郷土をさぐる会トップページ     第23号目次

立松家の開拓入植と敗戦復員まで

上富良野町草分報徳 立松 慎一
 大正八年十二月六日生(八十六才)

はじめに

郷土をさぐる会前会長の菅野稔氏のお勧めもあって、祖父が渡道した頃より、戦後の昭和二十一年に復員するまでの思い出を自分の日記や記憶を辿って書かせて頂きます。

三重団体入植

私の祖父立松為治郎は三重県伊勢の国一志郡戸木村(現・久居市)三七八番屋敷より、妻きし、長女ナヲ、次女モン、長男平太郎、次男石次郎を引き連れ、板垣贇夫[ヨシオ]移住団長・田中常次郎代表一行に加わり、明治三十年三月二十八日に三重県四日市港から出帆した。
一行八十余戸は小樽港に上陸し、列車で歌志内村に着き宿泊する。
先発隊員の八名は四月十二日上富良野草分の「楡の木」処に辿りつき、木の枝に鍋を吊るして飯を焚き入植最初の一夜を明かしたと言われる。
立松家はその年一夏を歌志内で世話になり、その年の秋になって上富良野西一線北二十七号(現・田中勤宅)に入植した。
父石次郎は明治三十年一月二十四日三重県生まれなので生後二ケ月で渡道したわけだが、隣りに畑中家が入植し、その畑中喜作さんと同じ年生まれで共に学校に通い成長する。
弟次郎吉も生まれ家族揃って茅・葦や笹を刈り大木を倒して焼き払い、削り蒔きで蕎麦・粟・稲黍を作り、山菜を採って食糧として生活した。
必要物資は旭川まで歩いて二日がかりで買出しに行った。
明治三十二年頃から鉄道工事が始まり、祖母きしは餅をつき大福にして工事人夫に売り歩き生計の足しにした。

父石次郎の分家

父石次郎は生活の苦しい中から上富良野小学校高等科まで卒業して開墾を手伝い、大正七年正月に田中常次郎の次女すゑと結婚して、西五線北三十二号鉄道沿線に分家入植した。
汽車は傍を通るが鬱蒼とした山の中で開墾に苦労した。曲がりくねった川の周囲を田圃にする為、母は父との、もっこ吊りの先棒を担いで運土・地ならしをした。籾播きし、始めての収穫があった時はたとえ様がない悦びだったが、母は身重での重労働が重なり、後述のごとく短命の原因になったようだ。
私は大正八年十二月六日に生まれたが、後で聞くところによると、母はやっと秋の収穫も終わり実家の田中勝次郎宅に行った時ひさ祖母が娘を労わり話し込んでいる時に、急に産気づいて私が生まれたと言う。
私が物心ついた頃より田中の叔母は、よく「お前は田中で生まれたのだ、うちの子だ」と言い、何かと手伝わされた。
母が生前回想していたが、父母が夜明け早々より仕事をして家に帰ってみると、幼い私がお鉢から手掴みで飯を食べていたものだと言っていた。大正十年に妹幾子が生まれいよいよ多忙となっため、清富の原田しなさんが子守りに来てくれて私達は育ち、馬も一頭飼い開墾に精を出していた。
その大正十年秋に平太郎、次郎吉等叔父達が大工をして、三・五間×七間の柾葺きの家を新築した。
土壁は父が受持ち厚く塗り、今度は暖かい住居となった。大正十二年妹死産、同十四年五月弟博明が出生した。
大正十四年十二月には田中勝次郎、若林助右工門一家と共に箱馬橇三台で吹上温泉に湯治に行った。
当時は飛沢辰巳が経営しており、今の吹上露天風呂の湯駐車場の処に宿があり二階に泊ったが、五十度のお湯が時々天井の高さまで噴き上がっていた。
湯殿は現露天の湯の処にあったようで、雪を掻き分けて藁靴を履いて行き来したが、吹雪の時は大変だった。内枠の熱い湯と、外枠のぬるめ湯に仕切られていて、田中の叔母の背中に乗せてもらい、叔母は上手に泳いでくれた。
宿では稲藁ツトに入れた納豆を初めて食べたが、その美味いのには驚き、その後は我家でも時々作って食べるようになった。
馬橇道の雪は一夜にして馬の腹までに積もったが、馬が通る造材道の雪の状況をみて年末には帰宅した。
明けて同十五年一年生に入学の年、父につれられて縞の着物に袴をつけて、皮の鞄、ビロウドの毛のついたマント姿で三教室の創成尋常小学校に登校した。
廊下には先輩生徒達が並んで出迎えてくれ、教室には薪ストーブが赤く燃えていて、濱口先生が担任となる。沢からは広川コギク・吉澤覚と共に二`半の道を歩いて登下校した。

十勝岳大爆発

この年大正十五年五月二十四日は朝から天気が悪く、しとしとと雨が降っており、私達一年生は三時間の授業で終わり下校した。父は代掻[しろか]きを終えて、馬車で本家に借りていた機械を返しに行っていた。
午後三時半頃十勝岳の方でごうごうと不気味な音が鳴り始めたが、曇っており小雨も降っていて何が起きているか判らなかった。その内音が低く変わってきた頃、父が馬車で帰ってきて「十勝岳が爆発したらしい。早く逃げんと流されるぞ」と、馬車を外し、雇用人の堀内を裏山に偵察にやった。父が仏像を包みご飯の入った大きな鍋を首に掛け「そらみんな裏山の国道に逃げるんだ」と叫ぶと、そこに堀内あんちゃんが裏山から降りてきた。「おっさん上富良野が全滅らしい早く逃げれ」との事、家族で慌てて山田籐七宅に寄り、猪飼宅へ寄ってみんな青い顔で成り行きを見守っていた。
三重団体は小雨の霧の中にぼんやり霞んでいたが、泥流に埋め尽くされて、鉄道も道路も川も見えなくなり、家らしきものがポツンポツンと流れていた。
旭川から駆けつけた消防車が始めて見る自動車なので珍しく、北越宅の下で止まっている人も続々集まってくる。
列車も五時の汽車が江幌完別鉄道官舎(旧保線区)止まりで沢山の人が降りて集まり、折り返し運転が始まった。
家に帰ったら金子助役の奥さん始め数名が安否を気遣って集まっていて、その話によると三重団体長田中常次郎の妻のヒサ祖母が亡くなったと聞く。
私が母に連れられて訪れる度餅あられを炒って可愛がってくれたヒサ婆ちゃんだったので悲しかった。
母の姉若林つねさんも子供四人と共に亡くなったと言う。後日我家の裏山の木の下で棺桶五個を並べて三時頃から夜までかけて、赤い炎を上げながら火葬した。それからはその光景を思い出して、従兄の大野寅吉さんと馬の草刈をしても怖くて、早々と刈って背負い帰ったものだった。
鉄道も二十八日には復旧して予行運転を始めたが、泥流に埋まって川が無くなり、金子助役宅前の水田は泥水浸しであった。国道では流木を枕にして厚板を渡してあり、その上を学校までぺたぺたと歩いた。学校は流失を免れたので、一カ月後位から登校した。
吉田村長を先頭に河川改修、道路改修、流木片付け、焼き払い、水田畦作り、用水路整備をした。耕地整理の出来た所から冬は粘土の客土が始まった。
村内外から応援人夫が入り、父が行政区長だったので馬橇一台毎にマンボウを厚紙十五センチ角に切り印を押して渡していた。
我家には江花の松井さん、大場さんが人馬共泊り込みで客土運搬に来ていた。
泥流地帯には流木を集めた山があちこちに沢山出来て、昭和十五年頃まで暖房用に焚いた農家も多い。

創成小学校増改築

この泥流災害で学友も部落民も少なくなったが、翌昭和二年に新しい校舎が旧校舎の南西に建てられた。三教室と運動場、職員室、物置がある真新しく暖かい校舎となった。
昭和三年には二月十一日の紀元節に併せ、昭和天皇の御大典記念式が行われ、天皇陛下の御真影奉安殿も煉瓦作りで建立された。日米親善の青い目の人形も贈られて、転がすとママーと音がでて皆んなで喜んだものだった。
旧校舎玄関右の柳の木が大きくなって、屋外運動場の中央北側にあった。運動会毎に集合の目安となっていたが昭和の末に枯れてしまった。
凶作の年が続いていたので修学旅行などはもってのほかで、十勝岳登山は三日掛りで、全部歩きで吹上温泉に泊った位である。
五、六年生頃の椿原先生時代の運動会は男子は上村、川喜田、遠藤、女子では北越、佐藤達が速く、村内の他校選手リレーでは常勝し、中富良野小学校までも遠征して優勝し、優勝旗を八本も並べて皆んなで喜んだ。
昭和七年三月二十日榎本校長夫妻の時に卒業し、四月一日より上富良野尋常高等小学校に入学したが、夏は中富良野の内村自転車屋から買って貰った中古自転車で通学し、冬は徒歩通学した。この頃我家ではサカイ発動機、野尻式脱穀機を使っていた。
昭和八年私が高等科二年の八月十日、永年の無理が災いして母すゑが飛沢病院で享年三十四才で他界した。

農作業に従事

昭和九年高等科を卒業して家業の農作業に従事し、青年訓練所と草分青年団に入った。翌昭和十年父は小野寺たかのと再婚し、その年の秋に発動機で草分里仁方面に脱穀に歩いた。
昭和十一年に草分青年学校が出来たのでこちらで訓練を受けるようになり、軍用馬の鍛錬も始まったので父と共に参加した。
冬は坑木切りが盛んになり、父と共に馬二頭のバチで運搬にも出たし、二股御料からの薪運び、泥流水田の客土運搬など年中忙しく働いた。
妹も卒業して農作業体制も整い、多忙ながらもその合間に学校を借りて青年団冬季講習、青年夜学会として公民教育を先生にお願いして実施し、楽しい一時期を過した。
昭和五年に上富良野で始めてサカイ石油発動機を使い始め、昭和十二年旭川ヤンマー支店で一週間講習を受けて四馬力S型ヤンマーディーゼル発動機を四百円余で購入、更に協和号自動脱穀機を購入した。
夏は草分・豊里方面に小麦・燕麦豆類の脱穀に歩いたし、秋には渡辺式全自動籾摺機を購入して草分・日の出方面まで摺って歩いたが、技術面では西村文一氏、山下太郎氏、長谷川の爺ちゃんに指導を受けて可愛がられた。
昭和十二年も押し詰まった十二月二十六日十勝岳縦走横断中の北大パーテー一行が遭難した。村のスキー山岳会員と草分から私と寺尾青年団長が同行し、役場から馬橇で二十七日の夜吹上温泉に救助に向った。四日間捜索するも発見できず、捜索を打ち切り、三十一日夜鉄索コースを月明かりで滑り降りて我家に着いた時にはラジオで除夜の鐘が鳴っていた。無念なことに、翌昭和十三年六月になって遭難死体が発見された。
この頃は支那事変の真只中で連戦連勝を新聞・ラジオで伝えており、昭和十四年秋祭りでは青年団が余興として素人芝居や唄を披露して喜ばれた。
昭和十五年四月には徴兵検査を富良野で受け、見事合格し鉄道兵六番の籤が当ったが、高橋七郎君が同三番だった。いよいよ翌年は国の防衛の第一線に参加できると心が湧いたものだった。
昭和十五年九月始めに父は荒馬を馴らしながら、小麦三俵を馬車に積んで、村産業組合に出荷する為の検査を受けた。その後駅前バス停前を通っていた時、大印バスの木炭ガス発生の煙に驚き、馬が暴走してしまった。右大腿骨を骨折して旭川の森山整骨院に入院したが、その時の治療ミスで再骨折し、上富良野上村整骨に転入院した。
その年十月一日付で実施された全国紀元二千六百年農業基本調査・国勢調査の調査員となり、寺尾清治君と二人で部落を担当した。又脱穀籾摺を請け負って部落を歩いた。

入営出発

農作業をやりながら青年学校で訓練を受けており、学校長は小西先生、教官は北村亀一氏、佐川藤雄氏であった。研究科二年を含め七年間訓練を受け、その間訓練成果を競う沿線大会があったが、旭川連隊司令官宇野大佐より表彰も受けた。
いよいよ昭和十六年一月十六日入営出発となり、組の皆さんと立振る舞いの酒として合成酒と焼酎でお別れの盃を交わした。父は松葉杖をつきながら祖父母と共に、今生の別れになるかと涙を流して送ってくれた。
幟と国旗各一本での出発で、創成小学校において小西校長、鹿俣菊松区長の祝辞を頂き、お別れの挨拶をして駅に行くと高橋七郎君と一緒になり、ここでは金子村長、山本分会長に祝辞を頂き旭川行きの列車の人となった。
旭川駅前の中村旅館に一泊し、翌十七日札幌に向けて出発したが、駅毎に隊員が増して行った。いよいよ津軽海峡を初めて渡り、故郷よさらばと広島市宇品に向かう。
二十日広島に着き、夜広島在住の叔父田中太重郎、旅行中の上富の田中太郎氏等にご馳走になった。お別れして宿舎に戻り、翌日身体検査に合格し軍服となり、不要物品は実家に送り一兵士となった。
夫々中隊、各班が決まり加藤哲雄軍曹が迎えてくれ、宇品港の二千屯級の貨物船に乗船した。
船内は二段式で狭い船倉一杯となり、二十三日宇品港を出港して、二十六日に大蓮港へ上陸した。駅まで歩くが足が変に高く上がり船酔い気味で、そのまま満鉄の大きい列車に乗り込んだが、ニンニクと漢方薬の臭気が鼻についた。
列車は旅順(遼寧省)、新京(吉林省)とだんだん北上し地平線をひた走る。便所が寒さで使用不能になったりして、やがて目的地の吟爾濱市(ハルビン市・黒龍江省)香坊駅の二五四部隊引込線に静かに入って行った。

鉄道三連隊に入隊

いよいよ下車し、第二五四部隊鉄道三連隊に入隊する。兵舎は煉瓦作り二階建てペーチカ付きで六棟、一棟一大隊二個中隊入りで四個大隊、材料所、中隊、部隊本部、各種倉庫が沢山あり、建物だらけの広い部隊である。
部隊長は村瀬恒光大佐、大隊長は越川外次郎少佐、中隊長は藤沢国平大尉、内務班長阿部誠軍曹、岩崎伍長で迎えてくれた。新入隊員は第四班田瀬晃三、阿部、高橋、中村、片桐、堀本、児玉、長沼と自分の九名と記憶している。
その日の夕食に赤飯と饅頭が出て、古参兵から「今日はゆっくり休め明日からほビシビシ教育するぞ」と言われ、鉄枠の寝台の藁布団と毛布の状袋の中に始めてもぐった。窮屈で中々眠られずもじもじしていると、隣の戦友が毛布を広げて楽にして呉れたので、何時とはなしに眠ってしまった。
起床ラッパの音で飛び起き身支度を整え、朝の点呼を終わって食事当番、掃除当番と夫々別れて走り回り、食事を終えて一息したら今日の行事の為集合する。
先ず隊内見学、各上官を前に整列して面接し、整頓棚の整え方、銃の手入れ方法など教わり、必銃教練、鉄道作業教練をして、夕方洗濯、銃の手入れ、靴磨き、食事点呼と続く。古参兵より鉄道兵本領など学科的質問など浴びせられ、その答弁が終わってやっと九時消灯、ベットにもぐり、疲れ果てて翌朝六時起床までぐっすり寝込む。
初年兵の一カ年は、古参兵に些細な事でも注意を受け、同僚に悪い事が見つかれば各班別に全員責任の制裁を受けたが、特に意地の悪い古参兵からは酷い私的制裁を受けたため、体力の無い者、気力の弱い者は落伍していった。
とにかく毎日が緊張の連続で、病気をする暇も無いまま三ケ月間の第一期基本教育が終り、次は特業教育の選別をする事になった。十二種目中の中軌道車手を希望申し込み、四月半ばより材料廠中隊所属となって、五味中尉教官の元へ各中隊から五十名余りが通った。
古いスミダ六輪車の後を切り四輪とし、自動車運転教育が始まる。後半は百式鉄道牽引車教育があり、九月二十一日に一等兵に進級する。
十月には特業基本教育を終了し、補備教育で昭和十六年が暮れたが、大晦日三十一日に表門衛兵の当番が当り、零下三十五度の表門の立哨で部隊内外の道哨に立たされた。そして年明け早々に馬取扱兵の命令が出て、隊内将校乗馬二十三頭の飼養手入れと訓練の為厩舎に通う事になった。
教官の遠藤軍曹の指揮下となったが「お前達は二年兵だがここでは初年兵だぞ」と気合を掛けられて、連隊一背の高い一・六米の春富号を預けられた。防寒衣での飛び乗りに苦労しながら、極寒三十五度の大平原を駆けまくったが、落鉄すると馬蹄に草鞋を掃かせて乗鞍を背負い馬を引いて帰った事もあり、十六才の鹿毛で足に樽があり手入れが大変だった。
中隊長佐藤定蔵大尉の持ち馬だったので、隊長当番も命ぜられた。夏には中隊長官舎に公用外出を命ぜられ、畑耕し、種まき、野菜への人糞掛けをさせられたが、羊羹を御馳走になった。帰りの道中、たまたま連隊長の車が通り敬礼をすると、手招きで「来い」と言うので近づくと「乗れ」と言われ、連隊長と始めて同乗した。
昭和十七年十月より、黒河省山神府での確黒(辰黒?)線重軽列車運転演習に、中隊長当番を兼ねて参加した。
同十八年一月二十四日より佳木斯(ジャムス・黒龍江省)を経由し札賓諾爾駅(ジャライノール・内モンゴル自治区満州里市)までの百式鉄道牽引車(六輪鉄輪ゴム輪兼用車)耐寒訓練に連隊より派遣された。その折、軽油の寒地使用訓練を受けるため、満州里ダライ湖へ行ったことがあり、一米以上も凍った氷上で野驢(ノロ)鹿を追い、七頭捕ってその肉で一杯呑んだ。この時満州里鉄三十二大隊の高橋七郎君に会えて、懐かしく話し合ったことがあった。
四月よりは初年兵軌道車車手教育助手を命ぜられて初年兵の教育に当り、七月に陸軍上等兵、十月より再度自動車整備再教育を受けた。
休みには時々外出を申込み、外出証と昼食として角餅を持ち、戦友と吟爾濱市内に出かけた。香坊駅より赤Gバスで、馬家溝・中央寺院キリスト・吟爾濱神社・吟爾濱駅を経て陸橋を渡り地段街に出て、マル商又はトキワ百貨店で買物し、兵士ホームで映画を見て帰る事が多かった。松花江スンガリーあたりを散歩すると満人、露人、日本人など各国人が見られ国際都市といった感じだった。六時三十分帰隊の規則があったが、たまたま帰りの車が満員で無くなり、営門ギリギリに走って帰った事もあった。
大東亜戦争も激しくなり、中隊は関東軍特別演習と言う名目で予備兵、補充兵が召集された。各内務班では兵舎を二階に改造して、平時百二十名が二百名に増員となり、又南京虫も出てきて教練も激しくなった。
私は三年を迎えてそろそろ満期準備に歯科治療や、菓子などお土産を買い揃え、満期除隊の夢を目前にしていたが、昭和十九年三月二日連隊に動員が下った。兵器、車、資材、食糧、弾薬など有蓋や無蓋車四十屯貨車に積み込み、我々は軍装して有蓋車内に各隊が乗り込む。
何処へ行くやら、列車はどんどん南下し、吟爾濱よ兵舎よさらばだ。貨車の入口を少し開けて見ていると新京、奉天(遼寧省・現在の瀋陽市)、錦州(遼寧省)、山海関(河北省秦皇島市)と過ぎて、万里の長城が右山に見えてきていよいよ北支那に入国した。天律徳県に着き、避病院跡に止まり下車して戦闘準備、器材整備などを進め、ひと月後一大隊は徐州(江蘇省)、開封(河南省)、新郷(河南省)を経て黄河北站駅(江蘇省蘇州市)に移動し、下車して天幕を張り駐屯した。
黄河三千八百米の鉄橋の補修工事が始まり、上流の門橋に櫓を立て補助橋を掛けた。時々鋸山から山砲の弾の来る中作業を終えて、河南作戦の部隊に合流して南下する。
中隊は京漢線を黄河より謝壮まで五十キロを徒歩で行軍し、自分等は百式に器材を積んで進み鉄道六連隊の指揮下に入り、新鄭間二十五キロ路盤構築、架橋運搬作業を行い重列車の運行を開通させた。
昭和十九年四月二十九日中国自動車返送時に黄河南站三千八百米橋の袂で、天長節祝の昼食後に米国軍機B29爆撃機二十四機に橋を爆撃され、渡河中の自動車隊隊長以下幾名か戦死するが、自分等は幕舎後の壕で助かる。
五月二十一日鉄道六連隊の指揮を離れ鉄道十三連隊の指揮下に入り、新郷より京漢線を南下し、信陽、三宮廟、確山間(河南省)四十六キロの路盤構築、路線建設、架橋等復旧作業に従事する。
九月二十九日京漢線転進命令を受けて三宮廟・確山間を鉄十三に引渡し、我々輸送隊は十月十二日奥漢線長沙付近で鉄十二連隊の指揮下に入り、岳州以南の軽列車による奥漢線建設資材糧秣人員輸送に当る。
明けて昭和二十年一月二日から長沙までの軍需品輸送に従事し、同二十六日長沙以北の輸送業務を鉄十四に移譲した。長沙以南の軽列車による資材糧秣人員輸送中、抹州にて車点検中に櫻木国松君に車の上から声を掛けられ懐かしく語り合った。
二月七日奥漢線衝陽まで軽列車全線開通に伴い、十二日在衝陽の鉄道三連隊本部に復帰命令があり集結したが、この時陸軍兵長に進級を聞かされる。
軌車手は本部に車を返納し、一台で湘桂線を洪橋、白地市などを経て全県付近で我が赤松中隊に戻る。
今度は中隊の指示で湘桂線を運行したが、四月十五日佐藤定藏大隊の上海方面転用に伴い全県東安間の重列車運転を移譲され、全県に集結し逐次運転体制をとり自分等も赤松隊二中隊に在った。鉄道補修作業運転をして南下し才湾へと進むが、ソ連国境状況の悪化の報がしばしば聞かれるようになる。
我が隊の軌道車手は原隊関東軍の指揮下にあり、状況に応じて鉄一、鉄六、鉄十二、鉄十三、鉄十四連隊に配属され戦役任務を遂行した。人員は大隊より十名選抜されて一組で各隊に配属され、百式鉄道索引車を二人で一台の割当で五組が生死を共に運転した。才湾を過ぎた時、作業停止し今まで作った鉄路を破壊して、中隊は衝陽へ引き上げるよう命令が下った。しかし、枕木を積み上げてその上にレールを並べて火を付けレールを曲げる作業中に破壊を止めて早急に衝陽部隊本部に急行せよとの命が下った。百式牽引車の七屯台車五輌に荷物器材を積みその上に乗車して、空襲敵襲の監視をつけて小生運転の軽列車は衝陽市へ向かった。

玉音放送敗戦

部隊本部手前の駅に停車中、アメリカ偵察機が現れるの知らせがあり草むらの中に避難したが、この時は何の攻撃も無く飛び去った。やれやれと乗車して衝陽市(湖南省)に午後三時三十分到着したが、出迎えの将校の話によると昼に玉音放送があり、日本が負けて今本部は大騒ぎとの事、我が隊の将校も本部に行ってしまい下士官兵のみ車の周りでうろうろするばかりであった。
本部に一泊してから荷物はそのままにし、湘江を渡り戦跡地の奥漢線を今度は漢口、武昌方面(湖北省武漢市)へ北上の行動に移り、途中リュウヨ川木橋が不通でここで天幕を張り補修工事を一ケ月かかりで完成して北上する。
我々が建設、運転した思い出の現場を後へ後へと北上し武昌に着き、ハシケで揚子江を車両とも渡河し、漠口の揚子河岸の野鉄本部に荷を下ろした。しかし、宿舎が無いのであっちこっち捜し歩いたが、外国人の建物は皆帰ってくると言うので、仕方なく野鉄の傍の間組のアンペラ仕立の物置長屋に床を張り、寒くなるので壁を塗りここで捕虜生活を送る事になる。
我々は当初散発式機銃と銃弾六十発入り薬炮、手榴弾一個を支給されていたが皆が一発も使わずに武装解除された。我が隊に、特別銃剣各十組を中国から支給された。弾は撃てないが、土民からの自衛の為であった。
中国交通部の手伝いを目的として、取りあえず船で運んできた鉄橋ガータ、長いレール付属品の陸揚げ整頓などに協力する。
糧秣は中国が支給してくれた。小生は小島上等兵と共に野鉄材料置場線を中に入り、百式鉄道牽引車に天幕を掛けて荷台を宿舎として暮らしながら、中隊の食糧買出しや中国部隊の輸送使役をしていたが、中支の秋も深まり寒さも増して来たので、早く帰国出来る事を待ち望んでいた。
アメリカリバ艇「上陸用舟艇」が漠陽に向けて上がって来るが、我々の帰還艇でなく、そのまま冬を過した。
中隊と連絡を取りながら、ある時は野鉄の燃料のアルコールを瓶詰めして戦友の処に持って行き、お湯で割って共に呑み喜ばれたり、大豆油オイルを持ち帰り中国人に野菜を貰って炒めて食べた。軽油は地元人がヤン油と言って灯火用として使ったので、饅頭と交換した。また、中国人子供がしばしば漫頭売りに部隊に来ていた。
我が隊は少ない食糧の中から削って、帰還用のおやつとして味噌パンを焼いて三十キロ箱に詰め、米は靴下に袋詰めし、空き缶に綿アルコールと蝋を入れた携帯燃料を各自二個作り帰還を待った。
我々は、食糧購入のため幾度か信陽市(河南省)に買出しに行ったが、半値以下で品物が揃った。中国一個小隊を便乗させた事もあったが、その隊長が助手席に座り、その部下が食糧を進上に来ると小生にも分けてくれ、更に下車時にチップまで頂いたが日本の軍隊との大きな違いを感じたものだ。
昭和二十一年五月始め武昌市より上富良野出身の加藤清さんが我が隊を訪れた。鉄道隊には北海道出身者が多く居ると聞いたので寄って見たと言い、八年振りで漢口で面会した。話によると小生の妹幾子が加藤さんの弟進さんと結婚していると聞き、義兄弟の握手をした。
加藤清氏は間もなく上海市に戻ったが、その時の雰囲気から、我々も帰還が近い事を感じた。

草分神社奉納木簡記事と市町村史との矛盾

先に書いた伊藤喜太郎の入殖ルートの記事で、草分神社に奉納された伊藤喜一郎入殖の記録を書いた木簡の記事と、「中富良野村史」(昭和二十九年版)西中郷土史「風雪の歩み」(昭和三十七年版)などに書かれた資料とに大きな違いがあることが分かった。
木簡では、『明治三十年九月十三日父喜太郎外弟二名都合壱戸四名にて空知郡岩見沢村より中富良野に移住す居る事一年余三十三年七月上富良野市街地宅地貸付得て建築移転す』と記載されているが、「中富良野町史」、「西中郷土史」「富良野地方史」の記事では『伊藤喜一郎の父伊藤喜太郎は明治二十八年に中富良野西一線北十九号に入地した』との入殖年度の違いである。
また、「中富良野村史」には、この記事に続いて次のようなことが書かれている。「この時測量は(殖民区劃設定と思ふ)東中の十八号方面を測量中であったが、合力農場は湿地の上樹林のため居住することが出来ず、測量の役人に請ひ、西一線十九号の萱原を貰い受けて開墾したのであった。 −中略− 合力農場は開拓不能で引揚げられたが、二十九年に三重団体、三十年に石川団体の先発隊が来村、西村氏(西崎氏?)は夫一人が来村してこの伊藤氏の宅から小屋掛に出たのであった。」と記載されている。
これらの記述には、「木簡の記載事項」の記述と比べるとその内容に大きな矛盾があることが分かる。
この矛盾の真偽を確かめるため、北海道図書館、岩見沢市立図書館、旭川市立図書館などに出向き「岩見沢市史」「岩見沢郷土史」などの関係資料で幌向に入地した農場、開拓者名などについて調べて見たが、その中には残念ながら『西崎源衛門氏』の記述はどこにも見当たらず、西崎源衛門氏と合力農場との関係を確認することは出来なかった。
二十八年の「合力農場」貸下げの記述について調べた。当時の「北海道土地拂下規則」は明治十九年に制定され、主に大規模面積の払下を中心に進められてきていたが、思うように開拓が進まず、二十四年ころから「北海道殖民地撰定報文」「北海道移住案内」などの刊行と、二十五年に「団結移住に関する要領」が定められてから、ようやく各府県に移住の気運が高まってきた。しかし「北海道国有未開地処分法完結文書」を見ると、石狩国空知郡(滝川、岩見沢、栗沢)では明治二十七年には僅か五名が入植した程度で、多くなってきたのは二十八年以降からで、ほとんどが区画整理に合わせて入殖しているのである。
団体移住などに対する土地の無償貸与と成功後の無償付与の制度ができたのは、三十年の「国有未開地処分法」ができてからであるが、フラヌ原野の開放が遅れた原因は、このほかに道庁の特別な政策によることも知られている。

本国帰還命令出る

昭和二十一年五月十九日遂に待ちに待った帰還出発命令が出て、我々建設運転の戦祉鉄道を列車で帰る事になり、四十屯貨車に衣類食料を積込み荷物上の天幕に潜り込んだ。京漢線を北上し思い出の信陽を通過すると、見える所々が懐かしく思い出が蘇ってきたが、一区間列車が走ると止まって動かなくなった。交渉した結果、賄賂が無いと発車できないとの事で、金品毛布など呉れてやっと走り出す。
我が大隊が行動の始めに木橋を掛けた下流三千八百米の黄河大鉄橋も懐かしく渡り終り、それからは我が隊の任務に関係が無かった南京へ南下、揚子江をハシケで渡り上海へ向かう。何回もの賄賂でやっと二十五日に上海駅に着き列車上で寝る。
翌日朝二時に起床し、駅より十六兵站まで三キロを糧秣衣類個人装具一人三十キロを運ぶのに疲れ果てた。道路には手の平程の蟹がうようよいて、やっと兵站に着き一泊したら、虱が蔓延していて痒くて仕様がなくなった。衣類をドラム缶で煮沸しても一晩で又蔓延しほとほと閉口する。
ここでも加藤清さんに再会したが、間もなく帰還の船で先に帰国した。我々は船待ち防疫検査で五月二十七日より足止めされていたが、六月九日に乗船できることになり、早起床で喜びを胸に、七キロ装具の手製のリュックを背負い上海港へ行軍した。しかし、六中隊より患者が出て乗船不能となって、再び足止めとなってしまった。
今度は十五兵站に泊るが食糧は益々悪くなり、漢口で作った味噌パンは「お前達の部隊は幸せだ、置いて行け」と取られてしまう。
しかし、六月十三日やっと乗船命令が出て部隊本部、一中隊、我が二中隊、五中隊、材料廠中隊、九六師団の順に乗船する。
この船は二千屯級「みのお丸」で、戦役中の機雷布設艦とのことで、船の内層は一枚鉄板のため海水で汗をかき、船倉に流れ落ちてくる。我々がリュックを置いた処に溜り、寝ている所まで濡れて来たが、帰れる喜びが一杯で、昭和二十一年六月十四日午前八時いよいよ上海市を出航する。

佐世保に入港

大した時化も無く航海し、出航時には黄色であった海の色が段々と青くなってきて、イルカが船尾のスクリュウ波を追ってくる。水平線の彼方にポツンポツンと島が現れてくる。五島列島らしい。その内本国が見えてくる。十六日午後五時佐世保港外に錨を下ろす。
故郷に帰ってきた懐かしさが込上げて来る。五十艘程の船が湾内に見えて、艀で上陸しているのが遠望される。
十七日投錨された我が船は何の変化も無く過すが、夕食後酷く腹が痛み下痢をした。夕食の乾燥筍と馬鈴薯の煮付に当ったらしく、戦友は甲板でののど自慢大会を見に行ってしまい、寝ているしかなかった。翌日幾らか治まったものの腹がゴロゴロ、ふらふらして具合が悪かった。
十九日は朝から身体検査となり、及川伍長が発疹チブスで上陸中止となり船内消毒される。
二十日一中隊の工藤兵長が上陸入院し、千葉と藤田が甲板で飯を炊き叱られ、船内はじめじめしていてうっとうしい。二十二日には看護婦が五名乗船してきて検便をする一方で、甲板では演芸会もあった。
二十二日に乗船以来始めて水を沢山放出して呉れたので、洗濯や身体洗いをする。二十四日になってやっと上陸命令が出て艀三艘が来るが、我々の昼食はビスケット二枚で我慢し最後に上陸した。
コレラ、チブス予防接種、虱取りのDDTを掛けられ頭から真っ白になり、百名一組になり警察官の指揮で元海軍の兵舎に向った。だらだら坂の途中の崖下道路脇に水が出ていて、下船して始めてそこで飲んだ水の美味さは格別で、我国故郷の味を懐かしく堪能した。やがて高台に上がり兵舎が見えてきたがここでも米軍の検査があり、リュックの中隅々まで点検されて、十五時三十分に休憩の兵舎に着いた。
車で運んできた隊属貨物を開いたりしているとその夕方に、東北・北海道方面の者は明朝の列車で出発すると言う。各種証明書、旅費支給を受けるための印鑑や、夕食・明日の朝食は各人用意しろと言うので、我々は芝など集めてきて、共同で夜を徹して飯盒炊飯を始め、何とか配分を終わらせて荷物にもたれて少しうとうとと寝た。
翌六月二十五日朝四時に起床し、南風崎(ハイノサキ)駅まで一キロ余りをリュックを背負って歩き、六時五五分発の大阪行きの列車に乗りこんだ。
九州の人達の歓迎振りは大したもので、途中の軍需都市の被害はかなり酷かった。門司で昼食を受領し、関門トンネルを二十二時頃四分で通過し、原爆の広島辺りは二十六日の夜中だった。神戸で夜が明け、大阪で七時十五分東海道線に乗換えて九時十五分に発車したが、大阪も京都も酷くやられていた。
長岡市十二時、蒲郡は十五時に通過したが、段々接待が悪くなる。浜松、清水十九時、熱海二十時三十分に通過する。

東京上野に到着

米国人と日本女性が首に手を組み、接吻をするのを初めて見て腹が立った。東京駅に二十三時到着し省線に乗換えて上野に向かったが、満員の車中でリュックに縛ってあった飯盒めし二個が盗られて無くなった。上野で気が付いたが後の祭で、残りを皆で分け合って食事し駅待合でテントを敷いて休んだ。
六十才位の婆さんが兵隊さんご苦労さんと言って肩を揉んでくれたのは嬉しかったが、駅前は焼け野原で便所は一杯になって溢れているし、西郷さんの銅像の周りは人糞だらけで酷かった。
二十七日朝六時五十分青森行き東北本線の満員列車に窓からやっと乗り込んだが、買出し客と復員隊員で身動きできぬ程だ。二十時岩沼駅を通過し、仙台で夜が明ける。二十八日六時三十分に浅虫を通過し、七時二十五分青森に着いたが、ここも酷い焼け野原だ。
証明書と印鑑で北海道上富良野までの切符を貰い又、DDTを頭からかけられて九時五十分連絡船で青森を発った。思い返せば、六年前死を覚悟で渡った津軽海峡である。
十五時三十分函館港に着き上陸し、田瀬、松本、中平諸君と駅ホームで飯盒炊飯し、一杯十円のいかをおかずにして食べた。その時のイカの美味さは格別だった。二十一時三十分四〇七列車で発車し、途中で吉崎、伊藤両大尉、小隊長に別れを告げ、二十九日小樽で夜が明ける。札幌で田瀬、前崎君が降り、七時三十七分滝川で可愛い松本、中平君と別れた。

五年六ケ月振りに我が上富良野に帰る

富良野に十二時に着き一旦下車し、十四時二十三分発富良野線列車に乗り込んだが、晴天で十勝岳連峰が整然と吾を迎えてくれた。
上富良野駅に下車しリュックを背負って歩き出すと、本通り農業会前で叔父の田中太郎さんの貨物自動車に会った。自転車を借りて帰る事にし、途中で若林、学校、田中勝次郎宅に挨拶して五年六か月振りで帰宅した。
達者で居るとばかり思っていた身内の者が亡くなっており驚く。先ず祖父為次郎は昭和十七年十一月三日、弟博明同十九年三月九日、妹京子同五月十九日、妹富代子同二十年五月六日、祖母きし同十月七日と家族五人が亡くなっていた。自分の不在の約六年の月日が如何に長かったかを改めて思い、この戦争での父母の苦労、痛手が偲ばれて、感謝で頭が下がった。
家には父母、久令、道子、美和、英征の六人のみで出征当時に比べると家族的には寂しかったが、東京の元由の姉さんが子供を連れて来て居り、飯炊きねえちゃんが二人も居り、浜より買出しの人が泊って行くなど騒々しさもあった。隣の館入さん、鈴木さんも来て無事復員を喜んでくれ、加藤の妹幾子も女の子をおんぶして会いに来てくれたりした。
七月三日加藤清氏と旭川地方世話部に従軍復員報告に行き、旅費俸給残手当て四百八十円を頂いて来てから、虱退治洗濯などして少し落着き、間もなく家族と共に手伝いの人達を交えて草刈り、田の除草などに精を出して家業に働き始めた。
同十五日には日の出橋本さんの畑に米軍飛行機が不時着する。同二十二日に旭川師範学校生の黒田君、吉本吉春君が援農に来て草取りをしてくれて八月一日に帰った。
弟久令が旭川近文療養所に入ったので食料などを運んだが、この頃の汽車の切符は早くから並んで買わねばならなかった。
十月に入って、家族七人で草分・日の出方面にヤンマーヂーゼル渡辺式全自動籾摺り機で籾を摺って歩き、その年も押し詰まった十二月二十二日に高田多三郎氏の仲人で、自分は日の出小形今朝吉長女トシ子と結婚したが、馬橇で雪の多い中を輿入れしたのであった。
復員した年の暮れも慌しく過ぎていったが、我家も希望を持って安心して営農出来るようになった。

機関誌  郷土をさぐる(第23号) 
2006年3月31日印刷   2006年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一