郷土をさぐる会トップページ     第23号目次

各地で活躍している郷土の人達
「上富のこと 思い出すままに」

大阪府堺市 中川裕子(旧姓土橋)
  昭和十一年十二月二十八日生(六十九歳)

移り住んだ街々

私は、昭和十一年東旭川の生まれですが、十六年十二月から十九年三月まで上富良野村東中に、そして二十二年八月まで上富良野市街に住んでいました。五才から小学校五年生までのことです。
その後は、札幌、東京、千葉と各地で暮らし、現在は大阪府堺市に住んで居りますが、幼年期、少女期を過ごした上富良野は、十勝岳の雄大な眺望と共に忘れることのできない私のふるさとです。今も思い出すと懐かしさで胸が痛いほどです。
上富への思いにふれる前に、一家が上富良野へ転居した経緯を記すことにします。

当時の土橋家の家族

昭和十六年当時の我が家は、父土橋明次・母鉄子と私と二才下の妹道子それに祖母ソワ(父の母)の五人家族でした。
父土橋明次は、旭川中学校、旭川師範学校を昭和五年三月に卒業、教師として東旭川の旭川小学校に勤務していました。特に綴り方の指導に熱心で、綴方教育連盟にも参加して勉強していたようです。家でも、文集などの原稿の原紙切りをしていた姿を覚えています。母鉄子も同じ学校の教師でしたが結婚後は家庭に入っていました。

父の突然の特高警察連行る

平凡な一市民の住まいに、昭和十六年一月十日早朝、全く突然、旭川警察署特高刑事三名が来て、父の手紙、書物、文集等を押収したうえ、父はわけもわからぬまま連行されたのです。父が三〇才の時のことです。治安維持法違反容疑の「北海道綴方教育連盟事件」と後にいわれた事件です。
その日、旭川や釧路の小学校教師約六十名(八十名ともいわれる)が一斉に検挙され、新聞記事は警察段階で掲載しないよう措置をとられたので、一般には殆ど知らされなかった事件です。
その日の内に帰れるつもりで連れて行かれた父ですが、帰宅するまでには二年半の歳月が費やされました。
このように私達が東旭川から転居を余儀なくされたのには、太平洋戦争の開戦が昭和十六年十二月八日ですから、当時の日本が戦争へと傾斜して行った暗い時代が背景としてあるのです。
この事件は、共に苦渋の二年半を過ごした父の敬愛した坂本亮氏の言を借りると、「狩るべきものを狩り尽くした思想検察が、徒食のそしりを免れようとして仕立てたまったくの虚構事件」で、綴方を、きれいごとでなく、自分を、周りをありのままにみて書き、考え、話合う、そんな指導教育に熱心に取組んでいた青年教師に、時の「治安維持法」の拡大解釈を当てはめ、共産主義信奉者に無理やり仕立て上げて自白を強要するという、誠に恐ろしい理不尽な事件でした。検挙された教師の多くは釈放されましたが、父を含む十二名は警察署間のたらい回しの後、この年の六月下旬には釧路地方裁判所検事局に送られ、起訴、予審を経て公判に付されたのでした。

東旭川から上富良野村東中へ

父にはその年の四月末で依願退職の措置がとられたので、わが一家は収入が途絶え、四人の生活を支えるべく、母は職を求めて、必死になって奔走しました。学校や役場などに頼みに回っていますが、関わりを持つことを避けるような対応に遭い大変苦慮したようです。
そしてどのような経緯であったかは不明ですが、その年、昭和十六年十二月、母は、「空知郡上富良野東中国民学校助教を命ず 月俸四拾五円給与 北海道庁」の辞令をもって一家は東中に移り住むことになったのです。
さて、東中ですが、隣村の中富良野は、父が小学校時代から両親と住んでいた地で、その父親とは十六才で死別していますが、本籍地でもあり、親しい人々も多く居られましたので、祖母にとっては上富良野・東中の地は心安まる所であったと思われます。
しかし五才の私には、赴任の日、上富良野駅から東中まで迎えの馬橇に乗って祖母の角巻の中に抱かれてはいましたが、何もない雪の原をどんどん奥へと進むばかりで、遠い所へ行くのだなと心細かった記憶は残っています。
その日から学校そばの教員住宅で、十勝岳を間近に見ながら東中での暮らしが始まりました。母と情愛深く気丈な祖母に私と妹は守られていましたので、すぐに環境にも慣れて子供の日々がはじまりました。

東中での思い出の数々

学校と神社の周りには、郵便局や何軒かの家が集まっていました。生まれ育った東旭川よりは過疎な村でしたが、初めての体験も多く、新鮮な日々だったと思います。鍛冶屋では、ふいごの音と大きな炎の中で真っ赤に焼けた蹄鉄を打つ音、飛び散る火花の豪快な作業を、息をのんで見入ったものです。馬に装着する様子には、痛くないのかとはらはらしたりしました。夏はベベルイ川で日暮れまで遊びました。ベベルイというひびきには何ともいえぬ郷愁を感じます。
家の裏には畑が広がっていました。冬、根雪の間は窓の高さまで雪で真っ白に深く被われます。思い出しても懐かしく胸躍るのは、「かた雪」のこと、前日かなり暖かくて雪が少し融けかけた翌朝、ぐんと気温が下った時だったのでしょうか、一面の雪原が氷のように硬くなり、昨日はぬかるので近寄れなかった所を自由に歩き廻れるのです。それがどんなに素晴らしく愉快なことか、陽光が反射してきらきらと輝きまぶしい雪の面で妹と夢中になって遊びました。

思い出の地に降り立ちて

先頃、中富良野の墓参の折、半世紀以上も経て初めて東中を訪ねました。記憶をたどりつつ車を走らせると、小学校は大きく立派に姿と向きを変えてはいましたが、昔のまま、神社の隣にありました。道は舗装され、道に沿って流れていた小川は、側溝となって水はありませんでしたが、はっきりとここがあの時のあの場所とわかりました。そして何よりも、変わらぬ山並み十勝岳には感動しました。住んでいた家のあたりは、プールになっていました。母に贈って下さったと思われる、開校七十周年誌「しらかば」東中小学校(昭和四十四年七月発行)の沿革の大要によりますと、記念誌発行年の七月、水泳プール竣工式とあります。開校七十周年の記念としての建設であったようです。

東中小学校への入学

そして昭和十八年四月、私は東中国民学校に入学しました。入学式の晴れの服は、母の華紺の袴をたおして、洋裁の上手なお寺のお嬢さんに仕立ててもらったセーラーカラーのワンピースでした。襟には白い線が二本入っていて、ヨークの切り替えからはプリーツになっており歩くたびに優雅に揺れるのがとても嬉しかったことを覚えています。受持ちは塩貝ミサヱ先生、保護者は土橋鉄子となっています。

父の釈放帰宅と村役場への採用

私が東中国民学校へ入学した夏の昭和十八年七月七日、父が釈放となって帰ってきました。懲役二年、執行猶予四年の判決でした。坊主頭の父には初めは違和感もありましたが、やはり父のいる家は安心で、当然ながら嬉しいことでした。
父は二年半の留守にした時間をどのように統括したのかはともかく、目の前の家族の生活を再び自身が守るために、すぐさま親類縁者に相談するなどして就職活動をはじめています。戦況は日々厳しくなり、「続々と応召者の相次ぐ状況下で、職のないことは極めて不安なことであり」と日記にも記しています。

上富良野役場に採用

そんな中、父とは旭川師範学校同期の安井洵氏が母と同じ東中国民学校に勤務しておられ(後に学校長となられた)、その父上の金子浩上富良野村長に、役場に採用方を頼んで下さいました。金子村長は一度面接しただけで、刑の執行猶予中で保護観察処分に付されていることも承知の上で採用して下さいました。おふた方のご親切はどれ程身に沁みたことでしょう。
十八年九月三十日付けで、「臨時雇ヲ命ス、日給金壱円給与、上富良野村役場」の辞令が残っています。
ここから父の第二の人生が始まりました。十二月には臨時雇いから書記補となり、衛生担当吏員として張り切って仕事に取りくんだようです。当時北海道庁が全道的に展開していた結核予防運動の一環としてツベルクリン反応検査、BCG接種等に携わっていました。その頃の村の結核対策の様子を記した文章があります。
この仕事で、北海道衛生課長だった金井進氏との出会いがあり、それがその後の父の進路を決定することになるのです。
家族は、年度末の十九年三月まで東中住まいでしたので、父は半年間は役場まで自転車か徒歩で通勤したと思います。

東中から上富良野市街へ

昭和十九年四月に市街へ引越し、母は上富良野国民学校へ転勤となり、私は二年生に転入しました。
妹道子は翌年ここで一年生に入学しています。
東中から上富良野へ移り住んだ最初の住まいは、ゆるやかな起伏の上にぽつんと建っている日の出会館(現在宮町公園になっている)の管理人室でした。電気がまだ引いてなく石油ランプの暮らしで、夕方のランプのほや磨きは、手の小さい子供の仕事でした。周りには大きなポプラの木があり、季節の変わり目の初夏には白い綿毛が沢山飛び交い家の中にも入ってきたりしました。
会館には、青年団の方などが集まり、ストーブの季節には、出来たての澱粉の大きな塊を直にストーブの上に置いて、焼けた部分からお煎餅のように剥がして食べていました。私たちもよくお相伴にあずかったものです。恐らく和田松ヱ門氏がご自身の澱粉工場から持って来られたのでしょう。
その頃から、和田氏のお名前は、「松ヱ門」というおさむらいさんのような響きとして知っていました。

噴煙短歌会に入会と和田松ヱ門氏

父も役場に勤務しながら、和田氏が昭和二十年に創立された「噴煙短歌会」に参加していたようで、家で会の冊子のガリ切りをしていたことを覚えています。「噴煙」という十勝岳の噴煙を描いた表紙でした。父の遺品からそれを見つけた時は、私自身あの時のだと、とても懐かしく、父としても大切にしていたことが偲ばれました。
第三号(二十一年一月)から九号(二十一年九月)まで六冊(七・八は合併号)揃っていました。黄ばんでしみが出ていますが、夫々、十三×十八センチ程の大きさ、十四・五ページ、同人二十名前後の方の短歌が収められています。右綴じで、こよりでしっかりと綴じられた手作りの歌集です。

和田耕人氏と交流

昭和五十一年発行の噴煙短歌会創立三十周年記念号の「発行に当って」の和田耕人(松ヱ門)氏のお言葉に、『また「噴煙」発行も第三号から、土橋明次さんや安藤義男さんの手で美しい謄写刷りのものを発行して頂いたが、他に転任されたため二十二年一月の第十一号で発行停止となり、』とありますが、父の上富良野役場退職は二十一年十月三十一日付でした。その後も父は、お世話になり尊敬していた和田氏とは交流があり、氏の歌集「噴煙絶えず」、「富良野平原」、文集「土に生きる」もその都度お送り戴いて今も本箱にあります。
また、父が死去の前年にまとめて親しい方、お世話になった方々にお配りした、土橋明次文集の表題を「噴煙」としたのも、少なからずこの噴煙短歌会の歌集のことが心にあったからではないかと思われます。

終戦と道庁衛生課勤務

日の出会館での暮らしはいつまでだったのか、間もなく学校わきの職員住宅に移りました。
昭和二十年八月十五日、終戦の日の夕方、役場の勤務を終えた父が白く乾いた道をゆっくりと歩いて帰って来るのを、私は家の前で迎えました。「ああ、終ったなあ」と吐息と共につぶやくように言った言葉を覚えています。
昼間の玉音放送は、近くの大きなラジオのあるお宅に皆で寄せて頂いて正座して聞きました。雑音が多く又難解な内容で三年生の子供には全く理解できませんでしたが、大人の顔色から、信じられないが日本は負けたらしいということを感じました。子供心にもこれからどうなるのかと大変不安でした。
その夜、両親と祖母が灯火管制の黒い布をいつものように電燈に巻こうとして、もう要らないのかと言い、久しぶりに部屋の隅までを照らしだした電燈の下でちゃぶ台を囲み、ひそひそと話しをしている様子を私はなかなか寝つかれずに窺[うかが]っていました。

無罪となり道庁に勤務

終戦後、治安維持法は消滅し、二十一年には父の罪名は赦免、保護観察処分も解除され、ようやく自由の身となりました。そして先の道衛生課長金井先生のご配慮により、道庁衛生課勤務が決まり、二十一年十月末で役場を退職しました。当時は戦後の混乱のさなかで住宅や食料事情が混迷していたため、父は取りあえず単身で赴任し、家族は翌二十二年の夏休み、私の五年生の時に札幌へ転居となったのでした。

上富良野小学校五年三組の思い出

上富良野小学校で最も思い出深いのは、五年三組の担任の井上ミツ先生とクラスの友達のことです。
八月迄の一学期間だけでしたが、それは素晴らしい出会いでした。すらっと背が高くいつも明るい美人の井上先生、友達では、材木屋の穴田博子さん、おっとりしたお嬢さんの西野目節子さん、頭のいい荻子富士子さん、天然パーマの金子喜榮子さん等々懐かしい顔が浮かんできます。
転校の挨拶に学校へ行った日、校庭の斜面の芝生に座ってクラスの皆さんと一緒に『里の秋』を歌ってお別れしたことは忘れられません。その頃童謡の川田正子、孝子姉妹の歌が広がり始めていたのではないでしょうか。
井上先生は、次々と新しい曲を教えてくださいました。それは熱心に授業に取りいれておられたように思います。それらの歌は当時の私たち子供の心に水が沁み込むように受け入れられ、熱い思いで懸命に歌いました。戦後のまだ物のない時代の大きな贈り物でした。紫のインクを好んでお使いだった先生がお別れにと書いて下さった「川田正子愛唱歌集より」と題した歌集は、今も大切にしてあります。「みてござる」「花かげ」「みかんの花咲く丘」「月の砂漠」などなど、教わった歌の数々が美しい文字で綴られ、紫の色も瑞々[みずみず]しくあの日のままです。

父母の逝去

父はその後、恩義ある方がたの折々のご厚意を受けて、東京、千葉と仕事の場を移しましたが、どこにあっても誠実に情熱をもって仕事に当たり、常に一生懸命であったと思います。そして、平成十二年十一月、八十九才で、自分が長年関わってきた千葉市内の病院で死去しましたが、生涯現役の一生でした。母も半年後、後を追うように逝きました。

むすび

父は、若き日に遭遇したあの不幸な事件について「この事件で失ったものは大きいが、しかしこの機会に私のいただいたものは、もっと大きいように思います。」と記していますが、それは真実、実感であったと思います。もし事件がなければ父は教師としての生涯であったかも知れず、私も、上富良野で井上先生や五年三組の友達に出会うこともなく、十勝岳の厳かな景観、四季折々に美しく、時には激しく噴き上げる噴煙にも親しむこともなかったかも知れません。人生とはそういったことなのかも知れませんが、不思議な巡りあわせをしみじみと感じます。

父土橋明次が寄稿された「召天十周年記念金井進追悼集」から抜粋
昭和十九年。北海道庁は、たしか「結核多発農山漁村予防接種運動」と呼んだ結核予防運動を、当時の内政部衛生課が中心となり、北大の北方結核研究所、北海道結核予防会等が一体となって、全道的に展開しました。その時、私は、前年から勤務することとなった北海道空知郡上富良野村役場の、新米の衛生担当吏員でありました。
ツベルクリン反応検査とBCG接種を行う保健婦は、村役場の一名では不足で、隣村役場から一名、旭川保健所から一名の応援で計三名で行うこととなりましたが、その責任医師としてお願いしていた村の開業医二名は、相次いで応召し、いよいよ接種実施の八月下旬には、村に、医師は一名もいなくなりました。旭川保健所へ医師派遣をお願いしたのに対して、保健所からではなく、道衛生課から村長あてに電報が参りました「金井衛生課長一泊の予定で行く」とあり、上富良野駅着の時刻も示してありました。
この電報で私どもは勇気づきました。金井課長さんに面識のない私には、札幌の養成所での講義で、先生を存じているという村の保健婦が頼りでした。上富良野駅頭で、私は、はじめて金井先生にお目にかかりました。眼鏡をかけて、鼻の頭の少し赤い、体格のよい先生は、はざれのよい言葉で出迎の労を謝されました。
その夜、駅近くの旅館で、村長が会食の後、保健婦諸君と私は、明日の打合せをしました。その席には、とうきびや枝豆が出ていたのを思い出します。保健婦の帰った後も、私はしばらく残って村の話などをいたしました。新米の一年生吏員の話を、熱心に聴いて下さる金井先生に、私は心嬉しく、辞去したのは、夜もかなりおそくなっていました。
翌日、予防接種会場を廻るために借りた応召医師の自動車の運転は、村の自動車屋の主人。道衛生課長の現地指導ということで、各部落とも張切ってくれて、どの会場も、仕事着のまま腕をまくった部落の人々が、行儀よく、長い列で並んでくれて、よい成績で、この予防接種は順調に進みました。
そして、十月。道衛生課長から村長あてに電報が参りました。「結核対策について土橋書記参庁せしめられたし」というものです。その日は夜おそくまでかかって、予防接種実施成績をまとめて、私は翌日道庁へ参りました。赤煉瓦本館の、中央階段を上った左、北側の衛生課の部屋は広く、窓側の出張ったコーナーに金井課長さんはおられました。先生のご用は、「君、道庁へ来て、我々と一緒に仕事をしないか。」ということです。私は予期しないことに驚きますと同時に、私が小学校教師であったとき、昭和十六年、全く思いがけなく検挙され、後に私共を弁護して下さった高田富與先生(後の札幌市長)が「綴方連盟事件」と呼ばれた治安維持法違反容疑事件によって、刑の執行猶予中であることをご存知ないと思いました。これに対して金井先生は、私の経歴のことは、先頃上富良野村長から聞いて承知の上であると申されました。
これも意外ではありましたが、私は感動いたしました。しかし、母と妻と子供二人の家族もあり、特に母の意見もあると思うので、後日あらためてご返事させていただくことといたしましたが、帰る途中の私は、心おどるような嬉しさでありました。
村へ帰り、母の同意も得て、「万事おまかせします」と電報を打ちました。しかし、時の特高の反対もある等で結局、私の道庁入りは実現できませんでした。しかし、私は、金井先生という立派な方に認めていただいたことだけで、満足でありました。その頃頂いた金井先生のお便りの一節。
『正しいよき人が、しばしば此の世では、苦難の試練に遇わねばならぬかを見せつけられます。然し、神と正義の存在する世界は、結局正しいものがやがて処を得ることを信じてうたがいません。……』金井先生が生涯もち続けられた正義感と神への深いご信仰のお言葉であります。
道庁に呼ばれて帰りまして一〜二ケ月、先生は、時局講演会でしょうか、富良野地区医師会を終り、旭川市医師会に向けて上富良野を通過されるその日時のご連絡があり、上富良野駅頭でお目にかかることとなっていました。夕方の列車でした。当時の富良野線は、客車と貨物の混合で停車時間も長く、少しお話できましたが、「先生、明朝の列車でも間に合いますから」と、管理人住宅にお泊まりいただいて、もっとお話しがいたしたいと申し上げましたところ「そうしよう」と下車されました。
ご案内した住宅は、駅から六〜七分の村役場に近い「日の出」部落の青年会館の管理人住宅で、ここは電灯がなくランプでした。先生にお寄りいただく用意もできず、ろくな食事も差し上げられず失礼いたし、家内共々恐縮いたしましたが、母は大層喜びました。このほの暗いランプの下で、先生は快くお話下さって、母や家内に優しいお言葉をかけて下さいました。母はうれし涙を両手の甲で、両目を抑えました。
母の申し上げたことの中には、私の拘禁中、寒夜寝巻のままで戸外に出て「明次元気か、私は元気でいるよ。」と独り呼びかけたこと等も申し上げたように思います。先生は、母の手を握って、「お母さん、元気でよかった。」と言って下さいました。
翌朝旭川へご出発の先生に、差し上げられる物もなく、母の手作りの南瓜を刻んで干したのと、地元の澱粉少々等でした。御帰庁の先生からは、次のような温かいおはがきをいただきました。
「石油ランプの下でのつきない心の御もてなし、永く忘れ得ぬ感激であります。正しいよき人々がしばしば此の世では苦難の試練に遭わねばならぬかを見せつけられます。然し神と正義の存在する世界は、結局正しいものがやがて処を得る事を信じてうたがいません。
さて、お心づくしを数多く頂いて昨日無事帰札。又仕事ととっ組んでいます。吾等の奉公の道もいよいよ多端であります。さて愛兄の事に就いて帰庁早々努力しています。至急履歴書を送って下さる様願います。何れ五十嵐技師か事務官かが貴村に出向くと思います。このことは何れ連絡をとります。」
翌年、戦争は終わりました。自由の身となった私へ、金井先生から再びお誘いがありました。私は、変わらない先生のお気持ちが有り難く、食糧事情から、札幌行きを渋る母を説いて、受諾することといたしました。格別のご配意で私を使って下さった村長さんには、道から、私の割愛についての文書を頂き、私は、お世話になった上富良野村役場を、二十一年十月三十一日付で退職させていただき、同日付で、北海道教育民生部衛生課勤務が発令されました。しかし、その五日後の十一月五日付で、金井先生は、厚生省予防局予防課長を発令され、数日後、私は、ご赴任の先生を札幌駅でお送りしました。(一九九七年一月十二日)(「召天十周年記念金井進追悼集」一九九七年五月六日発行)

終わりに、この度は、古い写真や手紙を取り出してみたり、昔のことを、懐かしい方々を思い起こす機会を頂いたことに感謝申し上げます。


中川裕子さんの『上富のこと思い出すままに』について

編集委員 中村有秀

一、土橋明次・鉄子夫妻と上富良野との関り

土橋明次氏の事を知ったのは、北海道新聞社が発刊した「道新選書16」にて、平沢是曠[よしひろ]氏著による『弾圧−北海道綴方教育連盟事件』であった。
その著書の「終章、それぞれの運命の中で」の文中に

『土橋明次は、妻が奉職していた上富良野の小学校の住宅に身をおいたが、友人のすすめで村役場に勤めるようになった。
彼はそこで衛生係の仕事をしたが、持って生まれた事務能力のすばらしさが認められ、北海道庁入りを世話する人もあったが、それも北海道警察特高の反対で取り消しとなった――』

と記されていたのに驚き、「上富良野のどの小学校に」そして「友人とは誰なのか」との関心が深まり、調査を進めていたところ、三浦綾子記念文学館の特別企画展「銃口−三浦綾子最後の小説」が平成十七年六月十三日から開催されたので、その観覧に行き目にしたのは、土橋明次氏の関係資料八点が、長女中川裕子さんの提供により展示されていました。
その資料から、「上富良野の小学校は―東中国民学校と上富良野小学校」であり、「友人は―当時の東中国民学校に訓導として勤務の安井洵氏」の存在が判明するとともに、土橋家の窮状を救い上富良野での生活の端緒に「安井洵氏」が大きく関っていたことが判りました。

北海道綴方教育連盟事件とは (北海道新聞北海道大百科事典より)

昭和十五年十一月二十一日、釧路市、女満別村、十勝大津の各小学校の三人の先生が突如として検挙された。
翌年の昭和十六年一月十日、北海道各地の小学校教師五十二人が一斉に検挙され、十二人が検事局送りとなった。
この若手教師たちは、「綴方教育は現実の生活をありのままに表現することから始めなければならない」と主張していた。それが当時の政治情勢のもとでは、「治安維持法」「軍機保護法」等に違反の疑いがあるとされたのである。
昭和十八年の判決で有罪とされたが、いずれも執行猶予づきであった。終始弁護に当たった高田富與氏(後に札幌市長・衆議院議員となる)の六時間ずつ、二日間にわたった弁論は教育界に高く評価されたものであった。

二、土橋鉄子先生が奉職された小学校

夫である土橋明次氏が昭和十六年一月十日に警察に連行された。
土橋明次氏が勤務の旭川小学校長二宮虎雄氏が面会に来られた時に、土橋氏は「わけがわからないが、ご迷惑でしょうから退職の手続きを、お取り下さって結構です」と申し上げた。
それより、退職は昭和十六年四月三十日付で「願ニ依リ本職ヲ免ズ」と退職発令された。
夫の身を案じ、生活と将来に大きな不安を持ちながら、鉄子さんは職を求めて奔走したが、夫の事情が背景にあるだけに思うように行きませんでした。
二人の子供と義母を抱えて途方にくれ、冷たい目で見る人もいた。
鉄子さんの当時の日記には、憤りや不安の日々が次のように綴られていた。

―聲を上げて泣きたい
     私が、もし倒れでもしたら。
     ひとりで思ふ、いろいろのことを。
     貴方が どうか元気で
              いて下さいと祈る―

その窮状を憂い救ったのが、旭川師範学校の昭和五年卒業同期であった「安井洵氏」であった。
安井洵氏は、当時東中国民学校に勤務し、父は上富良野村長金子浩氏であったので、同期の土橋明次氏と家族のことを憂慮し、事情を説明の上で上富良野村立東中国民学校に、昭和十六年十二月三十一日より「妻土橋鉄子さん」は奉職することになり、月俸四十五円、職名は訓導となっていた。
 ○東中国民学校(現在の東中小学校)
    昭和一六年一二月三一日〜昭和一九年三月三一日
 ○上富良野国民学校(現在の上富良野小学校)
    昭和一九年三月三一日〜昭和二〇年九月三〇日

三、土橋明次氏の釈放−村役場臨時雇に採用

昭和十六年一月十日警察に連行され、以来取り調べと、起訴・予審を経て公判に付された。
この公判の中で高田弁護士は「私の二十年に余る弁護士生活の間、この事件ほど不思議に堪えない事件に出会ったことがないのであります。かような教育実践が、どうしてかような嫌疑を受けたのか、不思議に堪えないのであります。――」と冒頭から犯罪事実を否認する所感を述べられた。
昭和十八年六月三十日、懲役二年・執行猶予四年の判決が言い渡された。
拘留生活二年六ケ月を経て、昭和十八年七月六日の午前九時に釈放の旨を告げられ、その日の二十時五分発の急行で釧路を去る。翌七日早朝中富良野に着き、(富良野発五時二十四分発車)家族、親戚の出迎えを受けて、その日は中富良野で明次の父(源三)が開業し、後を継いで籾摺臼の製造販売業を営む安東仁一宅にみんなで泊り、八日に家族の住む上富良野東中教員住宅に帰ってきたのでした。
村役場の臨時雇いの経緯については、長女中川裕子さんの文中にありますが、上富良野役場の在職記録には、次の様に残っています。

○昭和一八年一〇月一日 臨時雇 日給一円(当時の辞令書の記載は九月三〇日)
○昭和一八年一一月三〇日 書記補 月俸三三円
○昭和一八年一二月二〇日 書記補 月俸三五円
○昭和一九年五月一日 書記補 月給三五円
○昭和一九年六月二〇日 書記補 勤勉賞与七円五〇銭
○昭和一九年一二月一日 書記 月俸七〇円
○昭和一九年一二月二〇日 書記 勤勉賞与 七一円
○昭和二〇年一二月二〇日 書記 勤勉賞与百五十五円
○昭和二一年九月二一日 書記 薪炭補給費二百四十九円
○昭和二一年九月三〇日 書記 月俸九〇円
○昭和二一年一〇月三〇日 依願退職 退職慰労金 二千三百円(当時の辞令書は千八百円)
○昭和二一年一〇月三一日 北海道庁衛生部予防課採用

四、土橋家の家族が世話になった『安井洵氏』とは

上富良野町の教育界に多大な貢献された『安井洵氏』については、多くの町民がご存知のことと思いますが少し記します。

○明治四三年九月三〇日 父金子浩氏の次男として誕生
○昭和五年三月 旭川師範学校本科一部卒業
○昭和五年三月三一日 東中富良野尋常高等小学校勤務
○昭和六年二月二七日 安井慎一家次女孝子と結婚安井姓となる
○昭和二二年五月一日 上富良野中学校に勤務
○昭和二五年一〇月三一日 東中中学校に勤務
○昭和三五年四月一日 東鷹栖村立柏台中学校長
○昭和三八年四月一日 東中小学校長(第十四代)
○昭和四五年三月三一日 依願退職
○昭和四六年一〇月一日 上富良野町教育委員
○昭和四八年一〇月一日 上富良野町教育委員長職務代理
○昭和五三年一〇月一日 上富良野町教育委員長
○昭和五四年九月三〇日 教育委員長辞任
○昭和五九年一一月二日 七十五歳の生涯を閉じる 勲五等双光旭日章を受く

安井洵氏の父、金子浩氏は上富良野村の第八代村長として昭和十年七月十日に就任以来、昭和二十一年十一月まで歴任された。
安井洵氏の妻、孝子さんの父安井慎一氏は中富良野村の第六代村長(昭和三年五月〜昭和七年八月)、第十代村長(昭和十二年五月〜昭和二十一年九月)を歴任されている。土橋明次氏が本籍地の中富良野村で赦免通知を受けた時の村長が安井慎一氏であるのも、何かの因縁を感じます。

五、『土橋明次氏』波乱の生涯

安井洵氏と旭川師範学校を同期として、昭和五年三月に卒業した『土橋明次氏』は、「綴方連盟事件」と呼ばれた弾圧事件がなければ、安井洵氏と同様に上川管内の小中学校の教育界に貢献されていたと思います。
綴方連盟事件後の土橋家は、安井洵氏をはじめ多くの人々に支えられ、助けられました。
その多くの人々の心に応えられるように、各職務に誠心誠意に努力された姿が、次の『土橋明次氏』生涯の年譜から偲ばれます。

○明治四四年一一月一五日 佐賀県で土橋家の長男として生まれる
○大正二年 旭川市近文に移住
○大正七年四月一日 旭川市北門小学校に入学
○大正七年四月 中富良野村へ転居し、中富良野小学校へ転校
○昭和四年三月 庁立旭川中学校(五年制)卒業(十八歳)
○昭和五年三月 旭川師範学校本科二部卒業
○昭和五年四月 空知郡宇文小学校勤務
○昭和六年一〇月 上川郡西原小学校勤務
○昭和八年一二月 旭川小学校勤務(二十二歳)
○昭和一一年 永田鉄子さんと結婚
○昭一一年一二月二八日 長女裕子さん誕生
○昭和一四年二月一四日 次女道子さん誕生
○昭和一六年一月一〇日 治安維持法違反容疑で検挙
○昭和一六年四月三〇日 旭川小学校を依願退職(三十歳)
○昭和一六年一二月三一日 妻鉄子 東中国民学校勤務
○昭和一八年六月三〇日 懲役二年、執行猶予四年の判決、七月六日釈放(三十二歳)
○昭和一八年七月八日 妻の勤務する東中教員住宅へ帰る
○昭和一八年一〇月一日 上富良野村役場衛生係勤務(金子村長、安井洵氏の配慮による)
○昭和一九年三月 妻 上富良野国民学校へ転勤(明次の村役場勤務により)
○昭和二〇年九月三〇日 妻 上富良野国民学校退職
○昭和二一年七月二三日  長男 公三君誕生
○昭和二一年一〇月三〇日 上富良野村役場依願退職(三十五歳)
○昭和二一年一〇月三一日 北海道衛生部予防課勤務(道衛生部長金井進先生の招きによる)
○昭和二三年五月一八日 三女 豊子さん誕生
○昭和三二年一月三一日 北海道庁依願退職(四十六歳)
○昭和三二年二月一日 (財)労働結核研究会事務局次長
○昭和三四年八月一日 衆議院議員 高田富與氏秘書
○昭和三七年六月二〇日 (財)有馬記念医学財団参事(五十一歳)
医療法人柏葉会柏戸病院事務長柏葉会常務理事
○平成六年六月三〇日 柏戸病院・柏戸記念財団依願退職(八十三歳)
千葉県民間病院協会事務局長専任となる
○平成一二年一一月二六日 明次氏八十九歳の生涯を閉ず
○平成一三年五月二四日 妻鉄子さん逝去(享年八十七歳)

平成三年十月刊の『旭川小学校開校百周年記念誌』に、土橋明次氏が旧職員としての寄稿文を寄せられて、その一部に次の様に記されています。

―― あの事件から五十年経ちました。私はこの秋で満八十歳になります。真実が語られるには、五十年の経過が必要だったのかと、感慨なきを得ません。
再び、あのような世の中になってはなりません。
それにつけても、あの当時の私一家の苦労と困難を、何とか通り抜けてくることが出来ましたのは、心細がっている家族に優しく、そして温かくして下さった皆様のおかげであります。
この機会をかりて、心から厚くお礼を申し上げます。――


機関誌  郷土をさぐる(第23号) 
2006年3月31日印刷   2006年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一