郷土をさぐる会トップページ     第22号目次

各地で活躍している郷土の人達
我が人生を振り返って

千葉県市原市 大森  勲
昭和十八年二月一日生(六十二歳)

はじめに

私の一年先輩で「東京上富良野会」会長の長谷部元雄さんから突然の電話で、「かみふらの郷土をさぐる誌」へ投稿するよう要請があった。
故郷と過去を振り返ってみるのも、丁度良い機会と思い書かせていただくことにしました。しかし主題からして本誌の趣旨に添わないかも知れませんが、その点ご勘弁下さい。
私は高校を卒業した昭和三十六年三月、十八才の時に上富良野を後にして以来、今日迄の四十四年間のほとんどを、東京を中心に生活をしてきました。
これまでのサラリーマン人生、とりたてて才能、技能、資格とてありませんし、ましてや特別活躍したという記憶もなく、単に真面目にやってきたというのが取柄だと思っています。
同時にいろいろな面で好運に恵まれ、又多くの人との出会いにも恵まれて今日までやってきました。
私の生いたちと大家族
父、寅治郎は福島県、母、キヨは宮城県出身で共に明治四十二年に、中富良野村に入植し、昭和九年に現在の地「富原」へ移った。
私は九男五女の十四人兄弟姉妹の一番下の九男として富原で生まれ、母親が四十五才、父親が五十才の時の子である。
今でこそ少子化ということで、平均二人弱しか子供を生まなくなったが、当時は「生めよ殖やせよ」という国の方針もあってか、多産家族は珍しくもなかったが、それでも十四人は当時でもかなり多い方だったろう。
私の子供の頃は正月ともなると、兄姉夫婦、甥姪等三十数人も本家に集り、百人一首、花札、ほうびき、カルタ大会等に興じ大変賑やかであった。お年玉も貰うばかりなので、それだけで一年分の小遣になり、このときばかりは兄姉の多いことに大いに感謝した。
現在生存しているのは半分の七人、末っ子の私でさえ六十二才となり、序々に減っていくのは至し方ない。兄四人のうち三人は上富良野町で生活している。次男の「忠」は大森家の跡を継いで、八十八才と高令ながらボケることもなく元気で過ごしているのは、常に頭も体も使っているからだろう。
五男の「明」七十五才は、永年上富良野自衛隊事務官として勤務し、定年後は民間企業に勤めて数年前に退職した。妻が化粧品店を経営していることもあって悠々自適の生活を送っている。
六男「金男」七十二才は、農林水産省食糧事務所に勤め、その間道内をあちこち転勤していたが、子供の教育を考えると度々の転勤は大変だったようだ。定年後は好きな釣り三味、北海道中をあちこち車で駆け回っている。
七男「幸雄」七十才は札幌在住で、自衛隊から日本航空へ移り引退したが、五十代半で妻を亡くし、自身体調も悪く入退院を繰返しており苦労している。
姉は八十四才の次女「千代子」・六十五才の五女「栄子」共に旭川在住で夫婦共々元気で過ごしている。
戦中生れの私は末っ子ということもあって、両親はもとより兄姉皆に可愛がられ、何不自由なく育った。兄達からは修学旅行といえば新しい学生服を、スキー大会といえば新しいスキー用具を買ってもらった。又、冬の通学時には、結婚間もない兄夫婦宅に下宿させてもらったりもした。
小中学校の恩師と思い出
小中学校時代の思い出も沢山ある。まず担任の先生は一・二年が「北向茂先生」、三・四年が「中尾常子先生」、五年が「末広宗一先生」、六年が「田中重男先生」であった。中学は一年が「山口荘六先生」、二・三年が「笹川淳一先生」で、中尾常子先生は現在北川姓で横浜に住まわれ、「東京富良野会」や「東京上富良野会」では何度かお目にかかり、また私の千葉県のマンションへも来て下さった事もある。
我々の担任になられた頃は、二十才になられたかどうかという年令で、若くて美人で小学生ながら一目ぼれするような方だった。先生の自宅は小学校グランドのすぐ横にあって昼食というと帰られ、そんな時にクラスの何人かは、当時の木造校舎の二階から「猿メガネ!!猿メガネ!!」と大きな声でひやかしたものだ。しかし何日か後で、当時、カミナリというあだ名の末広宗一先生に全員職員室へ呼ばれ、こっぴどく叱られた思い出がある。(常子先生 万一この文章を見られることがあったらお許し下さい)。
私自身はひやかした事はないが、むしろ内心では失礼なとか、可哀想なという気持ちでいたが、何故か止める事もできなかった。正義感に欠けていたことが悔やまれる。
高校から大学へ
高校は旭川商業高校、我が家から片道一時間半かかった。早く卒業し良い会社に就職し、年老いた両親に早く孝行したいという気持ちが強かった。高校の思い出は部活動で、中学時代からやっていた卓球部に籍を置いた。しかし、部室で三年生の部長が煙草を吸っていたのが目に入り、それが気に入らず、かといって一年生故注意もできず自ら卓球部を辞めてしまった。二年生になってからは、バトミントン部に籍を置いた。当時の旭川商は、旭川地区でもトップクラスの実力があったので練習も厳しく、終って富原の我が家に帰ると午後九時頃になっていた。
我が家は農家なので皆既に寝ているが、母親が起きて来て夕食の用意をしてくれたのが今でも思い出される。
バトミントン部での戦績は、旭川地区で何度か優勝したが北北海道大会個人戦で三位になったのが最高の成績だった。惜しくも全国大会出場はならなかったが、現在でも健康の為に、又ストレス解消の為にバトミントンを続けている。
全国シニア選手権の六十才の部では、二年連続で千葉県代表に選ばれている。平成十八年の全国大会は、旭川市で開催予定なので、私にとっては地元でもあるし、何とか参加したいと思っている。勝敗は二の次、あちこちの仲間と飲み語りあうのが主目的だ。
高校卒業後は、一年弱と短期間だったが、日興証券札幌支店で株券の受渡業務に携わっていた。だんだん仕事に馴れるにつれて、生意気にも他を意識するようになり、同じ新入社員なのに大学卒業の者とは、やっている仕事に余り差がないのに何で給料にかなりの差があるのか、このままでは将来の差は広がるばかりだと感じた。
学歴万能の時代、無性に大学に行きたくなった。
かといって金はなし、諦めかけていた頃、ある新聞広告が目に止った。東京三鷹のある牛乳店の広告だ、「牛乳配達員募集、大学通学可、住込可」これだ!これなら誰にも迷惑をかけずにすむ、体力には自信がある、東京という大都会にも魅力があった、決断は早かった。早速大学選びだ。商業高校なので試験科目の多い国公立大は最初から無理と決めてかかり、次に授業料の一番安い私立大学を探した。その結果、中央大学経済学部夜間部を受験し合格したが、入学金と一年間の授業料で確か六万円少々だが、それでも当時の私にとって大きな負担だったので、牛乳店のオーナーと交渉し全額貸してくれることになった。
牛乳配達時代
高校卒業一年後の昭和三十七年四月から、憧れの東京で牛乳配達をしながらの大学生活が始まった。
自転車の荷台に牛乳箱二箱、ハンドルの両脇にズック袋をつけ、牛乳・ヨーグルト等を満杯にして各家庭に配る。朝は四時起床、外は真暗で、それでも北海道の田舎のように、冬でも雪が降ったり、しばれることはほとんどない。しかも三時間近くは自転車に乗り放し、走り放しなので、寒さを感じるというよりも清々しい気持にさせてくれる。
だが、大雨の時はカッパを着るためスピードが鈍るし、体中ビショビショになってしまう。風の強い日は大変で、止めている自転車が倒れ牛乳ビンが沢山割れてしまった事も度々あったが、それでも店のオーナーは何も言わずに取替えてくれた、心の大きな人だった。
夕方の配達は朝の半分の量なので、午後三時から一時間少々で終了、その後に学校へという生活が二年間続いた。四人のアルバイトは皆住込みの大学生で、技術者を目指す者、弁護士を目指す者と、皆様々だが大きな目標と信念を持っていた。
二年間もいると住込みの中でも先輩は卒業し後輩が入ってくると、自然に格が上がってくる。そうなると夕方の配達は後輩がやってくれる事になり、夕方の業務は月数回の集金だけであり時間的余裕は大幅に増えた。
中央大学夜間部から昼間部へ
大学三年になるとき、夜間部から昼間部への転入試験を受け合格した。就職をする時は昼間部の方が何かと有利になると思ったからだ。三年・四年と昼間部へ通い、四年間の大学生活を終えると同時に牛乳配達も卒業した。
月に二度の休みと正月休み、そのほか痔の手術で五日間休んだ以外は、四年間雨の日も風の日も重い自転車で駆け回った事が非常に楽しい思い出として蘇ってくる。同時に私の体力も人一倍強くなってくれたと思う。以来今日まで手術は勿論のこと入院すらした事がない。
人間模様
牛乳配達時代にはいろいろな思い出と、様々な人間模様にも出会った。客と顔を合わせるのは、月一回の集金時ぐらいだが「毎日御苦労様、頑張って卒業してね」と言ってやさしく声をかけてくれた長屋のオバサン、盆暮れには、小遣いとか品物を手渡してくれた方々、人の優しさが身に染みた。そうかと思うと、立派なお屋敷の表玄関から集金に行くと「裏へ回って!」と怒鳴りつけるような人もいた。
自分自身厚かましかったかなあと反省しつつも、人の心の内面を知る良い体験ができたと思う。
両親と「はとバス」
このような訳で田舎へ帰ることもできず、年老いた両親には何も孝行ができなかったが、一度両親と兄が上京した際に「はとバス」で東京見物をさせてあげたことがある。今にして思えば、無事大学を卒業し就職できた事が、親孝行になったのではないかと感じている。その父親も三年後の昭和四十四年に七十六才で、母親も昭和五十四年八十二才で亡くなった。
私の勤務先 株式会社 藤田商店
---新聞記事--- −日経産業 16.4.27−
日本マクドナルド創業
日本マクドナルドの創業者で元同社会長兼最高経営責任者(CEO)の藤田田(ふじた・でん)氏が二十一日、心不全のため死去した。七十八歳だった。藤田商店が二十六日発表した。連絡先は同社総務部。告別式は近親者だけで済ませた。喪主は妻、悦子さん。
大阪市出身。東大在学中に高級雑貨輸出入業の藤田商店を創業し、後に株式会社化して社長、会長に。一九七一年、日本マクドナルドの設立と同時に社長に就任。順調に店舗数を増やし、八二年には外食産業で売上高トップに立った。
八六年藍綬褒章。主な著書に「ユダヤの商法」「頭の悪い奴は損をする」「勝てば官軍」などがある。


事業家の目標に
孫正義・ソフトバンク社長の話 十六歳の時、初めてお会いして以来、尊敬申し上げておりました。藤田元社長にお会いできたことが事業家を目指すきっかけとなりました。(一九九九年から二年間)当社の社外取締役まで務めていただき、心より感謝しております。ごめい福をお祈り申し上げます。

評伝 外食王、起業家人生全う
起業家、園田田の原点は終戦後の混乱期の東大法学部時代だ。社会的事件となった東大生闇金融会社の「光クラブ」事件に参謀として関与した。東大始まって以来の秀才といわれた学生社長の山崎晃嗣は自校した。
約半世紀たち、藤田は振り返ってこう語っていた。「山崎はカネのむなしさに絶望して死んだが、私はその使い道を模索して生き残った」偽悪的な傾向はあったが「人生カネがすべて」を人生哲学とし、グールド(強欲)こそが事業のエネルギー源と広言していた。政治家、役人、銀行嫌い。名誉、権力にも関心なく、カネを求め起業家人生を全うした。
大学在学中から藤田商店を設立、進駐軍の通訳で得たコネを利用、貴重な外貨割り当てを得て、雑貨輸入で大もうけしたのが出発点だ。マクドナルドとの合弁の大成功で外食王となり、資産が一兆円といわれた後も「規制緩和が進む現在は千載一遇の機会」と、トイザラスなど多くの合弁事業を手掛けた。
藤田の功績は多くの若い人に事業欲を植え付けたことだ。ソフトバンクの孫正義は高校時代に上京し、藤田に会い「とにかく米国に行け」とアドバイスされ実行した。
講演嫌いの藤田は大学の学園祭だけは無料で引き受けた。「日本は官主導で規制だらけ。新事業のネタはすべて米国にある」と、藤田は自らの体験もあり、学生に脱日本を進めていた。
強欲、徹底した米国信仰が信条だったが、引退後の計画を漏らしたことがある。「中断していた漢字の研究」だ。藤田は日本の体制を批判し続けたが、日本への関心、愛情は持ち続けていた。

 =文中敬称略(編集委員 永岡文庸)
現在の会社「株式会社 藤田商店」に入社してから約三十年になる。業務内容は、@欧米高級服飾品等の輸入卸売(いわゆるブランド品をデパートとか専門店への卸売)、A東京タワー蝋人形館の経営(修学旅行等で全国の方々に見てもらっている)、Bスポーツ、フィットネス事業の経営(関東、関西を中心に十ヶ所展開)、C不動産事業(国内及び米国を中心とする海外不動産)、D有価証券等の資金運用の五本柱となっている。
オーナーは「藤田 田(デン)」と言って、東京大学在学中に藤田商店を創業し、平成十六年四月に七十八才で亡くなった。(新聞記事を掲載)強烈な個性の持主で、私にとっても三十年間お付合いさせて頂き、大きな影響を与えてくれた人だった。
当社と米国社との合併で「日本マクドナルド」とか、おもちゃの「日本トイザラス」も作り欧米の文化を日本に根付かせた人物である。
私の入社する前の昭和四十年代、当社は輸入雑貨の品数で十万種類と膨大な商品を扱っていて、コンピューターとてまだ導入しておらず、すべて手作業で在庫コントロールをしていた。元々正確に把握することは物理的に無理で、当時の経理部長が「エイヤー」という感じで棚卸をやっていた。それが何年も続くと税務当局も黙ってはいない、遂に査察に入られることになった。会社、倉庫は勿論の事、各役員、部長の個人宅にも六十人からの調査員が突然押し入ってしまった。
オーナーの藤田田氏も自らの意思と裏腹とは言え、ショックは大きく、早速経理の透明性と健全性を図る為にコンピューター化を目指す事となった。
当時私は「日本メモレックス」という外資系コンピューター会社に在籍しており、そこに富士通出身の先輩がいた。その先輩が藤田田氏に懇願されて引抜かれたが、彼はコンピューターの知識はあるが、経理税務の知識は余りなかった。そこで私に声がかかり、ぜひとも来てはしいという事になり、私も後を追うような形で、昭和五十一年二月に現在の会社に入った。その折、日本マクドナルド社長室で藤田田氏に言われた事は『自分は攻めの経営をやる、いろいろな事業に手を出していく、お前は守りをしっかり固めろ』という事だった。
私も必死に勉強をし、皆の手を借りてコンピューター化と取組んだ結果、数年後には十万種類もあった在庫は勿論のこと、経理業務、営業事務もすべて整然とコントロールされる事となった。以来三十年近くの間、一度も税務上問題となるような指摘も受けず今日に至っている。
当社も年月と共に豊かになってきたので、更なる会社の発展と社会貢献の為に、「研究所」を創設しようという事になった。
フジタ未来経営研究所と竹中平蔵氏
平成九年五月、当社の一部門として研究所を設立した。目的は「各種研究提言と情報発信によって社会貢献に資する」というのが大前提だが、同時に当社が日本マクドナルドから毎年数十億円という膨大な役務手数料を受取っているので、その見返りとして「日本マクドナルドの業績を如何に向上させるか」という事も研究対象とし又、実践にも移した。
私も評議員の一人に選ばれ、最初の審議事項は理事長として誰になっていただこうかという事だった。顧問税理士の伝で「加藤寛政府税調会長」にお願いしたが、公職に就いているので無理だという事になり、加藤寛氏の御紹介で慶応大学教授の竹中平蔵氏を理事長としてお迎えする事になり、同時に加藤寛氏には竹中氏を補佐して頂くという事で名誉理事長になって頂いた。
当時の竹中氏は世間的にも余り知られていなく、年令も四十代と若く、大丈夫なのかと一抹の不安に駆られた。ところがあに図らんや、委員会で何度か接していると、竹中氏は政治経済に造詣が深く、頭の回転も早く、話し振りも歯切れが良く、我々の不安は一気に消し飛んでしまった。
平成十三年四月、竹中氏は小泉内閣の経済財政政策担当大臣に就任した為に理事長を退任され、後任には加藤寛特別顧問が引受けて下さった。
竹中氏は四年間に亘り毎月一回の評議会には必ず出席し、学者としての研究成果を分かりやすく説明され、同時に藤田田会長はじめ、我々実業に携わっている者からの現実の政治、経済、税制等の問題点について、いろいろ議論し話合った事は、会社はもとより個人的にも大いに勉強になった。
当時の竹中氏の話し振りは、常にニコニコと穏やかな顔つきだったが、大臣になってからは、テレビで見る限り、年々人相が悪くなってきたような気がするが、あれだけ国会で突き上げられれば致し方ないだろうと感じた。
当社の現状
平成十六年は当社にとって厄年というか、大きな変化のあった年であった。四月の藤田田オーナーの死と相前後して、顧問税理士・顧問弁護士・米国マクドナルド会長の死、そして当社が筆頭株主であり業務提携をしていたレンタルビデオ「ゲオ」の遠藤社長の事故死と、たて続けに暗い出来事が重なった。事業面でも、藤田田氏退任後米国主導となっていた日本マクドナルドからの当社への取引解消通告、それに伴なって研究所閉鎖も余儀なくされた。
オーナーの死が、これ程までにいろんな所へ波及し影響を与えるとは予想だにしなかった。
現在の私の立場は、CFO(最高財務責任者)として、経営面のほか、経理財務を担当している。故藤田田会長の一周忌が終る迄は、特別な投資もせず、新規事業も起こさず、静かにしていようという方針だったが、一つだけ映画事業へ投資をした。タイミング的にも今やらないと機を逸してしまうからである。
映画の題名は、「ハルウララ」
高知競馬場に所属する人気馬「ハルウララ」は、現在百十三連敗中、しかしどんなに負けても挫けることなく、常に勝利を目指して全力疾走する。このような筋書きで、渡瀬恒彦・賀来千香子主演で十七年春上映予定です。何とか映画を通して日本中に再度「ハルウララ」旋風を巻き起こしたいと、撮影祈願祭には私も高知競馬場へ行き、森川時久監督はじめ、出演俳優さん達に会ってきた。渡瀬、賀来両氏共にやる気満々だったので、きっと良い映画ができるだろう、同時に当社の沈滞ムードを一気に吹き飛ばしてくれる事を期待している。
最後に、会社人間であった私も、あと何年この会社に居るかわからないが、そろそろ後進に道を譲る事も考えなければと思っている。
望郷の念も強くある。やりたい事も沢山ある。第二の人生、何をすべきか模索している。
大森 勲氏の略歴
昭和十八年二月一日 上富良野東五線北二十三号(富原)にて農業を営む、父寅治郎、母キヨの九男五女の兄弟姉妹の九男として出生。
昭和三十年三月 上富良野小学校卒業
昭和三十三年三月 上富良野中学校卒業
昭和三十六年三月 北海道立旭川商業高等学校卒業
昭和三十六年四月 日興証券株式会社札幌支店に入社するも、大学進学する事で一年で退社
昭和三十七年四月 中央大学経済学部夜間部に入学し、牛乳配達をしながら学費と生活費を稼ぎながら勉学に励む
昭和三十九年四月 中央大学経済学部夜間部から転入試験を受け合格し昼間部に転入、昭和四十一年三月卒業
昭和四十一年四月 日本メモレックス株式会社(外資系)に入社
昭和五十一年二月 株式会社藤田商店社長藤田田氏に要請され入社、経理と税務面で力を発揮し、現在は藤田商店の最高財務責任者(CFO)の任にある
平成九年五月 フジタ未来経営研究所の設立に関わり、竹中平蔵理事長のもとで同研究所の評議員となる。

機関誌  郷土をさぐる(第22号) 
2005年3月31日印刷   2005年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 成田 政一