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開拓の状況と入殖ルートについて

上富良野町錦町 野尻 巳知雄
  昭和十二年三月三十一日生(六十七歳)

歴史上に残る難所「空知大滝」

上富良野町から基線道路を富良野に向かって約二十分ほど車で走り、清水山を回って空知川に掛かる旧国道の橋を渡ると、滝里ダムの工事によって新しく作られた国道三十八号線に出る。そこから芦別方面に向かってまた十分ほど車を走らせて、二つめのトンネルを抜けると左手の電柱に「空知大滝」と書いた小さな標識が掛かっている。
この「空知大滝」は、松浦武四郎の《石狩日誌》や、柳本通義の《自叙伝》の日誌に出てくるように、当時は空知原野からフラノ原野へのルートとして非常な難所として知られていた処である。
この難所と言われた「空知大滝」を実際にどんな処か調べるために、国道にある標識に沿って道を左折し、ダム工事のために作られた道路に入って見ることにした。この道路は工事中は一般車両の通行が制限されていたが、今はダムを展望するための観光道路となっており、ダムを見学に来る車も少なくないようである。
国道から分かれて一キロメートルほど車を走らせると、空知川を渡ってダムサイトに行く橋があり、橋の手前に「ダム管理事務所」「空知大滝」と板に横書きした案内標識があった。道を直進するとダムの展望台に通じ、左折して橋の下をくぐり百五十メートルほど進むと「空知大滝」に出る。
=松浦武四郎「石狩日誌」から=
安政四年(一八五七)六月、松浦武四郎は北海道の内陸を調査のため空知川を上り、この空知大滝で行く手を遮られて二日ほど岩の上で宿泊しているが、当時の模様を伝える松浦武四郎の「石狩日誌」には「空知大滝」について次のように記載している。
此辺川中へ七、八間(約十三〜十四メートル)に狭りしが、此上十弐条に併びし瀑布(ばくふ)の何れも高二丈、三丈位(約六〜九メートル位)幅は二尺、三尺(約六十〜九十センチメートル)より一丈(約三メートル)余まで有を見たり。爰(ここ)にて川巾七、八十間に広まり、其東岸千畳敷とも云平岩有て此所(ここ)に止宿と定む。
余は是より東岸伝ひ行事五、六間。崖の下、岩の上を過、シヨキコマナィ、シリケシオマフ等越るや、地勢また一変して大に開け、丸木舟是(これ)より上凡十二、三里も通る由語りぬ。
余も(戊午)の春、上川よりトカチ越の時に此上を通行し、其時一見したるに凡十二、三里の平野有。
頗(すこぶ)る暖地にして地味宜敷かりし也。其源トカチ岳より来り、夕方帰り来りて瀑布の下にて土人等?(あめます)、鱒(ます)を数十尾取獲たり。
(このときは空知大滝を越えてシリケシオマフ・《尻岸馬内》現在の島ノ下付近までしか行っていない)。
このように、空知大滝は十二条に分かれ、高さが夫々六メートルから九メートルで、幅が小は六十センチメートルから、大は三メートルほどもあったと記している。
=殖民地撰定時の「空知大滝」=
また、明治二十年(一八八七)五月下旬に富良野原野の殖民地選定事業で空知川を遡上した柳本通義(一行九人)は、空知川と空知大滝について次のように日誌に書いている。
余は之より空知川に上る。空知太アイヌ一人を川案内として雇入る。翌日三艘の丸木舟にて一行一同上る。此付近、到る処陸上道路なく、少数アイヌの小屋の外人家あるなく、全く未開の地にして一行の外人跡もなく、蓼々(りょうりょう)たる別天地なり。
川口より約十三里上流に大瀑布あり、高さ三丈余(九メートル余り)川幅迫りたる大岩上より大小二、三条の滝となり落下する水勢激怒の状最も壮観にして、六月の候此瀑下に群集する鱒はさながら鱒を桶に放ちたる如く、水中真黒に産卵のため漸次上流に雌を追ひ来る雄魚と共に瀑下に集り、瀑布を飛らんとする状は実に奇観と云うべく、鯉の滝昇りとは真に此の状態を云うのならんと思う。
如斯(ぎんし)大群の魚族なれば捕漁容易にして、ズックにて袋を作り、岸壁の下で魚の飛び岸壁に当たりて落下するものは皆此の袋に落入り、数分時にして数十尾を捕う。又アイヌの漁具(ヤス)を以て突き捕獲するも容易にして、恰も生州の魚の如く食事毎に鮮魚を料理し得たり。滞在中に漁獲したる数十尾を丸焼きとし、俵詰めにして携帯す。
大瀑布は通舟不可能なるにより、アイヌをして丸き舟を造らしむ。其為約一週間此瀑布下に滞在す。
下流の舟は陸上に引揚げ、米味噌の一部は仮小屋に貯蔵し、新造船を用ひて泝上(そじょう)す。
このように松浦武四郎も柳本通義も空知大滝越えでは、共に苦労していることが伺える。
近年の「空知大滝」
しかし、不思議なことに現在残っている「空知大滝」は落差が二メートル余りしか無く、ダムでさえぎられていることもあって水量も少なく、魚が上っても容易に越えられるような高さである。松浦武四郎や柳本通義が当時遭遇した空知大滝の高さは、六メートルから九メートルと現在の三倍から五倍の高さであったとは想像もつかない現況となっている。
このなぞを解くため、「空知大滝」の地元である芦別市「星の降る里百年記念館」を訪ねて問合せたところ、「大正二年七月撮影」と墨書で裏書した空知大滝の写真と、昭和五十年四月に写した雪解け水で増水している写真をお借りすることが出来た。
写っている空知大滝の写真を見ると、やはり滝の高さは現在のように低くなっている。この二枚の写真や上富良野町史の記述(空知川の滝里の滝はソラプチという川の名の起源になっており、滝川という地名ともなって残っているが、この滝は今こそひくくなったが、過去には実に見事なものであったにちがいない。)からも、明治三十年から大正二年までの間に何らかの原因によって滝の上の岩石が崩れ落ち、滝の高さが低くなってしまったのではないかと思われるが、芦別市の学芸員長谷山隆博氏に尋ねてもその原因を調べる資料は見当たらないとの事であった。
入殖当時の道路状況
ところで、明治三十年前後のフラノ原野への入殖者達のルートはどうであったのだろうか。
ルートとしては空知太(滝川)から神居古澤(かむいこたん)を通り旭川からフラノ原野に入るルートと、空知川を上ってフラノ原野に入るルートがある。
旭川経由のルートについて当時のフラノ原野までの交通の状況を見ると、明治十九年に三笠から旭川までの仮道路が囚人によって開削され、二十二年に開通している。旭川から美瑛間の仮道路は二十四年に着工され、同年九月には忠別川に長さ十五間(二十七メートル)幅二間半(四・五メートル)のつり橋と、美瑛川に長さ三十六間(約六十四メートル)、幅二間(三・六メートル)の板橋が架けられているが、この時はまだ旭川市街地の延長線上にあって、神楽と雨紛に通じる道路であった。(旭川市史より抜粋)
十勝道路の現況
その後、フラノ原野への道路は十勝に通じる十勝仮道路として計画されたが、網走に通じる上川仮道路の開鑿が優先され、十勝仮道路は鉄道の敷設計画の浮上もあって、道路の建設は鉄道計画に合わせて進められることとなった。
当時の道路状況については、明治二十六年に上川離宮予定地の農場として西神楽まで測量が進み、農場に合わせて直線道路が開鑿されたが、その先の状況については、美瑛町史に次のような記述がある。
「二十七年に美瑛原野に入地した小林直三郎、二十八年に旭農場に入地した小野農場の三沢藤助らの話によると、西神楽十号付近までは十勝仮道があったが、そこから先はまだ刈分け道路のままで、オキキネウシ川は楢の丸太二本の橋を渡って美瑛原野に入った。」と書かれており、当時の西神楽から美瑛方面に抜ける道路は、人がやっと通れるような刈分け道路であったことがうかがえる。
フラノ原野に通じる十勝仮道路が本格的に始められたのは明治三十年で、『北海道庁拓殖年報』によると
美瑛原野「ベーベツ太」間仮道路開鑿工事二十九年貸下開始以来移住開墾に従事スルモノ漸ク増加セシモ、未タ道路ノ設ケナキニヨリ交通運搬ノ不便甚タシ。故ニ本年度ニ於テ、先以テ同原野区画ノ中央第九線ヨリ第四号線及第二線ヲ経「ベーべツ」川左岸ニ沿ウテ「ベーベツ太」迄本工事ヲ施工シ、既成道路ニ連絡シテ旭川市街地迄開通セリ。而シテ漸次本原野ヨリ「フラヌ」原野ニ連絡シテ一ハ空知川沿岸原野ニ、一ハ十勝原野ニ貫通セシメ、大ニ彼我交通ノ便ヲ計ラントス。本工事ノ延長ハ三里三十三町六間(約一五キロメートル)幅一間(一・八メートル)ニシテ、渡六尺乃至六十尺、幅九尺(渡約一・八メートルから十八メートル、幅約二・七メートル)ノ板橋十八個ヲ架設ス。本年十一月起工シ、未ダ竣工ニ至ラズ。工費金四千五百六拾七円トス。
十勝仮道路の開鑿工事は、三十一年、三十二年の拓殖年報にも記載されているが、工事完成の記述はなく、フラヌ・芽室間の仮道路開鑿工事が三十一年五月着工となっているので、三十一年五月には旭川から富良野までの仮道路の工事は完成されていたのではないかと思われる。
三十一年一月二日に草分に入植した島義空の木簡には、当時の道路工事について次のようなことが書かれている。
「移住の当時本村未開ニシ、旭川ヨリ米味噌運搬シ商店ハ石井支店ナシテ斉藤助太郎氏アルノミ 全村ノ住民催々三十戸ニ不満 三十一年三月ヨリ移住セシモノ七十有戸 商店モ年々タチ本村道路開鑿ノ初メハ北二十六号道路卜国道工事 此両工事ノ見回り帳付ヲ為シ 米壱升四十五銭 麦壱升弐十参銭ノ高ノ事アリ 本村ノ草分当時ノ現況ヲ記ス 元 愛知県三河国嶺田郡河合村才栗ノ住人 僧島義空誌ス」
これによると、上富良野で最初の道路工事は二十六号道路と国道までの区間の工事で、その区間を当時の殖民地区画図から見ると、二十六号道路は西二線フラノ川からコルコニウシュベツ川までの区間となり、国道は北三十号草分から北二十五号までの区間が該当している。
空知川沿岸ルート
もう一方の滝川・富良野間のルートをみると、明治二十四年七月に岩見沢・歌志内間に北海道炭鉱鉄道会社によって鉄道工事が完成したことから、歌志内までは多くの開拓者が鉄道を利用している。
歌志内からは、空知川に沿ってけもの道と言われている刈分け道路を上ることになるが、途中の空知大滝が行く手を塞ぐ難所となっていた。当時のこのルートによる仮道路の開鑿についての資料はほとんど見当たらないが、拓殖年報による仮設道路の整備では、明治三十年に旭川・下富良野間と、歌志内・下富良野間が同時に着工したとの記録がある。
滝川市史には「空知川沿岸道路は中途にすこぶる工事の難所があって、仮県道滝川・下富良野間五里十一町五間(約二〇キロメートル)が馬車の通れる程度になったのは、明治三十九年頃のことである。」と記載されている。(鉄道の開通はもっと遅く、明治四十三年に着工して完成は大正二年十一月である)
開拓者の入植ルート
このようにまだ仮道路の無かった開拓以前の現状では、フラノ原野へ入殖するルートとして、距離は長く遠回りになっても安全なルートである三笠から旭川を回るルートを選ぶか、距離は近いが難所である「空知大滝」を越えるルートにするかの選択に、大いに悩んだのではないかと思われる。
実際にフラノ原野への入殖ルートを探る手だてで、上富良野に残されている最も古い資料としては、フラノ原野の開拓が始まって五年後の明治三十五年に開拓者が記録した「木簡」がある。この木簡は、明治三十五年十月十五日に草分神社の創紀の際、開拓者が家族や自分の経歴等を記して奉納したもので、木簡には当時の様子や出身地などが記録として残されている。
その木簡の中で入殖ルートに関係のある記述の木簡を探して見た。
明治三十年五月二十八日に入殖した斉藤助太郎は、「明治二十九年三月二十九日札幌に移住仝年四月二十日深川に来たり仝年十二月三十一日永山番外地に入り明治三十年五月二十八日本村移住者の不便を思い来住し合掌小屋を建設し荒物商を開営せり(以下省略)」と記している事から、旭川からの入殖であることがわかる。
同年七月二十日に入殖した佐々木乙吉は「明治三十年三月二十九日内地渡船し仝年四月五日歌志内村へ着し仝年七月二十日富良野原野へ到着す(家族七人)」との記載から歌志内まで鉄道を利用しており、空知川沿いのルートを選択したのではないかと思われるが、歌志内からの日数が掛かっているので或いは旭川回りかも知れない。
また、明治三十三年七月に入殖した伊藤喜一郎の木簡には「明治三十年九月十三日父喜太郎外弟二名都合壱戸四名にて空知郡岩見沢村より中富良野に移住す居る事一年余三十三年七月上富良野市街地宅地貸付得て建築移転す」との記載がある。
また「中富良野村史」(昭和二十九年版)には同じ伊藤喜太郎について「伊藤喜太郎氏は富山県西蠣波郡石黒村大字前田の人で、明治二十五年四十七歳の時妻に死別後三児を伴って(喜一郎十一歳、万喜次八歳、正信五歳)岩見沢の郊外幌向原野に居住し、開墾に従事し、此の地で西崎源衛門氏と相識り、長男を西崎氏の元に奉公に出したのであった。この西崎氏は明治二十八年中富良野に於いて合力農場の交付を受けたので、その番人として次男三男の二人を連れて旭川経由で来村したのであった。(長男は三年後に来村)」と記載されており、岩見沢から旭川ルートを利用して入村していることがわかる。
このほかの旭川回りで入殖した資料では、上富良野町史(昭和四十二年版)による三重団体長をつとめた田中常次郎の記述で、「明治三十年五月十五日に平岸を出発し、空知川沿いのルートが家族連れでは無理なため、旭川回りを選び平岸、滝川、音江村を通過して十五日の晩はアイヌの旧地神居古澤の台場ケ原で野宿し、美瑛からフラノ原野へ入殖した」と記載されている。
(十五日に平岸を発って神居古澤まで約八十キロの道を一日で歩くことは不可能と思われ、日にちについては誤りがあると思われる。)
このように、フラノ原野への入殖はほとんどが遠回りでも安全な旭川ルートを選び、空知ルートは「空知大滝越え」が難所で女性、子どもには危険なため利用が少なかったことがうかがえる。また、入殖のためにはいろいろな生活物資も必要であり、旭川で物資を購入して運ぶ必要があったことも旭川回りのルートを選んだ大きな要因と思われる。
また、自叙伝「柳本通義の生涯」(神埜努著)によると、柳本通義は明治二十年のフラノ原野殖民地選定事業の調査の途中で、父通徳急病の知らせに一度札幌まで引き返しているが、父の病気が回復に向かっていることを知り、再びフラノ原野の調査に戻ったときは、空知大滝を回避して上川(旭川)経由で戻っている。
その他のルート
空知川を上るルートでは、空知大滝を挟んでいろいろなルートが考えられているが、中でも岸本翠月氏の「富良野地方史」による《アイヌ道として、現在の道々芦別・美瑛線の野花南から二股に抜ける道をルートに選んでいた》とのルートは、地形から見ても開拓の状況から見てもこのルートを当時の入殖者が通ったとは考えにくい。(もし、このルートが使われていたとすると、中富良野の吉井農場のように江花の奥地で開拓の鍬が早くに入っていたことが予想される。)
やはり難所であっても空知大滝を越えて空知川を上るルートと、島ノ下から奈江川に沿って中富良野の奈江に出る現在の町道のルートを通ったことの方が自然である。
開拓当時のフラノ原野の状況
フラノ原野の殖民地区画の測量は「上富良野志」(明治四十二年刊)では、明治二十九年に行われたと記述されているが、その当時の背景を考察してみたい。
明治十九年から行われた殖民地選定事業と区画測量事業は、道庁第二部殖民課の所管で小野兼基課長の下に内田瀞、柳本通義、福原鉄之輔の三人が主任となって進められた。その後殖民地選定事業を急ぐために、調査員を十一組に増やし、二十一年には福原鉄之輔が室蘭群長に転出したので内田と柳本の二人が全体の監督を勤めることになった。区画測量は明治二十二年に新十津川村の移民土地割当を機縁に、殖民地選定事業と合わせて進められた。
明治二十七年十月に内田瀞が突然に休職を命じられたため、監督の仕事は柳本が一人で行うことになった。明治二十九年四月今度は柳本が台湾へ赴任することとなり、殖民地選定と区画測量の事業は内田瀞が復職を命じられて引き継いだ。
明治三十年三月フラノ原野に出張
北海道開拓記念館に残されている内田瀞の日記では、復職後の事業として明治二十九年六月から九月までは十勝地方の区画測量を手がけており、十月には北見地方の区画測量事業を行っている。
内田瀞は明治三十年三月にフラノ原野に出張して、秋には雨竜郡幌加内原野に出張したが、十一月にはまた、突然「非職」を命じられて雨龍の内田農場に戻っている。フラノ原野の区画測量の年度を知る資料はあまり多くは無いが、内田瀞の日誌等から直接事業現場のフラノ原野へ行ったのは明治三十年三月であることから、二十九年に行った測量技師達がそのまま区画測量を継続して実施し、その結果を翌年に内田瀞が実地検査を行ったのではないかと思われる。
明治三十年四月二十九日付の「北海道毎日新聞」で、空知郡フラヌ原野の状況を視察し、この程帰札した某氏の談話で、『フラヌ原野の概況』として、土地の実情、利用方法などを詳しく掲載されているが、これなどは、内田瀞によるものと推察される。
=明治三十年四月二十九日「北海道毎日新聞」=
◎フラヌ原野の概況 本年度貸下らるべき殖民地の内空知郡フラヌ原野の状況を視察し此の程帰札せられたる某氏の談話によれば 同原野は交通極めて不便にして目下同原野に通ずるには上川郡旭川村より此間凡そ十一里ありて旭川村より美瑛までは平坦なれども美瑛よりフラヌ原野の間は地勢漸(ようや)く高くいわゆる高丘なるものにして所々に沢あるを以て之を利用すれば放牧地として適当なりとす フラヌ原野は南西より北東に延長して凡そ五里(約二十キロメートル)幅員凡そ二里(約八キロメートル)あり原野は上川より入り口に当たる百万坪(一坪約三・三〇五平方メートル)と空知川沿岸若干坪は草原なれどもその他は皆樹林地にして中央に面積凡そ百五十万坪の泥炭地あり 地は概して肥沃にして水利の便最も宣きを以て水田に適せり 開墾は樹林地にして湿地多き故甚た至難なり 気候は東南に開けあるを以て温暖あり 積雪は上川よりは少なしと雖(いえ)とも夏季の暑熱は同様ならんか 交通不便なれども本年は空知太より同原野に通ずる道路を開鑿(かいさく)することとなりまた美瑛よりも仮道を築く由なればこれらの道路開通せば目下のごとき不便は除去せらるならん 樹林地には椴松(とどまつ)、蝦夷松(えぞまつ)等の針葉樹多きを以て建築用材に乏しからず 移住後家屋の建築には不便を感ずる憂(うれ)いなからん 要するに同原野は四方山岳を以て囲繞(いのう)せらるると雖とも十勝へ達する鉄道線路の予定地に当たるを以て他日鉄道敷設せらるるあらば交通上一層の利便を有するを得べく而(しか)して地味肥沃にして水利に富み水田に適するを以て良好なる殖民地として見るを得べしと
草分神社奉納木簡記事と市町村史との矛盾
先に書いた伊藤喜太郎の入殖ルートの記事で、草分神社に奉納された伊藤喜一郎入殖の記録を書いた木簡の記事と、「中富良野村史」(昭和二十九年版)西中郷土史「風雪の歩み」(昭和三十七年版)などに書かれた資料とに大きな違いがあることが分かった。
木簡では、『明治三十年九月十三日父喜太郎外弟二名都合壱戸四名にて空知郡岩見沢村より中富良野に移住す居る事一年余三十三年七月上富良野市街地宅地貸付得て建築移転す』と記載されているが、「中富良野町史」、「西中郷土史」「富良野地方史」の記事では『伊藤喜一郎の父伊藤喜太郎は明治二十八年に中富良野西一線北十九号に入地した』との入殖年度の違いである。
また、「中富良野村史」には、この記事に続いて次のようなことが書かれている。「この時測量は(殖民区劃設定と思ふ)東中の十八号方面を測量中であったが、合力農場は湿地の上樹林のため居住することが出来ず、測量の役人に請ひ、西一線十九号の萱原を貰い受けて開墾したのであった。 −中略− 合力農場は開拓不能で引揚げられたが、二十九年に三重団体、三十年に石川団体の先発隊が来村、西村氏(西崎氏?)は夫一人が来村してこの伊藤氏の宅から小屋掛に出たのであった。」と記載されている。
これらの記述には、「木簡の記載事項」の記述と比べるとその内容に大きな矛盾があることが分かる。
この矛盾の真偽を確かめるため、北海道図書館、岩見沢市立図書館、旭川市立図書館などに出向き「岩見沢市史」「岩見沢郷土史」などの関係資料で幌向に入地した農場、開拓者名などについて調べて見たが、その中には残念ながら『西崎源衛門氏』の記述はどこにも見当たらず、西崎源衛門氏と合力農場との関係を確認することは出来なかった。
二十八年の「合力農場」貸下げの記述について調べた。当時の「北海道土地拂下規則」は明治十九年に制定され、主に大規模面積の払下を中心に進められてきていたが、思うように開拓が進まず、二十四年ころから「北海道殖民地撰定報文」「北海道移住案内」などの刊行と、二十五年に「団結移住に関する要領」が定められてから、ようやく各府県に移住の気運が高まってきた。しかし「北海道国有未開地処分法完結文書」を見ると、石狩国空知郡(滝川、岩見沢、栗沢)では明治二十七年には僅か五名が入植した程度で、多くなってきたのは二十八年以降からで、ほとんどが区画整理に合わせて入殖しているのである。
団体移住などに対する土地の無償貸与と成功後の無償付与の制度ができたのは、三十年の「国有未開地処分法」ができてからであるが、フラヌ原野の開放が遅れた原因は、このほかに道庁の特別な政策によることも知られている。
フラヌ原野の開放は二十九年十二月から
このことについては、「上富良野百年史」に詳しく記載されている。
「道庁では殖民地の選定が行われた原野をただちに開放するのではなく、道路、鉄道、港湾などの殖民地へのアクセスの整備など、《移住環境》の整備に合わせて漸次、解放する政策を取っていった。
フラヌ原野は石狩国に属していたものの、明治二十六年三月二十四日の石狩国一円の土地貸下げが実施された際、フラヌ原野と隣接地(北はビエ・ベベツ川に至る原野、並びにナイタイベ川より石狩川左岸に沿いオキリカツト川に至る原野)は、《漸次区画割を施し、整然区画割を為せる後之が貸下げを為すの方針なり》との理由により、開放されていなかった。
その後、十勝線の道路と鉄道の計画が決定され、二十九年十二月二十五日に賃下げの告示がだされたのである。」
これらの記載事項から、明治二十九年十二月二十五日以前には、フラヌ原野の貸下げが行われておらず、合力農場が二十八年に交付を受けていたことは、考えられないことである。
このほか、入殖当時の小屋掛けの状況を知る資料として、明治三十年四月にフラヌ原野の調査に訪れた内田瀞のスケッチ「忠別・フラヌ間略図」(和紙半切判・開拓記念館所蔵)がある。この図面を見ると、地図の上には四カ所の人の住む家(拝み小屋)と思われる地点が四角く記されている。
その地点を現在の地図に合わせて見ると、一ヶ所は現在の美馬牛市街付近であり、二点目は二十七号の草分地区付近で、コルコニウシュベツ川とピリカフラヌイ川の合流地点の付近である。三点目は日の出山の麓付近に当たり、ここには「文太郎」と人の名前が記されている、もう一ヶ所は鳥沼付近に印がされている。この地図を見ても西中付近に人が住んでいたという印は見当たらない。
三十年三月に内田瀞が富良野原野を調査に来たときは、まだ開拓者のほとんどが入地しておらず、(富良野原野開放の告示により二十九年には三重県からも事前に現地の探検に訪れているが)入地が始まったのは草分神社に残された木簡に記されているように、三重団体の三月三十日(後述)が最も早い入殖でなかったのではないかと思われる。
これらの状況から判断すると、明治二十八年に「合力農場」が道路も区画も整理されていないフラヌ原野に貸与を受けていたことについては、当時の関係者の記憶違いか聞き違いである可能性が高いと考えざるを得ない。
「合力農場」は共同経営の意
この「合力農場」については、上富良野町史(昭和四十二年版)に次のような記事が記載されている。
「合力農場は、中富良野市街地と福井団体の間にあった農場で、阿部戸助右衛門、渡辺虎吉、西ケ佐古三の三氏共同で経営したので合力と名づけられ元三十戸分で、明治三十年の着手であった。」
この記述と、合力農場の管理人として二十八年に伊藤喜太郎が入殖したと言う記述とは、大きな矛盾があるが、
《伊藤喜太郎が西崎源衛門氏の委託を受け、二十八年に農場貸付の予定地として視察探検に中富良野へ入地し、三十年にあらためて入殖・開墾に当たった》
と考えると、伊藤喜一郎が三十五年に草分神社に奉納した木簡の記述と、喜太郎が中富良野へ入殖した年度との矛盾が無くなってくる。
その他の原因で伊藤喜太郎が二十八年に入植したと考えられることは、「無願開墾」と言われた無許可による移住開墾であるが、この理由では草分け神社に奉納した「木簡」の記述とそぐわなくなる。
また、「中富良野町史」には伊藤喜太郎の入殖当時の状況として、次のような記述がされている。
「当時必需品の購入は西神楽の旭農場の店まで行ったのであるが、十歳に満たない正信氏も父に従って買い物の往復をしたのであった。農作物は燕麦、馬鈴薯、野菜等で、測量の役人及び人夫、鉄道の測量及び建設人夫等に野菜を売って現金収入を得たのであった。 (中略) 当時アイヌの狩猟する者の往来があって、(旭川アイヌ)共同で貉(むじな)を取ったこともあった。交通は西の山にアイヌ道、測量者の通行する道が僅かに歩行が可能であった。川には大木を切り倒してそのまま一本橋にして架けてあった。」
この記事から開拓当時の農産物は、燕麦、馬鈴薯、野菜が主で、道路はアイヌが通った人が一人通れるような細い道があるのみで、道らしい道も無かったことから、開拓当時の交通がいかに不便であったかについての様子をうかがい知ることができる。
歌志内村と富良野村の関係の誤り
岸本翠月氏の編纂による「上富良野町史」及び昭和六十一年に発刊された「中富良野町史」また、その後に発刊された「南富良野町史」「富良野市史」等の記載の中で、明治三十年七月一日付けで告示され誕生した富良野村と歌志内村との関係についての記述で『歌志内村富良野村組合戸長役場』、あるいは『歌志内村と富良野村との組合関係にあった』、また『滝川村奈江村組合戸長役場』との記載はすべて間違いで、明治三十五年以前は「組合戸長役場」の表現は使われていないのである。
市町村自治の基本となる「市制・町村制」は、明治政府によって明治二十一年四月十七日に制定されたが、明治十九年に内務大臣の井上馨が山縣有朋と共に道内巡視した意見書で
『北海道の中にいちおうの市街地・村落が形成されるところがあるにしても、大部分は開拓地で、移民は一般公共の費用を負担する余力が無いために簡便な制度を設定し、之が基礎を確立するを待って漸次本道地方制度の完成を期するが適切である』
との意見により、制度設定の指標として人口、経済力、集落の景況を見ながら制度の施行と、改善が進められている。特にその内容は内陸部の開拓の間もない小さな町村にはそぐわないため、明治三十年に新しく「区・一・二級町村制」の制定改正が行われたが、道庁は北海道ではまだ未開発の地域が多く、本州と同様の施行は時期尚早と反対し、施行はしばらく延ばされていた。
「二級町村制」については明治三十五年二月二十一日付で全文が改正されて、四月一日に札幌村外六十二か町村に施行され、ようやく日の目を見ることとなった。
「組合戸長役場」の名称は明治三十五年から
つまり、明治三十五年の「二級町村制」の改正によって細かな規定が設けられ、その中に「単独で町村事務を維持できない場合の一部あるいは全部事務組合役場の設置」についての規定が初めて作られ、この改正によってようやく戸長役場が複数の町村による事務組合によって運営されることになったのである。
このことから、「事務組合役場」の名称は明治三十五年以降の二級町村制の改正によって使われるようになったものであり、明治三十五年以前の戸長役場はあくまでも「歌志内・富良野戸長役場」又は「歌志内村外一ケ村戸長役場」として表現されることが正しく、「歌志内村、富良野村組合戸長役場」と表現することは間違いであると言わざるを得ない。ちなみに明治三十年に制定された一・二級町村制について「新北海道史」によると、
『北海道の一・二級町村制の施行状況では、その当初において施行をみたのは、ほとんどが沿岸地帯、すなわち漁業もしくはこれを背景にした流通の拠点である。内陸部で顕著であるのは、札幌近郊・帯広周辺にすぎない』と記載されている。
岸本翠月氏が明治三十五年以前について「組合戸長役場」と表現したのは、明治三十九年の勇払郡占冠村と下富良野村との組合戸長役場の関係が、理論的に歌志内村と富良野村との戸長役場関係が類似していたので、勘違いされたのではないかと思われる。上富良野町史(昭和四十二年版)にある戸長役場の系譜図の中で、「滝川村奈江村組合戸長役場」の表現があったので、念のために奈江町及び滝川市に照会したところ、「滝川村奈江村組合戸長役場」の表現については当然ではあるが、双方とも歴史関係資料には記載がされていないとのことであった。
この表現については、昭和三十八年以前に岸本氏が編纂した各市町村史には、「組合戸長役場」の表現が見当たらないが、三十八年以降の編纂から間違った表現が出てきている。(昭和六十一年発刊の「中富良野町史」には、《組合戸長役場》の表現はされていない。)
「空知郡歌志内村大字富良野村」の記述
郷土をさぐる二十一号の松井博和氏著「松井家六代のあゆみ」の中で、戸主松井仙松の除籍謄本が紹介され、その中に
「そして最後には大きな筆字で、《明治三十二年一月十四日、北海道石狩国空知郡歌志内村大字富良野村上フラノ第四線百六十三番地へ転籍届出 同月十四日同村戸籍吏三上良知ヨリ届書副本発送 同月二十一日受付除籍》との記述がありました。」
と記されている。
このことについて、明治三十年七月一日に「石狩国空知郡ニ歌志内村・富良野村ヲ置ク」と告示されており、歌志内村と富良野村は戸長役場が歌志内に置かれていたが、「歌志内村大字富良野村」の表示が本当であるとすると、今までの歴史が大きく変わることにもなりかねないので、その事実確認の資料を探すことにした。
上富良野町役場戸籍係を訪ね、事情を話して事実確認のために関係資料の調査をお願いしたが、『戸籍の記載事項は個人のプライバシーに関わることなので、関係する親族以外の方の資料請求や調査は出来ません』と、あっさり断られてしまった。
たまたま、松井家の親族で松井勇氏が戸籍係の仕事に携わっていたので、松井氏にお願いして歌志内市役所へ「歌志内村大字富良野村」の松井家の戸籍について照会してもらった。しかし、電話では良くわからないとのことであり、プライバシーの件もあるので、「かみふらの郷土をさぐる会」の会長名で歌志内市長宛に事実確認の調査をお願いし、後日直接市役所を訪問して資料の確認をすることを編集委員会に相談して了解をいただき、十月中旬に歌志内市役所を訪れた。
歌志内村・富良野村の発足時は奈江村の戸長役場で
歌志内市役所では、先にお願いしてあった「歌志内村大字富良野村」の件について話をすると、さっそく当時の除籍簿を出して来てくださり、係の方と一緒に「歌志内村大字富良野村」についての記事を探したが、当時の富良野村関係の除籍簿は富良野村戸長役場が開設された時に富良野村へ異動されていたようで、「字富良野村」に関する戸籍については歌志内市には何も残っておらず、残念ながら事実を確認することは出来なかった。
その折、歌志内市役所の担当の方から、『戸籍法が改正(昭和三十六年)されて、除籍簿の保存期間は八十年になっているので、もう関係戸籍を探すのは難しいのでは』と話され、上富良野へ戻っても事実関係を調査することはもう出来ないのではないかと心配したが、上富良野町で松井勇氏の先祖の除籍謄本を取ってもらったところ、意外にも除籍謄本には今まで疑問に思っていた内容の記述がほとんど記載されていたのである。
その戸籍を見ると、戸主は松井為四郎で本籍欄には「北海道空知郡奈井江村字歌志内〇〇〇(○の箇所の文字は判読不明)」と書かれ、その右横に「上富良野村字中富良野西(東)四線百六十七番地」と書かれているほか、「百六十七番地」と「西」を線で消して「北九十七番地」と書き足してある。左横には「明治三十年八月廿六日富良野村第四線百六十七番地ニ移ル」と書かれている。
また、本籍が書いてある枠の上部には「明治丗年七月十二日三重県志摩郡波切村七百六十五番屋敷ノ二ヨリ転籍来住」と記載されており、戸籍の異動事項の欄には、「明治三十年六月廿五日三重県志摩郡波切村七百六十五番屋敷ノ二松井仙吉弟分家」の記載が載っている。
また、父仙三郎の異動事項欄には「明治三十七年参月弐拾六日空知郡上富良野村字上富良野西四線百六拾参番地戸主松井仙松父入家届出仝日受付入籍大正弐年壱月弐拾参日空知郡上富良野村字上富良野東四線北九拾五番地分家届出仝日受付」の記載がある。
この戸籍の記載事項から、明治三十年六月二十五日に三重県志摩郡波切村七百六十五番屋敷ノ二松井仙吉の弟松井為四郎(仙三郎四男・明治十三年十二月四日生)が分家し、明治三十年七月十二日に富良野村字上富良野へ転籍すべく手続きを行ったところ、歌志内村・富良野村は明治三十年七月一日に奈江村から独立の告示が出されたばかりで、まだ戸長役場も出来ておらず、(戸長役場が出来たのは七月十五日)戸籍手続きはまだ奈井江村戸長役場が扱っていたために、「北海道空知郡奈井江村字歌志内〇〇〇」と番地不明のような記載になり、「富良野村」を「上富良野村」と誤った記述や、「歌志内村大字富良野村字上富良野」といった記事になったのも歌志内はともかく、富良野村は区画整理もまだ定まっていなかったのが原因ではないかと思われる。
これらの記載から当時の戸長役場の混乱ぶりを伺うことができる。
最も古い年月日の木簡は松井家
松井家の入殖について、先に書いた草分け神社に奉納した「木簡」の「松井家」の記述を参考にすると、
「明治三十年三月三十日
三重県伊勢国志摩郡波切村七百六十二番地
平民農 戸主 松井仙松
北海道石狩国空知郡上富良野西四線百六十三番地未開地移住
松井仙三郎 六十四歳 なつ 五十歳
戸主 松井仙松  三十五歳
妻 松井はな  三十二歳
  くすへ  十四歳
  とめ   十一歳
長男 松井国松    六歳
次男   仙作    四歳
長女   とき    八歳
妹   よしへ   二歳
三男   富之助   一歳」

「明治三十年三月三十日三重県伊勢国志摩郡波切村生出出立付
当地移住上富良野西四線道北廿七号百六十一番地
戸主 松井為三郎
妻   こわき
長男   福太郎  家族三人」
と記載されている。
木簡の記述によると松井家は明治三十年三月三十日に三重県伊勢国志摩郡波切村を出立して北海道に渡り、最初は上富良野の西四線北二十七号に入植し、その後、大正二年に東四線北十六号に移住したことが、木簡の記述と戸籍の記戴事項から読み取ることができる。
参考文献
「赤平八十年史」(昭四十八年)市史編纂委員会編
「新芦別市史」(平六年)市史編纂委員会編
「芦別市史」(昭四十九年)岸本翠月、竹林利彦著
「中富良野村史」(昭二十九年)村史編纂委員会編
「北海道移民史」(昭九年)道庁拓殖部編
「新旭川市史」(平六年)市史編集会議編
「新札幌市史」(平十二年)札幌市教育委員会編
「新篠津村史」(昭五十年)村史編纂委員会編
「上川開発史」(昭三十六年)上川開発史刊行委員会編
「岩見沢市史」(昭三十八年)市史編纂委員会編
「岩見沢郷土史」(昭二十九年)岩見沢教育研究所編
「北海道市町村制度の研究」(昭六十年)鈴木英一著
「北海道国有地未開地処分法完結文書」北海道庁編
「美瑛町史」(昭三十二年)美瑛役場編
「上川開発史」(昭十五年)鴻上覚一著
「風雪の歩み」(昭三十七年)林 幹人著
「中富良野町史」(昭六十一年)町史編纂委員会編
「新北海道史」(昭四十八年)北海道編
「富良野地方史」(昭四十四年)岸本翠月著
「新歌志内市史」(平六年)市史編纂委員会編
「滝川市史」市史編纂委員会編
「奈井江町史」町史編纂委員会編
「上富良野町史」(昭四十二年)岸本翠月著
「上富良野百年史」(平十年)町史編纂委員会編
「北海道大百科事典」北海道新聞社編

機関誌  郷土をさぐる(第22号) 
2005年3月31日印刷   2005年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一