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−石碑が語る上富の歴史(その12)
  會田久左エ門の歌碑

上富良野町本町 中村 有秀
 昭和十二年十一月二十八日生(六十八歳)

−十勝岳の登山指導標と共にある−
     會田久左エ門の歌碑

風に叩かれ 吹雪に耐えて
  岩に根を巻く 松の幹
負けるものかと 夜空に問えば
  月がほほえむ 十勝岳
建立年月 昭和五十年八月八日
建立場所 十勝岳富良野事業区一二三林班イ小班
         (安政火口への入口付近)
揮毫者  上富良野町長 和田松ヱ門
設置者 富良野営林署
    上富良野観光協会
    上富良野町十勝岳山岳救助警備隊

一、登山指導標と歌碑建立の経過について

昭和四十九年十二月二十八日、午後八時十勝岳温泉「凌雲閣」の社長であり、昭和二十二年頃から十勝岳の地形図・登山道・湯源・開発道路・温泉宿の開発に心血を注ぎ、情熱を捧げていた「會田久左エ門氏」が、享年六十九歳にて急逝された時でした。
「故會田久左エ門氏」の永年に亘る十勝岳開発に全力を傾注した遺徳を讃えると共に、十勝岳登山の安全の為の「登山指導標」を併せて建立しようとの気運が、観光協会・十勝岳山岳救助警備隊を中心とした関係者の中で高まり建立する事が決定しました。
その決定に基づき、国有林に登山指導標を設置し併せて「故會田久左エ門氏」の十勝岳開発途上での心の叫びを歌った短歌を入れ、氏の遺徳を偲ぶとした「指導標設置申請書」が上富良野町長和田松ヱ門として、関係機関に提出し許可が出ました。
昭和五十年八月八日、「十勝岳登山指導標」と共に「故會田久左エ門氏(号を青洞)」の遺徳を偲ぶ短歌」が刻まれた歌碑の除幕式が、多くの関係者の参加により行われました。
その除幕式での記念写真及び参加者三十二名の氏名及び関係は次の通りで、今から三十一年前の皆様の顔々そして服装等が懐かしく感じられます。(写真・名簿省略)
除幕式後に、歌碑に刻まれた二首の短歌

○風に叩かれ 吹雪に耐えて
    岩に根を巻く 松の幹

○負けるものかと 夜空に問えば
    月がほほえむ 十勝岳

を参加された皆様は心で詠み、故會田久左エ門氏の往時の苦労を偲ぶと共に、その旺盛な反骨精神で今日の十勝岳開発、そして温泉郷の発展、上富良野町の観光開発の礎になったことの遺徳を讃えたのです。
故、會田久左エ門氏は短歌・絵・彫刻と多才で、「号を青洞」としての短歌が多く詠まれていますが、十勝岳温泉開発に際しては次の短歌があります。

○風よ吹け 嵐よほえろ
    どうせ命は 山の露

○ゆるせ妻子よ 心に泣いて
    尽きぬいばらの 道を行く

○煙あがれよ 旧噴火口
    千古の扉の 開くとき

○十勝岩根が 何堅かろう
    立てし誓いの 土根性

○花も嵐も尚 踏み越えて
    行くが男の 行く路を

○命の灯火 消え果てるとも
    俺は十勝の 山男

○苦難の道は 遠くとも
    俺は十勝の 山男

○高峰に積る 雪解けて
    花ほころびる 春も来る

二、會田久左エ門氏と十勝岳の関わり

會田久左エ門氏が編集人として発行していた「上富週報」に、氏が「十勝岳開発回顧」として連載された記事を基にして、十勝岳との関わりについて、年月別にその足跡を辿って記します。

昭和二十二年

會田久左エ門氏が勤務していた大成木工に、駅前に建てる十勝岳案内図の枠の注文があって、木枠を製作したが、絵は富良野の看板屋に書かせる事を聞き、自分で書きたいと申出をし案内図を書いたが、案内図が正確かという疑念にかられた。
誤った案内図を書いたのでは、人命に関わる大問題である。どうしても十勝岳の山中を踏査をしたくなった。

昭和二十三年〜昭和三十年

看板屋を始めたが、時間に束縛されない仕事なので、暇を見つけては十勝岳の探査登山を行った。
吹上広場には吹上温泉の解体材が積まれ、在りし日の温泉宿の姿は消えていた。
長谷川零餘子の句碑が草に埋もれ、浴槽だけが湯煙りを立てている。
十勝岳大爆発、戦争という爪跡、満州での運命等を考えた時、まだ生きている、まだやるべき使命が何かあるだろう。せめて十勝岳は案内指導標を直す位は出来るのだろう、一生の内に百回は十勝岳に登ろう、そうして案内指導標を直そうと決意した。
指導標は白銀荘から十勝岳頂上まで、郵政省の簡易保険の記入のある十abの角柱と、爆発供養碑の潰れた小屋の廃材や、山頂附近の観測所の廃材を利用して指導標の設置を続けた。
上富良野町に『八の日会』というグループがあったので、このグループの名を借りて『十勝岳開発』の看板を自費で立てた。
将来の開発道路は、旧噴火口直通道路の開発であり、十勝岳の観光価値を再認識させようとの意図であった。

昭和三十一年

十勝岳登山が六十三回を数えたのと、前年度に印刷屋を始めたので、念願の『十勝岳案内図』を印刷発行した。

昭和三十四年

上富良野町議会議員に立候補してはと推され、観光開発には肩書も要ると判断したが落選する。
(五月三日) 永年主張して来た開発道路の地形調査と湯源調査に二男義寛と旧噴火口を目指して登行す。
旧境から谷間を注目して行くと厚い雪が崩れて湯気が立ち、温泉が噴出し手の入れられない熱さで『温泉発見』の喜びで下山した。
(五月八日) 二男義寛、妻、娘婿の岡崎清一氏を同行し現地へ。温泉湧出現場は前回に増して噴出し、湯温は六十三度あった。
(五月二十一日) 義寛と菅野豊治父子と共に、第三回目の登行する。現場では各所から温泉が湧出している。
(六月七〜八日) 印刷工を含め家族ぐるみで一泊の予定で現地に天幕を張るも、山の寒さで眠られない。熱い湯にゴム長靴のまま足を入れて暖を取る。翌日は雨に濡れながら下山したが湯源は有望と判断。
(六月十日〜十八日) 人夫五名、荷負夫二名、岡崎氏と共に登行し、天幕を張り掘進を開始した。荷負の二人は下山し、七人の天幕生活である。川原に湯溜りを造り、天幕の床には松葉を敷き宿泊の段取りが出来た。朝三時には目が覚める。対岸の這松の中から、毎朝の様にナキウサギの声が聞えた。終戦後十余年を経たとは言え、この頃はまだまだ土木機械が整備されてはいないし、気風も体を張って働く意気込みがあった。天幕暮しの唯一の楽しみは酒で、道具は鶴嘴[つるはし]、鉄挺[かなてこ]、スコップの他は無い。この作業は、意気に反して予想を裏切り掘れば掘るほど、湯量も減って行った。最後は、ボーリングで出る様に土管を埋め、十八日に作業を打ち切って下山した。
(七月三日) 妻と義隆(三男)を同行し、掘進現場に登行した。晴れた静かな日で、足取りも軽く火口に向う。掘進現場に到着して温泉の湧出口を見ると「あれ程、湧出していた湯が、一滴も流れていない」、川原は噴火口から流下している融雪水が流れているだけだ。先月の十日からの一週間の苦闘も水泡と帰した。初夏とは言え、この山中で人に会うことは考えられないが、山狂人が失敗の場面を人に見られるような気がして、下流にある低温泉でも利用するより他は無いと考え直し川原を下る。
掘進現場から五百米程下ると、ザワザワと水音が聞えてきた。今まで細い流れが音もなく流れていたが、川床が一段と掘れ右岸の断崖から滝のように温泉が湧き、湯煙りを上げている。
試しに水温計を入れて見ると三十五度である。今まで噴火口を除いては、三十度以上の湧出箇所は見ていない。
何か期待が持てると思い、方々の湧出箇所を調べていると、義隆が「父さん、ここが熱い」と言う。
切立った断崖に燕が無数に飛び交い、見るからに崩れ落ちそうな岩の堆石された下である。水温計を入れると四十二度である。
ポーリングをすれば五十度にも上がるだろうと考え、その日は日暮れを恐れて急ぎ下山した。
(七月九日〜十一日) 準備を整え、義隆(三男)と杉本、中野氏、渡辺氏と他に人夫二名と共に、菅野豊治氏の小型トラックに送られ翁温泉跡下の硫黄精錬所跡に到着した。
その後は、天幕、食糧、スコップ、鶴嘴、鉄挺等を背負い、旧道の笹を分けて登り滝の上に達した。
当時、川に降る道とて無く、這松の密生地帯であり、急な断崖である燕岩(湯元)の二百米下流に当る突出した大岩の側から降ることにした。
先ず飯にしようと、腰を下ろし弁当を広げると、風下から黒い蝿が矢のように飛んで来た。またたく間に、捨てた魚の骨に群がるすごい山蝿の集団である。
昼食後、ずり落ちる様にして荷物を持って川に降りる。いずれも二十貫(七十五s)近い重さであった。
たまたま、休暇で登山に来た自衛隊員二名も天幕に泊ることになり、早速湯溜りを作り天幕を張って、その夜は「着手祝」の酒宴となった。
人夫達は言った「親父が、いくら酒を持って来てくれても、前の所では飲めなかった……ここなら飲める」と大張切りで酒が進み夜が更けて行った。
翌朝、早々と起きて残雪からしたたる水を瓶に溜め、飯や汁を炊いた。作業中の飲み水は、四百米上流の沢水を瓶につめて運び飲んだ。
鶴嘴とスコップを、湯の湧いている中心を追うようにして掘り進んだが、湯元が判らない。丸二日掘り続けた末に、岩の凹に達したが湯温が上昇せず、立ち往生の状態になってしまった。
三日目、五十米下流から下水を掘る要領で、排水を出来る様に深目に掘り出したが大きな岩床に行き当った。
これが、湯の湧出岩床であったのである。機械も運べないこの山中では、カズサ掘りの他はない。
吋半の鉄管の先に刃をつけ、丸太の三脚を立て、ロープで鉄管を釣り上げて岩床に打ち込む作業が続けられた。
湯温が、四十四度、四十五度と上昇して行くが、流水に流されて、又これを掘り上げる。風雨で天幕が吹き飛ばされる。
何のことはない、小さな人間も大自然に挑む挑戦である。これが、男の世界と言うだろうが……。
今、考えて見ると、あの頃だから十勝岳温泉も開発されたのだとつくづく思う。
体を張って大自然に挑む男ども。鉄挺、鶴嘴が唯一の工具であったあの頃あの時代であったればこそ、男どもの土根性が「十勝岳温泉開発」の扉を開いたのだと。

昭和三十五年

(一月十五日) 冬の湯元を調べるべく登行したが、翁温泉の上の壁から引き返した。
(二月五日) 冬の湯元調査の二回目の登行を行ったが、四粁附近に達したが引き返し、中茶屋作業所に泊めて貴い、翌六日の早朝に出発し、ようやく燕岩下に至り調査を終え帰途についたが、命懸けの調査であった。
(六月二日〜三日) 役場土木係員によって、開発道路調査が実施され、旧噴火口下より八百米附近を終点とした。
(七月一日〜八月六日) 湯元にボーリングをすべく登行した。先ずビニール管三吋を吹上地区に車で運び、その後は林間道路を二人で二本肩に釣って運ぶのだが、岩道や曲り角には一人一本の管がままにならなかった。
ボーリングは八月六日まで続けられ、湯元は一段落したので、滝上までの本管五吋八十本は、西村運輸の小型トラックで四粁地点まで運んで貰ったが、悪路には気の毒なほど苦労された。
それから上は、馬での荷上げであったがどうやら高台に引き上げることができた。

 数々の思い出−我流で測量し、道の形をつくる−

役場から測量機の上部だけを借りて、登り水平を測ることにした。
機械を据える場所は、湯元と高台が見える所でなければならない。
燕岩下の対岸の崖に、樺の木が倒れて逆さになっているのを見つけ、これに据えつけて水平を出し赤い布を各所に付けさせ、これを基準として宿舎予定地は四米下として、送湯管の測量を終えた。
配管地の測量は出来たので、道を作ることにした。営林署担当区主任本間氏には測量するため笹を刈ると申し込んでいた。
配管工事については、厚生省に提出した「国立公園宿舎事業執行認可」がまだ来なかったので、明確に文書で官林署に提出していなかった。
どうやら道の形が出来た時、本間氏から強く怒られたが、しかし良い道が出来たなと言われほっとした。本間氏には終始お世話になった。

 第三〇八地区施設隊による道路の測量

道の形が出来た頃、三〇八施設隊初代隊長長崎三佐と大西一尉が現場に来られ「隊長の任期も切れるので、その任期内に演習の名目で道路の測量をして上げたいから、案内をしていただきたい」との申し入れがあった。
特に道路になるべき薮をくぐれと言われた時は、嬉しかった。恐らく人跡未踏と言うだろう険しい山腹の熊笹や薮をかき分けて、道路となるべき地形を案内した。

 十勝岳開発道路の着工について協議

測量が終って五日位して夕方下山すると、急いで役場に来てくれと言われ、役場(旧)に出向くと、三〇八施設隊長は駐屯地司令と副司令を案内して、町長室で海江田町長、酒匂助役と会合が行われていた。
営林署担当区主任本間氏も同席して、十勝岳開発道路施工について協議され、自衛隊が手を挙げるか……町が万歳するか……の根くらべで着工を話し合い、これが切っかけとなり、営林署との共用道路として開発が進められたのである。

 送湯管の埋設と一滴も来ない湯

いよいよ五吋本管の埋設にかかった。ビニール管が市販されて二年目であった。継目のスリーブ加工も、大阪で加工し直送されて来た。
ビニール管とは、どんな物か解らぬままに配管が始まった。太いので曲がる所は焚火で温め、案外楽に継ぎ足しされて行った。
一方、岩と岩が重なっている場所は、水平になるまで掘るのに苦労したが、湯元まで三百五十米の配管完了までに三カ月を要した。
高低差は四米あり、湯元の管を継ぎ合わして湯が通過するまでの間にと、五百米上流の飲料水源地整地に行き、夕暮れ近くに帰って来て見ると、湯は一滴も来ていない。
湯元に行って見ると、三カ所のボーリング箇所から集まった湯が噴き上がっている。その日はあきらめて天幕に入り、悪い頭をひねって原因を探求する。翌朝、早々に起き出して管の状態を見る。
管の延長三百五十米、落差四米で水は出口近くまで来ているが、管内には確かに水が断続的に停滞している。
これは空気の滞留によるものと判断し、先ず出口の管の先を水が一杯になるように上向きに曲げ、「大きな水平器を置いたようなものさ」と笑いながら、途中の高い所を掘り直させ空気の滞留箇所に小さな穴をあけると、内部の空気が噴出して勢いよく温泉が出口から流れ出し、急造の浴槽に溜って行く。一同、思わず万歳と叫ぶ。急造の湯溜りは底が抜けて全然役に立たなかったが、石を積み草や根で隙間を埋めて、何とか温泉につかることが出来た。

(九月二十三日) 海江田町長に登山をしてもらい、西條有傳師によって地鎮祭と通水式を行った。
(十月) いよいよ、三〇八地区施設隊により本格的な測量が始められた。中隊長大西一尉を指揮官とし、役場土木課及び他の課職員が見通しの悪い木や笹を刈払っての測量である。
全長八粁に余る測量で、しかも十月の日没の早い時期である。奥に入るほど山は険しく寒さが加わって来る。
雪は遠慮なく笹の上に積り、足場は日毎に悪くなるばかり。足場の少し良い所で寒さを凌ぐ暖を取るために周囲の小枝を集め燃やすが、煙ばかりで少しも暖かさを感じなく、煙にむせりながら冷えた飯を食う。
この測量隊の苦労は、山の神以外には知る人も無いだろう。
測量も終る頃、三段山二本松の三角点に目印の棒を立てに行った。這松の上に雪が十糎程積り、寒くない日であった。距離四百五十米の這松をくぐり、岩を渡り往復したらズボン下が腰まで濡れてしまったので、湯に入りズボン下を手でしぼって、また着用して来た事を思い出す。

昭和三十六年

(七月) 金松君を元締めとして人夫を登山させ、飲料水管八百米を川越しに配管させた。燕岩には一羽の岩燕も来なかった。(編注 建設着手は昭和三十六年七月十四日)
(八月十四日) 金松君が集中豪雨により「三年越しの湯元施設が流失した」と涙ながらに報告に来た。
「俺も山に挑んだ男だ、それ位の事は覚悟の前だ、又やればやれるさ」と慰め、急ぎ同行して流失現場を見たが、川床が変りあまりにも荒れ果てた姿に、成すすべも知らなかった。
思いもかけない災害であった。十屯もある岩なら大丈夫と思い、これを頼りに配管して二年過ぎ、三年目には跡形も無いまでに流されたのである。
また、始めからやり直しである。皆んなは、もくもくと掘り出した。六日間でどうやら湯が通った。
(八月二十日) 建設地の地均しにかかる。こんな時である、自転車で登行し途中の林中に自転車を捨て登って見ると、小雨の降る中で人夫たちが天幕の外に立っている。
「どうしたのだ」と聞くと、「佐々木秀世代議士の偉方が来ている」と言う、天幕の中を見ると偉方が積んである布団の上に腰を下している。宮野の親父の案内らしい。
人夫が雨に打たれて、偉方が寝具の上で威張っているのを見ると、グッと腹の虫が頭をあげて来た。
噴火口を案内してくれとの事である。
しかし、無礼であると心中期する所があって噴火口に同道した。曇空の中で噴火口は煙が充満している。約十五分程、煙の中に立っていぶしてやったことがある。
先ず工事用小屋を作らなければならない。資材運搬に馬を使うには、旧道の笹刈りから始め道路直しが続けられた。
小屋材は四粁附近から工藤さんの馬で運び揚げた。敷地の笹を刈り出したが、一坪程で音をあげた。密生した根曲り笹でどうも仕様もない。
どうやら、二間に四間の小屋を建て、屋根の板張りに上って見ると、今まで薮で見えなかった下界が遥かに遠くに見えるではないか「これはいける」素晴しい展望である。
湯管の所には板で浴槽を造り、小屋半分にセメントを積み、半分は寝室である。
今度は、どんな風にも吹き飛ばされる心配はあるまい。どうやら拠点が出来て、敷地均しに掛ったのが八月二十日である。
道路側の岩から岩に糸を張り、四米掘り下げる計画である。中から、何が出るやら判らないが道具は鶴嘴、スコップ、鉄挺と馬である。
北側の岩は思いもかけぬ大岩で、掘るほどに素晴らしい形を現して来たし、南側は古い洞窟となって現れて来た。山の神の造ってくれた、自然の岩風呂だと勇気百倍となった。
資材運搬は、日本通運上富良野支店長徳島氏の好意で、山部から集材用のジーエムシートラックを廻してもらい、旧硫黄精錬所跡まで引き揚げたが、五十年前の旧道は林間のため湿地であり、僅か千米の距離を八回も立木にワイヤーを掛けると言う状態であった。

 第三〇八地区施設隊による道路工事着工

三〇八施設隊による中茶屋より四千百米の道路工事が始まった。(編注 昭和三十六年七月四日)
敷砂利は、四粁のヌッカクシフラヌイ川の玉石とクラッシャーで砕き使用された。中茶屋口は大型ブルドーザーで作業が行われ、その威力に驚きの目を見張ったものである。
ブルドーザーの一押しの土量は、我々の現場でのスコップ何十杯に当るだろう。
時には隊員が登って来て、大きな岩は発破を掛けたらと進言されたが「山の神の命令で掘っているのだから、そんな岩は出ない」と言ったが、その通りになり作業は続けられ、その上五十キロ位の石が堆積されており、石積み作業も楽に続けれた。
九月に入って、一部コンクリート工事に着手した。浴場を除く地階の部分を構築して工事を打切り下山した。
十勝岳開発道路も、四粁百米の第一期工事を完了した。

昭和三十七年

(五月二十日) ジーエムシーを依頼し資材を運搬したが、四粁地点に達して見ると、恵庭施設部隊が一日差で先着し、道路の表土が試験運転のために削り取られていたため、ジーエムシーは登行不能となり資材はその場に降さざるを得なかった。
その上、途中に積んであった板材がブルドーザーのはねた土の下敷きとなり、半分は掘出し不能になった。
資金がある訳じゃなく、苦心して途中まで引き揚げた垂木や板が、例え一本二枚にせよ土の下にすることは忍びない悲しみだった。
たった一日の違い、施設隊の予想より一日早かったため一部の材料は埋もれ、後続の材料は途中に積まねばならなかった。

 三千米の坂道を馬による資材運搬

資材の運搬は、旧硫黄精錬所まで千五百米の距離を加えて、三千米の坂道を馬で運ばねばならない結果となった。これは大きな痛手であった。
挽馬競技に出る一流馬一頭に、補助として草分の農耕馬を入れて運搬にかかったが、農耕馬は三日目で駄目になった。
馬主との契約は、セメント一回に五袋、三回運搬で一日十五袋運搬の約束であった。
馬が山にいれば、降り照りなしに給料は支払う。
雨の日は困難だから、晴れた日に頑張ってくれと言う約束で人夫も同じである。
三日も雨が続けば、小屋の中で馬鹿を言っているが、心の中はつらいものであった。
農耕馬が駄目になると、馬追いが威張り出した。
千五百米の坂道を一日三回なら四袋ずつしか運ばない。五袋なら二回しか運ばないと言うのである。
休んでも金を払い、飼料もこちらで運び、これだけ優遇しても足元を見たなと思っても、腹を立てる訳には行かない。腹を立てたら負けで、材料が上らなければ作業は止まるのである。
夜半に起きて野天風呂に入り「山の神どうするんだ」と呼びかけて見た。月が頭上にかかり、風もなく枯木が白く光り、老松が黒く影を落している。
この時に詠んだ歌

   『負けるものかと 夜空に問えば
            月がほほえむ 十勝岳』

他人には山に命を賭けると言っている俺が……負けてはいれぬと気を張っていたが、上川支庁に出向く途中に旭川市内で具合が悪くなり、羽広工務店内で倒れ日赤病院に十日程入院した。心身共に疲れていたのである。
(六月上旬〜下旬) 六月の始め、二回地震を感じランプが横に五糎もゆれる地震である。ラジオには何の発表もない。
「これは火山地震だ、爆発も近いが旧噴火口は決して心配はないぞ」と、人夫達に言い聞かせ作業を続けた。
この時は、飲料水も少し白く濁り、昭和・大正・安政(旧噴)の三つの火口から一斉に高く煙を噴いた時である。
(六月二十九日) 下山して町から十勝岳を見ると、大正火口の噴煙が筵[むしろ]をかけた様に、もやもやと横に流れているので爆発は大正火口だと判断、作業現場は大丈夫と言う安心を感じたが、それから六時間後に大爆発が起ろうとは思いもしなかった。
夜の十時頃、十勝岳爆発の噂が流れて町中が騒然とし、町広報車が退避の準備を呼びかけながら、町の中を走っていた。
私はカメラを持ち、菅野豊治さんの車に乗って白銀荘に急いだ。江尻君を同行したのは、現場作業員を緊急下山させるためであった。
夜十二時には白銀荘に到着、既に消防車が先行しており、登山者三名と白銀荘管理人の家族を下山させた。残ったのは、担当区主任本間氏と、管理人村上さん、私と江尻君の四名である。
怖いもの見たさだけではなく、白銀荘は絶対危険がない場所だという安心感もあった。
皆んなが下山すると、暗黒の林の中を下山して行く車の音が遠のきやがて聞えなくなった。後は物音一つ聞えない嘘の様な静けさである。
全身を耳ににして、山の音を聞こうとしても何の変化もない。
午前一時を過ぎ、午前二時になろうとする頃、ざわざわと水音のような音を聞いたので、外に飛び出して火口の方を見ると、わずかに白みかけている。
東の空に前十勝の山影が黒く、ゆるく煙が噴き上がっているのが見える。
やがて、家が音を立ててゆれ、地震を感じ煙が急に強く噴き上げるのが見えた。瞬間「俺がここにいると言うことは……一秒も早く泥流の噴出を町に知らせねばならぬ」と気付き、本間氏に「供養碑まで見に行く、ただし、それ以上は前進しない」と言い残して林間の道を急ぐが、まるで足が地についていない。
枝越しに見上げると、前十勝全山が噴煙の下となり、雷光が走り、雷鳴がとどろき、それが山の谺[こだま]となって覆いかぶさるような威圧さを感じる。
ゴーゴーと噴上がる騒音の中を走る。爆発供養碑前の丘の上から見ると、噴煙の下から大正火口に落下するすざましい岩石の流れが、砂煙をあげて地獄の様相を見せている。
距離は二千米である。先ず泥流の出るのは大正火口が埋めつくされてからと見て、白銀荘に引き返し本間氏に報告し、折り返し供養碑の丘に向う。
稲妻はますます激しく、雷鳴がとどろき、噴煙は断続的に東上方に向って移動して行き、噴出の止った所は白煙を上げ、噴出の中心部は赤く焼けた岩石がエレベーターで引き上げられるように上昇を続けている。
岩石が噴出している中で、おそらく直径四米もあろうと見られる大岩石が、四百米位の煙の中から前十勝の稜線に落下し砂煙を上げる。
大正火口は、四十五度の斜度を岩石が怒涛の走りで大半が埋もれていっている。
五名の死者を出したシュナイダーホースは、煙の渦巻きの下で燃えている。
次いで、前十勝中腹の旧鉄索基地の焼け残った柱に火がつく。白煙が丸山の裏を廻って、昭和火口の谷を下るのが見えた。これは溶岩流であろうと思う。
ただ、ゴーゴーと言う音の中で、ようやく空が明るくなってきた。
温泉建設現場の人々を下山させねばならないので、白銀荘に引き返し連絡を江尻君に託し、八ミリカメラを持参するように言いつけ、林間道路を走らせる。
事前に用意していた梯子で、白銀荘の屋根に登り噴煙を見る。
午前四時、上へ上へと盛り上がり行く巨大な噴煙に、あざやかな朝日が光を投げかけ、この世のものとも思われぬ素晴らしい光景を現出させた。
白紅黄灰色、澄んだ朝の青空をバックに躍動するキラメク宝石の渦、この美しさも降灰にさえぎられて、十五分もたたぬ間に巨大な煙りと変っていった。
役場の車で酒匂助役以下がやって来た。息子義隆と多田さんが同乗して来た。
全員午前八時半に下山との指示があり、八時半までに帰る事を約して三段山に向う。時間が無いので息つく暇もなく、江尻、義隆、多田さんと走りに走る。一期に標高千七百地点に達し、すざましい爆発を八百米の対岸に見つつ呼吸をととのえる。
ウグイスの鳴き声が穏やかに流れ、岩燕が噴煙の園を輪を画いて飛び交している。
時折、頭上から灰のかたまりが、ザラザラと音を立てて落ちて来る。カメラを廻し終って、一目散に坂道を馳け降りる。
汗だくで白銀荘に着くと、富良野警察署長が署員を連れて来たのに会う。
「会田君が一人で登山したと聞いたから降ろしに来た」と笑っている。
後は、一生に一度も見ることの出来ない絶景に下山しようともしない……。この時間が前から知っていたら、三段山でもう一本のフィルムを全部写し終っていたものをと、悔やまれてならない。
午前九時過ぎ、酒匂助役、富良野警察署長、他全員が下山、その後は登山禁止となる。
登山禁止となって、困ったのは温泉旅館工事の継続である。
あまりにも大きく騒がれ報道されたので、工事現場への立入り禁止になったら、作業中止となるので旭川気象台長に会い、道警旭川方面本部を訪ねて安全性を説明した。
美瑛町役場で開かれた十勝岳噴出の説明会で、旭川気象台長の発言に大きな影響があったのである。
幸に、中茶屋・十勝岳温泉・旧噴火口を結ぶ線を危険区域外と認められ、八月十五日に工事は再開された。

昭和三十七年八月

工事再開の八月十五日、富良野岳を廻りカメットク・馬の背と急行し、爆発火口二百米まで接近して八ミリ撮影を実施した。
八月二十日の豪雨により、湯元と飲料水管の一部が流失した。増水四米で一瞬の出来事である。
全員で復旧に当り、コンクリートで川中に湯溜りを作る。
凌雲閣の主体工事もほぼ完成し、夫婦で泊ることとなった。
開発道路も恵庭施設隊により、翁附近まで完成しトラックが乗り入れられた。

昭和三十八年

(五月一日) 村上国二氏が町長に就任、私(會田久左エ門)も町議に当選。
(六月十六日) 十勝岳山開きが、凌雲閣の裏で行われた。
(七月十日) 凌雲閣落成式を挙行し開業した。旅館営業は、北海道知事町村金五より昭和三十八年七月十二日付で「十勝岳温泉凌雲閣」として許可された。
この七月、十勝岳開発道路工事予算を巡って町議会は荒れ、委託を受けた自衛隊側も師団長をはじめ、駐屯地司令等幹部の進退に関わる重大事態になるまでに難行、村上町長は辞任をかけて開発予算を専決処分し、議員も総辞職解散することを決定した。
町長選の結果は、村上国二氏が敗れ、海江田武信氏が八月二十六日町長に就任した。
選挙戦の最中の八月二十四日、豪雨により瞬間六米を越す泥流により、湯元が流失し大修築を行った。
次いで、飲料水管をヌッカクシフラヌイ川左岸の崖下に配管し、これと並行して旧噴火口より温泉取入れを計画、九月に全長千六百五十米の配管作業を実施して十月に完成した。
開発道路も、三〇八地区施設隊により、カミホロの上二百米まで完成した。この地帯は地形地質ともに、山中随一の急峻な地帯であり、加えて天候に恵まれず隊長をはじめ隊員が悪戦苦闘した所である。

昭和三十九年

(一月) 米軍レンジャー部隊が山岳スキー訓練のため四十名が三泊した。
この冬は、山の猛威を身に滲みて感じた年である。二月末に飲料水は断水し、雪を融かして炊事をやり、風圧で窓硝子が連続して破損し、扉は飛ばされた。
除雪には悪戦苦闘の連続で、ようやく中茶屋より四粁地点まで雪路をあけ、連日苦闘が続けられた。
札幌方面から正月休みを利用しての客に便宜を図ろうと、山部の石綿工場で永年使用し雑品屋に座って居たオンボロドーザーを買って来たのはよいが、連日の降雪でカミホロ附近で雪の下敷きとなったのを掘り出し、雪に追われる様にようやく四粁地点まで脱出し、中茶屋間の除雪に当った。
凌雲閣から熱湯を一斗缶に詰めて、息子がこれを背負い急坂をスキーで下って四粁地点に運び、エンジンを暖めるのに一日掛りで夕方やっと動き出したので夜間の運転である。
何分にもオンボロでキャタピラがはずれ、これを直して動かすまで又大変である。木炭を焚き動き出したら又故障、こうして徹夜の作業が続けられたが、大晦日のお客は凌雲閣まで五粁近くの雪路を徒歩で登る外は無かった。忘れられない思い出である。
五月の声を聞く頃、旧噴火口からの温泉は雪解けと共に夜は温度が昇り、昼は急激に低下し、途中の送湯管は連日の様に切断して、その修理に追われた。
(六月九日) 噴火口まつり山開きを実施した。
冬期間に飲料水の断水で苦労したので、富良野岳方面から水を引く決心をし、雄鹿滝の上方から湧出している水を引くべく、先ず現地測量を始めた。
密生した笹や這松なので、ただ糸で距離を測るだけで六百米測って日が暮れ、ようやく岩場を伝わって帰って来たが、これでは前線測量だけでも大変なので、ハンドベルで斜度を一定にし、笹を刈り道形をつけながら作業を進め、全長千九百米の道形が完成した。
開発道路も、岩見沢施設隊により約八百米完成し温泉下旧道合点に達した。

昭和四十年

昭和四十年の冬は、平均四米の積雪を記録し凌雲閣はすっぽり雪の中に埋もれる。
旧噴火口壁の雪崩が続発し、送湯管破損、途中の断管続発した。配管周囲が雪洞となっているので、懐中電灯を持って雪洞をくぐり断水個所を見付け上部から雪を掘り、補修する作業が続けられた。
春の融雪期になると共に、噴火口の温度が増々低下し湯温十七度となり、断管現象は続発し連日補修に追われた。
(六月初め) 旭川第二師団長の特命を受けて、旭川施設部隊の全員が開発道路最後の難工事に着工された。
記録的な大雪のため、全山が堅雪に埋もれ、加えて急斜面のため上部への登行は困難を極めた。
ブルドーザー作業は、どうしても山上から下に向けて施工しなければならないので、先ず安全性を考慮して屏風岩の谷の堅雪を利用して登行しようとしたが、急坂のために前進不能である。
前年の作業終点は四十度の壁である。凌雲閣裏に達する旧道は路幅が狭い。しかしこの路を登るより方法が無いのである。
冬山造林の運搬道路として、山腹を削り雪と土を混ぜて作った道路工法を利用するほかはないと見て提言すると、隊長はこれを採用され、全員スコップによる道路作りが始まった。もちろん片くずしの路である。
翌日の早朝、寒気で固まった雪路を大型ドーザーが登行を開始し、危険な地割れを生じる崖上に登行成功した。
早速工事を開始したが、後続の高圧空気車は登行が出来ず、送気管の延長により二台で一台のエアーハンマー操作するため爆破作業が遅れ、一台のドーザーに無理がかかり大破する事故が発生した。
自衛隊でなければ施工が出来ないこの難工事、泥にかくれた大岩石と堅い十勝岳特有の安山岩の累積、十七屯の大型ドーザーが岩と岩の空間にはめ込んで行動を失い立往生する場面もあり、隊員の苦闘は言語に絶したが、これも今は夢。山の神様の他はご存じあるまい。
この難工事の終る頃、紅く燃える夕焼の空に静かに沈む太陽の色を、今もなおまざまざと思い出す。
(六月) 国民宿舎カミホロ荘建設工事着工する。
(七月十一日) 山開き噴火口まつりを実施するも大暴風雨となる。
噴火口に新水路を作り、八月に飲料水配管千九百米の配管完了する。
この月に、十勝岳開発道路延長約八千米の全線が完成した。
(九月) 旧噴火口にセメントを運び、温泉取入口とも言うべき「人工湯脈」を作り、湯温九十二度に上昇し、続いて飲料水蓄水槽を構築し一安心した所、十月六日の燕岩の崖が大崩落が発生により、湯溜槽はその下敷きとなって破壊し、旧噴火よりの送湯管及び飲料水管も粉砕された。
この時の大崩落は、約三百屯で最大の岩塊は五十屯と見られ、湯元の回復はほとんど不可能に見られた。

昭和四十一年

(昨年十一月頃) 高松宮殿下御招待の話題があったが、昭和四十一年二月二十三日に高松宮殿下の御登山が正式決定された。
(二月) 雪中の突貫工事として、凌雲閣の表玄関を完成した。せめて御休み所だけでも新しい所でとの願いであった。
御料理は、富良野市の清水ホテル主に依頼し、接待の総指揮は、富良野市北の峰開発の草分けである鈴木氏の指図に従った。
(二月二十二日) 旭川市に奉迎に参上し、警察の先導車に同乗して旭川を出発し無線連絡を続けながら上富良野駅前に下車し、続いてカミホロ荘に向う。
高松宮殿下と同行された三笠宮ィ[やす]子姫宮、小川スキー連盟会長のお嬢さんが早速スキーに乗られるために、矢北氏が先導で凌雲閣に来られた。
妻達は不意の御来訪にお迎え申し上げ、屏風岩コースを滑られてカミホロ荘に御一泊なされた。
翌朝、起床して見ると山は一面の雲で、視界は百米前後に過ぎない。常に宮様が来られた時は、「宮様天気」が来るよと言っていただけに、壮大な自然をお見せ出来ないことが残念でならない。
この様な内に、宮様一行が雪上車で来着されたので御案内に立ち、温泉スロープに御案内したが、標高千五百米の仙松台附近に差しかかった時、全山の雲は一掃されて旭川・暑寒別をも眺望できる「宮様天気」に恵まれた感激は忘れ得ない思い出である。
この時の歌

    『十勝嶺に かかる心の 雲晴れて
              宮の笑顔の 嬉しさに泣く』

三月に入って、飲料水が断水したので雪を融かして炊事する状態が続き、水源変更を決意し積雪十四米を掘って湧水状態を調査する。
六月に入って、旧噴からの湯送管断管の故障が続出し配管経路の変更を決意する。
(七月十七日) 日曜日、雷雨と共に集中豪雨を受けて、噴火口温泉入口が全壊、燕岩下の大岩石も一部流下し飲料水管の一部も破壊される。
噴火口内の温泉取入口を修築のため、セメント二十袋をブルドーザーに積み運搬中を営林署職員に発見され、一週間の作業停止を言い渡される。
(八月十日) 豪雨により仮設管流失す。八月十五日夫婦岩下に温泉湧出を発見、新送湯管を右岸に移し千八百米の配管が完成する。次いで、飲料水管の上流三百米を移設完成した。
この年は、大自然の猛威の前に振り廻され、お客様には苦情を言われ、連日連夜に亘って悪戦苦闘を続けた年であった。

昭和四十二年〜昭和四十六年

(昭和四十二年五月三日) 奇しくも温泉発見の日「昭和三十四年五月三日」から八年を経て、第一回全道十勝岳大回転スキー競技が開催された。
(四十二年、四十三年) 大自然との闘いは依然として続けられた。
(四十四年) 十勝岳爆発の噂から、この年二百万円の赤字を出した。
(四十五年) 利用者が増加したが、赤字の穴埋めに苦しんだ。
(四十六年) かねて念願の場所にボーリングを施工しようとする。これが私の最後にかけた念願である。
山神の恵を祈って止まない。雪解けて高嶺の花のほころびる、その日は何時であろうか、この項を終える。― 会田生 ―

會田久左エ門氏による『十勝岳開発回顧』は、昭和四十六年四月三十日付けの『上富週報第六〇三号』で終っていると共に、『上富週報』は約十七年間にわたる地域の週刊紙として親しまれて来たが、閉刊されたのである。

三、會田久左エ門氏の急逝

昭和四十九年十二月二十八日、安政火口の湯元がおかしくなり、久左エ門氏は親戚の男子一人を連れて吹雪の中を修理に向かった。
ここの温泉は湧き水というより雨水が浸透した溜まり水が熱せられたものなので、谷間から出るすべての温泉を効率よく集める必要があった。
ツルハシで詰まった湯元を改修し、セメントで水路を固めて長い時間根気よく働いた。
この場所は凹地で風が比較的弱いのと、温かい地熱のために冬でも雪が積もらず、久左エ門氏はむしろ汗をかくほどだった。
ところが、一通りの改修作業が終って谷筋へ降りてくると、途端に猛吹雪に襲われ、汗ばんだ身体は一挙に凍ってきた。
この急激な温度変化は老人に想像以上のストレスになって、久左エ門氏は脳出血で崩れるように倒れてしまった。連れの男性は仰天して必死に運ぼうとしたが、失神してぐったりした人間ほど重いものはない。
このままでは二重遭難になる恐れがあったので、下に助けを求めるために一人で下りていった。
ほうほうの態で凌雲閣にたどりついたが、運の悪いことに頼りになる二男の義寛氏は機械の修理のために街へ行っていた。町役場の有線放送を利用してやっと連絡が取れ、救援隊が現場に到着した時は、倒れてからはや五時間が経過していた。一見してもう手遅れであることがはっきりした。
久左エ門氏は雪で真っ白になった睫毛[まつげ]をつけて安らかに眠っているようであった。おそらく、発作後再び意識を回復することはなかったのだろうか。救出され上富良野町立病院に収容されたが、昭和四十九年十二月二十八日午後八時、久左エ門氏は六十九歳の生涯を閉じられた。
十勝岳に憑かれた男、山を愛した男、温泉開発に燃えた男、會田久左エ門氏はかくて再び山へ帰っていった。
會田久左エ門氏の倒れた地点に「ケルン」とも言うべき「登山指導標」が建立され、その壁面には久左エ門氏の短歌が刻まれている。
十勝岳温泉の開発に共に苦闘し、夫に献身的に協力した妻タケさんも、その三年後の昭和五十一年十二月七日に久左エ門氏のもとに旅立った。享年六十八歳であった。

四、温泉建設での資材の運搬と荷上げ

昭和三十七年に入り、建物の建設準備が着々と進められ、六月七日に日本通運のジエームシーによって建設材料が運搬された。
工事は三ケ月の見通しとし、資材はセメント一五トン(三百袋)・鉄筋三トン・枠材五〇石・送湯ビニール管四メートル百本・水道管二百本であった。
中茶屋から旧精煉所跡までの六・五キロメートルは林道で車輪通行が困難な獣道と変りなく、車が行ける所まで行き、動けなくなると立木にワイヤを掛け引きよせて登る、その繰り返しで登った。
馬で荷上げする二キロメートルの急斜面は、馬車(軽輪車)にセメント五袋(一袋二〇キロ)を積み、一日三往復が限度とされたが、農耕馬では無理であったので、會田タケ夫人の同郷(江幌)の人であった山本幸一氏に窮状を訴え、荷上げを依頼した。
山本幸一氏は挽馬の馬を育成し、各地の大会で優勝した優秀馬を持って協力してくれた。特に最後の一キロメートルは「馬殺し」とまで言われ、建物完成まで二頭の農耕馬を失う。
挽馬の馬を持っての荷上げの協力していただいた山本幸一氏に対し、昭和四十八年八月十日、會田久左エ門氏は短歌を色紙に書き、感謝を気持を込めて贈られた。色紙は今も額に入り、北町三丁目の山本和子さん宅の玄関の間に飾られている。

五、温泉と飲料水の確保での数々の苦労

凌雲閣の完成前から完成後も、一貫して會田久左エ門・義寛親子を苦しめたのが水の問題であった。
それは十分な量の「温泉」と「飲料水」の確保であった。
湯元から風呂場まで敷設した三キロ余りの温泉パイプは、夏の鉄砲水・春の雪崩で散々に傷めつけられた。既に昭和三十六年に敷設したパイプは、その年の八月豪雨で跡形もなく流され、三十七年・三十八年と立て続けに流失した。
初期の頃は、ほとんど毎日のように温泉トラブルが発生して、その都度パイプの修理に飛び回った。
冬になると、雪圧と雪崩で温泉パイプの継目が時々はずれて断水した。その修理が気の遠くなるほど大変であった。
まず、雪の上から配管のおおよその位置を推定し、四メートルも掘り下げてやっとパイプが出てくると、今度は温かいパイプの影響で配管のまわりにできた雪の空洞を這っていって、切れた個所を修理する。それも一カ所とは限らない。ときには夜通し作業することもあった。
このような修理の作業は、ほとんど義寛氏が担当したが、深い雪の下、かすかな懐中電灯の光の中で一人ぼっちで作業するのは、肉体的にも精神的にも大変な負担であったが、情熱と強靭な体力がこの難局を支えた。
配管の問題は、最終的にはもろい火山岩をツルハシで掘ってパイプを地中に埋めることで、長年の懸案を解決した。
更にパイプの材質が問題であった。最初の湯元の温泉が強い酸性であったため、実際に使った鉄パイプはみるみる溶けてしまい、また酸性に強いはずのステンレスパイプさえも溶かしてしまった。
結果的には、四〇度C以下ならば塩ビのパイプが具合よく、十年以上もっている。しかし、この温泉は昭和四十年十月に起った、大規模な岩雪崩のために埋没してしまった。
その後は、安政火口そのものから出る九五度Cの温泉に切り換えたが、九〇度を超える温泉にあうと塩ビパイプは、いったん膨れ上がったあとで次第に収縮をはじめて、最後はぐしゃぐしゃになって潰れてしまった。強化プラスチックも駄目であった。
最後に、柔らかいポリパイプがこのような高温に適していることが判った。
湯元を安政火口に移したあとも、毎年のように発生する鉄砲水に手を焼いた。安政火口の湯元は、もともと湯量が豊富ではなかったが、大正・昭和の十勝岳の大噴火のたびに次第に噴出量が減ってきていた。
久左エ門氏が亡くなったあと、義寛氏はむかし岩雪崩で埋没した元の湯元の復元を試みた。埋没当時は道も機械もなく、人力ではとても何トンもある岩をどけることなど思いもよらなかったが、砂防ダムの完成と共に道も整備され、掘削機械を導入して、地下七メートルから湧き出る強酸性の温泉と、地下二〇〇メートルから出る中性に近い五六度Cの温泉の二種類を確保することに成功した。
こうして、長年悩まされつづけた温泉源の問題もやっと解決して、温泉宿の経営も軌道に乗ったのである。
飲料水も、長いあいだ頭痛の種であった。もともと十勝岳は硫黄山とも呼ばれ、この山から流れる富良野川は、フラヌイ川(アイヌ語で臭き野原の川の意)といわれて、川水は硫黄の臭気がして飲むにたえなかった。
久左エ門氏は、義寛氏と一緒に長い針金をもって十勝岳温泉周辺の測量を行い、昭和四十年には独自の地形図を作成した。
この測量中に、富良野岳の山腹に未知の滝を発見し「九重滝」、「華雲滝」と命名した。この滝の見学のために富良野岳山頂から道なき道をたどって下りていったとき、偶然に雄鹿滝の上に飲料水に適した湧き水が出ているのを発見し、昭和三十九年に二キロメートル弱の配管をして宿に引き込むことに成功した。昭和四十年には飲料水槽も完成した。ところが、ほどなくこの水源も涸れてしまった。
今度は、雄鹿滝の下に別の新しい湧水を見つけだした。十勝岳温泉の湯水期は雪が溶けだす前の三月か四月である。そして、春の雪解け時期まで待てなくなって、七メートルの雪層を掘って湧き水を確保した。
飲料水用のパイプ、温泉用パイプと同様に「夏の鉄砲水」「春の雪崩」に傷めつけられたが、これも最終的に地中に埋めることで解決した。

六、十勝岳温泉「湯元凌雲閣」は三代目に

昭和三十四年五月三日の温泉発見から、會田久左エ門氏夫妻・子息による幾星霜の十勝岳温泉開発は筆舌に尽し難いものがありました。
この十勝岳開発に、長年にわたり物心両面から支援した人「菅野豊治氏」(スガノ農機株式会社初代社長)の大きな支えがありました。
會田久左エ門氏の「十勝岳開発回顧録」の中にも菅野豊治氏との事が書かれていますが、平成四年七月一日スガノ農機株式会社発行の「菅野豊治を語る」誌に、會田久左エ門氏との関係について、次の様に記してあります。

■町の親父豊治には、強い奉仕の精神もありました。ある時、会田久左エ門は上富良野町の発展を願って、十勝岳にある現在の凌雲閣温泉の開発に挑みました。それに対して、町の人々は、だれ一人として応援しませんでした。しかし、豊治だけが、損得なしで温泉づくりをめざす彼の生きかたに感動し、道のない山を社員らと一緒に登り、物心両面から支援しました。そして、ついに開発を成功させました。

その様な関係で、昭和三十七年八月三日菅野豊治氏が発起人となり「十勝岳温泉株式会社」が設立されたのである。
昭和三十八年七月十日、十勝岳温泉「湯元凌雲閣」として、数々の苦労と思いを込めて開業された。
開業後も、温泉源と送湯管、飲料水の確保と送水管、鉄砲水や春の雪崩等が、次から次からと続出し會田親子の奮闘が続くのであった。
昭和四十九年十二月二十八日、會田久左エ門氏が安政火口附近の湯元にて倒れ帰らぬ人となってからは、二代目として會田義寛氏が中心となって妻サワと共に、母タケを助けて「湯元凌雲閣」を十勝岳温泉の中核として営業を積極的に進められ発展させてきたのである。
凌雲閣も築後三十年を経過し、山岳地特有の風雨雪による老朽化も進み、いよいよ新築をする事に義寛氏は決意され、平成六年十二月二十七日に十勝岳温泉「湯元凌雲閣」が新築オープンされた。
今は、祖父母・父母の数々の苦労と思いを礎にして、三代目會田圭治・幸子夫妻が第三代目として「凌雲閣」を経営されており、新しい感覚で十勝岳温泉郷の発展に意欲を燃やしています。

機関誌  郷土をさぐる(第23号) 
2006年3月31日印刷   2006年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一