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−石碑[いしぶみ]が語る上富の歴史(その13)−
十勝岳産業開発道路記念歌碑

上富良野町本町
中村 有秀 昭和十二年十一月二十八日生(六十九歳)

 春あけやらぬ
   十勝の  拓道に
    防人の  若き力を
     たぎまする

建立年月 昭和四十二年九月
建立場所 凌雲閣横の登山口左側
短歌詠者・揮毫者 第五代 第二師団長 渡辺 博 陸将
設 置 者 上富良野町

一、石碑に刻まれた十勝岳道路施工部隊と短歌
十勝岳産業開発道路記念歌碑の左側面に施工部隊として、施工年・施工部隊名・作業隊長名が左記の様に刻字され、困難な作業の歴史が刻まれている。
第五代第二師団長渡辺博陸将が詠まれた短歌は、十勝岳産業開発道路記念歌碑に前頁にあるように『春あけやらぬ十勝の拓道に防人の若き力をたぎまする』となっていますが、渡辺博陸将が詠まれた短歌の原歌は次の通りです。

   ― 防人の 若き力を
            たざまする
         春あけやらぬ 十勝の拓道に ―

記念歌碑に刻字されている歌は、短歌の形式「五・七・五・七・七」から考えると誤りではないかとの指摘がありましたが、歌碑に刻字する時は『置換法』という手法があるので、一概に誤りではないと言う歌人の言葉もありました。
しかし、当時の役場担当者に聞くと、揮毫された原文を何枚かに分けられた時に、石工さんが誤って貼付し岩額面に刻字されたのが後に判明し、町理事者から指摘されたと語っていました。
しかし、第五代第二師団長渡辺博陸将の短歌は、工事に関わった施設隊と支援部隊の隊員−若き防人−の偉業を讃え、歴史に大きな足跡を残されたことへの思いは変わりはないと思います。
二、『十勝岳産業開発道路記念歌碑』の建立経過
上富良野町の長年の懸案事項であった『十勝岳産業開発道路』が、昭和三十六年七月四日から自衛隊第三〇八地区施設隊を基幹とし、第二施設大隊(旭川)の支援のもとに、第一期工事が中茶屋から着手された。
昭和三十六年の第一期工事から、昭和四十年の第五期工事まで五年間の長く困難な工事が、自衛隊施設部隊の大きな力と、上富良野駐屯地の各部隊の支援によって、中茶屋から凌雲閣前までの八・八粁米の道路が完成されました。
『十勝岳産業開発道路』の工事が着々と進む中で町営国民宿舎『カミホロ荘』の新築工事も進められ昭和四十年十月八日に営業を始めた。
この『十勝岳産業開発道路』の開通により、昭和四十二年十一月十二日に防衛庁共済組合による十勝青年隊員の家『上富山荘』が開業された。
砂利道ではあるが道路完成により、十勝岳登山者の増加と、十勝温泉郷として開発されつつある状況の時に、第二師団第五代師団長として『渡辺博陸将』が昭和四十一年七月一日に着任されました。(昭和四十三年三月第一師団長に栄転離任)着任後は、第二師団隷下の各駐屯地、各部隊の検閲、視察等を行う中で、上富良野駐屯地、十勝岳産業開発道路の完成・防衛庁共済組合による『上富山荘』建設等の状況掌握と共に、上富良野町関係者との懇談も行われました。

十勝岳道路施工部隊

昭和36年 第308地区施設隊 作業隊長 山崎3佐
昭和37年 第104施設大隊 清水1尉
昭和38年 第308地区施設隊 横岸3佐
昭和39年 第102施設大隊 岡田2尉
昭和40年 第2施設大隊 菊池1尉

支援部隊 上富良野駐屯部隊

    写真省略 町営国民宿舎「カミホロ荘」(昭和40年10月8日営業開始)

渡辺師団長は、十勝岳産業開発道路が施設部隊と上富良野駐屯地各部隊の支援により、非常に厳しい地形と気象変化が激しい山岳地帯で、部外工事としては異例ともいえる五年間の長きにわたる隊員の労苦を心から讃えられ、この道路工事に携わった施設部隊と、そして個々の隊員の大きな誇りであり、この十勝岳観光道路を利用された人々が、若き防人の艱難辛苦の努力の足跡を知り、そして後世に伝えていかなければならない気持ちを、三十一文字の短歌に託し詠まれました。

    ― 防人の 若き力を たぎまする
         春あけやらぬ 十勝の拓道に ―

渡辺師団長が心魂を込めて歌を詠まれたことを知った上富良野町関係者は、『十勝岳産業開発道路記念碑』の建立について申し入れを行うと共に、その短歌の揮毫をお願いし快諾を得たのでした。
碑は十勝岳登山道路入口にある自然石に額を入れて

    ― 春あけやらぬ 十勝の
           拓道に
         防人の若き力をたざまする ―

と刻まれると共に、歌碑の左側には『十勝岳道路施工部隊』として、工事年、施設部隊名、作業隊長名が刻まれ、昭和四十二年九月に除幕されました。
ただ『十勝岳道路施工部隊』の刻字面が、読みにくい場所なので、『十勝岳産業開発道路記念歌碑』の由来説明版の設置を上富良野町に要望をしている所です。
登山者や観光客等の皆様が、原始林の中を登って来た道路・急峻な坂が、若き防人の力で完成されたことを伝え知っていただきたいと願っています。

  写真省略 防衛庁共済組合十勝青年隊員の家「上富山荘」の起工式(昭和42年5月22日)
  写真省略 防衛庁共済組合十勝青年隊員の家「上富山荘」の開館(昭和42年11月12日)
三、十勝岳産業開発道路の完成を短歌で詠み
        記念歌碑に揮毫された渡辺師団長とは
『十勝岳産業開発道路記念歌碑』の建立に、隊員の心を歌で詠み、そして自から揮毫され、大きく関わった『第五代第二師団長渡辺博陸将』の人物像に感心が高まり、調査の結果を記します。
  第五代第二師団長渡辺博陸将の略歴
        出身地熊本県
        生年月日 大正三年三月十八日生
≪軍歴≫
●昭和五年四月 陸軍士官学校予科入校(第四十六期生・歩兵)
●昭和七年三月 陸軍士官学校予科卒業(第四十六期生・三四八名)
●昭和七年四月 陸軍士官学校本科入校
●昭和九年四月 第四十六期生満鮮戦跡視察
●昭和九年六月 陸軍士官学校本科卒業 (第四十六期生・三三八名)
歩兵一八三名・野砲兵四十一名・騎兵二十四名・重砲兵二十六名・
工兵二十六名・輜重兵九名・航空兵二十九名
●昭和十五年十二月 陸軍大学入校(第五六期生)
●昭和十七年十一月 陸軍大学卒業
●昭和二十年八月 陸軍少佐で第十四方面軍参謀としてフィリピンのミレトハウスで終戦
≪自衛隊歴≫
●昭和二十七年八月 第四管区総監部第二部長
●昭和二十八年十二月 第四管区総監部第三部長
●昭和二十九年八月 陸上幕僚監部第五部
●昭和三十年九月 陸上幕僚監部企画班長
●昭和三十三年三月 第十九普通科連隊長
●昭和三十三年八月 第五管区総監部幕僚長
●昭和三十四年十二月 陸上幕僚監部監理部副部長
●昭和三十八年八月 陸上幕僚監部第三部副部長
●昭和四十一年七月 第二師団長
●昭和四十三年三月 第一師団長
●昭和四十四年七月 中部方面総監
●昭和四十六年七月 退職
●平成十八年二月十六日 逝去される(享年九十三歳)
四、『十勝岳産業開発道路』完成までの歩み
『十勝岳産業開発道路』の完成までに、町長、町議会議員の総辞職を含め、様々の出来事が工事着工から完成までの五年の間にありました。
道路完成までの道程と、その後『十勝岳産業開発道路』の竣工を契機として、一躍観光地としての生まれ変わりを辿ります。
昭和三十四年
(十二月) 商工会長、山本逸太郎氏より提出された中茶屋から旧噴火口に至る道路の開発に関する請願が町議会で採択されたことから、十勝岳産業開発道路の計画が本格化した。

昭和三十五年
(六月二〜三日) 役場土木課職員によって、開発道路調査が実施され、旧噴火口下より八百米附近を終点とした。
(十月) 第三〇八地区施設隊により本格的な測量が始められた。大西一尉を指揮官とし、役場土木課職員が見通しの悪い木や笹を刈払って、全長八粁米に余る測量で、日没が早く、奥に入るほど山は険しく寒さが加わって、笹の上には雪が積っていたので、ズボン下が腰まで濡れ測量隊は大変であった。

昭和三十六年
(七月四日) 第三〇八地区施設隊と第二施設大隊(旭川)により『十勝岳産業開発道路工事』が、中茶屋から第一期工事として四、一〇〇米の工事に着手。
(七月十四日) 十勝岳温泉旅館(代表 會田久左エ門氏)建設に着手。
(七月二十四日) 道道吹上上富良野線・中茶屋分岐点から吹上温泉跡に至る延長十三・五粁米、幅員六・五米を町道に認定。
(八月十四日) 『十勝岳産業開発道路』の起工式が中茶屋で実施。

  写真省略 十勝岳産業開発道路起工式右側に立つのは海江田町長(昭和36年8月14日)

昭和三十七年
(六月七日) 第一〇四施設大隊(南恵庭)により『十勝岳産業開発道路工事』の第二期工事として二、一四六米の工事に着手。
(六月二十九日) 十勝岳が噴火し、噴火が高さ一万余米に達した。第一〇四施設大隊は作業テントから旧旭野小学校へ器材撤収と共に避難する。
(八月三日) 十勝岳温泉株式会社設立、代表者 會田久左エ門氏

昭和三十八年
(六月十九日) 第三〇八地区施設隊により『十勝岳産業開発道路工事』の第三期工事として一、三六〇米の工事に着手。
(七月一日) 旭川電気軌道KKのバスが、毎週土・日曜に上富良野駅前発−吹上温泉の二往復を、毎日運行となる。
(七月十二日) 十勝岳温泉『凌雲閣』が完成し開業す。社長 會田久左エ門氏
(七月三十日) 『十勝岳産業開発道路工事』の委託契約の専決処分問題で町議会が紛糾して、議員が総辞職、八月一日に村上町長が辞職。この事によって、上富良野町議会議員選挙は地方統一選挙から四カ月遅れることになった。

  写真省略 十勝岳温泉凌雲閣(昭和38年7月12日開業)

昭和三十九年
(六月二十二日) 第一〇二施設大隊(岩見沢)により『十勝岳産業開発道路工事』の第四期工事として、五〇〇米の工事に着手。

昭和四十年
(五月二十五日) 第二施設大隊(旭川)により『十勝岳産業開発道路工事』の第五期の最終工事として六〇〇米の工事に着手。
(七月四日) 旭川電気軌道KKのバスが、十勝岳新設道路により十勝岳温泉凌雲閣前までの運行を開始。
(七月二十七日) 五カ年の継続事業して工事を進めていた『十勝岳産業開発道路』が完成し、竣工道路の受渡しと、開通式が行われた。
(十月八日) 町営国民宿舎『カミホロ荘』営業を始める。

  写真省略 開通式での海江田町長・市来司令(昭和40年7月27日)
  写真省略 自衛隊施設部隊により進められていた上富良野町十勝岳開発道路の引き渡し式と渡り初めが行われた。
         砂利道ではあったが、現在の十勝岳に至る道路の礎となる工事を完了した。(昭和40年7月27日)

昭和四十一年
(二月二十二日) 高松宮殿下、三笠宮ィ子姫宮一行が『カミホロ荘』に一泊、翌日『凌雲閣』に立ち寄られて温泉スロープでスキーを楽しまれる。

昭和四十二年
(五月三日) 第一回全道十勝岳大回転競技大会(十勝岳温泉コース)で開催。後に北海道スキー連盟A級公認大会となる。
(九月) 十勝岳登山口に、第二師団長渡辺博陸将が詠んだ短歌を揮毫された『十勝岳産業開発道路記念歌碑』が建立される。
(十月一日) 十勝岳温泉地区が『国民保養温泉地区』の指定を受ける。
(十一月十二日) 十勝岳温泉地区に、防衛庁共済組合による十勝青年隊員の家『上富山荘』が開業

昭和四十六年
(十月一日) 昭和四十五年より第三〇八地区施設隊により工事が進められていた『十勝岳温泉〜白金温泉道路』が完成し開通式を行う。

昭和五十九年
(九月六日) 十勝岳翁温泉『バーデンかみふらの』が新築落成し開業。

  写真省略 バーデンかみふらの(昭和59年9月6日開業)

−『十勝岳産業開発道路』の工事経過−
(各施設部隊の記念誌より)

工事期別 工事期間 工事担当部隊 道路延長 規模(人日)
第1期工事 昭和36年7月4日〜11月6日(126日間) 上富良野:第308地区施設隊旭川:第2施設大隊 中茶屋から4,100m 10,685人
第2期工事 昭和37年6月7日〜8月20日(75日間) 南恵庭:第1似地区施設隊 2,146m 14,060人
第3期工事 昭和38年6月19日〜10月25日(129日間) 上富良野:第308地区施設隊 1,360m   
第4期工事 昭和39年6月22日〜8月8日(48日間) 岩見沢:第102地区施設隊 500m 14,634人
第5期工事 昭和40年5月25日〜7月27日(64日間) 旭川:第2施設大隊 620m 27,191人
合計 8,726m

支援部隊:上富良野駐屯地の各部隊

五、十勝岳産業開発道路と第二施設大隊
第二施設大隊の工事時期と担当区域
第二施設大隊は、昭和二十六年四月三十日に美幌駐屯地にて編成完結、初代大隊長は岸田茂二等警察正で幹部三十八名、士補八四七名、計八八五名にて編成された。
昭和二十七年六月十四日に千歳へ移駐、昭和二十七年十月六日に旭川へ移駐後は、道北の防衛施設部隊の中核として今日に至っている。
第二施設大隊の十勝岳産業開発道路の施工関係については、上富良野町史(昭和四十二年八月発行)、上富良野百年史(平成十年八月発行)に掲載されていると共に、開拓道路記念歌碑の左側面に『十勝岳道路施工部隊』として、工事年と施工部隊名・担当幹部名が刻字されています。
その銘版には、『昭和四十年、第二施設大隊菊地一尉』としか刻字されていません。
しかし、第二施設大隊の三十周年記念誌『三十年のあゆみ』(昭和五十六年四月三十日発行)の部外工事実績の一覧表には、下記の様に記載されています。
年度 工事名称 期間 担任・編成 切盛土(Å)整地(u) 規模(人日)
36 十勝岳開発道改良及び新設工事 36.7.3〜36.11.15 第2中隊菊地二尉以下42名 8,520Å 10,685人
40 上富良野町十勝岳開発道路工事 40.5.25〜40.7.27 第2中隊菊地一尉O.3、SP.3100名 31,933Å24,000u 27,191人
又、第八代の第三〇八地区施設隊長高野敬吾三佐が、廃編記念誌『拓道施魂』に『心のふるさと・三〇八施』の中で、第二施設大隊四中隊に在隊中に、十勝岳観光道路の部外工事に昭和三十六年に来て、第三〇八地区施設隊の強烈な印象を記しています。(本誌一四八ページに記載、昭和三十六年八月十四日の十勝岳産業開発道路工事起工式の写真に高野敬吾氏が第二施設大隊四中隊幹部として写っており、本誌一二四ページ右上写真の神主の左肩の人:掲載省略)
海江田町長より『第二施設大隊』へ感謝状
第二施設大隊『三十年のあゆみ』の部隊顕彰についての頁に、『栄光の実績』として、昭和三十六年十一月六日、十勝岳開発道路新設工事として、上富良野町長から感謝状を授与されている事が記載されています。
従って、第二施設大隊は、昭和三十六年度の第一期工事の中茶屋から四一〇〇mは第三〇八地区施設隊が基幹部隊となって、第二施設大隊と共に施工を担当されている事が明らかであります。
昭和四十年度の第五期工事は、凌雲閣前までの六二〇mであるが、急峻な地形で工事は非常に困難を窮めたが、第二施設大隊菊地一尉以下一〇〇名を投入し、延二七、一九一人を投入し難工事を完遂し、上富良野町民の永年の悲願であった『十勝岳産業開発道路』は、陸上自衛隊施設各部隊の『防人の若き力』によって完成したのです。
第二施設大隊『三十年のあゆみ』誌に、第五期工事の最終日である昭和四十年七月二十五日付で、当時の上富良野町長海江田武信からの感謝状と、工事終点付近の写真が掲載されていましたので、町民を代表しての感謝の心が表されていますので転載しました。(本誌一三〇頁掲載)

  写真省略 町長海江田武信氏からに感謝状(本誌一三〇頁掲載)
  写真省略 十勝岳開発道路部外工事終点付近(36年〜40年の5年にわたる難工事であった) (本誌一三〇頁掲載)
施設部隊の重要性を説く橋本第二師団長!!
第二施設大隊『三十年のあゆみ』記念誌に、第二施設大隊第八代隊長(昭和三十八年八月〜昭和四十年七月)であった桑本百合雄氏が、『部外工事と実践的訓練について』として想い出を寄稿されています。
その内容は、当時の橋本正勝師団長が、施設部隊の再認識と部外工事の重要性を語っている事で、その一部を転載し記します。
昭和三十九年、橋本師団長がご着任の間もない頃、陸幕の村田施設課長が来旭され、師団長室で橋本師団長が『村田貴公は第二施設大隊を心配して来てくれたと思うが……心配はいらないよ。俺は方面幕僚長の時には、施設部隊は部外工事、部外工事と何をしているのかと疑っていたが、師団長となって部外工事を見て、これこそ実戦訓練であり、若い幹部の渉外訓練でもある。また、本当の防衛基盤の育成に多大に寄与している。いざと言う時の、道北防衛に第二施設大隊は役立つと信じている』私は師団長室でこの言葉を拝聴して、部外工事の重要性を思い、作業隊長以下の『部外工事』の場における『実戦的訓練』を重視した次第です。
第二施設大隊長桑本二佐は、橋本師団長の力強い言葉を、第二施設大隊隷下の各施設隊に伝達されたのでした。
第二施設大隊隷下の第三〇八地区施設隊は、師団長の言葉と、桑本施設大隊長の『部外工事の場における実戦的訓練』の重視事項に基づき、部外工事に励むと共に、防衛基盤の確立に邁進された。
六、十勝岳産業開発道路と第一〇四施設大隊
第一〇四施設大隊と三〇八地区施設隊との関係
第一〇四施設大隊(南恵庭)は、昭和三十七年の第二期工事二、一四六mを担当、昭和三十六年八月十七日の団改編により第三施設団の隷下に第三〇八地区施設隊と共になる。昭和五十一年三月の施設団改編により『第一施設群』の基幹部隊となって、第三〇八地区施設隊も第一施設群の隷下となる。
第一施設群が、平成十六年三月に発刊した『頭号 施設群 五十一年の軌跡』の中に、第一施設群が部外工事として実施した、年度・工事名称・工事場所・期間・実施部隊・規模(人口)別の一覧表があって、部外工事の記録が一目瞭然と判ります。
−第2施設大隊による−上富良野町関係の部外工事
第2施設大隊、創隊30年史「30年のあゆみ」誌より昭和56年4月30日発行
上富良野小学校校庭整地工事 昭和33年5月30日〜6月25日
上富良野東中ベベルイ橋架設工事 昭和35年6月22日〜7月26日
十勝岳産業開発道路改良及び新設工事 昭和36年7月4日〜11月6日
十勝岳産業開発道路工事 昭和40年5月25日〜7月27日
『頭号 施設群 五十一年の軌跡』に、昭和三十七年の第二期工事に携わった隊員の『十勝岳開発道路建設工事の思い出』の記がありましたので、当時の模様が赤裸々に書かれており、末尾には『私達が苦労して切り開いた道路が、年間幾十万もの人たち……』の文章に心を打たれましたので掲載します。
十勝岳産業開発道路建設工事の思い出
           第一〇四施設大隊第二中隊 二等陸曹 外戸多加徳
私は、昭和三十七年六月七日から八月二十日の間、第二中隊(中隊長清水一尉)七十九名の一員として、工事に参加した一人であった。私の職務はコンプレッサー操作手、恵庭から上富良野までの国道十二号線は舗装されていたが、国道三十八号線はまだ未舗装のため砂ぼこりを身体にかぶりながらの車輪行進でした。作業現場は、前年に三〇八地区施設隊が担当した区間の引き続きで、今にも『山親父』が出そうな原始林の中での作業でした。道路建設予定地はすでに伐採されており、根廻り一m以上もある大木をドーザーで排除すると、黒い土が顔を出して来る。ところが、今度は土の中から大きな岩盤が出てきて、それをさく岩機で穿孔し爆破するという作業の連続でした。天候にも恵まれ作業は順調に進んだが、ある日の真夜中、突如不寝番の声で起こされ外に出て見たところ、十勝岳の大爆発(編注 昭和三十七年六月二十九日午後十時四〇分頃)が起き、直ちに器材の撤収が始まった。頭上に迫る黒煙の中から、時々せん光が走り、それを見ると下山が出来なくなるのではないかという恐怖感に襲われました。真夜中の作業現場から、作業隊本部(旧旭野小学校跡)に到着した頃はすでに夜も明けていた。測候所から登山許可が出ないため、作業は一時中止となり、毎日器材整備と小豚二頭の世話をしました。爆発のお陰で隊員から可愛がられ丸々に太った二頭の『トンチャン』は、引渡式の時は姿が見えなかった!何処に行ったのだろうか?爆発も一段落し、作業が再開されて間もなく、本工事の最大の難所に突き当りました。連日連夜の作業が続く中、湧き水でドーザーの履帯が日に何度も外れ、操作手と整備手が一心協力した作業でした。その難所を『恵庭坂』と名付けられ、忘れ難い努力を思いとどめております。富良野側からの登山道が完成し、今や原始そのままの大自然の溢れる大観光地となり、春から秋にかけては多くの高山植物が咲き乱れ、訪れる多くの観光客を楽しませております。私達が苦労して切り開いた道路が、年間幾十万もの人たちに利用されることを思う時、胸の奥から言葉では表現できない真の喜びを感じます。みなさん、是非一度、家族連れで行って見て下さい。そして、ついでに湯元の最終登山道入り口付近に建立されている『小さな記念碑』を探して下さい。そこには、麓における着工から完成まで各担当年度の順に、工事参加部隊名が刻まれ、十勝岳開発道路の意義の深さが記されてあります。
編注  十勝岳産業開発道路の第二期工事は、南恵庭駐屯地の第一〇四施設大隊の関係で、『恵庭坂』と命名されたが、その場所は現在の『バーデンかみふらの』の手前の急坂なSカーブのある地点でしたが、現在は改良されている。
七、第三〇八地区施設隊の歩みと部外工事
上富良野駐屯地の『第三〇八地区施設隊』は、昭和三十三年十二月一日に第二師団(旭川)の第二施設大隊から編成要員の差出を受けて編成完結し、初代隊長山崎清光三佐以下六十三名の人員、器材と共に、昭和三十三年十二月二日に上富良野駐屯地に移駐された。
自衛隊の部外協力は、自衛隊法第百条に規定されているが、地方公共団体などからの要請により、土木・通信工事・防疫・輸送事業等を受託、施行し、民生安定に寄与すると共に、各種行事にも協力するものである。
経費が割安で、かつ、施工が良心的だったので、各地で歓迎されていた。その中核は土木工事であり、施設隊が担当していた。
しかし、当初は上富良野駐屯地には配属されていなかったので、上富良野町は昭和三十二年十二月に防衛庁に請願書を提出し、その中で施設隊の設置による道路網の整備を要望したものでした。
翌年の十二月二日に待望の『第三〇八地区施設隊』が移駐し、上富良野駅前にて町民の歓迎を受けたのでした。

  写真省略 上富良野駅前での歓迎式(昭和33年12月2日)―第308地区施設隊が旭川から移駐した。
        以来、昭和63年3月の部隊廃止まで、駐屯地隊区自治体を中心に数々の部外工事協力を行った。
【市町村別工事実施件数】
市町村名 工事件数 除雪件数
1 初山別村 2
2 羽幌町 4
3 苫前町 1
4 小平町 3
5 留萌市 10
6 増毛町 3
7 幌加内町 1
8 深川市 1
9 秩父別町 1
10 和寒町 2
11 比布町 2
12 当麻町 1
13 上川町 3
14 東神楽町 1
15 美瑛町 28 2
16 上富良野町 23 10
17 中富良野町 12 6
18 富良野市 11
19 南富良野町 4
20 占冠村 7 1
21 遠軽町 1
第三〇八地区施設隊の移駐により、部外協力が本格化し、昭和三十四年から小・中・高校のグランド整地工事や、道路の新設・拡張工事、また除雪出動などに活躍された。
上富良野町関係では、昭和五十七年まで行われたが、その内訳は別記の通りですが、工事名を見ると財政状況が厳しく、機械力、機動力が乏しかった時代の我が町の生活基盤の整備に多大に貢献された事が判ります。
第三〇八地区施設隊による部外工事は、上富良野町のみならず、富良野・美瑛・中富良野・南富良野・占冠の富良野沿線を中心に、さらに留萌支庁管内(留萌・羽幌・増毛・苫前・小平・初山別)、上川支庁管内(上川・当麻・和寒・比布・東神楽)、北空知(深川・秩父別・幌加内)、遠軽町までその足跡を残されました。
その実績は、二十一市町村に及び、土木工事一二一件、除雪工事十九件の、合計一四〇件・延人数九七万八、五一一人、金額一億八千八百四七万一、〇五一円と大きな金額になって、二十一市町村は財政的そして住民の要望実現にどれだけ助けられたことでしょう。
工事名 件数 土量(立方m) 人日 金額(円)
土木工事 121 1,385,642 898,690 182,351,436
除雪 19 79,821 6,119,615
140 1,385,642 978,511 188,471,051
― 第三〇八地区施設隊の創隊の歩みを見ると ―
○昭和三十三年十二月一日
  旭川駐屯地の第二施設大隊より編成要員の差出しを受けて、第三〇八地区施設隊編成完結
○昭和三十六年八月十七日
  第二師団の隷下を離れ、第三施設団の隷下に入る。
○昭和五十一年三月二十五日
  団改編により、第三施設団から第一施設群の隷下に入る。
○昭和六十三年三月二十五日
  第一施設群の改編により、第三〇八地区施設隊はその任を解かれ、上富良野駐屯地において
  廃編され、二十九年四か月の歴史を閉じた。

 写真省略 第308地区施設隊が廃編。約30年の歴史に幕を降ろした。記念碑「拓道施魂」を建立した。(昭和63年3月25日)
【第308地区施設隊長の歴代隊長】
氏名 着任年月日 離任年月日 氏名 着任年月日 離任年月日
山崎清光 昭和33.12.1 昭和36.7.15 8 高野敬吾 昭和51.3.16 昭和53.3.15
2 根岸信夫 昭和36.7.16 昭和38.3.15 9 宮越方宏 昭和53.3.16 昭和55.7.31
3 増田長太郎 昭和38.3.16 昭和41.7.15 10 長田進 昭和55.8.1 昭和57.7.31
4 岡田英雄 昭和41.7.16 昭和44.3.15 11 長溝輝文 昭和57.8.1 昭和59.7.31
5 長谷川舜三 昭和44.3.16 昭和46.7.15 12 諏訪舜一 昭和59.8.1 昭和62.3.15
6 千葉誠栄 昭和46.7.16 昭和49.3.15 13 奈良悟 昭和62.3.16 昭和63.3.24
7 小林春美 昭和49.3.16 昭和51.3.15
写真省略(8葉):
  上富良野町道・十勝岳線の除雪工事(2葉)
  上富良野町北29号道路新設工事@着工前
  露天風呂で疲れをいやす(十勝岳)
  上富良野町北29号道路新設工事A工事中
  作業のひとときの森林浴(十勝岳登山道)
  上富良野町北29号道路新設工事B道路完成
  工事現場での整備作業(上富良野十勝岳開発道路工事)

第308地区施設隊による上富良野町関係の部外工事
第308地区施設隊廃編記念誌「拓道施魂」より:昭和63年3月25日発行

工事名 工事期間
1 上富良野中学校校庭整地工事 昭和34年5月7日〜5月29日
2 十勝岳産業開発道路改良工事 昭和36年7月4日〜11月6日
3 町道北28号道路他2路線除雪工事 昭和36年12月28日〜37年4月14日
4 十勝岳爆発に伴う災害派遣工事 昭和37年6月30日
5 町道北28号道路他2路線除雪工事 昭和37年12月21日〜38年3月26日
6 十勝岳産業開発道路工事 昭和38年6月19日〜10月25日
7 町道北28号道路他2路線除雪工事 昭和38年12月23日〜39年3月27日
8 上富良野東中小学校校庭拡張工事 昭和39年9月3日〜9月12日
9 上富良野町自動車練習場整地工事 昭和39年11月7日〜12月10日
10 町道北28号道路他1路線除雪工事 昭和39年12月8日〜40年3月31日
11 町道十勝岳線除雪工事 昭和40年11月26日〜41年3月31日
12 町立創成小学校敷地整備工事 昭和41年9月1日〜11月12日
13 町道十勝岳線除雪工事 昭和41年12月11日〜42年3月31日
14 上富良野高校グランド整備工事 昭和42年4月11日〜5月16日
15 町道十勝岳線道路除雪工事 昭和42年12月7日〜43年3月28日
16 江花中央道路スクール路線改良工事 昭和43年4月24日〜5月13日
17 町道十勝岳線道路除雪工事 昭和43年12月2日〜44年3月29日
18 吹上〜十勝岳線測量工事 昭和44年8月6日〜8月28日
19 十勝岳線道路除雪工事 昭和44年12月2日〜45年3月31日
20 吹上〜十勝岳線道路新設工事 昭和45年6月8日〜7月27日
21 十勝岳線道路除雪工事 昭和45年12月3日〜46年3月31日
22 吹上〜十勝岳線道路新設工事 昭和46年7月6日〜8月31日
23 上富良野公共用地造成工事 昭和47年5月1日〜6月1日
24 町営島津公園用地造成工事 昭和48年4月20日〜5月25日
25 町道北31号線道路改良工事 昭和49年8月21日〜9月20日
26 日の出地区町道吹上翁線新設工事 昭和50年9月17日〜10月9日
27 上富良野高等学校グランド造成工事 昭和50年9月29日〜10月31日
28 町営野球場及びテニスコート用地造成工事 昭和51年5月24日〜7月13日
29 上富良野演習場東側道路新設工事 昭和54年6月21日〜7月18日
30 北29号道路新設工事 昭和55年8月25日〜10月3日
31 北29号道路新設工事 昭和56年7月6日〜9月17日
32 上富良野地区水害救援に伴う災害派遣工事 昭和56年8月5日〜8月6日
33 北29号道路新設工事 昭和57年7月15日〜10月23日
八、第三〇八地区施設隊の記念碑
自衛隊上富良野駐屯地内に、『上富良野駐屯地創立記念碑』が駐屯地公園に建立されています。
●『創立拾周年記念碑』
●『創立二十周年記念 興起』の碑
●『創立二十二周年記念 王勃』の碑
●『創立二十五周年記念 防人ここに励みて国安らかなり』の碑
●『創立五十周年記モニュメント』
上富良野駐屯地創立記念碑と共に、『第三〇八地区施設隊の記念碑』、そして各大隊・各諸隊の歴史が刻み込まれた記念碑が、後世に伝えるように建立されている。
その、第三〇八地区施設隊の記念碑は、『創隊十五周年記念 飛龍乗雲』と『廃編記念 拓道施魂』の二基があり、昭和三十三年十二月二日の上富良野駐屯地への移駐から、昭和六十三年三月二十五日の廃編までの『二十九年四か月間』の歴史と、在隊された『三百二十九名』の人々の様々な思いを込められて建立されています。
『飛龍乗雲』の碑
建立由来 創隊十五周年記念として建立する
建立年月 昭和四十八年十二月一日
建立場所 施設隊整備工場の駐車場に建立し、その後に駐屯地公園に移設す
碑名由来 碑名は、当時の中富良野町長森善治氏が命名し、揮毫をされた。
銘  板 起照道央を拓いて15年先達の精神と技術を讃えわれら60餘あすえの飛躍を誓わん
             昭和48年12月1日第6代隊長 千葉誠栄・在隊者一同
 写真省略 「飛龍乗雲」の碑建立時の記念写真〜後列左から上富良野町助役 加藤清氏、
          中富良野町長 森 善治氏、上富良野町長 和田松ヱ門氏、第三〇八地区施設隊長 千葉誠栄氏
 写真省略 創隊15周年記念「飛龍乗雲」の碑(昭和48年12月1日建立)
『拓道施魂』の碑
建立由来 第三〇八地区施設隊の廃編により、その名と業績を末永く語り継ぐために建立する。
建立年月 昭和六十三年三月二十五日
建立場所 駐屯地公園内に、創隊十五周年記念碑『飛龍乗雲』の碑に連結された形で刻字されている。
碑名由来 廃編時の在隊員が協議により決められ、揮毫は中国大使館武官時代から書を研鑽されていた
     第四代第一施設群長 隈元保雄一佐の筆による。
九、第三〇八地区施設隊廃編記念誌
『拓道施魂』より思い出の記抜粋
昭和六十三年三月二十五日、第三〇八地区施設隊が廃編され、その廃編記念誌『拓道施魂』(編集委員代表門崎博雄氏)が発刊されました。
廃編記念誌『拓道施魂』の中に、『十勝岳産業開発道路工事』に関する記事について、当時の駐屯地司令、上富良野町長・第三〇八施設隊長と隊員の皆様からの寄稿文の関係部分のみ抜粋掲載いたします。
各々の立場での『十勝岳産業開発道路−十勝岳観光開発道路』に対しての思いが込められています。
     惜別『サン・マル・ハチ』
           上富良野駐屯司令一等陸佐 小川敏彦

創隊以来、この上富良野駐屯地にあって『サン・マル・ハチ』と呼ばれ親しまれて来た第三〇八地区施設隊が、この度の改編事業で二十九年の歴史の幕を閉じることになったことは、発展的解消とは言いながら誠に心淋しいかぎりであります。
『サン・マル・ハチ』は、十勝岳開発道路を始めとする数多くの部外工事に、そして十勝岳噴火大災害派遣や数回の水害災害派遣等に活躍して『隊区の民生安定に多大の寄与』を果たしたのみならず、その終焉を惜しむと同時に、永年の功績に深甚なる敬意と謝意を表するものであります。
『サン・マル・ハチ』の強者よ、部隊は失ってもその歴史と培った友情は故郷『上富良野駐屯地』で生き続けていることを信じ、新部隊においてあらゆる苦難を克服して逞しく前進されるよう祈念してやみません。
ありがとう『サン・マル・ハチ』
さようなら『サン・マル・ハチ』
編注〜上富良野駐屯地司令小川敏彦一佐は、昭和六十年八月九日〜昭和六十三年三月十五日まで、第十八代司令として歴任されました。
     ありがとうございました!! ご苦労さまでございました!!
             上富良野町長 酒匂佑一


この三十年を顧みて、数々の思い出になる部外工事でお世話になりましたが、中でも最大なものは『十勝岳道路の開削工事』でありましょう。
登山道路しかなかった地帯に、車の走れる道路をつけようということで施設隊にお願い致したところ、方面総監の特段のご配慮により着工が決定、昭和三十六年の山崎初代隊長さんの時代に、愈々着工となったわけです。
その延長も白銀荘への道路を含めて実に一万米、着工より完成した昭和四十二年で延々七カ年に亘る大工事でありました。
その間、昭和三十七年七月の根岸第二隊長さんの時に突然十勝岳が爆発、噴煙が一万米の上空まで噴き上げ昼なお暗い状態であり、不測の事態がどの様に起るか判らないことから、工事が一時中止となり約二カ月後の沈静を待って再開されたわけですが、沢山の思い出の中での最大なものでありましょう。
今や道道十勝岳線は舗装されて、観光道路として立派にその使命を果しております。
この間における隊員さん方のご苦労は筆舌に尽し得ぬものがあり、そのご努力に対し衷心より敬意を表し感謝申し上げる次第でございます。
     第三〇八地区施設隊廃編に当り
               元上富良野町長 和田松ヱ門


最も大きな事業は、十勝岳産業開発道路改良工事で、昭和三十六年度に始まり七カ年継続の難工事であり延長八、七〇〇mの道路が昭和四十二年に立派に完成されまして十勝岳観光開発の端緒となり、今日の発展を見ていることは特筆大書されるべきものであり、その労苦に対して感謝に堪えない処であります。
この工事に当って、昭和三十八年七月には工事契約先決処分問題を巡って理事者に対する厭がらせから、『町長の辞任』、『町議会議員総辞職』となり、出直し選挙というハプニングがあり、本町町史に汚点を残した一駒もありました。
     改編に際して
                 第三〇八地区施設隊 初代隊長 山崎清光


昭和六十三年三月の編成替えにより、第三〇八地区施設隊が廃止となる事を知り感慨無量のものがあります。
地区施設隊の任務は決して花々しいものでなく、その名の通り自衛隊とその地区の市町村と接点として、部外工事を通じ広報活動により多くの人々に理解を得るため地道に努力するものであります。
第三〇八地区施設隊は創隊以来三十年、着々と、そして確実にその成果をあげ任務を終了したものと確信します。
創隊当時に勤務しましたので色々思い出があり、その一つ『十勝岳観光道路』につき記します。
昭和三十年代の北海道は開発途上にあり、市町村の多くは赤字財政に苦しみ打開策を模索していた。
この頃、上富良野町発展のため観光資源は十勝岳の旧噴火口地帯の温泉開発以外に無いと信じていた人が居ました。町で印刷業を経営していた『會田久エ門さん』です。凌雲閣の御主人のお父さんです。
今では、車で誰でもが楽に上まで行けますが、当時は急で笹を分けて登るような道で、老人・子供はとても無理でした。
度々、會田さんが来られて、車の通る道が必要である事、そして道路が出来た後の諸計画を熱心に説明され、町の発展の為にと協力を求められました。
良く判りましたが、事が大きく権限もありませんので、当時の駐屯地司令小林一佐に私の考えもまじえて相談しました。
小林司令は非常に関心を持たれて町に働き掛け、また町もこの道路については懸案事項であったところから、これを機に海江田町長も決断して『部外工事』の申請となりました。
そして昭和三十五年十月十二日、管区(第二師団)の内定を受けて大西一尉(故人)以下十四名の作業隊と、役場からの応援六名を以て測量・設計・見積の作業を開始し『十勝岳観光道路』の着工となりました。
以来、歴代の施設隊長に引き継がれ完成することになりました。
当時の記録によれば、中茶屋より翁温泉跡を通り目的地まで道路の改修四、一〇〇m・新設五、〇〇〇m・幅員六・五m、将来の道道に昇格することを予測し、平均縦断勾配を八%とするとあります。
編注:初代隊長山崎三佐は、昭和三十三年十二月一日から昭和三十六年七月十六日まで歴任され、會田久左エ門氏の熱烈な十勝岳開発道路の必要性に心を動かされその発端となる測量を、昭和三十五年十月に行う。(詳細は、郷土をさぐる誌第二十三号「会田久左エ門の歌碑」に記載)文中の『大西一尉』は、第三〇八地区施設隊の土木幹部(昭和三十三年十二月一日〜昭和三十七年八月一日)で十勝岳産業開発道路工事での偉業を讃え、四粁地点の少し上にある坂を『大西坂』と命名された。
      二十五年間の回想
                   第三〇八地区施設隊 第二代隊長 根岸信夫

私は、昭和三十六年八月から昭和三十九年三月まで、二年八カ月にわたり第三〇八施設隊の第二代隊長として上富良野の地に勤務をした。
在隊当時のことで、特に記憶に強く止まるもので第一に挙げるのは、地元の上富良野町の十勝岳温泉道路の新設工事である。
これは、わが隊が総力を挙げて取組んだ工事で、中茶屋から現在の十勝岳温泉に至るおよそ五kmに及ぶ間を、原生林を伐り開いて新設したものである。
開発の端緒は、私の前任の山崎隊長が、このルートの開発こそ、将来の上富良野町の観光資源開発に大きな役割を果すであろうと予見して、町に強く働きかけて実現したものである。
私が着任した昭和三十六年が、着工の初年度であったが、予想を超える難工事の連続で、様々な苦労を重ねながら、五年の歳月の末に漸く完成した。
十勝岳温泉の名は、今は広く知られるところとなったが、この道路の完成が無くては、今の十勝岳温泉は生れなかったと言っても過言ではない。
第三〇八地区施設隊が地元に遺した『最も大きな財産』の一つと言えよう。
山崎隊長の卓見に敬意を表すると共に、道なき深雪の中で、測量に、ルートの設定に大変な苦労をした大西副隊長(故人)以下の測量班の功績も見逃すことはできない。
編注:第二代隊長根岸三佐は昭和三十六年七月十六日から昭和三十八年三月十六日まで歴任され、十勝岳産業開発道路の第一期工事・第三期工事を指揮され、カミホロ荘に上る直前の急坂(砂防ダムから左への坂)を根岸隊長の功労を讃え『根岸坂』と命名された。
        心のふるさと・三〇八施
                   第三〇八地区施設隊 第八代隊長 高野敬吾


昭和三十六年七月、私は十勝岳観光道路の部外工事参加を命ぜられ、勇躍旭川(第二施設大隊四中隊)を出発、道中苦難の末、約四時間後に、山加地区から数粁登った作業拠点に到着、まずホーットしたものでした。
早速適当な場所に個人用天幕を展張、作業の段取りを整えるため、周辺の現地偵察に出掛け、まずは吃驚りしました。
ドーザ・グレーダ・コンプレッサー・クレーン等の各種施設器材が展開し、今や遅しと、作業開始の態勢を整えている、全く信じられない現象でした。
我々、第二施設大隊四中隊は、道なき道を歩き、一部の者は最小限の糧食を積んだジープを押して、やっとたどり着いたのです。
これは一体全体、どうしたことであろう。又、どこの部隊であろうかと、ただただ、目をこすり唖然とするのみでした。
その内、人が見え、『ヤーご苦労さんです。我々は三〇八施設の者です。一緒に取りかかりましょう』『ハー、よろしくお願いします』。なんともさりげない気迫に押され、ヨタヨタとしたものです。
その後、関係者から話を聞き総合しますと、当日三〇八施設は朝三時に起床、演習場を経由、各所の谷・沢・崖等に、ワイヤロープを展張し、一台また一台と、引きづり上げたそうであります。
当時、三〇八施設は編成から一年余、いまだ新編部隊と言われているのに、どうしてこんなに強力な力が芽生えたのか、初代隊長山崎三佐を核心とした創隊関係者の、努力の結晶としか申し様がありません。ともかく、三〇八施設に対する強烈な初印象でありました。
それから十五年、昭和五十一年三月、縁あって、私は第八代隊長を命ぜられ、改めて三〇八施設の底力(米・味噌等を管理している)に感服した所であります。
今、三〇八施設は廃止されます。しかし、十勝岳観光道路や、白金観光道路等の、アノ難工事を完成させた『三〇八施設の業績』は不滅であり、私の心のふるさとであります。
                       −内田茂雄−
想い出深い工事は、何と言っても『十勝岳観光道路新設工事』です。昭和三十五年十月より十一月の間、大西一尉以下十名の測量隊は、現在の十勝岳温泉付近で、吹雪の中をポールを持って右往左往、十一月と言うのに外衣が凍り付いて北海道の厳しさを思い知らされました。
翌三十六年五月より十月までの半年の間、十勝岳に入山し大型天幕(病院用)での生活、町より差入れのジンギスカン・トウキビに舌づつみをうったことは厳しい作業の中での楽しい想い出です。

−井ノロ 秀一−
十勝岳産業開発道路工事では、馬の背にドラム缶を人の背に携行缶を背負い燃料を運んだこと、白金温泉から十勝岳望岳台に至る道路工事中の十勝岳大爆発、冬の十勝岳道路の除雪や各沿線町村の除雪作業、上富良野町大災害の災害派遣等が大きな思い出として残っています。

−木元 清栄−
昭和三十六年、十勝岳産業開発道路工事の受諾により隊員一丸となって作業に着手、道なき道、そして昼なお暗き原始林を切り開き、やっとの思いで車が通れる程の道が出来た矢先、集中豪雨にあい一部の道路が破壊され交通は途絶え、補給品はもとより隊員の食糧、あるいは度重なる器材の故障、特に中型ドーザが故障した際は、酸素・アセチレンボンベ・燃料の入った携行缶を人力により輸送した思い出は忘れることが出来ません。

−鴫原 義雄−
多くの工事施工件数の中で、特に印象的な難工事と言えば、最大規模の『十勝岳観光道路開発工事』であります。
山間部で気象条件が悪く、山腹の掘開ドーザ作業、岩石抜根爆破作業、砕石クラッシャ作業、手作業等と、各組に区分され、全装備器材投入し、隊長以下全隊員参加、汗泥にまみれて悪条件を克服し、三〇八地区施設隊の特性を遺憾なく発揮した部外工事であり、全隊員の『汗の結晶道路』であると自負しつつ、当時の状況と、苦楽を共にした参加者全員の顔が一人一人鮮明に脳裏によみがえります。

−服部 貞夫−
昭和三十三年十二月創隊以来、延々三十年歴代隊長、関係上級部隊の適切な御指導により多大の成果を上げて参りました。
特に部外工事を通し、富良野沿線、留萌その他の市町村、役場関係者、住民の皆様に暖かく見守られ育って来た精強三〇八地区施設隊、自衛隊と地方とのかけ橋としての先兵役を果して来た三〇八地区施設隊が、今度の部隊改編に伴い無くなることについて誠に残念であり、淋しい思いがしてなりません。
しかし、その間に数多くの部外工事で築いて来た足跡は、何時までも各市町村に消えることなく大地に印してある訳で、その想い出は永久に忘れることなく誇りに思っております。

−田中 富男−
当時の地区施設隊は、訓練もさることながら部外工事一本で、現場から現場へ渡り歩いたものです。
夏期は土木作業、冬期は除雪作業で、特に思い出に残るのは十勝岳道路工事及びその道路の除雪作業です。
三カ月間、町営のホテルに泊まり、雪の日は朝まだ暗いうちから除雪作業です。朝一番のバスを運行させるため悪戦苦闘した事が思い出されます。

−山本 恭介−
昭和三十年代は、近隣の市町村の建設機械の導入はまだ少なかったようで、施設隊の存在価値は大きいもののようでした。
特に記憶に残っているのは、転入の年である昭和三十五年の測量から始まり、完成まで継続実施された『十勝岳開発道路工事』であります。
昭和三十六年、中茶屋・四粁地点での部隊移動による幕舎生活での作業。昭和三十七年の美瑛町白金道路工事中の十勝岳爆発により、白金地区住民・観光宿泊客の自衛隊車輪による避難。同年の占冠ニニウ道路工事中の大水害は、道路は寸断され一時期はヘリコプターによる資材の搬入と、四カ月にわたる人力による十粁余りの道なき道の資材の搬入がありました。
十勝岳道路の除雪作業は、夜を徹しての人磯連携による道路の確保と、未だに忘れえない思い出が尽きません。
今号の『十勝岳産業開発道路記念歌碑』の取材に際し、左記の皆様に協力をいただきお礼申し上げると共に、次の記念誌等を参考引用させていただきました。
≪協力≫
○第二師団司令部総務部 草野広報室長
○第三施設団第一科広報班 安藤広報陸曹
○上富良野駐屯地第四特科群 今村副群長
○上富良野駐屯地広報室 松井広報室長
○第三〇八地区施設隊OB 門崎博雄氏
○第三〇八地区施設隊OB 中川照光氏
○第三〇八地区施設隊OB 藤原康次氏
≪文献≫
○上富良野駐屯地 創立五十周年記念誌
○第三〇八地区施設隊廃編記念誌『拓道施魂』
○第一施設群 頭号施設群『五十一年の軌跡』
○第二施設大隊記念誌『三十年の歩み』○第一〇二施設大隊記念誌『栄光』
○上富良野百年史

機関誌   2007年 3月31日印刷
郷土をさぐる(第24号)   2007年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一