郷土をさぐる会トップページ     第25号目次

編集後記

私の家の小さな庭に、今年も何処からか名も分からない一羽の小鳥がやってきた。
『この小鳥は何処からやってきたのだろう』
『仲間の小鳥たちとはぐれてしまったのだろうか』
『仲間とはぐれてひとりで生きていけるのだろうか』
などと家内と話していたが、人間社会では一人で生きていくことは難しい。いつもどこかで、誰かに、何かで支えられながら生きているのではないだろうか。庭で雪をついばむ小鳥を見ながらそんな思いを馳せた。
先日の道新地方版で、富良野市扇山地区の市営プールが財政難から閉鎖になるとの記事で、こんなコメントが載っていた。
「昨年は地域の人達がプールを自主運営するために、小さな補修や監視業務を交代でボランテア活動を続けてきたが、このような地域活動が失われてしまうのは誠に残念である」と、このコメントは、住民の目線から伝える報道で、これを書いた記者の感性に熱い感動をおぼえたが、この記事を読み「郷土をさぐる誌」は、今後どんな目線で編集に心がけたら良いのだろうかと、深く考えさせられた。

今年は「かみふらの郷土をさぐる」の初刊から二十五号に当り、特別号として発刊することとなった。その結果、特集として上富良野開基百年(平成九年)以降の「歴史年表」と、初刊から二十四号までの「かみふらの郷土をさぐる」の目次を編集することとした。今後の参考にしていただければ幸いである。
二十五号の表紙絵は、旭川で活躍し、道展に入選の実績を持つ近藤裕彦氏にお願いし、作品を掲載させて頂いた。氏のご協力に感謝申し上げたい。
「東京上富会」からは、会長の長谷部氏の紹介により福島県若松市在住の斎田[ときた]早苗様(旧姓伊藤)から「私の古里は恋心」と題して、上富良野の思い出やその後の消息についてのご投稿を頂いた。
上富良野在住の折にご両親が花園町(現富町)の入り口で、「望知香」という喫茶店を経営されており、私も何度か美味しいコーヒーを求めて通った記憶がある。「ポーチカ」という原語は、ロシア語で「可愛い娘さん」との意味であると誰かに聞いた覚えがあるが、定かではない。いづれにしても懐かしい思い出の店名である。
現在若松市で天理教のお仕事をされているとのこと、末永くご健勝で過ごされることを願って止まない。

札幌上富会からは、平久保榮氏から「援農の丘に生きた両親の農業との関わり」をテーマでご寄稿を頂いた。お忙しい折に体調が思わしくない中、ご無理を言って執筆していただき心から感謝申し上げる。
馬鈴薯の歴史や、援農の思い出などユニークな内容が多く、勉強になる原稿でした。

倉本千代子様からは、「『山加農場の母』西口トワのこと」と題して、祖母を通じて当時の山加農場での生活や、祖母の温かく大きな人柄について紹介していただいた。

田中正人氏からは、「島津農場開拓の祖『海江田信哉の功績』をテーマに記述して頂いた。
島津農場の創立から現在までの農場の歴史と、農場管理人としての海江田信哉氏の活躍について、確かな資料を基に詳細に記述されており、今後の地域の資料としてもたいへん参考になるものと思われる。
この原稿を読ませてもらっている時に、ちょうど私の調べているフラヌ原野殖民地選定区画解放の資料の中に、島津農場に関連する資料が出てきた。
資料によると、最初の区画地付与申請は「鈴木要三」となっており、上富良野町史に記述されている「北晃社」という組合については調べることは出来なかった。
「鈴木要三」は日光奈良部町出身で、栃木県で麻紡績工場を経営し、渋沢栄一等と共に「日本製麻株式会社」「北海道製麻株式会社」などを創立するなど、当時の財閥の一員であったようである。
「フラヌ原野百四十八万三千二百八十三坪」の土地は、最初鈴木要三から公爵「島津忠重」(当時十二歳)・後見人男爵「島津珍彦」(五十三歳)に譲渡されている。
「島津忠重」(一八八六年〜一九六八年)は島津家十二代藩主「島津忠義」(久光の長男)の長男で、三十代島津家当主であった。「忠重」が当時十二歳と若年のため、「久光」の三男、叔父「珍彦」が後見人となっていたと思われる。
「島津忠重」からは、次に鹿児島県鹿児島市平之馬場町百三十戸「東郷重持」(島津家家老で弓術日陰流の九代目師範)に譲渡され、そこから男爵「島津富次郎」(当時七歳で「「忠重」の弟・忠義の二男」に、同じく後見人に叔父「珍彦」をつけて譲渡されている。
その後「富次郎」から同じく男爵「島津忠備[ただみつ]」(一八九三年〜一九二八年)に名義変更がされており、譲渡の年度は解らないが最後の名義が「島津忠備[ただみつ]」となっている。町史に島津農場所有者が最初の譲渡者長男「忠重」になっているのは、五男「忠備[ただみつ]」が若くして死亡しているため、長男「忠重」が引き継いだものと思われる。こんな事柄が資料から判明した。

「石川清一翁の日記より」(その一)は、翁の日記から三原康敬氏が文章にまとめられたもので、氏が戦時中の事件に造詣が深いことから、細かい記述の多い翁の日記をまとめていただいたものである。
これからも、何回かに分けて記述をお願いすることになるが、そのご労苦に感謝申し上げたい。

私の原稿は、「ふらの原野開拓のあゆみ」第二回目になるが、今回は内地から開拓に訪れた人々と、開拓した土地の権利について、無償貸与と有償付与の関係、無償付与と付与条件の内容、付与申請の動きなどについて記述してみました。
拙い文章ですが参考にしていただければ幸いです。
また、フラヌ原野の付与申請の資料で、札幌農学校二期生「町村金弥」氏についての書類が出てきたので、江別市の町村末吉氏にご照会したところ、町村金弥に関するお手持ちの沢山の関係資料を送って下さった。町村金弥氏については、二十六号で触れてみたいと考えており、町村末吉氏のご厚情に心から感謝申し上げたい。

「『一本木』はみんなの待ち合わせ場所」は、斜線道路沿いの東四線にあった榛[はん]の木にまつわる様々な出来事を、岩崎治男氏に記述して頂いた。
現在は、北辛夷の木に変わっているようであるが、大事に保存したいものである。

中村有秀氏には、「昭和三十六年八月二十四日ブラジルに移住に出発した三家族」についての記録を書いて頂いた。記述に当っては記録確認のために、遠くブラジルにまで電話をされたようで、その熱意に厚く敬意を申し上げたい。

巻頭の辞で成田会長から、購読者の皆様へこれまでのご支援に対して感謝の意を述べられていますが、皆様のご協力とご支援をいただかなければ、今後の活動を続けることはできません。今後とも変わらぬご支援を賜りますようお願い申し上げ編集後記と致します。
(郷土をさぐる編集委員長 野尻 巳知雄記)

機関誌   郷土をさぐる(第25号)
2008年 3月31日印刷   2008年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一