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わが町の二宮金次郎像

上富良野町栄町三 鈴木  努
  昭和九年十月九日生(七十歳)

はじめに

私は平成五年三月に四十二年間務めたJAかみふらの(現JAふらの上富良野支所)を退職したが、その際に二宮金次郎像を農協に寄贈した。像は当初農協二階応接室内に置かれ、まもなく二階事務室内に移された後、現在はふらの農協上富良野支所一階正面玄関ホール内に置かれている。
像を寄贈しようと考えた動機は、当時、定年退職した職員は各自の気持で何がしかの記念品を贈る慣例があったので、私は在職中、報徳研修会で勤労・分度・推譲と共に「農は国の大本」「経済と道徳は車の両輪の如くに重要」とか「至誠と実行の報徳の道」など、近年失われつつある大事な事を学ばせて貰い感銘したからである。
このことを機会に、わが町の二宮金次郎像は何処でどうしているか調べる事にした。
里仁寿の家の二宮金次郎像
上富良野で最初に建立されたのが元里仁小学校(現里仁寿の家前庭)の像である。
像は軟石造りで薪を背負い右手で本を持ち、高さ一メートル二〇センチ、台座高さ一メートル六〇センチ、全高二メートル八〇センチである。
台座前面に「報徳」と刻まれ、昭和二十一年九月建立とある。
裏面には次の刻字がある。
二宮翁像建設費寄附者芳名
長谷川 八重治 白 川 宗一郎 荒     猛 菅 野 善 作 岡 久 仙 助
荒   武 造 数 山 文 治 杉 本 貞 治 村 上   盛 大松澤   弘
田 浦 金 七 高 橋   稔 久 保 米 八 菅 野 忠五郎 打 越 與三郎
中 澤 佐賀志 今 野 好 房 佐 藤 松 男 島 田 義 巳 島 田 政 市
山 川 武 雄 森     厚 滝 口 忠 男 赤 間 善 夫 後 藤   誠
横 木 由五郎 鈴 木 定 ○ 佐 藤 喜 八 高 橋 光 大 川 田 猿 吉
(判 読 不 明) 深 見 美 代 石 崎 慶 治 磯 野 テ ル  篤   志
高 橋   安 数 山   勇 小野寺 憲 治 西 出 竹 雄 木 村 清 人
多 湖 寅 吉 荒   義 男 小 林 久四郎 伊 藤 敏 夫 今 野 好 男
砂 川 君 枝 鈴 木 重 栄 蜂 谷 弥太郎 西 條 ト ミ 古 池 一 布
伊 藤 十 四 結 城 久 子 野 口 フ ミ 荒   周四郎 里 仁 青 年 団
里仁女子青年団 田 中 権 吉 鈴 木 京 子 田 浦 寅 市 堀 川 浅 治
像右側には「旭川市石工松友」の刻字があり、両足首が折れているので薪の下から台座にかけて径九ミリの鉄筋で支えている。
右側下部には白陶磁板に「記念開校五十周年 昭和三十六年十月二十五日改修」と黒色で書かれた文字が埋めこまれている。
終戦後、進駐軍マッカーサー司令の命令により昭和二十一年一月二十一日に、昭和十五年十一月五日建設されていた御真影奉安殿に安置されていた天皇皇后両陛下御真影を奉還して、この年八月二十日この奉安殿を撤去したが、同年九月十五日、この跡に二宮金次郎石像を建設し盛大な落成式が行なわれた。
この時の建立世話人が長谷川八重治(里仁長谷川長見の父)と、田浦金七(岐阜の士族の子・緑町田浦 博の父)等であり、部落全員の賛同を得て建立したが、製作は旭川の石工松友(普宝)の作である。
みんなの賛同を得る過程では、『金次郎のように本を読みながら歩く事は、車が多くなった現在の社会では危険な事で無いか』といった意見もあったが、戦後の荒廃した心の拠り所を失っていた時だったので意見が纏まったのである。
この像は、途中里仁コミュニティ広場整備と西十一線道路拡張改修工事のために少し移動して、里仁寿の家の横に安置されているが、住民会が出役して移設する際に金次郎の足首が折れたので、薪の下から補強のため鉄筋の支えを入れている。
建立世話人の長谷川八重治は、明治三十六年七月十日山形県東村山郡山寺村に堀川熊五郎の三男として生まれ、三歳の時親と共に美瑛に移住し、十二歳の時の大正三年四月に沼崎農場に入植し、その後現在地の豊郷長谷川家の長女イトと結婚し農業を続ける傍ら、里仁小学校PTA会長・民生児童委員などを長く歴任し、昭和六十一年十一月に藍綬褒章を受章した。
なお、同氏は郷土をさぐる誌第六号に沼崎農場に入植した頃の想い出を寄稿しているが、金次郎についても少し触れている。
同じ世話人の田浦金七は、義父川田猿吉が明治四十二年に現在地の共進に入地し、その娘と恋愛結婚して川田の農家の跡を継いだが、姓は自分の姓田浦とした。
田浦金七は子供達には良い意味で厳しい人だったが、煙草を嗜み囲碁も楽しんでいて同じ部落の杉本定之助さんとよく対局していた。酒は一滴もやらないことで有名だった。
里仁小学校初代校長池田元治(大正元年〜)、二代校長熊谷二三男(昭和六年〜)三代校長田中権吉(昭和二十〜三十八年)は、いずれもなかなか立派な方で像の建立のきっかけはこれら校長の教育の影響があったが、特に建立年に赴任した田中校長の助言が大きかった。
その後、開校五十周年記念の年の昭和三十六年七月十一日体育館改築に併せ、像台座等の一部改修が行われ現在に至っている。
草分神社の二宮金次郎像
草分神社前にある二宮金次郎像は、昭和二十四年に創成小学校開校五十周年記念事業の一環として、協賛会が小学校講堂の舞台と共に、国旗掲揚塔の隣りに建立寄贈したものである。
像は軟石造りで薪十八本を背負い両手で本を持ち、高さ九〇センチ、台座高さ二メートル一〇センチ、全高三メートルであり、前面に「開校五十年」と刻まれている。
当時あった小学校校庭の御真影奉安殿は、大正六年十月十一日に運動場内に安置され、後に屋外に移動したもので戦後進駐軍の命令で撤去させられ、金次郎像はこの跡に建立された。
なお、小学校出入り口の門柱は一色仁三郎の寄贈による。
当時草分地区には報徳会があり、会長は小林八百蔵で副会長は谷清吉であった。
この記念事業に併せ、当時の創成小学校長齋藤眞道(昭和二十二年二月〜昭和二十七年四月)が中心となり草分郷土誌(B5判九二頁)を、ほとんどガリ版(謄写版)刷りで発行したが、金次郎像建立の趣旨を次のように記している。
「農村の民力涵養は先づ教育の復興から……敗戦後道義の衰えた今日二宮尊徳の哲学《分度と推譲》の道を究明し、これ実践に移して以って民主教育の指針たらしめねばならぬ」
また、この郷土誌に当時の村長田中勝次郎が寄稿しているが、そのページ欄外に二宮尊徳の次の歌が記されている。
「天つ日の恵みつみおく無蓋蔵
   鍬でほり出せ、鎌で刈りとれ」
冨田弘司によると、建立場所を決めるにあたり相当議論が出たようで、第一案は学校出入り口前オンコの木の傍、第二案はグランド内の枝垂れ柳の傍、第三案は旧奉安殿及び国旗掲揚塔の傍となったが、この年の五月頃教員室で大居佐太郎と吉澤春夫が意見衝突で取っ組み合いをしていたという。その年のPTA役員は次の通りであった。
「会長 一色仁三郎 副会長 大居佐太郎 結城イシ
 書記 太田一義(註・教員) 会計 廣川義一
 委員 吉谷茂信 吉澤春夫 谷 清吉 田中クマエ 一色みつ子
 評議員 各実行組合長」
校庭には大きな枝垂れ柳の木があったが、高士盛雄によると、落合勇がその枝を自宅に挿し木し大きくしたものを、現在の草分神社前に植えたとの事である。
この金次郎像も昭和三十一年頃に何者かにより壊されたが、有志の計らいで再び軟石造りで再建したのが現金次郎像である。昭和四十二年上富良野西小学校開校による統合で金次郎像を移動して、仮り保管時に下半身が破損した。草分防災センター敷地の大規模な土盛りの際に潟Aラタ工業により現在地に移設されたが、数度にわたる移動時の破損により現状のように泥流の中を埋まりつつ歩く姿となっている。
草分地区には「報徳」と言う地名の農事組合があるが、昭和十年頃に西六線北三十三号(現荒澤 篤)に居た石神喜市や兄の信一等の発案により付けられたようであり、深山峠にある報徳農事実行組合の「山の神」石碑は、紀元二千六百年を記念して昭和十五年九月に建立されたものである。山田喜三郎、結城勘六、池田唯雄、立松石次郎、阿部三蔵、堀川熊五郎、池田節郎、館人権次郎、本田重吉、猪飼儀平、鈴木清、石神喜市の名が刻まれている。
元東中中学校長下田達雄氏が、士別市の道北日報平成4年3月27日(金曜日)号に新聞投稿した記事を掲載しておく。
 -随 想- 二宮金次郎は何を読んでいたのか
私が入学した剣渕国民学校の校庭に「二宮金次郎」の銅像があった。
その頃、一度だけ疑問に感じたことがあった。それは「金次郎さんは何の本を読んでいるのだろうか」というものだった。
その金次郎さんの銅像か太平洋戦争の戦況が厳しくなった頃に、大砲の砲身に使われるため「徴用」される話があり、仰ぎ見た高い台座からいつの間にか姿を消してしまったことを幼な心の記憶として半世紀を経ようとした今、改めて思い出している。
文部等唱歌に「二宮金次郎」があり、かすかに覚えているが、正確には次の通りである。

一、柴刈り縄ない草鞋をつくり
  親の手を助け弟を世話し
  兄弟仲よく孝行つくす
  手本は二宮金次郎
二、骨身を惜ます仕事をはげみ
  夜なべ済まして手習読書
  せわしい中にも撓まず
  学ぶ手本は二宮金次郎
三、家業大事に費をはぶき
  少しの物をも粗末にせずに
  遂には身を立て人をもすくう
  手本は二宮金次郎

今、多寄小学校の資料室に数冊の「修身」の本があり、尋常三年生に「かうかう」と「しごとにはげめ」という題材で金次郎のことが掲載されている。奥付を見ると、昭和二年となっているし、戦時中であったから私も履修をしたはすであるが、これについての気憶は定かでない。この修身に書かれている内容は、この唱歌の通りである。
実は、この資料室に徴用されたと思われる「二宮尊徳先生幼年之像」の銅像がある。昭和十二年一月二十日、古家辰次・ヨシノ夫妻が厄払いの祝宴を廃して三百円で寄贈されたものである。
身長が九十cm、体重はその場に計量器がないので不明だが鋼製なので相当重い。
徴用のためか無理に剥したのか銘板がねじれ、無残にも本を支えている左手首は抜けている仕末である。
解鋳される寸前に敗戦となり「御用なし」で復員したものなのかも知れない。それにしても傷傷しい限りの姿である。そのお蔭げで私の脳裏から永遠に忘れ去られようとしていた謎解きができたのである。
尊徳先生幼年之像は確かに柴を刈る斧を腰につけ、草鞋を履き、芝を背負いながら読沓しているのである。
その件(くだり)は次の一文である。
    一家に一國
    興仁一家譲
    一國興譲一
    人貧戻一國
    作乱其機如
    此
これは鋳造後にたがねで刻んだものらしく拓本は出来そうにもない。
この書名は「大学一」とある。「大学」とは儒教の教書の一つ「礼記」の一編であるが、内容は心を正し身を修めることから初めて天下を平らかにするに至るという大理想が書かれているらしい(小学館=万有百科辞典調べ)。
そう言えば、叔父が勤務していた蘭留小学校の玄関の台座から降ろされた同じような銅像かあった。読んでいる内容が同じなのか、シリーズとなって文言が前後して刻まれているのだろうか。寄贈された古家様の眷族の方はこの事実を覚えていただいているのだろうか、当時の三百円は今の?万円に相当するのだろうか。
ゲスの勘ぐりで謎解きが一層深みにはまってしまいそうである。
定年になったらこの出典となっている「礼記」でもじっくり腰を据えて読んでみたいものである。
平成二年に多寄小学校の沿革誌を整理した折に、ここに刻まれていた二十六文字を転載しておいた。私と同じ疑問をもつ方のために。
平成四年弥生  下田 達雄
草分中沢実家の二宮金次郎像
草分の酪農業中沢実の住宅玄関前に軟石造りの膝から上の二宮金次郎像がある。本を持つ両の手と両足が無く折れた首をセメントで補修している。
中沢家が里仁地区から転入した時には既に元住んでいた菅原忠夫の花畑にあったのを、中沢実の母がその後粗末にできないと大切にしていたという。
現在伊達市に在住する菅原忠夫によると、農協青年部草分支部長をやっていた昭和三十一年頃、創成小学校にあった二宮金次郎像が、何者かの悪戯で足を折られたため、当時のPTAで新しい像に作り替えた。当時、PTAの役員をしていた小林八百蔵(実子は居なかったが、教育熱心でPTA役員も長くやった)から破損した像を「投げるのはもったいないから要らないか」と声がかかったので、貰ってきて自宅の庭の真中に置いたが、そのときは足一本が無いだけで首は折れてはいなかったと言う。
菅原はその後、昭和三十九年十二月に第一生産組合を辞めて翌四十年三月に小西農機に入社し、勤めの関係でしばらく家族一緒での生活がままならなかったため、二宮金次郎像とは疎遠になっていたと言う。
JA上富良野支所の二宮金次郎像
はじめに記した様にJA上富良野支所の二宮金次郎像は筆者が寄贈したもので、鋳造製で本体高さ七〇センチに木製台座六センチ付で全高七六センチであり、制作費は約三十万円であった。
この像の金次郎が読んでいる本には次の文字がある。

  一家仁一國
  興仁一家譲
  一國興譲一
  人貧戻一國
  作乱其機如
  此

この文章の意味は、元東中中学校校長の下田達雄(註・平成四年四月〜平成七年三月まで在職、現在旭川市緑が丘に在住・郷土史研究家)が調べた資料によると、儒教の教書のひとつ礼記の一編「大学」の中の文言で「一家に仁愛の徳が充実すれば国中が仁愛に奮い立ち、一家に謙譲の徳が充実すれば国中が謙譲に奮い立つ。しかし君主一人の身が食欲で、でたらめなら、国中が反乱を起こす。一国の治乱が発動する起点はこのようである。ただの一言が国家の大事を失敗させ、ただの一人が国家を安定するというのは、こういうことである。」と記している。
万物の恩恵に報いる
二宮金次郎の歴史物語を書いた小説家中谷孝雄は次の様に推奨している。
二宮金次郎は幼少の頃から貧しい百姓生活をしながら読書にいそしみ、土地を耕すと共に心を耕す事に専念していました。
当時の金次郎の唯一の希望は、一日も早く一人前の立派な百姓になって、没落した二宮家を再興したいということでありました。
その後、次第に天や地や人や草木鳥獣など世の中一切のものの恩恵を強く感じる様になり、これら万物の多大な恩恵に報いることが、人として当然の道と考えました。そして「たとえ悟りを開いても人格を磨き上げてもひとりで道を楽しんでいるだけでは世の中の役には立たない」と、実行を心に深く誓いました。
そして金次郎は我家の再興、服部家の復興、桜町藩及び日光神領の立直しに尽力したが、その根本には万物の恩恵に報いる一念、「報徳」という筋金が通っておりました。
金次郎のことを尊徳先生というのも、彼が万物の徳(恩恵)を最も尊んだからであります。
今もまだ一部の地域の報徳会で受け継がれていますが、一般からは殆ど忘れられたようになっていますが、現在の世相を見るとき「万物の恩恵に報いる」ことを考え直してみるべきと思います。
修身で習った二宮金次郎
上富良野出身で東京在住の長井禧武(よしたけ 百二歳)によると、金次郎少年が仕事着に柴を背負った銅像はあちこちの小学校に建立されていて、「修身」という教科の中心になっていたが、大東亜戦争(第二次世界大戦)が進むにつれて金属回収令施行で、銅像は強制解体され武器製造用に供出された。
また、昔は報徳会と言う組織がありこの偉人を称える種々の催しが行われていたが、今は修身の教科も無く、この頃の若い者達の乱脈ぶりはこの結果が現われているのだと思う。
修身のことで思い出すのは、昔私が台湾に旅行した時に、道路の清掃状況をよく見ると、日本のように道端に紙くずや煙草の吸殻など散らかっておらず、各家庭の周りも清々しており、私は感心のあまりガイドの方にこの事を話すと、その方の言うには『日本の学校では修身教科を廃止したが、台湾では修身と言う教科を重要と考えこの教育が行き届いているからその違いでしょう』と言われ、私は恥ずかしい思いをした。
私は今でも修身は絶対に必要だと思っているが、私が若い頃に十数年間上富良野村役場に奉職し、教化を受けた故吉田貞次郎村長は、丁度二宮尊徳翁の様な方で在られたことを思い出し、今でも敬慕に堪えない気持ちで一杯である。
北海道内の色々な尊徳像
江別市の藤倉徹夫によると、北海道内で平成十五年末で確認された二宮金次郎像は三百六十四体で、かつて存在したが金属回収その他で失われたものは百九十八体あると報告されている。
像の型は柴か薪を背負い、片手に本の「負芝読書」型が殆どだが、股引をはいたもの、野袴をはいたもの、草履を差し出す型のもの、立てた鍬に寄り掛かり読書するものなどが見られる。
材質は銅・鋳物・石・陶磁器・木・コンクリートなど多様であるが、銅製は昭和十六年の金属回収令による軍部への供出でほぼ完全に姿を消した。
像の前面には大抵、銘板・プレートがあるが、一番多いのは「二宮尊徳先生幼時の像」で先生の文字を抜いたものも多い。次に多いのが「以徳報徳」で、類似のものに「報徳一貫」、「報徳百行長」があり、続いて「勤倹力行」「勤倹窮行」「勤倹貯蓄」で、次いで「至誠・勤労・分度・推譲」や、更に「奉公・協和・信仰」を加えたもの、「誠勤度譲」「勤倹譲」などがある。
近郊の報徳結社と受賞者
北海道報徳社によると、道内には現在二十社ほど報徳結社があるが、近郊では美瑛町報徳社が昭和三十四年設立し活動しているのみである。
戦前には明治三十五年発足した豊頃町二宮の牛首別報徳会を始め七百六十六社を数え、報徳に関する講習会等をさかんに開いていた。
富良野市にも昭和四・五十年代に富良野市報徳会があったが、当時の市長高松竹次が報徳教育につき関心を持っていたため、当時の幹部職員などにより組織し、時折会合したり研修会に参加していたが、同市長が退任して間もなく立ち消えとなった。
当上富良野町においては結社組織は無かったが、道報徳社の研修会などには農協青年部、婦人部、役職員を時折受講させていた。
北海道報徳社では毎年善行賞・名誉賞を贈り表彰しているが、富良野地方で受章した者は、昭和四十五年に富良野市高松竹次、中富良野町星野久三郎、昭和五十九年に東山地区の藤本一治(昭和六十二年名誉賞)、平成元年に、上富良野町日新の片倉喜一郎、平成四年に上富良野町東中の實廣清一、平成七年に、中富良野町酒井信雄、平成十一年に富良野市泉春雄である。(文中・敬称略)
取材に協力頂いた方(五十音順・敬称略)
数山 勇(里仁)     菅野 稔(里仁)     下田達雄(旭川)     菅原忠夫(伊達市)  
田浦 博(里仁) 高士盛雄(草分) 立松慎市(草分) 長井禧武(東京都)
中沢 実(草分) 中谷孝雄(小説家) 長谷川長見(里仁) 藤倉徹夫(江別市)
財団法人 北海道報徳社(札幌市)

機関誌  郷土をさぐる(第22号) 
2005年3月31日印刷   2005年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一