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戦後六十年 アメリカで発見された兄の日記

上富良野町東八線北十七号 丸田義光
 大正十五年一月九日生(七十九歳)

戦後六十年の夏

「昭和十七年八月二十一日午前二時五十分、ガダルカナル島中川下流地区付近の戦闘において、頭部貫通銃創を受け戦死されました」。
丸田家に国から届いた丸田年道(行年二十四歳)の陸軍(北部第四部隊)からの死亡通告(戦死公報)です。
現在、日本の国は平和大国として、戦争とは無縁で世の中全体が平和を享受しており、過去、日本の国民が厳しい生活を強いられた戦いの日々があったことなど、人々の記憶から忘れ去られようとしています。
戦後六十年の節目を迎えた今年(平成十七年)七月十二日、その連絡は一本の電話から始まりました。
アメリカの国立公文書館別館で元日本兵の遺品の中から、丸田年道という人が書いたと思われる日記が発見され、海兵隊の「押収した日本文書」のファイルボックスに保管されているその日記は、日本軍の戦術や日本人の思考を分析するため、ガダルカナル島を含む太平洋の各激戦地の戦場で集められたあらゆる資料の中の一点で、持ち出し禁止資料のため、発見した読売新聞の記者が許可を受けて、新聞報道に使うため電子データとしてすべての資料を丹念に保存した。
丸田年道という名前を手がかりに遺族と本人を確認するため、日記の内容から、ガダルカナル島に上陸した部隊の縁の地、旭川市の陸上自衛隊第二師団「北鎮記念館」に「読売新聞東京本社」の鈴木記者から身元を確認するため照会取材がありました。
館長から富良野地方の『丸田姓』の応召者について、「上富良野駐屯地業務隊総務科」栗林広報班長に調査依頼があり、方々、手を尽くして探した結果、ようやく私の家が分かり七月十二日に連絡がありました。
消息がつかめたことから、しばらくして東京の鈴木記者から直接電話があり、アメリカでの調査結果を踏まえた確認取材であることを最初に話された。
日記の表紙の裏に書かれた所有者を示す署名と思われる「丸田年道」の文字が、個人を特定する決定的な決め手となったことを手短に話されました。
驚きの連絡でした、戦死から六十三年も経っているのに、アメリカに手帳があるのは不思議な感じがしました。気を取り直して、早速、弟妹に遺品と思われる手帳が見つかった電話のあったことの詳細について連絡しました。
数日後、アメリカで取材を進めた読売新聞東京本社の森太記者から、遺族の取材としてわが家を訪ねて来る連絡の電話があって、訪問の日は八月一日に決まりました。

兄の筆跡に間違いない

八月一日、弟妹一同が集まったわが家に、読売新聞社の森記者がカメラマンを同行して、電子データに保存した手帳のコピーを持参し訪ねてきました。
「軍事日記」と読める押し型文字の手帳の背表紙の裏に、持ち主を示す「丸田年道」と鉛筆で書かれた文字、手帳の中に書かれたすべての文字は、確かに兄の筆跡でした。
その場に居合わせた弟妹一同、全員がただ驚くばかり、私は不覚にも涙が少しこぼれました。現物のコピーであるが兄が肌身に付けていた遺品として、我が家へ六十三年ぶりの無言の帰還でありました。
八月十日の読売新聞朝刊の社会面、戦後六〇年−戦場の手記−連載の一に「家族よ故郷よ ガダルカナル兵士はペンを走らせた」の見出しで、八月一日のわが家の取材写真と兄の遺影とともに、兄の日記の一部が掲載されました。日本軍将兵の日記や遺書が米国立公文書館別館に、現在も保存されている事実を紹介する記事として日本全国に報道されました。

兄の日記が発見された経緯

訪ねてこられた森記者の話では、太平洋の島々で戦死した日本兵たちの日記や遺書が、アメリカにあるという情報を端緒に、アメリカの国立公文書館別館に行き、閲覧申請をして調べたところ、四十四箱あるファイルボックスの中から見つけたとのことでした。
BOX42−5(ボックスナンバー四二番のファイルナンバー五番という意味なのか)のファイルに兄の日記が収蔵されており、戦場で発見されて情報分析班に渡ってから付けたのか発見した兵士が付けたのか、表紙に。”Diary no ship so movement”(「日記帳、船を利用しない軍隊の移動。」という意味か)の文字と、赤色鉛筆でチェックした印が書かれた小さな紙が無造作にホッチキス止めされていたので、確認のため開くと「丸田年道」の個人名が自筆と思われる字で書かれており、手帳の中に書かれた文字も同一で同じ持ち主のものに間違いないと考え、手帳を読むと文面から第七師団の兵士で北海道出身者と感じたそうです。

日記から分かった兄の従軍記録

当時の若い男子のすべては、徴兵検査を受けてから国を守るため生まれ故郷を離れて、軍隊に入営して訓練を受けたものです。私の兄、丸田年道は陸軍に応召となり、昭和十六年三月一日、旭川の第七師団歩兵第二十八連隊に入隊しました。
見つかった日記には、「三月一日今日ハ初メテノ軍隊生活 此レカライヨイヨ一人前ノ軍人トナル」から始まって、ガダルカナル島で戦死する前日までの軍隊生活についてつづられています。
兄の所属する部隊は旭川市でミッドウェー攻略の大本営直轄部隊として編成を行い、広島県宇品港を経由、輸送船でグァム島まで進撃しました。
ミッドウェー攻略作戦は海軍の空母機動艦隊が敗北したため、陸軍の一木支隊は内地に帰還することになってグァム島を離れました。
しかし、ガダルカナル島派遣のため部隊はグァム島に呼び戻されて、トラック島を経由してガダルカナル島に上陸、兄は一木支隊の一員として飛行場奪還の戦闘中、戦死を遂げました。
日記には、この間の軍事行動の記録と随所に故郷を思う気持ちが込められた文章が詰まっていて、兄の苦労の跡が偲ばれ、以前にも増して敬慕の念を厚くしました。

―丸田年道の軍事日記―より

実弟である丸田義光氏の了解を得て、見つかった日記のコピーを元に編集しました。編集に際して出来る限り原文を尊重しましたが、読みやすさを勘案して、新仮名遣いと原文にはない句読点等を一部加えております。(原文は漢字+カタカナもしくはひらがな、句読点なし。)文章の最後の読点は、原文どおりとして付けません。長文となる部分については省略し『−主な内容−』の表現と致しました。なお、適宜、☆印と( )書きで編集者により注釈を付けました。

三月一日
 今日は初めての軍隊生活 此れからいよいよ一人前の軍人となる
 綱領
 第一、軍の主とする所は戦闘なり故に
    一、暴行を受け自衛のためやむを得ざるとき
    二、多衆集合して暴行を為すに当り兵器を用ゆるれば鎮圧するの手段なきとき
    三、人及土地其の他の物件を防衛するに兵器を用ゆるに非ざれば他に手段なきとき
 月日
 不寝番割出表
 時間  二〇〇 氏名
    二一〇〇 氏名
 申送事項
  一、厳正なる服務
  二、後半夜の寝□に注意(□は判読不能部分)
 軍旗歩哨特別字則
 一、軍旗。御真影。勅諭。勅語を護り連隊長、連隊副官、連隊旗手、週番士官の外
      −「九段の母」歌詞−
      −毒物の消毒・除毒方法−(注、四頁半)

 ☆部隊編成の記述(注、編集者)
 陸軍大佐 一木清直 殿
 陸軍少佐 水野鋭士 殿
 陸軍少佐 蔵本信夫
 陸軍中尉 樋口勇作
 陸軍中尉 館 正人
 分隊長 伍長  佐野秀雄
 一番  上等兵 丸田年道
 二番  一等兵 大沼 清
 三番  一等兵 坂東森一
 四番  上等兵 石川豊吉
 五番  兵長  野村善美
 六番  一等兵 田中隆雄
 七番  一等兵 水上覚雄
 八番  一等兵 斎藤秀雄
 九番  一等兵 小原竹男
 十番  上等兵 青山成治
 十一番 上等兵 野呂紀一
 戦友
  陸軍伍長  山本 勤 殿
  陸軍兵長  高田末造 殿
  陸軍兵長  村上徳松 殿
  陸軍上等兵 橋本三好 殿
  陸軍二等兵 木本 勇 殿
  内務班長
  陸軍軍曹 鈴木 巌 殿
  陸軍軍曹 波

北部第四部隊 樋口隊
 ―「大東亜陸軍の歌」歌詞―
六月二十八日、二十七日の両日、両親の夢を見る 達者でいるかしら幸福を祈る

 ☆支給品の番号を控えた頁(注、編集者)
   時計 836423
   小銃  36687
   帯剣  97195
   防毒面 1951

昭和十七年五月四日
 動員令下る
五月十日
 編成完結す
 ○○部隊及び師団長軍装検査
 熊ホの六二七〇九部隊第一小隊三分隊一番
 番号三十七
五月十八日
 宇品着
五月十九日
 宇品出港
五月二十五日
 サイパン島着
五月二十六日・二十七日
 サイパン(チャランカ)に於いてホ号演習実施
六月十三日
 大宮島着(注、グァム島のこと―編集者)
六月十四日
 設営隊、大官島に上陸
六月十五日
 各個人、葉書一通宛の発信許可せられる(駆逐艦に託して)
六月四日
 米国飛行機の空爆を受けたり
(注、日付が遡っているのは、ミッドウェーに向けて輸送船乗船中の出来事をあとから書き足したもの。事実、一木支隊の輸送船団はこの日、米軍機の爆撃を受けた。―編集者)
六月十六日
 大宮島に上陸す。各小隊、舎営
六月十七日
 兵舎内外の大清掃実施
六月十八日
 蔵本部隊長殿、初度巡視
六月十九日
 一木支隊長殿の初度巡視
六月二十一日
 台上衛兵、兵器検査
 ガマ・トカゲ・サソリの多いのには驚いた
二十二日
 水泳、午前中。初めて泳げるようになった
 午後、昼寝
(注、原文では以後、頁の最初の行に月日を書き、同じ頁の中は月を省略して、日のみ記載している。区別のため頁の最初の行の目付けに○印を付ける。―編集者)
〇六月二十四日
 朝、金十円経理室に預ける。故郷に便りを出す
 午後、水泳。二十一時、非常呼集があった
 一時間で終わる
二十五日
 被服検査、午前中。内務検査、午後、十六時カンメンポウを食べて、××伍長に殴られる
 角力をとる
二十六日
 飯上当番。午前中、仮標刺突。午後、角力
二十七日
 駆足、日朝点呼時。午前中、各個戦闘教練。午後、体操。南海丸見送り
〇六月二十八日
 午前三時半、非常呼集あり、被甲の検査
 午後、休養・貝取り、夕食のおかず
 十三夜の月をながめて、はるか故郷の父上様・母上様、達者で幸福を祈る
二十九日
 午前、軍紀教練。午後、体操・つぶ貝拾い
 久しぶりの曇りで時々雨、月は見えず、故郷の人達よおやすみ
三十日
 分隊教練。午後、潮干狩り・手榴弾投擲
 不平は弱いものが言うものである
〇七月一日
 午前中、衛生検査。午後、潮干狩り。夜間演習
二日
 日直上等兵、服務す。午前中、手榴弾投擲
三日
 手榴弾投擲の査閲、日直勤務の服務終り
 午後、角力
四日
 勅諭奉額式、台下衛兵五日台下衛兵、服務終り
六日
 身振り信号。競技会予行。夜、演芸会
七日
 午前中、休養。午後、中隊競技会。一小隊第二位
〇七月八日
 久しぶりのスコール
 家では、今頃、菊刈の最中だろう
 午後、月例診断、体重十七貫
九日
 競技会予行
十日
 断崖登はん教練
十一日
 一木支隊大演芸会
十二日
 一木支隊大競技会、中隊第一位
十三日
 午前中、兵器手入れ。対空監視服務す
十四日
 対空監視下番す。午後、潮干狩り
十五日
 舎内外の清掃実施
〇七月十六日
 蔵本部隊、内務検査。午後、水泳
十七日
 密林通過演習。午後、日直上等兵
十八日
 午前、日直上等兵。午後、水泳
十九日
 休養、昭和町散歩
二十日
 午前、中隊特別射撃。午後、兵器手入れ
二十一日
 夜間演習、密林通過演習、兵器の手入れ、射撃予行演習。活動を見にゆく
二十二日
 手榴弾投擲の教育
〇七月二十三日
 午前中、手榴弾の実弾投擲。午後、水泳
二十四日
 中隊特別射撃、軽機命中弾四発、小銃一発
 午後、兵器検査
二十五日
 明石町戦跡見学、島民の演芸見物、十八時より
二十六日
 環境整理。午後、珊瑚拾い。夜、大宴会
二十七日
 環境整理、兵器手入れ
二十八日
 兵器梱包
二十九日
 被服検査、日直上等兵服務す
〇七月三十日
 日直上等兵服務終わり、兵器検査
 午後、貝取り
三十一日
 昭和町行軍
八月一日(注、月変わり―編集者)
 舎外清掃、水泳演習
 故郷のお祭りだ元気でいるかしら
二日
 環境の整理、休養。貝取り、鈴木軍曹と美しい貝、一〇採る
三日
 午前、衛兵準備。午後、衛兵服務す
四日
 衛兵服務終わり
〇八月五日
 午前、室内整理・水泳。夜、活動見学
六日
 乗船、荷物積み込み。大福丸
七日
 大隊長殿の内務巡視。正午、出港す
 なごり多き大宮島よさらば
八日
 六時頃、大宮島帰港
 午後五時頃、大宮島を出港す
九日
 船乗り、海ばかりだ
十日
 兵器検査及び兵器手入れ
十一日
 内務検査、船内にて
十二日
 午後六時三十分頃、トラック島着
〇八月十三日
 買物
十四日
 前日に同じ、経理室に預けた十円受領す
十五日
 今日お盆である、故郷の人達よ元気でいるかしら  両親たちよ達者で
 駆逐艦に乗る、十六時三十分。清君がいるかと思ってあちらこちら探したが見当たらず
 陽炎にて
十六日
 午前五時、トラック諸島出港す
十七日
 一路目的地目指して陽炎は進む
十八日
 軍装検査。十時十八分、赤道を通る
〇八月十九日
 十四時、宮城遥拝。十六時、駆逐艦三十ノットの速力を出し。二十時、ガタルカナル島に着
 二十一時、敵前上陸を敢行す
二十日
 夜、行軍。敵の飛行機一機飛来せり
                         (ここで、日記は終っている)

追記 丸田年道氏が従軍した戦いの時代背景
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編集委員 三原康敬

太平洋戦争中期、日米両国の戦いの転換点となった戦闘に位置付けられる激闘となった、「ガダルカナル島攻防戦―半年にわたるガダルカナル島の航空基地をめぐる日米両軍の攻防」は、一九四二(昭和十七年)八月七日(米軍のガダルカナル島上陸)から一九四三(昭和十八年)二月七日(日本軍のガダルカナル島撤収作戦終了)まで約六ケ月続いた。
この戦いの発端は、中部太平洋からオーストラリアに侵攻する目的達成のため、前進基地である海軍航空基地の設営に海軍が民間人の徴用作業員による飛行場設営隊を編成して、作業が進行しほぼ完成した段階でアメリカ軍が上陸してきて占領したので、それを奪い返すため海軍が陸軍の派兵を要求したことから始まった。
連合軍は、フィリピンからオーストラリアに撤退した際、中部太平洋から南太平洋の各島に沿岸監視人を配置し、通信機を配備して、現地人の協力により侵攻する日本軍の動向を逐一報告できる情報管理体制を構築していた。
従って、ガダルカナル島の航空基地設営は、建設当初からその存在が知られており、航空偵察などで周到な準備を行っていたアメリカ軍は第一海兵師団(約二万名)が上陸用舟艇で上陸、完成と同時に基地を占領した。これが一九四二(昭和十七年)八月七日、アメリカ軍のガダルカナル島上陸である。
一木支隊は丸田年道民の日記にもあるとおり、陸海協同作戦の大本営直轄部隊として編成を受け、ミッドウェー攻略作戦の上陸部隊として位置付けられていた。海上作戦の段階で海軍は航空母艦を沈められて壊滅状態となり、作戦は中止となって一九四二(昭和十七年)六月十六日、グァム島に上陸した一木支隊はミッドウェー島に進撃することなく現地にとどまっていた。その後、帰国のため日本本土に向けグァム島を出港した。これが日記にある一九四二(昭和十七年)八月七日のことである。
アメリカ軍のガダルカナル島上陸は、日本に向かっていた大本営直轄部隊の一木支隊をガダルカナル島に派遣するため、グァム島に呼び戻すこととなった。翌日、グァム島に戻りその日のうちにトラック島に向けて部隊は出発した。
軍事の常識では、攻める方は守る方の三倍の兵力を必要とするとされている。上陸したアメリカ軍は約二万人の兵力で、戦車・大砲・迫撃砲・重機関銃・ライフル等の兵器で強力な防御陣地を構築していた。
滑走路を補修したアメリカ軍は二十日、海兵隊航空隊の戦闘機と急降下爆撃機からなる合計三十一機を進出させた。改装空母「ロングアイランド」から飛来し、着陸する前に基地周辺の上空を旋回した。
陸軍はガダルカナル島の地誌に乏しく、しかもフィリピンの戦いからアメリカ軍組み易しと高をくくって、準備不足のまま小銃と手榴弾の軽装備の兵士を駆逐艦で輸送し上陸させた。アメリカ軍の守備兵は少なく二千人くらいだろうと見積もっていて、銃剣突撃で飛行場に殺到すれば逃げ出すだろうと考えた作戦であった。日本陸海軍の首脳は、ミッドウェー海戦・珊瑚海海戦でアメリカ軍も打撃を被っていて、大規模な反攻に使える戦力は全く無くて、反撃はまだ先のことと、アメリカ軍の意図と戦力を過小評価して大部隊を編成することなく、第一陣として一木支隊の先遣隊約九百人がタイポ岬に上陸、飛行場を目指した。
英国統治時代の行政官を軍人に任命した沿岸監視員と現地人の協力者により、島に近づくため海上を進む駆逐艦のエンジン音などで日本軍の作戦意図は一木支隊の上陸前に連絡されていた。上陸後の行動もすべて監視されて逐一報告されており、一木支隊の侵攻経路にあたる最前線の密林の要所には、近づく日本軍の位置を確認できるように集音マイクを設置して、強力な防御陣地を構築した待ち伏せ部隊によりほぼ全滅した。これが日記にある十九日と二十日のことである。

アメリカ軍の情報収集活動

アメリカ軍の日本兵に対する認識は、情報の固まりであった。日本兵は前線まで日記・手紙・遺書を持参した。軍隊では日記を書くことはほとんど義務のように習慣づけられ、肌身離さずポケットとか背嚢に入れて戦場に運ばれ、階級の高い兵士ほど価値のある文書をもっていたことから、アメリカ兵は瀕死の重傷者や死体から文字の記されたものはすべて取り上げ、後方の情報部隊へと運んだ。
戦闘の初期の段階では、日本兵の評価は勇猛果敢なので捕虜として捕らえられることは少なかった。
ヨーロッパ戦線の経験から、日本兵はドイツ兵のように窮地に陥った場合、一旦後方へ下がり、出直せばよいという考えはなく、命令に忠実なことから、連合軍は射殺を許していたが、日本兵は価値のある情報の固まりとの認識から、ガダルカナル戦以降の一九四三年(昭和十八年)頃からは、生きたまま捕らえて尋問所へ連行するよう厳命されることとなった。
一木支隊の先遣隊が全滅したガダルカナル島の戦場で、丸田年道氏の日記は海兵隊兵士の手によって遺体から取り上げられたものと思われる。
丸田家では今後、取り上げられた日記を返してもらうため、日本政府を通じてアメリカ政府へ日記の返還を要求する運動を行うそうで、遺品を遺族のもとへ戻してもらえるなら、考えられる手段はどのようなことでも実現させたいとのことである。
日記のコピーを弟妹に配ったところ、医薬品会社に勤める甥が親交のある取引先の北大の医師に見てもらうと、いたるところに血液のしみがあると教えてくれたそうで、よりいっそう返してほしいとの思いがつのり、一刻も早く遺族のもとへ戻ることを願っているとのことである。
一日も早い返還が実現することを願ってます。

機関誌  郷土をさぐる(第23号) 
2006年3月31日印刷   2006年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一