郷土をさぐる会トップページ     第23号目次

ふらの原野開拓のあゆみ

上富良野町錦町 野尻巳知雄
 昭和十二年三月三十一日生(六十九歳)

北海道の夜明け

むかし、北海道は「蝦夷地」と呼ばれ、先住民族のアイヌの人々が海や川で魚を獲ったり、広い原野では鹿や熊などの狩猟と山の実、野草を採って自然豊かな暮らしを営んでいた。
このようなアイヌの人々の楽園であった蝦夷地に、和人が住み着くようになったのは定かではないが、斎明四年(六五八)に阿部臣が船軍百八十隻を率いて蝦夷地に遠征したとの記録が残されている。
その後、多くの武士や商人が蝦夷地に渡り、松前や函館、釧路など船が着く事が出来る沿岸地帯を中心に和人が住むようになった。アイヌの人々との交易と農耕の開拓が進み、蝦夷地は少しずつ開けて行ったが、反面、アイヌの人々の生活の場が和人によって次第に失われて行った。(その変遷は町史「上富良野百年史」に詳しく掲載されている。)

内陸地の探検

内陸地に足を踏み入れるようになったのは、天明五年(一七八五)で幕府の調査隊普請役山口鉄五郎高品、同庵原弥六宣方、同皆川沖右衛門秀道、同青島俊蔵軌起、同佐藤玄六郎行信以下一行三十二名が、松前藩より案内役、通辞、医師を従え、二途に分かれて東蝦夷地と西蝦夷地を探検している。
当時ロシアは、日本との交易を認めさせようと、カラフトやクナシリの日本運上屋や商船を襲い、物資の略奪を繰り返していた。このため幕府は、蝦夷地の安全と警護のために蝦夷地の沿岸部は基より、内陸部の調査も必要と考え、寛政十年(一七九八)に幕府目付役渡辺久蔵、使番大河内善兵衛、勘定吟味役三橋藤右衛門等一行百八十余名により、太平洋沿岸と西海岸に分かれ調査に当たらせることにした。三橋とその部下は松前から宗谷に渡り、帰途天塩川をさかのぼって石狩川の上流まで探索したが、この調査が上川地方への探検の草分けといわれている。
その後、大河内の部下であった近藤重蔵は、文化四年(一八〇七)にロシア人による蝦夷地襲撃を防ぐために、幕府若年寄堀田正敦等総勢五百人とともに、再度蝦夷地出張を命じられた。その時近藤重蔵は、蝦夷地中央の調査を行い、未踏のため暗闇の中にあった内陸部の様子も少しずつ明らかになってきた。しかし、当時の地図にあるように、富良野地方へは狩猟のためアイヌの人々が訪れるのみで、まだ誰も入地しておらず、未開のまま残されていたのである。
この時期に使われていた蝦夷地の地図は、三角測量の技術も無くいびつな形になっていたが、文政四年(一八二一)には、間宮林蔵が実測の資料を総合し、ほぼ現在の形に似た地図を完成させている。

富良野地方の探検

富良野地方への探検は、その後幕府の役人松田市太郎が、美瑛から十勝岳の硫黄採掘を調査して、フラヌ原野の近くまで来ているが、富良野地方に最初に訪れた和人は、蝦夷地探検家松浦武四郎である。
松浦武四郎は安政五年(一八五八)に上川アイヌの酋長クーチンコロの案内で、美瑛から東中倍本を通り、富良野岳の原始ヶ原をぬけて十勝方面への探検を行っている。
この時松浦武四郎は、探検見聞録の「十勝日誌」で、見晴らしの良い深山峠付近の高台から富良野盆地を眺め、「扨[さて]、爰[ここ]より眺めるに東は美瑛の麓まで三里位(約十二`b)西は空知の山々まで凡そ十二〜三里(約四十二、五十二`b)、南北は五〜六里(約二十、二十四`b)の間、目に遮物無原也(遮る物は何も無い原野である)。一封内をなし(大名の領分内を見込まれる)、地味(土地の性質)山に囲る故に暖にして内地に比すれば相応の一ヶ国と思われる。」とフラヌ原野の状況を記している。
その以前は、十勝アイヌと上川アイヌが狩猟のために富良野地方を訪れていたようで、開拓当時に湧き水の近くに小さな小屋が残されていた。狩猟のための仮小屋と思われる周辺には、土器なども発見されていて、単独での生活の痕跡がわずかに認められるものの、人々が長期にわたって集団で生活していた墳墓などの形跡は見当たらず、アイヌの人々が生活の場としていたようなものは発見されていない。
開拓以前のアイヌの人たちは、外敵から家族を守るためには集団での生活が求められていたが、集団生活に最も必要な食料の確保は、農耕を知らないため、海の魚や海草をとったり、また内陸部に住む人々は、産卵のため川に上がってくる鱒、鮭や山菜を乾燥させて食料とし、冬は熊や鹿などの動物を狩猟して、北国の生活をささえていたのである。
富良野地方は、昔「フラヌ原野」と呼ばれ、アイヌ語では「臭い水が濁っている土地」といわれているように、硫黄の流れる川には魚は棲むことが出来ず、真水の川も途中で硫黄の混じった沼地で合流し、魚の棲む川はあまり多くはなかった。
また富良野地方に流れる空知川も、石狩川や天塩川などのように、産卵のために大量の鱒・鮭などが清流を求めて川を上るには、空知川は空知大滝(現芦別市滝里付近)が障害となって、魚が遡上出来なかったことも集団生活に向かない大きな要因となっていた。アイヌの人々が生活の場とするには非常に厳しい環境にあったため、富良野地方にアイヌの人々が住んでいなかったのではないかとの見方が、定説になっているようである。

明治新政府と北海道開拓

安政二年(一八五五)三月、アメリカのペリーによってもたらされた開国要求による箱館開港は、蝦夷地開拓に大きな転換の口火となった。
薩長の倒幕攻勢により、ついに慶応三年(一八六七)十月、二百五十有余年の永い間続いた鎖国太平の夢は破れ、幕政は大政奉還(政権を朝廷に返上すること)を行って自ら倒壊の道を選んだ。
明治元年(一八六八)に入って新政府が樹立されると、新政府の中心人物であった岩倉具視[トモミ]は、新政府に対して蝦夷地のもつ豊富な資源の開発と、ロシアの侵略に対する蝦夷地問題の重要性を強く働きかけた。
新政府はこの間題を採り上げ、旧幕時代の箱館奉行所を廃止して、新たに箱館裁判所を設置することになり、箱館裁判所総督には清水谷公孝[きんなる]が就任した。また、岩倉具視は蝦夷地開拓の方法について、「会津藩倒幕に反対した奥羽諸藩(仙台、庄内、盛岡、長岡、二本松、棚倉等)=東北戦争=の降伏藩士等の終身禁固重犯人、流人等をこの地に移して開拓に従事させるべきである」と述べている。これは、蝦夷地は未開未踏の極寒荒地であるからその開拓は容易なことではないため、反逆者や犯罪人等を送って強制労働をさせるというものであった。
一方、会津藩倒幕に反対した奥羽諸藩の降伏藩士等としても、新政府による所領没収や大幅な減額は領民とともに死活問題であり、蝦夷地に新しい耕地を求めることが窮地を救う良策と考えていた。このような状況から仙台藩の伊達邦成、邦直、片倉邦憲等の藩が蝦夷地開拓の難事業に着手することになった。
明治二年(一八六九)政府は民部省内に開拓使を置き、長官の権限を諸省卿と同格とし、鍋島直正を長官に清水谷公孝を次官に任命した。この年、松浦武四郎を蝦夷開拓御用掛にし、島義勇[よしたけ](裁判所会計)、岩村通俊(聴訟司)、桜井慎平(軍務官)を判官に任命し、後に松本十郎が、岡本監輔、竹田信順等とともに開拓使半官に任ぜられた。
明治二年(一八六九)五月には「江戸」を「東京」「箱館」を「函館」と改称し「蝦夷」を「北海道」と改めて「開拓使」を置き、ようやく北海道開拓の機運が高まってきたのである。

農民の募集

明治二年(一八六九)十月、島義勇開拓使主席半官は、函館から札幌に本府を移すにあたり、銭函−札幌間の道路新設に着手し、未開の地札幌に官舎、病院、倉庫等を建てたが、予算以上の多額の経費を要し、鍋島直正長官の後任として任命された東久世通禧[みちとみ]長官の許可無く独断専行で行ったために、長官の怒りに触れ、三年二月その職を去ることになった。
その後を継いだ岩村通俊半官は、一時工事を中断し、島半官の失敗が準備不足であることを知りぬいていたので、まず、札幌本府設置に必要な緊急課題は何かを検討した。それには、多数の工事人夫や技術者のための食料の確保が必要であると考え、それを生産する農村の開発と市街地の建設が急務として、計画を実行した。
このため、松本半官の出身地で黒田清隆次官と交流の深い羽前酒田と越後柏崎に吏員を派遣して、農民の募集を行うことにした。このときに岩村半官が募集した内容は、今では考えられないような厚い優遇策で、旅費はもちろん家作り、農具、種子をはじめ、三カ年の食料、並びに開墾料として、九・九アールに付き二両を与え、商工民には家作料百両、三力年間の手当百五十両を支給した外、十力年々賦で四十両の就産資金を貸与している。
また、自費で移住する農民に対しては、官寡の農民ほどではなかったが、家作、農具の外、開墾料として九・九アールにつき十両という多額の金を与えるなど、大いに農事を奨励する内容となっている。
翌四年春には、諸官衛の工事のために職工人夫等千数百人を集め、本庁舎、官邸、営繕掛詰所、用度掛詰所、倉庫、牢屋の外農村の移民小屋二百余棟、養蚕、養豚舎などの工事を短期間で完成させた。
これらの施策により、着工前に二人の住人しか住んでなかった札幌に移住した者は、明治五年(一八七二)には、五百五十六戸、男女千五百五十三人に達した。

黒田清隆の功績

明治三年(一八七〇)二月、カラフトの領土所有権でロシアと紛糾していた問題を解決するために、薩閥の実力者の一人黒田清隆をカラフト専任の開拓次官に任命した。二十九歳の若き次官黒田清隆は、八月二十三日にカラフトに渡ってロシア官憲と会い、たがいに乾杯して『紛争は円満な話し合いによろう』と約束して帰国し、政府に樺太と北海道開拓について「十月建議」を提出した。その要領は、

一、カラフトはロシアが進出すると三年とは保たない。むしろカラフトはそのままとし、石狩に本府をおき、年間百五十万円の予算を以って北海道の開拓に専念すべきである。
二、海外から開拓事業に経験のあるものを招いて、移民、工業、鉱山、測量等のことに当たらせる。
三、学生を海外におくり、開拓に必要な人物を養成する。
四、開拓に要する経費は、鉄道建設費、諸官吏の減俸を以って当てる。特に旧鹿児島藩の禄十万石をこれに向け、また自分および樺太官吏の俸給二分の一あるいは五分の一を返納する。

などであって、
「願わくば、早く内政を整えて、国の基礎を固くし、国力を充実し、富強を十年の後に期し、やがては万国の上にもぬきでて、日本国の勢いを世界に輝かさんことを」と、強く結んだのである。
この意見は政府の支持を得ることとなり、その年の十一月、三条右大臣名で黒田次官に次の指令が与えられた。

一、明年、大臣・納言をして北海道を視察させ、道政改革の大綱を定める。
二、次官が帰国し、最終的な方針が決まれば、それに要する予算増加の措置を講ずる。
三、開拓事業に入用の資材は、アメリカから購入するものとする。
四、次官が留学生を帯同していくことを承認する。

というもので、十一月には欧米への出張命令が出された。
樺太、及び千島諸島におけるロシア人による侵略の危機にのぞみ、本道の警備が大きな問題となっていた。新政府の財源が逼迫し、大規模な施策を講ずることが出来なかったため、新政府太政官(政府の最高責任者)は明治二年七月、北海道を諸藩に分与して、開拓と警備に当らせようと「諸藩・士族・庶民の志願により相応の地所の割渡をする」旨の布告を行った。
その結果、水戸、仙台、佐賀藩、徳島藩稲田家等の比較的力の弱い藩が出願し、そのほとんどが条件の良い沿岸地や東蝦夷地に集中した。
政府は、むしろ力のある大藩からの願い出を期待していたことと、支配地域を全道に振り分けるために、全国の諸大藩に対して分領を命じ、支配領を全道に振り分けた。
しかし、その結果は、事情があって国許に戻ることの出来ない士族を抱える諸藩を除き、ほとんどの藩が途中で分領を放棄して国許に戻ってしまった。それだけ北海道の未開の原野を切り開くのは困難を極めたものであったといえよう。
また、明治八年(一八七五)黒田次官は、大久保利通とはかって、政府内で反対意見の多かった「樺太の領土を放棄して問題を解決」する案を進めるため、外交手腕のある榎本武揚を海軍中将に任じ、特命全権公使としてロシアに派遣した。政府の訓令は「樺太を捨てて千島列島全部を得よう」とするものであり、樺太千島交換条約の調印は五月七日に行われたが、この調印は、日本が外国と同等の立場で条約を交わした最初のことであった。

新政府の改革と北海道の開拓

北海道の開拓が進む中で、欧米に出張を命じられた黒田は、日本の文明開化と北海道開拓を更に推し進めるためには、外国人の指導者を招き入れることが必要と考えていた。新政府の方針に従いアメリカに渡ると、ホワイトハウスに大統領グランド将軍を訪ね、農務局長ホレス・ケプロンを開拓顧問に招くことに成功したのであった。
開拓使から「外人頭取兼顧問」に任命されたケプロンは、アメリカ各地で開拓に必要な機械器具を購入し、明治四年(一八七一)七月七日に日本に渡り、芝増上寺の開拓使東京事務所に落ち着いた。
ケプロン来任とともに、北海道開拓刷新も着々と進行した。
八月には樺太開拓使を廃止して、北海道開拓使に合併した。太政官会議では黒田次官の意見に基づき、速やかに開拓の基本方針を定め、北海道開拓十力年計画を立て一千万円の予算を付けることが決まった。
続いて諸県・華族・士族・寺院等の北海道分治をやめ、全部開拓使に帰属させた。
ケプロンは、東京にアメリカの作物や農法を広め日本に適する農業を進めるために、東京農園を設置し、アメリカから野菜や草花の種、果樹の苗木、牛馬などの家畜と農機具のほか、園芸・畜産担当の専門家を呼び寄せ、実験の体制作りを行った。
また、部下のトーマス・アンチッセルとエ・ジ・ワーフィールドを北海道に派遣して主に函館から札幌までの地理を調査させた。
北海道の気象、交通、天然資源等を調査した二人は、調査結果を次のように報告をしている。

一、本道の気候、風土がアメリカに似ているので大農法の取入れが可能であり、天然資源が豊富なことから、移民を入れる方法を講じること。
二、開拓に着手するには、まず全道の地形を測量し、土地処分の法律を制定すること。
三、札幌は首都として適当であり、機械工場を設け、石狩と室蘭間、函館と札幌間に道路を開削すべきである。
四、ユーラップの銀や鉛、道南の硫黄、石狩川上流の石炭等はすこぶる有望であり、鉱山開発をつかさどる鉱山局を設置する必要がある。
五、米産に適さないので麦類を栽培すること。
六、外国の農民を移して、実際のやり方を日本人に見習わせるようにしたい。

などの意見書を提出した。
翌明治五年(一八七二)には、ケプロンは自ら来道し、実地を踏査して札幌・函館間の道路の開削、鉄道の敷設、鉱山の開発、木材の利用、漁業の拡充、大農法による農耕・牧畜、海外の果樹栽培、農業試験所の設置、水路の改良、公立学校制度の樹立など北海道開発に必要な基本と、現状に即した対策を明らかにした。
これらの意見は、黒田清隆と新政府によって着実に実行され、北海道の開拓が近代的手法により、大きく前進することになったのである。
ケプロンは明治四年(一八七一)に地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンを呼び、黒田の働きによって無罪となった榎本武揚、大鳥圭介等とともに全道の鉱山の調査に当らせた。
また、北海道の三角測量を実施するため、四月に東京開拓使仮学校教授に技師ジェイムズ・ワッソンを呼び、仮学校生徒とともに札幌本道(札幌−函館)の測量に当らせ、畜産事業では、技術者エドウィン・ダンを呼んで、東京官園のほか函館七飯に作った官園などで、家畜の飼育とバター、チーズ、ハム、ソーセージなども生産した。
しかし、明治政府は、ケプロンが強く求めた外国人による農地の開拓と、外国資本導入による開拓については、欧米諸国によってアジアに対する植民地政策で、多くの悪例を見せつけられていたため、その導入については頑なに採用を拒みつづけた。
教育においては、アメリカの文化を広め、先進技術を学ばせる教育の場の必要性が高まり、ケプロンの献策によって東京芝増上寺に創設されていた開拓使仮学校が、明治八年(一八七七)十月、札幌へ移されて札幌学校と改称された。
翌九年(一八七六)七月アメリカからウイリアム・スミス・クラークを招いて、札幌農学校と改称発足したのである。
明治六年(一八七三)一月、岩村半官は開拓使の予算百万円を三万円ほど超過してしまった。
当時交通不便で、東京との連絡に相当日数を要することから、予算超過の理由書を付けて黒田次官に事後承認を求めたところ、『余をないがしろにするものである』といって怒りを買い、前任者の島半官同様、その職を離免されてしまった。後任に松本十郎半官が任用されている。

屯田兵制度の創設と開拓の担い手

黒田清隆開拓使次官は、ロシアとの紛争が絶えないことから、岩倉右大臣に対し、「北海道の開拓と同時に、外国(ロシア帝国)から北方領土(北海道を含む)を守るためには屯田兵制度の創設をするよう」強く建議した。
そのおもな理由は、

一、外国(ロシア帝国)から北方領土の侵略を防ぐために、軍備を配置して防衛に当らなければならないこと
二、この領土を日本の領土として定着させること
三、国内に溢れている士族階級を北海道に移住させ、北海道開拓の労働力不足を補うこと

であった。
この建議は新政府にとっても好都合であった。東北戦争(新政府の会津藩倒幕に反対し、奥羽諸藩が新政府軍と戦って敗北した戦争)で領土を召し取られた東北諸藩の無禄の士族を北海道に送り込み、北海道の開拓と北方領土の守りが同時に解決される名案と考えられたのである。
明治七年(一八七四)、「屯田兵例則」が発布され、道内各地に屯田兵村を新設して兵を募集し、軍備を組織して外敵に備えることとなった。
最初は、士族の授産事業として警備に重点がおかれていたが、後に開拓事業に従事する人手が必要なことから、一般平民からも屯田兵を応募できるようになり、神奈川、宮崎、沖縄を除く全国から応募され、総計四万人が集められた。
屯田兵に対する移住保護は至れり尽くせりで、移住に当っては支度料が支給され、出発に際しては出帆港までの旅費日当、荷物運搬費を支給し、渡航費は官費、到着すれば家屋夜具、農具、種子、土地を現物で支給した。さらに三力年間扶助米、塩菜料が給与され、病気は付与年限中は官費、死亡するものがあれば埋葬料まで支給された。
屯田兵は全道三十七の兵村に分かれて組織され、約七万五千町歩を開墾し、本道開墾に大きな功績を残したのである。
また、北海道開拓に別な一面を見せる出来事でもあった。
明治九年(一八七六)新政府は従前の封建制度の改革を行うため「金禄公債証書発行条例」の交付を行った。この条例によって、封建制の産物であった華士族の家禄は、すべて没収されたので、華士族は伝来の封建的特権をすべて失なってしまった。
領土を持たない華士族は、今までのように家臣を養うことが出来ず、旧家臣を北海道に移住させて開拓に当らせることにより、華士族の授産事業を起こそうとする旧藩も現れてきた。

函館−札幌間の道路開削

明治初期の北海道の交通手段は、ほとんどが海や川の船が使われ、道路の開通はわずかに沿岸付近で止まっていた。
開拓の進展には、生活物資や生産物の流通に必要な内陸通路の開発が急務であった。まずワッソンによる測量成果を基にして、函館と本府札幌を結ぶ道路を、明治五年(一八七二)三月に着工して翌年六月に完成を見たが、これが札幌本道である。
新政府の移民政策を奨励し、移民を教化するために、東本願寺も新道の開削に巨額の財源を投資しており、明治三年、大谷光蛍一行一七八人が来道し、一万八千両を投じて胆振長流から中山峠を通り、定山渓を経て平岸までの仮分道路総路一〇四キロbを、道幅九尺(二・七二七b)伐木三間(五・四五b)で、翌四年十月に完成している。

上川道路の開発

上川管内までの仮道路開削はかなり遅い。明治五年(一八七二)岩村半官は、当時神居古津の難所のために、人跡未踏の地であった上川地方の開発を考え、札幌開拓使開墾掛の高畑利宜[としよし]を上川地方の探索調査に派遣した。
高畑は三ケ月の調査期間を要し、石狩川を中心に層雲峡の銀河の滝付近まで調査に当り、この調査によって上川地方の状況が明らかになった。
明治十五年(一八八二)開拓使が廃止され、代わって函館、札幌、根室の三県が置かれたが、北海道の開拓の成果が一向に挙がらないことから、会計検査院長岩村通俊は、その実情の調査を命じられ、つぶさに北海道三県を巡視することになった。
その調査報告により、本道開拓の急務を説き、先ず上川を開いて四方に及ぼすを得策とし、移民の戸数、募集方法、旅費、家屋費、農具、種子、及び三年間の扶助米、味噌並びに道路開削の経費などの資料を付けて報告した。
この報告を受け、政府は北海道開拓を再検討するために、翌十八年(一八八五)に太政官大書記官金子賢太郎を北海道に派遣した。その折、黒田次官との確執からその職を一時離れていた岩村半官も、大書記官の金子賢太郎の北海道視察に同行し、陸軍少将永山武四郎等とともに、上川原野の調査に当った。
その調査報告により、翌十九年(一八八六)に三県を廃し、道政を統一するために北海道庁を設置することとなった。
北海道庁の初代長官には岩村通俊半官が選任され、札幌周辺の道路開発から十五年を経過してようやく岩村長官によって上川へ向かう道路の開発が緒についたのである。
当時、道路は札幌から空知集治監の所在地「市来知」までしか無く、その先の「忠別太」に至る八十六`bは、原始林のままの状態であった。
そこで道庁職員の高畑利宜が測量に当り、樺戸集治監安村治孝典獄が囚徒を指揮して、わずか四千円の予算で、「市来知」間から「忠別太」までの区間を開削することにした。まず馬が通れるだけの仮道路を目標に五月に測量を開始し、夜を日に継ぐ突貫工事で、樹木、笹等を幅二・七bに刈り、その中に道幅を一・八bに作り、川、沢には木橋を架け、人馬の往来が可能な仮分道路を造って、八月二十日に完成させた。その後、この仮道路は二十年から二力年計画を以って本道路の改修計画をたて、再び囚徒を使役して完成させている。

北海道中央道路ルートの調査

江戸末期までのフラヌ原野は、アイヌの人々が時折狩猟のために訪れるのみで、原始そのものの姿が残されていた。盆地の形態も、川の流れも、樹木やそこに棲む動物の種類も何もわからない未開の地であった。
アイヌの人々が狩猟のために移動するためには道が必要であったが、道と呼べるようなものも無く、交通路は鹿が踏みつけた道で、いわゆるけもの道といわれるふみ分道であった。
安政五年(一八五八)の松浦武四郎の探検調査により、空知川筋から富良野盆地へ抜ける道、あるいは忠別太から美瑛川筋をたどれば、富良野盆地から十勝に通じる道が開かれることが明らかにされた。
それから十八年後の明治九年(一八七六)二月に、開拓半官松本十郎が移民地調査のため石狩川をのぼって上川を経て、十勝に出て札幌に戻っているが、当時はまだ移民の数も少なく、交通の便の良い沿岸付近に集中していたため、内陸部の開発まで手が届かなかった。
その後、明治十四年(一八八一)札幌農学校を卒業して、はじめて開拓使に就職した内田瀞・田内捨六は、日高・十勝・釧路・北見・根室の巡回調査を命じられた。巡回報告書の中で、中央道路として、札幌−根室間の道路開設可能なコースを三つ挙げた。
そのコースは、北海道の中央道路として、札幌−空知−十勝−根室に至る道路、札幌−上川−斜里を結ぶ道路、札幌−上川−十勝−根室に至る道路であったが、その内「札幌より直接に石狩原野を通過し、空知水源より十勝に至る」のが最も道路開設に適しているとして、空知方面の地形調査の必要性を報告していた。これが現在の国道三十八号線の始まりである。
しかし、岩村長官の後を受け継いだ永山武四郎新長官は、三つの内から中央道路として北見道路を選び、他の道路に優先して着工することとなったため、他の道路の開削はかなり遅れることとなってしまった。
翌十五年、今度は田内捨六と藤田九三郎が、空知川を上り滝川から旭川を経由してフラヌ原野を経て十勝超えをねらったが、探索を果たすことが出来なかった。(このコースは十勝仮道路として認定されるが、北見道路が先に着工となったため、フラヌ原野の解放時まで原始のままに残され、手を付けられることが無かった。)

北海道の移民政策

北海道の移民は、当初国の手厚い保護政策によって士族の団体移住、移住民の食料確保のための農民・商工業者等の募集、北の守り屯田兵の募集等によって進められてきた。しかし、日用雑貨や食料が内地に比べて三倍近くの価格で、手厚い保護の給付金も、たちまちにして底をついてしまった。また、道路が未整備のために、土地を開墾して作物を収穫しても、運ぶことも販売することも出来ず、所得をあげることが出来ないため、生活を続けることが困難となって多くの募集民が内地に戻ってしまった。
このような状況から、国の予算が大幅に超過し、一般募集による開拓もあまり成果が上がらないために、思考錯誤の末、明治五年(一八七二)に「北海道土地売貸規則」を制定した。内地の資本家による開発を促そうと考えたものであり、土地の等級を三区分し、千坪(約三千三百平方b)あたり上一円五十銭、中一円、下五十銭で即売した。(一人十万坪までで、当時の物価は米一俵二円である)この制度も、一部の土地ブローカーによる金儲けの手段に使われるなど、多くの問題を残すことになっていたので、明治十九年(一八八六)に「土地払い下げ規則」を制定し、個人の移民から、大資本導入と会社等による大面積を開発する方法、団体移住による確実な開墾の方法に切り替えることとなった。
この制度は、一定期間土地を無償で貸付け、開墾が成功すると、千坪一円で売り払うこととし、上限面積は一人十万坪としたが、確実に開墾するものには例外を認めることにより、大面積の払い下げを可能にした。これにより、大地主が生まれる道が開かれ、団体移住による自作農の誕生を見るに至った。

「土地払い下げ規則」「北海道国有未開地処分法」の主なものは、次の通りである。

土地処分法規の変遷
法規名 主な内容 面積の上限
明治5年(1872)地所規則北海道土地売貸規則 土地の等級を3区分し、1000坪あたり上1円50銭、中1円、下50銭で即売。 1人10万坪
明治19年(1886)北海道土地払下規則 一定期間無償貸付、成功確認後に一律1000坪1円で売払い。貸付期間は原則譲渡禁止。 1人10万坪(目的確実な盛大な事業は例外)
明治30年(1897)北海道国有未開地処分法(旧法) 一定期間無償貸付、成功後に無償付与。予定期間内不成功のとき返還、一定期間未着手のとき取消。 開墾150万坪牧畜250万坪植林200万坪会社・組合には2倍まで可
明治41年(1908)北海道国有未開地処分法(新法)*昭和2年改正以前の内容 @設定した最高価格以下で売払いA自ら開墾を希望する者に無償貸付、成功後に無償付与(特定地制度) @1人150万坪(会社・組合など5倍まで可)A1人3万坪(普通は1万5千坪)
北海道開拓記念館常設展示解説書「開けゆく大地」から抽出

殖民地選定

明治十九年(一八八六)岩村通俊が道庁官に任命されると、次々と新しい方策を打ち出した。
その主なものは次の通りであった。

  一、地形の調査

開拓使の時米国人によって行った三角測量は、途中で中止となっているので、これを再興し、五カ年を以って終了予定で事業を開始した。

  二、殖民地の選定

これは殖民地に適する原野の選定で、十九年八月から着手し、原野、山沢の幅員、地質の概略、樹木の積量、草木の種類、河川の深浅、魚類の種類、飲用水の良否、水陸運輸の便否などを精細に調査した。

  三、地質調査及び鉱産地の測量

先にライマンによって本道の地質、鉱物の調査をしたが、僅少の調査で終わっているため、全道をくまなく調査した。

  四、道路の開削

札幌本道の工事からは、長らく道路の開削が行われていなかったが、石狩原野から本道の中央である上川に通じ、それより十勝、釧路、根室、北見に通じる道路の開削と、鉄道の建設に必要な測量を実施した。
今までは、現地の状況がまったく解らない未開の地に入殖させて、多くの脱落者を出してしまったが、長官岩村通俊による「殖民地選定」の施策により、入殖地の現況を十分理解した上で入殖させるようになったため、北海道の内陸部への開拓が急速に進むようになった。

フラヌ原野の殖民地選定

明治十九年(一八八六)に道庁技師内田瀞、柳本通義、福原鉄之輔の三名を殖民地選定事業に当たらせ、全道の未開地の殖民地として適地を調査させた。
フラヌ原野は明治二十年(一八八七)に、道庁技師柳本通義によって調査され、ようやく人跡未踏の原野に光が当てられたのである。(「上富良野町史」四十二年版の『フラヌ原野の植民地選定は道庁技師内田瀞によって、明治十九年に選定された』との記述は、著者の勘違いによる誤りである。)
柳本通義は、助手一人、測量工夫七人、(内アイヌ四人)の総勢九人で調査に当った。大型丸木船にテント、食料、測量機材を積み込み、豊平川から石狩川を上り、空知川を遡上してフラヌ原野に入るコースを取った。
途中難所の空知大滝では丸木船で上ることが困難なため、一週間ほどそこに滞在して、アイヌに新しく滝の上流で丸木船を作らせ、半分の食料を残して荷物を積み替え、フラヌ原野へ向った。
柳本通義は、測量の途中で父急病の知らせを受け、一時札幌に帰っているが、父の様態が回復したとのことで再びフラヌ原野の測量に戻ったときは、空知大滝の難所を避け、上川から美瑛を通ってフラヌ原野に入っている。
その殖民地選定報文を概略すると、

上フラヌ原野
千八十三万九千坪(三五八三・一三四九f)高原は泉あり、木陰あり、牧畜事業に適し、草原は農耕に適す。交通の便悪く道路の開削が必要とされる。
中フラヌ原野
千五百三十九万七千五百坪(五〇八九・六六一五f)原野の中央に位置し、人が入るには困難な深湿地が多く灌概を要す、将来中央道路の開削が出来れば、上川を経て札幌に交流できる。東西両山麓は農耕に適す。
下フラヌ原野
六百七十四万四千七百五十坪(二二二九・六六五九f) 土地肥沃で草原あり、森林あり、農耕牧畜に適す。
根室に至る中央道路予想線は、原野の東方山麓が適し、空知太から樺戸に出る線と、上川街道を経て岩見沢に至る線があるが、両道とも車道が出来れば旅行に便利である。

と、このような内容を報告しているが、要約すると、「フラヌ原野は農耕地や牧畜に適しているが湿地が多く、灌概工事と道路を整備しないと入地が困難である」と見るほうが妥当と思われる。(この選定を行った各原野の境界線は、現状の行政の境界線とは一致しない。)
植民地選定事業の図面を見ると、雨竜、上川、フラヌの調査が終っているが、美瑛付近の調査図が載っていないことを見ると、美瑛よりも早くに調査が行われていたことが分かる。         (次号につづく)

参考文献

「新北海道史年表」 一九八九年刊 北海道編
「北海道百年のあゆみ」 昭和四十三年刊 北海道教育委員会編
「明治維新と北海道開拓展」 昭和五十九年刊 霞会館編
「新北海道史」 昭和四十六年刊 北海道編
「北海道百年物語」
−北海道の歴史を刻んだ人々−
二〇〇二年刊 STVラジオ編
「柳本通義の生涯」 平成七年刊 神埜 努著
「北海道のいしずえ四人」 昭和四十二年刊 井黒弥太郎・片山敬次著
「開けゆく大地」 平成十二年刊 北海道開拓記念館常設展示解説書
「蝦夷から北海道へ」北方人物誌 昭和五十一年刊 吉田武三著
「新旭川史」 平成六年刊 旭川史
「上川開発史」 昭和十五年刊 鴻上覺一著
「芦別市史」 昭和四十九年刊 岸本翠月・竹本利彦著
「上富良野町史」 昭和四十二年刊 岸本翠月著
「上富良野百年史」 平成十年刊 上富良野百年史編纂委員会編

機関誌  郷土をさぐる(第23号) 
2006年3月31日印刷   2006年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一