郷土をさぐる会トップページ     第26号目次

「出征の記」 石川清一翁の日記より(その二)

三原康敬 昭和二十四年九月二十八日生(五十九歳)

「郷土をさぐる(第二十五号)」に、石川清一翁が「支那事変」に伴う全国的な規模をもった動員令により、「中支那派遣軍」第七師団第四兵站病馬廠の充員として召集を受け、昭和十二年九月十四日、自宅を出発して入営。十月の上海上陸から十二月の南京入城までの日記を『その一』として掲載した。
昭和十三年一月一日より続けることする。
(日記の編集に際して出来る限り原文を尊重しましたが、読みやすさを勘案して、新仮名遣いと原文にはない句読点を一部加えております。日付の次にある「」書きは、日記の欄外に特筆されている文言を表わしました。長文のため日記の一部を省略しております。日記の原文は、年を省略して月日のみ記されている。天気を書いていない日もある。この日記は、昭和十二年から昭和十三年にかけて書かれました。)

  掲載省略 写真 持ち帰った従軍中の日記帳
  掲載省略 写真 石川清一翁肖像画
従軍日記(続)
  石川 清一 明治三十九年七月二十五日生(享年七十一歳)
一月一日(昭和十三年…以下原文どおりとし、年号を省略)
南京城内騎兵学校に迎える昭和十三年は、敵都の城内だけに一種の感激を覚える。朝食後、本部前の芝生で皇居に面して日章旗を掲げ、部隊全員二百六十三名が整列する。君が代を斉唱し、隊長の発声で万歳三唱。日本軍人としての誇りと喜びを味わう。
一月二日
「本日、入廠馬一頭」
全員談笑のうちに夜が明ける。正月の喜びを感じる。昨日、みかん力餅その他の下給品と酒が一合、二合と下給され、支那酒もあった。
一月三日 晴
現在いる騎兵学校は、現役当時の兵舎と比較すると窓が少なく暗い。北海道の寒地と比較すると防寒の必要がない、天井板を張ってない。
一月四日
本日、家からの便りを手にする。約二ヶ月を要している。心配していた家内の手紙であって、見れば如何に遅れていても嬉しい。久々の便りを家に出す。この付近は、敵の遺棄した弾薬が多い。
一月五日 晴
本日、午前中に事務を終え、支那人夫を使って兵舎の掃除をする。戦線視察の許可があり自動車で一同ともに中山門を通る、敗残兵が土のうを片付けている。中山陵は竹網を張って艤装しており、如何にこの陵墓の破壊を恐れたか想像できる。揚子江に三隻の御用船が来ている。慌ただしいが、嬉しい一日であった。
一月六日
「東中産業組合より小包。手紙を寄せられし人々、上田美一君、石橋貞一君、床鍋芳則君、大石高一君、家の光一冊・便箋一冊・氷砂糖一袋・キャラメル二箱・ガム一つ・キビダンゴ七個・木綿半反」
便りと小包、思いがけなく嬉しい。皆に分けてあげることができて嬉しい。
一月七日
事務室に来てから単調な生活の日が続いている。
敵機は時々襲来してきたが上空に見えず。
一月八日
晴事務そのものは軍隊的な出来事の集計のみ。副官、対岸に出張。
一月九日 晴
毎日、好天気なり。変わった事はない。
一月十日 晴
鞍傷馬の死亡率が多い、もう少し考える余地があると思える。
一月十一日 晴
本日、二十一頭の入廠馬があり、第六師団の馬を柳川兵団病馬廠に渡すのを本廠に引渡しとなる。
一月十二日 曇
昨日より鼻疽発生し、本日、徹底的に防疫をする。病毒が蔓延しないよう願ってやまない。
一月十三日 晴
鼻疽の現状に鑑み重症患馬廠と鼻疽擬似患馬廠に分けて第四廠を造る。
一月十四日 晴
昼頃、岩崎さんに居た加藤君が西澤隊の分隊長になっており連絡に来る。写真を撮ってもらう。
一月十五日
年賀状その他たくさんの音信がある。家からの小包はドロップス一個・キャラメル五箱・封筒・便箋・チリ紙・仁丹・木綿等で、実行組合からは手袋・靴下・飴二包・タバコ二十・家の光等送ってくる。家内からの手紙には子供の手紙も入れてあった。
一月十六日 曇
昨日、本間少尉に命じられた各廠舎の整理がようやく終わる。
一月十七日
馬名札の整理が片付いた。思うまもなく隊長より馬名標を造るように命じられた。道具がなく多方面にわたり材料調査する。
一月十八日 曇
東中国防婦人会より慰問袋が来た。中身はメリヤスシャツ一枚・氷砂糖一袋・キビダンゴ二個。
他に慰問文が一通、中に小学校の生徒のが四枚入っていた。
一月十九日
馬名札の作成を命ぜられたが材料の収集がうまくいかない。一人で約百枚にカンナをかける。
一月二十日 雪
みぞれが降る。井口部隊二十五頭十二名、今金部隊五頭二名。架橋材料中隊は第十三師団の配属となって前進の模様なり、戦局は何時平穏となるやら。
一月二十一日
鼻疽の馬が多くて非常に苦労する。入廠病馬七十一頭、十六師団より付添兵一名も来たらず。
一月二十二日 曇
大場鎮より岩城少尉他連絡に来る。沢山の人から葉書が届いた。
一月二十三日 曇
先日来、中島部隊は大進出。荻州部隊は徐縣より前方へ移動するのでそれに配属になる部隊の馬が沢山入廠してきた。軍直轄の渡河材料部隊・架橋材料中隊・迫撃砲・重砲等に化学の部隊も二、三日のうちに移動が完了するであろう。

掲載省略 自筆画 砲を駄載して運ぶ軍馬と兵(日本陸軍の歩兵火器は馬匹と人力による搬送可能な重量を基準に製造)

一月二十四日 晴
野戦重砲長屋部隊より二頭、中島病馬収容所より一頭の入廠馬。
一月二十五日 晴
大場鎮より快復馬五十七頭、曽川伍長引率の下に鎮仁を経て来た。昨夜、軍馬の盗難が三件あって予定より遅れた。
一月二十六日 曇
中島部隊の柄澤隊より六頭の疥癬馬の入廠。伝染経路は南京入城中、支那馬を徴発した時に疫病菌があり、その馬を処分したが伝染したもの。
一月二十七日 曇
中島部隊より二頭の入廠馬。各廠舎の移動甚だしく廠舎の整理その他なし難し、攻撃が止むのを待つ状態。
一月二十八日 雪
内務歴等の軍規厳にして、何等現役時代と変る事ない。
一月二十九日 晴
各廠舎に掲げる馬名札の製作に忙殺される。
一月三十日 雪
各帳簿の整理
一月三十一日 小雪
当番来たりしため食事等楽なり。国防婦人・女子青年団より慰問袋を受け、感激する。キャラメル・スルメ・ノリ缶詰・手袋・靴下・糸針。
二月一日
昨日を以って一日付経理旬報月報のため忙しい、これが終われば一安心できるであろう。五日が、廠舎検査の予定。名札書きを完成させねばなるまい。この頃多忙にして夜十二時までかかる。
二月二日
内務検査が午前行われる、その為こちらのほうにも影響して仕事の能率はあがらず。午後、外出の予定なり。三日以降日記を書くを止む。
二月三日
必要なるもののみ記し置かん。
―以後、激務のためか記載のない日がある―
二月六日
博子死亡の飛行便受け取る。只、なんとも表現出きえぬ感情に迫られる。
二月七日
慰霊祭(松井軍司令官閣下参拝)当病馬廠前広場。
藤川部隊の板橋君に逢い兄よりの便りを受け取り返信をして持参してもらう。
二月十八日 晴
風邪、悪化して第二兵站医務室にて診断を受ける。受付が大切か命が大切かと言われ青くなり、やっと帰りて休む。
二月十九日 晴
兵室にて休む、体温三十七度六分前後にて苦しい。川合君パイン缶詰を見舞いにくれる。湿布等に部屋の人にいろいろと世話になる。依然重苦しき咳が出る。
二月二十日 晴
本日、日曜にて診断中止。戦友の世話になりて休む、福井君ミルク、立石君卵を見舞いにくれる。感謝す、経過芳しからず。
二月二十一日 晴
医務室に至りて三日間の体温表を出す。直ちに入室すべしと言われそのまま残る。武運の長久を祈られし我が身が病に伏し陛下に対し申訳なし、淋しく一夜苦しみて夜を明かす。日本軍人としての不面目この上もなし。何と故里の人々に申訳せん。
二月二十二日 晴
昨日より熱は若干下がりつつあり、頭軽し、食欲も部隊に居たときよりもよし。入室者他に四名あり。
二月二十三日 晴
本日、診断を受ける。七度以上の時は来らずとも良しと言われる。
二月二十四日 晴
「祖母の命日なり」
本日も診断受ける。兄弟親類中に呼吸器病患者がないか尋ねられる。胸膜の疑いあるらしい。
二月二十五日 晴
川合君「クワンユウリン」を医務室に連れ来るついでに寄ってくれる。有難い。部隊は来月中に乗船の話あり、真か疑いか支那人のスパイを挙げしとか、油断は絶対ならじ。
二月二十六日 晴
滋賀県高島郡三谷村安本全君には入室以来非常に世話になった。熱次第に下がり気分よし。
二月二十七日 晴
本日も気分よく、食欲も進んできた。この分だと直ちに退室出来るだろう。気分よく、短歌を造り俳句も二、三造る。
二月二十八日 晴
午前九時、軍医殿より石川診断に出よと言う。意外と思って出れば、石橋衛生上等兵が来ていて、当医務室では治療出来かねるにつき、第三兵站病院に入院すべしと言われる。一時、部隊に帰るべく願出て許可を得て、自動車にて帰り諸物品の整理事務の申送りをして、四時、第三兵站病院に入院する。
三月一日 晴
昨夜一人にてゆっくり休むことが出来た。朝、石崎君が来て、本日付にて上等兵に進級せし旨通告ありたり。皇恩限りなく感泣す。
充分な働きも出来ざるに汗顔の至りなり。
三月二日 小雨
本日、水曜日なので誰か来てくれると思っていたら、石橋君と八重樫君と新廠員のもう一人の人が当院見学を兼ねて来てくれて嬉しい。
三月三日 曇
安川伍長が国見の用件で来たり寄ってくれる。部隊では自分が後送されるような事を言っているが、果たしてそんなに悪いだろうか、食欲も進み若干胸部が悪いのみ。
三月四日 曇
川合君と立石君が見舞いに来てくれる。准尉殿の許可を受けてらしい。何のもてなしもせず帰す、残念なり。見舞金を戴く、この返礼を何とする、川合君・立石君・石大上君・岸部君よりなり、どう感謝してよいか判らぬ。
夜、大暴風雨らしい稲光雷音す。
三月五日 曇
食欲進み、かゆ食少なき時は空腹を感ず。病室の一日は長く、今日、特に去りし博子を想う。
三月六日 曇
昨夜、織田兵站に居りし楠神君と前田君(中富良野出身)来る。楠神君とは前に病床を並べて寝たり。
午後七時、上海後送を達せられる。実に意外なり、部隊に申告書を書く。本日は組合記念日なり。
三月七日 曇、小雪
朝早く起きて官給品の整理をして、内科の係に預書を提出、捺印を求めたれどそのままにて良しと言われ、食器その他を返納して出る。八時半、整列。
九時、患者輸送自動車にて下関の埠頭に至り、鳳陽丸(徴発汽船)に乗る。誰か見送りに来てくれるか待つが来ない。南京を去ると想うと無念の涙がこみあげてくる。各部隊の凱旋なしつつある時、原隊復帰は困難なり、おそらく上海にても一週間を出でずして原隊に帰るならん。
三時、下関埠頭を出発、長江を下る。途中、貨物船は戦時警戒の砲艦を見る。本夜は芙蓉に碇泊する。
三月八日 曇、小雪
船は一時間約九里の速力位で進む。川幅一里以上悠々と流れる長江の黄色の水を眺め、活動写真を見るようである。帆船と時々出会う、行き交うどんな小さな船にも日の丸の旗が翻っている。戦いを知ってか知らずかこうした国民はかわいそうに思える。
本夜、七時過ぎまで航海を続け福山辺りの沖合いで止まった。
三月九日 雨
仮泊地を出発、揚子江を下る。次第に川幅は広くなり二時頃上海に着くと船員が言う、宝山が見える。暫くして黄浦江口に出た突堤が見える。上陸地点呉淞が見え呉淞砲台も右手に見える、一万五千トンくらいの外国船と快速力の駆逐艦と行き交う。
大達?頭の岸壁に横付けとなり一時間後トラックで第一兵站病院第一分院に入院、第一病室に十五名が入った。上海より内地還送となるか原隊復帰となるか。
三月十日 晴
陸軍記念日にて軍医は観兵式に参加して、診断休みなり。南京出発以来、五日間も診断がないとはおそれいった。夜、紅白の餅が出た、ビスケット・キャンデーの下給品もあった。
三月十一日 曇、小雪
軍医が病室に来て診断をしてくれた。段々と診断が早く乱暴になってくる。午後二時から慰安演芸会があるので風邪をひかぬよう毛布持参で行くよう言われたが行かずに休む。給養が次第に苦しくなってゆく、これでは栄養が衰えてゆくのではなかろうか。
三月十二日 曇
依然として同じで診断もなく、只、薬を飲んでいればよい。織田兵站の医務室では食前と食後の二回も貰っていたのに当病院では湿布もしてくれず、これでは快復も遅れるだろう。軍医に聞いて入浴がしたい。
三月十三日 曇
午後、高橋伍長と山崎衛生伍長と八重樫君、亦、西野目中尉と桑原中尉と井田君が見舞いに来てくれた。本当に嬉しかった。写真を二枚撮ってくれた。

掲載省略 写真 上海兵站病院にて閘北一帯の惨害を背に

三月十四日 晴
西野目中尉よりスリッパ・ブドウ酒一本・スルメ三十枚・キャラメル四個その他十個のお菓子を見舞いに届けてくれる、本当にありがたい。公用證を持った新廠員が来てくれた。
三月十五日 晴
もう内地還送者が出ると言われていたが、まだ何とも達しがない。今朝、原隊帰還者があった。
三月十六日 曇
午前十時頃、兄が面会に来てくれる。わざわざ来てくれて嬉しかった。姉さんが三月一日午前三時頃亡くなった事を教えられた。かみそりとバナナを持ってきてくれた。仁木曹長に兄と二人で写真をとってもらった。
三月十七日 晴
午前十時頃、奥野君と井田君が見舞いに来てくれた。サイダー二本・キャラメルとカステラとパインアップルを持って来てくれた。夜、仁木曹長から兄との写真を二枚もらう、近いうちに家に送ろう。
三月十八日 晴
第十二号室に移ることになった。南向きの太陽の光線を受ける良い部屋で、呼吸器病の患者には良いと思う。寝台の為か寝についた時は少し苦しい。
三月十九日 晴
「病院一時半出発、三時半乗船、四時出発(大達?頭)」
昨夜から内地還送者があると言われていたが、誰ともはっきり判らなかった。午前十時に達せられて、十二時乗船と言われた。部隊長などにとりあえず便りを書いた、何時頃着くか分からない、広島に着いたら詳しく書こう。何もかも急いでいる為に失礼を続ける。病院船「六甲丸」に乗船。乗船前に憲兵の所持品検査があり、何も調べられずに終わった。「六甲丸」には軍医も看護婦も予想以上に整っている。これを考えると日本の軍備がかくまでも完全に出来ているのに驚く。全員の乗船が終わり、第三十六病院船衛生員医長陸軍軍医大尉菊地猪四郎殿が勅諭を奉読し自己の告辞と乗船中の注意があった。
食後、八時より診断が行われ、左胸部より水を取る。胸膜炎確実なり、十時半までかかりて終わる。
船は呉淞沖に碇泊する、十月五日の上陸当時を偲びて感慨深し。
三月二十日 暴風雨
朝食後、肋水を若干取る。気分悪く苦しかりき、昼食も夕食も取らず休む。支那海近頃になく暴風雨にて船は今にも覆りそう。
三月二十一日 暴風雨
今日も一日中食物をとらず、腹には一物なし。この二日間ですっかり疲れきりたり。明日の夜明けには玄界灘を出ると言う、その時を一分でも早かれと祈って寝る。
三月二十二日 曇
「夜十二時、宇品港に入る」
夜明けより波静かになりて船の動揺少なし。四国・九州の部隊出身者は門司にて下船する為用意する。襦袢・袴下など新品を下給され、暫くして税関吏と憲兵来たりて物品の検査なす。支那煙草には印を捺す。健康には充分注意していたが思いもしない胸膜炎に罹り情けない、不面目この上ない。
三月二十三日 雨
「広島病院に入院す」
昨夜十二時頃、宇品沖合で第三十六病院船碇泊。午前七時起床、朝食後、碇泊司令官挨拶に来る。
司令官退船後、憲兵と税関吏が来て、憲兵の所持品検査・税関の煙草類許可を受ける。九時よりランチで宇品に上陸。国防婦人会・愛国婦人会の出迎えを受け、患者輸送用自動車で広島病院に至る(第二分室・第四十五病室)
三月二十四日 曇
朝、眼がさめた時屋根を打つ小雨が降っていた。十時から六時まで八時間休んで疲れは取れた。看護婦の瓦斯消毒演習があり、空襲演習も行われ、燈火の管制が特にやかましく実施されている。
三月二十五日 晴
久しぶりに太陽を拝す、気分良く散歩をする。午後、市内の花月より慰安の漫才あり。久方ぶりに爆笑の日を過ごした。
三月二十六日 晴
身体は相変わらずで診断もなく薬のみ。晴天にて約二時間日光浴をする。松井大将の巡視あるとかで大掃除がある。
三月二十七日 曇
明後日、東京に転送を達せられる。午後三時、広島駅出発の予定。
三月二十八日 晴
「松井大将慰問(九時より十時半)朝香宮殿下(午後)御見舞御慰問遊さる」
前上海派遣軍司令官松井大将閣下が来て下さる。本院と第一分院とにて、第二分院には立ち寄りなし。
三月二十九日 晴
東京陸軍病院第二分院に輸送決定。午後一時半、整列。患者輸送用自動車にて広島駅に至り、二時三十分に乗車。三時、出発。列車は陸軍広島病院専用の畳敷きで横臥も楽に出来る。途中の各駅で心からの慰問を受け、兵隊を尊ぶ心が嬉しい。夜は横臥して大阪十一時前。

掲載省略 日記に捺されたスタンプ

三月三十日 晴
京都駅では東本願寺の僧侶の慰問があった。名古屋には五時半に着き、霞の彼方に天守閣を望むことが出来た。二時二十分、東京駅に着く。プラットホームには各宮家の代理、大将二人、帝国在郷軍人会長、市長代理その他各団体の出迎え受ける。正門より駅員の先導で出て、患者輸送用自動車にて陸軍病院第二分院二階二号室に入る。この部屋には渡辺敏夫君が入室していた。
三月三十一日 晴
診断を受けた。丁寧に見てくれ病気は初期だと言う、右のみと思っていたのが左も少し悪いから安静にするよう注意され薄気味悪い。
四月一日 晴
結婚して早や八年、今日から洋次は学校だ。
娯楽室にて学習院教授の馬場徹氏の講演がある。馬場氏は乃木将軍の下に学習院にて教職にあった傷痍軍人で不具者としての更生に成功した人である。
四月二日 晴
毎日のように慰安の娯楽がある。三越から便箋、陸軍恤兵部から葉書・手拭等もらう。北海道還送は何時になるだろう。
四月三日 曇
注射を打つようになっていたが忘れられており、請求して今日から隔日の注射となる。日活の花柳小菊が来る。
四月四日 曇
体に悪いと感じ、毎日、何もしないで過ごす。病状は依然と同じらしい。
四月五日 曇のち晴
もう寝るのにも飽きた。渡部和夫君から便りがあり、部隊は二週間位で凱旋するとか、果たして何時のことやら。
四月六日 晴
西谷元右エ門さんと家内から便りがある。皆、達者との事で安心する。血液検査があった。
四月七日 小雨のち曇
「東京市内見物」
市内見物と皇居参拝をするので各部屋ごと五名申出を言われて申出る。午後一時、病院出発。(総員約百名)靖国神社に参拝、七台の自動車で宮城前に至り大君に最敬礼。白衣の凱旋せし不忠をお詫びする。上野公園を回り浅草に行き観音様に参詣、国防婦人会の慰問で茶菓の饗応を受けた。漫才・舞踊の余興に興じ、四時半、浅草より明治神宮に参拝して帰る。
四月八日 晴
久しぶりの快晴。病状、依然として同じ。考える事あれど書くことなし。
四月九日 曇
三月十日までの俸給二円六十八銭を貰う。内地に上陸してからは二割五分の増俸だそうだ。朝香宮殿下の御紋章入りの菓子を拝領する。
四月十日
日曜なので面会人が多い。何時、北海道に凱旋するのか今のところ分からない。長引くようであれば、旭川の陸軍病院に通告して連絡がとりたい。桜は散って八重桜が咲き始め、二、三日で満開だろう。
四月十一日 晴
二、三日食事がおいしくなってきた。この分だと快復の見込みがついてきた。少なくとも六月頃までに全快しなければならない。三、四日のうちに北海道還送があるらしい。
四月十二日 晴
富士山が真白くなって見える。途中、全部の姿を見れなかっただけに嬉しい。北海道還送者の被服調べがあった。
四月十三日
本日の午後八時、整列出発の旨達せらる。午後一時過ぎ、三井良蔵氏がお見舞いに来て下され、安岡先生の書をご激励の意を含みて下さる。
十時三十分、上野駅より出発。
四月十四日 晴
「電報打つ」
仙台市近くで夜が明ける、この付近で朝食。盛岡で昼食、岩手県知事列車内に至り慰問の挨拶。家内に電報打つ。四時五十分青森駅到着。翔鳳丸に乗船。六時、連絡船は岸壁を離れる。リンゴ・コンブ羊羹の寄贈がある。十時三十分函館着。十一時四十分函館発。

掲載省略 写真 旭川へ帰還中の日記に捺されたスタンプ
掲載省略 写真 4月15日旭川凱旋入室した第6号病棟右室前(前列左端が石川翁)

四月十五日 曇のち雨
「旭川二時二十七分。面会、和田松エ門・洋次・フジエ」
黒松内五時。倶知安七時、朝食。九時四十五分余市着。十時札幌着。岩見沢には十一時三十一分着、二時二十七分旭川に着く。各代表者の出迎えを受け、患者用自動車で陸軍病院に至り、第六号病棟に入る。車中から皆の不安な顔を見たが、会った後は比較的元気であったので喜んで帰った。
四月十六日 雪
朝、三、四寸の雪が降って小寒し。東京は桜が咲いていたのにまだ冬が深い、後志の山麓地方に比較すると余程少ない。左の腹部が列車に乗った故か痛み、疲れているので床に入り休む。
四月十七日 曇
朝、村長と分会長が見舞いに来てくれる、なんともお礼より申訳ない。和田のお父様が来てくれる。
部隊の皆様に航空便で便りを出す。
四月十八日 晴
林下の姉さんなど見舞いと面会の人が多く、熱が上がった。少し注意せねばならない。
四月十九日 曇
毎日、見舞いの人が多く相当体温が上がる、注意しなければならない。各方面からの見舞いに接しなんとも申訳ない。一日も早く全快して再び戦線に赴かん。
四月二十日 晴
昼過ぎ、北海タイムス社の写真班が病傷兵のくつろいでいる様子の写真を撮りに来る。
午後七時過ぎ、吉田分会長がお忙しい中をわざわざお見舞いに来てくださる。御礼の申し上げようがない。
四月二十一日 晴
当旭川病院に入院以来、未だ診察がない。旭川カフェー同業組合の女給がたくさん慰問に来てくれる。慰安余興で春日井梅鶯の浪曲があり、白虎隊の踊りもある。営庭で茶菓の饗応を受けた。
四月二十二日 晴
診断があり、レントゲン写真によれば左の胸部は変わりなしと言われる。
四月二十三日 曇
来る五月十一日、賀陽宮妃殿下が皇后陛下のご名代でお出で召されるので、病院長が下準備に各病棟を巡視する。
四月二十四日 曇
母と石橋の姉さんが子供達を連れて見舞いに来てくれ、すしをたくさん持ってきてくれる。帰る前、全員で写真を撮った。神楽の女子青年団が慰問に来て、洗濯をしてくれる。
今日は父の命日なり。
四月二十五日 晴
日中、石投げをしたので、夜、少し肩が痛い。午後八時過ぎ、同室者が死亡した。胸膜炎でも悪化すると死亡するので充分注意せずはなるまい。
四月二十六日 晴
午後一時より北海道長官の来院通知あり、三時に来て娯楽場で挨拶がある。
本日、四千五百三十三名の戦没将士の合祀祭が行われるので、午前十時十五分靖国神社に向って遥拝敬礼する。昨夜、死亡した同室者の葬式が午後四時過ぎに挙行された。
四月二十七日 晴
寛のことが気にかかる、いずれにしても頑張って働いてほしい、それのみを祈る。
四月二十八日 晴
呼吸器療養の栞をもらう、依然、同病に良い薬(特効薬)はない。体に抵抗力をつけて快復するより外にないとか。俸給二・一円、二・一円二十日分給与される。
四月二十九日 曇
天長節につき、遥拝式に患者も参拝する。病院長は盛装して皇居に向って万歳を唱え、衛生兵・病兵・看護婦も声高らかに三唱する。君が代の国歌も高らかに気も晴れ晴れとした。
四月三十日
慰問興行舞踊がある。主催は陸軍官舎地域の国防婦人会で、世界的舞踊も素養がないと、只、見事と感ずるのみ、約一時間位であるがその真剣味は何のものと異なり観覧者も今までになく多い。
五月一日
和田のお母さんが見舞いに来てくれる。どんなにか心配していたであろうと思うと気の毒であった。
五月二日 曇
午前七時半よりある中尉の訓話がある。続いて病院長がその訓話の内容を詳しく話す。病院長は実に気のつく人で、特に徹底的に禁煙を主張していた。
五月三日 晴
体重を計ると十六貫以上あった。肺活量は二千五百位に上がった。軍医は大きな呼吸さえしてはいけないと言ったのが少し気にかかる。
五月四日 晴
慰安に出口孝太郎が十名を連れて来て、約二時間の舞踊などある。小樽市会議員と京都東本願寺より慰問に来る。
五月五日 晴
同じような日記もおかしいと思い一冊の雑記帳を買った。篤農協会より雑誌が送られてきた、三井先生の厚志ありがたい。
五月六日 曇
天理教の労力奉仕で硝子を磨き掃除を行ってくれる。病室が変る。
五月七日 晴
軍医から運動を控えるように言われた。夜、休まれなくて少し運動したほうが良いと思う。藤田のおじい様面会に来てくれ、カステラ四本下さる。午後より師団長閣下のご巡視があると言われたが、副官部だけであった。
五月八日 曇
これから毎日、市内・近郊の団体より労力奉仕があると言う。賀陽宮妃殿下の御成りまでには病院の内外は見違えるようになるであろう。
五月九日
国一と国夫さんが面会に来てくれた。
東鷹栖村役場が中心となって、男女青年団の労力奉仕があり室内がすっかりよくなった。
五月十日 晴
西野目中尉の奥さんと種田さんの奥さんが面会に来て、箱入りのカステラをもらう。吉川部隊から来ている同室の人にも配られ、中尉からの通知であろうか、他の部屋の人もうらやむ位美味しいものであった。早速、礼状を書いて出すことにする。
五月十一日 曇
竹澤さんが見舞いに来てくれた。住民組合長としてであったが、金二円也の見舞金を下さった。部落の人に申訳がない。全快して再び戦線に立たねばならぬが、兵役免除となっては申訳なし。
五月十二日
西野目中尉に事実証明書を送ってくれるよう依頼状を出す。先に、山崎伍長に出したがまだ返信がないどうなったのだろうか。南京入院時、既に事実証明書をくれるという話だったがまだ来ない。
五月十三日
御巡覧を前にして、病院内外の情勢その他は多忙を極めている。御巡覧は十五日午前中に終わる予定。
和田松エ門君が面会に来てくれる。
五月十四日 晴
明日の御巡覧について予行がある。各部屋に生花を飾り、病衣を新しいものに換え、毛布の消毒、廊下は油で拭き、敬礼の仕方も整然と出来上がる。
五月十五日 晴
「十一日午後○時五十分、津軽丸にて函館着。十二日午後一時二十分函館発。午後七時四十分札幌着。十三日十時五十五分道庁御成り。十四日午後四時三十八分旭川着。十五日午前九時旭川陸軍病院ご到着。十時、出発。」
午前九時、皇后陛下の御名代として賀陽宮敏子妃殿下が第七師団陸軍病院に御成り遊ばされ各病室を御慰問遊ばされる。
九時少し前、到着。九時四十分、第六号病棟に御成り遊ばさる。平野病院長の御先導で病室に来られ、全患者一同最敬礼申し上げ、妃殿下は病傷兵一人一人の前に立たれ、敬礼に御会釈を賜り。病院長の出征方面、容体、経過の概要を御聞き召されて、御慰問の言葉を賜り。重ねての敬礼に御会釈を賜りて、病傷兵全員の最敬礼裡に御退室遊ばされたり。
妃殿下についで、侍女、長官、酒井中将がお付添いしていた。その瞬間、只、全身が恐縮と有難さで涙を催したり。
嵐の後の静かな午後は只しーんとしている。極度の緊張の結果ならん。
五月十六日 晴
全快者、或は兵役免除者がある。長くは当病院に置かぬらしい。正午より、藤川雪州君の浪曲がある。
五月十七日 晴
四人の少女が慰問に来てくれる。バナナ・リンゴ生花等持ってきてくれる。ずいぶん長く遊んで帰った。
五月十八日 晴
毎日湿布をする事になっているが、一日一回では何等効力なしと思われる。
五月十九日 晴
今日、診断があった。もう余程良くなっていると言われた。
五月二十日 雨
一日中、雨が降り小寒い。近く診断書が出るらしい、早く事実証明書を送ってくれれば良いがそれのみ気にかかる。
五月二十一日 晴
当病院付准尉殿に話して口供書を書き、本部の方に出してもらう。事実証明書はそのあとから送ってもらえるであろうがずいぶん長引いている。午後二時半、旗行列病院前に来る。午後九時、提灯行列病院前を通過する。
五月二十二日 晴
口供書に印を捺して提出なしたり。
五月二十三日 雨
留守宅の方では仕事が終わって、残った所は蒔くだけとなっているだろう。隣近所の人々の情の有難さをしみじみと感ずる。
五月二十四日 晴
新屋君は原隊に復帰となって帰りたり、第二十七連隊の沖隊なり。
帯広市から児童の慰問舞踊ありたり。
五月二十五日 曇
西谷さん等面会とお見舞いに来て下され、色々と銃後の後援に接して何ともお礼の申し上げ様もない。
五月二十六日 晴
「大阪より患者二十五名来る」
富良野高等女学校中井校長が慰問に来てくれた。
家から便りがあり、二十三日、佐々木君の村葬があったとか、蒔付けも終わって一安心しているだろう。
五月二十七日 晴
今朝、召集の補充兵の患者と日光浴室で一緒になる。彼は言う、地方の肋膜は二ヶ月も安静にいれば直に癒えるのであるが、軍隊のはどうも芳しくないとか、薬品も余り充分でないから、亦、一定の治療方針によらねばならない、これといった特殊な療法もなし、研究的であり結核菌は相当な期間体内に潜伏しているから、身体一寸でも倦怠を覚える時に注意をせねばならないと話す。
五月二十八日 晴
和田松エ門君、上川産業連総会ありと言いて見舞いに来る。家のことやその他のことについて色々と世話になっている。
五月二十九日 雨
本日、日曜日なので旭川市より洗濯に来る。三和見番の慰問舞踊あり。知人二名が岡山・青森を経て還送されてきた。
五月三十日 曇
「近文第一尋常高等小学校運動会観覧」
近文第一尋常高等小学校の招待あり、運動会に徒歩で壮健なものが行き、バスで往復を優遇されて正午まで見物に行く。午後、兵員としての診断書出来ており、下車駅を聞かれたり、六月十五日頃までには除役として退院するらしき。
五月三十一日 晴
今日も診断がない、果して忙しいのだろうか疑問に思う、まだ午後の微熱がとれない。
久野専一郎君が見舞いに来てくれる。
六月一日 曇
午後一時より娯楽室で、先般、皇后陛下の御名代として賀陽宮敏子妃殿下御慰問に御成り遊ばれた、御菓子料を下賜される伝達式が行われた。
給料弐円十銭貰う。
六月二日 晴
「村より慰問来る・寛来たる」
午前十時頃、金子村長・山本逸太郎副分会長・鹿島軍友会長、吉田国防・福屋愛国婦人会の代表者が慰問に来てくれる。高坂さんの所へと一緒に来てくれたり。
その後、寛が室蘭より帰来する途中に立ち寄ってくれ、夜の列車にて村に帰れり。
六月三日 晴
診断があり、詳しく話をしたれば、胸水があるかと試験針を刺し入れたれどなし。
洋次と母が見舞いに来てくれる。
明日、事実証明書を山崎伍長に送らん。
六月四日 晴
朝、体重を計ったら六十キログラムあった。もう一貫も肥えればおそらく胸膜も治るであろう。
今日は招魂祭の宵宮祭である、三十七柱の英霊が合祀される。事変最初の合祀祭である。同じ戦線で活躍された勇士が多く、感慨無量である。
六月五日 晴
今日は招魂祭の本祭日である、独歩患者は徒歩参拝と決まって参拝する。家内が洋次と見舞いに来たり、床鍋君、島田君等青年団八名とともに来てくれ、中富良野の寺の岩田卓道さんも来たり。家内・洋次等と写真を撮る。
六月六日 晴
午前八時、営庭に整列して、当衛戍病院三十八年の創立記念日であり、式典が挙行された。皇居に遥拝して君が代を合唱、その後、病院長の式辞があった。明治三十三年、札幌に設けられ、二十七連隊の中に移って現在地に病院が建築されたと、諄々とした式辞は良くその性格を表して、大綱を一ヶ条毎に説明されて我等病傷兵の胸に迫るものを感じた。
六月七日 晴
面会人がなく、部屋にて休む。手品と漫才の慰安興行があった。
―八日から十一日の間、休止―
六月十二日 晴
近く除役になると言われた。少し運動をしてみたが思ったより苦しい、家に帰っても無理は出来ないだろう。和田の兄より便りあり、当分養生すべしと来た。日曜日なれど面会人なし。
六月十三日
最後と思って写真を幾枚も撮りたり、家に送ってもらう事にする。
六月十四日
今日は小寒し、近く除役になるとの話しあれば、受けんと思いおりしが、午後五時過ぎ、除役につき午前、朝食後、退室すべしと命令出たり。明日は家にも通告せずに帰ろうと思う。感慨無量。

掲載省略 写真 旭川陸軍病院前庭にて(後列右から2人目が石川翁)

六月十五日
軍医殿から今後の療養に関して指示を受ける心積りであったが、新屋弥太郎君が旭川発十二時五十分の列車で帰ると言うので、すぐに用意して病院を八時前に出た。
これをもって、死を覚悟して出征せし支那事変応召の日記も空しい余韻を故里に運ばねばならぬ。
十二時五十分の列車で一時二十分上富良野に着き、金子村長・山本分会副長の挨拶があり、後、上富良野神社に参拝。自動車にて自宅に帰りたり。時に四時三十分過ぎ。
篤農協会とは

九月二十四日と十月二十九日、十一月九日、五月五日の日記の中に、「篤農協会」という団体について記述がある。戦地の慌ただしい軍務の中、東洋の国同士が戦う疑問を「篤農協会」が定期的に発行する小冊子に求めたかのような記述がそれである。郷土をさぐる第十一号で菅野學氏が「故石川清一さんを偲ぶ」の中に、王陽明研究家の安岡正篤氏とのかかわりについて書いている。―陽明学から「中庸」に至る東洋哲学の研究を通して安岡正篤氏を知り、深く心酔し、それを精神的な支えとして生涯を通して師友関係にあった。――「石川清一伝」より―
安岡先生の書

支那事変に応召し、南京戦線で肺結核に倒れ、内地送還された時に、東京第二陸軍病院世田ヶ谷分院に入院した。当時、篤農協会の三井良蔵先生が、協会長であり、金鶏学院の長であった安岡先生の直筆の「不激、不躁、不競、不随可以成大事、弧堂」の画仙紙を持って見舞いに来てくれた。生きて還れぬと覚悟して出征した私が戦いの初めに病に倒れて誠に申し訳ないと語ったが、生き残るも死ぬもこれ運命である。降りかかった火の粉は払うより他ない。病にかかった限りはそれこそこの書の通り、激せず躁わず競わず随わず、じっくり真実の自分を発見し、そして宇宙の誓理に忠実である人間として、生きて下さい。といわれて去られた。ほんとうに有難かった。(随想集百十八号)「篤農協会」は日本農村の維新と郷学の振興を図るため、生涯の多くを東洋古典の研究と人材育成に捧げた安岡正篤氏によって、昭和八年四月に設立された団体である。安岡正篤氏は「終戦の詔書」案に朱を入れ、戦後の歴代総理が教えを乞うた指南役。元号の考案者は公表されることはないが、元号「平成」の考案者に間違いないと言われている。昭和二十四年、「師友会」(後の「全国師友協会」)を結成し、機関誌「師と友」の発行を通じ、陽明学を基礎とした東洋思想を普及する。
昭和二十五年六月三日、石川清一翁は参議院議員に当選。国政の場で活躍するとともに「師友会」会員として名を連ね、師と仰ぐ安岡正篤氏と益々親交を深め「師と友」を講読していた。ある月刊誌に掲載された記事で、戦後、霞ヶ関の官庁街、その中央省庁のエリート官僚の間で密かに回し読みされている供海賊版僑の書物がある。「為政三部書」と題する和綴じの漢籍で、原名を「三事忠告」という。廟堂(内閣大臣)忠告・風憲(法務警察)忠告・牧民(地方行政)忠告からなる張養浩の原著を訳した、日本における中国の老荘思想研究家の手になる印刷物が存在しているのを知った。安岡正篤氏に関心をもっていたところ、石川清一翁の没後発行された「石川清一伝」で、「師友会」の会員として「師と友」を講読していたことを知り、上富良野に安岡正篤氏と縁のある人がいて驚いた。石川翁は父母が徳島県出身者なので上富良野町の「徳島県人会」の世話人をしていた。私の先祖は上富良野に直接入植をしてないが、徳島県からの渡道者であり、私が「為政三部書」を捜し求めていたこともあり、生前にお会いして、少しはお話を伺っていればと悔いている。この度、従軍中の貴重な日記を「郷土をさぐる」の原稿に起こす役目が与えられたことも何かの縁と考える。(編集委員・三原康敬記)

掲載省略 写真 安岡正篤氏から贈られた書
掲載省略 写真 師友協会機関紙「師と友」

機関誌  郷土をさぐる(第26号) 
2009年3月31日印刷   2009年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一