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風化するシベリア抑留(義父の戦時体験から)

上富良野町基線北二十三号 田中 正人
昭和二十三年四月十五日生(六十一才)

(文中敬称略)
六十年ぶりの再会から

ラベンダーの香り漂う富良野の地に平成二十年七月十七日、島津地区に住む北野哲二宅へ小柄で物静かな印象を受ける父娘の訪問者があった。
紳士の名を丸尾俊介〔注釈(1)〕と言い、娘はめぐみ〔注釈(2)〕。優しく付き添うように訪れた。
話によると俊介と哲二は先の戦争で満洲〔注釈(3)〕に渡り、ソ連領シベリアで捕虜の身となり昭和二十三年に帰国した戦友。実に六十年ぶりの再会であった。
僅かな時間の再会であったが、帰りがけに哲二が「丸尾死ぬなよ」と抱き合った時、二人は思わず涙し、その場にいた娘のめぐみさんや私達は、すでに高齢である二人の余生を案ずる言葉の重さ以上に、捕虜となった身を励まし合い、今日まで生き延びた深い絆と合い言葉の様に聞こえ、「未だ六十数年前に起きた戦争の傷が二人の心の中では癒えていない」事を強く肌で感じた。
私は北野家の長女悦子と結婚し、先に紹介した北野哲二とは義父の関係にある。私の父乙(きのと)も満洲に出征。済州島で終戦を迎えて捕虜になることもなく無事帰国している。私を取り巻く関係者が満洲に関わっている事に強い関心を持ち、戦後も遠くなった今、丸尾氏の再会を契機に義父の体験を通して戦争が持つ意味と失われつつある日本の様々な文化等に照準を合わせ、義父の話を中心に進めて行きたい。

島津農場にて

旧薩摩藩(公爵島津忠重)は北海道に農場を起業する事に着手し、農場調査の結果明治三十一年、現在の上富良野村に富良野(島津)農場を開設した。
義父の家は、明治四十四年三月六日。浜伊三郎の跡地である現在地の基線北二十一号に島津農場の小作人として初代北野豊蔵・とい夫婦と共に入地した。農地はまだ五反程しか開墾されていない状態であった。
北野家は二代目豊・さと夫婦。三代目が哲二とセツ子夫婦。現在は四代目の豊治・弘美夫婦が代々水田を中心とした農業を引き継いでいる家柄にある。哲二の父である豊は明治三十一年に生まれ、寡黙で筋の通らない事を嫌い、不言実行を成就する性格の持ち主であった。
豊は昭和十一年には島津農場の農地解放運動の世話人として仲川善次郎の片腕となり活躍した。島津家特段の理解により自作農となった農民の為には、土地取得に伴い貸し出された自作農維持資金の返還を目的に設立された島津償還組合の役員として長期間任じた。
晩年は昭和三十二年から三十七年にかけ島津行政区長を歴任し地域の信望も厚かった。
豊の妻さとは、明治三十六年九月一日富山県西砺波郡福光町立野分で代々農業を営む父西村助松、母おとの四男三女の次女として生まれた。
さとは十四歳の時、上富良野村島津地区の北村吉間(現在北村啓一)宅に奉公にあがり、子守り、掃除、洗濯、食事の支度、農作業等をこなす日々を送っていた。
さとが数え年十七歳になった時、北野家と親戚筋に当たる北村吉間に紹介され豊と結婚する事となった。結婚後は毎朝四時に起き、家事をこなしながら暗くなるまで田畑で働いた。
大正十三年五月二日、哲二は豊・さと夫婦の次男として生まれた。長男の信一(のぶいち)がいたが二才で夭折している。
信一が亡くなった後、養女を迎え入れる事になった。後に哲二の嫁となるセツ子である。
セツ子は昭和五年七月四日、上川郡愛別の宮島家に生まれた。幼くして父母が亡くなり、三人いる兄妹はそれぞれ親戚に引きとられ離ればなれとなってしまう。セツ子が小学校に上がる前の出来事である。
その様な哲二とセツ子の二人を家族は厳しくも優しく面倒をみた。
昭和十二年七月、廬溝橋で銃撃を受けた事件から中国軍と日本軍が衝突。翌十三年には国の経済や国民生活をすべて統制できる権限を政府に与えた法律、国家総動員法〔注釈(4)〕も制定され、じわじわと戦争の影が忍び寄っていた。

島津青年団にて

上富良野尋常小学校高等科を卒業した哲二は、昭和十四年四月、自作農になってまもない家の農業に従事し両親を手助けする様になる。
同時に島津青年団に入団した。当時の団長は北向貞一で三十五名程の団員がいた。
島津地域では昭和十二年の農地解放によって、島津家より譲渡された農場倉庫(現在の図書館)、島津神社等の施設や農地の一部は島津償還組合(組合長仲川善次郎)が管理する処となっていた。
青年団は基本的に会費で運営され、現在の陸上自衛隊駐屯地正門左手付近に存在していた青年団の農地も含まれ、無償で貸与されていた。
償還組合が引き継いだこの農地も農地解放前と同様にその使用が認められ、ここから収穫された農産物の売却益が島津青年団の資金源であった。
島津青年団は男女別々にあり、一町五反の内、女子が三反残りを男子が耕作した。これは防衛庁に農地を売却する昭和二十九年頃迄続いた。以後、その農地売却資金を元手に利息が青年団の運営資金として毎年償還組合より支払われる様になり、島津青年団が存続した昭和六十三年まで続いた。
哲二はここで仲間と農業の基礎を学び青春時代を謳歌していた。

掲載省略 写真 昭和16年頃、島津青年団(男子)

昭和十六年十二月、日本はアメリカ海軍基地の拠点、ハワイ真珠湾を功撃。戦火は日毎に激しさを増す様相となっていた。
義務制となったばかりの上富良野青年学校では軍事教練に主眼がおかれた学習をし、日の出演習場で行なわれた射撃大会では良い成績を上げる事も出来た。
青年団の仲間も徐々に出征する様になってきており、家では農業用に飼っていた馬は四歳馬になると軍馬として終戦まで十頭ほど徴用された。家族は馬に頼る事なく、苦労しながら手作業で田畑の作業を続けていた。

満洲にて

哲二は昭和十九年九月二十日徴兵により現役兵として旭川四部隊へ入隊した。ソ連軍に対する防衛侵攻の拠点とされる黒竜江省東北部の佳木斯にほど近い、満洲鶴岡七二八部隊にジャムス配属され、警備や演習の日々を送る。
昭和二十年三月、満洲四四一部隊(三六六聯隊)へ編入される。
哲二が入営して約一年。昭和二十年八月六日に広島。三日後の九日には長崎へと相次いで新型爆弾(原子爆弾)が投下され、戦局は大きく変化。八月十五日、日本は終戦を迎えた。
満洲でも日本が負けた事はほどなく情報として哲二のいる佳木斯にも伝わってきた。一度も敵と戦闘を交わす事がなかったので日本が負けたという実感は特になかった。
しかし、国際法を無視したソ連軍は日ソ中立条約を破棄し、八月九日満洲及び日本領朝鮮半島北部に軍事行動を起こし進攻してきた。
ソ連軍の第一極東方面軍は黒龍江(アムール川)と国境を隔てた羅北や佛山から鶴岡の部隊へなだれ込んできた。部隊に与えられた火力は乏しく、与えられた三八銃一挺には実弾十五発程の弾丸しかない。やむなく部隊は太平山陣地構築の為松花江沿いに三江省方正(ほうまさ)まで撤退した。ソ連軍と交戦しても負けることは一兵卒でも肌で感じられた。
方正での終戦時所属部隊は関東軍(徳)第一方面軍(城)第一三四師団、師団長井関仭(勾玉)である。ここで戦闘を交えることなく、武器も取り上げられ武装解除となった。同時に虜囚の身となった瞬間でもあった。軍隊手帳や個人を識別する標識票等はこの時に没収された。
状況のわからない混乱した情報が錯綜する中で方正より船に乗り込む事となった。松花江を下り帰国を信じて向かった先は酷寒の地ソ連領シベリアであった。

掲載省略 写真 軍隊手帳
掲載省略 図 出征時の哲二戦地と抑留地図

ビロビジャンにて

ハバロフスクから西に百七十二キロ、ビラ川のほとりに位置する、ユダヤ自治州のシベリア収容所番号第四十六地区ビロビジャンのサイドビラに着いた。収容所は四方を鉄条網でおおわれ、衛兵が常時見張っていた。

掲載省略 図 サイドピラ収容所 丸尾俊介著書「語りかけるシベリア」より

哲二はここで伐採作業に従事させられた。貨車に材木を乗せる作業もした。奴隷のように毎日働かされ作業は休むことなく続けられた。捕虜になっても上富良野から高橋兼義(現富町二)。畑中勝(現本町三)坂口正治(現旭町四)が戦友として終始行動を共にし、心強いものがあった。先に紹介した丸尾俊介ともここで知り合う。ペンしか握った事のない体力に不安を抱える丸尾と組んでの伐採作業は双方にとってノルマもありつらい作業となった。マイナス四十度近くになる日もあり、そんな中での作業が何日も続いた。ある日、伐採作業時に軍手を紛失(盗まれた?)してしまい素手での作業となった。素手の作業は故郷(かみふらの)に近い山部で経験済みでもあり、この時は軍手の支給があるわけもなく、長い距離を素手で丸太を背負って歩いた。北海道の寒風とシベリアの風は桁外れに違う。この時凍傷になり両指を損傷し、幾度となく死に目にもあった。
収容所では中隊毎にそのま日本軍の階級が存続し、理不尽な事も耐えなければならない。理由もなく思い切り殴られたり、食事の分配は人の目の色を伺う状態が続き、まともな食事にありつける事はほとんどない。
大きな穴を掘った便所は凍てつき、その中に潜り込み鉄棒で凍った便の処理もした。便槽の中でコーリャン飯は消化に悪いと仲間で話し合ったが、空腹には勝てず食するしかなく夜盲症にもなった。
さらに、弱り目に祟り目で高熱が続き、胸が痛み出した。膜と膜とに隙が生じ、そこに尿が溜まり一ヶ月程入院した。湿性の肋膜と診断された。この事がきっかけとなり退院してからはつらい作業の無い二十人程の中隊に配属となり強制労働からは解放された。義父は「振り返って見ると病気になった事が生きて帰還できた要因となった」と言う。
「鎮魂シベリア抑留死亡者四万人名簿」(『月刊Asahi』平成元年七月号)では、死亡者のほとんどの兵隊は昭和二十年の暮れから翌年の初めにかけ老いも若きも毎日の様に亡くなった。高齢兵はほとんど満洲での召集兵であった。
シベリア抑留は長期化し、収容所では昭和二十二年八月頃から民主運動が芽生え、スターリン体制の共産主義を押しつけ洗脳される。帰国する為にはその教育を受けなければならない。反抗的な者ほど、帰還を遅らされ、「帰国しても裏切ったら仲間が殺す」と脅されソ連に残留する者もいた。生き抜くためには事の善し悪しも判断のつかない仕方のない出来事も沢山あった。

それぞれのシベリア体験

義父と行動を共にした四人の戦友もそれぞれの想いで収容所生活を送っている。簡略に紹介する。

掲載省略 写真 北野哲二
掲載省略 写真 高橋兼義

東中出身の高橋兼義は満洲四四一部隊にて縫工兵として現地教育を受けた一人である。酷寒のシベリア収容所では伐採に従事し、食糧不足を野草、茸、松の実、カエル、ネズミ等を食して飢えを満たし、かろうじて祖国の土を踏むことが出来た。
帰郷後は、農業に精励する傍らで越智建設(株)、リッカーミシンに勤務。昭和三十四年に離農退職後は、上富良野養豚組合等に就職。晩年は上富良野町高齢者事業団で趣味を生かした剪定作業に精を出す日々を送った。

掲載省略 写真 畑中 勝
日の出にて生を受けた畑中勝も伐採や貨車の積み込み作業に当たった。昭和二十一年一月二十日の夕刻。貨車積み込み作業中に突然木材が落下して左大腿部を直撃。骨折したにもかかわらず治療も受けられずそのまま放置され、六カ月に渡り寝たきりの生活を送る事となった。帰郷後は膝の関節炎に苦しみながら農業の傍ら、上富土建、佐藤建設、大阪市久富工業に勤務した。離農退職後の晩年は、上富良野町高齢者事業団に入会し役員を務めた東。

掲載省略 写真 坂口正治
中出身の坂口正治は満州七二八部隊第三機関銃中隊へ編入後、厳しい現地教育を受けた後獣医部に勤務した。収容所では糧秣調達の誤解から逃亡を企てた一人とされた。ソ連側では日本人三十七名の逃亡者を事前に察知し、首謀者は何処かへ連行された。彼は煽動者とは認められなかったものの、言葉の通じない悲しさから戦犯が収容される収容所へと移送されている。東中地区に帰郷後は農業を営みながら、吉村建設に勤務。平成四年に離農している。帰国話を元に戻そう。ある時、捕虜(ソ連では俘虜)に対し、特別に俘虜葉書が支給された。これは往復葉書となっており故郷宛に送付した事があった。検閲は厳しく「無事でいる」との知らせ以外は書けなかった。
葉書はどうにか故郷に届いたが、誰が知らせたのか「北野は凍傷で両腕切断」の通知も届き必要以上の心配を家族にかけた。しかし、いつまでたっても故郷からの返信はなかった。
兵役より長い捕虜生活が三年続いた。収容所の中は最初の頃より自由になり、鉄条網の外にも出入り出来る様にもなった。引き揚げの噂も聞こえる様にもなり、日本へ徐々に帰国する者が出始め、かすかな希望が出てきた。そして、ついに解放される日が来た。荷物は持ち帰ることは一切許されず全部没収された。着のみ着のまの状態であった。
日本軍の油槽船朝嵐丸〔注釈(5)〕に乗船し、ナホトカ港より出港。昭和二十三年十一月十八日、舞鶴〔注釈(6)〕へ入港した。舞鶴引揚援護局では入国手続きと頭からDDT薬をかけられる洗礼も体験する。
その地から『チョウランマルユソウセンデマイヅルジョウリク』の電文を家族の待つ故郷に送信。帰郷の途についた。
家族は哲二の生存を喜ぶと共に、北野家の長い戦争の日々から解放された日でもあった。写真はその時身に付けていた脚絆、水筒、飯盒の他舞鶴で支給された外套が今も大切に保管されている。

掲載省略 写真 身につけていた品

帰郷後、上富良野出身で組織する捕虜仲間と共にビラ五三〇大隊労働戦友会全国組織〔注釈(7)〕の一員として活動している。
平成四年六月の読売新聞には、ソ連共産党スターリンによってシベリア強制連行は行われたとの極秘指令文書のコピーを入手との記事が掲載。ソ連の国益の為、日本人捕虜の強制労働を延長させ、捕虜移送計画の引き揚げを意図的に遅らせた事がようやく明らかとなった。ソ連の朝鮮及び北海道の占領計画も噂されていたが、これは実現しなかった。
義父は「入隊から帰国迄、故郷の仲間と共に無事に生き永らえ、祖国の土を踏むことが出来た事に万感極まるものがあった」としみじみ語っている。

島津地区にて再び

哲二の帰郷後養女として迎え入れていたセツ子と昭和二十五年に結婚する。二男二女を授かり家族と共に農業に従事した。

掲載省略 写真 昭和25年:哲二の結婚式
掲載省略 写真 昭和28年:哲二の家族

草分土地改良区の総代、用水組合長等を歴任後、昭和五十六年から平成二年まで農業委員を三期務める。
息子の豊治に昭和六十年に農業経営を移譲し、哲二は第一線から退いた。
平成元年度から十年度まで五期にわたって島津住民会長を務め、親子で島津地域の為にお世話する第一号ともなった。この間、ふれあいセンターの建設。西島津(合併時西島津住民会長高橋秀治故人)、島津両住民会の合併に尽力した。
平成十一年には、島津地域も開拓の鍬が入って一世紀を迎える節目の年度にあたり、その実行委員長として島津開拓百年記念事業にも取り組んだ。厚い信望に支えられ、農村地区の住民会長で構成する郡部住民会連絡協議会と市街地を含む全住民会連絡協議会会長をも務めた。
昭和五十一年三月十七日、父の豊が亡くなり、平成十三年に母のさとも他界する。
現在、息子の豊治は肥育牛を導入し、積極的に近隣の離農跡地を引き受け、規模も年々大きな経営態型となってきており、代々地域の篤農家としての呼び声も高い。約一世紀に渡って営農を続けている農業者は当地区にあってまれな存在となっている。

シベリア抑留から問われるもの
丸尾俊介氏の著書「語りかけるシベリア」には、「兵士は赤紙さえ出せばいくらでも補充のきく消耗品でしかなかった。二ヶ月半の軍隊生活では一度も実弾を発射することなく上官の命によっていつの間にか武装解除となった。ソ連の収容所では、寒さ、飢え、重労働、民主化と称するつるし上げが日常行われ、事態は悪化しつつあるのにただ本能のままに時を過ごした日々が続いた」とある。
昭和四十八年私が結婚した時、義父が食べ物を土に落とし、それをさりげなく拾ってごく自然に口にした事がある。シベリアに抑留した義父の体験がこの様な行動を取ったのだと感じるものがあった。
戦後農家はどの家庭も鶏や山羊・綿羊の小家禽を飼い、残飯を出す事なくそれらに与え、自給自足の中で生活をしていた。放し飼いの鶏小屋では決まって一羽雄鶏がいて有精卵を生む。子供は採卵する等出来る事をするのが与えられた仕事。雌鳥が雛を孵すのを楽しみにし、情操教育にも自然と役立った。
今は残飯が出てもゴミとして捨てられ、輸入食品は食の安全が問われている。食べ物のほとんどを国外に依存し、昭和三十五年、七十九%もあった日本の食料自給率も、平成二十年では僅か三十九%程に後退。大量に輸入し大量に捨てている現実もある。
日本は戦争に負け、経済はアメリカの主導により物質的には恵まれる一方で政治、教育、問題等あらゆる面で戦前の良い風習さえ欧米化。島津地域でも戦後百三十戸程あった農家戸数も今では三十戸程に激減し、日本の文化も農業に関連する産業も切り捨てられ、失業者も増加している。
家族は核家族化が進み、親子関係にも変化が生まれている。簡単に離婚したり、毎日のように殺人事件があったりして、我慢辛抱のない世の中になり、心の満たされる状況もどんどん失われている。
今シベリアで行われた義父達の体験が罷り通るとしたら、脆弱化している日本人の多くは生きて祖国の土を踏むことが出来るのか疑問である。シベリヤ抑留の実態が把握出来ない中で、戦争と平和を体験した狭間で余生を送る義父を始めとする捕虜仲間は、利便性だけを求める現実をどの様な想いで見つめているのだろう。
尚、本文を書くきっかけとなった丸尾氏は義父との再会を果たした後の九月二十六日、心筋梗塞のため急逝した。丸尾氏が亡くなる一週間前には、「戦争と教会」と題した講演も精力的にこなし、その講演資料に「戦争の経験を語りつぐには、社会的歴史的経緯や動機をよく探りつつ、次世代へその史実と経験を生かしていく必要がある」と警告している。
注釈(1) 丸尾俊介(まるおしゅんすけ)
大正十五年神戸生まれ。昭和十九年満洲奉天陸軍造兵廠に勤務。昭和二十年現地召集により鶴岡の部隊に配属。昭和二十三年帰国。神戸高専中退後、関西学院大学神学部卒業。昭和三十四年から平成十二年まで下落合教会(東京)牧師。著書に「新しい革袋を」「聖書に学ぶ」「語りかける聖書」などの外、自らの抑留体験を綴った「語りかけるシベリア」の著書もある。平成二十年没。

注釈(2) 丸尾めぐみ(まるおめぐみ)
京都生まれ。早大出身。俊介は父親。母は医師という環境のもと、幼い頃から教会音楽に親しみながら、福祉貢献の精神を育む。2才よりピアノを始める。鍵盤楽器全般のほか、マリンバ、アコーディオンの演奏家として活躍。福山雅治、宇崎竜童、上條恒彦ら数多くのアーティストに作品を提供するほか、「釣バカ日誌」など映画のサントラや日生ミュージカル「火の鳥」、劇団プークなどの演劇音楽、CM音楽も数多く手がけている。現在、日本キリスト教団下落合教会(東京)オルガニスト。
クラシックに根付きながらもジャンルにとらわれず、単一の括弧にくくられることのない新しい響き、自由で美しい歌曲、器楽曲を生み出している。

注釈(3) 満洲(まんしゅう)
昭和六年九月中国の世相は、満洲柳条溝における南満洲鉄道爆破事件を口実とした、日本の関東軍が起こした軍事行動がきっかけとなり、昭和七年軍部が中国東北地方に清の最後の皇帝愛新覚羅溥儀を執政として満洲国(当時の満洲とは、現在の中国東北部。当時遼寧省、吉林省、黒龍江省とよばれた地域。現在の上記三省とは、範囲が異なる)が建国された。実体は日本の傀儡国家。朝鮮、中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国と国境を接し、世界からは独立国家として認められなかった。首都を新京(長春)におき、国の標語を五族協和の王道楽土とした。「王道楽土」とは満洲国建国の際の理念。アジア的理想国家(楽土)を建設する意味合いがあった。「五族協和」とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行う事であった。満洲国は第二次世界大戦終結直前の昭和二十年八月、ソ連軍が満洲に侵攻し、僅か十三年で崩壊した。旧「満州」の表記については、正式には「満洲国」という、「州」の字に「さんずい」がついた文字が当時の正式な名称とあるので本文は「洲」に統一して表記した。

注釈(4) 国家総動員法(こっかそうどういんほう)
昭和十三年に制定された法律。戦争遂行の為に経済や国民生活のすべて政府が統制運用できる法律は第一次近衛内閣の時制定された法律では、戦争時(戦争に準ずる事変も含む)に際して、国防目的達成の為人的、物的資源を統制し運用する業務をいう。戦況の激化ともに資源・物資は任意、強制を問わず回収・供出が求められた。寺院の梵鐘等も金属類回収令により実施された。生活物資の不足は国民生活を圧迫し昭和十五年以降砂糖・マッチ・木炭・衣料などが切符制。食糧生産は労働力や生産資材の不足の為に昭和十四年を境に低下し、食糧難が深刻になってくる。農村では、昭和十五年より政府による米の供出制が実施され翌年には配給制となった。不満を抱く者は非国民の扱いを受けた。昭和二十年の敗戦によりこの法律は効力を失い、同年十二月二十日国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律が公布され、翌年年四月一日をもって廃止された。

掲載省略 国章・国旗

注釈(5) 朝嵐丸(ちょうらんまる)
日英開戦の昭和一六年にシンガポールの英海軍に所属していた特務艦レイク・シャンブレインはシンガポールが陥落する時点でセレター軍港内の岸壁に日本軍妨害のため自沈させた。日本軍はそれを引き上げ福井静夫氏の手に依って設計修復させた。沈没して上部の構造物のない特務艦は新たな構造物を取り付け特設給油船として生まれ変わった。
戦後引き揚げ船として使用された後イギリスに返還された。シベリアからの引揚者を八航海で一万四千人を乗船させた。

注釈(6) 舞鶴引揚援護局(まいづるひきあげえんごきょく)
太平洋戦争終結に伴い、全国各地の引揚者上陸港に「地方引揚援護局」が開局された。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の主導によって、厚生省社会局の引揚援護課の管轄となり設置された。舞鶴は引揚港十港(舞鶴、浦賀、鹿児島、呉、佐世保、下関、仙崎、博多、門司、横浜)の一つで、昭和二十五年以降は舞鶴が唯一の引揚港となった。
舞鶴引揚援護局は京都府舞鶴市に昭和二十年十一月二十四日に開局。昭和三十三年十一月十五日の閉局となっている。舞鶴港の就航引揚船は(日本国籍三十二隻、米国貸与船二十五隻延べ三百四十六隻が入港)舞鶴へはソ連より約四十五万六千人。中国より十九万人の引揚者が上陸した。
掲載省略 写真 舞鶴引揚援護局

注釈(7) ビラ五三〇大隊労働戦友会(びら五三〇だいたいろうどうせんゆうかい)
シベリアで抑留生活を送った満洲七二八部隊第七十一師団第八十八連隊(遠山登陸軍中将。千葉県出身)を中心とした元隊員で組織された団体。義父の北野哲二(島津)の他、岩田明(丘町故人)。打越正(大町故人)。菅野学(里仁)坂口正治(旭町)高橋兼義(富町)。畑中勝(本町)桜木梅平(里仁故人)m木勝二(草分故人)斉藤栄蔵(東町故人)二瓶諭(日の出)炭田照蔵(富原)小原末蔵(島津故人)がこの戦友会上富良野関係者。シベリアに連行、抑留された総数については約六十万人と言われ、実数は未だ不明である。
参考資料
別冊一億人の昭和史2 日本植民地史2 満州 毎日新聞社
別冊歴史読本 満州国最後の日 新人物往来社
月刊Asahi,vol.3,no.8,1991「鎮魂シベリア抑留」死亡者四万人名簿(完全地区別)
語りかけるシベリア 三一書房 丸尾俊介
語りかける聖書 彩流社 丸尾俊介
講演資料 戦争と教会 日本基督教団八ヶ岳伝道所
かくて関東軍潰ゆ 秀英書房 梅本捨三
シベリア抑留記 大陸の孤島 新宮富士郎
シベリア黙示禄 光人社 小松茂朗
太平洋戦争全史 河出文庫 太平洋戦争研究会
太平洋戦争@ 学習研究社
朝風 加納一和
郷土を探る 上富良野町郷土を探る会
かみふらの女性史 上富良野女性史をつくる会
上富良野町史 上富良野町
島津百年の歩み 島津住民会
ビラ五三〇大隊労働戦友会名簿 北野哲二
読売新聞 平成四年六月三日付け
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激動の軌跡 北海道軍恩連盟 上富良野支部

機関誌  郷土をさぐる(第26号) 
2009年3月31日印刷   2009年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一