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フラヌイから出た幕末の古銃

上富良野町本町三丁目二−四六
佐藤 輝雄 大正十五年五月十五日生(八十歳)

はじめに

芦別岳より富良野盆地に吹き下ろす南南西の季節風は、陽光に合わせ調節する如くやわらかく、また時には強く、春から秋まで営農に適した気温を盆地に与えてくれる。夏は盆地であるため温められた気温が上がり過ぎた時、日中は高温地帯にもなるが季節間でそう多くは無い。吹き渡る季節風が北風に変わる前で肌に気持ちよく季節を感じたあの時は、今から早やくも十年を経過した。平成九年(一九九七)…九月の初旬と思う。私は級友で深山峠で営農をしている高橋博男氏を訪れた。互いに健康であることを喜び、社会情勢の見解や身近な身辺状況交換などを終えたとき、氏は驚きの言葉を発した。「この峠の南側の沢で昔の古い鉄砲が見つかっているんだ。」「一度古い鉄砲でも見てみるか。」…と単純な考えで調査に取り組んでみたところが、取り組んだことを悔やんだ。
とんでもない物件の調査であることに気が付いた。
その後は約六ケ月間ほど調査をしてどうにか調べを終えて資料は集録できたが、疲れて取まとめる気力を失うと共に、他にも急ぐ調査物件も多数あり、併せて持病の心臓病を持つ身の体調不良などから、取り纏めが延び延びとなって今日[こんにち]に至った。調査の経緯と物件を、まだ文字が拾える今、また我[わが]歳の終えぬことを願いながら、多少でも字を拾い、多くの人に知らせるべきものと認識し、この度、物件所持者の了解を得てここに発表する次第となった。

フラヌイから出た幕末の古銃

高橋氏から話を聞いてから月が変わった十月初旬に、物件の持ち主の友人である西二線北三十三号に居住する冨田弘司氏を介して、当町旭町三丁目五番三十六号の自宅に居られた宮田正之氏に、アポイントを取った後訪問した。宮田氏は昭和十九年(一九四四)生まれで、当時五十四歳の氏は快く私を迎えてくれ、西五線北二十七号に観光花園の会社を置く有限会社フラワーランドに勤務されていると話され、非常に温厚な人柄ながら、かなり信のある人と率直に感じられた。
早速奥の部屋から大事にされている物件を取出して見せてくれた。……短銃である。銃身の中央部から銃把[じゅうは]部分に当る木部の部材は朽ちて無いが、木部を覆う左右の鉄板二枚と腐食のない堅固な銃身部である。なお部材の鉄部が黄色味を帯びて見えることから、素人目にも銅が含まれて鋳造されていることが分かり、全く腐食もせず存在してきたことを目にすることができた。一応鉄砲部品の概略の寸法を測定したが、引金と撃鉄は見当らない。撃鉄が落ちる銃身上部の位置部には、内部に通じる穴が有り、火縄の火が内部に充填されている火薬に点火する短銃のようである。十分観察して気になったのは、銃把の木部に当てる鋼鈑に文字が刻まれ、刻字は『【謎】住人』とあった。宮田氏に短銃の記録と調査の必要性などから、短銃部品を一時寸借することを願い、宮田家を辞去した。

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銘板の文字:文中では【謎】と表示    推定される文字:文中では【推】と表示

短銃の調査開始

忘平成十年九月初めての調査物件なのでどこから手を着けてよいやら戸惑ったが、筆者が師事する松浦武四郎の研究者では日本ではこの人と知られる、紋別郡遠軽町丸瀬布新町で、武四郎に関する「新書」の執筆をされている秋葉實氏に指導を願ったところ「私より軍船開陽丸研究では第一人者と言われている、桧山郡江差町字本町に居住される宮下正司氏が最適任者です。」と宮下氏を紹介された。
早速、宮下氏に短銃の銃把の鋼鈑に刻字されている【謎】の文字について、書面をもって指導をお願いした。
なお、その時点で夕張郡長沼町中央に住まわれる歴史研究家(特に水戸藩研究)、伊藤兼平氏より頂戴した昭和四十九年度発行、茨城県那珂湊[なかみなと]市史に掲載された、幕末期に活動した「廻船・海産物問屋が用いた印判」の資料を添えた。資料の中には「【推】」の文字をもちいた印判が二件見られるからである。

【謎】[みなと]住人の「【謎】[みなと]」文字解釈

江差町の宮下正司氏が大きな行事を数多く抱え、多忙の生活過程で筆者に対して丁重な指導書が日を置いて届いた。文面を要約し、筆者の注釈を加えて御紹介する。
港[こう](みなと)は、船着き場・船の泊まる所・船路[ふなみち]・船の通行路を言い、湊[そう](みなと)は、船着き場・人の多く集まる所・川の(みなと)等に湊[そう]が使用され(近世−筆者注−日本史では江戸時代)ていた。近世では区別なく使用されていたようである。
現在の当用漢字では「港」[みなと]の文字だけになり、大波を防ぎ船を安全に止めることの出来る所とある。
写真の【謎】を見ると実に丁寧な隷書[れいしょ](書体の名)刻字である。【謎】の文字が日本の漢字に無いから誤字と言うのは早計である。この刻字を見るに「旁[つくり](漢字の右側の称)の(泰[たい])と見るのは妥当だが、「偏[へん](漢字の左側の称)」は「さんずい」とは異なるのかも知れない。【謎】または【推】と言う字は、中国の文字と言う見方も考えられる。何れにしても[筆者註(新字鑑の字典を参考として解釈されているようだ。)]、「湊」は船着き・人の多く集まる所・言うなれば船が沢山集まると言う港になる。【謎】を泰[たい]として考えれば、甚だ大きなという意になり【謎】は大きな港を意識して使用したと考えることは無理とも思われない。
中国の文字まで広げて見たら更に新しい発見があるかとも思われる、との御指導を頂戴した。
更に宮下庄司氏は、「私は今手元に中国文字の字典、『康熙字典[かんきじてん]』を持ち合わせていないので確認することはできませんが」と、暗に研究には勉強が第一と辞書の名を教えて研鑽に励むよう戒めてくれた。
その中国文字の字典を見つけた。「『康熙字典』訂正者渡辺温、昭和五十(一九七八年)三年十一月第二刷〜講談社刊」でその一四六七頁に載っていた。
【推】[トウ]字彙[ジヰ(字書)]徒登[トリ] 切。音滕 波浪也。
漢字の左側の称偏は「さんずい」である。
水が涌くように、何処[いずこ]からともなく、唯[ただ]そればかり(人や船が集まり寄ったと考える)、大波にも心配がなく必然的に出来た大きい港と解したい。
筆者が持っている日本文字の字典は「『新字鑑[しんじかん]』著者鹽谷温・昭和十五(一九四〇年)年三月九十版発行〜弘道館発売」。その一一七七頁では次のように書かれている。
「滕[トウ]」わく。水が涌く。涌くの涌[ヨウ]は通音はユウで、表れ出る。盛んに起こる。噴きのぼる。自然に発生するとあり、「湧[ユウ]」は同字とある。
意味は漢字の右側の称旁[つくり]は、『康熙字典』と略[ほぼ]同様に考えられ、漢字の左側の称偏[へん]は「月[つき]」、「さんずい」と異なるが水に関連することから、これまた『康熙字典』と同じ解釈と考えても不思議は無さそうに思われるが学識不足者の解釈、間違いの点はお許しを請う。
「滕」の文字は、船が沢山[たくさん]集まる、甚[はなは]だ大きな港を意識して、海産物問屋・廻船問屋などの一部の者が「滕」の文字を中国文字の【推】[トウ]に変えて【推】[みなと]と称し、印版として使用したものと考えたい。

短銃の刻字【謎】[みなと]一文字の使用を探す

短銃に刻まれた一字が中国文字の【推】[トウ]であることは分かったが、日本文字の名が付く湊[みなと]は、常陸[ひたち]の国(茨城県)那珂湊[なかみなと]・奥陸の国(青森県)・十三湊[とさみなと]・同じく大湊[おおみなと]・摂津[せっつ]の国(大阪府)・堺湊[さかいみなと]などが有るが、加えて幕末期に蝦夷地の三湊[さんみなと]と言われた、箱舘(函館)・福山(松前)・江差の三港を含めて印判調査対象地と決め、「上富良野町の沢地で幕末期の火縄銃と見られる短銃一丁が土中から発見されたこと。また銃には【謎】[みなと]住人なる文字が刻字されており、幕末時に貴管内の湊で、海運業・海産物取扱い人等が用いた印判に【謎】[みなと]の文字を使用した可否を調査する必要性」からのお願いである旨を、前もって口頭で関係諸官庁の担当課に調査の依頼を願った上で、改めて後日資料を添えた調査依頼書を送付提出した。

平成十年九月十日付け発送宛先。
 ○大阪府堺市教育委員会社会教育課殿。
 ○青森県北津軽郡市浦村教育委員会社会教育課殿。
 ○青森県むつ市教育委員会社会教育課文化係殿
 ○富山県新湊市教育委員会社会教育課殿
平成十年十一月十二日付け発送宛先。
 ○函館市教育委員会社会教育課殿。
 ○松前郡松前町教育委員会文化財課殿。
 ○桧山郡江差町教育委員会文化課殿。

空しかった本州からの返答

結果は非常に空しいものとして終[つい]えた。本州の各諸管庁からの返答はついに全く無かった。筆者の対応処置が悪かったものと深く反省している。
救われたのは江差町教育委員会文化課が筆者の依頼状を、筆者に【謎】[みなと]の文字解釈を指導された宮下正司氏に託され、宮下氏から新しい指導書が頂けたことである。氏の指導書を紹介する。
「御承知の様に水戸の外港である那珂港[なかみなと](現ひたちなか市[年数経過で筆者・市名を訂正])は行政地名で、大湊(越後)、堺湊も行政地名ですが、当地の江差が行政地名で箱館同様、福山も同様で湊(港)が付きません。明治の中期頃から江差湊(港)の場合は(えさしこうと読み)、港湾を指していた様です。当地が所蔵する三十数万点(江戸初期から明治中期)の文書でも港・湊の用法は固定せず混同して使用しております、以下略…」。
松前町教育委員会文化課長久保泰氏よりは次のような回答を頂いた。松前の場合では「奥州松前」・「松前城下」という使用例が圧倒的に多いので西川家文書[もんじょ]よりコピーを取りましたがお役に立てず申し訳ございませんが、御依頼の件につきましては、心掛けておきたいと思いますと温かい返書を頂いた。[筆者註…コピー文章は省略。]筆者としては既に述べてきたように、那珂【謎】[なかみなと]の印判として、海産物問屋・廻船商が用いた証[あかし]は資料からは二軒と少ないが、中国文字まで引用して、湊[みなと]として読ませることは、仮に間違っていたとしても軽視出来ぬ知識の持主が居たのではなかろうか、水戸藩には学門所も有り、学者・知識者が非常に多い。
自身の学力・知識不足を十分認識している筆者は以上のように述べてとどめるが、湊[みなと]の文字を常陸国[ひたちのくに]は水戸の那珂湊(現・茨城県ひたちなか市那珂湊)で幕末期に使用されていた印判の実態を、「那珂湊市史編さん委員会編者『写真集−那珂湊市史』昭和四十九(一九七四)年二月二十八日発行」の中より、「廻船・海産物問屋の用いた印判」とある部分を抜粋されて、資料として筆者に恵贈下された夕張郡長沼町中央に居住され、今は卒寿[そつじゅ]の齢を越えられている歴史研究家である伊藤兼平[けんぺい]氏に心から感謝し御礼を申し上げる。

茨城県那珂湊市『那珂湊市史』に掲載された幕末の廻船・海産物問屋の用いた印判

古銃の鑑定

発見された鉄砲を再度確認すると、材質に銅が混入された鉄製品で、総長[そうなが]が二十七cm、銃身長が十四・五cm、口径は十一・五mm、銃筒内部に螺旋の線條は無く、引き金と撃鉄は、銃から分散して部品は散失して皆無で、銃身の基部上面部に径一mmの穴が銃身内部に通じていて、間違いなく短銃であることは一目瞭然で、銃把部分は木部が無く、銃把の側面部を覆う覆鈑二枚は残存している。
以上の部品から銃は火縄銃の短銃と思うのだが、さてこの銃をどう鑑定すべきかと考えても素人[しろうと]の悲しさ、全く分からず戸惑うのみで確認の入り口が見当らない。…懸命に仕事に取り組んで努力すると、筆者が座右の銘としている天祐神助[てんゆうしんじょ](天の助け・神の助け)は必ずあると信じていたが、本当に助けの神が現れた。


国産黄銅製:単発先込管打式短筒

古銃は火縄銃ではなかった

日を置いてだが、先般、文書をもって小銃に刻字されていた【謎】[みなと]文字の調査を依頼した函館市教育委員会、社会教育課長の清水黄美氏からであった。
【謎】[みなと]文字を含めた短銃の全般的な見地から鑑定の必要性を痛感されてか、「短銃の調査については、毎年伊達市の祭に鉄砲隊を連れて来ている山形県米沢市に住み、宮坂考古館の館長である宮坂直樹氏に聞かれたら如何であろうか、宮坂氏は古い銃の鑑定者です」と、温かい御指導の書簡を頂いた。清水氏に感謝の礼を述べ、早速、宮坂氏に資料を送り鑑定を願った。師走に入った十二月初旬、宮坂氏より通知が来た。
「この銃は幕末時代に日本国内で造られた、単発[たんぱつ]先込管打式短筒[さきごめかんうちしきピストル](短銃)と言う黄銅製の銃であり、関東地方で多く発見されている。ベルトに差し込んで持ち歩いたことより、ベルトピストルとも呼ばれている。弾と火薬を銃身の筒口より入れる先込めで、引金を引くと撃鉄が下りて鉄部を打ち、発した火花は銃身上部の小穴より筒内の火薬に引火して爆発、弾を発射させるものである」との御指導を頂いた。
以上の鑑定結果により、発見された短銃は火縄銃ではなく、幕末期に多く造られた火縄銃から改良された短銃であることが分かった。宮坂氏より頂いた「吉岡新一著『古銃』昭和四十年刊河出書房新社」に掲載された写真を紹介するので参考とされたい。
中国文字を【謎】[みなと]文字にして、水戸の那珂湊で廻船問屋の印版として使用されている事実から、鉄砲に刻字した者は水戸の鉄砲鍛冶か、或いは水戸藩の住人若しくは水戸藩と何らかの関係のある者とも思われるが、範囲を広く考えれば、関東一円で数多くの幕末の短銃が発見されていることから、水戸に限定して考えるには危険性がある。
また、鉄砲が伝来して普及する過程で歴史書は摂津[せっつ(一部が現・大阪府、一部は兵庫県に属する。)]の堺湊の鉄砲鍛冶が大量に造って全国に広まったとの説もあるので、鉄砲に刻字された文字のみをもっての持主判定は全く困難である。

松浦武四郎が落したと仮定出来るか

鉄砲の発見場所は、筆者が推考した松浦武四郎の足跡線より離れているため武四郎が落したとは考えにくい。
松浦武四郎は徳川幕府直属の御雇[おやとい]として任用され、蝦夷地に在った箱館奉行所の奉行支配の下で、蝦夷地の山川地理取調(新道・河川の切開き可否調査)のため、石狩から蝦夷地の中央位置に在るチュクベツ(現・旭川)を通り十勝に抜ける路を調査し、和人としては前人未到の蝦夷地横断の調査を行った。
現在の江幌完別[えほろかんベつ]川の親子(親川と子川)二本の川が合体(金子川が合流)して一本になった地点から、岸を左右二手に分かれて歩き、僅かな距離で一団に戻って丘に上り、左右の沢の残雪を見ながら下り、フラヌイ地点方行に向かっているが、短銃発見地点に向かう足跡となれば、短銃発見位置から再び幌完別[ほろかんべつ]川を越え次なる目的地に行くことになる。結果的には幌完別川を二度越えとなるが、武四郎が幌完別川を二度越えした事実を、幕府へ提出した『取調日誌』並びに常時記録用として持つ『野帳[のちょう]』にも、幌完別川の二度越えは記録されていない。
武四郎が記録に無い行動を取っていたとすれば、ことによると武四郎自身が?…また石狩出発時に武四郎に随行を希望して同行している番屋侍こと、箱館奉行支配石狩詰調役下役の飯田豊之助が行動を変えて短区間を別ルートでフウラヌイの地点に向かったと考えれば、落とし主は必然的に示唆も出来るが、日誌等の記述にないことを推測するのは歴史の事実を曲げることにになるので、推理的な判断は避ける。

武四郎は鉄砲を返納している

文化十五戊寅[ぼいん]年(一八一八)二月六日(陽暦三月十二日)生れ(文政元年生れは誤り、文政元年は四月二十二日に改暦)、数え歳四十一歳の松浦武四郎は厄歳[やくどし]一年前で男として最も目的に対する生き甲斐と生気が充実しており、安政五戊午[ぼご](一八五八)年の山川地理取調の起点となる石狩川の河口地先の石狩元小屋[もとごや](現・石狩町弁天町三十八番地)を、二月二十四日(陽暦四月七日)調査に出立した。
蝦夷地の略[ほぼ]中央部地点のチクベツブト(推考地点−現・旭川市忠和[ちゅうわ]三条六丁目地先付近を、案内のアイヌ民族十二名を伴って「十勝越え」に出発したのは三月九日で(陽暦四月二十二日)であった。十勝越えの第二日目に、短銃発見地より約一q余離れた地先を歩いてフウラヌイ(現・富良野川)の地点に向かっている。
武四郎は蝦夷地の山川地理取調の出発に当たり、安政五戊午年一月十五日(陽暦二月二十八日)、箱館奉行所に於いて「…鐵砲并路用等御渡に成候」。
同年八月二十一日、箱館着、「…御役所へ届け出す。鐵砲爆薬類不残[のこらず]返納。」とある。
以上調査期間内における鐵砲の賃借並びに返納の記録は「『校注 簡約松浦武四郎自伝』編集−松浦武四郎研究会。一九八八年九月三〇日、北海道出版企画センター刊」を参考とした。
以上のことから松浦武四郎・飯田豊之助が落としたことは考えられず、また、アイヌ民族の連中が落すことは全く考えられない。…いったい何処[どこ]の誰が落としたのであろうか、命の次に大事な短銃を。
明治期に北海道と改称された蝦夷地に測量器具を携えて来て、特別の地域を除いて他は原始に近い大地を測量した技術者の一人が落としたのものであろうか、それともまた、明治中期に開拓移民として土地探しに歩いた者の一人か。一人静かに瞑想すると幕末期のフラヌイの大自然が涌き上がってきて閉じた瞼[まぶた]に映えてくる。

古銃の現地調査

「峠の南側の沢で……古い鉄砲が見つかっているんだ…」。……「一度見てみるか」。……そんなやり取りを高橋氏と交わし、後日現物を見て驚き調査をして自分なりに短銃の成果をまとめたら、既に西暦は次の年に移り、早春の季節になっていた。
実際の古銃発見場所を図面上では承知しながら、現場の確認を行っていなかった故に、九ケ月後の平成九年六月十三日に、古銃所持者で本町旭町三丁目に居住される宮田正之[まさゆき]氏の案内で現地へ行った。

古銃の発見場所

発見箇所は国道二三七号の草分登り坂口から左に折れ、町道北三十一号西道路に入り約一q行った先の沢地で、道路右側傾斜地に生じた僅かな平坦地が発見の場所であった。雑草に覆われた草地の裾を町道が通り、道路と並行して少しの距離を置き北三十号川が流れ、往き通う交通量も本当に極めて少ないと言える地点箇所で幕末の古銃発見はここ、この西六線北三十一号地先の土の中から出たのである。

こうして発見された

古銃所持者である宮田正之氏(昭和一九[一九九四]年1月八日生れ・六十三歳)は周囲の景色を懐かしそうに眺めてから古銃の発見について語ってくれた。
「ここがそうです。………馬小屋がそこに在り、ここが馬糞置場で、ここから出たんです」と、指を差しながら教えてくれる。「父が堆肥として馬糞を畑に散布する作業中、土に肥料としてしみこんだ堆肥分の多い土をスコップですき取り中、カチッと音がしたので、掘り出して見たら小さな短い鉄砲だったのです。」と、自分を昔に戻して当時の思い出を懐かしそうに語ってくれる。
「そうですね…鉄砲が出たのは……昭和三十一(一九五六)年で、私が中学一年生の時でした。…カチッ・カチッ・カチッ、と引き金を引いて打ち遊んだものでした」と、往時を思い出してか快活に話してくれ、また今は亡き父の万之助氏(大正三(一九二八)年生れ・昭和五十(一九八二)年七年五月二十九日寂・享年六十九歳)を忍んでか、一抹の寂しき顔を母屋が在った方に向けたのを知る。
何時。誰が。何処から。何の為。何をしにそれも幕末期…。鉄砲を持って。…?…?…?。

むすび

古銃の発見が昭和三十一(一九五六)年、調査開始が平成九(一九九七)年、調査を終えたのが平成十(一九九八)年、記録文書執筆完了が平成十八(二〇〇六)年十二月、実に古銃は発見されて五十一年目で今回フラヌイの多くの人々に知られることになるが、調査時から十年を経て、この度知られることは全く古銃の調査にかかわった筆者が、私的な事情があったにせよ発表を遅らせたことによるものであり、当初から御尽力を頂いた短銃所持者宮田正之氏に対して心から御詫びを致し、厚く御礼を申し上げる。
尚宮田氏には勤務される会社で生産部長の要職に居られ、その手腕を大いに発揮されているやに受け承っているが、氏の器機具に対する会得された技術力と兼ね備えた精神力をもって、花卉[かき]生産技術に尚一層の手腕を発揮され会社の発展に寄与されんことを願い、「フラヌイから出た幕末の古銃」に対する調査の綴りを閉じる。

機関誌   2007年 3月31日印刷
郷土をさぐる(第24号)   2007年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一