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「出征の記」石川清一翁の日記より (その一)

編集委員 三原康敬 昭和二十四年九月二十八日生(五十八歳)

はじめに
「石川清一翁」が日中戦争に従軍した折に書き綴った、貴重な日記を家族から提供されたことから、郷土をさぐる会で原稿を起こすこととなり、その役目を引き受けることになった。
資料をいろいろと調べていくうちに、「石川清一伝」(昭和五十三年二月二十五日上富良野町農業協同組合発行)に、出征の記として一部が活字化されている事がわかった。その中に「入隊まで四日しかないあわただしさの中で、私はたて十センチ、よこ十五センチの手帳を買った。皮の表紙がついていて、三ミリ方眼に線のはいった紙が九十六枚綴られているものである。」と、記されている。託された日記の背景となっている石川清一翁の従軍した「支那事変」の発生年が、明らかな誤植と思われるが昭和十一年と誤って記載されている。
日本軍が中国大陸に駐留したのは、「義和団事件」(明治三十二年−明治三十四年)の鎮圧後交わされた、明治三十四年「北清事変ニ関スル議定書」によって、英、米、仏、独、伊など八カ国と共に駐留が認められたもので、駐留地の演習も公認されたものであった。そのような時代背景の中、昭和十二年七月七日夜、北京郊外盧溝橋で日本軍の夜間演習中、何者かにより実弾射撃を受けたことが発端となり、いわゆる「盧溝橋事件」が勃発した。
このときまで、双方とも紛争の不拡大方針を採っていたので、日本と中華民国の間の武力紛争は全面戦争へと発展しなかった。しかしながら、「盧溝橋の一発」が口火となり、日中両軍の衝突の場は、北京を中心とする限定的な「北支事変」に発展した。日本は諸外国に対して戦争状態ではなく、局地的な紛争と捉える「事変」という立場をとっていたが、中国との関係を修復する政府間の外交努力も空しく、戦火は上海に及び、全面戦争へと進展した。
昭和十二年九月二日、政府は臨時閣議で、「北支事変」を事実上の日中戦争を意味する「支那事変」に変更した。これに伴い、全国的規模をもった支那派遣の動員令が決定した。このため、石川清一翁は「中支那派遣軍」第七師団第四兵站病馬廠の充員として招集されたのである。
充員招集中の日記に書かれた「支那事変」の経過は、日本軍の上海、南京攻略を目的とした意図が拡大。昭和十二年八月から十一月にかけて上海付近の戦闘が行われ、昭和十二年十一月から十二月の南京攻略作戦、昭和十三年五月から六月の徐州会戦と大陸侵攻作戦が次々と行われた。
(日記の編集に際して出来る限り原文を尊重しましたが、読みやすさを勘案して、新仮名遣いと原文にはない句読点を一部加えております。日付の次にある「」書きは、日記の欄外に特筆されている文言を表わしました。長文のため日記の一部を省略しています。日記の原文は、年を省略して月日のみ記されて、天気を書いていない日もあります。この日記は、昭和十二年から昭和十三年にかけて書かれたものです。)
従軍日記
石川清一 明治三十九年七月二十五日生(享年七十一歳)
九月十日(昭和十二年…以下原文どおりとし、年号を省略)
午前〇時三十分 充員召集令状受嶺

九月十四日
我が家を午後一時三十分出発、東中神社二時三十分参拝。三時三十分、上富良野神社境内にて集合写真撮影後、神社参拝祈願。五時、出発。六時四十五分旭川着、三井方に宿泊。

九月十五日
「コレラ予防接種す」
午前七時、騎兵第七連隊に到り応召届す。身体検査後、旭川市五条通六丁目下村正之助氏前に集合、被服を受け正午。三時三十分兵器受領。後、休憩。軍衣袴、三号。軍靴、十一文。襦袢、中。戦闘帽、中。衣袴一着。襦袢二着。靴下三足。

九月十六日 晴れ
「軍刀番号七四八七七」「午後五時三十分前より衛生の学科」
午前六時起床、六時三十分、点呼。午前八時、上川神社参拝。昼食後、左記被服受取る。
天幕、拍車、軍手、背嚢、飯盒。夜、点呼。兵役関係調査書受領す。日課時刻表(略)

九月十七日 晴れ
「兄、応召、来隊」
朝、八時集合。背嚢入組品の勝手組合せ。後、徒歩各個教練。平間中尉の注意あり。午後、背嚢入組品持参、予定通り。夜、村役場より久保三二君、兄を送りて来る。源一、寛、国一、石橋の兄も来る。

九月十八日 晴れ
「軍装検査・予防接種」
午前七時三十分、軍装検査の準備を兼ねて集合。編成委員長の検閲あり。徒歩をもって騎兵第七連隊営前に集合。連隊長、副官の軍装検査を受け、師団長の激励の辞あり。

九月十九日 晴れ
「毒ガス演習・各個教練、木下敦郎君来る、種痘、島貫氏とも逢う」
午後、営前にて徒歩教練。三時三十分より日章小学校にて部隊長以下の記念撮影なす。

九月二十日 小雨
「村長、分会副長激励に来た、ドロッブスをいただく。高畠正信氏も激励に来てくれる。森本あさかさん来る。」「妻子供和田の母きたる」連隊講堂にて騎兵連隊付少佐より支那に於ける―軍規・風紀上の諸注意―(略)

九月二十一日
「母妻子供等帰宅す。騎乙軍刀七四八七七番。第二回コレラ予防接種」
妻子、母は一番にて来り宿りて九時四十分の列車にて帰る九時より輸送上に関する注意の学科あり。
(略)―馬匹輸送の注意―

九月二十二日
「衛兵勤務。吉田分会長慰問。松浦さん訪問下さる」
正午より上番衛兵として当り、高亀部隊全営衛兵勤務に服す。

九月二十三日 曇りのち雨
午後一時より外出許可、五時、舎主、主人の神ばらいをしていただき、町内会招待に招かれ。夜、三井の奥さん金平糖を持ってきてくださる。

九月二十四日 晴れ
「篤農協会、三井良雄、松田様より来信」
昼食後、騎兵第七連隊で御真影拝賀式を行い北海道招魂社に参拝。電車にて中島頓宮に武運長久を祈願し四時半帰舎営。第二回赤痢の種痘なす。以後外出許可さる。

九月二十五日 晴れ
「林下、山口、吉田、和田、母上等来てくれる」
午前中、武器被服の手入れ、午後より軍規軍律の学科西野目中尉、溝口少尉、桑原少尉、山崎衛生伍長等その担当学科。種痘の検査。夜、非常呼集十時にかかる。本日、林下の姉さん山口さん和田お父さん母上吉田のおばさん洋次等来る。

九月二十六日 晴れ
午前中、軍装検査。午後、外出、三井へ寄る。夜、七時の列車にて家内来る。藤田様にて非常に御馳走になる。

九月二十七日
「曽川伍長無断下車」
午前五時起床、六時、写真を撮りて整列、三隅、前川、高亀部隊ともに出発。停車場にて北海道庁官、樺太庁官、旭川市長の壮行の辞をうけ、〇時四十分旭川発征途に上る。五時五十分岩見沢出発、九時苫小牧、午前〇時東室蘭着。

九月二十八日
午前八時前函館に着き九時十四分発、二時青森に着く、七時青森発本州へ征途足を踏み入れる。

九月二十九日 小雨
仙台のあたりで十時、平市で二時十五分、水戸には六時、田端九時半、品川には十時半、国府津は〇時四十五分。

九月三十日 曇り雨
横浜箱根は夜中に通過、沼津二時三十五分発、朝食は静岡、昼食は十一時三十五分米原、京都は一時四十分、神戸へ三時十五分着。夜、神戸市兵庫旅館で宿る。

十月一日 曇り雨
愈々本日午後四時、出航の予定。午前四時起床、六時半点呼、その後、故郷へ礼状を出す。本部に十時三十分集合。湊川神社に参拝。岸壁第二突堤にて織殿丸に乗船。四時十分神戸出航。

十月二日
「酒紛失なして大騒ぎす。腸チフス予防接種」
岡山県沖合にて夜が明ける。瀬戸内海波静かにて甲板上は微動だにせず、内海の風光将に天下絶景、広島県四国の沖合いを通過。四時馬関海峡を通過、一時御用船は錨を下ろし集結。翌六時半出航。玄海灘も波静かにて案外楽なり。

十月三日 曇り
案外平穏な航海と船員は言う、船に酔いしか気分優れず食欲進まず苦しき征途なり。船中にて学ばんとせし支那語の本も読めず只苦悩するのみ。

十月四日 曇り雨
午前十時頃、駆逐艦の誘導にて七隻御用船は進む。夜、六時燈火管制を実施。船団護衛の軍艦数多し呉淞一里前位なりと。

十月五日
「同済大学に宿営す」
午前九時五十分上陸、「呉淞鎮」。同夜は呉淞鎮同済大学にある第一病馬廠に宿営。夜、数回に亘りて空襲、碇泊場に敵機の爆弾投下死傷数十名。

十月六日 曇
「病馬廠開設準備、王家宅に駐軍す、日直西野目中尉」
午前五時、敵機襲来、探照燈を探照し高射砲を発射。住宅はこの地方で旧家らしく生活様式も相当の文化を取り入れ、程度も高く永年の経験か参考となるもの多しと思わる。気候頗る順調、土質は沖積土にて何処まで掘っても同じ。

十月七日 雨
「材料運搬、日直北島中尉」
朝、未明より砲声殷殷と聞こゆ。本日の作業は抵抗線の構築。山砲兵より病馬一頭来る。夜、豚汁。本夜も砲声盛んに聞こゆ。

十月八日 雨
「日直、蓑口少尉」
午前八時より治療廠開設準備す。本夜、郵便物を差出し許可、家内、源一、松ヱ門さんに出す。本家の兄とは未だ音信不通なり、夜、荷物衛兵に立つ。

十月九日 雨
雨降りて道路悪く運搬に困難、衛生器材獣医器材及び酒保用品、馬匹の飼料糧秣も運搬。二十三日のうちに嘉宣南翔大場鏡の総攻撃を実施とか。

十月十日 雨
「天候悪く飛行機飛ばず」
衛兵勤務、衛兵司令一名、歩哨掛一名、歩哨六名にて一時間交代。午前七時三十分より翌朝の同時刻まで。

十月十一日 小晴れ
「入廠馬二頭」
夜、トラックにて二台乾燥燕麦きたる。全員廠舎病診療所建築す。

十月十二日 晴れ
「入廠馬一頭」
午前、馬匹の飼料運搬。午後、兵舎周囲の掃除。
西野目中尉は支廠の開設用意の個所偵察に六名位にて行く。

   編集付記 上海付近の戦闘 (図省略) 昭和12年8月〜11月
       第3師団・呉淞鎮→劉家行
       第11師団・川沙鎮→羅店鎮→北覧溝
       第9師団・8/23敵前上陸
       第101師団・8/23敵前上陸

十月十三日 晴れ
「入廠馬四頭。午後四時、予防接種(腸チフス)」
戦地へ来て久方振りの快晴にて第一線の兵も楽であろう。本日までに入廠馬七頭、午後は炊事場裏の清掃。第一班の山本豊美は徳島正義君に逢ふたと、兄も壮健にて活動していると、近い日に逢いたいと思う。

十月十四日 晴れ
「入廠馬三頭」
起床、点呼後馬手入れ。治療所付近の清潔整頓に約午前中かかる。後、台湾軍の残せし食料等を佐藤と徴発に行く。午後七時頃、呉淞付近に空襲あり。昨日より大工二名来り廠舎の建築も本格的となりて進む。本廠の命令第一病馬廠に将校と下士官兵二十名の分遣を命ぜらる。

十月十五日 晴れ
「第九師団獣医部へ西野目中尉とともに行く」
前夜の命令通り正午分遣者は出発、部隊長に申告なす。本日八時、西野目中尉、後藤伍長、中田、斉藤、久保、西谷、大野、石川達と兵五名は劉家行へ出張所となって出発に決定。羅店鎮を経て劉家行に至り出張所開設に決定。天幕を張りて露営の準備なす。

十月十六日 晴れ
「夜、二頭、当出張所にとまる。トラックにて三頭、引率して七頭十頭。第十三師団は盛んに第一線に出動す(留守中、徳島正義、奥野忠治両君面会に来たる)」
朝食後、本部より天幕来り、幕舎を張る、各部隊よりの病馬収容の交渉者続々と来る。二十三頭の馬に治療を施す。本日、特超重爆撃機数台飛来。

十月十七日 晴れ
「七十頭収容出発す。治療馬三頭死亡、二頭埋葬す。四時頃、第九師団獣医部に連絡に行く」
天候が快晴になるにつれて上海付近は大陸的気候にて昨今にては昼は約七十度(注、カ氏…セ氏で約二十二度くらい)、夜は十度内外にて、夜間は外套毛布一枚にて幕舎のうちにても小寒し、起床後、治療室の建築に従事。

十月十八日 晴れ
「劉家行より四時半頃全員帰廠す」
朝食後、館伍長来り、撤収せよと隊長より通知しきたる。直ちにトラックに積み、全員羅店鎮を経て帰る。途中、羅店鎮までは既に兵站糧食が運ばれている模様にて、総攻撃は近しと思はる。

十月十九日 晴れ
「入廠馬合計五六五頭。第二班の渡辺君呉淞にて兄に逢いしと」
四日目ではあるが馴れた宿営は親しみもあり楽しみもある。夜、腎臓病を気にして三回も小便に起きる。本日は治療班の手伝いをなす。八割は鞍傷馬にて二割が銃創馬なり。

十月二十日 晴れ
本日は衛兵勤務に服する、劉家行に行ってから改正になって昼中は衛舎掛兼歩哨係兼司令一名歩哨二名にて、夜間は司令一名歩哨四名の増加。衛兵勤務は原隊に於いて現役時代でも相当苦しいものであるが戦地に於ける衛兵も同じく精神的に苦しい。本夜は十五夜のせいか馬鹿に静かであった、空襲もなく故郷の村に居る様な気持ちもする。北斗七星をじーっとながめていると子供の頃の心になって当時が様々と想い出す、時折り打ち出す砲弾に戦争が如何に人類にとって不幸であるかを想う、闘争は二十世紀の姿とは言え余りにも闘争的な時代である。

    掲載省略 手帳記載の「上海上陸後に作成した自筆の地図」

十月二十一日 晴れ
「本日治療、第一班約二百頭、第二班百六十五頭」
本日は第二診療所に於いて岩城少尉殿の指揮下に於て治療勤務に従事。岩城少尉、葛巻副官、後藤伍長、兵八名輸卒十名にて百六十五頭の治療なす。

  故里を想う
  地平線より出でし地平線に入る太陽
  一線一点の雲なき靄ひぐ揚子江の彼方
  祖国日本の旗はゆるやかになびいて
  異国の夜は埋まる
  誰か一瞬故里の事を想はん
  戦友よ語れ戦いのつかれと
  武運永かれと祈る故里の妻と子を
  かくて明ける戦いの地も
  我等の力とともに永遠に子等のもとに栄えん
  友よ東亜の平和の為に計らん

    掲載省略 手帳記載の自筆「上海付近戦況要図」(周辺を丹念に書き表している)

十月二十二日 晴れ
「本夜の点呼に皇后陛下より出征軍人遺家族に御下賜金を下さる訓示ありたり」
本日は第一診療所の助手として鞍傷馬の治療に従事す、西野目中尉、蔦藤少尉とに、三時過ぎより隊長と副官が手伝った台湾軍から少尉獣官がきたが明日来るとかにて帰った。人間の本能の故もあろうが当部隊の酒保に山砲第二第三大隊野戦病院よりおすなおすなと酒保へ押し寄せである、軍隊に入って供給される糧食にては実際不足である、十二、三才の童子の様に三十五、六才の壮年が僅かの時間にあめ玉やキャラメルをなめているのも余りよい格好でない。

十月二十三日 晴れ
「大場鎮一部陥落、石川フジエ、石橋貞一、床鍋正則」
本日は、第二診療所の助手として病馬の手当をなす。夜、週番士官下士の肝いりにて第二診療所にて演芸会を開催した。入廠馬は第九、十三、十一等の師団の各師団にて地方なまりの民謡が聞きたいがお互いにきどって感心したものではなかった、いま少し民謡らしく地方なまりを出して身体にも心にもゆとりがあってほしい。

十月二十四日 晴れ
「揚行鎮へ第一線視察、副官以下約二十名」
昨夜の演芸会の関係もあって、一時間起床許可をされたせいもあって充分寝た、夜があけきってからの寝床の中も余り悪い気もしない。
午後は休養、副官の引率にて松井本部隊司令部のある揚家宅まで第一線の見学にトラックにて出かける。本日、当廠を支廠として、本廠が劉家行より前線に移動するらしい、今日、揚家宅の司令部を書き取ってきた、保安公墓と書いてあったがあとでよく研究をしてみたい。その他、これからつとめて支那の寺院などを書いておきたい、稲や大豆綿等もとっておこう。徳島君にも逢いたい。太田小太郎君は呉淞鎮付近に上陸以来駐屯していると、伊藤実君は宝山に入院。

十月二十五日 晴れ
「衛兵勤務」
本日は昼間衛兵勤務に服す。

    掲載省略 手帳記載スケッチ「松井本部隊、楊家宅司令部正門」(支那に於ける公墓のひとつ)

十月二十六日 晴れ
「衛兵勤務」
本日、下番衛兵となる。七時、申し送って帰る。
朝食後、第二診療所へ行ったが、本日も台湾軍より送馬されて約七十頭入廠す。今日まで総馬数七百六十頭、内、斃死馬約四十頭。中田君より呉淞にて物資若干買ってきてもらう、当隊の酒保より割安であった。
昨日、俸給九円十一銭を受け取る。応召、九月十五日より十月四日呉淞上陸日までの二十日間、三円六十銭の二割五分増しで九十銭と、十月五日上陸より十月分二十六日の六割増が二円八十一銭と十月分の俸給一日十八銭の三十日分で五円四十銭。将校は八割増。

十月二十七日 晴れ
「発信、石川安一、富一、文子、和田俊夫、林下岩雄」
北海道では既に初雪が降ったとか、昨年も同じ頃降った。戦線では馬が相当必要なので弟が招集されなければよい。

十月二十八日 晴れ
「本日、部隊に約六七十通の来信がある。」
廠舎が水不足となり、給水を受ける。冷たい水を飲めないのが気分の上で一番の苦痛だ。

十月二十九日 曇り
「本日も飛行便にて来信がある。東京市篤農協会などから」
朝、起床時割合蒸し暑い。支廠開設用の陣営具を徴発に西野目中尉ほか数名の兵卒が行く。

十月三十日 曇
「和田松ヱ門より来信あり、直ちに返信する。」
愈愈、第二兵站病馬廠が、支廠となって本廠が大場鏡へ移動することに決定した。浜村様や西村又一様に色々と御世話になったが、家内よりの便りを待って御礼を致さねばならない。

十月三十一日 雨
「衛兵勤務」
本病馬廠は、大場鎮より上海の方へ約八百米離れた香花橋宅に移動することに決定。昨日の松ヱ門君の便りに対して、今少し猶予ある返信をすればよいと思った。

十一月一日 曇
本日、衛兵下番となる。午前八時五十分、支廠編成の発表。
(略)―支廠長西野目中尉以下の編成表―

十一月二日 雨
「大場鎮香花橋宅に至る、降雨甚だしく全身雨に濡れる。」
中隊当番として残って、支廠長室改造する。午後四時頃、本廠へ行く。大場鎮に至るまで日本軍の苦戦の跡ありありと判る。

十一月三日 曇
「明治節」
迎えのトラックが来ず、夕方に移動する。途中、前川部隊の深谷君に会い、兄によろしく伝えてくれるよう話をした。八時に着く。

    掲載省略 スケッチ 寳華禅寺の一部と南京陥落記念のスタンプ
    掲載省略 スケッチ 寳華禅寺の一部「部隊宿舎の二階より望む」第二兵站病馬廠駐屯宿営地
    掲載省略 スケッチ 寳華禅寺の一部建物

十一月四日 曇
「特務兵十名とともに北鎮橋の架け替え」
クリークに部隊の労力で架けた橋を「北鎮橋」と名付けた。雨で崩れたので架け替えたが、西野目中尉が来たので倍の仕事になった。

十一月五日 曇
「衛兵勤務に服する、午前八時、山砲の藤本上等兵と交代して橋架け替え工事に従事。夜、雨降る中に警急集合」
昨日働きすぎで足腰が痛む。橋は、明日一日で出来上がるであろう。夜、特務兵が無断で原隊へ帰ったので確認のため警急集合したもの。

十一月六日 曇のち雨
夜、村長金子浩殿、分会長吉田貞次郎殿、和田松ヱ門君、金子全一君より来信。兄さんには本当に色々と世話になって御礼のしょうもない。もうすぐ農家の収穫も終わり家内中が落ち着くであろう、心配をかけてすまない。

十一月七日 雨天
午前中諸作業、午後休養。但し、午前中休養した者は、午後稲刈り。
(略)―支廠の日課表―

十一月八日晴
吉田分会長、金子村長、金子全一君に返事を出す。
飲料水、水田育成水、洪水の緩和策などと村内出征の戦友の安否。

十一月九日 晴
本日も来信なし。待つのは実に故里からの便りである、家内や子供の書いた便りもまたあろう、村の実情を書いた便りもあろう、そのうち古雑誌も送ってもらえよう。篤農協会よりの寄贈のパンフレットがほしい。

十一月十日 晴
厩舎の排水溝の工事、橋梁工事、道路工事。特務兵に対する下士官の態度。

十一月十一日 晴
「重症患馬厩舎の建築」
本廠では、酒保の販売物が高価であるのと営利である事を詰問すると、閉鎖するとか言うので兵隊が憤慨していると伝わってきた。

    掲載省略 スケッチ 支那農家の揚水器(灌漑技術の研究と思われる絵)

十一月十二日 曇りのち雨
「厩舎の新築。吉田吉之助、長瀬要一、山本逸太郎へ発信」
支那の風土もやはり秋に入れば時雨があるのであろう。近く、支廠は解散して本廠に合同するかそれとも病馬を引き渡して閉鎖するのであろうか。

十一月十三日 晴
「新厩舎の建築」
大場鎮の本廠へ兵隊と馬匹の移動、兵員はこのため多忙を極めている。

十一月十四日 晴
「大場鎮本廠へ移動。山本豊美君入院。新潟県小千谷町浅田様より慰問袋」
夜、新潟県よりの慰問袋、封筒三十枚、便箋一冊、手帳一冊、鉛筆三本、ドロップス一缶、仁丹二個、週刊朝日二冊。全員大喜びで、子供のようにはしゃぐ。直ちに礼状を書いた。これを縁に交際が続くだろうか、便りを待とう。

十一月十五日 晴
昨夜来より支那土民の避難者が通過する、一人ずつ検査する。荷物は綿布団類、着物を主とした家財道具。日本の軍人を恐れている。

十一月十六日 曇りのち雨
本廠移動のため、西野目中尉の携行品を荷造り。
(略)―支那語と発音が書かれている―

十一月十七日 曇り
支那の新生活運動推進標語を書き写す。
男前の投票を行い順に金を出し合い、ビール・ようかんを買う。

十一月十八日 晴
本日、来信が十通あった。村からは何かと便りをいただいて本当にうれしく思う。殊に向山安松君からの便りは子供が書いたのかなんともいえない嬉しさが湧いてくる。

十一月十九日 晴
雨中の五里行軍は実につらい、夜六時頃には着いたであろうか。明日の天候を案じる、晴れてくれればよいがなー。

十一月二十日 雨
支那人を使用して、荷物の運搬を行う。よく働くのには感心した。支那語を勉強して、たくさん話をして彼らの実情を知りたい。
(略)…次のページに、長文の随想と詩…

十一月二十一日 曇りのち雨
朝から雨、雨の降るのには閉口する。和田松ヱ門君から便りが届く、その土地に慣れれば倦怠しやすいから注意するようにとのこと。少し緊張するのを実感、毎日のようにタバコを賭けての賭ごとが次第に金銭決済になっている。日本軍人としての腹構えをしてほしい。

十一月二十二日 晴
本日、出発のため、起床後、直ちに荷造り。西野目中尉と自分の装具を整えるので、なかなか忙しい。移動し、五時三十分頃王宅に到着。王宅には、全禮南(甥)と全文耀がいて、いろいろなものを与えた。

十一月二十三日 曇りのち晴
午前中、荷物整理。毛布、慰問袋、キャラメル一個、タバコ二個を支給された。午後、隣の部隊の藤崎春吉君、小泉卯一君に会いに行く。上陸後、直ちに第一線に付いて相当苦戦したらしい。

十一月二十四日 晴
「本日、天白豊治君面会に来る」
病症馬の治療にあたる。効率的な軍隊の治療技術を見ると、地方の獣医のやり方は実に金取り主義なり、我等はもう少し馬学を研究して、用役馬改良と看護法を勉強する必要性がある。

十一月二十五日 晴
「和田松ヱ門君より便りある」
午前中、診療所で治療にあたる。午後、上海行きの人選があり、志願して向う。日本租界は陸戦隊が死守した事で破壊されずに残っている。

十一月二十六日 晴
小泉卯一君が面会に来たので、材料庫の二階で会う。西野目中尉がビールを出す、自分も二本買ってきてご馳走する。

十一月二十七日 曇り
昨夜の状況によれば、上海軍は南京まで前進するものの如く、各師団は何れも先陣争いしている。蘇州は各師団の兵力集結地となっている。支那酒を呑んで酒に呑まれる情けない者がいる。

十一月二十八日 曇り
「蘇州支廠開設する」
日曜なので、午前中で日課が終わる。当本部の二階から、上海市の二十一階が見え、共同租界の高層楼も手に取るように見える。もやの中の建物を見ていると、曇り勝ちの日に上野から帝都を見ているような気がする。

十一月二十九日 晴
久方ぶりの快晴、本日、将校室並びに集会所当番に服務する。和田の兄には便りを書かねばなるまい、兄には色々と世話になっている。

十一月三十日 晴
将校室の当番に服して、将校の雑談を聞く。将校室の当番はつらい。十二月一日
家内より源一の名にして細々と通信があった。一生懸命にやっているらしい。吉田分会長よりも葉書であるが特に手紙として寄こされたのを感謝する。

十二月二日 晴
「石川洋次、石川フジヱに絵葉書を送る。戦跡見学をする」
先般、上海派遣に御下賜の御聖旨の奉読と松井軍司令官の奉答文の伝達式があった。夜、この付近に徴発に行く、周囲には二十近くのトーチカがある。

十二月三日 晴
「前川部隊の兄に会う」
前駐屯地の王宅に病馬の収容に行く。行く途中、前川部隊で兄に面会する、頗る元気にて活動しつつあり。家より便りが無いとのことで、会長の便りや家内の信書を見せて共に家の事を語り合う。旭川出発以来会うことが出来ず、非常に嬉しかった。

十二月四日 晴
「廟行鎮参拝。大阪毎日新聞記者と一緒にその前で撮影」
本日、第四病馬廠勤務。途中、藤原君と廟行鏡の肉弾三勇士戦死の跡に参拝する。戦死地の南方約百米の地点に建てていて、入口には廟行鎮記念邨と書いた門があった。

十二月五日 晴
「午後、戦跡視察。大場鎮入口の激戦地帯」
午前中、第四診療所で馬の治療。日曜なので、午後、戦跡視察に行く。一人で走馬燈クリーク付近を回る。今事変第一の激戦地と言われるだけに、日露戦争の二〇三高地に匹敵する。五、六枚雑記帳にスケッチする。上海共同租界警察部巡査木村次郎、芦沢親志という二人に写真を撮ってもらう。寶華禅寺を回って帰る。

    掲載省略 スケッチ「大場鎮入口記念門」

十二月六日 晴
「研究資料調査に付近を回る」
西野目中尉の命令で、樹木の名称調査に出かける。支那人に字を完全に書けるものがいなくて弱った。
所々に支那正規兵の死骸が残っている。第十一師団の経理部に雇っている支那人の中から、字の読み書きが出来る者を見つけて木の名称を尋ねた。

十二月七日
本日、王宅に病馬収容に行く。羅店鏡の苦戦の跡を見るのを楽しみに写真機を持ってゆく。目的の馬は、他の部隊に徴発されており、探し回って受取り月明かりの中、夜遅く隊に戻る。

十二月八日 晴
丹陽に向って第二支廠開設のため出発、上海郊外を経て南翔に至り、蘇州に着く。国立大学附属の蘇州中学に宿営。

    掲載省略 スケッチ 蘇州中学正門・第一支廠

十二月九日 晴
蕪錫を経て常州に行き宿営。城内に宿営できず、
城外の料理店らしき建物に分宿。大湖を通過する時洞爺湖のような風景であった。

十二月十日 晴
「丹陽県立珥陵小学校に宿営」
自動車で丹陽に向う、途中、他の移動部隊と併行して進むため、予定より到着が遅れる。付近は米の栽培地である。

    掲載省略 スケッチ 丹陽縣立珥陵小学校

十二月十一日
「吉田貞次郎、山本逸太郎、和田松ヱ門さんから便り(新聞)」
本日、本部にて廠務に従事する。大仕事だがなんとか成し遂げなければならない。夜、犬の遠吠えや人声に非常呼集がかかり大騒ぎをする。

十二月十二日 晴
暁の太陽を拝し、日本人としての誇りをしみじみと感ずる。死しては護国の神として護国神社に祀られ、陛下の御名代皇族のご参拝を仰ぐ国が世界のどこにあろう。実に有難き極みである。連合ニュース社の撮影に映ったので、後日、自分も見る機会があるだろう。

十二月十三日 晴
朝、支廠前で連合ニュース社が全員を撮影する、何れ故里において映写される事もあろう。

十二月十四日 晴
本日、病死馬の埋葬その他に従事。近日、病馬が多数来れば大多忙となるだろう。村からの便りも暫く手に入るまい、便りも出せず、村の人にも御無沙汰状態である。金子村長と吉田分会長に便りを書く、何時出せるやら。

十二月十五日 晴
本日、事務室で諸物の整理、印刷を行う。今ではガリ版にも慣れて仕事は楽だ。

十二月十六日 晴
「南京に前進、午後二時入城」
南京には、各師団或は陸軍諸学校、中国の最高各機関諸施設の建物がある。ここから、若干離れた地点に軍司令部があり、朝香宮殿下がおわします。中山陵を見ながら南京城門に近づく。

十二月十七日
本日、軍司令官の入城が決定した。南京城内に敗残兵が多数いるとの事で、徹底的に敗残兵狩りを行う。

十二月十八日 晴
家より音信がある、実に嬉しい、細々と書かれた家内の筆のあと。

十二月十九日
入廠馬の治療と従事した人員

十二月二十日 晴
「年賀状百通書く」
本日、快晴にて心地よし。午前中、年賀状を書く、謄写すべく考えたが、全部万年筆にて書く事とする。
南京入城のスタンプを中にしての賀状を貰う人も気分が良いであろう。

十二月二十一日 晴
「年賀状を出す」
暖かいので戦地に来ているような気がしない。先般、捺印してあった年賀状を百通出す、正月の元旦には各家につくであろう。

十二月二十二日 晴
毎日のように支廠長は徴発に行く、五十六歳の老年に達して余りにも小慾が鈍い。この度の事変に出征して誰しも記念品は欲しいであろう。このような行いは実に国賊ものだ。

十二月二十三日 晴
事務室は多忙。年賀状六十通出す。

十二月二十四日 晴
支廠の位置まだ決定せず。

十二月二十五日晴
本日、入廠馬一頭なれど雑務で忙しい。

十二月二十六日 晴
本日入廠馬十三頭、第二師団は移動している。

十二月二十七日 曇
夕方、入廠馬が多く急に忙しくなる、増員があり広瀬儀一君も来る。

十二月二十八日
本日、入廠なく残務の整理を行う。

十二月二十九日
飛行部隊との兵舎の交渉で、高亀部隊は立退きになる。余りに軽々しき措置は軍人としてとるべからざるべし。

十二月三十日 曇
本日、病馬収容所の隣に移動が決定し、約三分の一が設営に行く。部隊長以下八名の食事をハイヤーで運ぶ。

十二月三十一日 曇
逐次、全員本日中に移動。責任上、最後まで残って部隊に合流したのは九時。寝具無く、不満のうちに新年を迎えんとす。
(次号へ続く)
編集付記 掲載省略 南京攻略作戦図(編集委員挿入図) 昭和12年11月下旬〜12月
    第3師団・大倉→蘇州→常州→南京
    第6師団・湖州→広徳→南京
    第9師団・蘇州→常州→南京
    第11師団・常熟→無錫
    第13師団・福山→鎮江→南京
    第16師団・常熱→無錫
    第18師団・湖州→広徳→蕪湖
    第114師団・湖州→宣興→南京

機関誌   郷土をさぐる(第25号)
2008年 3月31日印刷   2008年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一