郷土をさぐる会トップページ     第25号目次

―各地で活躍している郷土の人達―
望郷の大地 上富良野援農と関わりの追憶

札幌市西区西野五条七丁目六番一号
平久保 榮  昭和三年六月二十三日生(七十九歳)

『両親の農業との関わり』
父は茨城県の出身で明治三十八年の日露戦争が終って間もなく、徴兵制度による軍隊生活のあと、縁あって男爵薯の生育者である川田龍吉氏に仕えた。
明治四十一年に当時函館ドック且ミ長に就任していた川田龍吉男爵は、農事に関しても畑作農業も加えた総合農場を内地で営農した経験から、函館近在の七飯村に馬鈴薯の原種を播種し、それが成功を収めた事から、男爵薯栽培発祥の地となりました。
このイモを含む農業及び植林業や牧畜酪農業を営む拠点の「渡島当別」と「七飯・鹿部農場」の営農管理会社「恒産組」を設立し、且つ同時期に鉄道未設置の函館湾沿岸への航運事業も起業し、函館東浜町に「同回漕部事務所が設けられ、以後順次造船した第五当別丸迄の四隻が沿岸農漁村の定期船として、人や農業をはじめとする生産物の回漕事業など、『農業生産と航運』双方の事業を運営する『恒産組』であったが、鉄道敷設の完成により、以後の体制を回漕部門の改革のなかで農業経営を強力に進める必要があった。
父には毎週の曜日からくる休みの感覚は無いに等しかったようで、小学生の頃、当別や大野、七飯、鹿部の畑作状況や水田の稲作を見ながら状況によっては水田に入り「ひえ抜き」や「除草」の手伝いをしたことの経験は、父が自分が歩んでる姿を学ばせる意味で五人兄弟を交替で連れていったように思われます。
また家に隣接の約百坪の畑作地に、四季折々の色々な苗や種が蒔かれ、成熟を楽しみにしていた輪作地が昭和二十年八月十五日の終戦後は、完全に薯専用畑に転換せざるを得ない位、食糧事情が逼迫した状況に苦労した父を思いだします。我が家の百坪畑の有効活用のため、父が私の上富良野で習得した知識を参考にしてくれた事など、懐かしく思いだされます。
母は秋田県の生れで父親が稲作農家の次男であり、その親族の殆んどが稲作を主とした農業を営んでおりました。
昭和十四年頃、母と秋田の実家に里帰りをして内地の水田を始めて見ました。春まだ浅い頃でしたので残雪が残る田圃もあり、馬車が通れる道巾の電柱から垂れる電線に藁靴がぶら下がっていたのが印象に残っています。
田圃の区画が北海道より小さく感じましたが、三年前訪れた時、状況が一変しており所有の田圃を大営農方式の組合に任せる時代へと変化しつつあるとの事でした。伯父が七十八歳で妻や兼業の娘夫婦では自力での農業経営は不可能との事でした。六十六年ぶりの訪問で大きな変革を見た母の故郷農業の実体でした。
戦中戦後の米不足の時代、秋田の伯父からの入手も儘ならぬとき、上富良野の本田さんに出向いて分けていただいたお米に両親はいつも感謝していた。
『在校時、函館商業が歩んだ途と時代背景』
昭和十七年四月、史蹟五稜郭城址の濠に画し、明治維新の香気が漂うなかに、道内商業教育の先進校として誕生した「北海道廰立函館商業学校」に入学しました。然しながら時恰も前年の十二月八日に大東亜戦争が勃発し風雲急を告げる時局が、本来目指した勉学をも中断せざるを得ない事態へと突入していった。
昭和十七年一月九日付の「国民勤労報国協力令」は、入学した函館商業にも六月二十四日からの厚沢部村への学徒出動命令が下り、四学年(次兄が同学年)「援農生」の第一陣として派遣されたのが本校勤労動員の始まりでありました。
我々の学年も近在の農場の薯掘りに始まり、三学年の十九年からは「決戦非常措置要項」に基づく「学徒の通年動員」が決行され、農村への「援農」は奇数月に主に十勝の大正村、御影村、芽室町を隔月に奉仕し、偶数月は鉄道複線増設工事・函館ドックの造船作業・函館有川埠頭造成工事・石炭荷役関連作業などに従事し銃後の守りの尖兵として汗を流しました。
その頃我家の長兄は航空隊で本土決戦に備えていた。次兄は満州本渓湖煤鉄公司勤務で十九歳でしたが一年繰上げ徴兵で二十年には関東軍に入隊、ソ満国境警備の末、四年半に亘る抑留生活という生死に関わる過酷なシベリアでの運命を知る由もなかった。
さらに次兄と同期生の中村特攻隊員は、二十年一月八日ルソン島湾上で米艦に体当り壮烈な戦死を遂げられた。この痛ましい現実のなかで、さらに函商勤労報国隊も昭和二十年の本土決戦防衛力の一翼を担い五月から嘗つてない長期に亘る「勤労即教育」の出動先が「十勝連峰を背景に広がる北の大地上富良野」に決定したのでありました。
出動が春、夏、秋と長期になることが、両親としては巳[すで]に兄二人を軍隊に送り出し、日本の前途に対しての不安感を覚える中、親の手許からまた一人長期に亘って離れることの心中を察して余りありました。
母は作業用の着替えや当時のパンツ代りの褌を数枚縫ってくれて、自分で洗濯して清潔にする様にと言われた事が思いだされます。
『本田様宅(援農先)との思い出』
昭和五十年の早春、紋別での所用後愈々懐かしい上富良野町本田茂一さんのお宅再訪に踊る心を抑えながら西一線北二十四号沿線の本田さん宅に到いたのは已に午後六時を過ぎていたが、ご家族皆様が再会を心待ちに迎えてくれました。
お祖父ちゃんが壁を背にして豪快な風格に満面の笑みを湛えておられましたが、お祖母ちゃんが亡くなられた事を知り、ご仏前にお世話になった当時を追憶しご冥福をお祈りいたしました。
応召された茂さんが帰還され、ご両親、千代乃奥さんや子供さんの健祐さん、邦光さん、どんなにか喜ばれたことかとその後のお便りで拝察してました。
それには、私達が本田さん援農に入った時点で次男の信夫さんがすでに戦場にて壮烈な戦死をとげておられたからです。お祖母ちゃんが如何に「軍国の母」と称えられようと深い悲しみは生涯消える事はなかった事でありましょう。
更に帰還された茂さんが最前戦での死闘のなかで蝕んだ病いが両足に及ぶ痛ましい結果を知り、断腸の思いがした。ご一家の暖かな愛情と環境のもと、北大での手術の結果も大変良好で、訪問時も頗るお元気で、暫時奥座敷に行かれた手に二句の短冊を詠まれ、「来訪の記念にどうぞ」といただきました。
  「ビル林立 雷鳴ぶつかり合ふ 札幌の街」
  「樹氷咲く 綺麗なす星の 微粉刷き」
       平久保大兄 上富良野行脚に寄せて
奥深いお人柄に感動を覚えました。

お祖父様も夜更けも厭わず、話題が畑作の男爵薯談義などや、当時稲作品種については、農林二十号が奨励品種であった事をよく記憶されておられるのには、吃驚し、且つ、『あの時は有難う』の言葉は忘れられない感涙のひと言でした。
奥さんはお忙しい家事の中をお鮨や、懐かしい手造りの三十年ぶりの味で堪能させていただきました。種蒔きに始まり季節による多種多様の作業を経て刈り取りに至る間の、近処同志の応援体制も、畑作は菊地さん、宮下さん、水田は三好さんが主でしたが、援農生は本田家のみでしたので『頼りにされてましたよ』と奥さんが当時の情報を教えてくれました。『少しは役にたったのかなー』と、これも本田家皆様のお陰でした。銃後の護りのこれらの努力とは裏腹に、稲の生育状況は七月十日現在で平年作比十日遅れが更にその後の天候不順も重なり立ち穂の刈りとりも極力遅らせたりしたが未曽有の凶作の年となった思いでの反面、当時四才の健ちゃん、一才の邦ちゃんが立派に成長され、健祐さんは家業の農業を継がれ、邦光さんは農協でご活躍と承り、ご家族と共に幸せな本田家のご繁栄を喜び、再訪を約して、午後十一時帰路についた。
退職後、第二の職場に転職したあと昭和六十年に本田さんを訪れたが十年の歳月は長過ぎました。
健祐さん皆様が時期的に忙しくお留守でしたので、お祖父様お父様のご仏前に合掌し、ご入院中の奥様のご加護を祈念して、上富良野滞在一時間程の悲しく寂しい心中の帰路でした。
平成五年から七年迄の間に後述の、東中中学校、下田達雄校長先生著作の「昭和の軌跡」の縁で三回、上富良野訪問が実現し、本田さん宅も訪問しました。
又、平成十七年の夏、家族旅行で本田さんも訪れました。前夜、ホテルで成人した孫と中三の孫に「上富良野援農とは」を話し翌日本田さんを訪れ健祐さんご一家と楽しい交流の一と時をすごしたあと懐かしい畑から沢山のお土産をいただき、ラベンダー発祥の丘や、土の館を見学し、「孫の旅、上富良野編」は東中を経由して一路富良野へと向かい帰途につきました。
『函館商業援農生の上富良野の想い出』
勤労動員の最後となった上富良野援農が終った昭和二十年十一月十六日に帰校復学し、四年卒業(戦時特例による)と五年卒業(平時教育体制への転換)を自主撰択した時代背景にあっても、同期の友が、学校時代を語る話題はいつしか上富良野へと及ぶ心境を「昭和の軌跡」に寄せております。
(下田達雄著「昭和の軌跡」より引用)
 (一) 辻善市宅 東八線北十八 八幡四郎
 (二) 渡辺貞藏宅 東五線北十八へ転属
辻宅で田植えが始まった頃援農学校配属区画の変更により転属した。稲刈りの稲架掛は凶作のため遅れ初雪が降る。別れの日、早朝より赤飯や好物の餅などで帰函を祝っていただき、惜別の念堪え難きものがあり、リュックに膨れたお土産と当時東中で将棋名人でした貞藏さんからの貴重な一勝のお土産もいただき、家族の一員になりきっていた渡辺さん宅に別れを告げた。
尚、辻さん宅の後継女子援農生の一人がのちに八幡君と結婚し札幌で睦まじく「かみふらのに感謝」しております。
 (三)田村岩藏宅 美馬牛鉄道沿線 三浦善次
〇五月〜十一月迄、八十八の手間がかかる農作業を体験。
〇お嫁さんは、農作業以外にも家事全般、育児、洗濯など、と全く休むことなく働く方でした。
〇十勝岳大噴火による大泥流の恐怖を聞く。
〇低温続きのため水田五町歩も不作だった。
〇昭和四十九年に訪問したが、ご両親、長男さんは他界され、お嫁さんも息子さんと離農し移住されていた。
 秋の夕暮れは早く、上富良野を辞した。
 (四)大谷豊作宅 東中 星徳雄
〇お国の為の援農は、自由で楽しかった。
〇「米俵一俵担がねば一人前に非ず」と聞き、けい古の積み過ぎでギックリ腰となる。
〇援農生活は学力中心の画一的な教室では発見できない人間学を勉強できた。
〇凶作で深刻な食糧危機の中を、大谷さんのお陰で入手できたお米に助けられた。
『昭和の軌跡発刊に感謝』
    昭和の軌跡 北の大地への学徒勤労動員
         ―北海道上富良野村の場合―
        著者・編集、下田達雄 平成七年二月五日発行
平成五年の春、上富良野東中中学校校長下田達雄先生からいただいた一本の電話に、半世紀前の戦時中から戦後にかけての「上富良野援農」の実態解明に着目いただいた先生の直向きな声と歴史に挑む姿に感動したことを思いだします。
本田茂一様宅に春の種蒔きに始まり初冬迫る十一月までに、所有作物を刈り終えて農業会に納めた勤労の百八十一日間の援農記を拙稿ですが寄稿させていただきました。四五六頁に亘るすべての頁が上富良野援農(昭和十八年から二十年)三年間の実態解明に欠せない貴重な学徒の声が下田校長先生の―上富良野村の場合―を待ち望んでいたかの様に寄せられた事実は、先生のご決断に感謝するのみです。
『今も新鮮な思いでの上富良野に幸福あれ』
     西一線の亜麻畑に隠れ
        グラマンの飛び去るを見た空に
          今はみ仏の姿美しく目ばゆく映ゆる

昭和二十年七月十四日は富良野機関庫空襲後に上富良野上空を飛ぶ敵機に身を隠した思いを、五十年後訪れた折、当時の亜麻畑が続く、北二十四号線の丘の上に建立された仏像に、平和への願いを垣間見ることができました。
曽つて、援農生を引率された長野県在住の滝沢和夫先生卒寿を祝う為二十二名が訪れた祝賀の席での先生が「この山奥に五十年も昔の生徒が二十数人も訪ねて来る等思いがけない事でした。通知をいただいてからこの日を心待ち待っておりましたが一方心の中には忸怩たる思いもありました…。」と話されたご心中が五十年を経ても戦中の軍国調の学園での指導を苦渋の思い出として残っている先生の誠実な人柄に感銘を受けました。
上富良野と引率教師と援農学徒の絆は青春の思い出と共に固くいつ迄も生き続ける事でしょう。

     ああ青春の 懐しき土よ 尊き汗よ
      望郷の想い尽きぬ  援農の丘
    上富良野  大雪のやまなみ  十勝岳、鳴呼

上富良野町のご発展をお祈りいたします。
掲載省略 写真 昭和21年函館商業4年(終戦後)
掲載省略 写真 援農時代の私
掲載省略 写真 本田さん宅との家族写真
掲載省略 写真 カミホロ荘にて(平成6年7月11日)
掲載省略 写真 援農同期生

機関誌   郷土をさぐる(第25号)
2008年 3月31日印刷   2008年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一