郷土をさぐる会トップページ     第24号目次

有線放送に思いを馳せて

札幌市南区川沿
井出幸恵 昭和十五年三月二十七日生(六十六歳)

昭和三十四年〜三十五年の僅かな間ですが有線放送協会に勤務させて頂いた事が、大きな誇りとなって、私の人生を支えてまいりました。

有線放送の機械とシステムについて

交換手として、共電双紐級・次に自動有紐級の資格に基いて働きました。上富良野町の交換台は共電双紐級にラジオアンプ・録音装置・レコードブレーヤーが備わった多種機能を持っていました。
当時はテレビの普及はおろか電々公社の電話があるだけでした。画期的施設にて全道の注目を受け花形でした。
酒匂佑一教育長、平塚武さん、成田政一さん、西口登さん、芳賀正夫さん、三好弘之さんそして女性三名のアナウンサーが交代で勤務しました。
頭にブレスト(放受器)を付けると緊張感が走ったものです。
先鋭技術の基、メーカーは通信施設の交換機ではトップメーカーの日本電気鰍ナ企画・設計・施工も行ないました。
機種の機能を説明しますと、中央に交換台、左に録音装置、右にラジオとアンプ、レコードブレーヤーがあり、淡い水色系の上品な色でした。総出力は三十Wで端末器は全農家に設置されていました。ラジオと電話を兼ねたスピーカーラジオ電話器です。
開通してからは他市町村からの視察が絶えませんでした。農村地帯からの来町は朝早くから訪れるので、当日は朝五時には出勤し準備に追われました。
視察される方々が十分納得いくよう確認し、故障ランプのない様に点検しました。このランプは故障の回線を点灯で知らせます。交換台と加入者の繋がりは外線の通信線によって連絡をとるシステムでした。風雨や雪の日などは干渉波でザアーザーと聞えづらくなり、木の枝や障害物に切断される事もありました。
送線は荒削りの電信柱に腕木を付け左右に碍子[がいし]を取付けて二芯・四芯の被覆線を使用、これは品質が悪く暑い日が続くとダラリと下がったり、べタベタとやにの様な物が手に付きます。又冬の寒さにひび割れも起こしました。視察の人達が来る日は、ただ良い天気である事を願いました。
交換台で電源スイッチを入力し、ラインランプが点灯した時は外線修理に出掛けるのです。時間に間に合わない場合はその回線を一時止めます。
視察団の方々には熱心に説明を受けて頂きました。多くの他市町村の中で何度も来町されたのは、上川管内で旭川市、剣淵町、比布町、東川町、風連町、遠く名寄の方々で、その印象は消える事がありません。帰町されるときは必ず我が町自慢の特産品に花を咲かせたものです。
有線放送協会は公民館の中にあり、裏側の基線道路は右に富良野線の踏み切り、左は島津を抜け富良野方面に出ます。きっと第一の予定地だったのでしょうね。この施設の外線修理は昇柱器を履いて腰には帯ベルトに道具を入れて昇る三好さんは何時も大変でした。吹雪、風雨の日、本線から支線へとジョイントを切って行き、その度毎にブレストを当て交換台に「消えたかい」と連絡するのです。故障個所が見つかりランプが消えた時はホッとしたものです。
一番難儀したのは草分から日新・清富に延びる支線でした。夏草が茂り、いたどりやぶどうの蔓が絡まり、大風の後は松の枝が引っかかったりしていました。外線の保守点検は大変でした。荒削りの支柱に昇るとトゲが顔に刺さったり、ずぶ濡れになった三好さんを待っていたのは芳賀さんでした。雪の日は、凍てついた衣服がバリバリ音がする姿でストーブにかじりつきながら「今日は大変な日だったね」と平塚さん、成田さん、西口さん、皆がご苦労を労っておられました。
半世紀近くも前の事になりましたが、ミニ放送局として立派に通用していたこの通信施設が全戸に及ぶ様、施設を完成させた上富良野町の方々の行動力は素晴らしいものだと今更ながら感激を覚えます。
この企画・設計施工に携われた方々に改めて敬意を表すると共に、貴重な職場にいて先人の苦労を少しでも体験できた事を嬉しく思います。

写真省略 「有線放送交換台で」
写真省略 「有線放送協会が入っていた旧公民館施設」

ラベンダー・りんどう

協会の上田会長は、ラベンダーの作付けに精魂を込められておられ、又この有線放送組織を誇りに他町村との交流に尽くされ、ご活躍された姿が今も思い出されます。ラベンダーのお話をされるときは「フランスに行って研究し町を花いっぱいにする」と事ある毎に語っておりました。今全国にラベンダーの町として知られるのは、上田会長の当時の努力の賜物だと存じます。
日新・清富の保守は十勝岳の近くでもあり、山坂が多く火山灰道路は雨の日は穴があいて配線には苦労をしました。そんな中で生涯忘れられない風景に出会いました。
天気の良いある日、保守に出掛けた休憩時に小高い丘を見つけ何人かで登ってみると、上は平地になっていてその中に紫色が見え、近づいて見ると丈の短いりんどうの花がびっしりと咲いていました。薄紫の可憐な花が荒々しい十勝岳の麓に咲くなんて、しばし疲れも忘れ眺めた事を今も鮮明にその光景が焼きついております。その後何十年も経てその地を訪れて見たのですが、その辺りには日新ダムの水天宮様が鎮座しておりました。あのりんどうは二度と観る事が出来ないでしょうが、花屋さんに並ぶりんどうを観る度に思い出される青春の一頁です。

放送の内容

公共性ある有線放送の編成内容は、昼休み時間帯には、お知らせ・地域毎の行事や連絡等であり、次に当時流行の歌、ザ・ピーナツの「小さな花」などを流します。次にマイクロホンでお話をします。原稿は上田会長が決裁をしたものでした。
行事などの録音は三好さんが担当し、新発売のホンダ二五〇CCドリーム号の荷台に、ソニーの録音機(デンスケ)を積んで颯爽と現場に行きます。編集と言ってもテープに収録してきたものに、前か後にレコード曲を流しての作成でした。
機材は大変大切に使用し、放送後のテープは在庫せず繰り返し使用しました。レコードは新曲の紹介も兼ね大道時計店から借用したもので、大変お世話になり今更ながら厚くお礼を申上げます。
三好さんはミキシングが大変上手な方で、作成も早く編集されていました。外線の方は本線から支線に入ると、又何回線かに枝分けされ、一回線に四・五軒の加入者がおられました。保守に行った折には畑仕事中にもかかわらず気軽に声をかけて頂き、小昼にじゃが芋、とうきび等ご馳走になりました。又帰りには笹やふきの葉に包んで手作りの品を頂いた想い出が沢山あり、まだ十七〜十八才頃の食べ盛りで何を食べても美味しく、コクワ、マタタビ、山ぶどう、桑の実など山の稔りを食味したものです。
日の出二上の米谷さんから少し行くと、原田さん、西崎さん、出口さんのお家があって難所のところでした。庭先に針金で編んだ芋拾い用の籠に梨瓜などがあり、冬を迎え漬物用とのことで、真赤に実ったグスベリ・カリンズを頂いた事など忘れられません。
本部の機械点検保守には、定期・不定期に日本電気鰍フ職員が旭川、札幌から出張してきましたが、その中の技術員に菅野昭氏が居りました。旭川高専卒の優秀な方と聞いて居りましたが、機械の不具合について解りやすく親切に指導をして下さいました。日頃の不明点を箇条書きにしておくと、一つ一つ丁寧に教えて下さった事は後年交換台の仕事に携るようになりとても助かりました。
小学校高学年頃でしょうか、父が黒く焼けた真空管を本体から外し新聞紙に包み、蝶野ラジオ店に行くように言われ「大事な物だから丁重に扱う様に」との父の言葉が離れず、一生懸命悪路を走ってラジオ店に向ったことがありました。どの様にしてラジオが直ったのか知る事も無かった私が、この様な仕事に関わり少し理解を深める事になりました。
放送の技術は、NHK旭川放送局の生方アナウンサーから発声等の指導を受けました。ラジオ全盛時代でしたから、プロのアナウンサーの前でとても緊張を覚えました。

故郷を想うとき

富良野高校の裏手に堤防があり空知川が流れていて、昼休みには友達と川を眺め語り合ったものです。富良野を通った川の水は二度と戻っては来ない。嬉しい時悲しく苦しい時には父母にたとえた石狩川・空知川を想いだそうよ。その時はきっと希望と勇気が湧くと……、川の向うにはなまこ山があり、不動の十勝岳は黙して語らず忍耐強さも教えてくれ、風光明媚な環境の中で有線放送事業に携る事が出来た事など故郷に今更ながら感謝して居ります。
想い出は尽きる事が無く書き足りない事ばかりですが、お世話になった方々に心よりお礼を申し上げ、今後の上富良野町の発展をお祈り致します。

井出幸恵プロフィール

●昭和十五年三月二十七日 上富良野町日の出二ノ上 林下武治、フサの五女として生まれる。
●昭和三十年 道立富良野高等学校普通科卒業。其の後、上富良野町立有線放送協会に
アナウンサーとして勤務。
●昭和三十六年 電信電話公社交換業務養成所学校入校。電話交換手認定取得。
●昭和三十七年〜四十六年 電話交換業務略歴 丸和商事ビルディング勤務(機種−共電双紐級)。松下電
器産業梶E松下電工椛纓搏X 石垣開一商店入社(機種−共電双紐級)
●昭和四十六年 北海道厚生年金会館勤務(機種−自動有紐級)。在転中札幌冬季オリンピッ
ク開催、開会式場となる。皇太子殿下、妃殿下御臨席。オリンピックで世界
各国のXIPの宿舎となりました。
●昭和四十七年 井出永年と結婚。井出自動車整備工場設立(北海道陸運局認定工場経営)。
日本損害保険協会、保健取扱資格業務取得。札幌JA指定工場。現在に至る
(趣味)
 登山・写真・山岳スキー(日本公認盤渓スキー学校検定一級)

機関誌   2007年 3月31日印刷
郷土をさぐる(第24号)   2007年 4月 1日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田政一