第26号) 
2009年3月31日印刷   2009年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一