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「十勝岳と生きる」

上富良野町西一線北二十二号 水谷甚四郎
  大正二年十一月四日生(九十二歳)


私の父甚五郎は、五十八歳で一期を終えた。当時は人生五十年と言われていたが、今思うとあまりにも短い人生であり、跡継ぎの私が当時十七歳の時だったので、せめてもう十年くらいは生きていてほしかったと悔やまれる。
父とは朝晩一緒に暮らしていながら、私に世間でよく言われる「死水」とやらも取ってもらえなかったことは、さぞ無念であったろうと、今になって痛いほど感じさせられる。

渡道

父の甚五郎は、三重県桑名郡の一寒村で、祖父甚九郎と祖母なよの長男として生まれた。
家は代々農家だったが、四・五年先に渡道していた姉婿から北海道の良い面だけを聞かされていたので、北海道の広い土地が開拓によってただで手に入れる事が出来るという魅力に引かれ、近しい親戚同志が意気投合して、話がまとまって渡道することになったのが大正五年のことであった。
しかし、いざ実行となると大変だったようで、「北海道に行くのは嫌だ!」と駄々をこねて頑張っていた祖母を父が背負い、私は母に背負われての道中だったというから、境[さぞ]や大変であったろうと察せられる。
上富良野への入植地は、江花地区の西七線北二十二号で、明治四十年に土佐団体が開拓した土地であり、一応落ち着く家はあったが、家の近くには飲料水が無く、だいぶん下手の沢まで、毎日水を汲みに行かなければならなかった。その運び役は一番上の姉が担ってくれたが、熊が出るというので次の姉が、空き缶をたたきながら一緒に水汲みに行ったと聞かされていた。

物心がついて

それから二・三年が過ぎ、私が四・五歳の頃と思うが、同じ移住団体の仲間の家族に、私と同じくらいの年齢の女の子がいて、父親同志の付き合いのときは、必ずと言っていいほど一緒に遊んでいたのだが、どうした訳かその子が突然亡くなったというので、お葬式には当然一緒に連れて行ってくれるものと思っていたところ、「絶対にだめだ!」と言われ、我慢しきれずに追いすがるのを姉達に力ずくで連れ戻された。悔しさのあまり声も嗄れんばかりに泣き通したが、後日ほとぼりの冷めた頃、当時の流行病、つまりインフルエンザのためであったと聞かされて、ようやく目が覚めた思いがした。
生まれてから今日までの長い人生を生きてこられたのも、父の強い決断と家族愛があったからこそと、感謝せずには居られない。

世界大戦はじまる

入植から困難な開拓生活の毎日ではあったが、男勝りの姉たちのお陰で開拓もようやく軌道にのりかかった頃、歴史に残る第一次世界大戦を迎えたのであった。
当時の日本は日清、日露戦争にも勝利を収めたので、小さな島国ながらも軍事国家として頭角を現し始めていたことから、農作物の価格にも影響を及ぼし、タイミングが良かったのか戦争必需品として求められたのか、赤豌豆[えんどう]、除虫菊などの栽培適地と評価されたこともあって、いきなり我が家にも好景気が舞い込んできた。当然のことながら、水田米作よりも畑作が優位となり、島津の小作地ではあったが売買の話が持ち込まれたので、渡りに船とばかりに話がとんとん拍子に進み、大正十年三月に現在地(西一線北二十二号)に移転して来たのである。

山紫水明

山は紫あで姿、誰かが書いたような美しい十勝岳(当時私達は硫黄山と称していた)が前方にあり、家の後ろには魚釣りや川泳ぎもできる水清らかな富良野川(大正十五年の十勝岳大爆発以降魚の棲めない川となっている)が流れ、川を渡るとすぐ小高い丘があり、桜や紅葉も楽しめる。これ正に極楽の境地であった。
川の水も飲めたが、井戸を掘るとうまい水も出たので家の中に打ち込みポンプ式にしたところ、これも成功したので江花時代の水汲みの苦労が嘘のように解消されたのだった。山紫水明とはいうものの全くの田舎道のこと、父は基線までの草道を毎朝のように露払いをしてくれたり、吹雪の日は迎えに来てくれるなど、一年坊主の私を可愛がってくれていた様に思っている。
そのうち、一番上の姉が結婚して分家独立するし、父の弟に当る叔父さんも、名寄の煉瓦[れんが]工場を辞めて当地で農業を始めたので、父はほっと一息といった気持ちになっていたらしく、渡道以来念願だった故郷訪問を果たすことができて大満足の様子であった。

十勝岳の大爆発

大正十五年を迎えた時点で、三月には私も小学校を卒業して高等科一年生になり、少しは家業の手伝いを出来るようになった頃、不便だった作業小屋も新築されたし、作男にも恵まれて農作業も捗[はかど]り、「さあ明日から籾播きが出来るぞ!」と張り切っていた矢先に、あにはからんや、《病気と災難は忘れた頃にやってくる》の例えの様に、その災難が《十勝岳の大爆発》という事態で現れたのであった。忘れもしない大正十五年五月二十四日午後四時三十分。
ドドッドーン!ドーンー・ドーン!ドーン!滾[たぎ]りに滾った地下のマグマが大火焔となって噴き上がり、全山に降り積もった丈余(約三b)の雪を一瞬にして融かし、大泥流となって森林の大木をなぎ倒し、巨岩をも巻き込み渦巻くばかりの山津波となって、日新、草分地区に襲いかかって上富良野開闢[かいびゃく]以来の大惨事となってしまったのだった。
島津地区は、だいぶん下流のため人畜の被害はなかったものの、我が家に限り農耕地が低地だったので、殆どが泥流埋没地となってしまい、家は残っていたが道がなくなって帰れない状態であった。この状況に父をはじめ家族一同はただ唖然として成り行きに任す外は無かった。
私と妹は、避難のときに勉強道具を持っていたので、二日くらい経ってから登校してみたのだが、日新地区から通学していた級友は亡くなっていたし、草分の親友は一度溺れかかったが線路に打ち上げられて助かったのだと、青い顔をして話してくれた。
日の出地区で被災した姉夫婦も、草分の分家も耕地は無くなったが、人身に異常は無いというので、みんなも安心したのだが、絲屋銀行が整理休業となったというので、父が一番困っていた様子が今でも目に浮かんで忘れられない。
こんな大惨事を起こした十勝岳も、二・三日くらいは時々地鳴りしている様だったが、漸く治まりかけた頃には、政府は勿論、天皇陛下からも、また、全国各地や外国からも慰問の金品が届けられる様になり、私たち一家も一応家財を取りまとめ、基線の空家に住むことになった。

借金地獄

爆発という大災難に遭遇した父は、もう人生五十年代の半ばにさしかかっていたのだが、その年の収穫が終わる頃になって、近い部落(基線二十一号)に手頃な小作人の売り地があったので、同じ被災者となっていた田中姉夫婦とも相談し、何とかやってみようという事で話を進めることになった。金額は当時の通り相場であったが、何しろ銀行がつぶれているのですべて借金に頼るより外なかった。
大正十五年の師走になって天皇陛下が崩御され、一週間くらいで年号も「昭和」と改められて新年を迎えることとなった。
年号が変わり、新年を迎えたからといって良いことが待っているとは限らない。農耕の関係で買った土地に引っ越してみると、あれだこれだと足りないものばかりで、それに加え農耕馬は死ぬは、母は病気になるは、災害地の復興、大農機具の整備など、すべてお金を要することに加え、酸性土壌となった為収支の採算が取れず、高利貸から借金をした訳でもないのに、親金(元金)が余計な利子を生んでくれるので、借金が雪だるまを転がすように殖えていくばかりで、どうすることも出来なくなってきた。
当時は軍人がはびこり、政治はじり貧で正に昭和暗黒時代の前兆期であった。
この様な時期に借金生活に追い討ちをかけたかの如く、昭和五年の豊作貧乏、米が大豊作で喜んだのも束の間、一俵五円也に下落してしまった。(注、大正十四年一俵約十円、十五年・昭和二年約八円五十銭、三年・四年約六円五十銭) 普通の農家でもお手上げなのに、まして我が家は爆発以来の借金また借金で、もがいてももがいても這い上がることが困難な借金地獄に落ち込んでしまっていた。
かくなる上はと決断した父は、全力を挙げて復興した災害地に戻って初めからやり直す事にし、ついに芽の出なかった農地をそっくり債権者に明け渡して、元の古巣へ戻ったのが昭和六年三月の半ば頃であった。
災害当時は、復興の是か否かで賛否両論に分かれ随分と世間を騒がせた復旧工事も、その後順調に進んで、造田、客土、酸性土壌改良も終えて、昭和四年には作付けも出来たし、その翌年には天候にも恵まれてある程度の収穫を見込めるまでになっていた。

父の訃報

元の古巣へ戻ってきた頃の私は、もう思春期の幕開けであった。この土地を離れて以来何かと気苦労の重なっていた父を、何とか手助けしてやりたい気持ちでいたので、母や妹の助力に頼りながら、鍬頭となって積極的に働いていた。
父はもともと気ぜわしく、早食いと心配性だったので、いつの間にか胃が侵されていたらしく、医薬を手離せなくなっていた。その分、私が頑張っていたので気をゆるめていたようで、身体の衰えが目立つようになり、村のお祭りの参拝にも行かず、母と留守番をする様な状態だった。
収穫作業が屋外から屋内になり、機動力の関係上、田中姉一家と共同作業で毎日励んでいたのだった。私は夜間作業の関係もあったので、田中姉の家に泊まることになり妹と交代した。
夜になって父の病状が急変し、母と妹だけではどうする手だてもなく、夜の明けるのを待って注進に及ぶという非常な事態が起こってしまったのであった。
死に別れという人生の一大事に立ち会った事のなかった若造の私には、ただ、だんだん冷たくなっていく父の遺体を、一人さびしく見守っていてくれた母のところへ飛んで帰るのが精一杯であった。

一期一会

私の祖父甚九郎は、「父甚五郎の膝を枕にして眠るが如く往生した」と、田中の姉が生存中によく聞かせてくれたが、三代目の私に限ってはまったくその逆なのであるから、運命とは一体どうなっているゝものか、兎に角、父が逝[い]って早七十有余年、父の生涯も有為転変さぞや苦労の多かった事と頭の下がる思いで朝晩の勤行[ごんぎょう]に励み、遺影に感謝の念を捧げている。
私も父と死別してこの方、長生きしたくて生き長らえてきた記憶は更々無いのであるが、矢張り両親を始め世間の皆様方のお陰で、今日まで生かされてきた限りは、私でなければ書き残せないような気がしたので、老骨に鞭打って生きがい一筋に、私の知っている限りの父親の生涯を綴らせてもらいました。

水谷家年譜

・明治十九年四月二十日 父甚五郎 三重県桑名郡古美村字吉野九百七十五番地で出生
・明治十六年一月一日 母志ず 八十番地で出生
・明治三十四年三月二日 父母 結婚届出する
・明治四十四年十二月八日 祖父 甚九郎死去
・大正二年十一月四日 長男 甚四郎 三重県桑名郡古美村にて出生
・大正五年三月 家族七人で上富良野村西七線北二十二号に入植
・大正五年十二月二十五日 祖母 なよ死去
・大正十年三月 現在地 西一線北二十二号に移転
・大正十五年五月二十四日 十勝岳大爆発の災害に遭遇する
・昭和六年十一月十日 父 甚五郎 急逝
・昭和六年十二月十日 亡父の墓建立
・昭和十五年二月十日 母 志ず 死去
・昭和五十三年十一月十日 父 甚五郎五十四回忌法要厳修す
・昭和五十六年三月 記念誌「寡黙の足あと」刊行

機関誌  郷土をさぐる(第23号) 
2006年3月31日印刷   2006年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一