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上富良野の冬と北京の夏

北海道新聞社東京支社社会部 佐々木 学
昭和四十一年五月五日生(四十三歳)

中学二年生だった一九八一年の冬休み。上富良野町西町の公営住宅に住んでいた私は、短波ラジオで海外からの日本語放送をよく聴いていた。
学校の授業は社会科の地理や歴史が好きで、まだ行ったことのない外国への関心が高かった。海外の放送を聴いて、受信報告書をエアメールで送り、外国の街並みや風景が印刷されたベリカード(受信証明書)をもらう。それで、心の中で高まるエキゾチシズム(異国趣味)を満足させていたのだと思う。
目を窓の外にやると、一面の雪景色。自分で張った短波受信用のアンテナ線が時折、風で揺れていた。遠い地から海を越え、上富良野の自分の家まで電波が届くことの不思議さを感じていた。

数ある海外の日本語放送の中でも熱心に聴いていたのが北京放送(現・中国国際放送)だった。ちょうど、中国が文化大革命の混乱をくぐり抜け、改革・開放政策に転じた時期と重なる。日本の新聞・テレビも、外へ開かれた国に変わろうとする中国を好意的に伝えていた。悠久の歴史と広大な国土、豊かな文化をもつ隣国をもっと知りたい。そんな好奇心からラジオに耳を傾けた。
実際、当時の北京放送は、順調な日中関係にかかわるニュースのほか、北京の街の様子や人々の暮らし、辺境の少数民族の音楽など、楽しい番組が多かった。新年に放送される恒例のアナウンサー対抗紅白歌合戦もおもしろかった。

送られてくるベリカードに印刷された北京の風景写真は、故宮に近い中山公園の雪景色、夏の青空を背景にした頤和園、紅葉に彩られた万里の長城など、中国情緒にあふれ、眺めながら「いつか行ってみたいな」と、中国への憧れを募らせていた。
大学で中国文学を専攻し、卒業後に入社した新聞社で北京特派員を志望したのは、今になって思えば、あの冬から思い始めたことなのかもしれない。
それから二十七年後の夏。中国が国家の威信をかけて開催した北京オリンピック閉幕直後の二〇〇八年八月末に、私は四年半にわたる北京駐在勤務を終えて帰国した。
北海道新聞社と中国・人民日報社の記者交換交流で二〇〇四年三月から一年四カ月、北京の首都経済貿易大学で中国語を学ぶ傍ら、人民日報インターネットセンター日本語部で中国語ニュースを日本語に翻訳して人民日報の日本語ウェブサイトを作る仕事に携わった。そしてそのま、二〇〇五年七月から北海道新聞の北京支局で記者として働いた。三年二カ月の特派員生活だった。

中国は、私が北京からの日本語放送を聴いていた貧しい社会主義国のころと比べ、あまりにも大きく変わった。
一九七八年十二月に始まった改革・開放政策が実を結び、アメリカ、日本、ドイツに次ぐ世界第四位の経済大国に成長した。北京や上海だけでなく、地方都市にも高層ビルが建ち並び、高速道路や地下鉄が整備され、ショッピングセンターでは最新の家電製品や豊富な食料品が買い物客を集めている。
一方、豊かさを謳歌する人々がいる一方、農村部に住む農民は都市住民との所得格差が広がった。地方では、中国共産党・政府幹部による汚職や特権利用の金儲けに農民が怒りを募らせ、暴動が多発している。「開発区」と呼ぶ工業団地造成のため、農民はわずかなカネで土地を奪われている。耕す土地を失った農民は、都市部へ出稼ぎに行く「農民工」となり、危険で劣悪な建設現場で休みなく働く。安い賃金でも支払われたら良い方で、賃金未払いも少なくない。都市建設を支える働き手なのに、都市住民からは「汚い」「教育がない」「マナーを守らない」「犯罪の温床だ」と差別されている。

日中関係も様変わりした。まず、中国で暮らす日本人が増えた。上海に五万人、北京に二万人はいると言われ、ほかにも大連、青島、蘇州など日本人の多い都市はある。中国に進出する日系企業が増えただけでなく、中国語を学ぶ日本人留学生、中国で日本料理店やバーを経営する人や、さまざまなベンチャー企業を起こす人もいる。
日本と中国の経済的な結びつきが強まるに伴い、人的交流も盛んになったわけだが、それによって、お互いの理解が進んで仲よくなれたかと言えば、皮肉なことに、まったく逆だった。日本と中国の人々が接する機会が増すほど摩擦も増えていった。

第二次世界大戦のA級戦犯が祀られている靖国神社を小泉純一郎元首相が参拝を重ねたことで中国人の対日感情を悪化。二〇〇五年春、中国全土に広がった反日デモで頂点に達した。戦争にまつわる歴史認識問題は、日中間で領有権を争う尖閣諸島問題とともに、日中関係を刺激するトゲであることに変わりはない。
さらに、二〇〇八年冬に起きた中国製冷凍ギョーザ事件は、日本人の食生活が中国産食品に多く依存していることをあらためて認識させられたと同時に、自己弁護を繰り返し、事件解決に消極的な中国検疫当局と製造元に対する反感が日本で高まった。中国産食品ならすべて危ないという極端な懸念も広がった。事件の解明と再発防止は大切だ。だが、一部の日本メディアによる報道には「どうせ中国だから」「中国はだからダメなのだ」と、中国に対する差別意識をのぞかせたものもなかっただろうか。

北京特派員の仕事を振り返ると、こうした不愉快なニュースを扱うことが多かったように思う。二〇〇八年は、三月にチベット民族が中国支配に抵抗し、当局が弾圧した騒乱も起きた。五月に発生した四川大地震では、死者・行方不明者が八万人以上という大惨事となった。学校校舎や病院の手抜き建設工事が、子供やお年寄りの犠牲を多く出した原因だった。平和の祭典であるはずの北京オリンピックも、世界各地をめぐる聖火リレーが、チベット争乱に抗議する西側諸国の人権団体が妨害し、これに対して中国の若者たちが反発、排外的民族主義が高まった。
北京支局の壁に貼られた中国全土の地図を眺めながら、溜息をつくことが多かった。「中国は途方もなく広く、人口が十三億人もいる。すべてに目を配ることは不可能だし、わからないことばかりだ」と、無力感に襲われ、自分に嫌悪感を抱くのだ。

日本で中国に関するマイナス報道が多い中で、自らに課していたのは、中国にも日本と同じような普通の人々が分別をわきまえて生活していること、中国が経済成長の中で抱える問題を解決しようと頑張っている人たちがいることを、北海道の読者に紹介したいということだった。
元出稼ぎ農民の夫婦は、都市部の戸籍がないため満足な公教育を受けられない出稼ぎ農民の子供たちのための学校を、行政の力を借りずに開き、運営を続けている。ラジオの女性パーソナリティーは出稼ぎ農民の悩み相談を番組で紹介して励ましていた。
日本語を学ぶ大学生たちは、日本の漫画やアニメが大好きで、漫画の主人公に扮したコスプレに夢中になっていた。目の不自由な人たちのため、映画の語り聴かせをする民間団体も取材した。中国の庶民も、暮らしの中に楽しみを見つけ、懸命に日々を送っていることを知ってほしいという思いからだった。

掲載省略 写真 北京オリンピックのメーンスタジアム、通称「鳥の巣」を背景に

そうした私の報道で、北海道の読者にとって、中国に対する感情がどれほど好転したか、まったく自信はない。一時期に比べ、日中間の政治関係は好転したと言っても、両国の国民レベルの相互理解が深まったとは、残念ながらとても言えない。
それでも、北京の街角で、中国の各地で、取材に応えてくれた中国の人たちの顔を思い浮かべ「あなたたちと会えて、あなたたちのことを紹介できて、よかった」と心から思っている。
それは中学生のころ、上富良野で北京からの放送を聴いていたころに芽生えた中国への好奇心がきっかけになったと感じている。上富良野の冬から北京の夏につながる物語は終わったが、中国とは何らかの形でこれからも付き合っていきたい。

掲載省略 写真 中国の温家宝首相が訪日した時の報道(中国日報2009年4月5日付に掲載)前列中央温家宝首相・後列中央佐々木学記者

北海道新聞社記者 佐々木 学氏 との出会い

郷土をさぐる会幹事長 中村 有秀

一、佐々木記者の最初の新聞記事を読む
平成元年六月三日付。北海道新聞夕刊(札幌市内版)に、次の様な記事「故郷よ火の山に負けるな」に目が止りました。
私は札幌へ出張の帰りの札幌駅売店にて道新夕刊を買い、車中でこの「読者の目・記者の目」を読むと共に、記事の末尾に(学)という記者が上富良野町を故郷にしている「どこの人だろう」と気にかかりました。
平成元年6月3日夕刊(札幌市内版)【読者の目】
--故郷よ火の山に負けるな--
「みなさんに知名度を高めていただいた十勝岳のふもと、上富良野町出身です」。入社して間もないころ、社会部の先輩記者に何度この「自己紹介」をしただろうか。青い空に白い雲をいただく十勝岳を仰ぎ見ながら育った。校歌の歌詞には必ず「十勝岳」が入っていた。子どものころから知っている十勝岳は、いつもどっしりと構えて穏やかに白い噴煙を上げていた。ふもとの小さな人間の営みを、山は悠然と眺めていたように思う。それだけに昨年十二月、噴火のニュースを聞いた時は自分の耳を疑った。本州のある地方都市で卒業論文を必死になって書いていたころだ。いても立ってもいられず電話に飛びつき、家族と連絡しようとするが、回線が込み合い不通。故郷を遠く離れたことからくる不安で頭がいっぱいになった。ただちに帰省。列車も国道も美瑛から富良野方面は不通だった。美瑛からタクシーでわき道に入り、上富良野へ。ようやく町の明かりを目にした時の安ど感は、忘れられない。現在は火山活動も沈静化したが、自然の力は計り知れない。いつまた噴火するとも限らないだろう。その時は記者として、火山と共存しなければならない町の人たちの姿を伝えていきたい。自然と戦いながら懸命に生きていく故郷の姿を。(学)
この記事が佐々木記者と私との最初の出会いでした。その後、佐々木学記者は佐々木七恵さんの長男とわかりましたが、佐々木記者は「十勝岳爆発災害」を知っているだけに、母・弟そして故郷への思いがこの記事になったこと思います。
この記事を、上富良野中学校PTA広報委員会が編集発行している「つながり」第六十三号(平成元年六月三十日発行)に掲載しました。
当時の長谷吉英校長は
「執筆記者は、道新入社の一年生。年末の十勝岳爆発、そして故郷の心配と電話・国道・鉄道の不通など、遠くの者でなければわからない気持ちだと思う。上富良野町は、十勝岳と共に永久にかかわりを持って生きていくことを思うと、負けてはいけないと強く気持ちをふるいたたせてくれる文です。」
長谷校長のコメントの後半の部分「上富良野町は、十勝岳と共に永久にかかわりを持って生きていくこと……」は、この地域に住む者にとって、新たな決意で生きていくことを求められていると思います。
十勝岳を含めた十勝岳連峰の素晴らしい景観と、活火山十勝岳による温泉の恵みを受けています。
しかし、十勝岳爆発等を視野に入れた防災・減災対策と、有事の際の自主防災組織の充実は「十勝岳と共に、永久にかかわりを持って生きていかなければならない。」
二、道新国際問題講演会
北海道新聞の海外駐在記者帰国報告会が「道新国際問題講演会」として、平成二十年九月に札幌市と旭川市で開催された。
旭川会場は『道新旭川政経文化懇話会特別例会』として、九月一七日に旭川信用金庫本店五階ホールで約三〇〇名の聴衆の中で、三名の海外駐在記者が次の演題で帰国報告が行われた。

掲載省略 写真 講演中の佐々木記者

『変ぼうロシア―好機をにらんで』
・藤盛一郎=函館報道部次長(前モスクワ駐在)
『カリマンタン島の森林破壊』
・勝木晃之郎=本社報道本部(前シンガポール駐在)
『五輪で変わる中国』
・佐々木学=東京社会部(前北京駐在)

筆者は、北海道新聞社告を読み、上富良野町出身の「佐々木学記者」が、海外駐在記者帰国報告会の開催と、中国・北京から帰国されたことを知った。
旭川会場には、佐々木記者をよく知っている上富良野町中町山崎良啓氏と共に行き、講演を聴きました。
「五輪で変わる中国」として、北京に行った当時のこと、オリンピック開催の中国及び北京の状況及びこれからの中国については、五輪開催は国民が自信を回復、国際社会のルールを守る契機になったと、非常に理解しやすく講演され感銘を受けてました。
その際に、佐々木学記者に「郷土をさぐる誌」への原稿依頼を申し上げ快諾を得て、今号の掲載に至りました。
三、佐々木記者の略歴
・昭和四一年五月五日:旭川市にて父実氏・母七恵さんの長男として生れる。
・昭和四七年:父の逝去により、母の実家のある上富良野町に転居
・昭和五四年三月:上富良野西小学校卒業
・昭和五七年三月:上富良野中学校卒業
・昭和六〇年三月:富良野高等学校普通科卒業
・平成元年三月:国立富山大学人文学部卒業(中国語専攻)
・平成元年四月:北海道新聞社に入社し、社会部記者となる。その後、千歳支局、本社整理部、函館報道部、東京社会部、東京国際部を経験
・平成一六年三月:中国・人民日報社との記者交換交流で北京の同社インターネット部へ派遣研修
・平成一七年七月:北京支局に勤務。北京五輪開催を機に変貌を遂げた中国と首都、北京の姿をリポートしたほか、昨年五月の四川省大地震では現地取材をし、刻々被災状況が道新紙上に掲載された。
・平成二〇年九月:北海道新聞社東京支社社会部員となり、現在に至る。

機関誌  郷土をさぐる(第26号) 
2009年3月31日印刷   2009年4月1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一