郷土をさぐる会トップページ     第25号目次

ふらの原野開拓のあゆみ (その二)

上富良野町錦町
野尻巳知雄  昭和十二年三月三十一日生(七十一歳)

蝦夷地は流人と熊の住む島
明治政府は、蝦夷地を北海道と名称を改め本州からの移民導入を試みたが、一部の有識者を除き依然として北海道は遠い僻地にあり、「流人と熊の住む恐ろしい島である」との認識が一般的であった。このような北海道にたいする認識は戦後の昭和三十年ころまで続いていたのである。
では、そんな認識であった北海道にどのようにして移民が住み、開拓されていったのであろうか。
明治の初期の開拓民は「募移民」といい、主に個人を対象に《三年間の暮らしは保証する、開墾して畑にした土地は無償で払下げする、北海道への渡航費も支給する》といった好条件で移民の募集を行った。しかし、鬱蒼とした原始林を切り開き農地を開墾する事は予想を遥かに超える難事業で、大木を切り倒して道路を付け、クマ笹を刈り荒地を開墾することは、一人や二人の少人数では途方も無く困難な仕事であった。
そのため、多くの個人移民は役所がくれるお金やお米だけを当てにして遊んで暮らし、政府が生活を保証した三年を過ぎると、内地に逃げ帰る者も少なくなかった。
政府はこれらの反省を踏まえ、個人による入植移民の募集をやめ、自分から進んで荒地と闘おうとする強い意志と、強靭な体力を持った士族や、大きな資本によって小作人を集めることが可能な資本家を中心に募集することとした。
そんなころ、新政府と戦って敗れた東北各藩の士族が土地を失い、生活を維持する事ができなくなって来たため、北海道に新たな新天地を求め、荒地を開墾して新しい生活を築こうという集団が現れてきた。
一方、新政府による改革によって、東北地方ばかりでなく職の無い士族が国内に溢れ、生活を維持することが困難となってきたため、それらの士族の救済が急務となってきた。また、当時ロシヤからの侵入を防ぐ北の守りが手薄であったことから、北海道の開拓に合わせて北の守りを固めることが求められていた。
これらの解決策として失業士族の救済と北の守りを兼ねた屯田兵制度が考えられ、屯田兵を全国から募集して開拓と北の守りに当てることとした。このように開拓民の多くは職を失った士族集団と北の守りを担った屯田兵によって進められて行ったのである。
また、僅かではあるがそれらの移民集団を支える商工業を営む少数の移民や、北海道の新天地を夢見て各地からやってきた落ちこぼれ士族と、土地の無い農家の二・三男の家族などが小作人として住み着くようになった。
これらの開拓士族集団や屯田兵集団には、政府は手厚い保護を設け、入植してから開墾によって生産を可能にするまでの期間は、生活に必要な物資の支給を行い、生産した農産物を買い上げるなどの手厚い施策が施されたが、単独入植者には僅かばかりの援助しか与えられなかった。
明治初期を過ぎた頃には、効果の薄い個人入殖者への土地無償払下げ制度を廃止し、明治五年に「北海道土地売貸規則」を制定し有償で土地を売下げる事とした。
この制度は土地の等級を三区分し、千坪単位で「上」の土地は一円五十銭、「中」の土地は一円、「下」の土地は五十銭とし、有償で土地を売下げた後、開墾その他で着手しない場合は、「上」の土地は十二ヶ月、「中」の地は十五ヶ月、「下」の地は二十七ヶ月を過ぎると返地させることになっていたが、中には一部着手して全体を所有し、他に転売する者もいた。
資本も無く夢だけを求めて移住してきた移民は、
土地の払下げを受けるだけの資金(千坪一円で三万坪以上)も無く、自分の土地を持つ夢もままならないまま、戻る土地の無い人々は、資本家に雇われ、小作人となって細々と暮らす道を選ぶ者が多かった。
これらの状況を「北海道秘録」(若林功著)に詳しく載っているが、その中から主なものを抜粋した。
移住民の保護と援助
《移住藩士の入植者には、旅費と家が支給されたうえに、耕馬も農具も与えられ、夜具(大人は掛け、敷き二枚、子どもに掛け一枚)までも用意されていた。そして三年間つづけて米、味噌が無料配給で、小遣銭までくれたのだから、こんな有難いことはなかった。(明治五年〜七年には、大人には米七合五勺と菜料五十銭を支給)だから彼らは官給移民とよばれていた。おまけに土地を開墾すれば十アールについて二円の開墾料がもらえた。
さてその土地であるが、ナラ、カバ、イタヤ、ニレなど、二かかえもある大木が立ち並び、その下にはクマザサが密生して足も踏み入れられぬくらい。
こういう土地を前にして、郷里では鍬をもったこともない連中が立ち向かったのであるから、事態は深刻であった。木を刈り倒すすべも見当つかず、専門のそま夫をよんで倒し方を教わって、どうにか樹木を切り倒したが、樹木は縦横に乱れ敷いて地をおおっていた。
枝を打ち、木と木の間をあけて、わずかずつ畑にしていった。開墾さえすれば土地はなんぼでももらえたのだが、経験も乏しく何から何まで官給されていたので、生産意欲も、土地への執着心も薄かった。
『多少でも金ができたら家卿に帰えろう』、という腹の者が多く、豊かな城下住まいを忘れえぬ母親の淋しさがるのにひかれて、三年経って給与がきれると、さっそく逃げ出す者が多かった。二〇四戸の移住が七十五戸に減っていた)》
《明治十二年十月二十九日、移民一一七戸、四八〇名は七組に編成されて、阿波の国から「住の江丸」で航海十五日をかけ、小樽に着いた徳島移民をみると、一行の到着をむかえた開拓史からは、各戸ごとに玄米一俵、みそ十貫、醤油一樽、むしろ二十枚、わらじ二十足、縄一丸、ほかに炊事用具など。それに小屋料十円と種子代一円五十銭が与えられた。また、鍬大小三丁、鎌二丁、山刀、ノコ、ヤスリ、砥石も支給された。
それから、十八ヵ月間は次のような生活費が貸与された。
十五歳以上は一日玄米七合五勺、塩噌[えんそう]料二銭七厘、子どもには米五合に一銭三厘、乳幼児には三合と八厘ずつ、これを四年目から三年年賦で償還するという援助であった。》

と記載されている。(この政府からの援助は、後に記述する三十年頃の小作人募集条件と比較すると、この時期の官給移民制度が如何に恵まれていたかが良く解る。)
注: 明治十二年の米の価格は一石(十斗 約一五〇キロ)六円六十銭である。
結社移民
明治十年ころから世の中が不景気になり、士族ばかりでなく民間人も暮らしに困る人が増えてきた。
このような暮らしに困る人々を雇い、共同で会社を興して北海道を開拓しようとする動きが出てきた。
明治十二年六月、和歌山県士族で銀行経営者の岩橋徹輔は岩倉具視の援助で士族授産の一環として、北海道開拓を目的に「開進社」を創立した。失業士族に出資を呼びかけ資本金二百万円で会社を作り、全道に三十八箇所、十万f(十四万一〇〇〇町歩)の土地を無償で払い下げを受けて、これを十五ヵ年で開墾する計画で許可を受けた。資本金一株につき五町歩を配当する計画で、西洋機械を導入して生徒四十人余りに西洋農法を訓練し、道南の乙部、長万部、岩内などで本格的に事業を開始したが、開墾したのは五五〇町歩だけだった。十五年、岩橋は社長を辞任し、十七年会社も解散した。
その後、明治十三年には兵庫県士族鈴木清らが赤心社を設立し、浦河郡に九三〇町歩の貸付を受け入植したが、開墾は困難を極め、株主への土地配当をやめ、小作人に開墾地の四割を社有地として小作させ、六割を自作地とすることで二十二年になってようやく、耕地は貸付地の四分の一の二四〇町歩となった。
このほか、十四年に伊豆の豪農依田勉三らが帯広に晩成社を設立し、十九年には新潟の士族・豪商らが江別に北越殖民社を設立して開拓に当ったが、成功したのは小作人に一部の土地の所有を認めた会社のみで、ほとんどは計画通りに開拓は進まなかったものが多かった。
屯田兵の募集と援助
北海道開拓で成功した屯田兵制度は、どのようにして生まれ、どのような援助で開拓にあたったのであろうか。
明治維新後、ロシアの樺太、千島への侵略は年毎に悪化していった。
明治七年六月、開拓次官黒田清隆は先に提言した農兵屯田による開拓と兵役を兼ねた「屯田兵設置」の建白が政府に認められ、屯田憲兵事務総長と併せて陸軍中将に任じられて、三ヵ年で兵員千五百人、
家族あわせて六千人を募集することとなった。これらの募集は主に明治の変革によって無職となった百二十八万人余の士族の救済として始められたが、開拓の困難と北海道のイメージは改善されず、明治二十三年に屯田兵条例を改正して、屯田兵の資格は平民にまで広げられて行った。
屯田兵の援助では、移住の支度料として十五歳以上一人二円、十五歳未満は一人一円(二十七年以降は一戸五円)を支給し、出発にに際しては出港までの旅費として距離により、十里の場合で七歳以上一人三十三銭、七歳以下で半額が(二十三年から三十銭)支給された。その外荷物運搬費として一戸馬二頭分で二円六十銭、渡航費は全額、到着すると家屋は現物、家具は鍋大中小各一個、鉄瓶、椀類、手桶、小柄、担桶、炉具、夜具など、農具は鎌、鍬、砥石、山刀、鋸、鑢[やすり]、筵[むしろ]、種子は麻一斗、大麦一斗、小麦一斗、大豆一斗、小豆五升、馬鈴薯四斗、宅地五反、耕地一戸一万五千坪を現物で支給された。
更に、移住から三ヵ年間は扶助米を十五歳以上一日玄米七合五勺、十五歳未満七歳まで一日五合、七歳未満は三合と、塩菜料として十五歳以上一日一銭五厘月五十銭、十五歳未満七歳まで月三十七銭、七歳未満二十五銭が給与され、病気治療は無料、死亡の埋葬料も支給された。
このように、明治初期の藩士や屯田兵の移民には手厚い保護と援助がなされた。しかし、これらの援助物資は、売買はもちろん質入も許されなかった。
注: 明治七年の米の価格一石四円七十銭である。
開拓生活の政府からの援助も三年で終わり、次の年からは生産物で収入をあげていかなければならなかったが、開墾は思うようにはかどらず、集団で入植した地域では、大量に収穫した農作物の販売が思うようにならなかった。生活に困った入植者は生産物を開拓使に持ち込み、開拓使はこれらを販売するために加工工場を次々と建設して処理に当った。
では、一般農民の移民に対する援助はどのようであったのであろうか。
少ない一般移民への援助
明治十二年四月開拓使は、農民の移住に対しては「北海道送籍移住者渡航手続」を定め、開拓史付属汽船に搭乗させ、船賃及び船中滞留費は自弁であるが手荷物は無料、その他の荷物は定額の三分の一で運送するほか、仮家作料・農具・種子料の支給を行って移民の保護に努めたが、士族・屯田兵とは比べものにならないほど少ない援助であった。
当時の北海道の移住について、新聞で「一日も早く北海道に移住して安い土地を買い込めば、孫子の永代に残す何よりの方法である」との記事に誘われたり、明治十三年にとられた明治維新後に乱発した「不換紙幣」の整理方針によって、急激な米価の暴落を受け、土地を手放す農家が続出して、集団で北海道に土地を求めて移住する希望者が激増していた。
しかし、希望しても選定した土地の位置や範囲の確認に手間取り、土地の貸下げは中々許可にならなかったので、願い出てから移住できるまでには相当の日数を要し、長い間待たされることも多かった。
その間家族がわかれわかれになって魚場に働きに出たり、畑仕事の出面に出て生活を続けることも珍しくなかった。
一方、資本のある者は役人にコネを使い、図上をもって大地積の利権を買い取って将来の値上がりを待つ者も出てきた。
このようないろいろな問題をかかえながら、北海道の開拓が進められていったのである。
開拓使を廃止して三県に分割
開拓使は北海道開拓に一〇年計画を作成して進められてきたが、一〇年計画が終了する明治十四年に、長官黒田清隆は赤字続きの官営事業を民間に払下げようとした。
しかし、払い下げをただも同然の価格と薩摩藩を中心に組織した会社などへの払い下げであったため、北海道に君臨する黒田王国の批判と政商が取り乱れ、政争の材料となり十四年十月、政府は開拓使官有物払下げを中止するとともに、十五年一月に開拓長官を黒田から同じ薩摩出身の西郷従道[つぐみち]に交代した。二月には開拓使を廃止し、十六年には農商務省に北海道事業管理局が新設されて管理事業の主要部分を管轄したが、北海道を函館、札幌、根室に分割して他府県と同様に三県を置くことになった。
三県分治時代の北海道は警察署・警察分署の増設と郡役所・戸長役場の整備が進み、警察・収税・監獄などの官員が増大した。この時期は新規の開拓事業はほとんど無く、集治監開設と士族移住を全国的に展開するにとどまった。
集治監開設の主な目的は囚人による労役を求めたもので、開拓地の開墾と炭鉱労働、硫黄採掘、屯田兵屋建設などに当てられた。
この時代の移民政策は、政府の財政難から次第に縮小し、明治十六年四月に「北海道転籍移住者手続」を定め、無資力の者は歓迎しないこととし、移住後に自活できる資力を持つ自費移民を期待し、移民の対象を貧民から資力のあるものへと切り替えを図っていった。また、士族団体の開拓が成功していることから、団体移住を奨励し団体移民に対しては土地を無償貸与し、成功後七年間は借地料免除などの特典を与えた。
明治十九年一月矛盾の多かった三県一局制を廃止して北海道庁を設置し、初代長官に司法大輔の岩村通俊が就任した。
個人移住から資本移住へ
明治十九年までの開拓史・三県時代は、直接保護のもとに自作農民の移住に重点がおかれていたが、岩村長官はこれまで国の保護政策によって進められてきた北海道の開拓を、資本移住によって進めることに主眼をおき「北海道転籍移住者手続」・「北海道土地売貸規則」を廃止して、新たに「北海道土地払下規則」を公布した。この制度は、今までは先に有償で土地を払下げ、一定期間内に開墾が進まないと、返地させる内容であったが、新制度は先に無償で土地を貸付け、一定期間内に開墾が成功すると、有償で払下げることとした。
改正では、一人一〇万坪以内を貸下げ、貸下期間は一〇年以内、全地成功の後一〇〇〇坪一円で払下げ、一〇年後から地租、地方税を課すこととしたが、特別許可により一〇万坪以上も認めるような、財閥に有利な抜け道もあった。
団体移住政策
明治二十四年、永山武四郎から北海道長官を引き継いだ渡辺千秋と北垣国道新長官は、従来の土地処分政策を厳しく批判し、大資本家に有利な土地払下げ制度や、利権を欲しいままにしていた道庁職員による土地所有を改めるとともに、開拓精神旺盛な自作農中心の移民政策を進め、開拓農地の拡大を図るために、団体による「自作団体移住者規約標準」(団体移住者は総代を選んで団体移住前に調査して土地を選定した後に、貸付地を三年間だけ予め用意する「貸付地予定存置制度」により貸付地の許可を受ける)を定めた。
移住するためには、まず、開拓地貸付の手続きの外に開拓資金の用意をしなければならなかった。
明治二十六年に移住希望者向けに作成した「北海道移住費概算」によると、個人・団体を問わず、開拓に要する一戸四人(大人二人、老人、子供)の移住初年度に必要とした資金は、百三円十五銭五厘である。内訳は、家屋として仮小屋の建設費が十八円三十二銭、鍋・食器・桶・灯具など移住時に持参すべき家具が八円六十二銭、開墾に必要な農具二十二円五十一銭、入殖後一年分の食料が五十三円六十三銭五厘となっている。
この外、移住には家族の渡航費、種苗の購入費なども必要であり、交通の便、家族の多少によって算出額も違ったが、単独や団体にかかわらず自作農として移住するためには、高額な資金を事前に調達しておく必要があったのである。
注: 明治二十六年の米の価格は、一石六円六十銭である。
土地制度の変遷
北海道に移住が増えていく中で、政府は土地の所有に対してどのように考えていたのであろうか。
明治政府の考えでは、土地は基本的には国の所有とし、明治二・三年頃までは省、府、藩、士族に支配地を与え、支配地の管理、開拓、入植をまかせて、開墾耕作に従事した者には土地の「割渡」を行い、「永代用役権」を与えていた。(当時は「割渡」を受けた土地は無償で下付された。)
明治四年八月に、府、県、華士族寺院等の北海道における支配地の管理が被免となり、開拓使がすべて管理することとなった。翌五年九月に「地所規則」「土地売貸規則」を制定し、九年十二月には「北海道地券発行条例」を公布してようやく土地の所有権が確立されるようになった。
最初の頃は、移民の願いによって永代用役権による自由な利用を認めていたが、「土地売貸規則」により、永住人(戸籍を北海道に転籍する)が従前から使用していた宅地や、新しく開墾した土地には「地券」を発行してその所有を認め、分割、売買、譲渡、質入等も所有者の自由となった。
注: 「土地売貸規則」では、未墾地を願い出ると十万坪に限り、三区分に分け、上地は千坪一円五十銭・中地は一円・下地は五十銭で払下げを受けることが出来た。ただし、土地売り下げ後、開墾その他で着手しない場合は、上地は十二ヶ月・中地は十五ヶ月・下地は二十七ヶ月を過ぎると返地させることになっていたが、中には一部だけを着手して全体を所有して他に売買する者もいた。
しかし、一攫千金を夢見るような出稼ぎ人(戸籍を北海道に移籍せず一時的に北海道に居住する者)には、使用する宅地や自ら開墾した土地についてもその所有権を認めず拝借地のままであった。
これらの制度は、予め必要な土地を測定することもなく自由に土地の利用が認められており、土地の所有権を確立するための「地券」の発行を受けるときに、はじめて測量を行い地籍の確認が行われていた。だが、これでは不整形な小地籍の土地が錯綜して農業経営上不便が生じたことから、開拓顧問の外国人の献言を取り入れ、明治十九年に外国で実施されている土地の区画制度を導入し、土地の払下げについては「北海道土地払下げ規則」を制定して解決を図ることとした。
注: 明治十九年六月に公布された「北海道土地払下げ規則」では、土地払下げ希望者は、願書に地名・坪数・事業目的・着手の順序・成功の程度を記入し、貸下げ期限は、耕地は十万坪以下十年以内・六万坪以下八年以内・三万坪六年以内・六千坪以下四年以内、宅地は三年以内、牧場は十年以内に事業が完了することとし、売上代金は全て千坪一円とした。貸下げ地のままでは他人に譲渡出来ない。
植民地区画選定事業
明治二十三年、道庁は土地制度の円滑な運用を図るために、予め処分する国有地を一定基準に基づいて測定し、一定の大きさに区画した図面を作成して土地を処分することとした。
この制度改革による「殖民地区画選定事業」により、処分される土地の位置及び面積が明瞭となって、一時に多数の移民を受け入れることが可能となり、しかも速やかに土地を処分することが出来るようになった。
その面積・形状は集団による移住農民の経営に適したものとなり、新村落を形成するために必要な道路、排水、市街地に官衡、学校、病院、寺社、そのほか墓地の敷地など、農村生活の確立のために必要な予定地を予め設定することが出来た。
土地の区画は、まず基線を設け、基線と直角に交わる基号線を作り、三百間毎に基線目に道路を予定し、一区画を三百間四方の地積九万坪を中区画とし、中区画が九個による九百間四方のもの地積八十一万坪のものを大区画に、中区画を六等分した百間に百五十間一万五千坪(五町歩)の一区画を小区画として、小区画ごとに農家一戸を入れることとした。つまり、大区画には五十四戸分の団体移住が可能となったのである。
道路網の整備
内陸部の開拓地を切り開くには、何よりも道路網の整備が急務であった。開拓史以来、政府は長らく道路の大工事が行われなかったが、岩村長官は明治十五年に、会計検査院長として北海道各地の視察を行った折、その報告書の中で、上川原野の沃野を開拓し、各県より戸数一万四千戸、人口七万人の移民を移住させ、ここに皇居を設けて仮の宮とし、「北京」を置くことを建議していた。
それらの実現のためにも、石狩原野から内陸部の上川に通じる基幹道路の開通を最重要課題とし、それより十勝、釧路、根室、北見に通じる道路網の整備を進めることとした。
明治十九年に岩見沢から忠別太までの仮道路を開通させ、二十年に北海道を横断する基幹道路のルートとして、上川から富良野原野を通り、十勝・釧路・根室に通じる十勝道路が計画されていたが、明治二十一年六月十五日に、屯田兵本部長であった永山武四郎が新しい北海道長官になると、横断する中央道路のルートが変更され、二十二年に囚人を使って中央道路の開削に着手したのは、十勝道路ではなく北見から網走に抜ける北見道路であった。
富良野原野を横断する十勝道路の着工の時期は定かでないが、明治二十六年に上川郡に離宮を設けるための西御料地の農地区画測量で、美瑛川支流の辺別[べべつ]川まで、直線道路が開削されたのが、十勝道路のはじまりと言われている。
その後の工事は、「北海道拓殖年報」(明治三十年)によると、

《二十九年に美瑛原野の貸下げ開始以来、開墾に従事する者が増えているが、未だ道路が開通しておらず、交通運搬に甚だ不便を期たしているので、本年度において同原野区画の中央九線よりベーベツ太(現旭農場付近)まで工事を施行し、既成道路まで連絡し、旭川市街地まで開通する。今後、逐次本原野よりフラヌ原野に連絡して十勝原野に貫通させ、交通の便を図るものとする。本工事の延長は三里三十三町六間、幅一間、工事費金四千五百六十七円で、本年十一月十一日起工し、未だ竣工していない。》

このことから、美瑛原野までの道路工事が明治三十年十一月に起工し、竣工は三十一年に亘っていたものと思われる。上富良野に入植した開拓者の記述でも、

《入殖時は道路らしきものはなく原始的な刈り分け道路であった》

とあるので、富良野原野までの道路工事は、早くても三十一年以降に着工されたものと思われるが、「旧村史原稿」によると、上富良野管内での最初の道路開削について、

《始めて道路を開鑿[かいさく]せしは、明治三十一年にして田中常次郎氏が道庁より工事を請け負い、団体住民を使役して金子農場山際より二十六号に至る道路を設けたり》

と記している。
また、「北海道拓殖年報」(明治三十一年度)には、明治三十一年に上川市庁が施工した道路として、

《美瑛・フラヌ間仮道路延長三里工費二千四百六十四円》

と記されているので、美瑛までの工事に引き続き、美瑛・フラヌ間の道路も施工されたものと思われるが、距離・工事費を旭川〜辺別間の工事と比較すると、金子農場まででは長すぎ、工事費も少なすぎるので、その間に別の工事があったものと推測されるが詳しくは不明である。
いずれにしても、フラヌ原野での道路は、三十一年以降に施行され、入殖時には刈り分け道路しかなかったことが伺われる。
鉄道開通と開拓の推進
北海道に鉄道が敷設されたのは、幌内炭鉱から小樽港まで石炭を運ぶために計画されたもので、明治五年の品川〜横浜間の開業、明治七年の大阪〜神戸間開業に次ぎ、国内で三番目に早く着工された。明治十三年に手宮〜銭函間が開通し、明治十五年に手宮〜幌内間の全区間で開業された。一日一便の運行であったが、この鉄道の開通により、北海道の開拓は飛躍的に進展することになった。
鉄道の開通によって、港から開拓地までの移動が楽になり、舟や駄馬で運んだ荷物や人の移動も、短時間に多くの荷物を運ぶことが出来るようになった。
整備の進まない仮道路で急な坂や、丸太を渡しただけの仮橋、危険な崖に添った道などで難儀した移動も、鉄道によって老人や幼子でも楽に移動することができるようになった。
物価も何日もかかって運ばれた品物の輸送が便利になって安くなり、開拓の困難が少しずつ改善されてきたため、鉄道に近い石狩地方や空知地方では、急速に移民が増え開拓地が広がって行った。
明治二十五年には小樽から空知太(現滝川付近)まで鉄道が開通したことから、鉄道沿線の原野には次々と団体による本州各県から開拓者が入殖してきた。
明治二十五年、ときの北海道長官渡辺千秋は北海道中央鉄道計画を立て、空知太から永山村に至る線、空知太から空知川沿いに十勝を経て根室に至る線、標茶・網走間に延長する計画案を帝国議会に提案したが調査不十分として鉄道案は削除された。
(この計画には富良野原野に至る路線は入っていない。)
明治二十五年九月に上野〜青森間に鉄道が開通したことによって、二十六時間で青森に到着出来るようになると、北海道内においても鉄道建設促進論が活発に行われるようになり、議会への運動も盛んになってきた。
内務大臣井上馨は、二十五年十一月から二十六年に開かれた帝国議会において、北海道の鉄道敷設を進めるに当り次の三つの要件を示した。

第一は地域の発展繁栄につながること。
第二は工事容易な路線を選定すること。
第三は予想路線を比較して緩急をつけた計画を立て、拓殖上・軍事上・交通上・運輸上最も必要なところを優先すべきである。

この三要件を基本に次の三路線の計画がが示された。

その一 空知太から上川に出て、フラヌ原野を経て十勝中央を貫き厚岸に達する路線
その二 上川から宗谷に達する路線
その三 上川から北見・網走を経て東方線に連絡する路線

これらの計画は、明治二十九年二月に衆議院、貴族院の議決を得て同年六月二十二日に工事が着工されたが、当初渡辺長官が計画した路線には富良野原野を通過する十勝線のルートは示されていなかった。十勝線が最重要路線として計画されたのは、地形的にも経費が安く、肥沃なフラヌ原野・十勝原野の拓殖が進んで来たためと思われる。
富良野盆地を横断する鉄道計画により、フラヌ原野への入殖が便利になり、物流の移動も容易に出来ることが予想されて、富良野盆地への入殖希望者が激増して来るようになった。
フラヌ原野の調査
富良野盆地を最初に踏査したのは、安政五年に松浦武四郎であることは先の号で述べたが、その後、明治十四年と十五年に札幌県で札幌・根室間の道路予定線を選定するために、内田瀞[きよし]、田内捨六、藤田九三郎が調査に当った。十四年には海岸から調査し、十五年に田内、藤田の二人が空知川を遡って富良野盆地に入り、それから滝川に戻って旭川を経由してフラヌ原野を南下している。
この時の調査報告により、内陸部の開発に必要な内陸部横断道路として、石狩川筋から上川平野を通り、十勝平野に抜けるコースである十勝道路の開削が提示された。
明治二十年、柳本通義、副手一人、測量工夫七人により、フラヌ原野の殖民地選定事業が行われたが、一向に進まない十勝道路の開削工事の開始がネックとなって、フラヌ原野の開拓の道は閉ざされたままになっていた。
当時道庁では、殖民地の選定がされてもすぐに開放するのではなく、道路・鉄道・港などの殖民地への交通網が整備され、移住環境が整ってから漸次開放する方針を取っていた。
明治二十六年九月十四日の『北海道毎日新聞』では、そのことについて次のように報じている。
「漸次区画割を施し、小地籍は隣地との境界及び道路敷地を定め接続地図を製し、整然区画を為せる後、地理課より殖民課に引渡し、同課を経て之が貸下げを為す方針なりと云う」
明治二十六年に計画決定された十勝線道路の工事開始と、二十九年に計画が示された上川鉄道の延長計画により、内陸部の国有地解放の機運も高まって、富良野地方にもようやく開発の火が灯り始めたのである。
団体移住者の増加
明治十九年に制定された「北海道土地払下げ規則」では、一定期間無償で貸下を受けた未開地を十年以内に開墾し、成功確認を受けた後は千坪一円で払下げを行うことになっていたが、それは、大資本家を対象に定められたものであり、単独移住者の場合はよほどのコネか手ずるが無ければ未開地の貸下げを受けることは出来なかった。
また、運良く貸下げを受けることが出来ても、道路も鉄道も無く大木が繁る原始林を、一家族で最低六千坪(二町歩)を四年以内に開墾して農地を作ることは不可能に近かった。
このような状況から多くの単独移住者は、大資本家が所有する未開地を開墾するための礎となり、小作農民としての生きる道を選択せざるを得なかったのである。
これでは、大資本家のみが優遇されることと、明治二十五年頃から各府県からの団体移住者が増加して来たため、『府県の貧民で身体強壮なる者を本道に移すことは、北海道開拓の最良の方法である』との意見が強く出され、団体移住者に対する特典、汽車、汽船賃の割引などの具体策が検討されて、三十戸以上の団体移住者に対しての保護、特典が各府県に通知された。
開墾すると土地はただでもらえる?
明治三十年、今まで有償であった開墾地の払下げは、「北海道国有地未開地処分法」が制定されて、期間内に未開地を開墾して検査を受けると、無償で付与を受けられるようになった。
しかし、制度が変わっても簡単に土地をただでもらえるわけではなく、そこには想像以上の困難が待ち受けているのである。
未開地の無償貸付を受けて予定の期間内に開墾が成功すると、土地の無償の「付与」を受けることになるのであるが、「付与」を受けるということはそんな簡単なものではなかった。
「付与」を受けるには、先ず北海道に移住し農業を専業とし、未開地を開墾する強い意思として本籍の移動が求められた。その意思のある者だけが北海道庁の出先機関である支庁にその申し出をすることが出来、支庁から貸付の許可を受けて、定められた条件のもとで開墾するのである。
条件というのは起業方法のことで、それには初年度何町何反歩、二年には如何ほど、三年度・四年度にはこれだけと、開墾すべき面積の目標が正確に定められていて、個人の場合は大体五年間を目処とするのが普通だった。
四年度になると支庁からの調査があり、もし貸し付けられた土地が五町歩の場合は、四年度には三町五反歩ぐらい、つまり七割ぐらいは開墾の目処がついていなければならなかった。
単独入植者がこれを実行することは不可能に近い事であった。未開地には道路もなく、商店も無く、必要な資材や食料は刈り分け道を遠くまで買出しに出なければならず、大木を切り倒しても売り先も無く、切り出した大木を山積みにして火をつけ、灰にして農作物の肥料にするような状態であった。
「未開地処分法」
このような状態の中で、起業方法に示す条件を満たすことが出来たのは、草地などの比較的開墾しやすい(土地は痩せている場合が多い)ような好条件の土地であり、大木が覆い繁る多くの未開地では、思うような開墾は出来なかった。
予定通りに開墾できなかった場合には、開墾した一部の土地だけでも付与してもらえるかというと、現実にはそんな甘いものではなく、もし一部でも定められた条件に適わぬところがあると、血も涙も無く全部没収されてしまうのが現状であった。家庭の事情を訴えて哀願し、泣き落として一年或いは二年ほど特別に期間の延長を許可される者もいたが、それは例外中の例外であった。
つまり、「北海道国有地未開地処分法」は、その貸付面積は、開墾は百五十万坪(五百町歩)まで、牧畜は二百五十万坪(八百三十三町歩)まで、植林二百万坪(六百六十六町歩)まで、会社・組合はその二倍までという大規模な貸付を対象にしたものであり、単独入植者には冷たい制度であった。
付与を受けた土地は僅か
このような制度の改正にもかかわらず、貸付を受けた後一ヶ年を経過してもなお着手に至らず、資本家が貸付地の返還命令を受けた面積は申請の三十九・五%にも及び、残った貸付地の中でも事業が成功して無償付与を受けた面積は、申請した面積の僅か二十八・五%であった。
この原因の多くは、開墾に必要な小作人が予定通り集まらず、事業の着手に至らなかったか、予定年度までに計画通りの面積が開墾できなかったことがあげられる。
また、無償付与を受けた中には、条件の成功検査に際していろいろな不正手段を用いて、検査の合格をはかろうとした者も多かった。それはとくに牧場目的の土地に多かったといわれている。
例えば、処分地の周囲に牧柵をめぐらし、地表だけを起こして牧草畑と見せかけ、他より牛馬を借りてきて検査に間に合わせたり、少数の牛馬を移動させて何回も計算させて多数にみせかけたり、家畜の糞を他から大量にかき集めて散布し、多数の家畜飼養をしているようにみせるなどのほか、「遠検」と称して、検査官を饗応して賄賂を贈り、現地調査を省かせるといった笑い話に似た事実が各地に残されている。
無人であったフラヌ原野
北海道の開拓地には、先住民のアイヌの人達が最初に居住しているのが普通であったが、富良野盆地には先住民のアイヌが居住していた形跡は少ない。そのほとんどが狩猟のために短期間仮住まいしていたようである。
その主な原因は、最も生計維持に必要とされる鮭が、空知大滝に阻まれて上流に上ってくることが出来なかったことと、フラヌ川が硫黄分を多量に含んでいたために、魚が生息していなかったことが起因し、北海道の開拓が荷物の運搬に適した海や河川を中心に進んできたように、アイヌの人々も海や河川から遠く離れた富良野盆地は、生活するには条件があまり良くなかった事があげられる。
どこの開拓地でも、そこに住むアイヌの人達が狩猟した動物の毛皮や鮭の新巻などの加工品を求めて現地にやってきて、その地で生活し、無許可で土地を開墾して住み着く無願開墾者が結構な人数いたことは、道内各市町村史を見ても明らかであるが、富良野盆地は交易相手のアイヌの居住者もなく、獰猛な熊がすむ寒く厳しい北国の環境の未開地で、先人であるアイヌの人達の助けも無く、単独で開墾生活をすることは極めて困難であったため、無願開墾者の姿を見ることが出来なかったのではないかと思われる。
まだ雪の多い明治三十年三月に、北海道殖民地区画事業の推進を図るために、一時非職となっていた内田瀞が復職して、殖民地区画事業の責任者となり、前年から測量が始まっているフラヌ原野の進行状況を視察に訪れたが、その時に復命したフラヌ原野の図面では、アイヌ若しくは和人が住んでいたと思われる小屋のような印が四箇所記されており、その一箇所に「文太郎」という名が記されている。この図面から見ると、フラヌ原野に最初に無願農地を開墾にしたのは、この「文太郎」でないかと推測される。それまでは、富良野盆地には短期狩猟でわずかのアイヌの人達が訪れるのみで、開墾して生活した人はほとんどいなかったものと思われる。
フラヌ原野の植民地解放
明治二十九年、フラヌ原野の解放がようやくその扉を開く告示が出された。
「北海道毎日新聞」(明29・4・15)の記事によると、

《上川郡フラヌ原野の内大地籍を不日解除し、本年中に区画割に着手し、明春を待って之が貸下げを為す由なるが、今回解除となる原野は地味頗る豊沃の所なりと。》(一部省略)と《不日解除》

の報道がされている。
フラヌ原野の貸下げは、明治三十年四月一日から貸下げ願書の受付が行われたが、当時の小樽新聞は、

《フラヌ原野の区画地貸下願書はその筋(空知支庁)において四月一日より受理中なりしが、既に貸下出願数の区画数に達したるを以って咋十四日より出願の分はすべて却下せりという》

と伝えている。
申し込み開始から二週間ほどで満員となる人気ぶりであった。
このような好評の原因に交通の便が大きく左右しているものと思われるが、「北海道協会報告」(明治30年第一号)では、フラヌ原野の交通について次のように報告している。

《交通については、まだ道路なく不便なれども、上川地方より美瑛原野にいたる道路あり、これより本年刈別道路開通の計画があり、旭川村より十里余りで達するべし、他日上川鉄道を延長して本原野を通過する予定地にて、大いに運輸交通の便を得ることができる》

とあり、開拓に最も障害となっていた交通の便が、フラヌ原野の開拓に明るい希望を与え、人気の一因となっていたことが伺われる。
区画測量始まる
明治二十九年、ようやく待ちに待ったフラヌ原野に殖民地区画選定の測量が、道庁拓殖課技師小野政衛、島敷恵、永田安太郎、平尾嘉太郎、村岡乕雄、佐藤誠之助等によって開始された。
フラヌ原野の殖民地区画選定の測量が始まると、団体移住者の代表者や個人資産家、個人入殖希望者などが条件の良い土地を求めようと、次々と現地調査に入ってきた。土地の貸付を受けるには、希望する貸下げ地の測量した見取図と、面積計算書の添付が必要とされたからである。
当時の殖民地貸下げ出願記録によると、出願は三段階に分かれており、「大地積」は百万坪(三百三十三町歩)以上、「中地積」は五十万坪(百六十六町歩)以上、「小地積」は五十万坪以下になっている。
「大地積」は主に大資本家、大事業家、元大名家の他五十戸以上の団体移住者など確かな資本導入を見込める階層を対象とし、「中地積」は三十戸以上の団体移住者、多くの小作人を募集可能な個人資産家などを対象に、「小地積」は数人による士族の家族集団や、小作人を集めることが可能な小資産家を対象に貸付されていたようである。
フラヌ原野解放最初の出願者
フラヌ原野植民地解放の最初の出願者については、フラヌ原野三千五百三十一万六千四百坪の大面積を一度に開放し受け付けを開始したため、誰が最初の出願者であるかを特定することは難しい。
注: 三千五百三十一万六千四百坪の内訳
(上フラヌ原野 千八十三万三千坪・内樹林地三百二十九万三千坪・草原地七百五十四万六千坪)
(中フラヌ原野 千五百三十九万七千五百坪・内樹林地六百四十二万六千二百坪・草原地三百十二万坪・泥炭地五百八十五万一千二百坪)
(下フラヌ原野 六百三十七万五千二百坪・内樹林地三百六十一万四千二百坪・草原地百九十五万五千坪・泥炭地八十万六千坪)
(ケナチヤウシ原野 二百七十万四千七百坪・内樹林地七十万九千七百坪・草原地七十八万一千坪・高原地百二十一万四千坪)
で中フラヌ原野が最も広い面積を有していた。
現在、道庁文書館に残されている「北海道国有未開地処分法完結文書」と、道立図書館「北海道庁公文録」はその出願の一部と思われるが、これらの資料によると、明治三十年四月一日に出願し、七月二十八日に貸下げ許可を受けた渡辺寅吉、梶野百蔵外五名の申請と、我孫子助右衛門の二件が最も早い。
しかし、これらの出願は、明治三十二年及び三十三年に認可を取り消されており、その後の消息はわからない。
注: 出願手続きで現在残っているのは資本家を中心としたものだけで、団体で移住した人の付与出願書は、道庁の関係機関にも文書館にも何処にも残っていない。
現在、その後の消息がわかっている中に、四月一日に出願し、八月四日に許可を受けている町村金弥がいる。

    掲載省略 町村金弥の貸付台帳(原本写し)
札幌農学校出身者の出願
町村金弥は、当時雨龍村で華族組合農場解散後の分割した農場の譲渡を受け、町村農場を経営していた。彼は札幌農学校の二期生で大規模経営の農業技術を学び、内村鑑三、新渡戸稲造等と同期であった。一期生の内田瀞とともに北海道で最初に大規模農場経営の先駆者となった人物である。
その経営方針は、長男敬貴によって確立され、現在も江別市において町村牧場として子孫に受け継がれている。
町村金弥が出願した貸付地積「石狩国空知郡フラヌ原野十五万三千八百八十坪」(約五十一町歩)は、現在地で特定することは困難であるが、記述されている三尺以上の樹木で、椴松千五百本、楡千二百本、槐二百本と記されていることなどから、殖民地選定報文と照合すると、場所は下フラヌ原野でないかと思われるが、定かではない。
貸付内容は畑地として開墾し、明治三十一年から三十六年までの六年間で事業を行う予定であったが、初年度に管理小屋一棟を建てて事業に着手したようであるが、予定通りに進まなかったため、明治三十二年十一月二十八日に全地の返還を申請している。
このような、出願しても予定通りに計画が実行できないため、失権・取消・返還命令を受ける事例が多い。その原因の大半は小作人が予定通り集まらなかったことによるもので、開墾に従事する小作人の確保が、事業成功を大きく左右していたようである。
このことは反面、上富良野に最初に入植した三重団体のように、一人一人が地主であり、同時に開墾に従事する小作人の役割も果たしていたことで、武士集団による開拓同様に、高い成功率に結びついていたことと思われる。
また、フラヌ原野の貸付に係わっている同じ札幌農学校出身者の一期生佐藤昌介と十一期生の鹿討[ししうち]豊太郎の二人がいる。二人は共同で父親の名義(佐藤昌蔵・鹿討直五郎)を使い、明治三十二年十一月四日に出願している。
地積はフラヌ原野字中富良野番外地で、面積四十五万四千六百坪と八万九千六百坪(約百八十町歩)を、明治三十四年から四十三年までの十年間で開墾するように貸付を受けた。
この出願は明治三十二年であり、フラヌ原野の出願受付が三十年四月十四日で終っているので、当然解放する土地は無かったものと思われるが、当時佐藤昌介は札幌農学校の校長をつとめており、鹿討豊太郎とは親戚の関係にあった。また鹿討豊太郎は道庁職員であり、二人の同期や同窓の知人の多くが関係部局に勤めていたこともあって、次々と返還される貸付地の情報をいち早く入手にすることが出来、返還された土地の出願を容易に申請することが出来たのではないかと推測される。なおこの農場は、「鹿討[シカウチ]農場」としてその名称を現在に残しているが、鹿討の正しい呼称「ししうち」ではなく「しかうち」と呼ばれていることから、実際には開墾後まもなく他に譲渡されたのではないかと思われる。
注: 「上富良野町史」「中富良野町史」などでは、鹿討[シカウチ]農場主が「鹿討[シシウチ]豊太郎」となっているが、「鹿討[シシウチシ]直五郎」の誤りであり、正式には佐藤昌蔵と鹿討直五郎の共同名義であることが正しい。出願時の出資金は、佐藤昌蔵が七千三百七十五円、鹿討直五郎が五千二百七十二円となっている。出資金の額が佐藤昌蔵の方が高額であるから、当然佐藤昌蔵が前面に出てくるのが当然と思われるが、佐藤の名称が消え鹿討農場として残された経緯については定かではない。
「上富良野町史(昭和四十二年刊)」「中富良野村史(昭和二十九年刊)」「南富良野村史(昭和三十五年刊)」に記載されている「札幌農学校学田地視察のために、学校長佐藤昌介が富良野を訪れた」時期は、明治二十八年・三十年となっているが、札幌農学校学田地の貸下が明治三十四年であり、調査に来たとしても開放予定で区画測量が始められた二十九年以降でなければならない。
佐藤昌介が訪れたとすれば、三十二年の佐藤・鹿討農場の現地視察か、農場を他に分割譲渡するためにやって来た時とみるのが自然である。その後この農場は札幌農学校出身者の伊藤広幾・福原鉄之助の父福原公亮と鹿内豊太郎の父鹿内直五郎名義に分割譲渡されている。

   掲載省略 失権となったの貸付台帳(原本写し)
   掲載省略 返還命令を受けた貸付台帳(原本写し)
出願した開放地の流れ
フラヌ原野の区画地貸付台帳に残されている記録はあまり多くないが、その中でも明治三十年に出願した人物で、サッポロビール会社を設立した事業家「人見寧」の書類でその出願の内容を探ってみたい。
人見寧[やすし]は幕臣の子として生まれ、榎本武揚とともに函館戦争で戦い、敗戦して投獄の後明治九年に東京裁判所判事となり、十三年に茨城県令となった。
広瀬誠一郎・色川誠一らとともにサッポロビール会社を設立するなど、北海道の事業家として活躍していた。
彼の出願した貸付の内容がどのようなものであったか、明治三十年「区画地貸付台帳」によって見てみたい。
出願の申請は、明治三十年四月一日で人見寧外二名(下野国倉光三郎・東京市中野要蔵)の名義で申請し、八月六日に許可を受け、三十一年から七年間で開墾する計画を出している。
明治三十三年六月六日に長野県中島ゑん・中島覚一郎に譲渡の許可を受けており、三十四年十一月十一日に貸付期間の延長と起業方法の変更を申請、許可を受けている。
起業内容では、小作人を集め、事務所、倉庫、小作人住宅(十二坪)を建て、道路・排水路整備、寺から墓地まで作る計画を進めている。

   掲載省略 人見寧から譲与された台帳(原本写し及び翻文)

場所は、東三線から九線までと北十八号から二十二号までの広範囲になっている。(後に札幌の五十嵐佐一に借りた借財の抵当で手放すこととなり、五十嵐農場の管理人と揉め事となって、小作騒動と間違われることになった農場である。)
第一回付与検査の出願を五年後の三十五年十一月二十六日に行い、検査の合格を得て翌三十六年八月二十一日に、畑二百七町九反四畝二十七歩を付与されている。(第二回は三十八年に百三十町七反一畝十七歩を付与)
現況の樹木数については、他の申請書では見られないような非常に細かな調査をして記入してある。
「貸付期間伸長及起業方法変更願」は、別に出願されているが、申請人は農場管理人であった岩崎鹿之助が、農場主から代理人の委任を受け申請しており、その内容は次のようになっている。

変更の理由
一 現地湿地のため排水掘削に二年掛かった。
二 小作人が逃げしまい、新しい小作人を募集に時間を要する。依って貸付期間を七年から十年に伸長願いたい。
起業方法
一 地積(省略)
二 未開地(省略)
三 樹木の種類、員数(省略)
四 目的地 畑地
五 方法の要領
 (一) 普通農具を使用し、小作農とする
 (二) 管理人を常置し、実地適応の開墾方法を指示するものとする
 (三) 全地成功期間は十ヶ年とする
 (四) 移住小作人の数は八十一戸とし、既に五十五戸現在し三十四年十戸、三十五年三十五戸、三十六年六戸を完了す
 (五) 小作人一戸に付地籍一万五千坪を配当し、五ヵ年間に成功させる
 (六) 小作人は全部府県より最も耕作に慣熟した者を選抜して移住させるものとする
 (七) 小作人を家族内に二名以上の労働に従事する者を募集する

   掲載省略 貸付地変更届添付図

小作人との契約要領では地主に有利な条項が多い。主なものでは、
イ、労働に耐える家族は二名以上いること
ロ、永住の意思を表示するため本籍を農場に移すこと
ハ、天災、疾病等に起因して生計困難な場合は、地主は米、塩及び金員を給与又は貸与することがある。
  但し貸与金品は貸付の翌年より年六分の利子を付し、収穫物から生計に必要な見積高を除き、残余を以って返済するものとする
ニ、組内では天災疾病などの救済は相互に協力し、耕転の季節を失するときは、組内で助力し農事を停滞させてはならない
ホ、小作人は小作地の全部開墾を終るまで、地主の許可なくして他の業務についたり、他に移転してはならない
ヘ、貸付地は毎年契約した開墾配当坪数を検査し、配当開墾地に満たない場合は、貸付地全部を返還させることがある。
  樹林地は初年六千坪、二年目五千坪、三年目四千坪、草地は一ヶ年一万五千坪
ト、地主は開墾当時の小屋掛料補助として、一戸十円を給与する
チ、農具料、種子料として一戸五円を貸与する
  また、開墾の初年に限り秋の収穫月まで食料大人一人一日米三合、雑穀四合を貸与する
リ、貸与した金品、物品は新墾料にて引去り精算すること
ヌ、地主は開墾後検査し開墾料として、樹林地一反歩に付き三円以上六円未満、草地一反歩に付き一円二十銭を小作人に支払う。
  但し開墾料は土地の状況により、地主の検定で酌量する
ル、地主は開墾地に対して三ヶ年は鍬下として小作料を徴収しない
オ、小作人は事故により小作を辞めなければならないときは、確かな継承小作人を決め、少なくとも三ヶ月以内に許可を得ること
ワ、地主は小作人が前条に違反するか不都合のある場合は、直ちに退場を命じることができる
開墾に要した費用
地主の代人岩崎鹿之助が変更願いを出したのは、最初の申請してから三ヶ年を経過し、それまでに六十四万千九十坪が検査を受けて付与されており、残り五十九万七百五十坪の変更申請である。三ヶ年間に用意した施設等は、

事務所 一棟三十坪
倉庫 一棟二十四坪
小作人家屋 七十二棟(一棟十坪)
農用馬 五頭
管理人一名・助手一名

〇四年目(明治三十四年)
 畑地 十一万九千坪 費用二千三百八十円
   但し小作人六十五戸を以って開墾す(内新規入場小作人十戸)
 排水延長 千七百間 幅二間 敷幅四尺 割深四尺 費用六百八十円
 農具料及播種料 五十円
   但し新規小作人一戸当り農具料三円、播種料二円(次年度も同じ)
 小作人移住費 百五十円(一戸当十五円)
 十戸分管理人費用 二百十六円 一ヶ月十八円
 助手 七十五円 一ヶ月十五円(五月から十月まで雇用)
 事務所雑費 百二十円
〇五年目 十三万三百十坪開墾 三千二百二十円(畑十三万坪・排水溝 千五百五十間掘削)
〇六年目 九万四千二百五十坪 千八百八十五円
〇七年目 九万七千坪 千九百四十円
〇八年目 七万七千坪 千五百六十円
〇九年目 四万八千坪 九百六十円
〇十年目 一万八千坪 三百六十円

起業費合計一万六千九百七十二円
注: 明治三十三年の米の値段は、一石当り(一〇斗 一八〇キログラム)九円五十銭である。この金額は、当時の米の値段と比較しても大へんな金額であり、開拓には莫大な資本の投入が必要とされていたことが伺われる。
(次号は「町村金弥」と「重松農場」などについて考察してみたい)
参考文献
「新北海道史年表」 一九八九年刊 北海道編
「新北海道史」 昭和四十六年刊 北海道編
「柳本通義の生涯」 平成七年刊 神埜努著
「北海道のいしずえ四人」 昭和四十二年刊 井黒弥太郎・片山敬次著
「開けゆく大地」 北海道開拓記念館常設展示解説書 平成十二年刊
「新旭川史」 平成六年刊 旭川市史
「わたしたちの北海道史」 昭和三十七年刊 蒲田順一著
「中富良野町史」 昭和六十一年刊 中富良野町史編纂委員会編
「上富良野町史」 昭和四十二年刊 岸本翠月著
「上富良野百年史」 平成十年刊 上富良野百年史編纂委員会編
「十勝日誌」 一九七五年刊 松浦武四郎著 丸山道子訳
「星霜」北海通史 二〇〇二年刊 北海道新聞社編
「北海道開拓秘録」 昭和三十九年刊 若林功著
「北海道開拓秘話」 平成十六年刊 津田芳夫著
「札幌同窓会報告」 明治四十一年刊 南鷹次郎著
「武生市ゆかりの人」 ネット 武生市教育委員会
「町村金弥」 ネット 百科事典
「北大百年史」 昭和五十六年刊 北海道大学編
「明治三十四年四月六日」 二〇〇六年刊 高橋弘章著
「区画地貸付台帳」 明治三十年 大[地積] 北海道庁編
「区画地貸付台帳」 明治三十年 [北海道庁] 植民課
「未開地貸付台帳」 明治三十年 大[地積] 北海道庁編
「未開地貸付台帳」 明治三十一年 [北海道庁] 殖民課
「区画地貸付台帳」 明治二十年以降 中[地積] 北海道庁編
「未開地貸付台帳」 明治三十二年 大[地積] 北海道庁編
「未開地貸付台帳」 明治三十二年 小[地積] 北海道庁編
「区画地貸付台帳」 明治三十二年 大[地積] 北海道庁編
「北海道庁公文録」区画地無有償貸付 明治三十四年〜三十六年
「富良野市史」 昭和四十三年刊 富良野市編
「北海道の研究」 昭和五十八年刊 関秀志著
「河野常吉著作集」 昭和五十年刊 河野常吉著
「北海道いがいいがい物語」 平成二年刊 合田一道著
「北海道の鉄道」 二〇〇一年刊 田中和夫著
「北海道鉄道百年」 昭和五十五年刊 北洞孝雄著

機関誌   郷土をさぐる(第25号)
2008年 3月31日印刷   2008年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一