郷土をさぐる会トップページ     第22号目次

各地で活躍している郷土の人達
二代目の教員の十勝岳との出会い

旭川市  末廣  晃
  昭和十一年三月一日生(六十九歳)

〔一、上富良野の住民になった払〕

祖父の末廣利七と祖母のキヌヨが上富良野市街地六八九番地に転居したのが、大正三年四月です。当時、祖父は屋根の柾屋として、また消防団の一員として開拓者精神を発揮したと聞いています。
父の宗一は上富良野の高等小学校卒業後に昭和六年旭川師範学校を卒業し、石狩町の小学校に勤務、昭和九年に竹沢文子と結婚して、翌十年に美瑛小学校に勤務しました。十一年に長男の私が誕生し、十二年には東川第三小学校に勤務しました。十六年一月母の文子が肺結核で亡くなり、その年の四月に上富良野尋常高等小学校に勤務することになりました。当時私は五歳で母は長期入院のため接する機会は殆ど無く、母の前で父に叱られた記憶しかありません。三年後の十九年五月に父は高橋とめのと再婚しましたが、その母も一年後に亡くなり、この間の記憶もほとんどありません。三年後の二十二年六月に泉キクエと結婚し、六歳の英昭を弟として迎える事になりました。当時私は小学校五年生でしたが、翌年の二十三年九月に母キクエも亡くなり、しばらくは祖母と父と私と弟の四人暮らしが続きました。
三年後の二十六年八月に四人日の母磯松キミ子と結婚し、九歳の妹の千津子を迎えて六人家族となり賑やかな生活が続きました。人生で出会いは千金に値する″ものだと父の教えであったことを忘れられません。
私の小学校時代「雷先生」と言われた父宗一先生は、家でも怖い父でした。
その頃家では鳥小屋に鶏を六羽飼って卵を取り、毎日のご飯のおかずにしていたり、ウサギを一匹飼っていたので餌は野原に行って草を刈っていましたが、その鎌が左膝に当たり大ケガをして今だにその傷痕が残っています。
学校に忘れ物(教科書等)をしたからといって、夜の八時頃に学校に一人で行かされて怖い思いをしました。常に自分に厳しくするように躾けられました。全校集会の時に私は静かにしていたのに、私の名前を呼ばれて大きな声でどなられた事を覚えています。
遊ぶ事では、皆で走る運動会をしたり、相撲を取ったりして、又、川で泳いだり、ターザンごっこといって木に登ったり、葡萄のつるにぶら下がったり、チャンバラとか戦争ごっこをしたりしていました。よく、小さい子供達を集めて運動会をしていました。或る時、他所から冷やかしに来ていた少年に小石を投げたら、こちらを向いて止まったので顔に当たりケガをさせてしまい、父にひどく怒られて謝りに行った事もありました。昔はよく他人からも叱られて反省したものです。小学校時代は失敗をしながら自分としての生き方を学んで行くものと思います。食事はイモやカボチャやトーキビ等が中心で、澱粉ダンゴやイモの味噌汁等は大好きでした。終戦前の四年生の頃防空壕に入ったり、富良野を攻撃し旭川に向かう飛行機グラマンが頭上を飛んで行ったのに手を振っていました。
〔二、中学時代〕
私の親しい友達には、柴谷賢一君・沖野隆一君・金子幸司君や山崎良啓君等がおり、冬休みになるとよく百人一首を山崎君宅に集まって徹夜してやり、非常に集中力が養えたと思っています。カルタは頭と体を使う集中力が必要なスポーツだと思います。
夜中には餅やミカン等を御馳走になった事を思い出します。
中学校時代に自分の身体が弱くきゃしゃだったので鍛えたいと思うようになったのです。忍者のまねをして高く飛び上がる事を考えて、畠にトーキビを植えて木が大きくなるまで毎日その上を飛ぶように練習して、ある程度までは飛べたが、なかなか難しかったが頑張りました。そして、上川地区の中学校(美瑛中)の体育大会で高跳びに出場し三位になった事を思い出します。それからは自分もやる気になればできると思うようになりました。一〇〇メートルを早く走りたくて毎日練習し十二秒六で走れた事を思い出します。
富良野から上富まで線路を歩いて帰る
一年の時、リレーの一員として選ばれて富良野第一中学校へ行きましたが、私は出場せずに終わり、富良野駅の近くでガマの油売りの話に夢中になり四時頃の汽車に乗り遅れてしまい、どうしたら良いか考えて、線路を歩いて帰る事にしました。最初は枕木を数えて歩いていましたが、鉄橋に来たときは中央に板が敷いてあってその上を恐る恐る歩いて渡る事ができましたが、非常に怖かった。この時に、「山本有三の路傍の石」の少年の事を思い出し、中富良野の長い鉄橋を渡る時に、もし橋の途中で汽車が来た時はどうするかを考え、線路に耳を当てて遠くの汽車の音を知る事も覚えました。渡る事の怖さと汽車が来た時の怖さと交錯しましたが、自分に勇気を奮い起こしてやっと渡る事ができた時の感動は今でも忘れられません。万が一に滑って落ちそうになった時は枕木にしがみつけばよいと考えて、もし汽車が来た時も枕木にぶら下がればよいと納得しました。やがて、上富良野に着いた時は八時過ぎとなり、暗くなって何時もの踏み切りに着き無事に生きて帰ってほっとしました。
(後に赤平高校の教員になって四年目の六月十八日の土曜日、父母会の日だったが男女十名のグループが野花南キャンプ場に行くために近道の野花南の鉄橋を渡り、五人が鉄橋の真ん中に来た時突如急行列車が来た。二人の男子はあわてて飛び降りて大ケガをした。二人の可愛い女子生徒は恐怖に心を奪われ列車に轢かれて即死した。残りの一人の男子生徒、この時子供の頃に読んだ山本有三の「路傍の石」の吾一少年を思い出して咄嵯に枕木にぶら下がり一命を取り留めた。この生徒は柔道や空手をし身体を鍛えていたので自分を守れたと言っていた。これ以来「生きる力は自分自身が身につけるもの」だと言う事が分かり、注意力が如何に大切かを生徒達に毎年話して来た。人はいざという時に、どう考え、どう行動するかが大切で、心を他に奪われる事なく、状況を的確に把握・判断し最善の行動を取る事だ。それには日頃の心掛けが大切で、自分の弱点を補い強化する事である。更に自分も相手もケガのない様に配慮する事が大切であると語り続けて来た。)
昭和二十六年三月上富良野中学四回卒業の一組の担任は、今は無き髭の伊藤先生で生徒は五十八名、二組の担任は清水先生で生徒は五十四名、三組の担任は松野先生で生徒は五十四名、四組の担任は札幌で病気療養中の遠藤先生で生徒は五十五名で合計二二一名でした。
我々の同期会は毎年開かれて生徒の参加は六十名前後あり、地元の松野先生は何時も元気で参加され、神奈川県の清水先生は九十歳を過ぎてもお元気な姿を見せて頂き、我々は何時も元気の源を頂いております。
今年の同期会は古希の年齢となり上富良野神社に集まり(約三十名)厄払いをして貰いました。久しぶりに奇麗に晴れ渡った十勝岳連峰を眺めて中学時代の気持ちに戻り心を洗われた心地でした。やはり同期会は上富良野でやることが一番であることを知りました。そして十勝岳の白銀荘で同期会を開き楽しい一時を過ごすことができました。暇ができたので何かしたくて仕事を探していたら、懐かしい「中学の灯」がくすみ見えずらくなったのでワープロで再製作し皆さんに配布して喜ばれました。
優しかった清水素子先生
我々の担任の先生は清水素子先生で非常に優しくて何時も母親的な存在で学校へ行く事が楽しみでした。又、尊敬している理科の松野先生が演劇部の顧問で「王様と道化」の役を当てられ、笑う事ですごく苦労をしました。人を笑わせる事の難しさを、自分の顔を鏡で見て研究するように言われ、お陰様で道化役が当時の人々に評判になり大変にうれしく思いました。演ずる事の難しさと楽しさを味わう事を知りました。心に残る行事としては十勝岳へ自転車で登り、古い自転車のベアリングか崩れてキーキー音を立てて降りて来たことを思い出します。十勝岳の良さを身をもって教えられた気がします。
夢と希望を与えた村田先生
終業式の挨拶で印象的だったのは、村田吉雄先生です。スキーの選手として有名で、町の中をレースのスキーで物凄い早さで走る姿を何時も見て感動していました。その先生が学校を辞め日大へ進学するとの事なのです。この夢と希望に満ちた場面は私には物凄い感動でした。この瞬間に私も先生の様な生き方をしたいと思いました。私も先生になるぞと強い決意をさせたのです。物凄いパワーでした。私にとって夢と希望を持つ切っ掛けを与えてくれた先生の存在に感謝しています。
(後に村田先生は道の課長の時に大変お世話になり、赤平高校時代に全道優勝の御褒美に道場を作って頂いた。)
上富良野の人間は皆十勝岳連峰の素晴らしさを見て育っています。大自然の素晴らしい環境で人間の生き方を学んで行くものです。この事に気づくかどうかが問題なのです。
〔三、高校時代〕
一年生の時、父に相談し自分の弱さを無くしたくて柔道を習う事を決意し、富良野の山下道場へ通い出しました。最初は中学生に投げられていましたが一年掛けてやっと五級(青帯)になりました。富良野高等学校にも途中から柔道部ができましたが、道場は無く何時も体育館の片隅に二十枚ぐらいの畳を敷いて練習しました。二年生になり柔道は三級となり、名寄の高体連の大会に出場しましたが全敗でした。二年生頃から体力の強化のために色々と工夫をこらして練習をしました。三年生になって、姿三四郎を夢見ており、投げられても途中から体をかわして受けられるようになり、色々な連絡技を考えて相手に応じた技を掛ける工夫をしました。私より大きな人で強くなった後輩(家の隣)の二木保君を相手に練習をし、寝技で押さえさせておいて逃げる方法をあみだしました。
柔道の技を工夫
高体連旭川地区の大会に出場し、団体戦で敗れた人と個人戦の二回戦で当たり、負けた技の大外刈りを掛けていってすぐに体落としに変化したら見事に一本で勝つ事ができ、それからはマイペースで頑張りました。特に決勝戦では延長戦となり大内刈りの技有りでやっと勝つ事ができました。この時は六人の選手と試合をして勝つ事ができたのは感動でしたが体はボロボロで疲れきっていて、個人戦の優勝を祝って山口先生が蜂谷のラーメンをおごってくれたのは嬉しかったのですが、体が痛くて味が良く分からないくらいでした。
これ以来自分に自信が持てるようになり、将来は教員になって生徒に柔道を通して人間作りを指導しようと考えました。人間は自分の欠点を見つけて、これを無くす事で自信がつきます。数日後に全道大会に出場しましたが、体力が無く回復が遅くて二回戦で敗れてしまいました。元気の源は食事です。高校三年間は弁当を持たせてくれた母親に対しては感謝の気持ちで一杯でした。
〔四、大学時代〕
北海道学芸大学旭川分校二類に合格して二年間通学し、小学校教諭と中学校教諭理科と体育の免許を取得するために数多くの単位を取りました。私の父も昔柔道部の部長をしていましたが、その時は大学には柔道部が無いので新設して、田上・穂積先輩のレスリングの部と一緒に活動しました。付属中学の道場を借りて練習したり、旭川市の警察の道場に通って練習をしていました。
教育実習に大成小学校へ行った時、四年生の担当の生徒の藤川真弓さんからバイオリンの発表会に是非来て欲しいと言われ、聞きに行くと可愛い真弓ちゃんがバイオリンをひいている姿をみて大変感動しました。後に世界的に有名なバイオリニストとなり、旭川にも何回か演奏会に来ています。先日、本人に会って一緒に食事をし、彼女の演奏したCDを記念に頂いたが、私が二十歳の時の十歳の女生徒が、今五十八歳になる藤川真弓さんのCDをしみじみとした思いの中で聞き、大変に感動しました。
憧れの講道館へ
私は柔道の修行をするには講道館に行く事が唯一の夢でした。父は私の夢を聞き入れてくれたのです。私は父に感動し感謝感激でした。だから苦しい生活も練習も苦になりませんでした。
昭和三十一年四月に日本大学の教育学部の三年に編入学し、柔道をするために水道橋の講道館に入門し毎日学校から講道館へ通い練習しました。都電で下宿に帰る時は何時も疲れて膝ががくがくして立っていられませんでした。講道館では醍醐俊郎先生や大沢先生にお会いして感激しました。
日大の先輩の松下さんと練習して非常な強さを感じました。最初は強い人達ばかりで大変でしたが、色々と自分の弱点を強化して何とか対応できるようになるには一年ぐらいかかりました。
将来教員になるために高校の国語の免許を取り無事に卒業しました。また、女性と話もできない自分を変えるために友人にダンスを習い、気楽に女性と接することができるように努力しました。
〔五、教員時代〕
昭和三十三年四月北海道の高校教員試験に合格し、赤平高校の定時制に就職が決まりました。街は炭鉱の街で賑やかで活気のある街でした。やくざな人間が多くケンカやもめごとの多い街で、生徒もこの影響を受け、引き込まれた生徒を救い出すのに親分の家に酒を一升持参してお願いしたこともありました。それ以来、生徒には手をつけなくなりほっとしました。定時制時代の柔道部は納谷孝司と言う選手が全道選手権で一一位になりました。六年後に全日制に異動し、柔道部の菊地学選手が全道高体連大会で個人戦中量級で優勝し、全国大会(富山県)に出場したことを思い出します。
あの頃は生徒と真剣に一対一で取り組み生徒の弱点を無くすことに終始しました。そして、得意技を磨くことに終始し、菊地学選手は国体にも出場しましたが、大会では八月の暑さが厳しくて活動が思うように行かず敗退してしまいました。しかし、この選手は私の人生で最高の感動を与えてくれた生徒で心から感謝しております。この年は北大に六名合格し、高校野球で全道優勝したり、生徒達は勉強とスポーツに良く頑張り素晴らしい生徒達でした。生徒の非行防止のための夜回り先生の役を数年間務めました。生徒も先生も良く頑張り、活気の有る学校になりました。
昭和四十五年四月には滝上高校(六学級)に転勤し、教科は国語と体育で部活動は軟式テニス部の顧問で、二年目は担任を持ち、柔道部の顧問もしました。野球部の生徒が練習中に頭にボールが当たり、一カ月後に異常が出て病院に通い吐き気がすると言って胃の薬をもらっていましたが、脳内出血の発見が遅く、紋別の脳外科に入院しましたが死亡してしまいました。早く原因が分かっていれば助かったのではないかと残念に思われます。
又、二年の担任をしていた時の男子の生徒が学校を止めたいと相談に来ましたが、親の希望により学校を続けさせたところ、(私の転勤後)三年生になって突然に亡くなってしまい、あの時に進路を変えさせておけばよかったかとしばらく悩みました。当時の生徒達はスポーツも勉強もよく頑張りました。野球部の全道大会出場や北見工大や立教大学に合格したり良い生徒達でした。
将来の夢を目的に指導
昭和四十八年四月には旭川工業高校全日制(二十七学級)へ異動。教科は体育・柔道部の顧問で毎年全道大会へ生徒達を連れて行きました。機械科B組の担任の時、この三年間で生徒をどう育てるかを考えました。一年生は生活態度を育て、将来への夢を持たせ目的を持った学習をすることで厳しくする。
二年生は自主性を育てて自分たちで仲良く助け合う心を育てて、スポーツも勉強も努力する姿勢を作る。また良いこと悪い事のけじめを自分達で考えさせるように方向づける。三年生は将来の進路を自分自身で拓かせる態度を養う。やがて機械科三年B組は団結し、すばらしいクラスとなりました。
特にバイク事故で足ひざ下を切断し義足で一年留年した生徒がクラスに来ましたが、新聞配達で生活して、職場見学旅行の時はクラスのカンパで本人も参加し、仲良くなり、挫折から立ち直り奮起し勉強も頑張って新聞社に就職しました。
又、両親が盲目の家庭に育った活発な男子が、三年の時に親から貰い子であることを知らされて反発し、ぐれだして学校へも遅刻したり休み出したため生徒達に話し、毎日生徒達が変わって迎えに行くことを提案し実行してやっとの事で卒業までこぎつけました。クラスの仲間の力が如何に大切かを考えさせられました。生徒指導部長となり生徒に自分自身を見つめさせることをさせ、文章に表現し自分自身の生き方を考えさせ、将来への希望を持たせるように厳しく指導しました。
(何事も生徒と一緒に真剣に考える事が大切である事が分かった。)昭和五十五年四月・美瑛高校全日制(十二学級)へ異動。教科は国語と体育と書道。二年の担任でレスリング部の顧問。当時は生徒達は元気が良すぎて少し荒れていましたが、旭工での評判が伝わっており一学期で落ち着いた雰囲気となりました。生徒会活動が停止して三カ月で結成したり、部活動はレスリング部では個人戦で全道優勝した七十kg鈴木修一君を四国の池田町での全国大会につれて行きました。
進路指導部長を担当した時、色々と相談に乗った女子生徒が現役で旭川医大に合格しました。この生徒は勉強だけでなくマラソンも良く頑張り、途中で医大受験を止めたいとも言っていたが目的を持ったらやり通すことを勧めました。
人生には色々と迷いや苦悩などがつきものだという現実を知ることであり、その中でいかに生きるかが肝心なのです。人生には甘えが大敵となることを学びました。
生徒の感謝の言葉に感動
昭和五十九年四月・江差南高校定時制(三学級)の教頭として異動。三年後は閉課。生徒は二十人足らずで教師は六人、「明るく仲良く元気良く」をモットーに体育の授業も生徒と先生と一緒にバレーボールやバトミントン等を楽しみました。最後の年度には生徒が一人となり、中退した生徒五人を転入学六人の生徒に増やして(高専を暴力行為で退学した生徒がいましたが)家庭的な中にも厳しさを取り入れ、老人ホームのボランティア活動もして全員が立派に卒業しました。特に卒業祝賀会で生徒が親の前で思い思いの感謝の言葉を述べた時は感動的でした。生徒も先生方も思いやりのある人間関係で教育の原点を学びました。
昭和六十二年四月・網走向陽高校(十五学級)の教頭として異動。母子家庭の龍球部の女生徒が母と折り合いが悪く美瑛高校に編入学し親戚宅から通学し立派に立ち直り、網走の高看に合格しました。
平成元年四月・札幌啓成高校(三十学級)の教頭として異動。地方の医者の息子の生徒が学習意欲なく二年時に留年し、柔道部に入り毎日熱心に練習し試合に出て勝つことを経験して、自分自身に自信を持てるようになり卒業しました。進学校は素行の悪い傾向にある生徒に対しては冷たい面があり、生徒の実態を知るために毎日放課後に教室をまわって見ることをしていました。たまたま職員会議で男子生徒の退学の審議した後、一年生のクラスを回っていると女生徒が泣いているのでよく話を聞くと、女生徒同志で森林公園でリンチされているとの事でした。この子も途中退学になったのは残念でした。
平成三年四月・利尻高校(九学級)の校長として異動。利尻山の全校登山の実施、自分も挑戦し八時間かけて頂上に登り感激する。屋久島高校との交流で屋久島に行き自然の偉大さを満喫しました。
問題を起こした男子生徒を教頭が指導していましたが、殴りかかったので私が生徒を抱き締めてやると納得して落ち着きを取り戻しましたが、良い生徒と先生方に恵まれて島での楽しい生活を満喫出来ました。
平成五年四月・旭川南高校(二十七学級)の校長として異動。文武両道の南高校は部活動を通して人間形成をする。各部が毎年全国大会に出場、四十周年記念行事、全道高体連柔道大会当番校等を実施し、平成八年三月に退職しました。在職中の生徒であった上野雅恵がオリンピックの七十kg級で金メダルを取ってくれたことは大変に感激しました。上野雅恵とは練習をした間柄なのです。オリンピックの金メダルを取った恵本裕子・上野雅恵の二人を育てた中野政美先生は昔からの仲間で良く頑張ってくれ、挫折した生徒の相談に乗り柔道部に入れて育てたことが何度もありました。
〔六、退職後〕
教員として三十八年間無事に教員として生きがいを感じてやってこれたのは、多くの先輩は勿論のこと多くの同僚の暖かいご指導と多くの生徒達のお陰です。人生は多くの失敗の上にどう生きるかを考えるかが大切である事と、失敗を恐れては生きられない事を学びました。常に前向きに生きるかを考え、人と共に生きている自分に幸せを感じる事が大切なのです。
私は本当に幸せな教員としての人生でした、今まで出会った多くの人々に心より感謝しお礼を申し上げます。この自然に恵まれた上富良野で育った自分を誇りに思っています。十勝岳万歳″
今後は多くの人々のお役に立てればという思いを抱いて生きて行きたいと思います。ありがとう!
未廣 晃氏の略歴
昭和十一年三月一日 上富良野町四町内で生まれる
昭和二三年三月 上富良野小学校卒業
昭和二六年三月 上富良野中学校卒業
昭和二九年三月 富良野高等学校卒業
昭和三一年三月 北海道学芸大学旭川分校二類二年卒業
昭和三三年三月 日本大学教育学科卒業
昭和三三年〜三八 年赤平高等学校・定時制(六年)
昭和三九年〜四四 年赤平西高等学校(六年)
昭和四五年〜四七年 滝上高等学校(三年)
昭和四八年〜五四年 旭川工業高校(七年)
昭和五五年〜五八 年美瑛高等学校(四年)
昭和五九年〜六一年 江差南高等学校・定時制・教頭(四年)
昭和六二年〜六三年 網走向陽高等学校・教頭(二年)
平成元年〜平成二年 札幌啓成高等学校・教頭(二年)
平成三年〜平成四年 利尻高等学校・校長(二年)
平成五年〜平成八年 旭川南高等学校・校長(三年)
平成八年〜十四年九月 北工学園・副校長(六年半)
平成十年〜十六年 民生委員(六年)
平成十五年〜十六年 旭川市東光東生町内会長(二年)

機関誌  郷土をさぐる(第22号) 
2005年3月31日印刷   2005年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一