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蜜蜂と共に五十年

鈴木 秀雄
大正十四年十二月六日生(七十八歳)

一、蜜蜂との出会い

私と蜜蜂との出会いは、昭和十八年の春でした。
同じ部落の西山幸次郎さんが軍隊に行かれたので、蜜蜂の世話をする人がいなくなり、西山さんのお母さんが蜜蜂の箱三箱をリヤカーに積んで私のところに持ってきたのがきっかけです。
好奇心が旺盛だった私は子供のころから蜜蜂に興味を持っていたので、蜜蜂に関する本を買って読んだり、ときどき私の家(当時日の出三北に居住)から、一・五キロほど離れた西山さんの家に蜜蜂の箱を覗きに行っていました。箱の入口から蜜蜂の群れが出入りする様子を観察したり、蜂蜜を採取する仕事を見ていた事があったことから、西山さんは私が蜜蜂の世話をしてくれるのではないかと、私のところに持ってきたものと思います。しかし、蜜蜂を預かって間もなくの昭和十九年秋に、私も十九歳で志願兵として入隊したので、兄(政雄)がまた西山さんに返しに行ったそうです。
昭和二十年に終戦とともに復員して家に戻り、農業の手伝いをしていましたが、昭和二十三年に親しくお付き合いをしていた蒲生金太郎さんから、「近く秋田から養蜂をしている杉山さんが、夏の蜜蜂の転飼(蜂を移動して花の蜜を集める)場所を求めて上富にやってくるが、蜜蜂のことは何もわからないので、杉山さんの世話をお願いできないか」と頼まれました。私の家で杉山さんの世話をすることとなり、杉山さんは蜜蜂を持ってやってきて、ひと夏、私の家で生活することになりました。
私は子供のころ、家で牛を四頭はど飼育していた事もあって、将来酪農家になろうと考えていました。
牛を購入する資金を貯めるために、夏は兄の農業を手伝って給料をもらい、冬は造材の仕事に出て働きながら資金を貯めていました。そんな時に杉山さんが家に来て養蜂の仕事をしていたので、前から興味を持っていた蜜蜂への思いが昂じ、酪農を始めるための資金を元に、昭和二十四年に杉山さんから十五群(箱)の蜜蜂を譲り受けることにしました。
その年は冬を迎えるので杉山さんに蜜蜂を預かってもらい越冬をお願いして、翌年北海道に来たときに受け取ることにしていました。ところが急に杉山さんは北海道に来る事が出来なくなり、私が秋田県まで出向いて蜜蜂を受け取りに行くことになりました。
昭和二十五年五月に杉山さんを訪ねて秋田県二ツ井町まで行きましたが、杉山さんと蜜蜂が居る場所はそこから十六キロメートルほど山奥に入ったところとのことで、そこへは営林署の軌道を利用するしかありませんでした。しかしその時期は田植えのため、軌道車の運転手はお互いの手間替えによる田植え作業をするとのことで休暇をとっており、軌道は運休になっていました。
十六キロメートルもある初めての道をどうやって行こうかと思案に暮れながら、四キロメートルはど歩いて小さな集落まで行ったとき、幸いにも手間替えの人達のご馳走を買いに来たというおばさん達と出会う事が出来、一緒させていただいて大変助かりました。
着いたところは山奥にある分校の校長先生のお宅で、そこで杉山さんと久し振りに会うことが出来ました。しかし、集落は猫の手も借りたい程の忙しい田植えの時期だったので、私も五日ほど田植えのお手伝をしながらお世話になりましたが、それからが大変で、珍客到来とばかりに毎晩飲み慣れないドブロクのご馳走責めに会い、朝起きると二日酔いの頭痛に悩みながら、近所の田植えの手伝いをしたものです。
田植えも終わり軌道が通るようになったので、営林署にお願いして蜂の箱を積み二ツ井駅まで運びました。譲り受けた時は蜂の箱は十五群だったのが倍の三十群に増えており、二ツ井駅からは輸送の安全を考え客車扱いで発送してもらいました。積替えの駅ではいちいち立ち会いトラブルも無く、無事上富良野駅まで到着する事が出来ました。
二 専業への道
昭和二十五年ころ、家では苺を三反はど耕作し、毎朝、新鮮な苺を町内の果物屋さんを通して旭川の市場に出荷していました。ところが、苺の値段が日に日に安くたたかれ、このままでは手間賃も出ないようになったため、兄と相談して一日だけ出荷を止めることにして、一籠だけを残してその日に摘んだ苺を近所に配りました。
残した一寵の苺を背負って汽車で旭川へ売りに行くことにしましたが、初めてのことで商いの事もわからず、駅近くのマルカツデパートの角にあった「岩木果物店」に入りました。
『苺を買ってほしい』と交渉しましたが、『苺は毎日上富良野から仕入れているのでいらない』と断られてしまいました。
『今日は苺は入りませんよ!なぜなら私の家で苺を出荷しているけれども、今日は出荷しないで直接持ってきたのだから』と説明すると、『それは困るが、毎日間違いなく運んで呉れるのであれば買いましょう』ということで交渉が成立しました。
その事を聞いた上富良野の果物屋さんも値上げをしてくれたので、元通りに出荷することになりましたが、その時に岩木果物店の棚に蜂蜜の瓶が五本ほど並んでいたので、『私も蜜蜂を飼育しているので養蜂の方法を教わりたいが、この蜂蜜はどこから仕入れたのですか?』と尋ねたところ、奥さんの従兄弟に当たる人が神居古譚で蜂飼をしていることがわかりました。
昭和二十五年八月、旭川の博覧会を見に行った折に岩木果物店に寄ったところ、『従兄弟が来ているから会ってみないか』と教えてくれたので、会ってみるとその方は奥さんでした。私は奥さんに『少ないが私も蜜蜂を持っており、蜂飼の仕事を勉強したいので、食費も払うし一生懸命働きますので雇ってほしい』とお願いしたところ、奥さんは『家には若い人も二人雇っており、私の一存では決めかねる』と、あまりよい顔はされませんでした。私は『後日改めて神居古譚までお願いにお伺いします』と申し上げて別れました。
数日後の雨の日に、農作業も蜂の仕事も休んでいることと思い、汽車とバスを乗り継いで酒とお菓子をお土産に神居古譚を訪ねて行きました。
岩木果物店の従兄弟の人は名前を「中島鶴二」といい、当時四十七歳で名前の如く鶴のように痩せた人でした。面接は一回で合格でしたが、冬期間だけ九州に行き蜂の飼育をしながら世話になることで話が決まりました。
秋になり蜂飼いが閑になった頃、中島氏から依頼が来ました。それは『神居古譚で採れた蜂蜜五十缶(一缶24キロ)を小豆と交換する相手を探してほしい』との事でした。交換条件は蜂蜜一缶と小豆一俵でしたが、私の力だけでは荷が重過ぎるので、姉婿の佐藤清二さんにお願いすることにし、義兄の手数料として小豆一俵に一斗(15キロ)を付けてもらうことで農家と交渉してもらい、五十缶を全部捌くことが出来ました。
そのことを中島氏に話すと、義兄の手数料の分も渡すように要求され、約束と話が違うと腹がたちましたが、義兄に『お前が世話になるのだから何も言わずに全部渡してやれ』と言われ全部渡すことにしました。そんなことから義兄にはただ働きのようにになってしまい、気の毒を掛けてしまいました。後で分った事ですが、当時中島氏は満州からの引揚げで多額の借金があり、経営も大変若しかったようです。それにしても他人に対する思いやりの気持ちに欠けた人だとつくづく思いました。
九州ではこんな事もありました。春になり菜種が咲いたので越冬地から諌早市に移動したときでした。
長い間箱に閉じ込めていたので巣門を開いて早く蜂を開放してやらなければならず、一生懸命働いて師匠の蜂を次々と巣門を開いて開放しました。しかし、いざ自分の巣箱を開放しようとしたところ、『同じ場所に置かすわけにはいかないから、自分で他の場所を探して借りなさい』と言われました。私は初めての土地で知った人も無く、あちこちと駆けずり回ってやっと近くの場所を借りて蜂を開放したときには、一番優秀な強群の蜂が二群死んでしまいました。
中島氏は面倒なことをするのが嫌いな性格で、北海道から積んできた六十俵余りの小豆も私が少しずつ袋に分け、一人で長崎の町を歩いて食品を扱う商店を訪ね一週間ほどで全量を売り捌きました。ちょうど年末だったので相場の四倍の値で売れました。
菜種の花が終わるとレンゲ草の花を、それが終わるとミカンの花を求めて移動しなければなりませんが、中島氏はそれらの場所を確保しておらず探そうともしなかったので、仕方なく世話になった人々に訳を話し、伝を頼りに私が場所を探して若い人を使って全部の蜂の移動を済ませました。
このように自分で自ら積極的に動いて、蜂を条件の良い場所に移動して有効に働かせようとしないので、質の良い蜂蜜も収量も得ることが出来ず、中島氏は何時までたっても借金に追われる生活しか出来ないようでした。しかし、弁が立ち社会の機構を上手に利用することが得意でした。
北海道から九州まで蜂を輸送した時でした。はじめは荷物の着払いで申し込み、九州に到着すると後払いの交渉を進めて、もめながらも納得させ、結局一円の現金が無くとも輸送することが出来、そんな方法があることも大いに勉強になりました。
昭和二十六年六月の初旬、二年間お世話になった中島氏と別れて北海道に戻るときに、長崎で養蜂を営んでいた老夫婦が廃業するので蜂を手放したいとの事だったので、思い切って蜂を全部買い受け、帰りの十トン貨車がいっぱいになるように百三十箱に増やしました。
その後、北海道と長崎を行き来しながら少しづつ蜂を増やしていきました。
三 蜜を求めて移動
花を求めて北海道を発つのは十月の末で、最初は越冬地の長崎県野母半島に行き、びわの花で蜂飼しました。びわの花が終わる二月初旬になると、今度は繁殖のために鹿児島県の枕崎市に移動します。そこでは毎年巣箱の中の蜜蜂を増やして、四月初旬になると菜種やレンゲの花の多い佐賀県有田市との境界にある波佐見町というところに移動して行きます。
波佐見町は蜜を採るには条件が良かったのですが、盆地の寒いところでしたので、早春の繁殖地には南の鹿児島県枕崎市まで移動し、五月初めにはミカンの花を求めて長崎ミカンで有名な多良見町伊木力まで行きました。五月下旬には再び盆地の波佐見町へ戻って二週間ほど滞在の後、多くなった蜂を分割し六月初めになってやっと北海道に戻ってくるわけです。
このように北海道から九州に渡り、野母半島から枕崎市などへと移動する生活を家族と共に数年間続けて来ましたが、三年目からは子供の就学のために家族と別れ、その後は単身赴任の生活を四十年余り続けて来ました。
四 レンゲ蜜蜂の危機
昭和三十八年ころからアメリカからの害虫(アルファルファ・タクゾウ虫)が侵入し始め、レンゲ草が食い荒らされました。四十年頃になると九州全土に広がり、レンゲ草からの蜜の採集は皆無となってしまいました。当時私は、日本養蜂蜂蜜協会の理事をしており、この害虫の対策担当理事を務めていたので被害額を試算してみたところ、レンゲ草の蜜の減収が十億円、害虫の駆除費に十一億円掛かる事がわかりました。これでは養蜂農家だけではどうにもならず、当時会長職にあった山中貞則代議士に、この窮状を農水省に掛け合ってほしいと要望しましたが、『これが人命に関わる事でもないので。』と腰が重く中々動いてくれません。そのため私が直接農水省に出向いて説明したところ、担当官は快く話を聞いてくれ、好意的な方で文書で農林水産技術会議に載せていただけることになりましたが、残念ながらこれが正式に取り上げられたのは私が理事を辞めてからでした。
しかし、害虫は全国に広がってしまい世界一の品質を誇っていたレンゲの蜂蜜は、市場に出回るだけの収穫を期待する事ができなくなってしまいました。
五 養蜂業界の一助に
私のような者でも長年同じ仕事をやっていると、多くの人から認められるもので、色々な役職を仰せつかることになりました。旭川養蜂組合長十四年、日本養蜂協会理事六年、北海道養蜂農協組合長六年、北海道養蜂協会長四年などの役職を歴任しましたが、これらは総て選挙によって選ばれたものです。
経済団体から指導団体の長に就き、養蜂仲間の皆さんに支えられて今日までやってきましたが、期間中多くの課題を解決し、中でも十四年の永い間棚上げになっていた本道特産の蜜価格が、一缶当たり五百円の値上げが出来たことは、大変喜ばしいことであったと思っています。
一昨年九月、一切の役職を引退し、協会有志の奔走により北海道産業貢献賞の栄に浴しましたが、もう第一線を引きなさいという意味合いだったのかも知れません。
六 現在の心境
今年(平成十五年)の春は雨が多くミカンの蜜も大不作で、全国的に密不足になるような気がします。
私も九州で五百缶ほどの蜜を扱ってきましたが、今は遠い昔の夢物語です。それでも良くしたもので、蜜が採れない代わりに苺やメロンの花の交配の仕事を与えてくれました。現在大多数の養蜂家がその恩恵に浴している筈です。家庭を遠く離れて不自由な生活をしながら、真面目に働いている仲間たちに幸せがありますようにと祈らずにはおれません。
蜜蜂と共に五十余年、家族と離れて暮らすなど総じて幸せとは言えなかったかもしれないが、古希を過ぎて気力・体力共に衰えた現在、九州行きは今年限りと定めてそれなりの処置をして長崎を出てきました。
今年からは長い冬期間、蜜蜂たちを雪の下で越冬させねばなりませんが、諸先輩方の指導を受けながら初めての経験を勉強していきたいと考えています。
雪の下の越冬に失敗したとき、私の養蜂生命は終わることでしょう。そのときは老人会にでも入れていただき、カラオケやパークゴルフを楽しむ第二の人生が残っておるでしょうか。または生涯働き蜂で終わる方法を選ぶかも知れません。
==上富良野町の養蜂の歴史==
上富良野の養蜂の歴史を調べようと思い、東中を中心に町内各地を廻って見ましたが、現在健在な方は日の出の長沼善治さん位で、大方の人は故人となられ詳しいことはわかりません。
東中の神谷加津馬さんの息子さんや、宮崎善明さんの妹さんは、蜜蜂の手伝いもされたとの事で、秋遅く岐阜に転地していた池田さんに越冬を依頼するために、駅まで蜂の箱を運んだそうです。
私が養蜂を始めて、一番親しくしてもらった江花の大場福蔵さんは、四年間の付き合いの中で寒地越冬の方法を良く教えて下さったものですが、大場さんは永年自分で越冬してはとんど失敗した事がなかったそうです。蜂の量、餌の量、換気の方法等、今思えば合理的な事ばかりで、今年、初めて寒地越冬を行う私には大場さんの話は大変参考になります。
その大場さんも故人となられてもう五十年を過ぎました。
上富良野百年史に養蜂に関する記述がありますので、ここに再掲します。
「旧村史原稿によれば、大正四年高橋貞之丞並びに河村森由氏が副業として、岐阜県より来村せる養蜂家道野要次郎氏より分蜂を受けたるを起源とす。」とありますので、本町の養蜂の始まりは大正四年と分ります。
昭和期に入ってからの動向についても、「大正十二年頃は、五十群程度の飼育状態でしたが、昭和五年頃において部落青年の養蜂者が続出し、飛躍的な発展を見るに至る。昭和十五年頃は、大石富一氏、宮崎明善氏、床鍋正則氏等が協議の上東中養蜂組合を設立して、東中部落区域内に於ける養蜂家団結の基に道庁並びに北海道養蜂組合連合会等と連絡し、資材の配給を受けつつある中、村内の養蜂家の要望により東中組合を上富良野養蜂組合と改称、組合長床鍋正則氏以下組合員二十五名一致団結して九百五十群の蜂群を擁し、その前途洋々たるものであり。」とあるのは極めて大きな数字だが、飼育戸数や養蜂生産額の推移については分らないところが多い。
大正期及び昭和初期の各「村勢要覧」から確認できる蜂蜜生産や飼育戸数は、極めて変動が大きく、一部には誤植と思われる部分もあるが、大まかには大正後期で飼育戸数は二十戸、飼養箱数は八十箱、生産は五百貫前後で、それが昭和十年頃になると七十戸、二百箱、二千貫程度まで増加していたと見られる。
なお、「昭和二年統計報告控」には十年度養蜂統計の備考欄に「箱数に比し蜜収量多きは二百箱飼養農家一戸転飼法により十一月岐阜県へ転居せるによる」という添え書きがあり、詳細は分からないが、春になると定期的に上富良野にやってくる養蜂業者がいた可能性が高いと思われる。」とありますが、之は草分西四線北三十一号で岐阜県と上富良野の転地養蜂をやっていた池田さんと一致します。池田さんは富良野地域で唯一人専業養蜂家でしたが、後年養鶏に切り替えています。昭和四十年五月病気のため亡くなられたとの知らせを、転地中の九州で受けましたが、九州からは出席できないので家内が代わって葬儀に出席しました。
戦後、養蜂ブームで多数の養蜂家が来道しましたが、後継者不足等で現在は半減しています。上富良野の場合も同じで、現在私が一人残っただけで蜂の箱数も最盛期には千群近くあったのが、老齢化とともに現在は三分の一に縮小して、五十四年に亘って九州で越冬したものを、今年から上富良野で越冬する事にして準備を進めています。命運をかけた雪中越冬に失敗した時は、上富良野の養蜂史は終わりを告げる事になるでしょう。
平成十五年十月記

鈴木秀雄氏のプロフィール
・大正十四年十二月六日  山形県長井市に生まれる
・昭和五年 上富良野村に移住
・昭和十五年三月 上富良野村立上富良野尋常高等小学校卒業
・昭和十九年九月 北部四部隊通信中隊志願入隊
・昭和二十年九月 終戦復員
・昭和二十四年 養蜂業を始める
(活動暦)
昭和五十年九月〜平成十三年九月 北海道養蜂協会理事 十八年
北海道養蜂協会会長 四年
昭和五十五年九月〜平成十三年九月   北海道養蜂協同組合理事 二十年
北海道養蜂協同組合組合長 六年
昭和六十二年二月〜平成七年二月 (社)日本養蜂はちみつ協会理事   六年
(功績)
鈴木秀雄氏は昭和二十四年に養蜂業を開始以来、地域の養蜂産業の振興につとめ、永年にわたって養蜂協会、同組合の役員として活躍され、次の功績を残されている。
   蜜源植物の保護増殖
   蜜蜂の円滑な転飼調整
   蜜蜂を活用した花粉交配の組織確立
   本道特産シナ蜜の販路拡大
近年、蜜源植物であった栽培作物の菜種や放牧地のシロクロバー、天然広葉樹の栃の木、シナの木等が減少し本道養蜂業界にとって厳しい状況におかれていることから、蜜源植物の増殖を図るため、北海道養蜂協会の独自事業として地区養蜂組合に対するアカシヤの苗木やクロバー種子の助成措置を講じ、現在も地区事業として定着しつつある。
その功績が認められて平成十五年二月、北海道産業貢献賞を受賞する。

機関誌  郷土をさぐる(第21号)
2004年3月31日印刷   2004年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔