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山加農場の母・西口トワのこと

上富良野町大町一丁目
倉本千代子  昭和四年一月十五日生(七十九歳)

祖母西口トワは、明治三十七年、当時札幌で材木商を営んでいた加藤岩吉が土地の払い下げを受け、その命により管理人として赴くことになった夫三太郎と共に、上富良野で最も奥深い十勝岳の裾野に連なる未踏の地、山加農場に入植した。
現在の「かみふらの牧場」から更に五〇〇b程入ったところで、山加川と呼ばれる水量の豊富な川辺に居を構えていた。
南側には部落の氏神を祭る神社山、北側にはガンビ山が東西に走っており、中間に小高い山をはさんで、その両側に肥沃な畑が広がっていた。

    掲載省略 写真 祖母 西口トワ

夏になると、除虫菊の白い花が笹と共生しながら山を彩り、香りを放ち、秋には山裾に沿ってグミやグスベリ、カリンズ、ほおずきなどが赤く色づき、又母屋の近くにはリンゴやスモモ、アンズの大木が何本もあって、枝もたわわに熟すと『ちょっと手伝ってけれ』祖母の呼び声に飛んでいくと、長い竹竿を手に持っていて、枝をめがけてひと振りするとバラバラと頭の上からスモモが降って来て、歓声を上げながら籠いっぱいに拾ったのを、友達みんに平等に分けてくれるのだ。又、牧草畑の周りにはイチゴが実り牧草をかき分けながら摘んだり、更には川でのザリガニとりと、正に自由奔放な子供の世界を祖母に提供して貰った。
豊富な水を利用して水車を動かし、精麦、製粉など、ゴットン・ゴットンと快いリズムを刻んでいたし、鶏や豚を飼っていて、蕎麦を打つ時は一羽ずつ出汁[だし]になり、お正月には一頭の豚を近隣で分け合って各々の家のご馳走になると言う、総べて自給自足の生活をしていたが、只一つ牛乳はなかった。

祖母は明治九年生まれで出生地は不明だが、当時最も開拓が進んでいた道央の札幌郡月寒村番外地、堀合善治の長女として住んでいた。夫の西口三太郎は石川県能美郡粟津村の出身で、北海道に渡った経緯は定かでないが、札幌区南二条東一丁目一番地に住んでおり、明治三十二年三月三十一日に三太郎とトワが結婚している。
祖母は十五人の子どもを生んだそうで、長男の初太郎に始まり三男幸作、四男松太郎、五男幸太郎、六男梅太郎、二男は出産直後に死亡したのが戸籍簿への記載がなく、女は長女ユキ、二女ハナ、四女キヨ、六女スミ、七女スイ、八女力子、そして末っ子は卯年の夏に生まれたので、うなつ、他の二人については不明であるが、男子はいづれも太郎・次郎である中で、私の父である三男だけが幸作と言うのは不自然に思えたが、実は祖父も二男でありながら三太郎なので、竹太郎とはならなかったのかなと納得したが‥‥。
祖母は母乳が出ないので、米を一晩水に浸してすり鉢ですり、晒布でこしたものを哺乳瓶で飲ませていて、年子で次々と生まれるので、乳をつくる専属の人がいたと言う。その上、母親を亡くした孫をも引き取って育てていたので、まるで託児所のようだったと…。

祖父は何時も新聞を手に鼻眼鏡で、床の間のラジオの前に座ってチャンネルをいじっていたが、ピーピーと鳴るだけで、たまに声が聞こえても何を言っているのか分からなかった。小柄な祖父と大柄な祖母、そのどちらも貫禄があった。祖父は村会議員もつとめたが、私が小学校に入学した昭和十年に死亡している。議会に出る時は紋付、羽織、袴で、何時も夜半に角屋さんのタクシーで帰宅していた。祖母は『昨日は、じっこが酔っぱらって帰って来て夜半[よなか]にグダグダ言うので、窓から雪の中にほんなげてやった』などと、まことしなやかに言うので、作り話と思いつつも、低い硝子戸一枚の外は雪なので、祖母の体格をもってすれば或いは本当かも、と思ったり…。
祖父の死後、長男の初太郎が家督相続したが、若い頃に家を出て結婚し二男をもうけたものの、妻の死亡により子どもを連れて実家に戻ったが、その間、勘当状態だったため、その後も祖母が実権を握り一家を仕切っていた。祖母は鹿皮の袋にガマ口や札入れなど全財産を入れ、クルクルと巻いて紐で首から下げて懐に入れ、夜は二枚重ねの敷布団の間に入れて寝ていた。
昭和八年の夏、火災に遭い母屋を初め納屋、馬舎などが全焼し、そのショックで死人が出るなど、祖母にとっては最大最悪の試練を受ける事となり生活も一変した。火元の風呂場から馬舎に燃え移り、馬は火を怖がるので目隠しをして連れ出そうとしたが、一頭は大やけどを負ったものの助かったが、一頭は焼死した。納屋には一年分の食料や肥料、種子などが保管されていたが総てを失った。幸いだったのは母屋が離れていたので、ある程度のものは運び出され、私の家には避難して来た布団が山と積まれていたのを覚えている。
母屋は、たまたま新築を準備していて或る程度の資材が難を逃れたので、すぐに建てることが出来たが最小限度のもので、外も荒壁を塗っただけだった。
その後の祖母は、めっきり気弱になったようだったが、どんな時も凛として弱音をはくことはなかった。部落の人達からは『西口のばばちゃんは太っ腹で男勝りだ』と言われていたが、祭り事も好きで、お盆には家の前の広場に櫓を組み、山の上のお宮から太鼓を運んで来て盆踊りが始まるのだ。当時、硫黄山で働いていた若衆や部落のみならず遠方からも集まって来て盛大だった。
お正月にはまた親族や近隣が集まって、宝引きに花札、歌留多と連夜に亘って賑やかになるのが恒例で、祖母は甘酒を作ったり餅を焼いたり、凍ったみかんを焼くなどして歓待していた。

    掲載省略 地図 当時山加農場に住んでいた人達

男勝りと言えば祖母は裸馬に跨って、馬の飼料である稲藁を買いに水田農家に出向いたと言うことで、十数年前に取材で訪れた島津の及川うめよさんは『モンペをはいて裸馬に乗って来たよ!』と聞かせてくれた。
昭和十二年頃だったと記憶しているが、ガンビ山を開墾するため朝鮮人が働きに来た。我が家のすぐ近くに飯場小屋を建て、橋本さん家族(夫婦と子ども二人)、今村さん、吉田さんの独身者だった。
リーダーの橋本さんは明るい人で夫婦で話す時は朝鮮語で、漫才のようで面白かった。祖母は、この人達を『真面目で良い仕事をしてくれる』と喜び、信頼していた。毎日裸になって汗を流しているので、風呂を沸かしたり、食料の差し入れなどをして家族同様に面倒を見ていた。
そんな或る日、一大事が起きた。祖母が面倒を見ていた孫娘が吉田さんと駆落ちしたのだ。部落では『朝鮮人と夜逃げした』『恩知らずだ』何だの…と大騒ぎになったが『吉田さんは朝鮮人と言うだけで、真面目で人柄も良く信じられる人だ。いずれ何処かへ嫁ぐのだから、好きになった人となら辛抱するだろう』と祖母は至って冷静沈着、少しも慌てなかったと言う。しかし時が変わり朝鮮人は強制送還される事態になり、その後の消息は不明だ。
終戦後の物資不足と食糧難は悲惨なものだったが、祖母が不平不満を言ったのを聞いた事はなかった。今で言う地産地消(自給自足)で身の回りにあるものは何でも工夫して食べさせてくれた。たらの芽や蕗のとうは言うに及ばず、人参の葉は胡麻和えに、タンポポやあのイラ草やイタドリに至るまで見事に変身して食卓にのった。レシピがある訳でもない。すべて自分で考えて行動するのだった。
昭和十五年、末娘のうなつが結婚、相手は国鉄職員で満州に渡った。官舎暮らしは天国で、満人のメイドがいて掃除に炊事、家事一切をしてくれて、叔母は一日中バイオリンを弾いて官舎の夫人達と歌ったり昼食会をしたりと、正に殿様暮らしだったようだ。週一回のペースで手紙や小包が届いたが、祖母は無学なので、その都度、代読、代筆、返信の投函まで私の仕事になった。代筆料五十銭の収入は御[オン]の字で授業料以外は親に小遣いを貰うことはなく、学校帰りに駅前にあった中田商店で大福一個とか、その向かいの井上菓子店でヨーチなど、街外れの桜井さんでトマトを買って食べたり、小遣いに不自由する事がなかった。

    掲載省略 集合写真 未娘夫婦が満州へ旅立つ折に

しかし戦争が終って叔母は、タンス二棹の着物はおろか無一文、丸裸で命からがら戻ってきた。一年後に夫が戻り元の職場に復帰し、中富良野に自宅を持った。
その頃、祖母は孫家族と山加農場で暮らしていたが、高齢のせいもあり娘恋しさで、末娘と同居することとなった。自ら望んだ事ではあったが、時折訪ねると『毎日十勝岳を見て、山加に帰りたいと思う』と、本来の祖母とは思えない弱音を吐いていた。それでも当時としては長生きで、昭和三十四年八十五歳で亡くなったが、最後まで山加農場の人だったのだ。
祖母は、どんな時にも冷静沈着、堂々としていて明治の女そのものの風格があった。私が今尚尊敬して止まない祖母は、正に山加農場の母だったと思っている。
先祖を始め多くの人々が心血を注いで拓いた山加農場も、今は荒漠の地と化し、その跡形もないが「時代の流れ」では割り切れない思いが残るのも、また事実なのだ。

機関誌   郷土をさぐる(第25号)
2008年 3月31日印刷   2008年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一