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此日、余は(その四―最終回―)
―遠藤藤吉小伝(藤吉の日記から)―

札幌市中央区北二一条西一五丁目 遠藤 博三(藤吉三男)
昭和二年十一月二十八日生(七十六歳)

◎昭和三十二年(一九五七年)―藤吉六二才―
この年の上富土建の主な事業
・鷹栖橋下流築堤改修工事        ・林さん宅新築工事
・東中農協石油庫新築工事        ・日新崩壊地復旧工事
・琴似の西谷さん宅新築工事      ・中富日甜トラック計量機基礎工事
・山部工手詰所新築工事          ・上川町清川地区農林施設復旧工事
・東中十二線斜段改修工事        ・占冠村重機車庫新築工事
・中富五線七号橋下流護岸災害復旧工事

これまで筆者は、藤吉の日記をワープロで打ち込んできたが、藤吉の日記は端的に言えば業務の記録と言える。家族に関係する記録は稀で、土建会社の経営に直接携わるようになって、その傾向は更に顕著になってきて、一人の人間の生き様を探ろうとするとき全く面白味がなくなってきている。指名通知―現地調査―見積―話合い(談合)―入札―契約―資金繰り―施行―検定といった記録が残されていくのみである。
藤吉の妻ミセが「自分だけで仕事をしていた時は良かったけど、会社になってから苦しくなった。」と家計を語っていたが、この年の日記に次の記録がある。三月七日の日記『此日、信金にて融資を頼むけれども工事の裏付が無ければ駄目と言われる。二時の列車にて山部に行く。明日、手形を持ってくるから………にて割引して下さいと頼む。』
四月四日の日記『此日、〇〇さんに会う。遠藤名義なら出すと言う。旭川の□□さんより電話にて三十万円は割れないと言われる。』
藤吉は資金繰りに困っていた。いや、藤吉の社長時代は手形に追われ資金繰りの日々であったと言えるかもしれない。
それは事業を経営する者の宿命であると言ってしまえばそれまでである。
こうしたことからだろうか、四月二十三日の日記に『此日午後、旭川高島霜将さん来る。運命鑑定及姓名学に付話合い、三夫婦の改名を頼む。六千円』の記述がある。心の大きな揺れを感じる記述である。
一月二十三日の日記に『服部さんに行く。入れ歯をす。』の記述があるが昨年の入院手術に続き身体の衰えを感じさせる。
三男博三(私)が二月二十五日に博子(前田博子)と結婚し藤吉は肩の荷をおろす。
◎昭和三十三年(一九五八年)―藤吉六三才―
この年の上富土建の主な事業
・北七号第二揚水場改修工事  ・十六号十八号堰堤、十八号溜池護岸工事
・馬市場家畜繋留所新築工事  ・ルべシベ地区上水道作業用道路新設工事
・東中小学校校舎増築工事   ・里仁小学校便所改築工事
・北電中富良野電業所改築工事 ・富良野営林署労務者宿舎工事
・ベベルイ川横断第二幹線湾管新設工事  ・中茶屋内部改造工事
・コルコニウシベツ川第十六幹線井堰改良工事  ・富良野五丁目橋下流護岸工事
昭和三十一年三月に同族会社として再発足した会社であったが、経営は安定した状況にはなかったようである。その端的な現れとして職員の解雇問題があった。どのような事情があったかはともかく、二月十日の日記に『此日、専務、安定所に行く。離職票もらいに行く。午後、山本、白川、井野、安定所に行く。』三月一日の日記に『此日午後、職員に来て貰い話合いをし、山本の言分として結局一度解雇になったのであるから此際はっきりとしてくれ。但し、共に退職金の請求ある。それで、私として多少の間をくれと言い返事をする事にす。』の記述がある。
その後、二日に金子さん、七日に山本さんとも相談しているが、具体的にどのような解決に至ったかは記されていない。しかし、悪い状態での解決ではなかったようで、四月二日から再び白川さんに来てもらい、三十五年十月六日の白川さんの結婚式に出席している。また、井野さんにも見積や設計など仕事の上で手を借りている記録があり、三十六年一月二十二日の井野さんの結婚式に専務が出席している。
労務者関係で面白い記述が残されている。九月十六日の日記『此日、大北土建に電話にて人夫の話をす。丁度、斉藤と言う人が十人組で居る。当方に来て貰う事にす。富良野より斉藤長一郎と言う人来る。二十日に六人、二十一日に四人来ることにす。金三千円渡す。』
九月二十日の日記『此日夕方、斉藤長一郎来る。お金を貸してくれと言う。貸してやらず、富良野山本、水口に電話にて調べる。ニセ者とわかる』
九月二十一日の日記『此日、富良野斉藤、八雲に人夫十人居るから連れて来る話。余は斉藤に、仕事に来る気かどうかと言う。彼は来ると言う。貴殿はサギ師であると言う。』労務者関係の難しさとそれに対処する厳しさが窺える。
◎昭和三十四年(一九五九年)―藤吉六四才―
この年の土建会社の主な事業
・若佐家店舗兼住宅新築工事   ・古村家住宅新築工事
・東七線中間橋架換工事     ・上富良野十号橋架換工事
・江幌校校長住宅補修工事他   ・東中農業倉庫新築工事
・山手幹線横断暗渠工事     ・上富良野町五丁目側溝工事
・上富良野苗圃堆肥舎新築工事  ・富良野川改修工事事務所改修工事
・金山地区重機車庫新築工事   ・自衛隊消防車庫新築工事
藤吉の仕事への厳しさは言をまたないが同業への優しさもまた藤吉の人柄であった。四月八日の日記に『此日、九時四十分にて中富良野に行く。吉岡に御願す。吉岡の言で、十三日に人夫六人が内地より来るが幾寅の仕事がはずれて困っている次第ですから、今度だけは何卒譲ってくれとの話にて、当方もやむ無く吉岡さんに譲ってやる事にして入札す。』の記述がある。仕事を譲ってもらおうとして譲ってやった人情話のような記述が残されている。
しかし、唯、人の好いという面だけではなく、九月十日の日記に『………。高山と話し合いまとまらず、吉岡、渡辺の応援にて高山下り余が貰う事になる。』の記述のとおりしたたかな面も見せて居る。
事業を進める上で窮地に立った事も記録されている。九月十七日の日記に『此日、側溝の件で役場より着手せぬと取消をし指名停止処分をすると言われ、山崎に頼み明日より着手する事にす。』十一月七日の日記に『………。自衛隊施設班長より工事に誠意が無いから指名停止する通知ある。』の記述がある。何れも難題であったが、その後の工事受注の様子を見ると何とか解決したようである。
この年の一月、藤吉は東京に旅行している。前年十二月二十六日の日記に『慎治より電話にて………。尚、旅費二万円送ると言う。』という記述があり、次男慎治の誘いによる東京行きであったようである。
一月二日に出発し、東京では歌舞伎・大相撲を見物するなどゆったりとした時間を過ごしている。婿・賢二の母死亡の通知に接して長岡に赴き葬儀に参列して二十二日夕方帰町した。
藤吉は北海道に渡ったその日に宿を願った玉井松蔵さんの恩を忘れず、正月かお盆に必ず訪れているがこの年からその記録がなくなっている。
◎昭和三十五年(一九六〇年)―藤吉六五才―
この年の土建会社の主な事業
・富良野川池田地先護岸復旧工事   ・東中七・八線間水路改良工事
・輪島家住宅新築工事        ・雪崩防止林造成工事
・丸一雑貨店店舗改修工事      ・ルベシベ地区第十号幹線農道改良工事
・金山工手詰所移改築工事      ・旭野校教員住宅新築工事
・第三十二号橋架換工事       ・中茶屋橋架換工事
・第十五幹線江花川横断掛樋工事   ・東二丁目道路火防用水補修工事
・営林署上富良野苗畑倉庫新築工事  ・和寒福原地区治山工事
藤吉の体調について触れたのは昭和三十年の記録に関してであるが、それから五年、藤吉のこの年の日記を読む限り、藤吉の体力と気力の衰えが感じられる。
それを数量的に捉えてみると、この年、藤吉が旭川に出向いた日数を昭和三十年と比べると、昭和三十年が四十五日あるのに対しこの年は六日しかない。
これは藤吉の体力の衰えから来る行動範囲の縮小と言える。藤吉が出向くのは北は美瑛、南は山部までの範囲となった。替わって『専務、旭川に行く』の記述が増えている。事業の渉外的な面を婿の賢二が担うようになったということだろう。また、日記そのものの記載の量が減ってきて内容的にも単調となってきている。
藤吉は五月六日の日記に『此日午後五時、進藤さんに行く。血圧測る。二百ある。直ちに血を取る。注射す。』
同二十四日の日記に『此日、余は医者に行く。』と記し、八月二十二日の日記には『此朝、身体の具合悪く、進藤さんに行く。二、三日休む様言われ休む。注射して帰る。』と記し、また、一月七日と八日に服部歯科で歯を一本ずつ抜いたことを記している。
藤吉六十五歳の年である。尚、進藤さんとは藤吉掛り付の医者である。
この年一月二日の日記に『此日、父さん、テレビ取付けをす。』とあり、遠藤家に初めてテレビが付いた。
◎昭和三十六年(一九六一年)―藤吉六六才―
この年の土建会社の主な事業
・北二十五号橋上流護岸復旧工事  ・進藤医院病室増築工事
・第三号掛樋伏設工事       ・金星橋架換工事
・富士屋呉服店新築工事      ・日新地隙地復旧工事
・北二十号護岸復旧工事      ・フラヌイ川北二十四号護岸復旧工事
・第二第九幹線取入口復旧工事   ・富良野八幡丘道路復旧工事
この年の上富土建会社の工事経歴書を見て気付くことに災害復旧工事の多さがある。この年の土木工事十二件のうち八件が災害復旧工事である。三分の二である。しかも八件のうち六件が八月以降に集中している。上富良野町史年表を見ると、この年七月二十四日〜二十六日にかけて全道的に豪雨災害が発生、、その被害、死者十九名、行方不明七名、被害総額百九十四億円と記されている。豪雨という自然災害が河川、橋梁、道路を大きく破壊するが、その復旧が土建業者に大きな恵みをもたらすという皮肉な現象を生んだ典型的な年であったと言えよう。
またそれなりに、水に取組む業者の苦労として七月二十五日の日記に『此日夜、出水のため金星橋に行く。寝ずの番をす。』二十六日の日記に『此日午前二時、仮道路も通行不能となり交互に番をする。午後一時半、仮道通行とす。』の記述がある。
雇用問題に関して業者が協議した興味ある記録が記されている。三月五日の日記に『此日午後、建築業者の親睦会に富山に行く。協議をす。人夫、午前七時より午後六時迄実労九時間、最高五百、最低三百五十。大工、最高八百、最低六百五十。女人夫、最高五百、最低三百五十。』労働時間と賃金に関する取決めのようである。
この年の一月二十八日の日記に『此日、婆さん、上京す。』の記述がある。藤吉の妻ミセが東京に行ったとの記述である。次男慎治が昭和二十九年に結婚して東京に居を構え、毎年、旅費を送ってくれることによる上京である。この上京が何時から始まったかを探ってみると昭和三十三年三月十日の日記に『此日、婆さん、明日終列車にて帰る電報来る。上野午後四時発にて。』とあることから昭和三十二年の年末に上京したのが初めではないかと思う。ミセの冬季の東京行きはこれから続き、滞在は長期に亘ったようである。
◎昭和三十七年(一九六二年)―藤吉六七才―
この年の上富土建の主な事業
・元井地先護岸復旧工事    ・ミモザ美容院新築工事
・若佐商店店舗新築工事    ・占冠三宅地先護岸復旧工事
・日新地隙地復旧工事     ・紅葉橋復旧工事
・富良野道路工手詰所移築工事 ・拓銀上富支店職員住宅新築工事
・老節布道路復旧工事     ・新田中道路復旧工事
・幾寅川合流地点上流護岸復旧工事 ・第九幹線取入口護岸復旧工事
・神谷地先護岸復旧工事    ・山部荒廃地復旧工事
・学田鉄橋上流築堤復旧工事  ・共和橋下流護岸復旧工事
前年に続いて災害復旧工事依存の傾向が顕著である。主な土木工事十二件の中、十一件が災害復旧工事である。八月十日の日記に『此日、専務、旭川土木現業所に行く。緊急災害工事の件にて呼出に付。』とあり八月十一日の日記に『此日、専務、旭川土木現業所の緊急災害工事にて幾寅に行く。』とある。
災害に取組む行政の姿勢とそれに応ずる土建業者の一端が窺える。
この年の会社に関する記録として増資のことがある。四月七日の日記に『此朝、登記所の井原さんに増資の件を聞く。臨時総会の上にて銀行に払込の上登記する事。』とあり、次の八日に山部渡辺さんを訪ね三十万円の増出資の了解を得、十二日、信金に五十万円を積み登記を終えている。増資は五十万円で、十三日の日記に『………、東京より五万円送金ある。』と記されているが増資に関する送金と思う。
藤吉の健康問題については折にふれて記してきたが、一月十七日の日記に『此朝、進藤さんに行く。診察の結果、胃癌となる心配が有るから酒は飲むなと言われる。』の記述があり、時々、進藤さんに行き注射等の手当を受けていることが記されている。藤吉は三月二十二日、町の固定資産税協力員慰労の本州視察旅行に参加し、その後半、次男慎治宅に逗留しているが、四月一日の日記に『此朝、身体の具合悪く医者行き、午後一時、ハイヤーにて上野着。午後三時十分発の急行八甲田にて出発す。』(帰町)の記述がある。旅行途中に身体を悪くしたということで、会社の旭川に出向くなどの業務上の渉外は全て婿の賢二が行うようになっていく。
六月二十九日、十勝岳が爆発した。
◎昭和三十八年(一九六三年)―藤吉六八才―
この年の上富土建会社の主な事業
・ベベルイ川広瀬地先護岸復旧工事  ・空知橋付近道路復旧工事
・神谷家住宅新築工事        ・草分西五線北三十二号取入口工事
・ベベルイ川佐藤地先護岸復旧工事  ・北の峰渓流崩壊防止工事
・及川家住宅新築工事        ・ヌッカクシフラヌイ川勇下流護岸災害復旧工事
・道警上富警部補派出所庁舎新築工事 ・ホロべホッツナイ川伊藤地先護岸復旧工事
・布部川河川改修工事・静修開拓道路補修工事
・草分三十号沢溜池補修工事     ・町道東一条道路側溝新設工事
・静修地区暗渠排水工事       ・布部川改修のB工事
工事を受注するかどうかは、土建会社の命運の関わる事であることは論を俟たない。二月四日の日記に『此日、拓銀に借入れを申込む。工事が無いから見込み無しの返事。』の記述がある。工事の裏付けが無いから金は貸せないということであるから、当然工事受注に激しさが増す。
二月十五日の日記に『此日、役場の現場説明に行く。工事は三本。当方で御願をす。高山さんもくれと言う。何れ後日とす。』二月十七日の日記に『……。高山建設より今度の工事くれという。当方でも申し入れをして、当方にと頼む。』とあり、お互いに同じような申し入れをして、結果的に工事三本の中、それぞれが一本宛受注することになった。
昭和二十四年に創立された上富土建会社のこれまでの道は、工事の受注施工等は順調に見えるが苦難の経営そのものと言える。経営陣の刷新(二十五年)・増資(二十六年)・役員就任辞退と同族会社としての発足(三十一年)・職員の解雇(三十三年)・「遠藤名義なら貸すが会社には貸せない」という資金繰りなど、どれをとっても大きな問題が連続して続いていた。
そうしたことからだろうか、十二月七日の日記に『此日五時、乃んきやで当社の株券を私に無償にて譲受けの御礼にて一席設け十四名参席、中西だけ欠席。』の記述がある。誰から何株譲受けたのかは明らかではないが、良く解釈すれば株の無償譲渡、悪く解釈すれば株主の株券放棄ということになる。こうした動きは何時からあったのか、九月十五日の日記に『此日、金子精米場より株の話ある。お願いして帰るごの記述があることから、それ以前からだろうと推察される。
◎昭和三十九年(一九六四年)―藤吉六九才―
この年の上富土建会社の主な仕事
・東四線北九号揚水機場他工事   ・山部植の沢崩壊地復旧工事
・山部筒井の沢崩壊地復旧工事   ・農協簡易倉庫新築工事
・富良野川改修上富良野地区工事  ・東中農協第二倉庫補修工事
・ホロッツナイ川塚沢地先復旧工事 ・江幌貯水池放水門改修工事
・上富良野文化洋装学院新築工事  ・金山峠地先道路復旧工事
・空知川頭首工管理人宿舎新築工事 ・フラヌイ川北十号護岸補修工事
この年藤吉は、一月十一日と十二月二十五日の二回本州旅行に出発しているが、その中、一月十一日の旅行は父惣次郎の三十三回忌、母タニの十七回忌の法要を営むためのものであった。藤吉はその日のことを次のように記述している。
一月十三日の日記『此朝、十時三十八分のバスにて長岡に行く。小市さんの案内にて表町の丸山にて引き物の御菓子を十八日の午前中に送る事にして注文をす。万十(饅頭)を使うことにして百ケ注文す。』一月十八日の日記『此日、長岡、十時頃荷物を持って来る。お坊さんも十時半に見えて一同十一時迄に見える。十一時二十分読経開始、午後一時終わり、御斎を上げる。』と記している。
この後、二十一日に東京に赴いて次男慎治宅に滞在している。東京で一月三十一日から二月十二日迄の九州旅行を計画したが、妻ミセが身体具合を悪くし医者から旅行を止められ見合せている。
この年藤吉は満六十九才となるが歳を感じさせる記述がある。
九月十五日の日記『此日、余は敬老会に招かる。』十一月三日の日記『此日、知のご祝儀で休む。』十二月六日の日記『此日、午後二時より土建協会の臨時総会ある。会長を辞任する。』敬老会への招待・初孫(知)の結婚など年齢を感じさせる事象に照らした会長辞任であったのだろうか。
なお、十一月三日の日記に『此日、午前十時、町の表彰式に列席、記念品を貰って帰る。』の記述がある。何の表彰式なのかわからない。
十一月一日の日記に『此日、内地より里芋来る。』の記述がある。渡道して四十七年、藤吉にとって『越後』はまだ『内地』であった。
◎昭和四十年(一九六五年)―藤吉七〇才―
この年の上富土建会社の主な事業
・山部亀谷の沢復旧工事         ・占冠松久橋架換工事
・エホロカンベツ川落合地先護岸復旧工事 ・十勝岳地区監督員詰所建設工事
・富良野川改修工事事務所増築工事    ・麓郷地区側溝新設工事
・第五号橋架換工事           ・第五幹線放水路改良工事
・江幌清水地先護岸復旧工事       ・奈江横山地先護岸復旧工事
・山部中平の沢復旧工事         ・布部川橋改修工事
藤吉は前年十二月末に東京に赴き、この年の元旦を次男慎治の家で迎えている。大晦日と元旦に藤吉が自宅に居なくても良いという生活の様子に世代交替という思いがする。
東京滞在は一か月半に及ぶが、その間を寺社参拝(松陰神社・鎌倉八幡宮・成田・笠間・深川不動・明治神宮)、観劇(日生劇場・東横ホール)、伊豆巡り(下田・修善寺・熱海)などですごしている。
その折、明治神宮で横綱佐田の山の手数式入りを見る機会に恵まれた。上富良野に帰宅したのは二月十一日である。
資金繰りに関して三月二十二日の日記に『此日、慎治に御願の手紙を出す。速達で』。三月二十八日の日記に『此日、東京慎治より御願していた金十五万円来る』の記述があり次男慎治頼みの意向が強く表れている。
八月二十八日に藤吉の初曽孫(初孫知の長女)が生まれている。
藤吉の日記はこの年の日記で終わっているが、最後の日記帳を読んでいて気付いたことが二つある。
その一つは、記載の無い日の多いことである。何の記載もない日が九十六日、四分の一である。しかも毎日毎日が極めて簡潔に一行か二行で終わっている日が多い。気力の衰えということであろうか。
今一つは、字に乱れが見られることである。震えを感じる字を見ることがあった。体力の衰え、高血圧の進行ということであろうか。
藤吉が最後に書き残した十二月八日の日記を再掲して終わる。
『朝、慎治より旅費として三万円也送金有り、二十日過ぎに来る様の手紙ある。惣吉より養子貰う事に成ったの通知有る』。年末には東京に旅行したものと思う。
◎昭和四十一年から四十六年(没年)まで(一九六六年〜一九七一年)―藤吉七一〜七六才―
藤吉と同居して藤吉の半生を見てきた三女の美恵子が藤吉の晩年を次のように語っている。
『「七十才を過ぎたら何もせずに暮らす」を口癖の様に言っていたが、本当に七十才を過ぎた後は会社の方は名義だけの社長で、何も口も出さずのんびりと家にいた。特別何するということもなく、新聞を読みテレビを見る毎日、時には子供、孫の買ってくる雑誌を読む程度、それで退屈している様子でもなかった。動脈硬化で近くの進藤病院に通院していたが自分の事は最後まで自分でやっていた。夕食時の晩酌が一番の楽しみだったようで病気の出る前日までお酒を飲んでいたが、病気の出る二週間前になって「酒が美味しくなくなった」と言ったのを覚えている』。
藤吉が昭和四十年三月二十一日に次男慎治に送った手紙がある。その一節を記載する。
『拝啓、久しく御無沙汰致して居りました。誠に申し訳ありません。私も体具合もよく成りましたが医者にはかかり毎日薬は飲んで注射もして居ります。何と言うても年の感じです。間もなく雪も消えましょう。体の為め歩く心掛けで居ります。‥‥』
藤吉が死亡したのは昭和四十六年七月二十八日午前三時五十五分、病院に入院することもなく、畳の上でのまさに大往生であった。
    藤吉戒名『至誠院藤阿清行居士』
通夜は二十八日、告別式は二十九日聞信寺において盛大に執り行われた。

藤吉が亡くなった後、『ミセ』は悠々自適の生活。
知人を訪ねた帰り道で転倒して足を煩い、歩行困難となり床に臥すことになる。
昭和六十年十月一日上富良野ラベンダーハイツに入所する。
平成三年十二月六日江別乙若葉台病院に入院する。
平成五年四月三日死亡する。
    ミセ戒名『瑞照院苑空寿光大姉』
通夜は四日、告別式は五日大雄寺において盛大に執り行われた。
◎遠藤藤吉と職人たち
藤吉が土木建築請負業を経営していく上で、職人は欠くことのできない人材である。特に大工職人は特定の技能者で、その技能の良し悪しは直に事業実績に結びつく。藤吉の棟梁としての成果も大工職人たちの腕に負うところが多い。藤吉と関わりの深い大工職人の中で専従的な人に限って年代別に示してみる。
☆『小林子之八』
藤吉の父総次郎の弟子で大正七年春、藤吉と共に北海道に渡り藤吉の仕事を助けた。昭和の始め頃に独立したようであるが、時に応じて藤吉の助っ人となった。藤吉との関わりは生涯にわたっている。
☆『遠藤惣吉』
藤吉の只一人の弟。詳細は昭和四年の頃。
☆『小林周市』
大正三年六月三十日の日記に『此日、周市、午後二時にて到着す』の記述がある。この日から昭和十六年まで十八年間にわたり藤吉の許で建築の仕事に従事した。
☆『高藤義信』
昭和三年六月十七日の日記に『此日、高藤さんの若者来たる』の記述がある。この日から藤吉の仕事に従事する。時には自分で請負った仕事をすることもあったが、藤吉との関わりは昭和二十六年まで続いた。
☆『片野与一』
藤吉の弟子である。来道したのは昭和五年三月二十日の『此日、内地より与一来る』の記述がありその日と思う。昭和十九年四月十七日の日記に『此日、与一より「公用、十九ヒタツ」の電信ある』とあり応召した。昭和二十一年九月十七日の日記に『此日、惣吉より手紙来る。片野与一、上海の一五三病院にてマラリヤにて戦病死の由公報ある旨通知来る』の記述があり戦病死した。
☆『長谷川政信』
藤吉の弟子である。来道した月日は不明だが昭和八年四月二十八日の日記から四月末頃の来道と思う。何時応召があったかは不明だが前後の事情から推察すると昭和十四年の春頃と思われる。昭和二十一年五月十五日の日記に『此日、惣吉より手紙、長谷川政信戦死の報あり』の記述があり戦死した。
☆『小林進次』
藤吉の弟子である。来道した月日は不明だが、昭和十三年八月十八日の日記から推察すると八月中頃の来道と思う。昭和十四年十一月十五日の日記に『此日、午後二時半に進次に応召の電報来る』とあり応召した。昭和二十一年八月一日の日記に『此日、惣吉より手紙にて小林進次戦死(二〇・三・一六)の報を聞く』の記述があり戦死した。
☆『木津国夫』
昭和二十一年四月の日記に木津が仕事をした記録がありこの年春頃から藤吉の許で大工修行を始める。昭和二十六年に独立する。
☆『辻 定雄』
昭和二十三年三月七日の日記に『此日、辻豊蔵さん来る。子供を通勤にて大工にする事にし来月一日より寄こす事にす』の記述があり、四月から大工見習を始める。何時止めたかはわからない。
☆『西 信雄』
昭和二十五年四月十九日の日記に『此日、西 信雄来る』の記述がある。それ以後、大工見習いを始め、昭和三十一年に独立する。
以上が藤吉の許で仕事をした主な大工職人であるが、高藤、木津、辻の三人を除いて残り七人は新潟県(越後)出身である。
◎父を偲んで藤吉次男慎治(筆者兄)
親父の記憶を辿ると何か漠然として余り鮮明に思い出さない事が多い。それというのも私が昭和十八年秋に上京、東京、仙台、東京と学生生活を送り若い内に故郷を離れた事が一因かもしれない。
然し、良く考えてみると子供の頃に連れられて行った所が微かに浮かび上がってくる。昭和五年の日記に山部町の曽光寺本堂の事が書かれているが、此のお寺の落慶法要に親父に連れられて私も参列した憶えがある。本堂での法要、着飾ったお稚児さんの行列などが思い出される。
今から思うと、大雄寺にしろ曽光寺にしろあれだけのお寺を設計するという事は並大抵ではない。相当な技量がなければ出来ない事だ。昭和十五年頃、ふるい遠藤の家の二階の押入れに、お寺の図面などが置いてあったが、何れも親父が書いたものだったと後で解って、今更ながら親父の努力に驚いたものだった。
確か親父は、大正の始め東京へ出て神田猿楽町に住み、宮大工の棟梁に師事して(師事した宮大工の棟梁の名前はわからないが)宮大工の棟梁としての技を磨いていた事があったと思う。その頃の話として、普通大工の出面は一日四十銭〜五十銭であったが親父は棟梁であったので皆んなより二十銭高い七十銭とか言っていた。並の大工は夕食を十銭位で済ませるのを親父は一品多く摂り十五銭位掛けて食事をしていたという話を聞いた事がある。何れにしても当時は一日三十銭もあれば暮らしていけた時代の話である。
また親父は、建物の床の間などの銘木を旭川の城さんという人の店から買っていた。城さんという人は上富良野郵便局長の河村重次さんのお兄さんで良く似ておられた。その頃私は五つ位だったが親父に連れられてその店に行った事があるので此の店の事は良く憶えている。お昼時に十二ケ月という寿司店に入って生ビールを注文し、又、「ヤスケ一丁」と店の人に注文しているのを聞いて、ヤスケって何かと思っていると、江戸前のにぎり寿司が運ばれて来た。
今でこそヤスケとは言わないが、当時東京ではその道の通はその様に言っていたのだろう。親父は若い頃東京で棟梁として働いていたので自然にその言葉が出たのだろうと思う。小意気な親父の面目躍如とした様子が思い浮かばれる。
お袋の思い出は取り立てて無いが.昭和十五年苫小牧工業入学の時に一緒に行って貰った事、又、私が苫工二年生の時に軽い肺浸潤で休んだ事があるが、その時、お袋は苫小牧に来られて看病して下さった事が心に残っている。お袋が帰った後、配属将校の中尉から「遠藤のお母さんは奇麗だな」と言われた記憶がある。私が東京で生活する様になって昭和三十二年の暮から、毎年上京し冬は東京で過ごして貰う様になった。
親父は若い頃はがむしゃらに働き、戦後中年になってから組合の運営、会社の経営など凡そ大工の技量とは全く関係の無い経営管理の面で苦労された。
その間、八人の内四人を亡くすという悲運に会いながら逞しく生き抜いた人生は、子供の私から見ても立派だったと思う。
清廉潔白で信仰心厚く、子供の教育には人一倍熱心であった。私が苫小牧工業〜旧制第二高等学校〜早稲田大学と学を修め得た事も親父の慈愛と教育熱心のお陰と深く感謝している。
此の度、親父の小伝を起草するに当たり、在りし日の姿を偲び親愛の情を表わし拙い序文に代えさせて戴きます。

  (註) 平成八年六月「遠藤藤吉小伝」冊子発刊に当たりその序文として掲載されたものです。

遠藤藤吉の年譜
M28・4・17 藤吉、遠藤惣次郎・タニの長男として生まれる。
M29・3・29 ミセ、河田六蔵・サキの六女として生まれる。
M34・5・1 藤吉、上岩井尋常小学校入学する。(三十八年三月二十五日卒業)(藤吉、明治末期から大正初期、大工修業に励む。)
T5・12・20 藤吉・ミセ、結婚縁組する。
T6・11・3 長女トミ生まれる。
T7・3・3 藤吉、渡辺一雄・小林子之八と共に北海道に渡り、空知郡上富良野村に移住する。
T8・3・3 家移りする。(西谷木工場)
T8・12・30 家移りする。(上富良野村東十線北十九号)
T9・2・15 次女ヨシノ生まれる。
T9・12 《上富良野市街に電灯が付く》
T10・11・6 次女ヨシノ死亡する。
T12・12・11 長男憲一生まれる。
T11・3・15 弟惣吉が来道し兄藤吉の許で仕事の手伝いを始める。
T11・5・6 父惣次郎が来道する。(大雄寺建立の助っ人として)
T12・4・22 大雄寺落成する。
T12・7・31 家移りする。(現在地、上富良野村字市街地三五一番地)
T13・1・13 三女美恵子生まれる。
T14・12・6 次男慎治生まれる。
T15・5・24 《十勝岳大爆発する》
T15・12・25 《大正天皇崩御、昭和と改元》
S2・1・27 藤吉、土木建築請負業が認可になる。
S2・12・3 三男博三生まれる。(入籍届は十一月二十八日となっている)
S4・9・21 四女常子生まれる。
S5・9・1 藤吉、太子講の世話をする。(太子講の始まり)
S6・10・7 四男雅男生まれる。
S7・3・18 父惣次郎死亡する。(藤吉、上岩井に赴き葬儀を営む)
S7・3・28 藤吉、家督を相続する。
S7・4・11 赤川太作氏が来道し左官業を始める。
S8・6・4 四女常子死亡する。
S10・12・8 四男雅男死亡する。
S12・7・7 《日中戦争始まる》
S12・12・8 上富良野小学校増築工事落成する。
S13・2・8 藤吉、本州に旅行する。(父惣次郎の七回忌・二月二十六日帰宅)
S14・4・13 藤吉区長となる。
S14・4・16 藤吉、大工業組合を結成し組合長となる。
S15・12・31 遠藤家にラジオ付く。
S16・12・8 《太平洋戦争始まる》
S18・2・2 温床障子作り始める。(昭和三十一年二月まで続く)
S18・5・13 長男憲一死亡する。
S18・9・18 若佐司一(長女トミの夫)に召集令状来る。(十月一日入隊)
S19・1・6 藤吉、本州に旅行する。(父惣次郎十三回忌・二月十六日帰宅)
S19・7・18 若佐司一戦死する。
S19・11・20 藤吉、労報挺身隊の件で警察の取調べを受ける。
S20・1・27 藤吉、東海震災復旧工事挺身隊として出動する(四月十一日帰着)
S20・8・15 《第二次世界大戦おわる》
S22・1・14 藤吉、本州に旅行する。(二十九日帰宅)
S22・3・14 渡道三十周年を祝う。
S22・8・10 三女美恵子、賢二(小市賢二)と結婚する。
S23・5・21 母タニ死亡する。
S24・4・10 上富土建協同株式会社創立。藤吉、常務取締役となる。
S25・7・2 藤吉、上富土建協同株式会社の専務取締役となる。
S26・3 宅地(現在地)を購入取得する。
S26・5・18 上富土建協同株式会社を上富土建株式会社に社名を変更する。
S26・6・8 藤吉、二級建築士の資格を得る。
S26・8・1 《町制施行、上富良野町となる》
S29・2・28 藤吉、上富土建株式会社の代表取締役(社長)となる。賢二、同上の取締役(専務)となる。
S31・5・1 藤吉、富良野執行病院に入院手術を受ける。(入院九日間)
S32・12・末 ミセ、東京へ行く。(次男慎治宅に長期滞在・以降毎年)
S34・1・2 藤吉、東京に旅行する。(一月二十二日帰宅)
S34・2・16 藤吉、上富良野土建協会を発足させ会長となる。
S35・1・2 遠藤家にテレビ付く。
S37・3・22 藤吉、町役場招待の本州旅行する。(四月二日帰宅)
S37・6・29 《十勝岳爆発する》
S39・1・11 藤吉、本州に旅行する。(父惣次郎三十三回忌・母タニ十七回忌)
S39・12・6 藤吉、上富良野土建協会の会長を辞任する。
S39・12・26 藤吉、本州に旅行する。(四十年二月十一日帰宅)
S40・12・末 藤吉、本州に旅行する。
S46・7・28 藤吉死亡する。
S46・8・1 賢二、上富土建株式会社の代表取締役(社長)となる。
S47・8・19 上富土建株式会社を遠藤工務株式会社に社名を変更する。
S57・11 旧家屋を解体し新家屋を新築する。
S64・1・7 《昭和天皇崩御・平成と改元》
H5・4・3 ミセ死亡する。
筆者遠藤博三氏の略歴
昭和二年一一月二八日 遠藤藤吉、ミセの三男として上富良野村市街地で生まれる。
昭和九年四月 上富良野尋常高等小学校尋常科に入学、一七年三月同校高等科卒業。
昭和一七年四月 函館師範学校に入学。翌年師範教育令改正により北海道第二師範学校予科二年に編入される。
昭和二三年三月 同校本科卒業。
昭和二三年四月 上富良野中学校教諭に補せられ教員の道を歩む。
昭和三三年四月 富良野町布部中学校(教諭)
昭和三八年四月 士別市士別小学校(教諭)
昭和四四年四月 南富良野町下金山小学校(教頭)
昭和四六年四月 比布町蘭留小学校(教頭)
昭和四九年四月 旭川市豊里小学校(教頭)
昭和五四年四月 旭川市西神楽小学校(教頭)
昭和五九年四月 当麻町緑郷小学校(校長)
昭和六三年三月 定年退職。旭川市に居住し、上川支庁嘱託として勤務。(管内青少年活動関係推進指導業務)現在、札幌市に居住する。

機関誌 郷土をさぐる(第20号)
2003年3月31日印刷 2003年4月15日発行
編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 菅野 稔