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臨時召集とシベリア抑留

水谷 甚四郎
大正二年十一月四日生(九十歳)

臨時召集されて北朝鮮へ

昭和十八年十月一日、「午前十時までに、旭川市北部第五部隊に参着すべし」の『臨時召集令状』を受け、第二補充兵陸軍騎兵として召集された。
私は三十歳で、家には妻と三男二女の子供がおり、非常に厳しい家庭環境での臨時召集であった。
私が臨時召集されたのは関東軍要員だと聞かされたので、満州(現在の中国東北地区)へ行くのだとばかり思い込んでいたが、実際に着いた所は、こんにち何かにつけて話題になっている、北朝鮮の慶源(けいげん―当時は朝鮮感鏡興北道慶源)という町であった。
慶源の傍を流れる豆満江(河)を渡るとすぐ渾春(こんしゅん)という師団司令部がある所で、ここはソ連と満州、そして当時わが国が統治していた朝鮮が互に接近した戦略上の要地で、騎兵隊としては最前線であった。
ここで、初年兵の検閲を受けるべく、着くが早いか飼付馬(かいつけば)を持たされて張り切っていた。
その頃の北朝鮮は、実にのどかな農村で、豆満江の向いの満州(現在の中国東北地区)とは自由に往来ができたので、今の北朝鮮とは比べ様もないくらいで、戦争はどう考えてもするものでないと肝に銘じている。
シベリアに抑留
私達が必死に守っていた国境も、ソ連軍の進攻に屈した戦況で程なく終戦となった。
武装解除され捕虜第二号として「ハバロフスク」に一番乗りしたのが昭和二十年九月十五日で、終戦の一ケ月後であった。
その後「ベストロ」「ダワイ」で一ケ月位重労働に服していた頃、終戦以来、私の肌から離れたことのなかった虱(しらみ)による発診チフスと、栄養失調による体力低下から、四十度以上の高熱が数日続き入院治療を受けることになった。
発診チフスが伝染し、数十人の捕虜が病院行きのトラックに立ったまま詰め込まれ、悪路のため揺れる度ごとに、高熱と栄養失調で体力・気力のない仲間が一人二人と倒れて行き、倒れた人は踏みつぶされた状態になり、病院へ着いた時には十人位は虫の息であった。
私は幸いに荷台の前列で、固定の鉄枠にしがみついていたので倒れることはなかったが、病院のベットに横たわるとそのまま意識不明となり、目を覚ました時は別の病棟にいた。
病院生活の始まり
ある日のこと、意識不明からふと日を覚まし、廊下に出てウロウロしている私を見つけた兵隊に連れられて用を足した。私はベットに戻ってから何かしら病気を克服した様な気分になることが出来、一気に回復に向った様で、それだけに腹が空いて仕様がなくなっていた。
この病室は、いわゆる快復期の患者ばかり集めた大部屋で、十人位の同朋が「寒いなー」「腹が空いたなー」と毛布にくるまり、ペチカに寄り添って暖を取っていた。
そこで私は、病院の階段踊場に置いてある丸太に気付いて、看護婦さんに聞くと、ペチカの燃料用だが切ったり割ったりする人がいないのでとの返事であった。
私は一番元気で仕事をやりそうな一人の患者の同意を得て、道具を取り寄せてペチカ用の燃料づくりを行い、それを燃やして同室者と暖を取っていたら「ラボーターハラショ」(優秀な労働者)と誉めてくれ、黒パンを増配してくれ相棒と二人で仕事をして良かったなと喜んだ。
それから暫くして、今度は炊事場へ水を運んでくれという。外へ出るのは寒いからと言うと、私達二人分の衣服を出してくれた。これ幸いと外出用にしてたので、入院患者がだんだん作業員らしくなっていた。
こうして病院側との関係も深まって行く中で、片言ではあったが、一応のロシア語での会話は通じ合うようになっていった。
ある日、例の看護婦を通じて、今日も外出用の服装でぜひ頼むと言われたので、外で待っていた人に付いて行った所「アッ!」と息をのんだ。
それもその筈、ここは死体の倉庫で、目・鼻・口などの穴を鼠(ねずみ)にかじられて、無惨な姿になったかつての同朋達がずらりと並べられているではないか。一瞬ひやっとしたが、ここまで来た以上引き帰すわけにもいかず、指示に従って頭と足を持ってトラックに積み込んだが、私は幼い頃からお念佛で育てられて来たので、亡き同朋を一体積む毎に心の中で「南無阿弥陀佛」と唱えながら積み終えた。
もし、立場が変っていたらどうなっていただろうか、考えるだけでもぞっとする。
芸は身を助く
忘れられない終戦の年も、温い我が家で迎えることもかなわず、シベリヤの病院での大晦日を迎えた。
当日、病院側の好意で患者への心尽くしの「かくし芸大会」が催されるという。
すっかり顔なじみになったシストラー(看護婦)のお声がかりで私の出番となり、かねて自慢の浪曲物真似を、声が嗄れんばかりに頑張ったので、見事一位となって黒パンを持ちきれない程貰い、大部屋の患者同朋にも配り大変喜ばれた。
病院の移動
酷寒零下四十度、唄の文句にあるシベリアではあったが、何んとか凌(しの)ぎ切ったなと思われる頃、どんな理由か判らぬまま「ビリヤスロフカ」という所へ移動することになった。
我々、捕虜の身分では命令に従ってさえいれば良いことなので、荷物を山と積んだトラックの荷物にしがみついて移動した。
着いた所は、丘あり、川あり、畑ありという小さな町で、患者達も珍しい芽茸(かやぶき)の土間に寝台を並べただけの病室で、内科と外科だけの診察室が建っており、少し離れた所に作業隊と炊事棟がある状況で、「ハバロフスク」とは比較にならない貧弱な設備であるが、私はこういう所も悪くはないと思った。
病院の環境整備にひと役
我々病院付きの仲間でも、ブツブツと不平不満を言う者もいたが、私だけは仕事が倍以上になってもみんな任せてもらい、張り切って働いた。
川向いの土堤の木に花が咲き乱れ、白樺が芽生え始めた頃、誰れが言うともなく遠足かたがた白樺の木を利用して「東屋(あずまや)」を作ることになった。ドクトル(医師)の許可を受けて、シストラー(看護婦)の案内で車を引いてルンルン気分で行き、昼食までに車一台分の白樺を運んだ。
その日のうちに、腰掛けまで付いた「東屋」を作り、患者や関係者に喜んでもらったこともあった。
野菜作りで失敗
野菜作りで、青物の菜豆はともかく、キュウリや南瓜まではどうやら終わらせたが、サヤ豆用にと大豆の種を用意してくれたが、水分を含ませてから蒔いた方が早く芽生えするものと思い実行した。
なかなか芽が出てこないので、土を掘ってみたらみんなシワだらけになってしまい、その顛末をドクトルに報告したら、皆んなで食べたのではないかと言われ、口惜しい思いをしたこともあった。
ソ連邦時代に生きて
今、北朝鮮では金正日首席を「将軍様、将軍様」と崇拝している様であるが、私達のソ連邦生活時代が共産党の一番幅(はば)を利かせていた時であったと思う。
「スターリン様」と祭り上げ、「スターリン」に明けて「共産党」に暮れたと思われたが、我々の暮らしていた田舎町「ビリヤスロフカ」でも「少佐殿」ではあったが、「マヨール・マヨール」(少佐・少佐)と奉っていた。
私が一番体験できたのはソ連の子供達で、仕事の関係で外出の自由を幸いにして、ロシア語を覚えるには好都合だった。
党員の子供達は服装が違い、農民の子は学校にも行けず、道端でウロチョロしていて、話しかけるとすぐ応じてくれるので、ロシア語の良い先生になってくれた。
又、病院の勤務者の下宿先を訪問した時でも、留守番役の老人から昔の話しを聞いてやると、声をひそめながら会話がはずむこともあった。
スターリン時代では、例え孫であっても密告されることにもなり兼ないので、早く政治体制が変るように祈っているということだった。
時々、病院関係者と連れだって外出した時に、生活用品の受嶺に司令部まで行くこともあり、病院に戻る時は必ず何かお土産を頂くので、患者達が欲しがっているものを貰った時などは分配してあげていたので、「シバシーバ」(ありがとう)とロシア語で喜んでもらったことも度々あった。
二回目の同朋の死体処理
病院を移動して来て、初めて病死した同朋仲間を埋葬することになった。
今度ばかりは、息を引き取って間もない死体に、新しい病衣を着せて墓地まで運び土葬の形にしたが、穴を掘るのにシベリアでは凍土が深く大変な苦労をした。
今度からは作業隊を頼んで、凍土がすっかり溶けた頃に四、五ケ所位まとめて掘ってもらいたい旨を進言したが、果して実現したかどうか定かでないまま帰国することになった。
幾つも掘った穴が場合によっては、私自身が入らなければならない穴であったと思うと、よく言えたものよと我が身の図々しさを悔やんでいる。
日本共産党記念日の演芸会
春も過ぎ夏を迎えようとしていた或る日、日本共産党の記念日だから病院で演芸会を開催すると通知された。
我々の病棟にも一定の時間が割り当てられたので、ラボーター(労働者)の仲間と相談したところ、私に一任するからとのことであったが、責任の重大さを感じ必死に構想を練った。
ある本で読んだストーリーを思い出し、「真実一路」と演題をつけた人情芝居をやることに賛同してもらった。
私の喉(のど)を利かせた、浪曲で始まり浪曲で終わるといった、即席芝居を仮設の舞台で堂々と演じたところ同朋の涙と共に、ヤンヤ・ヤンヤの大喝采を頂き、大きな責任を果すと共に、同朋の祖国を思い、故郷、父母、妻子への思いを馳せさせたことが、いまだ忘れられないでいる。
夢の日本ダモイ(帰国)の実現
良かれ悪しかれ、たかだか捕虜としてのシベリア抑留生活も三年の月日が流れようとしていた。
昭和二十二年七月の終り頃、何かそわそわしい雰囲気が漂(ただよ)い始めたので、質(ただ)してみたところ病院の移動説らしいということが判った。
このままでは、ダモイ(帰国)がいつの日になるのかと、思い切ってドクトルに面談し、故郷に残してきた家族の実情などを打ち明けてお願いしたところ、ようやく理解してもらえた様なので、御礼奉公のつもりで一生懸命に働いていた。
八月に入ってお盆の頃に、一番年齢の若い中村君だけを病院に残して、ラボーター(労働者)一同は晴れて作業隊に移り、更にソ連一番乗りをしたラーゲル(収容所)に戻った。暫くぶりで戦友とも出逢えて嬉しかった。
この収容所へ入ってからも「ダモイ・ダモイ」(帰国、帰国)と念じながら働いて、一ケ月近くも経った頃、ようやくダモイ(帰国)列車が来て、捕虜用にと造成された「ナホトカ」の港に集結し、昭和二十二年十月中旬に「遠洲丸」に乗船し、ナホトカを出港し、夢のダモイ(帰国)の途についた。昭和二十二年十月下旬に入港し、ようやく日本の土を踏むことが出来た。
昭和二十二年十一月十日、妻子六人の待つ我が家に帰り、御仏壇に感謝のお経を上げさせて貰った。
帰宅した日が、亡き父、甚五郎の十七回忌の日で先祖が護ってくれたものと思っている。
死線を越えて
今日も、たまたまこの原稿を綴っていると、テレビにかっての引揚げ地である「舞鶴港」の放送があり、懐かしさのあまり、妻とも当時の事を語り会いながら、タイミング良く脱稿する事が出来て、最高の気持である。
国境警備の時に開戦となり、終戦と同時に虜囚の身となり、酷寒の地シベリヤに抑留され、何万人とも知れぬ同朋を見送る結果となった。
生き長らえて、今また次から次へと友人、知人にも先立たれ、昨年まで「元気だ」そして「元気でいいね」と誉め上げられながら、ついその気になっていたのにあにはからんや、正月早々に重症患者として旭川医大に入院して三週間、命からがら生還を果す事が出来て、感ひとしおの思い出にひたっている。
長い人世の歩みの中での暗夜行路、幾度もいく度も死線を越えて、今を生きている。
親から授かったこの尊い命、そんな気持がひしひしと迫ってきているのを肌身に感じつつ、卒寿の坂を越えようとしている私である。

機関誌  郷土をさぐる(第21号)
2004年3月31日印刷   2004年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔