郷土をさぐる会トップページ     第22号目次

各地で活躍している郷土の人達
ふるさと上富良野の思い出

札幌市  辻内 祐二
  大正十五年六月二日生(七十九歳)

○辻内商店・三十四年間の履歴

私の父徳平は昭和二年に母ミヨと満一才の私を連れて上富良野七町内(現栄町二丁目一番三号)に移り住み、精米・米穀商を始めました。
父の開業は、長年の不景気の故か五人も倒産・夜逃げした後地であり、又、前の年には綿屋銀行の倒産と十勝岳の爆発が同じ日に起るなど、多くの不安材料を抱えた前途多難なスタートであったと聞いております。
その後、金物業も兼業しましたが、昭和三十五年に母ミヨが亡くなり、後を継ぐ者がないため閉店しました。しかし、この三十四年間に子供五人が育ち巣立って行くことが出来たことは、細々の商売ながらも偏に町内の皆様にご愛顧いただいた賜物と深く感謝しております。
私たち兄弟姉妹は毎朝起きると、二階の縁側から十勝岳連峰の山並みを眺め、『今日の噴煙は何時もより多いなあ…』とか、『今日は一日雲に隠れて山がみえなく寂しいなあ…』など、毎日山の表情を見て育ちました。
上富良野を離れてからの年月が村に居た年月の三倍を超える年齢になりましたが、第二の故郷と思う処はなく上富良野こそ唯一の故郷と思ってます。これからも折に触れ、故郷上富良野に思いを寄せて生きて行きたいと思っています。
ふるさと上富良野は最近では、全国に知られるようになりました。なだらかな丘陵、ラベンダーの美しさ、そして豊かな農畜産物などを故郷の自慢として折に触れて紹介しております。
○少年時代の思い出
私は十九才から、就学や就職のため家を離れておりましたので故郷の思い出は、矢張り小学校を終える頃までの体験が一番印象に残っております。ここで当時の出来事や世相など子供の日で感じたままを、若干お伝えしてみたいと思います。
一、小学校の思い出
私が小学校に入学したのは昭和八年でしたが、当時は景気も未だ低迷し家計の苦しい家が多かったように思います。中には弁当を学校に持って来れない生徒もおり(欠食児童と言う言葉がありました)、学校では一〜二年生の生徒に現在の給食とはまったく違った趣旨での「牛乳給食」を行っていました。この時代は同じ不況だと言っても、現代と比べると大方の家庭がもっともっとつつましく、辛抱強い生活を強いられていたように思います。
当時、普通のクラスは男女別々でしたが、三年生の時一年だけ男女混合のクラスが一クラス出来て、女性の赤松先生の担任で勉強しました。これは混合クラス実験のためのテストでなかったかと今なお想像してますが、次の四年生から六年生まではまた元の男子クラスになり、栗城先生の担任で卒業しました。
低学年の時は今と違い学校もIQや偏差値を問う時代でなく、のんびりしていましたが、六年生になり進学が迫るとそんなことは言っておれず、先生には夏休みも返上して私達の勉強を指導して頂いたことを感謝しています。
栗城先生は一般の授業の他に特に音楽・美術など芸術的な科目に優れておられた先生でした。
私が六年生の時に「花瓶に活けた花」を描きましたが、その絵に先生が一筆入れて下さいました。その途端に絵の色彩が生き生きと変わったことを、ずうっと長い間思い続けていました。七十六才でリタイヤしてから、本格的にデッサンと油彩画を習い始めましたが、そのきっかけはこの先生の一筆の思い出からです。
二、富良野川の辺りでの遊び
学校から帰ると、家の中で遊ぶことは何も無い時代で、同級生や近隣の友達と外で遊び回る毎日でしたが、取り分け大雄寺の裏手の泥流地帯は未だ災害時のままで良い遊び場でした。当時の富良野川は魚の住めない川でしたが、今では魚は住めるようになっているのでしょうか。(子供の時、村で魚釣りをした記憶がありません…。)子供なりに巨大な流木や厚く堆積した泥流、魚のいない川を見ながら、爆発の恐ろしさを実感していました。この場所は当時の世相を反映した「戦争ごっこ」に格好な場所で、大きな泥流木を利用しての塹壕(ざんごう)やトーチカを造っての遊びなど、他所では決して出来ない楽しみをしていました。
この場所は、私の同級生で現在上富良野に住んで居る佐藤輝雄君が、多くの日数をかけて精魂込めた調査により完成に努力された、《昭和十一年頃の街並み図》の三十七ページに詳しく記載されております。良くぞこの「思い出の場所」を漏らさず掲載してくれたものと感謝しています。
この《街並み図》は爆発の災害から約十年後のものであり、辛苦の復興を果たした市街地、農村の移り変りが良く分かります。また現在と比べることにより、戦前戦後を通して村の発展の軌跡を知ることが出来る貴重な労作で、完成に関係された方々に敬意を表します。
三、大火の思い出
子供心に感じた恐ろしいこともありました。上富良野は他の町村より大きな火事が多かったように思います。
私の記憶にあるのは昭和五年の駅前の火事と昭和八年の山本木工場、駅舎も一緒に焼けた大火ですが、取り分け昭和八年の火事では、私の家のすぐ裏手にまで火勢が迫ってきて、一時はもう駄目かなと思いました。我が家でも近くの農家の方が沢山駆けつけて下さり、家財を荷造りして馬車や荷車に積みこみ、何時でも逃げ出せるように準備をして待機していました。
当時『女の人の赤い腰巻を振ると風が変わる』と言う「言い伝え」があり、隣家の千葉さんの「おじさん」が近所の願いを代表して屋根に上り、火炎に向かって打ち振ったところ、その効があったのか、その後、風向きが変わり延焼を免れました。今でも、火炎に照らし出されたあの屋根の上のシーンは忘れることが出来ません。私は、あれは「迷信」ではなく「本物」と今でも秘かに思っています。
その後も昭和二十四年には八町内で百二十棟が焼失する大火があったと聞いてますが、このような再度の不慮の災害にもかかわらず、頑張って立ち直って来た町民の方々のエネルギーに感銘しています。
四、馬力の時代
当時の生活は生産も運搬も殆どが馬の力に頼っていて、私の近所にも馬に関係のある仕事の家が沢山ありました。西野目獣医さん、三枝蹄鉄屋さん、稲毛馬具屋さん、吉田馬車屋さんなど、その他に長谷さん、菅野さんなどの鍛冶屋さんもあって、夫々の家の仕事場を見て回るのも楽しい遊びの一つでした。
馬の治療や、蹄鉄の装蹄など何回見ても飽きない面白さがあり、また、物を作る熟練した腕前を目の前で見ると、子供ながら何時も感心したものでした。今は消費の時代で使い方はマニュアルで勉強しますが、物を作る修練の技を見聞出来ないのは不幸せな時代と思っています。
私の店の前にも馬繋ぎ棒があり、毎日沢山の馬がきて繋がれ、飼葉(かいば)を食べて水を飲み、休んで行きました。時には飼い主がお酒を飲んで酔っ払ってなかなか馬のもとへ帰らないので、馬が業を煮やしてご主人を置いて一人で山の自宅に帰ってしまったと言う笑い話のような話も実際にありました。
五、初売り風景
正月二日は市街地は大賑わいでした。朝未だ暗いうちに、農家の方が馬に馬橇を引かせて初売りを楽しみに出て来ました。お店でも、店の前の地べたに直接炭俵を空けて火を起こし、暖を取れるようにしました。
私の前のお店は大店の吉田商店さんですが、その大きな店舗や、倉庫の外壁や戸などに「お宝券」を隠して置き、農家の方に「宝探し」をしていただく趣向を毎年やっていました。暗い中、炭火の赤か赤かと燃える明かりに照らされながら、懐中電灯を手にしての「宝探し」は、初売りを楽しむ懐かしい風物詩でした。
私の店でも、朝三時頃にはもう一番客が戸を敲(たた)いて来店されました。一番客には、茶の間に上がって頂き、「おせち」など正月の膳を出してご馳走し、またお店の鏡餅を差し上げる事にしていましたので、競争で来られるお客のため、時には元旦に床について直ぐ起きて、来客を迎えなければならぬことが度々ありました。
夜が、ほのぼのと明ける頃には「問屋」さんの「初荷」の橇が景気良く鐘を鳴らして町内を練り歩き、小売店に初荷を降ろしますが、七時頃にはもうあの騒ぎはどうなったのと言う位、静かな街に戻っていました。現代の商売はこれと比較すると季節感の薄い味気なさが感じられます。
六、東洋一の泥流スロープ
懐かしい少年時代の思い出は止めどもなく出てきますが、最後にスキーの思い出を紹介したいと思います。
昭和の初期、田舎では未だスキーは一般の人には縁の薄いスポーツでしたが、オーストリアからシュナイダーが来日し、十勝岳での新しいスキー技術の指導に来村されました。
村の有志の方も受講しました。「講習の記録写真」は、泥流スロープで宙返りして滑るスキーの写真とともに、長い間上富良野駅に紹介展示されていました。
この故か、上富良野では他の町村よりも早くスキーが普及し、上富良野と言えば「東洋一の雄大な泥流スロープ」を誇る「スキーのメッカ」と言われていました。
今は、富良野のスキー場などが有名になり、泥流スロープの声が殆ど聞かれなくなった事は、寂しく残念なことです。
市街地から一番近いマルイチ山には、子供から大人までスキーを楽しむ人が多く、女性も、割烹「のんきや」の芸者さんまでが、「もんぺ」を佩(は)いてスキーに挑戦する風景も見かけました。
シュナイダーの受講者の一人に、六町内で機械商を営む西村又一さんがいました。彼は新しいスキー術の「クリスチャニア」を習得し、冬は山スキーのガイドも出来る腕前でした。西村又一さんは、私たち子供達にも快く新しい術を教えてくれたので、それまで私たちはテレマークで回転していましたが、新しい滑りを身につけることが出来るようになりました。
毎年元旦は、垂水山で西村さんをはじめ若い人も、年配の人も沢山集まって、『おめでとう』と、新年の挨拶を交わしてスキーを楽しんだものでした。
私は彼から教わった山スキーで、毎年江花の新屋さんのお宅まで遠征したりしました。私はあまり上手なスキーヤーではありませんが、七〇歳近くまで足腰も不自由なくスキーを楽しめたのは、少年時代に上富良野でスキーを始めたお蔭と感謝しています。
○むすび
終わりに、これから上富良野町も町村合併、自衛隊の縮少など町政に大きな課題が予想されますが、町民の皆様が開拓時代の辛苦や十勝岳の爆発、重なる大火など幾多の苦難を乗り越えてきた先人の開拓の気概を受け継ぎ、きっと上富良野の豊かな自然、豊かな文化、豊かな生活を守り、育てて行かれるものと確信しています。
町民の皆様のご健勝をお祈りし、文中、記憶の定かでないことが多く、或いは思い違いがあるかも知れませんが、当時の世相、出来事の回想として読んで戴ければ幸いです。
辻内祐二氏の略歴
大正十五年六月二日 中富良野村市街地で出生
昭和二年 上富良野村市街地に移住
「学歴」
 昭和十三年三月 上富良野尋常小学校卒業
 昭和十八年十二月 旭川商業学校卒業(戦時繰上)
 昭和二二年三月 小樽経済専門学校卒業(現小樽商大)
「職歴」
 昭和二二年四月 北海道農業会(現ホクレン)旭川総合工場勤務
 昭和二五年五月 旭川総合工場羊毛紡績一貫事業を継承し設立された北紡梶i全道農協・ホクレン・雪印出資)に転籍入社 財務・総務課長、事業企画部長を歴任
 昭和四四年五月 北紡鰍退社
 昭和四四年六月 マックスファクター北海道販売鰍ノ入社 取締役就任、総務部長 爾来販売管理部長、企画販促部長を歴任
 昭和六二年七月 常務取締役就任
 昭和六三年一月 米国・日本法人「マックスファクタージャパン梶vに吸収合併入社 北海道支社常務取締役就任
 平成三年六月 定年退任
 平成三年九月 潟Wエイ&エム入社 総務部長就任
 平成八年二月 潟Wエイ&エム退社
 平成八年三月 潟Vンエイ入社 財経部長就任
 平成十三年六月 潟Vンエイ財経部長退任・財経顧問就任
 平成十五年六月 潟Vンエイ財経顧問辞任
現  在 札幌市に在住、専ら退任後始めた趣味の絵画(油彩・デッサン)に明け暮れています。

機関誌  郷土をさぐる(第22号) 
2005年3月31日印刷   2005年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一