郷土をさぐる会トップページ     第25号目次

―各地で活躍している郷土の人達―
「私のふる里は恋心」

     福島県会津若松市日新町三番四十八号
     斎田早苗(ときたさなえ) 昭和十四年一月生(旧姓伊藤)

人は何故、いつまでも限りなく郷土ふる里を思うのでしょう。
私の生命の中に、あの郷土から芽生えた草花、水や空気や土、畑から採れた食べ物が、私の中に生き続けているからなのでしょうか。そこで出逢った人々や出来事が、私の人生の基となっているからなのでしょうか。
私のふる里上富良野は、遥かに遠い町ではなく、何時でも今でも私の中に蘇ってきます。
ふる里を書くことは、ほのかな恋心にも似た恋文を書く様で、甘く切なく心地良いノスタルジーです。
まず、上富良野を思い出すとき、誰でもがそうであるように十勝岳の雄々しい姿です。
あの淡い朝やけを背に、どっしりと壮大に十勝岳連峰が横たわり、黒々とした山並みの姿を現し始めたとき、ところどころに光り輝く鋭い閃光は余りにも崇高で、何時も私の心を惹きつけていました。

春夏秋冬、季節に織りなす衣替えは見事で、あれほど美しい天然の美はありません。青い空が本当に広く感じられ、開放感に満ちていました。
只今は、会津磐梯山を見、猪苗代湖を望む歴史の町会津若松市に住み、五人の子供達はこの山や湖をふる里の景色として育っております。
私の祖々父伊藤喜太郎は、明治二十五年に富山県西蛎波郡石黒村大字前から岩見沢の郊外幌無為原野に移住し、明治二十九年に現在の中富良野町西中地区に入殖しました。
西中の開拓記念碑にも書いてある通り、妻に死別してから長男を奉公に出し、祖父正信など三人の子供達を連れて北海道に渡り、前借したお金を元手に農機具を買い、西中地区で開墾を始めたのでした。
話は、聞くも涙語るも涙で、当時の辛酸辛苦は想像を遥かに超えたものであったと聞きます。
僅かな塩を求めに、遠く西神楽の旭農場まで徒歩で行くので、祖々父が幾日も家を留守にしている間、残された子供らはひどく寂しく、失望し、お互いに紐を結び付けて川へ身投げを試みたりしたことが、幾度もあったそうです。厳寒の冬はなおの事、「よくぞ生き延びることの出来たことが、不思議なくらいであった」と、祖父正信が父正勝に話しておりました。

注 伊藤喜太郎は、西中地区で足掛け四年ほど農業に従事した後、明治三十三年七月に長男喜一郎と共に上富良野市街地に宅地の貸付を得て移住し、運送業を営んでおり、明治四十二年に六十四歳で死去している。郷土をさぐる第三号「畜産一筋に生きた伊藤家の歩み」伊藤富三著の中で、『父正信は島津農場で二箇所変わって農業を営む』とあるが、「島津百年史」の小作人名簿によると、明治四十三年に伊藤喜一郎名義で東一線北二十号の場所に載っている。
大正八年に久保茂作名義に変わっているので、その間は、正信は長男喜一郎とともに、農業と運送業のほか農耕馬の商いなど色々な事業を展開していたものと思われる。
正信は大正七・八年頃宗谷方面で商いを営んでいたようであるが、詳しくは解らない。

私の父伊藤正勝は、祖父の苦労の甲斐あって、かなり豊かになってきた時期に育ちました。
十勝岳の勝を名前に頂いています。日本大学獣医学部を出て、上富良野三町内の地で獣医を開業しておりました。当時は、全ての馬が農耕馬の時代で、朝暗い内から家の前には近遠の馬が治療を受けるために、ずっと向こうの方まで長蛇の列を作っておりました。そして寒さのため、馬の鼻から白い息を吐きながら順番待ちをしていたことを覚えております。
父の許には、助手が加藤さん、高田さん、本間さん、岡さん、国さん、お手伝いが千代子さんと数人おりましたが、毎日がとても忙しく、経済的には潤いのあった時代でした。
父は、趣味も多く、白の白衣に革の長靴を履き、オート三輪はハーレー・インデアン等のバイクに乗って往診していました。また、ギター、マンドリン、バイオリン、アコーディオン、尺八を弾いて楽しんだり、テニスコートを持ってテニスをしたり、麻雀を打ったりもしていました。当時、麻雀牌を持っている人が少なく、町の人達がしばしば父に借りに来ていたことを覚えています。また、馬の絵を描く事が好きで、良く馬主の方の愛馬を描き差し上げておりました。
町に、初めて電話がひかれた時の我が家の電話番号は三番でした。(一番は役場、二番は山本木工場であった)

私と妹は、日本舞踊(藤間流)を習い、上富良野劇場を借りて発表会をしたものでした。劇場と言えば、上富良野劇場と日本劇場でした。夕方に近くなると大型スピーカーで美空ひばりの「悲しき口笛」、春日八郎の「お富さん」、島倉千代子の「この世の花」など、それはそれは賑やかで心がウキウキする一時でした。
その当時の楽しい家族の団欒は、映画ポスターに惹かれて映画鑑賞を楽しむことでした。洋画になりますと、上富良野から旭川市まで観に行くという時代で、当時なりに夢とロマンがありました。こうした学生時代に、親や学校に内緒で密かに観に行ったのは私達だけではなかったと思います。
まだ、開拓の気配が残る私達子供の頃は、隣近所からお互いに、味噌、米、醤油を貸し借りし合う生活でした。こうした共存の人情は、何とほのかで哀愁の満ちたものであったことか、子供なりに感じたものです。
映画の一シーンの様に、レトロに煙突の煙や七輪の煙のように、それは温かく優しくゆらぎ立ち上る印象を受けたことを今でも覚えております。
上富良野への自衛隊の移駐が本格的になって来た昭和三十二年に、父は鉄道沿いの荒地の一角に花園商店街という街並を造りました。そこは、当時の花園(現在の富町)で、ダンスホール・ニュージャパンにはミラーボールが華やかで、周辺には色々なお店が出来ました。
当時としては、まだ、コーヒーが珍しかった時代で、我が家では花園商店街の入り口に「望知香[ボーチカ]」という喫茶店を造りました。この店名の由来は、当時自衛隊の鴨川連隊長様に名付けて頂いたもので、その意味は、「望みつつ知りつつ来るやこの香り」ということでした。
雪の降る賑やかできらびやかなクリスマスパーティーの時は、とんがり帽子にクラッカーを打ち鳴らし、楽しい町のお祭りでした。
鉄道の富良野線も、富良野高校に通学していた頃は、たまに発車時間に遅れても、私が手を挙げて振り続けながら駆け込めば、待って下さる良き時代でもありました。
そんな心豊かで恵まれた地に育った私は、成人式を迎えた後の昭和三十五年頃に劇的な人生の転機を迎える事になりました。
それは、母君江の強い信仰心の芽生えです。誰にでも宗教心、信仰心はあるものですが、幕末から明治の激動の時代に、天理教祖といわれる中山ミキ様の生き方、考え方、悟り方、子育て方、家庭、親子、夫婦に至るまでの悟り方に対する強い意識の変化が起こり、母は天理教に対する求道の生活へと変わっていったのです。
昭和三十五年に一家を挙げてふる里上富良野を去ることになりました。

その第一歩は鎌倉でした。父は、先ず最初に犬猫病院を開業することから始まりました。
鎌倉はお屋敷町で、犬猫を飼うお宅が多く、父が経営する犬猫病院はお陰さまで、たいへん繁盛しました。
その当時私が二十一〜二十二歳の頃、病院に来られたお客様の中に日本舞踊のお師匠様がいらっしゃいました。シェパード犬の治療にいらしたのがご縁で、私の好きな日本舞踊のお稽古を受ける事が出来、発表会には三菱ホール・白木ホール・松屋ホールなどに出させて頂き、お引き物は鎌倉のサブレーでした。
その頃、父は近所の人に勧められ、創価学会の信仰に熱心になり始めました。当然、母は天理教を信仰しておりましたので、両親の仲は険悪になり、母は止む無く長男義昭・次女瑠璃子・四女寿子を連れて東京布教に出ることになりました。
私は父の手伝いで家事をし、弟妹の世話をするため残ることにしました。
父母が別居生活となり、お互いの心に隙間ができ、すれ違いが続いていた折に、借りていた家が石油ストーブの不始末から火事になり、焼失して、借金を作ってしまいました。
その直後、火事のお見舞いに頂いた貝の缶詰めを食べた三女園子(五歳)が赤痢にかかり、急遽入院致しました。驚いた母が東京から駆けつけ、神様にお願いして御守護を頂きました。
火事で借金ができたので、返済のために止む無く犬猫病院を売りに出し、借金の返済に充てました。
妹園子の病気がきっかけで父母の心もひとつになり、父も天理教に移って両親が元通り仲良くなってくれました。このことから、心の乖離[かいり]が火事や病気の災難を引き起こすことになることを、つくづく反省いたしました。

日本の現在の進んだ世の中で、狂った不幸な出来事や哀れな事件が絶えることのないのは、人間の心の持ち方や考え方が、真理に背いているからでしょうか。このことは、進んだ文明においても追いつくことの出来なくなってきたことを、大自然という親が人間に対し教えられているのだと……。こうした求道の生き方にこそ、本当の子孫繁栄の道があると、師を求め、教えを求める生活が始まりました。
その後、家族揃って東京に移り住むようになり、父は資元組合に勤めることとなりました。
そんな折、私は母に連れられて所属の違う東中央大教会に参拝に参りましたが、その参拝に会津若松から主人も参拝に来ており、その時に見初められて結婚することとなりました。
私が結婚して六年ほど経った頃、父と共に弟の長男義昭、二男正之、三男一郎、四男伸の四人で山中湖にペンションを作り、天理教の教会も建てました。
また山中湖で、父と長男義昭、四男伸は、手作りの看板製作も致しておりました。
三男一郎は、親戚の叔父(父の妹の夫)陶芸家伊奈正平(人間国宝)に弟子入りして修行し、陶芸家になって山中湖に窯を作り、陶器を焼き、お店を出して陶芸教室を開いたりしました。
父も良く一郎の窯を訪れ、陶器を作っていました。
一郎の作品はスマートでしたが、父の作品は私から見てもどうもゴテゴデとしたもので、人情味のある物が多かったと思います。父が工房で作品を作っていると陶芸家の大先生が見えて認められたらしく、良く父の作品が売れたようです。
母君江は、布教の御守護により天理教温永[おんえい]分教会を作り、初代会長になりましたが、七十歳で出直し(逝去)致しました。
父正勝は、平成十四年十月二十五日に自宅で九十歳の天寿を全うしました。
ふる里に錦を飾ることはなくとも、ふる里や子供達に心の応援歌を何時も唄い続けております。
少し、上富良野出身者として、ささやかな自慢話にもならない現在のうれしい出来事を祭儀に語らせて下さい。
現在、私は会津若松市の城下町に住み、妹瑠璃子は東京で、弟(長男)義昭は富士山の麓山中湖畔で、夫々天理教教会を持って、人の運命に光を当て、指針を与える天理教の布教を担っております。
また、父伊藤正勝、母君江の遺徳に花を咲かせ、実り実らせ、長男義昭は山中湖畔で英国調のペンション宿泊施設「陽気館」、ギャラリーショップ、レストランを経営し、分教会長を致しております。二男正之は建築の仕事に従事しており、三男一朗は陶芸家として活躍し、工房を開いております。四男伸は建築の仕事に携わり、二女瑠璃子は東京の天理教島ケ崎分教会に嫁ぎ、三女園子は甲府に、四女寿子は
横浜に夫々嫁ぎ、皆良き伴侶にも恵まれて元気に暮らし、感謝致しております。
紆余曲折の人生航路も人の世の常ですが、私どももまた劇場から流れ聞いた演歌のように、人生の浮き沈みを味わいました。
想えば、これもあれもそれも豊かで美しい自然の中で培われた郷土、上富良野から得た感性や情緒、出逢うことの出来た友人や恩師、開拓の鍬をおろした先祖の求道から得た学びであると、何時もながら辿り着くのは、やはり昔懐かしいふる里上富良野であります。
美しい響きと語調をもったふる里上富良野に感謝を込めて、郷土の発展を心よりお祈り申し上げます。
掲載省略 写真 発表会にて(私・早苗)
掲載省略 写真 当事開業の犬猫病院
掲載省略 写真 家族集合
掲載省略 写真 私・早苗21歳の日舞発表会から
掲載省略 写真 鎌倉にて・伊藤家一同
掲載省略 写真 在りし日の父・正勝(平成14年没)
掲載省略 写真 弟(長男義昭)経営のペンション「陽気舘」前にて
<斎田早苗さんの略歴>
昭和十四年一月九日 上富良野村市街地で生まれる
昭和二十六年三月 上富良野村中学校卒業
昭和二十九年三月 上富良野町中学校卒業
昭和三十二年三月 第七回富良野高等学校卒業
昭和三十五年 二十歳で家族と神奈川県鎌倉市へ転出
昭和三十八年十一月六日 二十三歳時に会津若松市の斎田壮介(三十歳)と結婚
昭和五十七年二月二十二日 壮介死別
昭和五十七年五月 早苗天理教東北中央分教会長になる
平成七年 五十六歳時に長男竜介に天理教東北中央分教会長を譲る

機関誌   郷土をさぐる(第25号)
2008年 3月31日印刷   2008年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一