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北海道遺産 土の博物館「土の館」の歴史

上富良野町 田中 正人
  昭和二十三年四月十五日生(五十六歳)

「土の館」北海道遺産選定なる

北海道遺産構想推進協議会(会長・辻井達一)は、平成十六年十月二十二日、上富良野町が郷土の誇りとする土の博物館「土の館」を北海道遺産として選定した。
北海道遺産は、道内のかけがえのない自然や建造物などを後世に引き継ぐ事を目的として、平成十三年十月に第一回選定分として二十五件を選定公表された。
今回の北海道遺産には千三百十一件もの応募があり、第二回選定分として最終的に上富良野町の「土の館」を含む二十七件が北海道各地から選定されたのである。
北海道遺産構想推進協議会には、北海道遺産選定専門委員会に【北海道遺産】という称号が存在し、その選定専門委員会の委員長には札幌大学文化学部教授越野武が選任され、自然、歴史、産業、生活・文化、建築の各分野の専門家六名で横成された委員会で北海道遺産の選定が行われた。
北海道遺産構想推進協議会の歴史は浅く、一九九七年(平成九)に当時の北海道知事堀達也の堤唱により採択され、一九九九年(平成十一)に構想推進協議会を設立。北海道遺産の選定活動が開始された。
博物館「土の館」建設の経過
一九九二年(平成四)七月一日博物館「土の館」が正式に開館した。館長にはスガノ農機株式会社に長年奉職した穐吉忠彦が就任した。
穐吉氏は昭和五年網走管内常呂町字豊川に生まれ、昭和四十二年まで同地で農業を続けていた。
翌年、二代目菅野良孝社長の誘いによりスガノ農機に入社し、美幌営業所に勤務。昭和五一年に専務の要職に就き、平成二年「土の館」開館に奔走する。
「土の館」建設の構想は、三代目菅野祥孝現社長の深い思い入れと、祖先の思いを永く後世に伝えたい強い意志の表れから実現した博物館であり、その伝導的役割を果たす使命を穐吉氏に託し、館長を命じたのである。
その穐吉氏によると、一九一七年(大正六)二月、菅野豊治によって菅野農機具製作所が創業され、幾多の困難変遷の後、一九四六年(昭和二十一)に満州から引き上げ、帰国して再開業された時に始まる。この時『プラウを作って日本中に出すんだ』という父豊治の意志の表れである言葉を一身に受け止めた、当時十三才の祥孝現社長の強い思い入れの思想が「土の館」を形作ったと熱く語る。
この思い出深い再開業にこぎつけた旧工場を、祥孝社長は《労作為人記念館》と名づけ、フイゴや金敷き、古い畜力農具等を展示。一九七六年(昭和五十一)から、来客者に観覧していただくなど有意義に利用されてきた。その二年後には、社員と有志が寄付金を募り、創業者ご夫妻の胸像を記念館の中に建立した。
この頃には木造の記念館は竣工から約三十年の年月を経過し、相当に傷んでおり、社長は『この建物を何とか風雪から守り、永く後世に伝えたい。できることなら創業の地である上富良野、先人達の眠る丘陵に移し、土に関わりを持った研修館なども建てて、農業に役立つ施設として残したい』と、小さな企業が夢のような大きな願いを心の内に持ち続けていた。
一九九〇年(平成二)の始め、その構想は「土の館」と命名されたが、具体的な建設は費用や用地等から夢物語りの状況であったという。
しかし、五月には土の館建設準備室がつくられ、具体案もお金もなしの状況の中から夢の実現に向けスタートが切られ進められた。先人の導きでしょうか、八月になると同町内の星山商事会社から、旧工場用地の譲渡希望話が持ち上がり、十月二日には売却契約を締結し、「土の館」建設資金の目途もつき本格的な設計作業に入った。
施工を潟Aラタ工業に託し、一九九一年(平成三)九月総工費約三億円で竣工。十月から仮オープンし、一九九二年(平成四)七月一日正式に開館する運びとなった。
博物館「土の館」の展示
土の館には、先に記した創業者の菅野豊治を讃える《労作為人記念館》のほか、農業関係の博物館として実物展示も多く、館内の二階には、日本各地から取り寄せた土層の標本(モノリス)が数多く展示されている。
とりわけ、明治三十年、富良野原野に開拓の鍬が下ろされてからの三十年間と、尊い命や耕地被害田畑約四百八十ヘクタールを一瞬にして泥海化した、大正十五年の十勝岳大爆発による泥流土を標本にしたものが展示されているのが特に目を引く。
この爆発大被害は、上富良野の財政と農業に甚大な損害を与えたばかりでなく、酸性鉱毒による被害で草木一本生えないであろうといわれたものであった。
この復興には、泥流の比較的浅い三十センチ未満のところは泥流土を除去し、それより深い所は運搬客土等を施す事によって、作土を確保し、作物の生育に適した土壌へと徐々に改善されて行ったのである。
モノリスは、草分地区の「フラワーランドかみふらの」社長である伊藤孝司氏の水田より採取されたもので、災害復興を見事遂げた先祖伊藤家の魂がこもった貴重な資料でもある。
『土は千年で約二cmの層を堆積することを考えると、災害の大きさを知るとともに、そこから復興に立ち上がり土づくりを成し遂げ、現在の田畑を作り上げた人々のたくましさを、後生に伝えていかなければならない』と館長の穐吉氏は力説する。
この他「世界のプラウ」の展示のほか希少価値の高いものも多く所蔵しており、北海道開拓における農耕具の歴史をつぶさに見学出来る展示コーナーもある。
一九九三年(平成五)農機具伝承館を建設開館、昭和三十年代のトラクタを十七台展示。
一九九四年(平成六)トラクタ展示の拡充のためトラクタ博物館を増築、展示車両計四十台。
一九九五年(平成七)プラウ館を建築開館、新製品などを展示。博物館は徐々に体裁を整えていった。
開館時には有料であった入館料を平成九年にはスガノ農機操業八十周年記念謝恩を契機に無料とした。
平成十三年にはトラクタ博物館を増築。トラクタ展示車両は合計で八十台となり豊富で充実した展示内容となった。
この年には、土の館開館十周年と北海道トラクタ営農五十周年を記念して「世界のクラシックトラクタ博」を二ケ月間開催した。
百年前の蒸気トラクタ(重量九トン)を由仁町の三谷耕一氏より寄贈いただき、八十年ぶりに走る勇姿に、入館者から驚きの声が上がった。期間中の入場者は三万人を越える盛況ぶりであった。
入館二十万人を達成
北海道遺産として認定後の平成十六年十二月十八日には「土の館」入館者二十万人を達成した。同日上富良野町関係者が発起人となり、北海道遺産認定を祝う会も開催され喜びに包まれた。
菅野祥孝社長は、『北海道遺産選定に授かることは、開祖先人の偉業の縦承を天与の奇跡と受け止め、この重責をさらに未来遂行へと意を注ぐ』と、決意のこもったお礼の言葉を述べた。
選定された遺産「土の館」を今後どの様に次世代に引き継ぎいで行くのか、町を含む関係者にとっても大きな責任を負う事になった。
設立わずか十三年の歴史の浅い「土の館」が、なぜ認定を頂く事が出来たのかは、これから後述する菅野家の歴史に触れなければならない。
  ◇      ◇
菅野家の歴史をさぐる
上富良野郷土をさぐる会が発行している機関誌「郷土をさぐる」が二十一巻発刊された中で、上富良野の起業家として一代を築き上げたスガノ農機の歴史の取り上げが遅れた事は、意外な事でもあると感じられます。
土の館の歴史を語るには、その底流にあるスガノ農機の歴史そのものをひもとく必要に迫られる事にもなります。
私(筆者)の弟忠重が、茨城県のスガノ農機本社事務所に昭和五十九年よりお世話になっている縁もあって、若輩者の私が由緒ある菅野家の歴史をさぐる担当になったのも、日頃お世話になっている恩返しの意味を込めて引き受けた次第であります。
郷土をさぐる初代会長の金子全一氏は、生前「土の館」開館に寄せて創業者《菅野豊治を語る》を執筆していますが、スガノ農機の歴史と現在の社長祥孝氏の強い思い入れが充分伝わって来ます。原文はどなたにでも分かり易く纏められており、完成度も高く本文を要約すると内容に現実味にも欠ける事にもなり、了承を得て、それに年譜、事実関係等を聞き取り推敲を重ね加筆しました。
創業者菅野豊治
スガノ農機の創業者豊治は、七人兄弟の六番目として、一八九四年(明治二十七)、九月一日宮城県中津山村(現桃生町)で生まれている。
一九〇六年(明治三十九)六月、十二才のとき、豊治は父や母たちと一緒に上富良野村清富(現在の清富小学校校門付近)へ、開拓農民として引っ越し、農業に従事した。
一九一〇年(明治四十三)一月、十六才のとき、現在空知商工信用組合上富良野支店の所に松岡鉄工場があり、そこへ丁稚奉公に入った。
朝は暗いうちから鉄を焼いて打って、クワやマサカリなどを作り、夜は早く仕事を終わらせ、同輩の佐藤敬太郎(昭和二十六〜四十二年に町議議員)らと、金子マルイチ幾久屋商店(現在の錦町二−三−二五)の前で楽しく遊んでいた。
独立開業
奉公があけて、一九一七年(大正六)二月二日、豊治二十四才の時、現在の越智建設(栄町二−二−三四)の場所で、菅野農機具製作所を開業した。
クワ・マサカリや山林用具などを作ったり、プラウの修理をして生計を立て、清富から両親を呼び寄せ一緒に生活を始めた。
次の年の春には、プラウの修理が百二十台にもなった。研究熱心な仕事ぶりは評判が良く、農家の景気が良かったのと、人力から畜力に農作業が移って行った頃でもあり、お店の中はいつも農家の人々が入れ替わり立ち替わりで、大変にぎわった。
この時代の開墾は、道具も揃っていなかったので大変苦労していた。また、未墾地でのプラウ耕は、石や木の根などが多いためプラウが曲ったり減ったりしたので、豊治はそれを一生懸命に修理を行った。
そんな姿を見ていた三枝甚作(明治九年、北海道開拓に富山県新川郡加積村から入植、札幌で馬耕の技術を習得。その後人夫を引きつれ、二頭挽きプラウの馬耕で上富良野島津家農場の開拓を手助けしている。また、明治四十四年島津家農場から線路を挟んで今の役場周辺の土地を二十ヘクタール借り受けた記録も残されている)は、豊治の熱心な仕事ぶりにほれこみ、「プラウ作りをやってみないか」と、すすめた。
やがて、そのことがきっかけになり、一九一九年(大正八)九月、豊治が二十六才のとき、甚作の次女サツと結婚することになった。
サツは運命的な出会いを次のように語っている。
父の甚作から『北海道の開拓にはプラウが最も重要な農具である。菅野豊治の仕事は将来性があるから嫁げ』と命じられたと言う。
結婚したものの、豊治は二十九才のときカリエスにおかされ、長い闘病生活に入ることになった。
しかし、注意深い療養と厚い信仰によって予想以上に早く健康をとり戻すことができ、その間、一番弟子で十八才の佐野長吉とサツが家業を守りつづけた。
この闘病生活によって、豊治には人間の運命感と、いかなる困難にも耐えしのぶ強い精神力が出来あがったのである。
旅人・刃物作職人との出合い
昭和の始めのある日、豊治の工場に乞食(旅人)が訪ねてきた。服装はきたなくても、豊治はひとりの人間としてあたたかく迎えた。そして、何が気に入ったのか酒まで飲ませて家に泊めたので、家族はブツブツ文句を言った。
次の朝、旅人は家族がまだ寝ている間に、ひとつのメモを残して出ていった。そのメモには三層鋼板の作り方が書かれていた。きっと豊治のプラウづくりに役に立つと思ったのだろう。
その後、豊治はメモをヒントにして研究をかさね、ついに菅野式炭素焼プラウを完成させた。
しかし、畑の土質がいろいろあって、すべての畑で上手に耕すことができない。
そこで豊治は、出張で汽車に乗ったときは、停車中の間に近くの畑へいって土を集め、試験管に地名を書き込んで、工場にたくさん並べた。その集めた土で、それぞれの土質にあうプラウの研究を重ね、粘土質用・火山灰用・水田用・泥炭地用などに合うプラウを完成させた。
その努力が認められ、一九三〇年(昭和五)北海道農事試験場における比較審査で「六寸深耕プラウ」が優良農具に入選。
一九三二年(昭和七)に「八寸深耕プラウ」が優良農具に入選。一九三五年(昭和十)「水田プラウ」優良農具に入選。
一九三六年(昭和十一)青森県において「ディスクハロー」県補助推奨農具になる。
一九三七(昭和十二)北海道庁植民課主催の比較審査で「新墾プラウ」「再墾プラウ」優良農具に入選する。
このことから、北海道庁の奨励農機具に六寸深耕プラウと八寸深耕プラウが指定され、日本甜菜製糖株式会社を通して製造、販売された。そして、各地の展覧会や審査会では、いつも上位入選し、菅野式プラウの名声が広く高まって行った。
その頃の中国の世相は、一九三一年(昭和六)九月、満州柳条溝における南満州鉄道爆破事件を口実に、日本の関東軍が起こした軍事行動がきっかけとなり、翌年の一九三一年(昭和七)軍部が中国東北地方に塊偏国家(かいらいこっか)をつくっている。
一九三二年(昭和八)日本は国際連盟の日本軍満州撤退勧告案に反対、中国熱河省への進行を開始し、国際連盟も脱退した。満州における日本の植民地支配を固定化しようと、一九三四年(昭和九)には清朝の廃帝溥儀を執政に迎えて帝政を実施している。
一九三七年(昭和十二)七月、日本は宣戦の布告をせずに中国へ侵略を開始し、国際的にも孤立して行くことになる。
上川号満州を耕やす
この様な政治的背景の中にあって、日本の都府県の農家は耕地面積がせまく、次男・三男は、独立するにも田や畑を作る土地がなかった。そこで日本は、国内の農業問題打開策として満蒙開拓団を組織し、満州国へ入植者を募る事になった。
現地では、クワで耕す農法が従来から行われており、このやりかたでは厳しい寒さの広野では能率が悪く、作業がいっこうに進まなかった。
国は昭和七年満州国の建国以来、この事業は「北海道の畜力ブラウ農法でなければ開拓が遅れる」と、方針を変更し、北海道の篤農家二〇〇戸を満蒙開拓団のそれぞれの団長にして、満州に渡らせた。
北海道の開拓にも力を発揮し、用いられた畜力ブラウ農法は満州でも効率よく稼働し大成功した。
プラウの出荷要望に、豊治は何回も満州に行った。ある日、大量の受注をもらってきた豊治は、国の大事業と考えて、『上川支庁管内のすべての業者でプラウを製作をしよう』と決断し、そして、仲間の業者に声をかけたのである。
その当時は小さな工場が多く、中には修理専門だけでプラウ製作の経験がない工場もあった。豊治は、プラウ製作の経験がない人には豊治の工場を開放して作り方の指導を行い、出来あがったプラウは豊治が責任をもって検査して、「上川号」と名前をつけて満州への出荷を行った。
一九三九年(昭和十四)満州国(ハルビン市)においての比較審査でも「新墾プラウ」甲第一位、「再墾プラウ」甲第二位に入賞している。
満州でプラウづくり
現在、富良野市北の峰に在住し道央農機椛樺k役となっている福井谷忠作氏は、大正十三年南富良野村金山に生まれ、一九三八年(昭和十三)十四才の時菅野鉄工所へ就職した。
同氏によると、一九四一年(昭和十六)の春、日本および満州政府の推奨により菅野農機具製作所は満州開拓の移駐工場として認定を受け、満州吉林市に渡ったのは一番弟子の工場長佐野長吉を筆頭に、宮本剛、中條正男、福島勇、三枝作二、吉田義春、大石浅吉、福井谷忠作、福井谷孝作、佐藤房雄、田口酉松、菅野良孝の従業員とその家族であったという。
上富良野出発に際して豊治は、お客に売った品物の代金を『いままでお世話になった』という感謝の気持ちでゼロにし、貸し借りをなくして出発した。
満州では、国の政策にしたがってプラウを専門に造るために、奥行二十五間のレンガ造りの大きな工場をいくつも建てた。
豊治は、仕事になれない満州人に技術を教えていたが、その人たちに、貴重な材料を盗まれてしまうこともあった。しかし、豊治はそんな苦難にもたえながら百人以上の満州人を使い、やがて一九四三年(昭和十八)一日に五十台の畜力ブラウを出荷するまでに発展させた。
毎日、プラウの引き取り場所には長い列ができ、とても注文に応じきれないほどに繁盛した。
厚い信用
このころ、政府のすすめで北海道から十九工場の鍛治屋が満州に渡った。しかし、生産はなかなか軌道にのらず、生活が苦しくなり、しかたなく材料を売ってしまう会社もあった。
豊治は、いつも開拓農民によい製品を約束通りに渡すという使命感に燃え、たとえ何倍も高い値段で買いにきても、約束していない人には絶対に製品を渡すことはしなかった。
このように、品質の良い製品を計画どおり出荷する事業実績は、まもなく政府関係者などに認められ『工場を何倍も拡張してプラウを増産してください』と、強く要請される様になった。このことは、当時畑を開墾する人の世話をする仕事に携わっていた柘植公社の開拓民の窓口を担当していた、上富良野出身の西村春治氏(栄町二−四)も語っている。
一九四四年(昭和十九)、満州国(新京市)開拓総局主催プラウ比較審査で「再墾二頭曳プラウ」第一位、「新墾二頭曳プラウ」第二位、「兼用二頭曳プラウ」第三位に入賞した。
プラウの製造は順調に進み、業績もあがり工場の拡張工事も行なわれた。
戦況の拡大に伴い菅野良孝、宮本剛、中候正男、福井谷忠作らが応召され、工場は殆ど満州人等の手によってプラウが製造される様になって行った。
敗戦・暴動・豊治を守れ
一九四五年(昭和二十)八月十五日に敗戦となり、満州国が消滅した。日本の敗戦が濃厚と察知したソ連軍は、八月九日未明から満州へと奇襲攻撃を仕掛け、越境を開始した。
ソ連兵が吉林市に侵攻してきて、日本人住宅地では暴動が始まり、身の危険を感じた豊治は工場をやむなく閉鎖した。
逃げまわる人、逃げきれず殺される人たちの情報が入ってくる不安の中で、菅野の社員とその家族は、恐怖におびえながら炊き出しの支度に忙しく動きまわっていた。婦人たちは強姦を恐れるために、髪を切って丸坊主の男装になった。
同じ年の八月三十日、いよいよ、菅野農機具製作所がある向陽屯地区にソ連兵が入ってきた。ソ連兵に満州人も加わって豊治たちの目の前で、日本人が無惨に虐殺されていく様子は、まさに地獄絵だった。
工場のプラウは略奪され、逃げ場を失った多くの日本人は、豊治の工場に逃げ込んで助けを求めました。豊治は、自分の身を危険にさらしながらみんなの面倒をみていた。
ここで、なぜ豊治の工場だけが危害を受けなかったのだろうか。多くの日本人は、いつもすべてのことで満州人を差別扱いしていたので、この時とばかりに仕返しをされたのだった。しかし、豊治は、だれ一人として差別することなく交友を深めていたので、多くの満州人が、『俺達は死んでもいいから豊治を守れ』と、力を合わせて守ってくれたのだった。しかし、後の文化大革命のときに、菅野農機具製作所で通訳をしていた満州人は、日本人の味方をしたと言う罪で処刑されてしまった。
青酸カリを手に逃避行
日増しに暴動は激しくなった。みんなの食事がもうすこしでできあがるという時に、危険を感じた通訳の人は『早くここを出たほうがよい』とすすめた。
出発の時に豊治は、万一虐殺されるときのことを考えて全員に青酸カリを渡し、『いざという時に飲め、何も持たないほうが安全だ』と、皆に言い聞かせた。
そうして、みんなが心に覚悟をきめて着の身着のままで、夕方六時ごろ豊治は塀の門をゆっくり開けて、逃げてきた人たちと一緒に息をこらして声もださず、静かに一列になって歩き始めた。
暴徒たちはそれを見ていたのですが、危害を加えることは一切しなかった。
これで、すべてが白紙になり、裸一貫になったのだった。それから吉林市の白山会館と言う難民収容施設の生活が始まり、厳しい寒さが病気や飢えに追い打ちをかけた。死体は山のように積み上げられ、とてもこの世とは思えない悲惨なものだった。
他の人々は、逃げている途中で少しでも体が弱った人がいれば、みんなの足手まといになるといって捨てられ、また生まれたばかりの赤ちゃんは、いつのまにか背中で死んでいるという状態だった。
涙なしでは語れないと、当時十三才だった祥孝三代目社長は、このように振り返り話している。
この事により、旧満州国吉林中学校に通っていた祥孝は敗戦により強制的に中退となってしまった。
西村春治氏は、終戦を牡丹江省東京城で迎え、額穆索(がくぼくさく)を経由し吉林へと逃げ延びた。ここで豊治と再会し、その後さらに新京へと逃避行を重ねた。『帰国迄は豆腐等を売ったりいろんな仕事をして、その日その日を食いつないだ』と話てくれた。
帰国後は西村運輸・浴場業を経て現在栄町に西村治療院道場を開設している。
再開業と厚情
一九四六年(昭和二十一)八月十二日、大陸の夢が砕かれた豊治は、故国の日本に船で帰る事が決まった。
その二ケ月後の十月十四日、満州より故郷の上富良野に家族そろって到着した。しかし、着の身着のままでの北国の十月中旬は、とても寒いものであった。
豊治には、住む家がなかった。しかし、少年のころから親友だった佐藤敬太郎は、そのことを両親に話したところ、両親はこころよく協力を申し出て、自分たちは畑の通い小屋に移り住み、豊治一家に自宅を貸し与えた。
借りた家の屋根裏から星が見えた。その星を眺めながら寝た豊治は、『極楽のようだ』と言っていた。
裸一貫で帰ってきた二カ月後の雪深い十二月に、豊治は疲れた体と、痛んだ心を休める暇もなく間口三間、奥行六間の掘っ立て小屋の工場を、錦町三丁目(現パーラーラッキーズ上富良野店)に建て、再び商売を始めた。
一文なしで帰ってきたというのに工場の棟上げの夜、棟梁から手伝いの大工にまで、どうやって準備したのか祝儀袋を渡してお礼を言った。
五十二才の豊治は、心魂をかたむけてプラウの製作に打ち込んだ。この情熱と闘志に人々は心をうたれ、やがて『豊治が帰ってきたぞ』と、村中に知れわたった。
農家の人々は、六年前に豊治が満州へ出発するときに、品物の代金をゼロにしてもらったことを忘れていなかった。朝、工場の前にはイモ、麦の俵が積んであり、入口のムシロ戸の中には米、ソバ、野菜、豆、そして、ドブロクまでいろいろな品物が毎日届けられていた。
こうして、お互いの厚情のきずなは一層深くなっていき、豊治にとっては報恩と感謝の日々となった。
この時豊治は、満州からの引き揚げ船の中で歌を詠んでいた。それは、晩年の人生観をよくあらわしている。

   『ふるさとえ錦忘れ丸裸寒さ身にしむ朝な夕なに』
   『落ちぶれて袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知らるる忘るるな人のご恩を』
                   昭和二十一年九月二十日引揚げ船中にて豊治
                   (この歌は、菅野家の墓に歌碑として建立されている)
「白の理念」
一九四六年(昭和二十一)、菅野の製品は、満州から引き揚げてきたときから白い塗装になった。
塗装を『なぜ、白にしたのか』と聞かれたとき、豊治は『白はごまかしのできない、混ざっていない色である』そして、『商売は常にお客さまに裁かれて存在している。白はどこにあっても目につく、したがってお客さまが何年もかかって使い終わるまで、良質の性能を維持する製品を造らなければならない。ご愛用者に感謝の気持ちで農業に役に立つ仕事をするのだ』と、説明していた。
現在、その言葉は「白の理念」として、社訓になっている。
一九四九年(昭和二十四)北海道庁主催(旭川市、帯広市)開拓者用プラウ比較審査で「兼用プラウ」最優秀に入選。
福島県庁主催プラウ比較審査で「再墾一頭三分プラウ」優秀に入選。
一九五二年(昭和二十七)「畜力リバーシブルプラウ」を開発。
日本農業機械化大博覧会(旭川市)では、出品七機種が全て入選合格し金牌を受賞した。
日本中にプラウを出すのだ
長男の良孝は、シベリアからまだ復員していなかったため、次男で十三才の祥孝少年は、豊治の向こう打ちを手伝った。
当時、佐藤敬太郎の仮住まいの家は東二線北二十二号の社会教育総合センターの所にあった。
父に『土づくりの手伝いをするのだよ』と言い聞かされ、ここから工場迄の道路に落ちている馬ふんを大八車を引きながら二キロ余りの道のりを拾い集める作業は、祥孝にとって大変嫌な日課となっていた。
従業員は、十五才の駒井徹、山本勇、高岡友次郎(幾寅出身)の少年三人と十四才の祥孝しかいなく、仕事はだんだん忙しくなって行った。豊治は、『ここから日本中にプラウを出すのだ』と、毎日息子に説き聞かせ、夢を与え続けた。
祥孝は、『ここに消えた満州の工場を再現するのだ』と子供心に思っていた。しかし後になって、祥孝に言い聞かす父の教えがもっと深い意味がある事に気付き、農業参画へと心を動かされる事になって行くのだった。
順調な会社経営
一九五八年(昭和三十三)にはスガノ農機株式会社を設立、会社の方針を『使っている方に聞いてください』とした。社訓の「白の理念」とともに良い製品を世に出せば必ずお客様に評価して頂けると信じ、製品作りに励み続けた。
一九五九年(昭和三十四)「大型トラクタ用プラウ」第一号が完成。
一九六一年(昭和三十六)合成樹脂板を使用した「プラスチックスリックプラウ」を開発。
またこの年、日本で初めて作られた国産第一号の「ビートタッパー」自動高低装置を開発。
三年後の一九六四年(昭和三十九)には国産ビートハーベスターを開発し商品化。
当町ではこの頃、日の出地区の和田松ヱ門氏(六代町長)がビートハーベスターの導入を試みている。
開発当初は作業能率が低く農家からのクレーム対策に追われたりした。改良に次ぐ改良を重ねて、計画通りの作業を実現するには大変な苦労の連続であった。
ビートハーベスターの開発により、ビートの収穫は手作業から本格的な機械化時代へと突入し、北海道畑作農家の寒冷地所得安定作物としてビートの作付けは必要不可欠な作物となった。
一九七八年(昭和五十三)茨城県に工場建設移転計画を契機に、ビートの収穫機は日農機製鋼工(株)と業務提携を結び、生産から販売の全面委譲がなされ、製造主品目としてプラウ・サブソイラにしぼって合理化をすすめた。
十勝岳温泉の開発
会田久左ヱ門は、昭和二十二年に満州より引き揚げ、大成木工場の工場長として働いていた。
豊治の『一国一城の主として仕事を成し遂げたいと思うのなら独立しろ』との助言を聞き入れ、昭和二十六年看板業、昭和二十八年印刷業を開業した。
その久左ヱ門が十勝岳温泉の開発に挑んだのである。
昭和三十四年に安政火口の麓を走るヌッカクシフラヌイ川で湧出温泉を発見し、この開発は一人では成しえないと、久左ヱ門は友人である豊治にボーリングの仕事の依頼を持ちかけた。
豊治には、強い奉仕の精神もあり、損得なしで温泉づくりをめざす久左ヱ門の生きかたに感動し、道のない山を社員らと一緒に登って、物心両面から支援した。
昭和三十六年、久左ヱ門はほぼ独力で温泉施設の工事に着手。その翌年には久左ヱ門と豊治等が発起人となり十勝岳温泉株式会社を設立。昭和三十八年十勝岳温泉の開業許可が道庁より下され、現在の場所に凌雲閣として開業にこぎつけた。
久左ヱ門はその後、昭和三十八年から八年間にわたり町議会議員として活躍、昭和四十九年に他界。
印刷業は上富印刷三代目社長の聡氏に引き継がれている。
豊治の最後
社業が順調に発展している時の一九六五年(昭和四十)二月二十一日、豊治は事務所で、突然心筋梗塞に襲われ急死し、七十二才を一期として生涯を終えた。後に命日を創業記念日とする事となった。
『仕事に対しては厳しく、人一倍面倒を見る世話好きなところがありました。また、冗談話をしながら酒でも飲めば浪花節をうなるという、おおらかで心の広い人でした』と金子全一氏は著書で述べている。
報恩・顕彰
一九七六年(昭和五十一)には、再開業時から約三十年の年月を経過し、相当に傷んできていたこの思い出深い木造の建物を、祥孝社長は《労作為人記念館》と名づけ、来客者に観覧していただくなど有意義に利用する事を始めた。
一九七八年(昭和五十三)二月、穐吉元専務らの呼びかけにより、創業者胸像建立期成会がつくられ、社員と関係有志の寄付により、創業者菅野豊治夫妻の立派な胸像が出来た。
そして、一九九一年(平成三)白い噴煙が天にあがり、十勝岳連峰が一望できる上富良野町の西山の丘に記念館「土の館」が建設され、そこに「労作為人記念館」を移設し展示された。
創業者の偉業を受け魅ぎ、社業発展の糧とするための事業がここから新たに始まったのである。
そこには豊治を始め、友人や恩人が眠る墓所が近くにあり、スガノ農機の行く末を静かに見守っている。
二代目菅野良孝
一九六五年(昭和四十)創業者豊治の逝去により二代目社長として長男の良孝が四十五才で就任した。
良孝は、大正十年に生まれ、ソ連シベリア抑留生活を体験、昭和二十四年に帰国。同年菅野農機具製作所に復帰する。
昭和三十三年スガノ農機株式会社設立時には専務となり、社長就任後の昭和四十三年からは東南アジアやアメリカなど海外への輸出を積極的に始め、国内での販売を含め昭和四十五年一年間の販売実績は二億九千万円にのぼった。
一九七二年(昭和四十七)には、百馬力ジャンボプラウの開発商品化をはかっている。この頃は、農業先進地の北海道畑作農家でもあまり必要としない夢の機械作りと思われていた頃であった。
それから三十余年、今は農村の後継者不足と高齢化によって規模の拡大と大型機械の導入が顕著に進み、百馬力クラスのトラクターが当たり前にプラウを引いて土を耕す時代となって来た。やがてこのうねりは今後、北海道の水田農家を始め、府県の田畑農家へと限りなく波及していくのであろう。
将来を見据える事業に乗り出し、家督を先代からひきついだものの、社長業わずか七年にして一九七二年(昭和四十七)九月二十一日病没する。享年五十二才であった。
「土の館」館長の穐吉氏は社長の良孝氏について、『気性はやや短気だが、仕事は非常に手早く、どろんこ作業もいとわない姿に感銘を受けた』と話してくれた。
三代目菅野祥孝
三代目となる祥孝は昭和八年生まれで、昭和三十四年九月帯広出身の佐藤ヒロ子と結婚した。
社長に就任したのが三十九才の時で、兄の死を悲しむ暇もなく事業に没頭し、一九七四(昭和四十九)年プラウの一貫生産工場を建築する。
一九七八年(昭和五十三)事業のさらなる発展と効率の良い条件での生産性の確立を目指し、茨城県に工場建設の設計計画に入る。
この年、農業の基本資産である「土」に対する取り組みを、『命の糧を生み出す農業者と農業機機を製造するメーカーとの結合によって考える場が必要ではないか』との考えが広まり、全道各地より同志二十七名が集い、「北海道土を考える会」が設立された。社長自ら事務局を担当し、次の世代へ引き継ぐ同志は現在千名を超える組織へと発展した。
役員として地元で功労的役割を果たしたのは、伊藤孝司(フラワーランド社長)が設立から平成四年まで副会長を、西村昭教(町議会議員)が平成五年からの二年間会長を務めた。平成四年には同組織の改編を行ない、青年部と積年会の二部制とし、北村碩啓(白金土地改良区副会長)が平成七年からの二年間積年会々長を担った。その後岩崎治男(町議会議員)も積年会々長を務めている。
茨城県の工場建設の計画から実施段階へと進んだのは一九八〇年(昭和五十五)の事で、茨城県稲敷郡美穂村に大工場を建て移転し繰業を開始した。
現在、日本のプラウ市場の八割はこの工場で生産し、日本農業機械の業界では、トップメーカーへと成長した。
一九八三年(昭和五十八)大型リバーシブルプラウ国産第一号機を発売。
一九八五年(昭和六十)生産部門を茨城工場に統合させ、本社事務機構も移転させた。
一九九〇年(平成二)北海道工場用地を売却し、創業の地である上富良野に平成四年、敷地面積五ヘクタール、建物延べ床面積八三八平方bの博物館・土の館を建立する。
現在スガノ農機株式会社は資本金一億五千六百万円の企業に成長。全国九カ所の営業所で事業の展開を行う。
従業員を百三十名抱え、平成十五年度には販売高で二十七億円に達した。
祥孝社長は、有機物が循環してバランスと調和のとれる土づくりの提言を「積年良土」としてまとめ上げ、トラクター又はブルドーザーに装着されたレーザープラウ、レーザーレベラーを使用した新しい水田の基盤整備反転均平工法と、トラクター、又はブルドーザーの後ろに取り付けられた作業機により、レーザー制御で疎水材と暗渠パイプを自動的に埋設するドレンレイヤー工法の開発は、提言の実践と併せて短時間のうちに低コストで高精度な施工が出来ると関係者から注目されている。
平成十六年年四月には、「日本農業向きボトムプラウ(土を耕す農機具)の開発」で、文部科学大臣賞を受賞した。受賞を機に青少年の科学技術の奨励推進のため基金を町に寄付され、町では「子ほめ基金」を設立、次世代の上富良野の「こどもたち」の健全育成の為に活用されている。
創業者菅野豊治が後継者に伝えたい小さな企業の大きな願いと夢は、このほど祥孝社長の次男充八が四代目を引き継ぎ、スガノ農機株式会社の新たな歴史の幕が開けられた。
あとがき
私が農協青年部長として在籍した昭和五十六年には、その時の理事として活躍していた東中地区の谷口修氏がいて、彼の発案により彼の圃場でスガノ農機より大型機械を借り受け、実演を行った経験がある。その後、土の館のホワイト農場で独自に実演会を行う様になり、見学する度にこの事を懐かしく思い出している。
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後世に残す仕事と先を見越す卓越した経営手腕を併せ持つスガノ農機株式会社は、本社所在地をいまだ上富良野町に置き、事業活動と法人税の納税がなされている。
祥孝氏も町民の一人として町民税を納入している。これは祥孝氏の生活信条として微力ながらも町へ貢献したいという姿勢の表れでもある。今後も地域と社会に大きく貢献されていく事でしょう。
この感謝と思いやりの心が冒頭に述べた北海遺産産認定への架け橋へとつながって行ったのです。
祥孝社長が土を考える会盟友から学んだ事を作詞、中富良野町ファーム富田社長(龍吟書)揮毫による「土へのこだわり」の文を挿入して拙文を閉じたい。
「土へのこだわり」 中富良野町ファーム 富田社長揮毫

機関誌  郷土をさぐる(第22号) 
2005年3月31日印刷   2005年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一