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飢餓を救った上富良野の燕麦

上富良野町清富 竹内 正夫
大正十年二月十六日生(八十二歳)


はじめに

私はこの「郷土をさぐる」誌に今迄、既に二回投稿させてもらった。
今回のこの投稿は、ずっと以前から終戦直後の配給生活者の様子を、農業地帯の方々に知ってもらいたいと思って居たのでしたが、悪事に係ることが多いので差控えて居たのでした。
ところが平成九年の秋に、教育委員会から、上ノ国遺跡発掘二十周年記念シンポジウムが開催されるから希望者は参加申込みをする様にとの案内をもらった。
上ノ国村と私との係りについては、郷土をさぐる誌第七号・八号に『清富地区小水力発電所建設』について書かせてもらっているので、茲では省略させてもらいます。
五十年ぶりに上ノ国村へ
五十年近く上ノ国へ行かなかったが、上ノ国に遺跡が出た事を初めて知ったので、たまらなく行って見たくなり参加申込みをした。
知った人の誰かに会えるだろうと楽しみにして出掛けた。時期は平成九年九月二十四、二十五、二十六日の三日間であった。
約五十年の年月を経た様子は大きく変って見えた。
その日の日本海からの風はやはり荒い感じを受けた。
受付を終えて、もらった資料を見る。出席者の名簿を見るが知った人は誰も居ない。
開会式の次第に町長の挨拶があり、その町長が姓を福原と言った。上ノ国には福原姓は何人も居たので、その誰かの血縁の人なのか?世話係らしき人に聞いて見た、やはりそうであった。
不思議な出合と言えば良いか、その町長の母堂様(九十余歳)が先刻亡くなったということだ。私の知っている福原さんの奥さんでした。そして町長はその五男か六男だということだが町長は開会式の挨拶に出たきり、この催しには顔を出さなかった。
終戦が近付いた十七年頃、軍需鉱山に指定され、ワッショイワッショイと鉱石を堀出すことだけに明暮れして居て他に何事も考えられなかった貧しい半農、半漁の上ノ国村、その又昔の北の海岸は、ニシン漁で賑った時もあるということだが今はその面影も無い、ましてや北の町に遺跡があることなど、私共には知る由もなかった。
二十六日の午前中でシンポジウムのすべての日程が終りに近づき、記念祝賀パーティが始まった。立席である。所々に椅子もあり、皆思い思いに知り合った者同志が寄り集まって歓談が始まった。
参加して居るのは学者の方が一番多い様に思われた。私は知人も見当たらないので一人、少し離れた席で椅子に腰掛けてテーブルに出されていたトウモロコシを食べて居た。
この催しの関係らしい女の方が近付いて来て、私のネームを見乍ら『どちらからいらしたのですか』と尋ねられた。私は『昔、中外鉱山で約六年勤めたことのある竹内という者で上富良野から来ました。上ノ国を離れて約五十年になるので、懐しさやら又何人か知人にもお会い出来るのでないか?と思って参加しましたが、知った人は一人も見当たりません、町長さんのお母さんがなくなられたそうですがお父さんは何という人ですか?』と聞いたら『福原彰雄さん』と言い、鉱山のあった集落の親分の様な存在の方だったと語ってくれた。
『知人は一人も見当たらないが町に対する懐かしさで一杯です。その後の上ノ国の方々は我が町発展の為に努力されて居るのが目に止まります。勿論街の建物等始め前に出されて居るトウモロコシ、馬鈴薯にしてもそうです。五十年前の上ノ国のトウモロコシは一本が長さ一〇センチあるか無いかと思われ、それに粒は三色から四色も混っている。従って味も決して良いとは言えなかった。馬鈴薯は水々しくすき透った感じだった。それが今テーブルに出されて居る物は、馬鈴薯は白く粉を吹いてほくほくした感じだし、トウモロコシは二十センチもあり、真黄色な立派な物で、味も北の方の物と全く変らない。努力の跡がはっきりと目に見えます』と私の気持ちを伝えた。
その女性は『覚えて居る人は何という人ですか?』と聞いたので五人程名前を書いた、すると女性は『生きて居るのは一人だけだ、その一人もやっと外に出る位で外を一人で歩く事は出来ないと思う』という状態だと聞いて五十年の年の流れの大きさを深く感じた。
更に女性は『中外鉱山で永く働いて居た中田という人は知っているかい』と言われたが私は急には思い出せなかった。
女性は『その人なら近くにいるから呼んで上げる』と言って、その場から離れて行った。考えている中に思い出した。ごつい身体の人の良いお兄さんだ。採鉱夫だと思った。家族は大勢居て男の子供が多く兄は義春、弟は繁春で、兄は採鉱夫、弟は確かに電工見習いの若者で、若干荒々しさも感じられる風貌であった様に思われる。
約一時間程たってその女性が来た。『連れて来たよ、中田さんだよ』と言った。私が思い出した中田さんの息子の弟の方なのだ。良く見ると親御さんとそっくりに見えて来る。女性は私を指さして、中田さんに『此の人誰かわかる?』と問い掛けるが中田さんは、ぽかんとして居て判らないらしい。そこでし女性は『元、中外で六年働いた人なんだと』暗示の話を掛ける。頭をかしげ乍ら椅子に腰を下ろした。私も並んで腰を下ろした。中田さんは、さかんに頭をかしげていて、判らんらしく、『何処の現場だった』と言った。それに答え様とした途端に一段と高い声で『配給所の竹内さんだかあ…』と言った。私はうなづいた。中田さんは『あの時は救けられたんだぞなあ…、上富良野の燕麦になあ…。そして一息ついて、上フラノの人になあ…』と上フラノの人にと付け足した。そして何も言わなくなった。どうしたのかと思って横を振向いて見ると彼は天井の方を向いて、両手で顔を被い泣いて居るのだ。
その様子を目の前に見て、五十年前のあの食糧難の時の事が、当時は独身の二十歳前後の頑固な体格で、荒々しさも感じさせられたこの人が涙を流して感謝して居て呉れるのかと思うと、私もぼろぼろと涙が流れ暫らく言葉が出なかった。
人間一生を通して、明日の食糧が手の届く処に全く無い状態に陥った経験を持たれた人はどれ程あるでしょうか。恐らく戦地で敗戦の時の憂き目に逢った時以外には少ないことだろうと思われるが、あの時の上ノ国鉱山の人達は家族揃っての飢餓直面だったのだ。これを救ったのが上富良野のエン麦だった。この事をどうしても書く必要があると考えました。
中外鉱業の上ノ国鉱山
上ノ国鉱山は桧山の松前海岸を少し北上した処で上ノ国村は半農、半漁の村でした。鉱山は海岸から五粁位の処にありマンガン鉱の生産で昭和十七年頃、軍需鉱山に指定され急に活発になり、十八年の秋に朝鮮人労働者(強制連行と後日解った)三五〇人が入って来た。
中外鉱業株式会社社長 原安三郎     (一八八四―一九八二)徳島県出身
徳島市に生まれる。早大卒。三歳の時、遊行性関節炎を患い、右腕と左足の自由を失うが、身体のハンディキャップを克服、実業界入りしてからは見事な経営手腕を発揮、とくに幾多の不振会社に関与して再建し、立て直しの名人として声価を得る。一九二一年日本化薬の前身、日本火薬製造会社に入って、のち社長に就任したが、太平洋戦争中も産業用に徹し、軍用火薬を造らなかった。ために追放を免がれ、いち早く戦後実業界のリーダーシップをとり、多くの財政要職を歴任し、日本財界の大長老として影響力をもった。
そして、昭和二十年八月十五日終戦となり、軍需産業のマンガン鉱山は前途真暗になった。
私は実家が農家なので家へ帰る気持ちを決めていた。十月の始めに退社願い出したところ、会社はこれを退けて、そして次の様なことを言った。『この会社は今後どの様にやって行くか今本社で社長始め重役の人方が真剣に検討している。君は真面目に勤めて居て呉れる。その様な人は、この会社は絶対捨てる様なことはしない。原社長はそういう人なのだ。君が身体のことが心配で退職したいと思うのなら君の実家の近くの山部の野澤石綿の会社を、中外鉱業が買い取ることが八十パーセント決っているから其処へ行っても良いのだぞ』と言った。
食糧の買付けで故郷へ
それから一ケ月近く過ぎた昭和二十年十一月に課長に呼ばれた。行って見ると、いきなり『出張しろ』というのだ。『行先は君の実家だ、仕事は食糧の買付だ、旅費は正社員並にする』
その時は私は雇であり正社員ではなかった。正社員は汽車賃は二等料金、宿泊料も大体二倍近いのだった。そして『食糧になる物なら何でも買え、金は幾らでもリックに入れて背負って行け、輸送のこと迄考えなくて良い、輸送は別に会社で考える、行く時の切符は事務所で用意する、何時行くか?』と云うのである。幾ら会社でもその頃の切符を手に入れるのには二・三日、はかかるのだった。
切符の購入が出来次第出張することにした。金は幾らでもと言っても、その頃は函館本線は窓からの乗降は普通で大きな荷物は禁止だったし、身体が弱いので百円札で二十万円位背負ったと思う。
『金は後日誰かに又運ばせる』と課長は言い足した。
上富良野への到着は昼頃だったと記憶しているが上富良野は誠に静かな感じだった。
こんな状況での出張は初めてだったので何からどうするか?先ず兄貴に全部話をして、智恵も力も借りることにした。
其の時農産物は丁度供出を終えて、何らかの闇売り品を持っている人、全部、真正直に供出してしまう人、様々だった様だが、幾らかでも手持ちをしていたのが大方の様だった。
私の大量の買出しは実際には喜ぼれる事だった。
此の年は大凶作と言える程の凶作だったらしく残って居る穀物は少なかった。
兄貴が個人的に気易く交際している人、食糧事務所のYさんや、農協のTさんの処へ智恵を借りに行って来てくれた。
その時期は穀物は皆少しつつは農家にはあっても輸送でがっちり取締っていて、全く物は動かせなかった。遠く迄動かせるのは野菜だけであった。中にはデントコンを貨車で送ることにして、それに紛れ込ませる形で穀物を積み込む手を使う人も居たとの詰も聞いて来て呉れた。
上富良野では現状から判断して、一番良いのは時期から言っても人参が良いだろうと考え、それに方針を決めた。小麦六十俵、人参五十俵を買付ける目標で農家を廻り歩いた。
予想して居たより容易に買うことが出来た。小麦は六〇キロ、六〇〇円で、公定価格は二〇〇円位。
人参は五〇キロ、八〇円〜一〇〇円。其の頃人参は食用ではなく、馬の飼料として作られていたのが大部分であったので大変喜ばれた。
四、五日で予定の数量は買い集めることが出来た。
小麦は最後の頃には七〇〇円払ったのもある。
この頃、闇買いの取締りは輸送関係に目標を置いていた。通常扱っている処を通る物は正規と見て手を掛けることはなかった様だ。駅の乗降客で大きい物を持つ者は荷物を調べるが、全部の乗降客は調べ切れないからだ。貨車にしても農協の物として扱うのは殆んど手は入れなかった。人参は農協扱いにしてもらった。
農作業の終った農家の人を頼んで荷造りを始めた。麦三〇キロを麻袋に入れ、それを俵の真中に入れてその周囲に人参を入れて一俵の人参に俵装するのだ。農家の人は俵の縄を掛けるのは馴れているので手際良くやってくれる。着る物、履く物が全く買えない時だけに、十二月の寒さの中の俵詰めは容易でなかった。
食糧難で苦しめられることは終戦後の重役の会議の時に色々検討され、命を護る食糧は何としてでも獲得せねばならない、それがためには何をすべきか?この事が重役会等で論議された。農家では今、塩が不足して因っている者が多いので、塩を造って食糧と交換する手もあることも取上げられたらしい。
鉱山の鉄工場で大きな塩焚釜を造り海岸で塩焚きも盛んにやり始めていた。
苦労した貨車の手配
荷物の第一回目の見通しがついたので貨車の申請をした。申請のし放しでは何時迄待っても貨車は来ないということだ。道庁も鉄道も、ごった返えして居る時期だったから配車の請願に札幌迄行かねばならぬ。札幌行きは旭川迄行き旭川で又切符を買うこともあった。一枚の切符を買うのに三、四時間並ぶのは普通で十二月に入ると結構寒い。私は体力がないので風邪を引き易い。闇市に焼酎があったので平たい一合入り位と思われるのを一瓶買ってそれを舐め乍ら寒さを凌いだ。
漸く切符を手に入れ札幌へ行き食糧(人参)を見付けたから貨車を廻して欲しいと頼む。食糧課長はそれを何かに控えるが何時になるとも言えないのだ。頭を下げて帰って来るより外ないのだ、帰って来て何しに行って来たんだろうと思わされ情け無くなる。
先づ荷物は出来たのだ。この後どうする?。実家近辺の麦は殆ど買った。此の後買うとすれば容易に買えるのは燕麦だ。これなら今農家に軒並と言える程ある。これは小麦と違って鬼皮が被って居て特殊な機械で鬼皮を取らないと食べれないものなのだ。
この物は今は未だ食糧統制の中に入っていないけれど、間もなく統制の中に入れられるということだ。
今の内なら仕事はし易い。然し皮をむく機械が心配なのだ。機械(岩田式籾摺機)は上富良野には何台もあるが、粒を高速回転で打ち付ける処のゴムが消耗品で、これがないのだ。然し金さえ出せばある処にはあるとの詰も聞かせてくれる人も居たので、此の後は、買うのは燕麦にしようと考えを決めた。
鉱山から電報が来た、課長が明日上富良野へ行くという知らせだ。兄貴の馬を借りて迎えに出た。田中組合長さん、海江田専務さん、販売のTさん等に挨拶をして歩いた。鉄材や塩の話を出し農協にもお骨折りをお願いした。その日は我が実家で泊ってもらい、今迄の仕事の情況を報告した。
益々の寒さと、空腹の寒さと、前後から迫って来る十二月であった。課長は聯(いささ)かの安堵の様子であった。塩や鉄材の発送を指示して来たとのことだ。
課長は明後日は監督局へ行くと言う。朝鮮労務者の送還のこと、食糧の遅配のこと、軍需会社だったが故に役所では強腰なのだ。
課長が参庁すれば、自分等が三回も行くより、もっと効果は上る筈だ、と思うと背負って居る荷物が半分になった様な気になる。
『輸送のこと迄考えなくても良い』と言われて来たが、上富良野へ来て見れば物を買うのは易いが、輸送が最大の難事なのだ。
課長は一泊は上富良野の旅館で泊り朝に立って行った。
次の仕事をどうしようか?と考えて居る所へ電報が来た。
ウナ
カミフラノムラ、キヨトミ
タケウチマサヲ
『トカチシミズニシロヌカ七ヘウアル、
キュウコウシテカイツケヨシサイデンワ』
                  カミノクニコウザン
指定至急報
宛名 上富良野村清富 竹内正夫
『十勝清水に白糠七俵有る 急行して買付けよ委細電話』
                          上ノ国鉱山
此の内容の電報なのだ、鉱山では、どれ丈食糧が差迫って居たかが伺えると思う。
私の家は町から十一粁離れている、今日の様に電話など有るはずはない、早速街へ出て電話で鉱山と連絡をとらなければならない。泊り掛けになる。急いで町へ出て電話の申込みをする。この頃では、上富良野と、上ノ国鉱山との電話は、至急報にしても三、四時間はかかった。電話申込みをして置いて、切符を買う行列にも加わった。
此の日は割合短時間で電話も繋がり切符も買えた。
旅館に泊り明朝の列車で十勝清水へ出向いた。電話で聞いた先方は十勝清水の市街地から四粁余りの農家だという。道を聞き乍ら広い十勝平野を歩いたが、小雪が降り時折横なぐりの風の吹く日だった。たどりついて見ると『一昨日売れてしまいました』と後の祭り。空戻りとなった。これから買集める物は燕麦だと考えることがしっかりと固って来た感じだ。
人参と小麦との詰合せの作業も順調に進んでいる。あと一日頑張れば小麦の荷造りは完了という処迄来た。人参の凍結が気にかかるが、これは時期がもう冬に入っているのだから仕方が無いと考えた。
鉄材・塩を積んだ貨車が到着
課長が陳情に行ってくれたのだからと期待を大きくしている処へ、上ノ国から貨車が到着したと、連絡が入った。鉄材と塩なのだ。上ノ国では鉱石を積む貨車は荷物を待っている状態だったし、荷物を鉱石サンプルとして居たのだ。
これが扉を開けて見たら鉄材と塩だったので日通の人夫が警察に通報したらしい。警察が農協へ来たという、先に課長が来た時に農協の偉方に話は伝えて居り、農協としても、その時は鉄材が入手出来ず、農具の修理も出来なくて大困りし、又塩も農家も不足して因って居るし、醸造工場でも咽から手の出る様な時だった。殊に塩は先にも書いた様に食料獲得の目的で自家生産した物であることを説明して、警察の方は手を入れない様にしてもらった。
そんなことが有り荷下ろしに少しもたもたした。
これを機に、この貨車を使う事が出来ないか日通や駅の方を打診してもらった処可能性があるらしいので、今荷造りしている人参を取急ぎ搬出しようと馬車五・六頭頼んだ。馬も仕事のない時なので何頭でも出てくれた。農家の人も大喜びだった。荷造りが遅れて居たものは、馬主の人も手伝ってくれて見る間に百俵余の人参の俵装が出来上がって馬車に積まれ、貨車積込み迄出来た。
これで先ず急いで居るお正月の急場を切り抜けることは出来たのだと思い身体が軽くなった。
乾燥不十分な燕麦を越冬さす
次は燕麦を剥く機械の部品を探すのが大仕事だ。
金さえ出せば『ある処には有る。金さえ出せば』この話を頼りに、あちらこちら機械屋を歩いた。やはりある処にあった。交渉したら、今迄一本二千円で分けて上げたのだ後三本しか無いのだという。それでその三本を一万円でくれと言ったらよろしいという。これ又思ったより簡単に出来た。物は矢張り金なのだと思わされた。燕麦百俵は、小麦を買うより楽だった。買うのは楽だけれども脱皮が難事だ。お天気も良くなければならずお天気の良い日を待って、今日はと思って始め様とした。その頃は発動機の燃料等は全くなく、木炭ガスだった。技術的に未熟な事もあってか、エンジンが回らない、長い時間掛って漸く回った、始めて見るとさっぱり皮がむけない、何故か?考えて見ると、買った物の乾燥が非常に良くない為らしい。そこまで考えないで買ったのだ。
致し方ない。春三月か四月迄待つより道がない、燕麦を積んでその上へデントコンを積んでデントコンに装って越冬をすることとし、私は一旦鉱山へ帰ることとした。
暴動でマヒした鉱山配給所を頼む
鉱山に帰って見ると何とシーンとして居る感じだ。聞けば三日前に忠南隊(強制連行の朝鮮人労働者)が暴動を起し、配給所主任は危険な目に合い乍ら江差へ逃げた様だし、指導員も平塚指導員以外は山へ逃げ込んで何処に居るか判らない。配給所は食料品は勿論生活に役立つ物は皆持ち去られている。
課長は言う。『今の配給所員は当分は鉱山へは帰ることが出来ないと思う。忠南隊は平塚君の指示には従って居る。逃げた四人は当分鉱山内には出て来れないだろう。忠南隊を送り返す迄はなあ…』
忠南隊は朝鮮忠成南道から連れて来て居たので、忠南隊と呼び三五〇名で宿舎は事務所から二粁位離れた所にあった。
そして課長は続けて『今此の事務所で配給所へ行って何んとか切り回してもらえるのは君しか居ないと思うのだ。現状は誠に厳しいが君行ってくれないか?』と言って頭を下げた。
『色々将来のことの考えもあるだろうけれども、日本国はこれからどうやって復興して行くか?工業立国で行くしかない。外に何の資源も持たない国なのだ。原社長は常にそれを口にして居るし、真面目に勤めてくれる人は絶対捨てる様なことはしない。今日本は敗れて、何万人か、或いは何十万人かの餓死者が出るかも知れないと予想されたりしているが、アメリカは今小麦を太平洋の真中へ投げているのだぞ、アメリカとの間で今プレトンウツプ協定が締結され様としている。それが成立し船さえあれば食糧は幾らでも入って来るのだ。直面している食糧獲得のためには、会社の物は何でも売って命を守ってくれ。残念なことに日本は多くの船を失っているけれどもなあー、農業はこれから先えらい目に合う時が来るぞ…。君は身体が弱いのに何故農業をやらなければならないのだ』とも言った。
今考えると五十年の先を読んで言った事の様に思える。
私は『考えて見ます』と言って引下った。
四・五日経って労組から話はあるので会いたいと電話が来た。その時の私の所属は庶務だったので労組が会いたいとは何だろう?と思ったが会うことにした。
話は配給所の人事のことで、是非配給所の任務について欲しい、労組からも要望する、もう一つは、私は知らないことだったがその時既に労働組合は、配給物の正確さを監視するため一人の作業員を配給所へ入れて居たのだった。その厳しさで配給所への着任を断わられては困るということの了解を取り付けるためだった。
私は配給所の仕事についても其の事であれば全く気にする必要はないと回答して置いた。
二・三日して課長から催促の電話が来た。私は、考えて見れば三ケ月前迄は、大勢の若者が命を捨てる覚悟で戦地へ行き、既に命を捨てて居る人が多い中、自分等も軍需会社なるが故に何時米軍の爆撃を受けるか解らない。爆撃の標的になったら北の狭隘の山峡だから、一発で悉く吹飛んでしまう事は鉱山の人は覚悟して居たことだ。その人方が大勢で要望する事なら、それに応えるのが道だろうと考え配給所への職場移動を応諾した。
その頃、社員で応召していた人がぼつぼつ復員して来た。本社からの電報は暗号電報が多くなり、人事関係の電報は皆暗号であった。
解職の通知で荷物を括り始める者、中には解任通知で寝込む人も出たりして来た。
昭和二十一年二月に入って米軍の放出の加州米が入って来た。パサパサして黒粒がボツリ、ポッリ混っている、僅か半日分という少量だが久し振りの米で皆喜んだ。
続いて入るのかと思ったらそうではなかった。米の配給は極めて少なく雑穀が主としての配給であった。
一日当り配給量は米・雑穀は三四五グラム、馬鈴薯は雑穀の四倍、南瓜等も主食に算入され、馬鈴薯と同量の扱いであった。
越冬した燕麦・人参の貨車積込み
昭和二十一年三月になり、暖かさも日増しに強くなって来た。昨年買付けして山小屋に寝せてある燕麦を送るため又上富良野へ来た。上ノ国と比べると未だ風の冷さはきついが日中はやはり春だ。一冬寝せてあった燕麦を被せてあったデントコンを押分け、手を入れて見ると無事に寝て居た。
翌日から人夫を頼みに歩き廻った、発動機の御気嫌が気になる、野外の作業になるのでお天気も気になる。天気予報等がある時でない。
乾燥状態を細かく調べて見ると乾燥の悪いのは一部分で全部では無かったので、一部分を選び春の日で乾燥させることにし、お天気を見定め燕麦を筵に広げて干した、春だけに手ざわりもぐっと違う感じになった。
機械も試運転して見た。春の日を浴びて皆気嫌が良くなったのかこれも難無く回った。薪の乾燥にも左右された様だ。作業の日を思案し乍ら決めた。他に何も無い時期だ。雨雪が来たら延ばす心算で掛けた。幸い上天気でもないが時々太陽の顔を見れる状態の中で作業が進められ、二日で心配だった脱皮作業が順調に終った。次は人参の心配だ。雪は未だ相当にある。除雪し乍らの人参掘りは又大変だ。少し様子を見る事にして貨車の動き具合を聞きに道庁へ行って見ることとし、切符を買う行列に加わった。
年末の時より幾らか楽な様に思われた、道庁でも四、五日か、遅くても一週間で配車になると言ってくれたのでホットした。
鉱山の札幌事務所へ寄って鉱山へ情況報告をした。
鉱山は益々配給が遅れ遅配日数は三十日を越えて居るということだ。
昨年は大冷害だった。その償いというか今年は三月末に暖気が来て一夜でゴソツと雪が減った。これ幸と約束してある人方に人参掘りをしてもらうことを願った。買取り値段をぐっと高くした。そして人参と混ぜてエン麦の皮を穀物の周囲に入れて見ることに考えを変えて、やって見ると誠にうまく出来る。一俵の重量が少し軽くなり、俵の大きさも小さくなり、締める時も運ぶ時も楽に作業が出来る。
掘る人参は少なくて済むし一石二鳥だった。
四月上旬に荷物は揃った。早速貨車の申込みをした。『五、六日かかると思う、荷物は何処にあるのか?』と聞かれた、『農協の倉庫だ』と言って置いた。
食糧品の取締りは警察より食糧事務所がうるさかった。兄貴に食糧事務所出張所長に裏からよろしく頼むとお願いに行ってもらった。
馬は五頭出動する様にした。此の時も朝四時に清富を出て七時に積む様に計画した。道路には未だ少しであるが雪が残っている所もあった。
マル通へ行って、貨車が入ったら駅のふき抜き倉庫で積む様に段取りした。馬で運んで来たものを、そのまま貨車に積み変えることがマル通の人夫さんも楽に出来るのだ。電話がある訳ではなし、毎日貨車の到着を聞きに街へ通った。
やはり一週間位はかかって漸く貨車が入った。
急いで山へ帰り馬搬の人方に知らせる。明朝四時に清富を出て、七時に積込むことを指示した。
夕方に又街へ出て食糧事務所出張所長に『明朝七時迄に積み終る様に頑張って居るのでどうぞよろしくと頼み、鉱山では遅配日数が益々重なるばかりなので一日でも早く人参を送り度い』と重ねて頭を下げて挨拶して来た。農協の販売担当の人は、課長が来て、塩や鉄材を置いて行ったその見返りの品物を、この貨車に便乗させたいのである。
当日は曇りだが雨も雪も降らず恵まれた日になった。雪解けの時期で道路は乾く迄にはなっていないので、馬は楽ではなかった様で身体からぼろぼろと湯気を上げての市街到着だった。朝早くなので町は未だひっそりとして居て馬車の音が騒がしい位だった。無事人参は積み込み、貨車は人夫さん達に押されて農協の倉庫前に移動され、そこで農協からの物が積み足された。取締りの者らしき人も現れず、無事に貨車の扉は締られた。もう誰が見ようと扉の中は見えない。
何日かして上ノ国へ到着してくれるのだ。何もかも首尾良く積込む事が出来た。良くやれたと自分乍らに思わされた。これも関係して下さった人方皆さんが、自分の影をひそめ乍らも協力して下さった賜ものと感謝せずには居られません。そしてこの糧が上ノ国の人方大勢の命を救けて下さったこととなった。そして此の積み足された物には、貴重な内緒の味噌、正油が若干ではあるが併せ積込まれて居たのでした。
最悪の食糧事情に上富の燕麦が到着
その頃、鉱山では配給状況が頗る悪く、愈々澱粉粕を食べなければならなくなって来て居た。
上ノ国は雪融けが早いので山菜が芽を出し始め、寮の炊事の姉さん方は毎日野草取りをしてくれる。
フキ・ヒロ・ヨモギ・食べれると聞く野草は何でも取集めた。そして澱粉粕と混ぜ合せて団子にする。
それが中々食物にはならない。澱粉粕にはたまたま、ミミズが混入していて、姉さん方はそれを一々丁寧に選び分けて作る団子だがやっと呑み込む。私は上富良野へ出張して居たので、澱粉粕団子は一日だけだったが、中々呑み込めなかった。
その時に上富良野からの燕麦が到着したので、燕麦の有難さは何にも例え様のない有難さだったと思われる。鉱山で燕麦の主食は三、四週間続いたと思う。遅配で食の摂れない日数は累積で四十四日、これを殆ど闇食糧で穴埋めをしたのだった。
     罪なれど 飢餓を救いし 闇の糧
           感謝の涙世紀を流る  (正夫作)
其の頃に復員して来た社員が、食事だと呼ばれたので食堂へ行ったらテーブルに燕麦のお粥をもった井が拉んで隣に小皿が置いてある、此の小皿に何かおかずが出て来るのであろうと暫く待ったが、何も出て来る様でない。そっと人に聞いて見たら、燕麦のお粥に皮のむけない粒が混っているから、それを吐出して入れてもらう小皿だと言われがっかりした、という笑話も残っている。色々と危機を越え、心配した餓死者を出す事も無く、二十一年の新穀が当てになる秋が訪れた。
上富良野へのお礼の秋鮭獲り
会社では窮迫を救ってもらった返礼を考えた。その一つに、秋に出来る、上ノ国での秋鮭獲りはどうかと話題が出た。上富良野の方へ意向を聞いたら、それは面白そうだ、上富良野は北海道の中央で海とは遠い関係になるので魚を獲る所を是非見せて欲しいとの回答だった。その時期は後日にして、隠れたお骨折りをして下さった方数人を御招待し期日は又後に決めることとした。
この秋鮭獲りは釣や網で捕るのでは無く、爆薬を川へ投込んで爆発の衝撃で魚が気絶する、それを拾うので甚だ面白いが、爆薬を使用する事なので公然とはやれない、闇食糧よりも厳しい取締りがある。
他人には話は出来ないことなのだ。
或る日課長に呼ばれた。この話だった。「君身体はどうだ行けるか」と言われた。
現場は、早川という流量は富良野川の、中富良野の辺り位の川で、鉱山事務所から六粁位の所に、太陽ベニヤという木工場が有り、其処迄は馬鉄が通っているが、其処から未だ五・六粁上った地点が最適の場所らしい。その五・六粁が川を歩かなければ道の無い処だという。私は行っては見たいのだが身体に自信がないので断った。十月の上旬だったと思う。
又課長から電話あった。『今日上富良野の人方が見えるから夕方所長宅へ来てくれ』との要件だった。
行って見ると上富良野から、田中組合長きん、食糧事務所の所長さん醸造工場長、鉄工場長、販売の係等五人のお客さんで会社からは課長級三人であった。
現場の情況は私も実際行っていないので良い説明も出来ないが、大きな秋鮭がボコボコ流れて来る光影はすばらしい情況だった、今世の初めてで、終りであろうと思うとの話であった。
高石久吉鉱業所々長を偲ぶ
中外鉱業株式会社上ノ国鉱業所々長高石久吉さんは、岐阜県神岡鉱山の倉庫番から立上った人で、勤勉実直で学は浅いが実行力を認められ成功して来た方と聞いている。
現場を重視する人で、朝出勤して来たら真先に昨日の現場日報に目を通し、仕事が順調かどうかを確かめる、疑問な点が見られたら早速現場へ行って対策をたてさせる、その辺が誠に勤勉に立廻る人であった。
鉱山が昭和十七年に軍需鉱山になり、毎日が生産命令という形だったので大変な重圧感を背負っての毎日だったと見えた。終戦後はがっくりと弱り込んでしまい、二十一年春の終り頃、代りの所長が赴任して来た。私等は個人的なお付合いはしていないので、詳しいことは何も解らないが秋の頃に所長は亡くなった。海岸から六、七粁山峡に入った所で野天での火葬が行なわれた。私は出張中であった。
私が帰山して幾日か経った頃、私の所へ所長さんの奥さんが見え丁寧な挨拶をせられ、所長が病床中のことを詳しくお話された。
所長は食欲が無くなり、身体は衰弱して行った。
その頃は調味料の味噌、正油の配給等は全く無かった。ほんとうに何も無い時にはどうすることも出来ず、奥さんの心中は言い表し様の無いものであったと思われる。
その時に上富良野からの第一回目の闇の糧(小麦と人参)、この時も量は少なくても、味噌、正油を上乗せした貨車が到着し、所長の所へも届けられた。
そのために所長は食欲がつき、大分元気になって大層喜んだ。その後又容体は悪くなった。その時、所長は上富良野の人のお陰で『食べられ無かったものも食べれた。有難い。竹内君が帰って来たら、上富良野の皆様に厚く御礼を言って欲しいと伝えてくれよ』と何回も言って亡くなったと泣き乍ら話された。
そして『何か御礼を差上げ度いと思うけれども今は何も手に入らない。それで主人の身につけた物で、誠に失礼ですが、主人が毎日現場を廻る時に履いたズボンがあります、未だ少しは履けると思いますので形見と思って履いて下さい』と言って、ズボンを下さった。ズボンは私共の今迄に身に付けた事のない、純毛の綾織という生地で作った物だった。私には勿体ないと思われた。
所長は衰弱し何も喉に通らなくなった時、戦いに勝つために、毎月マンガン鉱四〇〇〇トンの生産命令を受け、三〇〇人の従業員と共に奮闘して来た甲斐もなく戦いは敗れ、そして家族を併せ数百人の鉱山の人が飢餓に直面していることを病床で考え、それを救える上富良野の闇の糧に、又その糧を生んでいる上富良野の自然に対し、鉱山の人全員に変わって御礼を言いたかったのだと察せられるのです。その、所長からの言い伝てを私は今日迄半世紀預かっていた様な気がします。
大変遅くなったけれども、この紙面を通して、鉱山の所長始め鉱山の人方の気持ちをお伝えし度いと思います。
又この闇食糧調達の仕事が順調になし得た事は、自分の影を潜め乍らも御協力下さった方々が居たからなし得た事なのです。厚く御礼を言い度いけれどもこの方々は全部故人となって居られます。
今となっては只故人になられた方々の御冥福をお祈りするのみです。
上ノ国鉱山国民学校福田福男校長との思い出
終戦当時の上ノ国鉱山国民学校校長は、福田福男という先生だった。秋田県出身らしく秋田弁丸出しと思える非常に実直そうな、威厳等全く感じさせない方だった。私はその時二十六歳の青二才で、庶務の勤務なので電話、電報の受け答えがあるため当直室が私の部屋だった。
そこへ校長がひょっこり見えた、私は何んだろうと思って中へ入ってもらった。校長さんは、えらく緊張して居る様に見えた。
丁寧な挨拶をされた。
そして「私は今晩お願いがありまして、お邪魔に上りました。実は私の家内が一週間前に出産致しました、此の時の事を考えて毎日の配給米の中から少しずつの貯えをして居りましたが、その貯えも後二、三日で無くなります。私の処には成長盛りの子供も居ります。何とかならないでしょうか?助けて下さい、お願いします」と畳に額をすりつけて頭を下げられた。私は椅子に腰掛けたままだったが慌てて、椅子から下りて真正面に座り顔を見た。校長は真剣な顔だった。私は具体的な返事は出来なかったが、明日配給所へ出て在る物を調べ何物かを出来る丈のことします、と言って帰ってもらった。
その時の遅配日数は三十五日位だったと思うが、その時の状況は全く物が無いのではなく、電力が不足で精米が出来なくて配給出来ない場合もあった。
食糧営団から中外鉱山は電力は使えるのだから玄米で配給を受けてくれと言われ、小さいけれど精米機を入れてあった。
玄米で受けた場合、精米に依る減量は当然だし、その外に取扱い目減りとして三パーセントを見てくれているので百俵玄米を受入れた場合、極丁寧に取扱いをすれば一・五俵位の余剰米が出るので、この時もその米が若干あったので、これを五日分位と他に雑穀少し、それに先に上富から来た調味品若干を届けさせた。
校長は後日御礼に来て行かれた。この時も言葉の後に上富良野の人にと言われた。
先生は今、九十五才以上になられた筈だ。年に一度の年賀状は今でも下さって居る。私も差上げている。
三年に一度位は、私の姿、或は上富良野の自然の姿を想像していますと書いて下さっている。高石所長と同じ様な心境なのだなあ……と考えさせられる。
私は勿体ない事だと五十年余り胸に収め込んであったことを、茲に書かせてもらった。忘れた事が多く、又文章もまずい為、内容を充分にお伝えすることが出来ないのは残念ですが、兎に角大勢の人方が、上富良野の燕麦―上ふらのの人―上ふらのの自然に感謝して居た事をお伝えして終ります。

機関誌  郷土をさぐる(第21号)
2004年3月31日印刷   2004年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔