郷土をさぐる会トップページ     第25号目次

昭和三十六年八月二十四日
ブラジル移住に出発した三家族

上富良野町本町
中村有秀  昭和十二年十一月二十八日生(七十歳)

一、はじめに
郷土をさぐる誌第二十四号(平成十九年四月一日発行)の石碑[いしぶみ]が語る上富の歴史(その13)の「十勝岳産業開発道路記念歌碑」の取材で、上富良野町公報「かみふらの」第三十七号(昭和三十六年九月一日)の一ページに「十勝岳産業開発道路の起工式」の記事があり、二ページに「南米移住者元気で離町」の記事に目が止りました。
十鳥家・宮崎家・小形家の三家族二十四名の皆様が、故郷上富良野を昭和三十六年八月二十四日に出発して四十七年が過ぎましたが、その後の三家族がどうされているのかが気になり、追跡調査を行いました。
約五十年前の事であり、三家族の親戚・知人の皆様から聞き取り調査も困難でありましたが、南米ブラジルに開拓移民としてその後の足跡を辿りました。
二、プラジル移民の歴史と北海道からの移住
ブラジルへの移民は、明治四十一年(一九〇八年)に最初の契約移民七百八十一人、自由移民十名が「笠戸丸」で神戸港から出港。続く第二回は明治四十三年(一九一〇年)に九〇九人を乗せて「旅順丸」で出港し、約二ヵ月後にブラジルのサントス港に入港したのです。
一八八八年に奴隷制度を廃止したブラジルは、その後のコーヒー農園での労働力不足を補うため、ヨーロッパからの移民(コロノ移民と呼ばれる契約移民)を誘致し、受け入れていました。
しかし、劣悪な条件化での労働は移民の不満を呼び、ドイツやイタリアといった移民送り出し国の政府は「奴隷同然の移民送り出しに協力出来ない」と、出国を停止したりしました。
こうして、労働力不足に悩んでいたコーヒー農園主とブラジル政府に、当時アメリカ合衆国から日本人移民を締め出されて困っていた「皇国殖民会社」が日本人移民の受け入れを売り込んでいきました。
やがて「皇国殖民会社」はサンパウロ州政府と契約調印し、毎年一、〇〇〇人の農業移民をブラジルへ送り出すことで一致し、日本国内での移民希望者募集を開始しました。
移民の条件の中に、「移民は夫婦を中心に、十二歳以上の子供か、夫婦の兄弟姉妹を含む三人以上の家族であること」というものでした。
戦前の農業移民は、初めは一年契約でコーヒー園の草取り等で、それぞれの契約地に入植し、一年の契約が終わると、次は約三年歩合契約でした。
農業移民の人達は、それこそ人一倍働き少しずつお金を貯め、お金が貯まると借地農で働き、最後にやっと自分の土地を買って独立することができました。戦前の移民最盛期の昭和八年から昭和九年の二年間で約五万人にも達したと記録されています。
戦後の昭和二十七年から昭和四十年までの農業移民は、国際協力事業団発行の「海外移住統計」によると、次の様に区分されています。
○自営開拓〜国際協力事業団または受入国の移住地に自営農として入植した者
○公募雇用〜国際協力事業団、コチア産組等の斡旋により雇用農としての渡航者
○指名呼寄〜知人などの指名により、渡航した者及び近親者
上富良野町からブラジル移住した昭和三十六年は、日本から五、一四六人の人々が渡伯されています。
昭和三十六年のブラジル移住の形態別移住者と、平成五年十月現在のブラジル在留日系人数は「海外移住統計」には、次の通り記録されています。
昭和36年ブラジルへの形態別移住者数
 農 業   自営開拓  902人
 公募雇用      1,145人
 指名呼寄 2,963人
 技 術  122人
 その他  14人
 合 計  5,146人
在留ブラジル日系人数
(平成5年10月現在)
日系人 永住者 合計
529,310人 91,060人 620,370人
北海道から、最初のブラジル移住者は根室出身の石橋恒四郎氏で、明治四十二年(一九〇九年)の渡伯であると言われています。
北海道からブラジルへの移住は、北海道開拓移住を考えれば、再移住と言った方が適切かも知れません。
昭和三十六年八月、ブラジル移住を目ざした三家族は、内地から北海道の開拓、そして新天地をブラジルに求めたのは、まさに再移住でした。

掲載省略 写真 南米ブラジル移住への出発−「江花・十島家」「日の出・小形家」「東中・宮崎家」(昭和36年8月24日上富良野駅)

三家の祖先からの足跡は次の通りです。
〇十鳥新吉家は、香川県〜北海道真狩村〜多度志村〜中富良野村〜上富良野村
○小形義雄家は、宮城県〜北海道洞爺村〜虻田村〜浦幌村〜中富良野村〜上富良野村
○宮崎明善家は、岐阜県〜上富良野村
ブラジルでの北海道出身者の評価は、概して謹厳寡黙・誠実勤勉・忍耐強さが身上のように思えます。
この条件は、拓士とし絶対不可欠の条件であって、あの荒涼たる天地、厳しい自然の中で生い育ったもののみに備わる特質であると感じます。
昭和三十六年から昭和四十年までの五年間の、出身別のブラジル移住者人数は、沖縄県が一、四〇五人で第一位、北海道が八二五人で第二位、日本全体で九、四八八人でです。
昭和四十三年発行の「在伯北海道人史」による各支庁別渡伯別世帯数と上川支庁の市町村移民世帯数は、次の様に記録さておりますが、いかに北海道からブラジル移住が多いか判断されます。
上川支庁管内市町村ブラシル移民世帯数
市町村別 移民世帯数 市町村別 移民世帯数
旭川市 103 風連町 33
名寄市 37 音威子府村 0
士別市 46 下川町 17
神楽町 10 美深町 25
東神楽町 5 中川町 7
当麻町 69 東鷹栖村 31
比布町 11 鷹栖村 17
愛別町 16 富良野市 60
上川町 10 上富良野町 8
東川町 17 中富良野町 13
美瑛町 17 南富良野町 6
和寒町 10 占冠村 8
剣測町 19 合計 594世帯

各支庁別ブラジル移民世帯数
支庁別 移民世帯数 支庁別 移民世帯数
石狩支庁 597 胆振支庁 141
渡島支庁 240 日高支庁 78
檜山支庁 56 十勝支庁 374
後志支庁 333 釧路支庁 86
空知支庁 847 根室支庁 42
留萌支庁 110 網走支庁 609
上川支庁 594
宗谷支庁 80 合計 4187世帯
三、上富良野からの、プラジル移住者は
上富良野から南米ブラジルに移住された人は、昭和二年に移住された「高橋竹雄氏」を含めて、「在伯北海道人史」には下記の様に記載されています。
筆者は、郷土をさぐる誌第二号(昭和五十七年六月三十日発行)で、昭和四年にブラジルに移住された「高松森之助氏、高松高市氏」に関し、日露戦争で戦死された「高松高次郎氏の戦死紀念碑」の由来と、ブラジルに移住するために「戦死紀念碑」を三段積みの台座にした経過について記してありますので参照下さい。
「在伯北海道人史」は、昭和四十三年(一九六八年)に在ブラジル北海道人会が、北海道百年記念として発行されています。(注・伯はブラジル国の日本表記です)
「在伯北海道人史」には、昭和四十三年当時の全道市町村別の要覧が記載されていると共に、在ブラジルの出身市町村別に「氏名・渡伯年、船舶名、生年・家族数・妻の名前」が記載されている。
その「在伯北海道人史」に、昭和三十六年八月二十四日にブラジルに移住として上富良野駅を出発した、「十鳥新吉氏・小形義雄氏」の名がありましたが、「宮崎明善氏」の記載がありませんでした。
なぜ、「宮崎明善氏」の名が無いかの理由が、今回の調査で判明し「宮崎明善家の足跡と現在」として、本誌に記しました。
『在伯北海道人史』に掲載のプラジル移民された上富良野出身者
−1968年(昭和43年)に北海道100年記念として在伯北海道人会が発行−
番号 氏名 渡伯年及び船舶名 生まれた年 渡伯時 の年齢
1 高橋竹雄 1927年(昭和2年) サントス丸 1908年生(明治41年) 19歳
2 高橋広吉 1928年(昭和3年) サントス丸 1899年生(明治32年) 29歳
3 高松森之助 1929年(昭和4年) サントス丸 1903年生(明治36年) 26歳
高松高市 1929年(昭和4年) カナガワ丸 1909年生(明治42年) 20歳
4 武内新吉 1929年(昭和4年) ビンゴ丸 1889年生(明治22年) 40歳
5 村上弘一 1933年(昭和8年) アフリカ丸
6 小形義雄 1961年(昭和36年) サントス丸 1919年生(大正8年) 42歳
小形秀雄 1961年(昭和36年) サントス丸 1944年生(昭和19年) 17歳
7 十鳥新吉 1961年(昭和36年) サントス丸 1907年生(明治40年) 54歳
8 松藤良光 1961年(昭和36年) ルイス号 1930年生(昭和5年) 31歳
今回の調査で、上富良野町島津の松藤光太郎氏の四男「松藤良光氏」も、ブラジルに移住している事を聞きましたが、上富良野町の名簿にありませんでした。
調査の結果、「松藤良光氏」はブラジル出発前は芦別市上芦別に在住していたので、芦別市の名簿に記載されている事が判明したので、在伯上富良野出身者として記しました。
松藤良光氏がブラジル移住した年は、偶然にも上富良野の十鳥新吉氏・小杉義雄氏と同じ昭和三十六年(一九六一年)でしたが、渡伯した船舶は別でした。
芦別市からは、昭和三十六年に二十一世帯、昭和三十八年に十六世帯と移住世帯数が多いのに驚きましたが、炭鉱閉山の関係であるといわれます。
松藤良光氏は、サンパウロ州レジストロ市在住で農場経営を行っています。
四、十烏新吉家の足跡と現在
  (一) ブラジル移住への上富良野からの旅立
昭和三十六年九月一日発行の、上富良野町公報「かみふらの」第三十七号に、ブラジル・サンパウロ北海道人農友会に向けて、十鳥さん一家十名「南米移住者元気で離町」の見出しで、十鳥さん一家について次の様に記されています。
(尚、名前・年齢は町公報「かみふらの」記事の誤りを一部訂正し、年齢の下の括弧書きは筆者が挿入したもの)
十鳥 新吉さん 五四歳
よしゑさん 四九歳(新吉氏の妻)
純雄さん 二五歳(長男)
弓子さん 二七歳(長男純雄氏の妻)
雅雄さん 五歳(純雄氏の長男)
幸雄さん 二一歳(二男)
厚子さん 十九歳(二女)
美智子さん 十七歳(三女)
孝子さん 十四歳(四女)
正行さん 十二歳(三男)
  (二) 十島新吉氏とは
十鳥新吉氏の父は「十鳥常治氏」といい、明治三年十月二十五日に香川県三野郡笠田村で、十鳥家二男として生れています。
十鳥常治氏は、明治二十二年十九歳の若さで単身で香川県より、北海道開拓に燃えて虻田郡真狩村に入植しました。常治氏は、縁あって虻田村向洞爺の大森徳治氏長女イシさんと結婚されました。
十鳥新吉氏は、父常治・母イシの三男九女の三男として、明治四十年二月八日に真狩村留寿北四線にて生を受けました。
明治四十年三月頃、生後間もない新吉氏は、父母に連れられ雨竜郡多度志村字幌加内に入植、この地で父母は八年間開墾と農業に汗を流すと共に、三男七女の子供達の養育にも努められました。
大正五年十月、多度志村幌加内より、中富良野村字中富良野西二線北十四号に入植。
大正十年九月、中富良野村より、上富良野村西三線北二十一号に入植し、本格的な開拓の鍬をこの地に入れたのでした。この時、三男の新吉氏は十四歳でした。以来、ブラジル移住までの約四十年にわたり農業を続けられました。
昭和八年に、三男九女を育てた母イシが逝去、昭和十四年に父常治が逝去され、四国香川県から単身北海道に来て五十五年の星霜が過ぎていました。
十鳥新吉氏は、二十八歳の昭和十年に南富良野村幾寅の新田市次郎氏二女よしゑさんと結婚、いよいよ十鳥家の大黒柱となって働くと共に、三男四女の子供にも恵まれました。
江花開基八十年記念誌には、十鳥新吉氏が「江花澱粉協同組合」設立時の出資者十六名の一人として記されています。
江花百年記念誌「さくらの杜えはな」に、歴代江花青年団団長の項に、新吉氏の長男純夫氏が昭和三十一年度の団長として記され、江花の主な出来事の項には「昭和三十六年十鳥新吉がブラジルに移住」と記録されています。
昭和三十六年、ブラジル移住した時の江花は、戸数八十八戸、人口六三一名でしたが、江花開基百年の平成十五年には戸数四十二戸、人口一八二名と激減しています。

掲載省略 写真 十島新吉家ブラジル移住送行会(昭和36年8月23日上富良野農協ホールにて)
掲載省略 写真 江花部落での十烏新吉氏:ブラジル出発送別記念(昭和36年8月15日)
掲載省略 写真 ブラジル移住の十鳥新吉家の家族と親戚の人と(昭和36年8月23日上富良野農協にて)
掲載省略 地図 江花百年記念誌「さくらの杜えはな」より引用掲載
  (三) ブラジル移住後の十島家の足跡
○昭和三十六年九月四日
横浜港をサントス丸にて出航。
○昭和三十六年十月十七日
ブラジル国サントス港に入港、四十三日の長い船旅であったが、その日にサンパウロ州イタケイラの果樹園に到着。
○昭和三十七年八月
イタケイラから四〇〇q離れたサンパウロ州デスカルバドのモンテアルベルネ農場に移住しトマト・ピーマン等を耕作。
○昭和三十九年三月二十五日
現地のキリスト教の風習で、三十七日間の肉食禁止期間を終えてお祭の時、溜池で筏乗りの遊び中に、筏が転覆の事故により十人乗っていたが三人が溺れ、その中に二男幸雄君(二十四歳)、二女厚子さん(二十二歳)が死去。ブラジルに渡って二年五カ月、やっと生活に慣れこれからという時なのに、異国の地で短い人生を閉じられた。
○昭和三十九年七月二日
長男純雄氏(二十九歳)が肺炎で逝去される。幸雄君・厚子さんを事故で亡くした百日目であり、十鳥家の家族にとって悲嘆のどん底に落された。
○昭和三十九年九月
暗い思い出のあるデスカルバドから、同じサンパウロ州のガピアラに転住し、借地をしてトマト・ピーマン・ジャガイモを耕作す。
○昭和四十年三月
二男幸雄君、二女厚子さんの法要が、中富良野町弘照寺にて親戚・知人・同級が相集い若き二人を早い逝去を悼むと共に、往時を偲ばれました。遺影は二人の江花小の同級生が持っている。
○昭和四十二年
サンパウロ州リベロンブランコ市シーマ地区に土地を買い、いよいよ念願の自営農としてブラジルに移住して七年目の出発であった。
○昭和四十七年一月二十四日
父十鳥新吉氏(六十六歳)が逝去される。ブラジルに渡って十年五カ月後で、三人の子供を亡くしたが、自営農として軌道に乗り、今後拡大の方針であったので無念であったと思われる。
○昭和五十二年
リベロンブランコの土地を売り、八〇〇q離れたサンタカタリーナ州に土地を求め、種イモ・ニンニク等を耕作。
○昭和六十年
サンタカタリーナ州から一五〇〇q離れたマラニオン州に、二女美智子さんの夫松崎重夫氏と三男正行氏が共同で、原野十平方キロメートルの土地を買い、米・大豆等を三〇〇ヘクタールを耕作するもブラジルでは生産過剰で農産物が安いので、五年間耕作し、その後は現地日系人に貸付けし、三女美智子さんの子息で弁護士の「エジソン・照美・松崎氏」が管理している。

掲載省略 写真 十島幸雄氏・十島厚子さんの法要(昭和40年3月中富良野町弘照寺にて)
掲載省略 写真 渡伯する年に、江花の皆様と温泉へ
  (四) 十島家の皆さんの現在は
〇十鳥新吉氏
一家十人でブラジルに渡り、広大なブラジルの各地を移住し、土地を買い農場経営の夢が実現したが、昭和四十七年一月二十四日逝去・享年六十六歳。
〇十鳥よしゑさん
夫新吉氏と共に、新天地ブラジルで日本では味わえない大きな経験をしたが、昭和六十二年に三女美智子夫婦と共に日本に一時帰国者として来日し、現在は栃木県真岡市にて同居している。九十五歳の高齢であるが、筆者が電話で子供さんの生年月日を聞くと即座に返事され、記憶力はしっかりしているのに驚きました。
○長男十鳥純雄氏
妻弓子さん、長男雅雄ちゃんと共にの渡伯で十鳥家の柱であったが、渡伯の二年九カ月後の昭和三十九年七月二日に肺炎で逝去、享年二十九歳。
○長女川上由美子さん
十鳥一家がブラジルに行く年に、自衛官の川上孝俊氏と結婚したため、兄妹の中で唯一大日本に残ったが、いつも地球の裏側のブラジルにいる父母・兄妹の事が心配であったという。
子供さんは一男一女で、旭川市に在住。
〇二男十鳥幸雄氏・二女十鳥厚子さん
〇お二人は、昭和三十九年三月二十五日、ブラジル国サンパウロ州デスカルバド郡モンテアルベルネ農場近くの溜池で筏乗り中に転覆し逝去。幸雄氏は享年二十四歳、厚子さんは享年二十二歳で、渡伯二年五カ月後の事故であった。
〇三女松崎美智子さん
山口県出身でブラジルに在住していた松崎文雄氏と結婚し、二男二女の子供がいる。松崎文雄氏夫婦は、昭和六十二年に日本に一時帰国、夫文雄氏が平成十九年に逝去されたが、現在は母よしゑさんと栃木県真岡市にて同居在住。
ブラジルの十鳥家及び松崎家の土地・家屋は美智子さんの二男「エジソン・照美・松崎氏」がサンパウロで弁護士をしているので、その管理を任している。
母よしゑさんは「幸雄・厚子を亡くし、その百日後に純雄の急逝、夫新吉が渡伯十一年目に逝去と、一家の大きな働き手を次から次へと亡くし失意の中であったが、美智子の夫が一家の支柱になって働いて助けてくれた」と語ってくれました。
〇四女長田孝子さん
ブラジルで長田重光氏と結婚、子供は二男一女で、平成八年に日本に一時帰国し、現在は群馬県草津町に在住。父新吉・兄幸雄・姉厚子の死亡除籍の日本国の届出手続きは、届出人「親族十鳥孝子」となっている。
〇三男十鳥正行氏
ブラジル移住は十二歳であったが、兄二人を亡くし十鳥家の唯一の男子となり、美智子姉の夫と共同で農地を買って営農も行った。四女孝子姉の夫長田重光氏の妹「テレーザ・ヒロコ・長田」と結婚し、子供は三男。平成二年四月、日本に一時帰国し通訳をし、現在は母・姉と同じ栃木県真岡市に在住。

掲載省略 写真 三男十島正行氏31年振りの帰郷 (平成4年)
掲載省略 写真 上富良野町から親戚を迎えて(平成20年3月18日松崎宅にて)
※筆者が三女美智子さんに電話をしたところ、上富良野より義妹佐藤ユキヱさんと二女の山本悦子さんが来宅されていることを知り、ぜひ写真をとお願いしたのが上の写真です。
五、小形義雄家の足跡と現在
  (一) ブラジル移住への上富良野からの旅立
昭和三十六年九月一日発行、上富良野町公報「かみふらの」第三十七号に、ブラジル・サンパウロ北海道人農友会に向けて、小形さん一家六名「南米移住者元気で離町」の見出しで、小形さん一家について次の様に記されています。
(尚、名前洩れ、年齢に町公報「かみふらの」に誤りがあるので、一部訂正すると共に、年齢の下の括弧書きは筆者が挿入)
小形 義雄さん 四二歳
静江さん 三七歳(義雄氏の妻)
秀雄さん 十五歳(長男)
静志さん 十三歳(二男)
文雄さん 十二歳(三男)
治さん 八歳(四男)
浩一さん (五男)※ブラジルにて生れる
  (二) 小形義雄氏とは
小形義雄氏の父は「小形今朝吉」といい、明治二十六年九月二十二日に宮城県伊具郡舘矢間村(現在の角田市)にて、小形家の四男として生れました。
父、今朝吉は、郷土の知人を頼って十八歳の明治四十四年春に、虻田郡洞爺村字成香に入植。その後、虻田郡虻田村ニナルカに移住。
大正七年、虻田村の目黒家三女、よしいさん結婚し、大正八年十一月十五日に小形義雄氏が生れています。
昭和五年に、十勝郡浦幌村に移住。昭和十一年三月に中富良野字中富良野東三線北八号に移住しました。
昭和十六年三月十二日、上富良野村字上富良野基線二十九号に移住。その時、父今朝吉氏は四十八歳、長男義雄氏は二十二歳でした。この基線北二十九号の地は、ブラジルに出発するまで農業経営を行っていました。
小形義雄氏は、小形家の五男四女の長男として、父母と共に働いたのでした。
昭和二十年、中富良野村の岸人家四女静江さんと結婚、昭和二十一年六月十三日に長男秀雄氏が生れました。
その後、ブラジルに渡った二男静志・三男文雄、四男治と、男の子ばかりでした。
ブラジル移住後に生れた子供も男で、五男浩一でした。
ブラジル移住の条件である、働き手が多くいる事がポイントであり、又、小形義雄氏としても現在の土地では、四人の息子達に思うように分家もさせられないと判断し、その新天地をブラジルに求めたものでした。時に小形義雄氏、四十二歳の大決心でした。
昭和五十六年三月二十八日、ブラジルより小形義雄氏が二十年振りに帰国され、親戚・日の出部落の人と交歓し、友人であった当時の和田町長とも歓談されました。
平成七年二月十一日、小形義雄氏の四男、治氏が来町されました。八歳の時のブラジル移住なので、三十四年振りの帰国でした。
  (三) ブラジル移住後の小形家の足跡
○昭和三十六年九月四日
横浜港をサントス丸にて太平洋回りで出航。
○昭和三十六年十月十七日
ブラジル国サントス港に入港、四十三日の長い船旅であったが、その日にサンパウロ州のモジダスクルゼス市に行く。
○昭和三十六年十月二十日
生活・開墾等の準備をし、モジダスクルゼス市から二十qの奥地のドトルデオダントにて開墾をはじめる。最初の二〜三年間は、土地を開くのがやっとで、野菜を少々収穫した程度であったという。農業等で自立するまでは、小形義雄一家は人の二倍も働き苦労したが、十年を経て約八へクタールの農地を耕作している。

《ブラジル小形家から立松慎一氏への手紙》

小形義雄氏の妹、小形トシ子さんが草分報徳の立松慎一氏に嫁いでいる関係で、立松慎一氏にブラジル小形義雄氏や息子さんからの手紙があり、立松慎一氏が大切に保管されていましたので、立松氏の了解を得てその一部を紹介し、小形家のブラジルでの足跡の一端として、読んでいただきたいと思います。

○昭和四十六年七月三十日着(長男小形秀雄氏より)
日本の盆踊りを思い出しペンを取りました。
祭りも過ぎ、今はお盆のシーズンで毎晩賑やかなことでしょう。
こちらでも盆踊が、日本人会の行事として、やぐらを組み、太鼓を叩き、そして踊りを楽しみながら故郷を思い出しています。今年でブラジルに来て十年目、日本字がだんだん忘れてきました。

○昭和五十四年二月三日(小形義雄氏より)
お知らせ致します。妻の静江は永い間リュウマチで床に付いていたが、一月十五日〇時三十分に手当の効もなく他界致しました。謹んでお知らせ致します。病院その他に八方手を尽しましたが五十六歳でした。
秀雄が子供三人、静志三人、治は一人、文雄はまだ結婚せず、私は静志夫婦と同居してます。
私は五年前に自動車の運転免許を取り、農機具その他に不自由なく暮らしております。

○昭和五十六年七月二十六日差出(小形義雄氏より)
訪日滞在中は大変お世話になり、お土産までいただきありがとうございます。
ブラジルは今が冬で、六月初めと七月と二回霜が降りましたが、私の地方は被害はないが、南の方はコーヒー・麦に被害がありました。
私の方は人参の出荷で、作付は二町五反ですが、その他色々やっています。成田喜一さんと遊びに来て下さい。

○昭和六十三年九月十日差出(小形義雄氏より)
当地は冬が去り初春です。今はイッペイの花が満開で黄色の花を散らしています。イッペイはブラジルの国花で、日本の桜の様なもので先ず花が咲き散ると青葉が出るので、今が一番の良い季節です。電照ギクを作付しているが、欧米人は花を愛する国民なので、幸いしている。

○平成二年三月九日(二男小形静志氏より)
ブラジルに来て、早くも二十九年を経ましたが、父は車の運転をしています。ブラジルから日本への出稼ぎが多いようで、私も考えているので戸籍謄本を送って下さい。

○平成二年六月四日(長男小形秀雄氏より)
手紙・戸籍謄本を受取りました。私(秀雄)と文雄は観葉植物栽培、静志と浩一はキクの切花栽培をし、治はキノコ栽培をやっています。
私も四十四歳になり、二男二女の子持ちで、静志は一男三女、文雄は二男一女、治は二男一女と子供にも恵まれています。
私と文雄が住んでる所は、リベロンピーレス市で、父の所から車で四十分・約四十q離れているが、日本人も二百五十家族が住んでいるので、日本人会として七月に運動会、八月に陸上大会、九月に盆踊等が行われています。

○平成二年十二月二十日差出(小形義雄氏より)
今は野菜作りをやめて、六年前より電照菊、切花のハウス栽培を三ヘクタール程で、一週間に二回サンパウロの市場に四トン車で出荷しています。壇信徒四〇〇家族のある禅源寺の世話役も四年になり、その間に会館建設を終え、九月に開創三十五周年を行った所です。
孫十四人の七十一歳の爺さんです。トシ子(編注・立松慎一氏の妻)も身体具合が悪いとの事、お互いに歳だから身体に気をつけて暮しましょう。良いクリスマス、新年を迎えて下さい。

○平成五年一月四日着(長男小形秀雄氏より)
父は十六人の孫がおり、モジーダルルーゼスという街に住んでおり、禅源寺の理事長をして忙しいようです。僕の長男は十六歳、長女十五歳、二男十三歳、二女八歳になりました。
ブラジルは治安が悪く、経済が不安定等で日本に出稼ぎに行く人が日系人の中でも増えています。一年半位日本で働くと、家一軒買うことが出来る収入を得ることが出来るようです。
四男、治が静岡県で働いており、二男、静志も昨年十一月から静岡県に行っています。
決してこちらで生活が出来ない訳ではないですが、大変良い収入が魅力で、僕も考えなければと思っています。

○平成八年三月二十五日(二男小形静志氏より)
僕達一家がブラジルに来て、早や三十五年になります。父、義雄が三月十一日午後四時、突然の心臓マヒにて死亡しました。慎しんでお知らせします。
七十七歳の逝去であったが、禅源寺の理事長を六年務めていたので、葬儀には数百人の人に見送られ、父は本当に幸せだと思います。
僕の息子、和義と、娘、美代子が、広島県黒瀬町に働きに行っています。
  (四) 小形義雄家の現在
○小形義雄氏
昭和三十六年八月、四十二歳で一家六人でブラジルに移住、ブラジルで五男浩一が生れ、五人の息子の将来の土台を作り、十六人の孫に囲まれての悠悠自適の老後であったが、平成八年三月十一日ブラジル在住三十五年で七十八歳の生涯を閉じられた。
○妻小形静江さん
夫義雄氏に従いブラジル移住し、五人の息子を育てながらの農業に従事したが、リュウマチに罹り、昭和五十四年一月十五日ブラジル在住十八年、享年五十六歳で逝去。
○長男小形秀雄氏
十五歳でブラジルに移住し、一家の長男として立場で父母を助け、弟達の面倒を見て各々自立させた。観葉植物を栽培し、ブラジル・リベロンピーレス市に住む。日系人ミリア・カズコ・クラハシさんと結婚し、子供は二男二女。
〇二男小形静志氏
昭和三十五年上富良野小学校第五十八回卒業生であるが、翌年ブラジル移住、父と農業をしていたが、その後は末弟の浩一と菊の切花栽培を行う。平成四年十一月、来日し静岡県で働き、二年間働いては帰国、又来日と繰り返している。日系人ローザ・サチコ・サトウさんと結婚し、子供は一男三女、ブラジル、モジーダルクルーゼス市に住む。
〇三男小形文雄氏
十歳でブラジル移住、長兄の秀雄氏と観葉植物栽培を共同で行い、サンパウロの市場への輸送も行っている。子供は二男一女で、リベロンピーレス市に住む。
〇四男小形治氏
八歳でブラジルに移住、現在三十九歳となる。きのこ栽培をやったが、平成三年から来日し、静岡県で働き、ブラジルと日本の往来をしている。日系人ローザ・エイコ・ムライさんと結婚し、子供は二男一女で、モジーダルクルーゼス市に住む。
〇五男小形浩一氏
ブラジル生れで、次兄の静志と菊の切花栽培をしていたが、静志兄が平成四年十一月に静岡県に出稼ぎに行ったので、現地の人を雇って現在は、電照菊切花、ハウス栽培を行っている。
子供は一男一女で、モジーダルクルーゼス市に住む。ブラジルで生れたので、日本の思い出はなく、日本の親戚に手紙を書くこともないという。

掲載省略 地図 上富良野町郷土をさぐる全編「昭和11年頃の街並みと地区の家々」引用掲載
掲載省略 写真 小形義雄家・ブラジル出発前親戚と共に(昭和36年8月24日自宅前にて)
掲載省略 写真 役場に訪れた小形義雄氏と和田町長(昭和56年4月3日)
掲載省略 写真 小形義雄氏、20年振りにブラジルより帰国(昭和56年4月8日歓迎会、日の出会館にて)
掲載省略 写真 四男小形治君が34年振りに上富良野に
掲載省略 写真 小形静江さんの墓碑
掲載省略 写真 お孫さんに囲まれた小形義雄氏
掲載省略 写真 小形秀雄氏夫妻と住宅(中央と右側も)(平成3年12月22日)
掲載省略 写真 小形義雄氏夫妻の男ばかりの5人兄弟
掲載省略 写真 小形義雄氏とお孫さん
掲載省略 家計図 ブラジルに移住した小形義雄家に関わる人々
六、宮崎明善家の足跡と現在
  (一) ブラジル移住への上富良野からの旅立
昭和三十六年九月一日発行の上富良野町公報「かみふらの」第三十七号に、ブラジル・サンパウロ北海道大農友会に向けて、宮崎さん一家八名「南米移住者元気で離町」の見出しで、宮崎さん一家について次の様に記されている。
(尚、名前については「町公報かみふらの」記事に一部誤りがありましたので訂正してあります。)
宮崎 明善さん 五二歳
  ふじみさん 三八歳
  美智子さん 二十歳
  三恵子さん 十六歳
  道行さん 十六歳
  進さん 十四歳
  徳憲さん 十四歳
  順子さん 十一歳
  (二) 宮崎明善氏とは
宮崎明善氏は、明治四十二年七月二十八日に岐阜県揖斐郡徳山村大字開田四十一番地にて、父宮崎與太郎氏、母すゑさんの二男四女の長男として誕生された。
その後、父母と共に上富良野村字中富良野倍本農場(東十二線北二十号)に移住し農業を営む。
昭和十二年に富良野町出身の松浦ハツヨさんと結婚。ハツヨさんは非常に働き者で営農も順調であった。明善氏は、農業の傍[かたわ]ら養蜂、牛飼育を行ったり、ポロピナイ川の水を利用するため側溝を掘って水車タービンを使用と、進取性のある非常に頭脳明噺な人物であったという。
しかし、妻ハツヨさんは昭和二十四年三月二十六日逝去(享年三十四才)され、後添いに藤原ふじみさんを迎えた。
東中開拓記念誌「清流の里ひがしなか」には、養蜂について
『昭和十五年頃、床鍋正則・大石高一、宮崎明善氏等が、東中養蜂組合を組織した組織はその後拡大され、上富良野養蜂組合となり、組合長に床鍋正則氏が就任、会員も二十五名、九百五十群をもつに至った』
と記されており、宮崎明善家の前に住んでいた久崎清吉氏の長男久保喜八郎氏(現在上富良野町本町四丁目在住で、昭和四十四年から昭和六十二年まで農業委員、会長代理を歴任)は
「宮崎さんの家の農作業の手伝いに行って、冷えた湧き水に蜂蜜を入れて飲んだ味は、今も忘れられない」
と語ってくれました。
また、久保喜八郎氏は
「確か、宮崎明善さんは、農協理事もしていた」
との話でしたので調べてみると、昭和四十六年一月十五日上富良野町農業協同組合発行の「組合の歩み」には、昭和二十三年に東中農業協同組合設立に際した定款作成委員に宮崎明善氏の選任が記されてされていました。
その時に委員に選任された方々は、宮崎明善氏の他に、荻野源作、西谷五一、福家敏美、上田美一、床鍋正則、太田晋太郎、中西覚蔵、松浦義雄、竹沢幸雄、向山仁太郎、谷口清作・岩山高松・丸山久作・神谷清五郎、八倉巻藤右工門、鹿島幸一郎、広瀬常治郎、青地繁太郎、岩田喜平氏と東中地区はもとより上富良野町の各界において活躍された足跡を残された方々ばかりでした。
昭和二十三年二月十八日、北海道知事より全道十二番目の総合農業協同組合として「東中農業協同組合」が設立許可されました。
宮崎明善氏は、設立された東中農業協同組合の理事に選任され、草創期の東中農業協同組合の基礎づくりに尽力されました。
創立満五周年記念式(昭和二十八年六月十日)と、創立十周年記念式(昭和三十六年六月三十日)に、退任役員として表彰を受けました。
十周年記念式が実施された昭和三十六年は、宮崎明善氏一家がブラジル移住を決意し、その準備に追われていた年であるのも、何かの因縁を感じます。
  (三) ブラジル移住の夢が断たれる
家族の多かった宮崎家は、子供達の将来を考えて、南米ブラジルに新天地を求める決意をされました。
昭和三十六年八月二十一日に、上富良野町農協主催による三家族代表の激励壮行会で励ましの言葉を受け、昭和三十六年八月二十四日に上富良野駅より、親戚・知人の見送りを受け出発しました。
横浜市にある「移住斡旋センター」に入所し、研修と最後の健康身体検査が行われた。
宮崎明善氏は以前に、馬の飼料として押切りで草を切ってる時に、誤って左手の人差し指を切断されていました。
その様な身体障害では、ブラジルでの農業労働に不適格者と判断され、移住取消しとなり、宮崎明善氏一家のブラジル移住の夢は断たれたのでした。
しかし、子息の道行氏は、父が行けないなら母と子供達で行くと申し出たが、未成年という事で却下されました。
ブラジル移住に備え、土地・家屋等を処分し、農機具等で現地で使用できる物は横浜に送付していたのでした。
北海道の斡旋でブラジル移住を申請したのだから、事前の身体障害等についての注意事項が、明確にあるべきだと強く感じました。
宮崎明善氏及び家族の皆様の落胆の思いは、誠に大きなものがあったと推測されます。
宮崎明善氏と一緒にブラジル移住予定であった「宮崎道行氏(現在藤原姓で横浜市在住)」に筆者が電話しますと、当事の無念さを語られました。
又、移住者斡旋所での短い期間であったが、同年代の子供達とバレーボールを楽しんだ事が、思い出として残っており、筆者が今回の調査で得た「十鳥家・小形家」の同年代の人達の一部消息を教えると、懐かしく聞いてくれ、上富良野から出て四十七年の歳月が流れているのに、あの人は……この人はと、次から次へと名前が自然に出て、その後の消息を聞かれると共に、自分の半生を語ってくれました。

○宮崎明善氏
横浜市・昭和五十八年逝去(享年七十四歳)
○宮崎ふじみさん
横浜市・平成元年逝去(享年七十歳)
○宮崎美智子さん
横浜市・福谷氏と結婚し子供二人。平成十二年逝去(享年五十九歳)
○宮崎三恵子さん
神奈川県藤沢市・内藤氏と結婚し子供一男一女
○宮崎道行氏(現姓藤原氏)米国人女性と結婚、長男は米軍海軍中佐でサンディゴに在住、四月中旬(平成二十年)に息子一家が来日予定。横浜市・子供二男一女
○宮崎進氏
神戸市・子供一男一女
○宮崎徳憲氏
昭和五十三年に一人で、東中に住む叔母の上坂トミノさんを訪ねられている。神奈川県大和市・子供一男二女
○宮崎順子さん
横浜市・柘植[つげ]氏と結婚し子供二男一女。平成十三年逝去(享年五十一歳)

掲載省略 東中地区居住者地図(上富良野町郷土をさぐる会編「昭和11年頃の街並みと地区の家々」引用掲載)
掲載省略 写真 宮崎明善夫妻と子供と孫達(昭和50年横浜市本牧の公園にて)
掲載省略 写真 出発前の移住斡旋センターでバレーボールを楽しむ(昭和36年8月未頃)
むすび
昭和三十九年八月二十四日、大きな夢を抱きブラジル移住に出発した三家族でした。
十鳥家・小形家の人々も来日されていたり、ブラジルで各々の職業で活躍されております。宮崎家の皆様は、行政の不手際で夢は絶たれましたが、しかし日本で、アメリカで各々活躍されています。
今回の調査で、各々の三家族の約五十年の星霜を記しました。

今号の『ブラジル移住に出発した三家族』の取材に際し、左記の皆様にご協力をいただきまして、心より厚くお礼申し上げると共に、次の文献を参考引用させていただきました。
○十鳥家関係/十鳥よしゑさん・川上由美子さん・松崎美智子さん・十鳥美智男氏
○小形家関係/立松慎一氏
○宮崎家関係/上坂トミノさん・藤原道行氏・久保喜八郎氏
○国際協力事業団「海外移住統計」
○在伯北海道協会「在伯北海道大史」
○上富良野農業協同組合「組合の歩み」
○上富良野町郷土をさぐる会「ふるさと上富良野」
○東中開拓記念誌「清流の里ひがしなか」
○江花開基八十年記念誌○江花百年記念誌「さくらの杜えはな」

機関誌   郷土をさぐる(第25号)
2008年 3月31日印刷   2008年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一