郷土をさぐる会トップページ     第21号目次

徐福と静修熊野神社

菅原 富夫
昭和十一年五月五日生(六十七歳)


明治四十年に、宮城県志田郡志田村塚目(現住所宮城県古川市塚目)出身の団長佐々木伊佐ヱ門氏、副団長千葉佐五郎氏を中心とする「宮城団体」と呼ばれていた十八戸の家族達が、北海道砂川空知太の地に入殖した。
その中に、菅原長治郎(富夫の祖父)と妻(伊佐ヱ門の次女)、長男寅吉(当時五才)、次男長三郎(当時三才)がいた。
その後、長女キク、三男勇、四男熊吉、五男昇二郎が誕生する。また、菅原家に婿入し長次郎の妹カヨを妻とした米造も一緒であった。長治郎の亡父長四郎の弟である菅原儀正氏は来道せず、宮城県古川市に残った。
米造と長治郎二人は、神への信仰も深く、入殖するに当たり、入殖者一同への健康と安全・五穀豊穣を願って守り神として、出身地である宮城県古川市の『熊野神社』より御分霊を拝受していた。これは、巡礼とともに熊野神社の中で、地位の高い方と交流があった上で、御分霊を受けることができたのではないかと考える。
しかし、この砂川の地には長居せず、二年後の明治四十二年四月四日に、宮城団体一行は上富良野の静修地区に移り入殖する。
この頃の交通は歩くか馬車しかなかったので、来る時も、出かける時も近くの駅や街まで歩いて行ったという。そして、荒れはてた土地の開拓に力を入れ、大変苦労をしたようだが、豊かな森林地帯のこの静修地区にずっと暮らすことになる。
そして、宮城県熊野神社の御分神を、見晴らしの良い西十一線北三十三号、当時の高台(三角点)に半鐘(四角い板造りのもの)が置いてあったそのそばに、板張りの七〇p位のお宮を造り、守り神として祀っていた。
後に九月には豊作祈願の秋祭りの他、四月に春祭りを行なっている。長治郎の三男勇(富夫の父)が「秋祭りより春祭りの方が大事なんだ」と話をしていたのが想い出される。これは大事な守り神をもって、四月にこの静修地区に移り住んだことを、ずっと親から聞いていたのだろう。
しかし、お宮も色々害を受ける事も多く、一度少し場所をずらしてしばらくそこに祀っていた。
大正五年に、高台から西十二線北三十二号の現在地に移し、神殿を建て「静修熊野神社」として祀った。その頃、福島団体の天照大神を中心とする地神の他、静修の三・四部落を氏子とする神社などが、大正七年、熊野神社に合祀された。また、大正四年、江幌開拓地で大串新七氏が天理教を布教開始しており、大正六年に菅原米造と菅原寅吉(長治郎の長男)が同時に入り、熱心に天理教を信仰し始める。
大正十二年に、十二線に土地があった台丸谷氏が、天理教に土地を寄附し、大串直平氏が天理教旭江分教会とし設立する。本部は、天理教南海大教会(和歌山県新宮市)の雨竜分教会(深川市)に所属されている。
当時この西十二線北三十二号の敷地には、熊野神社並びに天理教の他、青年会館には天照大神を祀っていた。
昭和二十六年に、「静修熊野神社」がある土地の主、山中もり夫氏はほとんど一人で一冬を掛け倉庫の中で春祭りまでに新しい神殿(現在のお宮である)を造り、建て替えた。この頃、春祭り、秋祭りのお勤めは伊藤栄作氏(現在里仁に住む菅野アサ子さんの父)が行ない、おはらいの後、自分で作ったお札を配っていたそうだ。その後、天理教会長大串直平氏が行っていたが、昭和三十五年二月に、天理教分教会を上富良野町西町に移転している。
その後、菅原寅吉が天理教の神主の資格を持っていたので、袴をはいておはらいしている姿が、ぼんやりと思い出される。
現在のように、上富良野神社の神主さんに静修熊野神社に来てもらい、お祓いをするようになったのは、昭和三十八年か、昭和四十年ころと思われる。
熊野神社の近年の総代は、菅原寅吉から、山中藤三郎(山中もり夫の兄)氏・伏見辰雄氏・佐藤公民・菅原富夫(平成七年から現在)と受け継がれている。
平成十三年、静修部落合併総合記念で鳥居を建立して盛大にお祝いを行った。
同年十一月十日、「徐福を語る国際シンポジウム」が行なわれた。東京の研究家山本弘峰氏により、ご神体は二二〇〇年前頃の秦の始皇帝の臣、徐福が皇帝の命で東海の三神山に不死の仙薬を求めたという伝説上の人物と、大きくかかわりがあるのではないかとみなされ、東中神社神殿と静修熊野神社を、各国の研究者、日中韓の研究者が視察し、上富良野と徐福のつながりを議論されたと聞いている。
国際的になることに驚いてしまい、戸惑いもある。
でも本音は、先祖が守ってきたこの神社を受け継ぎ、静かに時を重ねていきたいと願うところである。
徐福との関わり
平成十四年十一月十日、上富良野町公民館において日本、中国、韓国、台湾の「徐福」研究者が集まり「徐福を語る国際シンポジウム」が開催された。
そのきっかけとなったのが静修熊野神社とその御神体で、祠の雰囲気が三重県の熊野神社に類似している点や、御神体は日本では例の少ない中国風になっていることなどから徐福にかかわりがあるのでは、ということで北海道ではじめてこの種のシンポジウムが行われた。
徐福は、秦の始皇帝時代(BC二七八〜二一〇)の人物で始皇帝の命により不老長寿の薬を求め、童男女三、〇〇〇人と共に五穀の種・色々な道具や技術者を連れて日本各地に渡来し稲作・和紙・織物・やきものを伝えたといわれている(このことは中国の史書で司馬遷の書いた「史記」に記述されている)。
徐福伝承地は、日本に二十ケ所あると言われているが、ほとんどは二千数百年以上の長きに亘って公伝として語り継がれ神格化されたものと思われる。
その時代(縄文から弥生への過渡期)の遺跡から徐福の渡来を裏づける証拠は何一つ発見されていないのが現実である。しかし二千数百年たって上富良野町に徐福にかかわりがあると思われる、静修熊野神社の祠や御神体が関係者によって発見されたことは、歴史の不思議なロマンを感じざるをえない。
中国では今日新遺跡が発見され、二千数百年の歴史が史実として、その実体を表し始めており徐福についても徐々に解明されつつある。
日本においても科学的根拠の裏づけによって、徐福が実在し日本の歴史に何らかの影響を与えたのか、これを実証出来る時がくるとすればなんとすばらしいことだろう。
当時の事を調べるため、数人の知人、諸方の神社の方々から多くの参考意見を聞かせて頂けたため、ここまで知ることができたことに対し心から感謝を申し上げ筆を止める。

機関誌  郷土をさぐる(第21号)
2004年3月31日印刷   2004年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔