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ふるさと上富良野の追憶

北広島市 塩井 セツ子(旧姓土井)
  大正十一年十月一日生(八十二歳)

たゆみなく噴煙上げる十勝岳

大正十五年五月二十四日突如大爆発を起こし、大泥流が麓の上富良野村を襲い、百四十四人の尊い命を奪った十勝岳。今も変わらず噴煙をたなびかせる秀峰十勝岳。私が小学校三年生で、すぐ上の兄秀次(五年生)と長兄の正夫(六年生)の二人の兄はあの山まで歩いて登った。二人で揃って登る途中、中茶屋で休んで楽しかったことなど、次兄からいろいろな途中の出来事を話してもらった。
何があっても美しい十勝岳。日本中のどこよりも市街から眺めた景色はスイス以上だ、日本にあるスイスだと思う。朝、昼、夕暮れごとに色彩が時には青く、時には紫、そして赤にと、はっきりと変わる。
私はあの美しい十勝岳を想うたびに、人もあのように生きることができたら、変わらぬ平常さに雲あれ、雪あれ、晴れた日のあれほど見事な姿を思い浮かべ、負けないと幼いとき心に誓ったまま今日まで生きられたことを、身に余る輝きを有難いと思います。
貧しさに耐えた小学校時代
上富良野尋常高等小学校の五年生・六年生は修学旅行で、家では二人の兄が一度に修学旅行する時の昭和五年。「カンレーシャ」と言うガラスの代わりの明かり取りのある部屋で、私は一人で机に向かって勉強していた。
私が隣の部屋にいることは、母も兄達も気がついていなかった。母が『秀次おまえは修学旅行にやれない、家には正夫一人が行く五十銭しかお金がないので、すまないけれど正夫だけ行かせるからお前は我慢してね』と母が言っているのに、正夫兄は『秀が行けないなら俺も行かない』と言って泣き出した。
秀次兄は、『何言っているんだ、俺は今五年生だ、来年六年生で行けるんだ。ビールビンのフタやサイダーのフタを集めて売るので、お前行け。泣くな』母も泣き出した。
短い時間なのだろうが小学六年生の正夫兄の男の子の泣き声と、母が二人の兄達に泣きながら詫びる『ゴメンネ、ゴメンネ』という声が聞こえた。私の姿は見えないから、母も兄達も幼い妹にこの悲しみを見せてはいないと思っているのだろうが、母の申し訳ないと言った声は今も忘れていない。
その時、私はああ貧乏とは誠につらいものである。私が大きくなったら、決して無駄遣いせず働いて大切にお金を溜めようと思った。小学三年生の女の子が何を、たかが知れているのに、けれどもあの時の兄達や母の泣き声は本当に悲しかったけど、私は涙を流さなかった。泣くより辛かった。
秀次兄との思い出は、私が五年生になった時私は昼の弁当を学校へ持っていくことが出来なかった。
きっと家にはお米がなかったのだと思う。次兄は学校を休んで市街まで行ってお米を少し買ってきて、母が炊いて兄が私に三時間目位に持って来てくれた。
誰かが『セッちゃん、兄ちゃん来ているよ』と言うので行ってみたら、大きな弁当でアルミ箱にアツアツのご飯が入っているのを渡してくれた。
その時、先生が『セッちゃん、授業中に立ったらだめでしょう』と言った。小学校一年から高等科二年まで、先生に注意されたのはその時のたった一度だけで、兄の届けてくれた弁当箱があまりに暖かくて有難く、先生には軽く目礼したつもりだった。弁当の中のおかずは真っ赤な大きいショウガが二切れだった。泣きながら食べたので、何十年経ってもあの暖さと真っ赤なショウガの味は忘れない。泣きながら食べたから…。
その様なことのあった昭和五年から何年間は、日本中ひどい有様だったとは、幼い者には分かる筈もなかった。
当時の吉田貞次郎村長は農業をしておられたのか、いつもゲートルを巻いて、全校生徒千百人位いたその前で『日本の子供達は大切なかけがえのない、上富良野・空知郡そして日本の宝である。心だけは貧しくなく、十勝岳のように堂々と生きよ。貧しさなんかに負けるな』と朝礼の時、何回も何回も私達に話をされた。
その時、なぜ給食が出たのか。私が後に札幌逓信講習所へ入所した時に、私以外の稚内、留萌、網走、帯広、函館、小樽など全道から集まった同級生四十二人中、だれ一人として学校給食が出たのは皆無だった。豆腐と油揚げが沢山入った味噌汁、牛乳など、全校生が暫く給食をいただくことが出来た訳が、今も分からない。
上富良野小学校の前に大きな池があり、夏休み前に上級生が机や教壇を持ち込んで洗っていたが、ある日思わぬ出来事があった。
それは、溺れかかった友二人を、一枚の木の板につかまりながら助けたことがありました。確か女の子でした。私の足にしがみついてきたので、けとばして髪の毛をワシづかみにして板につかませ、もう一人は水を飲みへたばっていた。下の方へ逆さまになりかかった板の調子を取りながら、やっとこらえて水平にしたら、もう一人の子はその板の上に、髪の毛をダラリと下げて、ゲボゲボと水を吐きながらのし上がってきた。その日、三人とも誰にも言わず、言ったら大変なことだったであろう。私は、今日までそのことは誰にも言わなかった。
郵便局と逓信講習所の勤めを顧みる
八月一・二日は上富良野神社の例大祭。このお祭りには、赤白の衣装で巫女様と呼ばれ、生出の宗ちゃん(生出宗明さん)と毎年踊ったことを、私は友人のだれ一人にも言わなかった。長じてからのある祭りの日、神主が『この娘は生出宗明の嫁になるんだ』と旭川や富良野の神主達に言うのを聞き、これは大変と志を新たに札幌へ志願して、上富良野を一時離れたのだった。
昭和十三年頃から上富良野郵便局で働いていた私は、後に逓信講習所へ入学。学費も寄宿費も全て国が負担してくれ、卒業後は札幌中央電信局に勤務、間もなく講習所教官に任命されて女子舎監となり、誠に生意気な先生は心から教えた。
モールス信号をやっと覚えたての可愛いい女の子が、春になったら誰一人いなくなり、教え子の部屋の中は何一つなくなっていて、私はへナへナと座って泣いた。そんな時、上富良野郵便局長の河村重次さんが私を迎えに来て、戦争は激しくなる一方で不安もあり、同じ郵政局管内でもあり転勤という形で、私は上富良野郵便局の局長代理となった。
局員が四十二人もいて、小娘の私に何が出来よう。しかし、局の方々は暖かく支えてくれ、毎月の給料をいただくことが出来た。
その頃、家も何とか仕事がうまくいっていたのか、世界的にバレエダンサーで有名になった熊川哲也さんのおばあちゃん「神林アイ子」さんは同級生で、しかも私の父達十人の中に混じって家の仕事をして下さった。家に食事に戻ると、歌を唄っていて大層上手でした。
局の隣は松原さんで、その隣が私の家だった。北條写真館を父が譲り受けたものと思う。アイちゃんは歌もうまく踊りも天才だった。熊川哲也さんが一代で突然世に出ることはないと思うし、然るべく「祖母神林アイ子」さんの血だと私は思っています。
その頃と思います。二十円金貨の硬貨が日本に出回っていて、局でも一日に五、六枚は集まりました。
当時、私の給料は約六十円。経済大学出身と聞いておりましたある商店の方が『今日は何枚ありますか?』と、毎日のように紙の札と替えていかれ、何のことなく渡しておりました。
終戦になり、農地解放と同時に経済封鎖が行われて、私が持って大切にしていた国債とか郵便局に預けたお金は六千円程あり、当時、札幌市南十六条あたりで土地も家も三軒ばかり求めることのできた金額が、一銭も残らず国に封鎖され、使用不可となったとき、経済学を勉強してきた人には勝てないとつくづく思いました。「金」は、世界中でどんな時代でも、どの国でも通用するとは気がつきませんでした。
戦争が激しくなった頃、父は徴兵、兄二人は召集、弟の一人は現役兵、もう一人の弟の繁は志願兵と五人の男子が私の家から消えた。残った私達はどうやって生活したんだろう。弟の繁は十八歳に満たずトラック島にて戦死。母の悲しみは屯田兵の家族として三歳の時に福岡八女市から移住した悲しみからはじまり、延々と続いた生涯の悲しみをまとめて泣いていた。
図1 郵便局と塩井(旧姓土井)さん宅の周辺図「昭和11年頃の町並み図」
   (作図者佐藤輝雄氏より承認済)⇒掲載省略
図2 塩井さんが通学した上富良野尋常高等小学校の付近図「昭和11年頃の町並み図」
   (作図者佐藤輝雄氏より承認済)⇒掲載省略
戦争の真っ唯中、生菓子ひとつ食べたく思ったこともなく、布切れ一つなく困惑のある日、組合(現在の農協)の田浦さんから『セッちゃん可愛い良い布が少し入ったよ』と電話をいただき、赤の水玉にブルーの可愛いい布を買いました。私流に手縫いの半コートに仕立て、ゆったりしていて気にいっており嬉しかったのですが、名前を忘れましたが、一級下で河村局長の娘さんから、『局の使用人のくせにそんなもの着て生意気だ脱げ』と言われたので、真新しくピッカピカだったのに、その一言で私は二度と着用しませんでした。
四十年ばかり役所務めをしたけれど、人と争いごとする暇もなく、定年で退職の時は職場と別れ難く、長年同じ職場の仲間や机、タイプライター、床まで懐かしく、長い年月を忘れる事ができませんでした。
幼き友と級友との絆
私が今も元気で生きていられるのは、現在、上富良野の錦町に住んでいる伊藤幹男さんの祖母が私の叔母であり、食べ物を補っていただいた長年の恩は忘れることが出来ません。幼い頃の友達だった南ジュンちゃんと(南順二氏 平成十四年六月十日逝去)、ジュンちゃんの兄のカズちゃん(南一男氏)、そして、秀次兄の友、西村春治さん、お元気でしょうか。
札幌に在住している小学校の同級生と毎年、年に三、四度逢っています。旧姓の松下トクさん、田浦重枝さん、久保久さん、和田俊雄さんと私土井セツ子、今はこれから先をどう生き延びようかと命根性いやしく、あれこれと生き様を相談中です。
小学校の同級生たちは今も健在でしょうか。田中喜代子さん、三原貞子さん(旧姓斉藤)を私達はサーちゃんと呼んでいました。札幌在住者になった私は札幌中央電報局で定年を迎えるまで働かせていただきました。
たまにしか母の元に行けず、母の小遣いを少し持って上富良野へ行く度に、母は『セツ子の同級生からとても親切にしてもらった。今も度々来てくれて面倒を見てくれている』と名前を言うのだが一向に分からない。結婚して姓が変っているので、日帰りしかできない私はいつも誰だろうと思うばかりでした。
母が亡くなってから、ある時クラス会に出席したところ、それはおとなしいスエちゃん(旧姓鈴木)と分かりました。私はクラスの中に仲良しさんがいっぱいで楽しい想い出しかありません。スエちゃんは、当時、農業協同組合勤務の水島淳三さんと結婚していて、美しく優しい子供だったスエちゃんしか知らないので仰天してしまいました。私は手をついて、母が何度も何度も貴女に感謝しておりました。
ありがとうございますと頭を下げた時、私は涙が止まりませんでした。
なつかしき故郷上富良野よ
なつかしいふるさとよ、良き美しき幼き者よ、若き青年達よ。上富良野とは素晴らしき恵まれた稀に見る深い明るさと希望の持てる街なり大切にして下さい。
日本一住みなれたふるさとを後にして、なお、生涯忘れることのできない上富良野と十勝岳、望郷の念にかられつつ終筆いたします。

機関誌  郷土をさぐる(第22号) 
2005年3月31日印刷   2005年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一