郷土をさぐる会トップページ     第21号目次

編集後記


郷土をさぐる第二十一号をお届けします。第二十号記念号の後なので、原稿が集まらないのではないかと危倶していましたが、予想以上に多くの原稿が寄せられ、頁数の都合で次号に掲載させていただかなければならない原稿も出来てしまいました。関係者の方々には深くお詫び致すとともに、多くの原稿をお寄せいただいた執筆者の皆様に厚くお礼申し上げます。
二十一号の表紙には、地元絵画クラブ「美ふじ会」にお願いし、新しく会員になられた高口勤氏の「初秋の農場」を載せていただくことになりました。高口氏は平成十四年に道立上富良野高等学校長を定年退職され、上富良野町に残られて町監査委員に就任され、美ふじ会会員として今後の活躍が期待されています。
二十一号の原稿は次の十名の方々に執筆いただきました。
会長菅野稔氏は「発刊に寄せて」を記述され、第二十号の記念号出版と会の創立二十五周年記念式典を終えられたのを期に、「郷土をさぐる」誌の初刊から現在までの経過を執筆していただきました。
―各地で活躍している郷土の人達―シリーズでは、今回は三名の方からご投稿をいただきました。
現在北海道人事委員会委員長としてご活躍されています泉川睦雄氏には、「木の実豊かな故郷」と題して、氏が子どもの頃の自然豊かな上富良野の生活を、軽妙なタッチで書いていただきました。
松井博和氏は現在北海道大学の教授としてご活躍されており、「松井家六代のあゆみ」の題名の通り三重県から上富良野への移住の様子や、家系に継がる方々の動向などを、詳しく書いていただきました。
特に、三重県大王町から取り寄せた先祖の除籍謄本には、明治三十二年一月十四日に「北海道石狩国空知郡歌志内村大字富良野村上フラノ第四線百六十三番地へ転籍届出同月十四日同村戸籍吏三上良知ヨリ届書副本発送同月二十一日受付除籍」の記事は、明治三十年七月一日付で、歌志内村、富良野村が独立開村した告示とその内容が異なり、今後の調査研究の大きな課題を提示することとなりました。
「熱き想い我が心の故郷」と題した長谷部元雄氏は、公正取引委員会等で勤務した経験を生かし、現在も色々な役職をもって活動を続けられていますが、故郷上富良野での生活の思い出や、現在携わっている事柄の紹介と、今後の上富良野町の発展を期待した提言などについて熱い想いを綴っています。
町外からの投稿では、菅野弘彌氏が「七十年前の豊里を偲んで」と題して、子どもの頃からの想い出や、長年の職場などの出来事を詳しく書いていただきました。
遠藤博三氏のシリーズ「遠藤藤吉小伝」(藤吉の日記から)は、今回が最終回となり完結しました。長年に亘って記された藤吉の日記には、その時代の工事の状況や生活の様子などが克明に記されており、藤吉の人柄や社会の移り変りなどを観察する貴重な資料となっています。
竹内正夫氏の「飢餓を救った上富良野の燕麦」は、道南上ノ国村で勤務した中外鉱山で、終戦直後の食糧難で苦労した裏話しを初めて表に明かし、多くの上の国村の人達の飢餓を救った事例を生々しく綴っていただきました。
鈴木秀雄氏には、氏が携わった蜜蜂との出会いや、蜜蜂とともに苦労された長年の養蜂事業に対する情熱と、養蜂協会の役職に就かれ様々な問題に取組まれて解決を図って来たことを、詳しく紹介していただいています。
水谷甚四郎氏は「臨時召集とシベリヤ拘留」の題のもとに、終戦後のシベリヤ抑留時の病院での生活や、次々と亡くなって行く同朋を見送った経験や心情を書いていただきました。
菅原富夫氏には、「徐福と静修熊野神社」で、静修地区に入殖と同時に宮城県古川市の熊野神社の御分霊を拝受して祀った経緯と、秦の始皇帝時代に中国から渡って来たとされる徐福との関わりについて述べています。
今年は二月末まで例年になく北海道は雪が少ないと喜んでいましたが、二月末に冬の嵐が到来して一変に様変りし、三月に入っても毎日大雪との闘いに明け暮れするようになりました。
そんな日々を送りながら何とか二十一号の編集を終えほっとしているところです。毎年多くの方々から貴重な原稿をお寄せいただいている事に心から感謝申し上げ、編集後記とさせていただきます。
(野尻記)

機関誌  郷土をさぐる(第21号)
2004年3月31日印刷   2004年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔