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「一本木」は、みんなの待ち合わせ場所

上富良野町東六線北十九号
岩崎治男  昭和十六年四月七日生(六十六歳)

「一本木」とは
「一本木」と言われている樹木は榛[はん]の木で、上富良野町東四線北二十二号斜線道路沿いの住人が、東中地域(部落)となっていた時代で、人々はこの樹木を「一本木[いっぽんぎ]」と愛称で呼び、上富良野市街への休憩点として、何かにつけて活用していた。
東中倍本で現在の十勝岳演習場内にあった佐渡団体、長野農場、森農場、橋野農場、倍本農場と、東中十三部落の住民三十三戸の人々は、上富良野市街に行く道程[みちのり]は約二・五里(十キロメートル)から三里(十二キロメートル)あり、「一本木」は程良い目安となる休憩場所であったのである。
学校児童生徒の集合場所でもあり、東中住民の人々の出征兵への見送りや、葬儀でのお別れの場所が「一本木」であった。

掲載省略 写真 「一本木」と言われた榛[はん]の木…当時
掲載省略 写真 冬の十勝岳をバックに平成の一本木(平成20年1月28日撮影)
「一本木」はみんなの待ち合わせ場所
先生は僕達生徒へ『「一本木」に集まるように……。』と伝えた。
「一本木」とは、東中地区に住む者達の市街へ行く時の目安どころであり、待ち合わせの場所でもあった。
『明日、郊外授業で応援団として応援に行く六年生、リレー出場の競走選手と応援生は、「一本木」に集合すること。』
男子二名、女子二名の四名一チームのバトンタッチで速さを競いあい、上富良野小学校の屋外運動場で行われる、他校リレーの東中チームの応援に行くためである。
昭和二十八年頃、私たち六年生は男女合わせて八十名の二教室で学んでいた。
東中の学校生徒は小学校四〇〇名、中学校二〇〇名の総勢六〇〇名に依る小・中学校合同大運動会が、毎年東中名物の砂ぼこりの巻く季節、六月八日を開催日と定め開催されていた。
東中小学校から、他校リレーには二チームが参加した。
選手は西山正雄、唐崎秋洋、笹出紀夫、岡田誠一、磯松隆男、山本勝子、江森百合子、西谷三重子、広瀬節子等が代表して奮闘、活躍していた。
この頃は自転車は唯一の乗り物で、農村の景気が日の芽が見え始めて、やっと一家に一台くらいしか買えない時代であった。
昭和二十年代、日本の戦後復興が進み自転車の普及と共に、どん車(太い丸太を輪切りにした輪っこに心棒を通し、人力で引く小さな木ばかりで作った荷車)より、農村地帯では、ゴムタイヤで出来たリヤカーが普及しはじめた。
家でもなけ無しのお金でリヤカーを購入し、道路ぶちに積んである燃料用マキ運びや、飯米用の米俵十六貫、(六十キログラム)の移動などに、ちょうほうがられて使用していた。
応援生の学校生徒の多くは、自転車で二列の隊列を組んで、上中の会場めざしぺダルを踏んだ。
当時、優勝旗を賭けて創成小学校を始め、校区を越えて中富良野町立西中小、旭中小、本幸小学校などへも遠征に出かけた。
農村育ちの東中小学校のチームは強く、優勝旗をかついで帰路に就く。「一本木」まで来ると、応援団は『サイナラ』と言って解散をし、てんでばらばらに我が家へ帰っていった。
「一本木」と言われる樹木は、上富良野町東四線北二十二号、斜線道路(通称‥山手線)の角にそびえ立っていた。

掲載省略 写真 他校リレーの遠征
「一本木」は出征兵の見送り場所
太平洋戦争勃発、農家の働き盛りの男には皆、郵送で赤紙が届き、天皇陛下の招集令状により現地戦争に駆り出された。
「一本木」に集まり、千人針の下着や日章旗に檄の寄せ書き、また兵士の名前が書かれた日本帝国軍旗、出征の幟[のぼり]や親戚縁者、友人、割烹[かっぽう]着姿の国防婦人会などの、『万歳、バンザイ』の声に見送られ、日本国のため北方、または南方の戦地へと出兵して行ったのである。
終戦が近づく中、国の動員命令により男達が出兵した後の留守中、進駐軍が上陸して人家に攻め入った事を想定し、国防婦人会が各地域ごとに結成されていた。
国防婦人会は老人、子供、弱い病症の人達を守る為の自衛策として、竹槍・薙刀[なぎなた]などを持って、敵の攻撃を防ぐ防護の訓練を行っていた。
また、空襲による爆弾攻撃に備え、ご飯の炊き出し等の支度などもしていた。
過去のいまわしい戦時中には、ここの地域の人が兵隊に出征する際、上富良野停車場まで見送りするには徒歩での往復は困難を極めたため「一本木」で別れ、代表者だけが上富良野停車場まで行き、蒸気機関車に引かれた客車に乗った兵隊さんに、日の丸の旗を振って見送りしたのであった。

〜 勝って来るぞと、勇ましく
   誓あって国を、出たからにゃ
     手柄立てずに、帰えらりょか 〜

掲載省略 写真 出征の見送
「一本木」前での四国八十八箇所地蔵尊の祭り
「一本木」は、東中市街に向かって右側にあり、左側には、四国八十八箇所の地蔵尊があって、春と秋には町内のお寺さんを招き、霊場祭りが行われていた。参例者の方々は、ご詠歌を唄いお参りをしていた。
僕達子どもは、最後の餅まきが楽しみでお参りに行く。子ども相撲では、行司の『はっけよい!』の仕切りで、相撲を取った。最後には紅白の餅まきをし、何かの行事の時しか口に出来ない餅を拾い、勇んで帰った。
家では、久し振りのしるこ餅を作り、『お前のお陰でおいしいご馳走を食べることが出来た。』とみんなに褒められた。
「一本木」は、葬式のお別れ場所
当時、東中地域で葬式などが出た時、東九線北十五号の東中・旭中の共同墓地(火葬場)で、火葬された。
この墓地には、背丈の小さな加納坊さんがいて、お経を上げ焼き炉に薪をくべながら、人骨がきれいに残るように火葬してくれた。
上富良野西島津にも火葬場(現‥上富良野墓地)があり、こちらを使用する住民は、いったん「一本木」まで参列者全員で見送り、ここでお別れをした。
ここからは夏は馬車、冬は馬橇に遺体の入った棺桶とマキを積み、身内は黒や白の葬式用のうわっぱり着を羽織り、死華花を手でかざし、隊列を組んで墓地へ向かった。
火葬場には立派な坊さんが待っており、丁寧にお経をあげ、遺体を棺桶ごと焼き炉に入れて手を合わせ、お別れをして炉に薪を入れ、点火した。
そうして遺体の火葬が終ると、喪主が割り箸で喉仏を拾い、続いて身内の近い者から順次骨を拾って骨箱に収め、尊い人の命の往生、最後のお別れであった。
「一本木」は、市街へ行く集合場所
私が、東中小学校六年生も終わり(卒業)を向かえようとしている昭和二十九年の事である。
当時の校長先生は、渥美三郎、六年一組担任 岩谷定一、二組担任 吉河 勲、(中途で富良野白井整骨院を継ぐ為、教員を退職)後期担任 畠 三郎。
昭和二十九年春三月、親に詰め襟で金ピカの五つボタンの学生服を買ってもらった。
当時、校章等は東中市街の西谷文房具兼薬店で取り扱っていたので、ここで買い揃えた。
『ごめんください』チリン、チリンと入り口に付けた鈴が鳴り、店の引き戸を開けると和服姿の店主が現れる。
学生帽子には、金と黒に東中をあしらった校章を付け、白いカバーを掛け、真っ白い二本の白線を入れた。
学生服の襟にも、雪の結晶をあしらった白くて小さな校章と、一−B(一年B組)のバッチを付け、中学校へ入る準備をしている頃のことである。
富良野盆地にも春が訪れ、斜線道路は雪解けと共に砂利道のいたる所、馬糞が顔を出し、でこぼこ道が出来ている。
『あした朝九時、「一本木」でおち合おう』と級友を誘い上富良野の市街へ、中学校の教科書を買いに行く。
約束の時間が来ると、友達はそれぞれ自転車で『お早う』と言って、「一本木」に集まって来た。
自転車で「一本木」に集合した級友は、学校の行き帰りが同じ方向だった者で、青地昭夫、反怖良夫、松田繁、吉河逸夫、森谷茂、菊池秀雄、私岩崎治男の面々である。
今のように、学校で教科書を与えて貰えなかった時代、自前で揃えなければならなかったのである。
当時の自転車は、チェーンカバーも無く、ブレーキはリュウームに直接ゴムをこすり付ける、簡単なものであった。
コウスターは付いてなく、完成されたと言える物ではなかったが、私達はこの様な文化的で便利な乗り物に、長い道のりを乗れる事にうれしさを感じ、鼻歌を唄いながら本屋へ向かった。

〜春はどこから 来るかしら
   あの山越えて 野を越えて
     南の里から 来るかしら〜

まず、駅前交差点福屋書店で、中学校から指定された数学と英語の教科書を買った。
小学校では算数と言っていたのを、中学校では数学と言い、どんな内容の事を習うのか興味津々である。初めて習う英語にも、小学校で教わったローマ字とどう関わりが有るのか、興味が湧いてきた。
出版社により、教科書の取り扱い店が違うため、今度は七町内に在る若林書店へ行き、国語、社会(歴史、地理)、理科の本を揃えた。
物資不足の時代、級友の中には兄姉や近所の先輩から、使い古しの教科書を貰い受け、使用していた者も見受けられた。
私は、中学生の先輩から、『中学校に入ったら全書(学校で習う全教科の入った参考書)が有ると勉強するのに非常に足しに成るよ』と、聞いていた。
この店で、『全書が欲しいのですが…』と訊ねてみた。
店主は、この町では全書は書籍問屋より入りにくく、また入ったとしても部数が少ないので、取り扱かっていないと断られ、がっかりしたのである。
我が家は農作業に人手が欲しく、私は義務教育中なのだが、学校を帰るとすぐにカバンを置き、仕事を手伝わされていた。
今の様に、いろんな学習資料や参考書の無い時代、全書を持ち少しでも短い時間で家庭学習をし、学校では皆に余り負けないで行きたいと考えていた。
この時は手に入らなかったが、後に、富良野高校に自転車で通っていた近所の先輩青島達男さんに、富良野の書店より、中学校で習う全科目の入ったすごく分厚い全書を買い求めて来てもらった。
父からは、『農業をする者には学問は要らないのだが…』と前置きされていた。だが、『高い物(全書)を買ってやったのだから、しっかり頑張れよ』と言われた。
後に分かったことだが、父與一は、岩崎家の長男は治男だから、話さなくても当然、百姓(農業)を継ぐものと思っていたようだ。
私は、将来オール機械化時代が到来するとは想像もつかず、労働のきつい百姓は嫌いで、都会へ出て「給料とり」になろうと考えていた。
この親子の考え違いが、中学三年の進路問題に影響を及ぼす事となり、先生方に心配をかける結果となった。
さて、町立東中中学校で使う教科書を買い求め、安心した僕たちは、勇んでぺダルを踏み、店屋の建ち並ぶ大通りから通称、通学通りに曲がり、汽車の踏み切りを越えた。
めったに行けない市街へ出たのだから、『食堂で何か食べて行こうよ』誰から言うともなく意気投合した。
食堂に入るのは皆始めてである。通学通りにあった低い玄関の入り口に、古めかしい「柳谷食堂」の暖簾の下がった食べ物屋を見つけ、恐る恐る入った。
『何を食べる』店の壁に貼ってある食べ物の値段表を見て、皆考える。
『「ラーメン」てどんな食べ物か食べてみたいな』『それに決めようよ』『それがいい』注文の仕方が誰もわから無い。森谷茂が言った。
『「ラーメン」七つお願いします』
しばらくして、大きなどんぶりに入った「ラーメン」が出てきた。
今までめん類はうどん、そば、そうめんしか食べた事のなかった私は、どんぶりの中を覗きこんだ。
毛糸の様なちりちりのめんの上に、海苔とねぎの刻んだのがのった素朴な物であり、「コショウ」を見たのもこの時が始めてであった。
しかし、僕達は生まれて始めて食べ「ラーメン」の味はうまくて『ほっぺが落ちる』とは、この事であると思った。
こうして、六年生最後の市街体験は終わり、帰りは「一本木」でいっぷくをし、自転車に買ったばかりの新学期より中学校で使う教科書を積んで、家路についた。

掲載省略 写真 当時の6年生の仲間達
掲載省略 写真 上富良野大通りの街並みと自転車(昭和29年頃)
「一本木」は、姉の通学路の道しるべ
僕の姉、智恵子(昭和十年九月二十六日生)は、「全書」の参考書の買い物を頼んだ富良野高校に通う青島達男さんと、東中中学校の同級生であった。
姉智恵子の女の同級生数人は、普通高校に進んだ。
農家の娘、姉智恵子もどうするか、悩んでいた時であった。
私の家は男三人、女三人の六人家族で、はやり出した足踏み式ミシンを、東六線北二十号角に店を構えていた西谷ミシン屋から始めて買い求め、女衆は喜んでいた。
姉智恵子は、同じ東中三部落に住む西谷竹男さんから、これからの時代、『手職を身に付けることが一番だよ』と勧められた。
父母たちは、稼ぎ手の足りない我が家では、『百姓を手伝って貰うことが一番良いのだが…』と言いながら、本人の智恵子と話し合い、旭川中央洋裁専門学校へ入れる事とした。
世間の人には、この世の中が『世知辛い時代に農家の娘を、旭川の学校へ通わすなんて…』と、批判の声も有った様だ。
姉智恵子は、旭川中央洋裁専門学校へ入学、汽車へ乗る上富良野停車場まで、自転車通学をする事にした。上富良野市街地で開業していた三野自転車屋から、「ノーリツ号」と言う荷台のでかい新車を買ってもらった。
この自転車は、父與一(明治四十四年十一月三日生)、母きくえ(大正二年三月二十日生)が、野良仕事で汗水垂らして働き、農協へ出荷した米代金で買ったのである。
姉智恵子は、「一本木」が見つめる砂利道の山手線道路一里半(六キロメートル)を、朝夕ぺダルを踏んで往復し、洋裁学校へ通い資格を取った。その後姉は、上富良野町立日新小学校の教員住宅を借りて住まいとした。
日新小学校の教室を利用させてもらい、旭川中央洋裁専門学校日新分校で、洋裁の先生として勤めた。
『岩崎先生、このブラウスの裁断は…』
『先生、洋服の仮縫いは…』
『ズボンの裾あげは、スカートのバンド位置は…』
洋裁生(生徒)から、いろんな質問が飛び交う。
姉智恵子が社会に出て『岩崎先生!』と呼ばれたのは、この時が初めてであった。
その後、美瑛の分校にも勤め洋裁を教えていた。
この頃、東中市街地にも東中青年会館を利用した旭川中央洋裁学校の東中分校が有り、授業を行い一○○名近い洋裁生(編み物生・和裁生を含む)が通っていたが、姉はここでの勤務の機会はなかった。

掲載省略 写真 昭和25年春東中青年会館<後、1階東中岩切診療所。2階旭川中央洋裁専門学校東中分校で使用(昭和30年頃)>

姉智恵子から数えて、十二歳年下に弟充男(昭和二十二年七月五日生)がいる。まだ、学校へ行っていない幼い弟充男は、外でストーブにくべるマキの山に登って遊んでいた。その内、誤って足を滑らせて腕を骨折したのだ。
弟充男は、旭川市の森山整骨病院で診察を受け、姉智恵子の自転車の荷台に乗せてもらい、毎日「一本木」を見ながら通院を続けた。
夏、七月・八月の炎天下、充男の腕の骨折を完治させるまで二ヶ月以上、新聞紙に包んだおにぎりをカバンに入れ、通学自転車の荷台に弟を乗せて「一本木」を見ながら、山手線の砂利道を通い続けた。
姉は、大変な苦労をしたと思う。
しかし、野良仕事をしなければならない父母に代わり、弟の面倒を見守る辛抱は、しなければならない事で有ったのだろう。
この姉弟の二人三脚を、「一本木」は知り尽くしているのだろう。
この間、野良仕事の忙しい我が家の夕飯の支度は、当時僕の妹節子(昭和十九年四月二十二日生)がやっていた。
東中小学校三年生だった節子は、お昼に母きくえが磨いでおいたお米を薪[まき]ストーブに掛け、ごしょ芋とダシコ(干した小魚)の入った味噌汁を作っていた。
日が暮れ、暗くなった茶の間のはだか電球の下で、丸い飯台を囲み、家族六人揃っての夕食を取りながら、今日一日の出来事を皆で話し合う。
父與一は刻みタバコを長いキセルに詰め、囲炉裏のはたで満足そうな微笑をうかべ、楽しいひと時である。
「一本木」(榛[はん]の木)の歴史
「一本木」と言われる樹木は、東四線道路の東側つまり、現在のポンプ場(平成十七年十月使用廃止)=旧東中土地改良区(現‥富良野土地改良区)の水田かんがい用水のため使用する、揚水機場の管理棟横にあった。
直径約四尺、樹齢約一〇〇年、立木高約五〇尺(約十五b)の「榛[ハン]の木」が存在していた。
このように、時の流れの良きにしろ悪しきにしろ、市街に向かって行く用事の度に、「一本木」を目印に集合場所とし、団体となって行動したり解散をしたりと、何かにつけて利用していた。
昭和三十五年の台風によって倒木するまで、東中、富原地域の人々の生活風習、時の流れや数々の歴史を、富良野盆地のこの地で、風雪に耐えながら見つめてきた由緒のある樹木であった。
地域の人々に親しまれた「榛の木」が「一本木」の愛称で長く愛されてきたが、倒木により処分処理されて、いまは跡形も無くなっている。
今只あるのは、先人や親からの数少ない昔話として語り継がれると共に、心に残っているだけである。
二代目「一本木」は「北辛夷[きたこぶし]の木」
この「一本木」のことをよく知っていた上田美一氏(故人、元東八線北十八号に在住)が、復活、復元をしたいと願っていたのであった。
本人自身、高齢化しており、上田氏自身で代木の苗を植樹したとしても、自宅から離れているため、本人自らこの場所に来る事も出来なくなるし、ましてや、今後の維持管理をして行く事等を考えて悩んでいた。
そんな折、「一本木」の近くの田んぼを耕していた荻野孝一氏と出会い、この話をしたのである。
荻野孝一氏は、上田美一氏の願いと共にこの話を理解し、その熱意を受託して、昭和五十三年頃北二十二号道路の南側、斜線道路の北側の空き地に「榛の木」に変わる木として、「北辛夷[キタコブシ]の木」の苗木を「一本木」として植樹した。
その後、この場所がバスの停留場になった為、バスを利用する子供達が、乗車するまでの待っている間、遊び場と成り、小さな北辛夷の苗木が踏まれたり、折られたり、芽生えた葉をちぎられたりの繰り返しの連続で、苗木の育つ暇がなかった程だった。
この様な中、荻野孝一氏は、苗木を育てる困難を乗り越え、平成十年上富良野町開基一〇〇年及び東中開拓一〇〇年に合わせて記念植樹した。
北こぶしの苗木はすくすくと育ち始め、荻野孝一氏の「一本木」にはせる情熱と努力、上田美一氏の思いが通じたのでる。
現在では樹高六〜七メートルの樹木に育ち、平成の「一本木」として、今後、地域の人々の理解と愛情を頂き、管理をしていきたいものである。
「一本木」保存会の設立
今回、道々上富良野旭中富良野線=東四線北二十二号・斜線道路改修工事・交差点整備に伴い、植林した樹木「北辛夷」の土地が、北海道に譲渡せざるを得なくなった。
「北辛夷の木」も当然、譲渡することになったが、地域の長い歴史の中での樹木である為、伐採処理を避けて欲しい旨を旭川土木現業所富良野出張所に申し出たのだ。
旭川土現は、地元で維持管理を行うと言うことであれば、伐採処理は行わない事とすると言ってきた。
樹木の、植わっている現在の土地は、北海道旭川土木現業所の所有地を借用していることになる。
「北辛夷の木」を保存するに当たり、この話しを進めて頂いた糟川昇氏(富良野土地改良区職員)が、この木を植えた荻野孝一氏、斜線道路改修工事促進期成会長(岩崎治男)を交え話し合いの結果、この促進期成会が維持管理と、保存を行なっていくこととなった。
平成十七年十二月に斜線道路促進期成会役員会を開き、地域歴史のシンボルの記念樹木、二代目「一本木」を、保存継承して行く事に決定した。
この保存会立ち上げを一番喜んで呉れたのは、「一本木」に関心を持ち、二代目の「北辛夷の木」を植え育てて来てくれた相談役、荻野孝一氏である。

東中・富原の歴史のシンボル記念樹木
  「一本木」「北辛夷の木」保存会の役員
相談役 荻野孝一
会長 岩崎治男
副会長 大角勝美
副会長 小田喜美男
事務局長 大谷剛
事務局 糟川昇
この二代目「一本木」(北辛夷の木)が樹齢三十年を迎える平成三十年頃には、一代目「一本木」(榛の木)に負けない平成の大木となって、凛々しい雄姿を見せてくれることを願って、保存に力を注いで行きたいと思っている。
東にそびえる秀峰、十勝岳を眺める肥沃な大地に、「こぶし咲く立ち木」として、地域の皆様と山手線道路を通行される方々のご理解と、行く末永く愛され続けられます事を期待しながら、「一本木」の歴史の流れの記とさせて頂きます。

 〜一本木
      地域の歴史を
          知りつくす
    みどり豊かな
          愛称樹〜

掲載省略 写真 2代目一本木(北辛夷の木)平成17年撮影

機関誌   郷土をさぐる(第25号)
2008年 3月31日印刷   2008年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一